ミュージカル「YOSHIKO」
ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ
紀伊國屋ホール(東京都)
2019/01/10 (木) ~ 2019/01/16 (水)公演終了
満足度★★★★
風変わりな舞台を観た。イッツフォーリーズ初観劇。小型ミュージカル(という言い方があるのか知らないが)をやってる集団の中では割とメジャー、という勝手な印象があるが(同カテゴリーにミュージカル座とか、、これも勝手な想像)、舞台はその定型と見る事もできるのに違いない。定型であるとすれば私にはマイナス要素が気になるのだが、それも引っ包めて興味深い舞台だった。
いずみたく作曲、という事は初演は随分古いだろう(・・・と最初書いたが、実は新作公演との事である。イッツフォーリーズを作った本人がいずみたくで、吉田さとるという同劇団所属作曲家が先達の曲を活用して新作脚本の楽曲を仕上げたらしい。)
演奏はナマ。紀伊國屋ホールの幅狭のステージに立てられたレビューショー用のプロセミアムの裏が演奏ブースで全貌は見えないがベース、ドラム、キーボード。ストリングスは録音ぽいがうまく合わせてナマっている。楽曲に新しさは感じないが古くはなく、骨格はしっかりしていて遊び心もある。
観劇のポイントは文化座の若手藤原章寛が「実家」を離れて客演。鵜山演出が数年前東園パラータでの「廃墟」公演で見出したのだろうこの俳優は、繊細で良心を疼かせる好青年のイメージにピタリで、今回も成程そういう役回りだがさらに大きな人物造形を求められ、応えていた。
鵜山氏もそうである所の新劇系のリアルにとって、ミュージカルという形式は表現上の乖離があるが、良い影響をもたらしたのではないか。
マイナス要素というのは、うまい歌い手は声もよく、従って台詞も明朗で感情が分かりやすいのだが、一般的表現になりやすい。要は声が大きく、はきはき言えばいいってもんじゃないだろう、と突っ込みたくなるタイプ。かみ砕いた親切な表現は観客をなめてるようだが実際のところ、痒い所に手が届く「商品」をいつしか欲する存在が消費者というやつで、そういう人達は「完成された芸」を見に行く。
歌のうまさはミュージカルの条件なのだろうが、先日観たオペラ「ロはロボットのロ」が音楽に軸足があったのに対し、こちらはやはり芝居が軸だと思える。だから、声が多少震えても、否そのほうが、ハンディを超えようする作用によって役の心の純化された部分が表出して胸を打つ(技術的にはそう単純ではないだろうが)。昨年の「マンザナ、わが町」の歌い手役が、うまく歌う技術(高速ビブラート)を持ちこむのが気になったのと同じ理由で、歌うまは、同じ調子が続くとよけい芝居に嘘臭さを漂わせる感じがする。難しい様式ではあるのだろう。
むろん芸術はより高みを目指した作為の産物で、歌手が楽曲の「魂」を表現しようとしてそうなるのだとすれば、これは楽曲の問題だろうか?
・・・そんな事を思いつつも芝居を大変興味深くみた。
岡田嘉子という、どこかで聞いたような歴史上の人物は、ソ連に渡った女優だ。舞台にも「ソヴィエト、この不思議な響き」といった歌詞の唄があり、(旧作なれば左翼臭と書いたが)大国が角突き合わす帝国主義時代に共産主義革命を遂げた国への、当時の人々の憧憬が書き込まれているが、冷戦以前にあった和製左翼文化も遠くなりにけり、今は素朴に歴史的関心の対象として浮かび上るものがある。
主人公の恋人となる元左翼演劇の演出家(藤原)が投獄されるような時代、「日本もいつかそうなるさ」と夢を語る台詞はあながち若者の浮かれ心が言わせた文句と退けきれない。できればもう一つ「現代」との接点を持ちたく思ったが、だとすればそれは何だったろう。。
トロンプ・ルイユ
パラドックス定数
シアター風姿花伝(東京都)
2019/01/09 (水) ~ 2019/01/14 (月)公演終了
満足度★★★★
2015年末pit北/区域の閉館公演「東京裁判」が初・パラドックス定数。この劇団と劇作について3年近くブー垂れてきた訳だ(まだ3年のような、もう3年のような)。
政治色の薄い題材では、罪がなくキメ台詞のうまい書き手である。本作は地方競馬が題材だが、競馬界にリアルに食い込もうとしたドラマというより、競馬界に舞台を借りたヒューマンドラマで、一般的なだけ観客の想像に委ねる部分が広い。
男優6名ともが人間と馬の両方を受け持ち、双方同じ比重でキャラも重ねているのが面白いが、暗転は少なく明るい中での照明変化のみで「馬場面」と「人場面」の移行を表し、関係性がほぼ把握できた後半では合図もなく人から馬、その逆と居ながらにして変化する様も滑らかだ。しかもストーリーは進展しており、役者それぞれ決まった人物と馬名を受け持つので、物語説明の順序も考えなくてはならない。さぞかし、、戯曲の神様は我に味方したと思い為したろうなどと作者の心を想像したほど「待たせ」の全くない進行だった。役者力も重要だが(特に馬の風情がよい)緻密な演出を印象づけた。
現代の精神風景を想起させるような台詞(差し馬のウィンザーレディの「人は俺みたいな馬に自分を重ねてんだ」といった台詞)も一瞬光るが、現実世界に着床させようとの意図までは恐らくなく(格差を容認する新自由主義的状況が抉られる事はなく)、むしろ中央競馬と地方競馬の「格差」や悪条件の中でも果敢に挑戦する勇姿にスポットを当て、精神的な成長と連帯(友情)といったハードボイルド路線の爽かなハッピーエンドに着地する。
自分は競馬の知識はあまりないが(付き合い程度に競馬新聞を覗くくらい)、舞台とされる「丸亀競馬場」や遠征先の尾道、横浜根岸での地方競馬開催は現在なく、これはフィクションと割り切る事ができた(瀬戸大橋が出たりするので遠い過去でもなく、また人物の言動からも競馬のバックヤードを厳密に描き出す意図はないとみえた)。
ただ、事実と架空の領域の塩梅は戯曲の「質」を左右する。実在の地名を使うのも良いが、中途半端だと同作者の歴史事件を扱った劇同様、「事実性が持つ箔」を、都合よく利用したと見られかねないだけ損である。
まあドラマの方も、馬の擬人化など私は許せるが(というよりそこがこの戯曲の魅力)、「馬は何も考えてない」と言い切る牧場主や、レース中に転倒した馬が再び巻き返すというアニメ的展開など諸々あるにはある。
が、私の中では、人と馬との精神的交流が「ある」との想定で書かれたこのドラマの終局に、「人間目線」の場面描写の中で人(調教師)が馬に語り掛ける場面、出来過ぎではあるがここに込められた包摂の心とでも言うべきものを私は受け止めた。レース馬は治らない負傷を被れば殺処分されるという、そのシーンもうまく組み込み、思えば人間同士の殺伐とした世界に動物同士の世界というもう一つの(オルナタティブ)視点が入る事により酷薄な世界が違う陰影をみせる。これが豊かさでありファンタジーの効用である、といったような事を言ったエンデの事を今思い出した。
秘境温泉名優ストリップ
猫のホテル
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/04/03 (火) ~ 2018/04/11 (水)公演終了
満足度★★★★
こういうのもあったなぁ・・思い出せるかな。
思い出せないが朧ろに断片が浮かび、あれかな、と思う。笑わせどころをクライマックスに設定した感じはなるほど落語家に提供したネタらしく、また喬太郎ネタらしくもあったな、と今思ったりするが、そのラストに持って行くなら不要な伏線が多いな、などと思った感じはぼんやり思い出した。
猫のホテルは3男優揃い踏み出演のためには(他にも居られるけれど)お祭り的・記念的公演にしなくちゃ集まれない、そんな時期?・・と想像。否、中村氏や市川氏が立つからお祭りになっちゃうのか。
Farewell(フェアウェル)
松本紀保プロデュース
サンモールスタジオ(東京都)
2018/04/06 (金) ~ 2018/04/15 (日)公演終了
満足度★★★★
おっとこちらも・・思い出し投稿でござい。
山田百次の狂気走った役が、理の通った人物か一本外れた怖い人物像かのいずれかに定まり切れない所がもどかしかった・・という記憶。秀逸な本だったが主人公となる松本演じる役の「叫び」がもう一つ届かずもどかしかった・・というのも。
大変だったろうな、と想像され、松本プロデュースの「次」は難しそう・・という予感が裏切られる事を願いつつ。
Ten Commandments
ミナモザ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了
満足度★★★★
これもコメント忘れ・・思い出し投稿。
久々にミナモザ名義での瀬戸山美咲作品を鑑賞。米国で原子力開発に関わる事になった科学者の一人が残したTEN COMMANDMENTS(十戒)の文言を紹介するだけでも十分、含蓄がある内容。十戒の文は上方に映写され、舞台の方は台詞が少なく思わせぶり。
話は変わるがサブテレニアンの「ホット・パーティクル」を今年観られず惜しかった。
また話が飛ぶが先日のserial number「アトム・・」は、この科学者像を重ねられる人物がもし参入すれば全く成り立たなくなる戯曲であった。
衣衣 KINUGINU
metro
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2018/02/09 (金) ~ 2018/02/18 (日)公演終了
満足度★★★★
「二輪草」に続いてmetroの隠微な世界を味わった。ゴールデン劇場という狭いステージに小宇宙を作り込む「気概」をひしと感じたが、ストーリーを掴み損ねた(ように記憶する)。
続・時をかける少女
2018「続・時をかける少女」製作委員会
東京グローブ座(東京都)
2018/02/07 (水) ~ 2018/02/14 (水)公演終了
満足度★★★★
そう言えば・・と思い出し投稿。実質ヨーロッパ企画、初観劇の心構え。初めてのグローブ座でもあって、物珍しげに、異空間を愉しむ。タイムトラベル物はかくあるべし、まずは笑い飛ばすべし、の心を貫き、劇場では滅多にみないタレント系?俳優も巧さで引っ張っている。して評価は。脚本上田氏の小気味よい頭脳派な突っ込み方を楽しんだ。圧倒された感はなかった、という感想は事前の期待の高さからか。
プライベート
キュイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了
満足度★★★★
「これは演劇ではない」は、彼らがつくる演劇<らしきもの>への思い切った命名である以上に、作り手を挑発するタイトルでもあるらしい。
「演劇ではない」に相応しく、ドラマの足場を外した奇妙な出し物だった。が、不思議に確かなものが流れていた。
「プライベート」とは(演出・橋本清氏の拘る所らしい)ドキュメントの手法と相性がよさそうである。ドキュメントは暴露の方法であり、プライベートは暴かれる対象。プライベートに関する個々人の考察が終演近くに語られ、明確な答えを導き出す事はないものの、縷々再現された場面が迫ろうとしていた次元と、プライベートの概念がシンクロしていた。
この舞台のコンテンツはまず架空のアフタートーク、そして稽古日程がホワイトボードに書かれその内の幾つかの稽古日の事、顔合わせ日の事、音楽担当の滝沢さんのライブの日の事、等等が暗転に挟まれて再現される。
俳優は男女四人ずつ八名。初日、作・綾門優季氏がいつになくこれからやろうとする創作について1時間喋り通していた事など、各人がそんな雰囲気だったろう普段顔で会話したり客席に向かって話す。稽古場の鍵を開ける人が誰それしか居なくて云々といった雑多なエピソードから場面作りやコンセプトに関わる話題が渾然一体と、「製作」日誌として綴られる。
・・ハタと気づくと、彼らは何の為の稽古をしているのか、稽古の過程を紹介する舞台、の為の稽古、とは一体何なのだ、という事がもちろん思考に上って来るのだが、そこは先述した綾門氏による舞台のコンセプトを喋り倒したエピソードが効いて、何かが目指され稽古が進められたのだろう事が、エピソードの具体性や普段着な俳優らの様子からも疑いえないと感じる(錯覚する?)のだ。
その綾門氏の話のキーワードは、「虚実」だったな、と誰かが話す。虚実の虚とは「あたかも実際にあったかのようで実は作者による創作」の意ではなく、「そのために皆が稽古に励んでいるはずの目標」じたいが虚、の意に違いない、と私はいつしか思って見ている。
ドキュメントな場面の形態の一形態として俳優がそこに居り、語られる事の事実性のリアルの力強さが、舞台を終始支配し、観る者は俳優個々のリアルな残像と共に、「流れた時間の確かさ」を持ち帰る。
綾門氏は「戯曲単体では成り立たない、上演してこそナンボの舞台」を何としても仕上げたいとの気負いで臨んだとパンフに記していたが、橋本氏の演出と相俟って、それは遂げられていた。
遺影
新聞家
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了
満足度★★★★
予想した通り、肩透かしなステージ。以前STスポットでのダンサーとの共作で感じた印象は変わらず。(自分が観た回は)満席と相変わらず注目度を窺わせたが、うまく関心を引き付けている手練のほうが気になる。・・正直、こんな代物で人を釣るのだから、何かある。
本編が30分程度、残りは質疑応答。質疑では自ら語り始める事なく、まず質問を受けてやり取りを始める。これも手法だろう。
さり気なく謎を残し、次の機会に持ち越すこと・・志の輔が落語のマクラで伝授していた「人の関心を自分に繋ぎとめる方法」である(CD化したものだが演目を忘れた)。
このユニットというか作演出者の「売り」は文章である、という事が今回見えた。日本語の文法構造をうまく利用し、発し始めた言葉では何を言い始めたのかが判らず、「次」の言葉で文章の形が見える、というセンテンスの構成にしてある。気の利いた比喩が頭に付いていたりすると、頭は真っ白になるが、後続の単語により意味が現われた時、かかっていたストレスが弛緩する。
もっとも耳を凝らして聴いても声量が小さかったり、同音異義語を確定できず文意を掴めずに次に進むしかない所などは、「計算できてない」(あるいはごまかし)、と見えるが、それでも、ゆっくり感情を込めずに喋る事で、単発で発される言葉が如何に意味をなさず、組み合わさる事で意味を形作るかが分かる。戯曲というものも謎掛けと謎解きの織り物であって、最後に謎が解かれる快感が観劇の醍醐味だ、というタイプの人も多いはずだ。
ダイアローグではなく「書かれた文章を読む」という形式で「謎掛けの謎解き」を味わうのが新聞家、これが今のところの私の理解だ。
いずれにせよ、文章への自負が、それを「読む」行為のあり方を実験的に探究する、というあり方を可能にしているのだろうと推察した。身も蓋も無い事を言ってしまえば、パフォーマンスのあり方探求とはポーズであって作者自身はそのネタとなっている文章そのものが、「表現されたもの」であるので、形式云々の「周辺のこと」を幾ら突かれようと痛くも痒くもない、のではないだろうか。「書かれたこと」が核心なのだが、それは「探求」の側面によって触れられない領域となっている。二重生活ではないがそうやって行く内に何か「実的なるもの」との接続が為されるのかどうか・・その時の到来に賭けておられる。その試行錯誤に私はつき合う気は全くないが、「実的なるもの」を掴まえた暁には、注目してみよう。(恐らくそれは演劇という分野では無い気がする・・)
アトムが来た日
serial number(風琴工房改め)
ザ・スズナリ(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/29 (土)公演終了
満足度★★★★
年末の風琴工房には(私の風琴最高傑作が2016年末の「4センチメートル」)そもそも期待度が倍増し。とは言え今回はserial numberの第一弾、役者陣の変らなさに逆に本質的な転換の緩和ではないかとの想定もしつつ、評判の良い今作を観劇。
原発というテーマを扱う。集客は良いのだろうと思うが、口コミでどの程度増えただろうか。私の目には、原発再稼働に手をこまねいて何もできない後ろめたさを、現状容認説によって荷を軽くし、口が滑らかになったとて、せいぜい現状容認しつつ未来を語ろう・・程度の論しか出てこなかろう。なぜなら、再稼働路線を進む日本の現状と、乖離の小さい論を持つ事で現状容認して「しまっていた」自分を慰撫するだけに終わるから、である。それがこの劇の「効果」である・・と言えば極論に過ぎるだろうか。
議論を喚起するため・・大変よろしい。口が滑らかになる方向性が既に決まっている。現状と「あるべきあり方」との差の中で葛藤し、葛藤を乗り越える事でしか現状は変えられず、そのための議論を手助けする演劇が求められている・・・その意味では、今回の芝居のネタとなっている二つの物語は、己の「良心」に付着した反原発論を揺さぶり、それを捨てる事で個人の心の荷が軽くなる手助けはするが、「現状を変える」ための厳密な知識は残念ながら見いだせない・・というのが残念ながら私の結論だった。並行して叙述され、交互に描かれる二つの物語は、(1)1950年代の日本の原子力産業の誕生に貢献した男達の物語(「プロジェクトX ~不可能とされた原発誘致を成し遂げた男達~」とでも名づけられよう)、(2)2040年の日本・地下700メートルの核廃棄物貯蔵施設、兼日本唯一の原子力研究所。スズナリのステージに作られた杉山至の美術はその内壁で、未来っぽい間接照明で映える。この時代は、南海トラフ地震による浜岡原発のチェルノブイリ級事故(炉心溶融+核爆発)をきっかけに世界規模で原発廃止の動きがあった、その十数年後、原発再開への研究を打診しにやってきた政府役人と繰り広げられる議論劇。
プロジェクトXでは細かでマニアックな事実が殆ど上演時間稼ぎのためかと思ったほどに詰め込まれ、はっきり言って「原発事故」を引き起こした大元の基礎作りに貢献した人々を顕彰する内容が、戯画的でもなく批判的でもなく哀切にでもなく「ヒャッホー!」「やったぜ」のノリで描かれても、コメントのしようがない。「事故」の評価はその被害によるしかないが、この芝居では何と、放射能被害についての知見が、全く語られない。。それによって議論は分かれるし、そもそも未来の「浜岡事故」が福島を超える未曾有の事故であったのに、議論の中にその被害の現状が全く入って来ないのは、脚本上の限界というよりは、出発が間違っていたのではないか・・と思わざるを得ない。
もちろん詩森氏は単純な戯曲を書かない。近未来では一人のやや年輩の男が3・11の頃の自分の事を語る。原発に対する思いを語った言葉は、現在の私たちも記憶に残り、共感できる内容であり、唯一2018年現在の我々の代弁者と言える。そしてラストは「原発と付き合っていくしかない。その怖さを直視しながら・・・」という言葉とともに劇は閉じられる。この「怖さ」という言葉の中には諸々が含まれようが、しかし被害の具体的イメージを助ける情報がほぼ無く、一方原発容認への舵切りを促す言辞が殆どである事のアンバランスは最後だけでは覆いようがない、と見えた。
SF場面での議論が恣意的に選択された事実と推論=世界的規模の人口増加が見込まれる事、エネルギー枯渇問題、必要エネルギー量の試算(2058年には賄えなくなる)、等により、もはや原発再開を選ぶしかない・・と、こうなるのだが、現在世界の富の偏在と飢餓の常態化があり、既に人口増加は既成事実であり、エネルギーは平等に配分されていない現状はそこに重ねる事がなく、一方チャイナが(世界中が原発をやめたのに)一国だけ原発開発をし続けている、といった現在の国家エゴのイメージは重ねるというご都合主義で「論」は構築されていく。またインドネシアが石油を売らなくなる、という予測もまことしやかに語るが、この危機感の煽り方は戦前から変らぬ一国主義のそれであるし、そもそも石油依存問題はインドネシア国が何を選択するかの問題を超えている。日本がエネルギー源を持たないという意味でのリスクは、ウランも同様であるし、それを解決するための高速増殖炉がナトリウムという扱い難い物質を必要とするため、だけではないがとても実現しそうにない代物で(プルトニウム生成のメカニズムがなければ電力会社の核廃棄物が資産として計上されないため稼働を前提として存在させ続けた事は周知)、しかし芝居ではこの存在をまともに取り上げ、ナトリウムの問題を克服すれば道が開ける、としているだけでなく、この「もんじゅ」の成功如何にエネルギー自給率は掛かっている事になる訳なのだ。国際的な不和を想定したエネルギー自給率確保の問題設定は資源のない日本には無理筋であって、他国との安全保障の関係構築が(現在もだが米国一辺倒がリスクを高めていると指摘されている)必須なのだが、その視点は「インドネシアがどうの」という如何にも偏狭外交のネタで曇り、科学者たる者が政治家の口車にまんまと乗せられて行く。
・・・何度も反芻したが、この「反語的」内容のドラマは、「こうなってはいけない」例として鑑賞するものだと、そう処理するのが正しい着地点だが、どうもそうではないようなのである。
観客の知的度数を甘くみた、「どういうドラマかは判るようになってございます」という約束に違わぬ内容だ。
ネバーマインド
ヌトミック
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了
満足度★★★★
ヌトミック、ちゃんと観た初めての機会であった。正月お楽しみ公演の趣、あるいはこれがスタンダードか。三部構成、第二部にゲスト参加あり。独特だが、肉体駆使、世の非対称な力関係という毒をまぶし、「パフォーマンスの為の」との要素で舞台芸術をいじる側面も。
「これは演劇ではない」と題された企画に選ばれた栄誉?に十分応えつつも、面白がるが勝ちとばかりやりたい事やってるのが良く、音楽要素が濃いのも好みである。
この日は爆弾持ちのゲストがまんまと爆弾を落としたが、ハプニングさえ計算に入れたよう、コーナーを仕切った俳優2名に功労賞。エンタメ部門から観劇開始した本企画、この後も楽しみ。
4.48 PSYCHOSIS 2018-2020
川口智子
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2018/12/25 (火) ~ 2018/12/27 (木)公演終了
満足度★★★★
昨年始めのW.S.&公演プログラムで上演された「サイコシス」の再演。同じく若葉町wharfにて。上演後トークは長島確氏と演出川口智子氏、進行にもう1名。
今回座った場所は初演とだいぶ違った角度になったが、印象はあまり変らず、ただ二箇所で流された映像が初演時にあったか否か定かでなし。
会場は壁一枚を隔てた道路に沿って辺が長い長方形で、内壁は白く、天井が高いぶん見た目より容積があるせいか心地よい残響がする。角の小さな入口は透明ガラスで、開演後カーテン1枚を引いて外界と遮断する。
通りから遠い側に横長の雛壇型座席(1列約10名として3段で30名余、この日は満席)に座ると、窓枠のはまった広い壁と対峙し、その見えない向こう側からのノイズや他者の関心という干渉を懸念させながら、人が不在のステージが観客の注意を静かに引き出している。横長のステージには直方体を横に並べた白い台の上に椅子、上手上方に上から吊られた赤い窓枠。飄然と滝本直子が登場し、腰掛けると暫しの間、台本に目を落としたり、遅れてきた客に視線をやったり。最後の客が座席に収まった後、入口扉にカーテンが引かれ、さらに待つ。客席背後の2階部分から恐らく照明担当だろう、きっかけを見ようとしたか、下に居る音響担当がなかなかきっかけを出さないのを怪訝に思ったか、顔を出す。と、おもむろに録音された女性の声が流れ、素早く照明が変わった(という確か流れだったと思う)。
このリーディング公演はいずれ本格的な舞台へ発展するとの事だが、ワークインプログレスとしての一定の方向性の明示と作品としての完結が見いだせたか、というあたりである。
作品としての完結が目指されたのは(有料公演なら当然と言えるか)確かだが、「本作品が採るべき相応しい形はオペラ」、との川口氏の言には(オペラの定義にまで話は及ばなかったが)かなりの距離を覚えるのは正直な所。その道程を訊ねたい衝動に駆られたが、むしろ長い製作プロジェクトの途上で時折我々を楽しませてくれると有難い、位に構えて気長に待とう。
グッド・バイ
地点
吉祥寺シアター(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了
満足度★★★★
地点の年末公演は初めてか・・年の瀬の忙しない時季、その陰で無様に死地へ赴いた男を思い出し、あっけらかんと追悼してみるという試みが身体に殆ど抵抗なく入って来た。「あれ?」と違和感が走る事が無い、という事くらいしか、その完成度?を挙証する術が見つからない地点の毎回のパフォーマンスだが、アイデアの使い回しが無い(私が知らないだけかもだが)というのも、期待値を高めている一つだ。
音楽は使いようで、下手をすれば演劇の方が食われてしまうが、空間現代との今回の仕事では拮抗していた。
グッ・・ド・・バイ、グッド・バイ。7人が「グッ」「ド」「バイ」の三つを7名の俳優3組で恒常的に受け持ち、ギターのカッティングに乗せて威勢良く発する。出だしではこの繰り返しが長く、上演時間の短さを思い「時間調整か」と意地悪い考えがつい過ぎったが、程なく、巻き込まれた。太宰の言葉が新たに加わり、レイヤーが一枚、二枚と重ねられる。音楽の景色の変化も幾箇所かある。時間を厳密に刻む音楽の上に、歌唱と同じように台詞を発するのが、耳に快感である。
さて、既成戯曲(古典)や松原俊太郎の新作戯曲をこれまでやってきたのを、今回は非戯曲の舞台化に挑戦した。太宰の言葉のコラージュとすれば、出典はあり、大きな違いは無いかも知れないが、何を芝居の結語とするかは三浦基氏の専権事項である。最後のあたりでその意図らしきものがふと見えた気がしたのだが、よく覚えていない。太宰という「歴史」の一コマを消し去る事はできない、我々はこれを超えて行くしかない・・的なものだったか、一人の男ありき、大いなる事業を成せり・・的まとめだったか。結びはやや陳腐に思えたような記憶があるが、それよりこの舞台、あまりに知られた作家の仕事と、他に例がないほどよく知られたプライベートをあげつらい、笑う事の許される太宰治という存在を、今までに無い形で語り、茶化し、その事で愛着を伝えた出し物だったと言える。終演したばかりの役者が達成感のような表情を浮かべていたのは、楽日のためか。難易度も高かったろう。
常に中心的役者である安部聡子の不思議な存在感は、「拮抗する発語」の勘所を押え、はっきり言ってライブを見に行った客が良い演奏に「いえーい!」と叫んでるに等しい声のノリなのだが、「落ちない」声・言葉を出すための「心」が見える。このあり方が、舞台上のドラマ性を高めるのをどう理解すれば良いのか。やる側でない私には深い謎の一つだ。
財産没収
サファリ・P
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/23 (日)公演終了
満足度★★★★
何か書くには情報が少なく、演出意図を取り違えそうだが、、以前観た同演目の上演(それも独特な演出だったが)では確か男女の二人芝居で、死んだ姉の事をやたら語る妹の中に姉への偏愛や憧憬や憎悪やらが不分明に渦巻いて殆ど姉と同じ道を辿りそうな危うさを感じさせ、実はこの妹が語る姉というのは自分の事ではないかと思えて来たり・・その「他者」の言葉を聞く青年(少年?)の身体に観客として同化して行くような、そんな芝居だったのを思い出しつつ、かなり大胆な演出的切り込みをしているらしいP・サファリの三人舞台が意味深でスタイリッシュで猥雑な残影を落として行くのを眺めていた。
高さの違う電灯が天井から三つ吊され(人の腰あたりのもある)、他にコードが下まで届いて床に照明が置かれたのもあり、その縦のコードに真っ赤な帯が結わえ付けられ斜めの線が2本出来る。その四角のエリアには、女性用の帽子を被り黒レースを羽織ったトルソー(胴体の人形)があり、これが擬人化されるので、最大4名の人物が舞台上に居る勘定となる。
始め男性二人が上手奥袖から時間差で登場し、ジャレたがる片方が他方を追うものの、相手は別の事(歩きながら読んでいる本=「財産没収」のテキストか)に気を取られ、つれなくしているという図がリズミカルに表現される。暫くあってつれない方が声を発すると女演技で、女性役を代行しているようにも、あるいはゲイカップルの女役とも見える。紅一点がやがて登場。容姿・動きともに妖艶を絵に描いた艶姿で、(下品を承知で言えば)鼻血もの。女役を兼任する男と、既にゲイにしか見えない締まった筋肉の男性役との三者が、位置とモードの入れ替えしながら良いバランスで変転する軌跡が何とも「美的」なのであるが、象徴されているものを読み切れない。
以前同じアゴラで観た「悪童日記」(今度また再演するらしい)もそうだったが、身体を駆使したパフォーマンスが特徴で、スピーディで形が良く、緩急によって情感が表現できる。今回は利賀演出家コンクールにも出品した演目だからその再演と思われるが、利賀だけに暗示部分(表面に見せない部分)が広がっている演出の方が評価が高そうだ。従って難解なのもむべなるかな、だが、「悪童日記」という小説の舞台化の方が難しい作業だったのでは・・とは素人の感想。
「ユニット」にしては完成度の高さに圧倒される。新たな仕事でまた驚かせて欲しい。
ロはロボットのロ
劇団おとみっく
角筈区民ホール(東京都)
2018/12/27 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了
満足度★★★★★
初演の頃地元の鑑賞会だかにたまたまやってきたのがこのレパートリーでこんにゃく座を知った始め。新宿梁山泊くらいしか劇団というものを知らない私が脚本・鄭義信の名に気付かなければ、出会いは10年遅れたろう。宝石のようなこの作品は音楽萩京子の曲・うたと鄭義信の本との稀有な出会いの賜物とも言え、特にテーマソングにも当たるあの曲(題名を知らない)は、明るく笑い合いながら涙する鄭作品情緒の真骨頂がこよなく反映された楽曲で、日常を取り戻した大団円で歌われる。
2001年の初演からブランクの後、ここ何年にまた一般公演からレパに上がり、池袋、そして一般人可能な鑑賞会に埼玉くんだりまで足を運んで十分に楽しんだのだが、最初のインパクトには届かなかった。埼玉公演では心無しか隙間風が吹くのを否めず、それもそのはず自分の鑑賞眼が肥えてしまったのだ、と思っていた。
が、今回の(演技面では)ほぼアマチュアに等しいキャストに拠る「ロはロボットのロ」に、初演時の感動を呼び起こされたのだった。
歌は大変良いが演技は拙い。演出はこんにゃく座の大石氏でこれが健闘だったが公共ホール(2~300席の中規模)の限界は否めない。こんにゃく座の役者だったらこの台詞ではああやるな、など勿体無い取り零しに一々引っ掛かりながら観ていたのだが、後半は演技の方もキャストの「地」の力がプラスに転がる(だけの物語説明がしっかり為されていたのだろう)方向に転じ、区民ホールという場で、架空の町ウエストランドの物語が濃密に、そして蜃気楼のように、浮かんで見えたのである。
おとみっくの出自は音楽畑、正しくオペラという事になるが、この感動の要因はいずれまた。
tatsuya ー 最愛なる者の側へ
桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>
桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)
2018/12/16 (日) ~ 2018/12/23 (日)公演終了
1987年が鐘下辰男のTHE・ガジラの立ち上げ、「tatsuya」は91年初演で文化庁の芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞・・・とは後で調べて知った事で、私と言えばこれは鐘下氏の新作だろうと。筆力の衰えの兆しかと。そう思った自分であるから大きな賞をとったとは意外だったが、自分の評価を修正はすまい(芸術選奨の過去の選出をみると、当年度の作品に与える体裁で、たまに妥当なのもあるが周回遅れでの授賞と見えるものが多い)。
新作かそうでないかは大きい。こと過去作品(「tatsuya」は20数年前)を上演する場合、「なぜ今これか」のexcuseに余念がないくらいが普通だ。言うまでもなく演劇は現在性が命であるから。受賞作か否かはどうでもよろしいが、過去作品であるか否かを察せられなかったのは観劇としてはボタンの掛け違いだった。結果的に舞台単体で私をねじ伏せはしなかった、で十分なのだし、鐘下辰男という人自体が一々弁明をしないタイプに思われる。が、観客としてはある程度、舞台を味わう補助線を持ちたかった、というだけの事。時間は戻らず、混乱しつつ観た事実は残り、今となっては修正が難しい。
なぜこれを新作を思ったか・・・チラシその他にヒントが無かったのもさりながら、観劇し始めて「永山則夫」のモチーフが見えてきたにも関わらず、(私の不勉強もあるが)役の名前と描かれた人物イメージが違う、周囲の人間との関係も違う(この人物を題材にした演劇作品には二つ程出会っているが)、という事は少なくとも永山則夫にまつわる「史実」を追っていない。大胆な翻案の線ではなく、フィクションか、もっと現在に近い事件を題材にした戯曲か・・という類推が生じた。
口角泡を飛ばし合う役者らの身体は現代のそれである。モチーフは「貧困」に括る事のできる犯人の境遇と事件との強い因果関係にあり、テーマとしては古い。物質的欠乏だけでない貧困という面では現在にも重なるが、その事を巡る人の振る舞いが(書かれた台詞による)一時代前のそれに見え、演じる感性じたいは時代が下ってより現代的に見える(ここは俳優の演技の問題であるかも知れぬ)という、このちぐはぐさには混乱した。
過去作品をどう現代化するか、その橋を十分に渡し切れていなかった、というのが私なりのまとめである。
もっともこれしきではマイ鐘下ブームは終りそうもなく、「筆衰え」説は差し当り保留できて安堵である。
女中たち
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2018/12/09 (日) ~ 2018/12/26 (水)公演終了
満足度★★★★
風姿花伝プロデュース第5弾。第1弾「パサデナ..」に心酔、前回を惜しくも見逃したので今回は早めに予約。演目はそれまでの比較的シリアスなストレートとは少し傾向を異にしていそう(「女中たち」は恐らく観ていないが何処と無く)。鵜山仁演出、さてどうだろう・・楽しみに出掛けた。例によって体調(↓)を懸念したが舞台との距離近し。豪奢に飾られた邸の一室は目を引くが、写実一色でなく象徴的な形も含み、役者が入ってみないと見えない余地がある。
さて開幕。演出がこの戯曲についてパンフに書いた中にあった「虚実」定まらない難物、という(意味の)言葉通りで、難敵を相手に四苦八苦した跡が見えたのだが。「女中たち」をこれは読まずばならぬな、と強く思い劇場を後にした。
(余談だが劇場入口に洒落たカフェ(窓口で出す)が作られていてチケットで一杯。終演後飲んだがこれは美味い。次来た時もあるといいな。)
精神病院つばき荘
つばき荘上演委員会
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2018/12/13 (木) ~ 2018/12/16 (日)公演終了
満足度★★★★
冒頭から耳に覚えのある台詞と展開・・。別役戯曲をパロったオープニング?いやいや長い。どこかで読んだか観ている。一体何処で?、、気になりながら前半を観劇し、後半で漸く思い出した。
昨年末の劇作家協会新人戯曲賞の公開審査で、候補作を一本20分か30分読んでいくというプレイベントがあり、どうやらそれを聴いたらしい。もっとも、「あ」と思い出したのは実際には聞かなかった終盤の部分、殆ど一場物の芝居の最後だけ、暗転の後かなり(物語上の)時間が経って人物の様子もガラッと変っている。公開審査での審査員が交わす意見を聴きながら、頭に形作っていた場面が出現した訳だった。それもその場面に対するややネガティブな印象(審査員による)とセットで。
くるみざわしんによる戯曲の評価は「原発事故被害の問題に果敢に挑んだ意欲作」「言及のさせ方が巧い・・とぼけた病院長の暴言と患者のやり取りとか」と好評で最終決戦の候補という感じだったが、「(終盤での)院長の変化に飛躍がある、その過程が欲しい」「大作と言える枚数、もっと圧縮できないか」といった減点評価あり。そう言えば最後までこの作品を推したのが渡辺えりだった。
それはともかく...
確かに長い戯曲で、これを1時間50分に圧縮したのは恐らく土屋良太演じる院長の高速台詞術による。最後の場面が全体の5分の1、残りのケツ4分の1が「注射の下手なベテラン看護婦」(近藤結宥花)が登場しての院長告発場面、その残りは、口数の少ない患者(川口龍)に殆ど喋らせず説得しまくる院長の独壇場なのである。噛みはあるものの俗物で飄々とした病院長の風情で台詞を連射する土屋氏の役者力は嫌という程見せつけられる。一方、昨年十数年振りに舞台でみた近藤氏の今回の白衣姿は(新宿梁山泊で主役を張っていた頃の少年然とした姿を彷彿させたが)、「注射が下手」と患者から嫌がられるという戯曲上の「いじり」を受け切れてなく、純粋一直線。原発というテーマが流れる戯曲で、観客が共感できる「真っ当な感覚」を体現する人物を買って出た(あるいは演出)ように思われた。そして、病院で一番頭脳もはっきりしていて入院歴の長い男性患者は院長以上に他の患者の事を理解し、うまく対処するので信望も厚い(この皮肉な設定ももっと発展させたい)、だからもし事故が起きたら「病院から逃げない」と一言発言してほしい、というのが病院経営側の希望であり、説得の使命を帯びたのが院長なんである。
原発事故を遠回しに言及させる設定のうまさがこの戯曲の売りであり、そのための些か突飛な設定での長編コント?でもあり、従ってもっと戯画的にやれそうなのだが、やはり最後の場面に「感動」の要素が織り込まれており、滑稽とシリアスの塩梅という点で中々難しい素材でもあったように思う。
出来れば作品名を冠した一度切りの上演主体ではなく、ユニット名を付けて何らかの継続的活動にして欲しい、そう思わせる座組、企画。
スカイライト
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2018/12/01 (土) ~ 2018/12/24 (月)公演終了
満足度★★★★
デヴィッド・ヘアなる作家の作品は初めて。わざわざ翻訳・上演するだけの秀作。映画も撮ったり脚本提供している作家という事で、「それも見てみたい」、そう思わせる舞台でもあった。
演技の質が三者異なり、息子以外の二人(蒼井と浅野)の長いやり取りが最初なかなか入って来なかったが、後半部分でカバーできる内容だったかと思う。
二人の関係がよくよく見ないと理解できない特殊な人間関係が狙われたのなら、解りづらいのが正解だが、よくある男女の過ちの関係と読める台詞もあったりするから、「攻め」のタイプの男役の方が判りづらくしていたかもだ。「俺達は特別」であり相手も自分を愛していると確信し、「何ら恥じる所はない」と言い切る男より、躊躇いつつもそう口にするのが、関係説明としては判りやすい。たとえ女が本心(男を愛している事)を伝えるのであるにしてもだ。
ただしこのドラマでは、その焦点が愛の真偽にではなく、他にある事が明確に伝えられる。他者との関係(即ち社会)の捉え方、そこからどの道を選択するかという「行き方」の問題を一人の女性を通して示し、そこには侮れない切実で本質的な何かが存在する事を、男の舌鋒を潜らせる事で仄かに、しっかりと浮かび上がらせている。男の必死の非難の形をとった説得は、資本主義社会の「常識(良識?)」であり、同時に彼女が寄り添おうとする社会の周辺の人々の正義を無にするもの。恐らく作者は男に執拗に食い下がらせる事でその事を可視化しようとしたに違いない。
小川新芸術監督のまずは手堅い仕事始めという感じかな。
尼を待つ
三度目の思春期
ギャラリーしあん(東京都)
2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了
満足度★★★★
久々にしあんを味わいに。同作者のタイムリープ○○も以前ここで、小粋に見せていた。今回はシリアス?と思いきや「笑い」は無いものの、時間と本人性を混濁させ(椿の花の効果とか)、人気の尼寺に悩み相談に来た主人公が、尼僧の到着を待つ間に一騒動の末、解決してしまうという趣向。
柳井氏の戯曲は矛盾や齟齬がいつも引っ掛かりながら、最後には巧くまとめられ、スッキリ(完全にとは行かないが)させられる。役者が真情の見せ所、ポイントがあるのだと思うが、そこを掴んでいるからこういう小品一本で勝負できるんだろう...と、外側からの感想。