満足度★★★★
東演の舞台をしかと観る。
東演パラータという劇場に昨年、十数年ぶりに訪れ、文化座との合同公演『廃墟』を観た。この公演が「東演」初観劇だったが、他劇団からの客演(及び文化座)俳優の出色に比して、東演俳優が(次男役南保以外)どうにもショボく見えた。コンスタントに公演を打つ東演の、ベリャコーヴィチ演出舞台の評判等も耳にしながら見逃してきた感あり、今回改めて「東演」舞台を観劇した。
初演はアトリエだが、今回はあうるすぽっと。石井強司美術は躍動感があり、広くて高い舞台を存分に使い、中国のとある時代のとある家族のお話が繰り広げられていた。開演45分程度で15分の休憩、ところが終わってみれば2時間40分、この後半の長さに気づかなかった自分に驚いた。
それぞれが連れ子を持つ同士の再婚で出会った「兄弟」が、絆を確かめ合い、成長し、早くに親二人を亡くした後も二人三脚、「似てない」からこその紐帯を育みながら大人になって行く。親を亡くす悲運は文革によってもたらされ、その後市場経済導入による矛盾をも超えて、弱肉強食のルール(無ルール)が到来した社会が、兄弟を悲劇的顛末へ誘う。
これらが、南保演じるリーガンのキャラとも相まって、テンポ良い「経過を端折る」脚本と演出のなかでコミカルに展開する。
全体に分かりやすい舞台処理と、はっきりした口跡と演技で、ほぼ人の一生を語る「大きな物語」が壮大に、可愛らしく語られており、大きな舞台を得意とする、基本的にはうまい役者の集団に思えた。
物語としては、最後まで人を愛し続け、しかし死んで行った芝居の中心人物の「愛を伝えながら自分は死ぬ」という矛盾は、その事実に直面して懊悩する受け手が存在しなければ、ただただ惨めな敗北者としてある矛盾で、そうならない事で救われた物語、ハッピーエンドだと言える。脚本上の配慮だが、実際にはむき出しの「資本主義」(と社会主義という建前との間での)の犠牲者が、この物語の背後に(現実に)数多あるのだろうと想像させるものがある。
一方、日本はどうか・・それはまた別の話、と1クッション置いて観れてしまう芝居でもあって、「私たちの現場」に直結しない「浮いた」感じがなくもないが、中国現代史を物語で味わう面白さは、芝居の背後にずっと流れている。
語り部二人を置いて物語を「解説」するだけでなく観察者(観客)としての感想を代弁して、観客の視線を誘導し、また緩衝材の働きもして、それによって舞台全体は雄弁になった。