満足度★★★★
俳優=人物の実在感。「被災」に踏み込んだドラマ。
Genpatsujiiko-Banashi。舞台は伊勢。神宮のお膝元、うん年に一度の大掛かりな何やらを翌年(2013年?)に控えて、群舞的な何やらを披露(奉納?)するための地元民による練習も始まっている、そんな田舎町のとある喫茶店にある家族がやってくる。
劇は喫茶店のみで通す(照明を駆使して別の時空を挿入する等は無かった)。 一場のみ、時系列に沿って進行するリアル系のストレートプレイである所に、「被災」を扱う芝居に取り組んだ作り手の誠実さが感じられた(たまたまかも知れないが)。
原発事故の被災者を取り巻く事情として、忘れてならないのは「放射能汚染」をあげつらう話が地元福島では出来ないこと、除染して環境整備したら地域は元に戻る(住民は帰還する)、というシナリオ以外の可能性は語れないこと、避難した者は裏切り者とされること、間もなく県外避難者への援助が打ち切られること。。。
この芝居では、(放射能からの)避難を助言したジャーナリストが当事者から「無責任」と非難される場面がある。この背景には、「避難」を妥当な選択とは認められず、公の支えを得られないという理不尽な状況がある。放射能被ばくが認定されない限り、避難を促した者は嘘つきであり、混乱を煽った迷惑な人間だという事になる。 殊勝な記者はその声を黙って受け止めるが、実際のところ避難民を苦境に陥れている張本人は無論彼ではなく放射能被害を認定しない政策担当者(政治家・官僚)だという平易な事実は、霞ヶ関の建物の奥の奥、地下の倉庫にでもしまわれて表に出てこないかのようだ。
この構図を仄めかし俎上に乗せたことにより、この芝居の価値は相対的に高まっている。非情な社会の現実がある事の裏返しだろう。