tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

初回は満席で予約が取れず、雨の中会場を訪れ、幸い当日券で観る事ができた。
「戯曲でない」憲法を題材に何がやれるのか?不安ながらに見始めたが、さほど違和感が無かったのは、思えば「戯曲」での企画で各集団それぞれ、圧縮の手際や翻案・表現手法もバラバラ、原形をとどめなかったり換骨奪胎された舞台を過去に観ていたからだろう。(来年はテキストからも離れるらしい)
今回全組合せは観られないが、まず第1グループのスタートに立ち会えてラッキー(観客が皆同じ条件で観劇)。出演団体は毎回舞踊・身体表現系と芝居系、凡そ半々の陣容だが、1グループはくっきり身体思考が舞踊系、加藤と八谷が演劇系。それぞれに感想があるがいずれネタバレにて。

ネタバレBOX

身体思考「九条小町」は台詞無し、象徴表現を読み解く観劇。初日の一番手だったが、空間を味方につけ、即興要素がありそうで意外とカッチリ作られた出し物だった。
演者が登場して布を束ねた長い帯を真四角に敷き詰め、各人が所定の位置に付くまでの動作を見せる。やがて客電が落ちると和服の女中っぽいのが摺り足で現れ、一嘗めして去った後、白髪の老婆が登場し目を閉じて震えながら悲しい出来事を語るように動き、物語の始まりの体。ふと目に懐かしさを覚えて当日パンフを見れば、老婆はグループの主宰の男性舞踊家であった。その往年のパートナーも振付・出演で参加。踊りはスローの舞踏系の所作からロボットダンス、ジュリアナ東京を連想させる華やかな踊りと多彩で、一つ一つはオーソドックスな踊りだが目を飽きさせない。
ただしストーリーの解読には苦労する。全体に悲劇調なのは、舞踏の動き=能=無念の死・・の影が覆っているからか。細部の解釈は難しいが、擬人化された9条(戦争放棄)が生きていた往時を偲び、供養する夢幻能と捉え、未来の視点からの平和憲法への鎮魂劇と解した。
舞台上(正面奥2階部分も使う)には踊り手だけでなく、刀を手に浪人風にただ佇む老齢の人、能の謡い方風の声を出す人、など、多様なパフォーマーが所を得て存在するが、既視感あり。老婆役が昔客演していたのを観たパフォーマンス、舞踏の芥正彦の公演(首くくり栲象もいた)、元SCOT笛田宇一郎、音楽畑ではあるが渋さ知らズ・・。何処となく箱庭な異種統合の様式の発祥は何だろう。

対照的な加藤航平と八谷しほ「VOTE!」は、若い俳優たちによる学園ドラマ。バカっぽい高校生を振り切り気味の誇張演技で演じるテンションで憲法論議をやらかすという発想で、演者が楽しそうに演じるのを見るのは楽しく、比較的まともな会話のできる主役JKと準主役JKの周りを、クラスの中心的男子、ナルシス長身男子、純粋熱血男子(ホレ易い)に、超泣き虫JK、助っ人に連れてこられたスピリチュアルなダンサーが囲む構図。
本作の仕掛けは、高校3年生の最後の文化祭で発表する芝居を「ロミオとジュリエット」ではなく日本国憲法についての劇とせよ、とのお達しが来た、というもの。伝えに来た教師が唯一の大人である。作・演出本人がアフタートークで、脚本は3回没にして4本目を上演した、との苦労を吐露していたが、書き手として困ったのはこの題材では「主張をしたくなってしまう」事だという。役者の意見も入れて書き直した結果、憲法の事を全く知らない、考えた事もないノンポリである18歳の高校生に議論させる形となった。
この設定は、ちょうどこの企画に挑戦する事になった一グループの状況に重なる。もっとも企画に参加する選択は自ら行なったのであり、高校生らは「受け身」の出発である。この「受け身」で始まる困難、つまり巻き込まれ型ドラマの弱点は、どんな筋道を採ろうと「よく頑張ったね」に着地できるが、「俺は誰の世話にもなってない」と言い張れる若者だけに許される着地。もっとも国民投票の権利を手にする生徒らも「よく頑張った」では済まなくなる、という話の筋からして成立しづらく、本作はこの甘さをうまく回避している。
秀逸は憲法の中身に全く触れずにディベート(自民党新憲法草案か現憲法かという格好)を暫くの間成立させる前半。賛成派は「賛成」という言葉のポジティブな印象をアピールし、ゆるキャラも導入、一方反対派は悲劇の主人公を登場させ同情による票を得ようという戦術。ここで冒頭、二人の女子高生が共通の想い人に接近するため「自分がジュリエットをやる」とけん制し合った伏線を活用、純粋熱血男子のマナブ君のハートを準主役(行きがかり反対派)がゲット、となる。主役(行きがかり賛成派)は絶望と怒りにかられる・・。
危ういのは、バカな高校生らの憲法論議とは言え、新憲法草案という現実に存在しているトンデモな代物が扱われ、何も知らない彼らが賛成だの反対だの言い合っている事。この現実感覚を(草案の本質を知る人にとっては)拭い切るのは難しい。やがて高校生らも「憲法の中身について何も考えられてない」事に気づき、やってきた教師にここは素直に教えを請うのだが、教師が開陳する憲法構造の理解に危うさが漂う。
芝居としてはバカな生徒=大衆が行き着く混沌を皮肉を込めて描く側面があるが、判りにくいのは、憲法論議の文脈上では教師も「愚かな大衆」の一人に見えるが、芝居の文脈でみると神の視点で生徒を揺さぶる立派な教育者に見えてしまっている点だ。
しかし作者は生徒らに最後には受け身である事をやめ、「ロミオとジュリエット」に戻って行く道を辿らせる。「○○の本当にやりたい事をやりな。それなら応援する」と泣き虫が主役JKに言い、本当の憲法論議(自由と権利についての)がそこにある事を観客に仄めかす。そしてお定まりの恋バナでの大団円、「中身」への言及は薄いが憲法エンタメとして一応の完成をみた。
俺が代

俺が代

かもめマシーン

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2019/04/27 (土) ~ 2019/04/30 (火)公演終了

満足度★★★★

数日前に公演を知り、これは見ておくべ。と久々に早稲田どらま館を訪れる機会を得た。「日本国憲法を読む」を含む独り芝居との前情報、構えは出来ていたが、舞台造形と演じ手のパフォーマンス、テキスト、総合して想像を超えた濃さ・面白さ。
会場には演劇界の異端児A氏や俳優T氏の姿も見え、実は人脈厚い意外と年嵩の演出者?と思い浮かべたが、終演後に姿を現した萩原氏は若かった。

奇しくもd倉庫での現代劇作家シリーズ「日本国憲法」初日をその夜観たのと比較して本作がかなり「踏み込んだ」憲法評価に立っている事が印象づけられる。
表現の細部はともかく、今このように語る事が真っ当である、と感じる。自分が時代をみる見方がそこに反映されている。という事は観客一人ひとりこのパフォーマンスの受け止め方も感じ方も様々に違いない。
状況がより厳しくなり、「それ」について語らない事が「それ」を容認するという意味で背徳的である、という事態にまで至った時、つまり芸術領域に政治が浸食してきた時(できればそんな時代は来ない事を望むが)、その時どれほどの芸術家の沈黙を見てしまう事になるのか・・そんな事を覚悟しつつ、期待もしつつ、今日も芝居を観る。

ネタバレBOX

2、3日の内に見た山下残「GE14 マレーシア選挙」、本作、d倉庫の「日本国憲法」パフォーマンス(身体思考/加藤航平と八谷しほ)と、通底する舞台が続いたのは偶然もあるだろうが、それぞれ演劇的議論の新しい形が模索されている。
GE14 マレーシア選挙

GE14 マレーシア選挙

山下残

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/04/26 (金) ~ 2019/04/29 (月)公演終了

満足度★★★★★

観劇は過去一度だけであるが十分にインパクト有り、舞踊というカテゴリーを文句を言わせない着想で拡張し続け、ついに舞踊でさえなくとも観客に飲ませてしまう山下残が今回何を見せるのか。なぜマレーシア選挙か。超気になって出掛けた。
素材は一年前政権交替を起こした選挙で、映像もドキュメント、出演者まで当人という特殊な出し物だ。ファーミ・ファジールの出で通訳に付くのが青年団の松田弘子でこれが「出来る」故のオファーなのか俳優としてのチョイスか判らない(恐らく出来るんだろうが「実は全然喋れなくて」とかヒネリも有りな雰囲気)。

ドキュメント素材をパフォーマンスとして見せる形態に演出家・実演家「山下残」の名前が光るが、マレーシアの国政選挙への着目にも(縁もあったにせよ)山下残の影が見える。選挙運動の紹介だけをやっておりその事で舞台は完結しているのだが、我らが無名候補ファジール(アーティストでもある)の選挙活動の帰芻に関心が高まるだけでなく批評性を帯びて身に迫ってくる。彼の当選と、マレーシアの建国以来初の政権交代の実現の中に何があったのか、読み取る材料はそのプロセス。観客はその経過に身をおいて歴史的事態へ突き進む高揚に浸り、迎えた結末に揺さぶられている。
我が国の選挙、即ち政治状況の体たらくが過るが、人が何かに気付き動き始めるきっかけというのは意外な場所に眠っていてその日を待っているのかも知れない。
斬新かつ確かな仕事。

BATIK100会

BATIK100会

BATIK(黒田育世)

急な坂スタジオ(神奈川県)

2019/04/24 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

初の劇団を観るべく初の劇場(萬劇場)へ当日券狙いで向かう予定が、時間がなく断念。そうだBATIKを観ようと目的地を変え、急な坂スタジオを訪れた。初BATIK。
会場は名前の通り急坂を暫く登った所にある。鮮やかな褐色系の外観(煉瓦の塀)が目印。内部はゆったりしたロビー、観客というより利用客を迎える雰囲気。廊下を伝って奥の会場まで、途中にも稽古場らしい部屋の扉があり、劇場というより合宿所のよう。
公演会場とされた部屋はそれなりに広いが、劇場仕様ではなく天井も低い。照明は床に置いた幾つかで間に合わせていた。長方形の短辺側に三列段差の椅子席が二十数くらい。開演時刻の20時には席が埋まり、約1時間の上演が始まった。
「BATIK100会」の第1回(会)は息長い企画のスタートとしてまずまず面白い内容だった。4人のソロダンスで1時間。1曲目以外は松本じろ(g、vo)の生演奏をバックに踊る。一曲目はSTスポット「地上波」第四波で見た政岡由衣子が、練られた振付の曲を20分。2・3曲目が合わせて20分弱。4曲目が即興性ある(実際は判らないが)演奏と踊りで20分間飛ばしまくり、燃焼し尽くした体で上演は終わった。
名前だけ承知していた黒田育世振付の踊りにやっと相見え、100回の何度かは覗いてみようという気になっている。登り坂はきついが・・。

『のぞまれずさずかれずあるもの』  東京2012/宮城1973

『のぞまれずさずかれずあるもの』 東京2012/宮城1973

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2019/04/11 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

内容では東京2012に、俳優では宮城1973に食指。一作のみ観劇可で悩ましかったが無理やり順位をつけ、東京2012を拝見した。新作の方はまた再演のチャンスも...と期待する事にする(その際も是非福寿奈央氏に)。
事件を私は殆ど覚えていない。初演の2012年、被災地宮城だから作者はこの題材を選んだのだろうと想像する。血の繋がらない家族の物語だが、家族内の関係が適役の俳優によって浮かび上がる幸福に浸った。開演まもなく、前列の客が携帯着信バイブ音に「どうしよう」と慌てながら決して切ろうとしないのにイライラむかむか、1分近く舞台上は幾分激しく動くていたが台詞情報が頭に入らず。にも関わらず人物の関係性は損なわれず肌に入って来たのは、役者がその人物として存在していた証だ。言葉の謎掛け・謎解きで注意を引っ張るタイプの芝居でなく素直に人物を描いて行くTOKYOハンバーグの真骨頂に救われ、空白時間とならずに済んだ(その女性には終演後苦言しておいた)。
それぞれがそれぞれらしく生き、悩み、「家族」の紐帯の中から力を得て前へ進んで行く涙ぐましくもいじましいドラマ。言わば「血縁」以上に情に結ばれた、理想的な家族像がそこにある。「人と違う」不遇が育んだ連帯意識なのか、血縁でない以上「関係」を必然化する事が暗黙に目指された結果なのか・・。そうした説明は芝居には一切ないが、台詞の中に様々な思いが沸々と渦巻く様が想像され、存在の輪郭がリアルに迫ってきた。
ただ・・震災直後の日本で、打ちのめされた心を癒す彼らの心遣いを描きたかった書き手の思いを想像しながら、今は、残酷な結末もあり得ると想像する余地を与えない綺麗にまとめたラストには、少し物足りなさも残った。
最後に置かれる結語には、人の善意や優しさが当てにならない事もある「未知数」な未来を警鐘する要素を持ってもいい、そんな気がした。この事件の当事者である医師や、子をもらい受けた夫婦は善意の人であり良いことをした、果たしてそうなのか・・突き放される事で観客は、結論を自らの思考によって選択する、その決断に委ねる余地がほしかった。十中八九、客は善意の選択をしようが、そうする事で己にその選択には責任が伴うことになる。激しい雨の夜、病院の待合室で他人の赤ん坊の誕生を待つ夫婦のシルエットが、冒頭とラストに出てくる。ラストの扱いは多様に有り得て、迷う気がするが、上の感想を反映するとすれば私はシンプルに、二人が命を待ち続ける姿を残して暗転、がいい。安易と言われるかも知れないが。。

『ニーナ会議-かもめより–』

『ニーナ会議-かもめより–』

演劇ユニットnoyR

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2019/04/17 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

2016年観たのとだいぶ違うと思ったら、演目が違っていた(そもそも役者数が倍)。私が観たのは「かもめ」で、ニーナは勿論「かもめ」に登場するニーナであるが、タイトルに「会議」とある通り、ニーナが会議をする。「かもめ」の翻案というよりスピンオフな作品と言えようか。大変ユニークな台本で、樋口ミユはやはり台詞を書く人なのだ、と改めて認識。
若葉町wharf(ウォーフ)には出入り口が二つあり、同じスペースでも大きく2パターンの使い方があると気づく。印象がまるで違って面白い。今回は黄金町駅に近い方が入口となり、長辺側に対面式の席が並ぶ。入って奥にステージに当たる台がありテーブルと三つの椅子、楽屋っぽい歓談の場。そこから手前側に台が延長して長く突き出し、テーブルと真逆の突き当たりに一脚の椅子。この遠い両端の間で芝居が展開する。登場人物については詳述を省くがトレープレフとトリゴーリンは登場。主人公ニーナの一人称の目が、二人の存在を認める、その対象として男性の身体が駆り出されている。
チェーホフ作「かもめ」の物語が、ニーナの視線を通して再構成される。トレープレフ目線ではニーナは彼に残酷な仕打ちをし、最後まで身勝手にも見える女性だが、この舞台で作者はニーナの中にある女性ならではの葛藤を普遍的な情景として描出した。
原作を知らずにどの程度楽しめるかは判らないが、ニーナ(女性、と言い換えたい)が、己の人生が問う問いに真剣に対峙していく姿は感動的である。女性のアンサンブルは流麗で目に美しい。

さようなら

さようなら

オパンポン創造社

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2019/04/18 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

最もパッとしない男役が主宰で、他は全員客演とは終演後知った。調べたら一人作・演出・出演ユニット。今回の「最後の上演」への思い入れは強かったらしい。
今回で封印する理由は判らないが、確かに15年選手にしては本作は若者目線のドラマ。軽快なテンポとキャラ立て優先の演出も、脚本の良さで無理を感じさせない。小ギャグの好みはそれぞれだろうが、吉本文化圏の大阪らしく本人と役が渾然一体のキャラで押し出す役者根性は私には彼我の差と映じた。
話の舞台は淡路島。しがない工場の従業員たちの、変わらない日常と、事件、その顛末を描く。最後まで「何を作っている工場か」に触れないのに、不思議と宙に浮いた話に感じさせないのは人物造形の勝利か。
中卒以来十八年勤務するベテランと、彼に毎日飲みに誘われ付いていく九年目の後輩、カラオケの合いの手も職人技のスナックのママ。飲みを断り続ける二人は、風俗にはまる中国人従業員と、進路に悩む事務の女性。朝のラジオ体操にだけ姿を見せる社長。
そんなある日、一度も飲まなかった二人が「飲みに連れて行ってくれ」と先輩に申し出る。ルーティン反復の日々に初めて波風が立つ。
テーマは食い尽くされた感のある「変わらない事の良さ」と「変化への渇望」との葛藤。地方で燻る事への倦み、自分との折り合い。上演する場所が東京か地方かでも随分切実さが違うのではないか、と想像しながら観ていた。本作は舞台が淡路島で、女性事務員が憧れるのは東京と、うまい設定である。地方都市住人が抱える憧憬する側の疼きと、される側の余裕、関西の観客は「疼き」をより理解するのではないか。もっともこれは土地に関係なく個人が持つ二つの感情でもあり、文明とその中心地が形成された古代から存在する、普遍的なテーマなのだろう。

ネタバレBOX

実は余裕で到着する予定が、電車の乗継ぎ案内を信じたばかりに開演に遅れてしまった。タイトル映像の前の喧騒場面が終わる頃に入場した。
「撮って出し」DVD(関西公演)があるというので購入した。見直してみると冒頭でしっかりと「事件」後のスピード感ある場面が3つばかり伏線としてピックアップされている。本編で言及して欲しいと感じた部分(ちょっと舌足らずに思われた部分)が冒頭にきちんと出ており、映像で逆算すると開演は定刻か1分遅れ、私が見逃した3分が有ると無いとではこれは間違いなく開きがある。「さすが受賞作!」とまでの高まりに至らなかった理由はそれ、との説を自分では有力視している次第。
しかしお陰でDVDを1000円という安価で入手でき、素撮りでも十分見られる。二度目でもつい引き込まれ、お得感有り。
疾風のメ

疾風のメ

くちびるの会

吉祥寺シアター(東京都)

2019/04/17 (水) ~ 2019/04/22 (月)公演終了

満足度★★★★

今はない雑遊で数年前に観たきりでご無沙汰だったくちびるの会。アルゴリズムな感じで俳優が動きながら、その中に情念の火がふと点ったような、そんな朧げな記憶で、未完成ながら独自の演劇的言語を持っている印象だった。少し寝かせて(ワインではないが)観に行くつもりが随分経って久々の観劇。
役者陣が充実しているな。と観終わった後サイトで確認すると、くちびるの会は2014年から活動のプロデュースユニット。俳優には今回出演の野口オリジナル、佐藤修作、橘花凜、鈴真紀史、丸山港都、加藤ひろたか、そして丸山厚人。他に傳川光瑠、宍泥美、一回切りだが小沢道成など。今回初出演が東谷英人、藤尾勘太郎。無敵と言える陣容だ(他は黒田光、聖香)。
作・演出山本タカの志向は過去一作と今作のみでは判らないが、2000年以降の若者が潜っているだろうペシミズムが作品の前面ではないが通奏低音に鳴っている。俳優各人の持ち味の生きる人物を登場させ、終盤近くまで軽快に飛ばしていた。が、作家山本氏としてはどうか知らないが、もう一歩書ききれなかったように思う。何かが惜しく、悔やまれた。

ネタバレBOX

唐十郎の舞台を担った特権的肉体・丸山厚人の起用は、「風男」なる異形の主人公(野口)を世界へ送り出して幕を下ろすという、唐作品を思わせるような劇の構想からだろうか。
この劇はぶっ飛びな展開と、リアルな・シリアスな現実世界が錯綜する面白さが、実現されていた。俳優の働きが大きい。先の丸山演じる清掃会社社長はシリアスな現実に「理念と情熱」で突き進む第三の道を示して閉塞感に救いをもたらす存在、弱者にたかるゴロツキ(東谷)・子分(木村)・その手先(石黒)、「悪」の狡猾に対し無力な高齢者施設(実際にはこれほど柔ではなかろうが、ある本質を穿ってはいる)には、模範的な主人公と新人(佐藤)、シュッとした男と噂に弱い女性上司(鈴)、ある嫌疑が掛かって辞職に至るベテラン(藤尾)、その後釜(石黒=手先)。
主人公はドラマ的に二つの側面を担い、これが戯曲の魅力でもあり欠陥にも思われる。介護職という低収入の身分への不全感から、「踏み込めない」主人公に決断を迫る3年同棲した恋人(聖香)と、自分につきまとう「兄」=清掃会社社長にその風の威力で諦めさせて欲しいと頼む街角の風俗客引き(橘)は共に、主人公の自己像を知らせる鏡であり、応援団だ。つまり主人公の男は自分探しと成長の物語の主人公である。
一方この主人公には子どもの頃、憎しみの目が「風」を起こしたという体験があり(手持ちサイズの風車で恋人によくその話をしたらしい)、成人した彼の憎しみが極点に達したそのときに再びそれは起こる。橘の依頼から風使いとしての修行が始まり、その途上に清掃会社社長との対決、そしてシビアな相手、執拗なゴロツキらの攻撃に立ち向かう事となるが、ここでの彼は、特殊な力を与えられた「選ばれし者」である。
もちろん「風を起こす」とはある種の比喩とも取れる。意志の力が何事をも動かす、誰しもその力は平等に与えられている・・という。だが物語を動かし周囲も動かすのは「風を起こす」具体的な力で、この力によって彼の性格(あるいはスタイル)を変えない事も許されるとなれば、風は変化の象徴でなくなり、持てる者の特権の構図になる。自信がなく意志が弱いという評価は3年間暮らした女が下したある意味揺ぎない事実で、決して彼を嫌いでない様子から、彼女が高望みをしたのでない事も判る。その彼女は「風」を起こし始めた彼の内に込められたもの=彼自身をやがて認めていく事になるが、孤高を潔しとする境地に至った彼は、風を「起こす」のでなく風と対話し、彼の口癖であった「申し訳ない」態度を貫くことで世界を救おうと旅立っていく(その覚悟を貫くべく日常へ戻っていく、とも解釈可能)。
「変わるべき人間が変わる」物語のはずが、「変わらなくていい(ありのままでいい?)」の文脈が入り込んでくる。「変わるポイント」がズレている訳だが、では何が変わり何を変えなかったのか、そこがぼんやりしている。
テント芝居なら屋台崩しの後、吹きすさぶ風の中、場外へ去って行くラスト、そこに様々な未来への希望が仮託される。作者にもその思いはあったろうと想像しつつ、では何が変わりたいと切望されているのか、感覚で摑まえようとしたが掴めなかった。この戯曲の流れでは、風に去って行く幻想的な最後の場面から、もう一度日常に戻りたくなる。
もし精神世界を描き、そこで完結するのであれば、「現実」場面で取りこぼした藤尾演じる職場の同僚(コンビニでバイトしている)には、最後に「謝り」に行くのでなく力を貸してくれと頼みたかった。「子どもの目」なら「あの人も味方にできる」と、思ったんじゃないかな。
喫茶ティファニー

喫茶ティファニー

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/04/11 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

アゴラ劇場の壁際一杯に作られた古びた喫茶店内。下手手前にゲーム付のテーブルが置いてある。冒頭森谷ふみがお客に対してセットの事、程なく登場する幾人かを紹介するという「親切な」導入以後は、ホエイには珍しく「逸脱」「ぶっ飛び」のない地に足のついた現代設定のストレートプレイであった。
アウトロー世界の入口として機能する喫茶店には、そうした者たちが滞留し、通過する。場の設定が見えると作者の狙いも頷け、際どい問題に突っ込んだ芝居の輪郭が浮かび上って見えてきた。
青年団系が多いとはいえ多様な存在があって「あうん」で成立していないのが良い。

ネタバレBOX

この芝居は制度的に生み出されているアウトロー(従って合法世界の住人にも無縁ではない)の話である。
ただリアルを追求すれば、中心人物である在日の青年のあり方などいささか違和感はある。

経済的事情で(植民地由来でなく)渡日する外国人がある種の孤立の状況を嘗めている事は想定でき、外国人コミュニティのある部分がアウトロー化すれば、そこでの階層形成もあるに違いない。映画が好んで描きたがる世界だが、様々な矛盾を孕んでいるが故だろう。ただアウトローが世間的常識や法に頼らず自立心を発揮する気概の方が絵になるが、この芝居ではその主張を体現する存在をささやかに残しながらも矛盾の提示に重心がある。

余談ではあるが・・朝鮮籍の朝鮮人は今は在日の中でも少数派というが、同じ法の埒外でも日本社会でそれなりの地位を確保するための長い運動があり、民族的紐帯も形成されているので、法的処遇の厳しさを見ずそこだけ見れば、羨ましいと感じる温かい関係がある。コミュニティを構成する国籍状況も多様と聞く。ここ10年、朝鮮学校が高校無償化措置ばかりか補助金からも見放され、教師はほぼボランティア状態で後続のために身を削っているのだとか。だがそれを支えようとするコミュニティは温かい。
このコミュニティがまず土台としてあり、そこからはみ出した存在なら「なぜそうなったのか」が、青年の固有のあり方となってくる。
在日の女性の方も、名前を隠すか否かなど十代に悩み尽くしているはずで、結婚相手になろうかという男性に出自を隠す事にはリスクの方に自覚的なのが普通だろうと考える。元々本名を名乗っていた彼女が仮に在日コミュニティから抜け出したくなったのは何故だろうと思うが、そうだとして国籍問題を解消して日本人のいいとこの男と付き合う順序は難しいから、結婚によって無理なく帰化するために相手を選ぶだろう、その場合の相手は彼女の出自にむしろ同情的な人間であるはずだ。

ただ、男女二人の「らしからぬ」人物設定にも、出自を忘れる日常にあって「ある局面でその事が桎梏になる」という制度差別の本質はみえる。ほぼ日本人の感覚を持ち、就職難の現実も日本人同様に味わう彼らが、見えない差異を突き付けられる。

ちなみに「朝鮮籍」とは日本国憲法成立の前日、それまで日本国籍者であった朝鮮半島出身者を「外国人」に括る法律が出来、憲法の「法の下の平等」の対象から排除する事ができた訳だが、その時彼らに当てがわれた国籍が「朝鮮籍」であって、実在する国に帰属する国籍とは異なる。
つまり朝鮮籍は北朝鮮に帰属している訳ではなく「韓国籍をとる」という選択をしなかった朝鮮人たちが持っている籍、という事になる。日本の朝鮮半島植民地化がなければ彼らは元々存在しない。国や制度に翻弄された彼らが少なくとも、喜々としてある国籍を選ぶ、などという事はなかったに違いない。
時は流れ、情勢も変わり、便利だから韓国籍をとる、結婚したら日本国籍になる、というケースが増え、韓国籍・朝鮮籍ともに年々減っている。
一方アイヌ人には国籍そのものがない。ただ民族的自覚を持つ人間によって、受け継がれていく。そういう存在を包摂する日本でありたいが、なぜ「差異」に人は足を掬われてしまうのだろう。
幻想寓意劇 チェンチ一族

幻想寓意劇 チェンチ一族

演劇実験室◎万有引力

ザ・スズナリ(東京都)

2019/04/05 (金) ~ 2019/04/14 (日)公演終了

満足度★★★★

万有引力 in スズナリへ、また出掛けてしまった。非寺山作品に挑み、天井桟敷を正統に継承する舞台と評価された作品とか。狂気の演劇人アルトナン・アルトーの名に「オ?」と目が行くが、かの地の前衛の前衛たる所以はこのテキストからは判らなかった。残酷な状況が取り上げられているとは言え、人物に正当な台詞を言わせ、主張をさせている。様々な理不尽を、相手を慮って受容するという「残酷」とも言える現象に、エロティシズムさえ重ねられる日本人の精神の屈折からすれば、理が勝った西洋のそれなど単純に見えてしまうという事だろうか。

さて冒頭から光と音、美術のアンサンブルで舞台は魅せていく。今回は特にJAシーザーの音楽の木目細やかな音使いを、初めてしかと確かめた。再演というから、楽曲も若き日のシーザー氏の迸る才気が書かせたものだろうか。それとも今回新たに書き下ろしたものか(現代的アレンジも感じたので)。単純構造の戯曲の色彩を与えていたのは美術+照明と、間断なく寄せて返す音楽だった。

この話、前半は貴族の家庭内残酷劇、後半はチェンチ伯爵を殺した娘ベアトリスの裁判で情状酌量の余地を認めるか認めないかを延々と争っていると言ってもいい話だ。
日本人の感覚では(に限らないかも知れないが)、認められようが認められまいが罪は罪、結果に差はないと考え、いずれの処断も受け容れるというのが「ストレスのない」覚悟であったりするが、このドラマの主人公である被虐の親殺しベアトリス・チェンチは頑として「罪はない」と主張し続ける。
戯曲が用意する頂点は、処刑されようとする孤高のベアトリスが、「神の名の下に」彼女を裁こうとする判事や教皇の使者へ反駁をする最後の場面。現状への嘆きと、希望を裏付ける切々たる正当性の主張は、ギリシャ悲劇の詩(長台詞)を思わせる。彼女の弁は人間宣言であり、律法学者を難じて処刑されたキリストが重なる。相手が聖職だけに痛烈な皮肉となるが、この正当な批評態度は、仏では異端のそれなのだろうか? アルトーをまだよく判っていないので、考え保留。

血と骨

血と骨

トム・プロジェクト

ザ・ポケット(東京都)

2019/04/10 (水) ~ 2019/04/14 (日)公演終了

満足度★★★★

初日を拝見。客席に多くの演劇人が見られた。劇評家の姿もあって注目度が窺えたが、確かに話題になって良いタイトルである。
もっとも私は在日の世界を日本人が象る事の困難、況んやこの作品をと見切っていて、観るつもりはなかったのだが直前に「凄い事になってるかも」と期待の虫が這い出てきた。最近注目していた演出家というのも大きな要因となり、観劇。
構造はシンプルで、在日一世のある男の一代記として描かれ悪い感触はなかった。私は映画版がいまいちだった口で、映画より今回の舞台が良かった。父子の対決図を軸に据えたことで世代の継承の視点からこの異形の男の存在を捉え得た、というのが理由だろうか。
ただし「俊平」その人の存在を本質から形象し切れていないとの感想は映画に同じ。想像の中でしか作れない人物なのか・・判らないが、乱暴な言動の背後に流れている何か、核を掴むことは確かに大抵ではないとは思う。
舞台は暗転を多用した点描スタイルのニュアンスもあり、暗転になると人と物の出入りの際、芝居でなく作業員のようになるのが、私としては気に食わず、照明が落ちても役の気持ちでいて良いように思った。「割切り型」と「粘着型」とあるとするとこの芝居は「割切り型」(最近見たのでは「はだしのゲン」が典型)の構成と言えるか。
俊平の妻・英姫役は立派な関西弁でパキパキと喋り、韓国訛りとして「ツ」を「チュ」に変える配慮をやっていたが単純変換で機械的。この違和感というのは、関西弁の使い手として人選されたとすれば、韓国訛りなど入れず流暢に関西弁を喋ればよく、韓国訛りを入れるならむしろ関西弁はうまくなくて全然よい。最初に出てくる「あてつけ」を「あてちゅけ」と読ませた変換は、「あッてちゅッけ」(小さい<ッ>は短く跳ねる)もしくは「あでちゅッけ」と行きたかった。台詞には無かったかも知れないが「ざ」は「じゃ」になる。こだわるなら粘っこくこだわってほしく、こだわらない(割切り型)なら、むしろ韓国訛りが要らない。日本で育って自然な日本語が話せる設定でも他郷人らしさ=どこか遠慮がちである等=があればいい(それが出来ないから言葉で対処しようとしたと言われれば黙るしかないが)。
今回どういう事情か知らないがアンケートを取っておらず、ビッグな芸能人でもあるまいし、様々な疑念が湧く。出来についても批評を臆するような出来でなく。憶測を逞しくすれば、コールの際にスター然と佇んでいたあの役者の要求か、などイメージ的には最悪である。そもそもアンケートを取らない事の意味のほうが不明で、私には論外。舞台が思いの外良かったから非常に惜しい思いを抱えて劇場を後にした。

ネタバレBOX

少し考えたが、今回出演予定だったみょんふぁが体調不良で降板、クレームはなかろうが「彼女のチャーミングな立ち姿だと随分違ったかも、、」等の一言くらいはもらったかも知れない。役者への配慮。だがもしそうならこの措置は妥当と言えるか。私はその想定自体が許せん、となる。役者交替で舞台の質が変わるような作品だと自認している事が論外だ。
またこうも考えた。今や紙に感想を書く人など僅か。それにアンケートを請う謙虚さでお茶を濁してる印象を持たれたくない。舞台に自信があるからこそアンケートを乞わない態度が正しい在り方である・・。
いやいや。作品は一つでも観客の受け止め方は様々であり、それを「知りたくない」という姿勢が演劇をやる者としてどうなのかという話。違和感は拭えない。
半永久的なWIFE

半永久的なWIFE

劇団NLT

オメガ東京(東京都)

2019/04/12 (金) ~ 2019/04/19 (金)公演終了

満足度★★★★

普段あまり観ない“ジャンル”の芝居だが、<喜劇>一筋30年の劇団NLTは3年前池袋の小屋で「劇場-汝の名は女優」を観ていた。年増女と疎まれる元(?)大女優が、彼女が入れ揚げている若い男と新人女優に裏切りを食らうも最後は舞台上で勝負、見事一矢報いて拍手喝采の爽快な舞台だった。先日話題になっていたルー大柴主演舞台や、少し前の賀来千香子主演舞台など著名俳優を招いてのプロデュース型も多いようだが、今回は昨年開業した「オメガ東京」という小さな劇場で「劇団公演」の趣き。演目は劇団主催戯曲コンペの受賞作という事で全くの未知数である。予測不能なタイトルに惹かれたが、意味じたいは内容を割と忠実に表していた。
装置もお芝居チックな室内劇は、劇団代表の川端氏が片割れを演じる老夫婦の奇想天外な近未来家族ドラマ。貫禄ある二人の比較的自然体な存在感に、周囲の面々がキャラと個性豊かに茶々を入れる。メイド・ルーシー(察しの通り英語圏のどこかが舞台だ)、営業員ジュリア・ロボッツ、修理担当マイク、数十年ぶりに帰還した娘オリビア、その夫の残念男ジョージと、周辺の役を担う俳優が特徴的だ。「如何にも」なキャラ、際立つ個性を自分なりに見出し強調し、存在から滲み出る笑いの要素を磨き鍛えているのがNLTの俳優だろうか。
序盤はこのドラマの奇抜な「設定」に移行するためのやり取りの部分が、脚本的には苦慮したと見える要素があるが、俳優の技量で乗り切ると、この設定を楽しむ時間である。だが予測可能でも予期しない事態が間断なく訪れ、「設定」自体が揉まれた末、あっても良かったのに無かった平凡な場面が現われて終幕。思わず「うまい。」と言う間もなく温かな闇に包まれた。「喜劇」とは愛を確認するまでの試験ないし前戯であり、照れ臭さを隠すボヤキの時間。時折目にする芝居は早々にボヤキその実ノロケの延長と悟られるが、本作は着想の勝利でノロケ要素が当初より除外されている。つまり未踏の変化を辿りつつ、回帰するかのような不思議な構造。大騒ぎな大団円だけが大団円でないと妙に感心した。結語(回帰)そのものは喜劇の王道なのだろうが「変化」の方に未踏の時間(未来)への希望が滲む、とは大袈裟だろうか。
ただ、小さな劇場とは言え客席にもっと客が入っても良かった。「喜劇」にこだわり、これを続ける事の苦労が過ったが、笑いの中には不屈の細胞がある、と感じる所がある。笑い、不可思議也。

コーカサスの白墨の輪

コーカサスの白墨の輪

東京演劇集団風

レパートリーシアターKAZE(東京都)

2019/04/03 (水) ~ 2019/04/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

昨年の「記憶の通り路」以来、早くも「風」二度目の観劇の機会となった。演出はどちらも若手新鋭の江原早哉香だったが(今回カーテンコールで初めて目にした)、俳優の力量、持ち味は今回の舞台で見えた。中々面白い集団。ブレヒト作品の古典を、恐らく今回新演出かと思われるが正確な所は判らない。大小の人形を使い、飽きさせない演出だったが、「コーカサス・・」というブレヒトが書いた物語を飲み込み易く舞台上に再現させてくれたという印象。微妙~な存在であるアツダクの欲まみれかつ人間的な裁きに表わされるブレヒト的諧謔というか皮肉というか、清濁併せ呑んだ人間観、社会観が流れていて面白おかしい。人物を突き放した筆致に甘え気楽に見ていられるにも関わらず、鋭く突きつけるものがある。
休憩挟んで3時間近い舞台だが全く疲れなかった。(単に体調の問題かもだが)

ミュージカル『はだしのゲン』

ミュージカル『はだしのゲン』

Pカンパニー

こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)

2019/04/03 (水) ~ 2019/04/07 (日)公演終了

満足度★★★★

小型ミュージカルが取るある様式にはめ込まれた舞台、最初は不自由に感じる。ある意味これは異化効果だらけの舞台ではないか・・・と。巨大な史実を前に「必死さ」の向けどころを俳優は探しているようでもあり、身体がリズミカルに元気に動くので窮乏感も疲弊感も出ない、とか。シンセで作ったいささか安っぽい音の音楽も含めて、役者の演技もリアリズムからは遠い「形」(悲しみや怒りは表現されるが表象・記号として作っているように見える)。画素数が高いのがリアリズム追及の方向だとすれば、これは思い切り低く設定したデザインという感じ。歌は真摯に歌われるが先述したようにシンセ音が「なんちゃって感」を出してるし。
だが仮そめの作り物だと割り切った形式の中に、胸をつくような印象的な場面が挟まれ、そこがえらく映像記憶に残る。
「はだしのゲン」の印象的な場面がなぞられていたが、ゲンの死んだ弟信二そっくりの隆太との場面など、漫画のニュアンスがうまく出ている。最も印象に残るエピソードの一つが、お金につられてゲンらが連れられた屋敷の一室に寝起きする蛆の湧いた体をもてあます元画家志望の男がゲンらに会って絶望の中にも元気を取り戻す話。そこで手にしたお金を持って急ぎ病気の妹にミルクを買って帰るのだが、被爆直後の惨状の中で唯一ゲンの心を温くした新たな命は今しがた奪われていた。原作にあったか記憶にないが、戦後「勝者」側となった朝鮮人である親切だった隣の朴さんと、日本兵となった朝鮮人が町で出会い、朝鮮民謡風の望郷の歌を切々と歌う。これらの場面は少なからず揺さぶるものがあった。

装置は場面ごとの持ち込みで、床は緩い傾斜で矢板を僅かな隙間を置いて縦に敷き、下からの照明を効果的に使っていた。

パラドックス定数第45項 「Das Orchester」

パラドックス定数第45項 「Das Orchester」

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2019/03/19 (火) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

上演履歴に見当たらず、企画の〆は新作?と乗り気でいたらもっと若気の作品という。それはそれで興味が湧く。
パンフjに「参考図書」としてフルトヴェングラー関連書の題名が見えた。二十世紀(前半)の最も著名な指揮者とだけ耳にしていたが、ナチスとのエピソードがあったと観ながら思い出した。史実が題材でもドラマ進行のポイントとなっているエピソードが史実をなぞっているかは不明。指揮者の名も呼ばれず、宣伝相とあってゲッペルスと書かれていないので相当程度フィクションが混じるとも窺えるが、楽団へのナチスの真綿で締めるような介入がうまく描けている。実際に宣伝相本人までが出張って言葉を交わしたかは疑わしいが。
オーケストラを描くのに演奏場面を出すかどうかは判断の分れ目になりそうだが、演奏どころか楽器を取り出す事もない(チェロなどは布でくるんだ中身は間違いなくフェイク)この舞台には違和感も不足感も覚えず、音楽と芸術について真正面から語った作品になっていた。
冒頭、袖で演奏を聴く指揮者の秘書、少し離れて鉤十字の腕章が見える制服姿。流れる演奏は古い音質からして恐らくフルトヴェングラー指揮の実際の音源で(クリアな音より余程いい)、緊張感が漂う。芸術を権力に利用し統制下に置こうとする力と、それに抗う音楽家(たち)、という単純図式でない配置もうまい。
戯曲中の出色は、良心的な存在として登場するチェリストに作者は「私は演奏が出来さえすればいい」と言わせる。だが彼の態度に「演奏すること」が即ち自分の良心に従う事である、という哲学が立ち上っている。これまで観た野木作品の中で、この最も若い時代の作品が最も老成し深みを感じさせた。

高名な指揮者が率いる楽団ながら、三分の一のユダヤ人演奏家が在籍するという状況が徐々に、やがてはっきりと桎梏となっていく。ある演奏会の開演間際にナチスが旗の掲揚を要求し、飲まざるを得なかった事に始まり、「敗北」を喫していく暗鬱の中、「私たちは演奏をしよう」と誰かが言う。この取り立てて何の飾りもない台詞に、虚を突かれた客は多かったろう。芸術を志す者たちへの敬意と静かな声援がひたひたと会場を浸すような感覚が作られた。「演奏をする」とは何か・・音楽家にとっての日常だろうか、それとも特別な何かであり、特別を担う者が芸術家であるのか・・。いずれにせよ「演奏をする」ただそれだけが希望であるような瞬間を作り得たことが、この作品の価値だ。

(劇団websiteによれば)初期作品の中には女性が登場する戯曲もまだあったが、やがて男一色の作品ばかりになったようである。本作は紅一点だが(演奏家に女性性を感じる部分もあってか一人という感じもしなかったが)、ドラマに丸みと膨らみを与えていた。

九月、東京の路上で

九月、東京の路上で

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2019/03/15 (金) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

一年以上空けての燐光群観劇。昨年1月の「リタイアメン」(清水弥生作、アジアとの共同製作)、燐光群ではないが3月の坂手洋二作・演出「ブラインドタッチ」以来だ。もっとも昨夏の「九月、東京・・」初演は完売で見逃した稀なケースで。。その話題作の再演は、「近い内に」との初演会場での約束通り実現し、鴨川てんしと中川マリの一人芝居との抱き合せ(こちらは観られず)と企画性にも配慮。半年後の再演とは燐光群としてはレアケースだが、客席はそれなりに埋まっていたとは言え満席には至らず、集客ダウンが見込まれたにも関わらず再演を決めた姿勢には(勿論個人的にも有難いが)敬意を表したく思った次第。
「九月、東京の路上にて」は関東大震災の朝鮮人(だけでなかったが)虐殺の足跡を広範に辿った原作著書のタイトルである。これには二重の意味がある。一つには著書に記述されたエピソードが再現される。この具体的な証言の力が、演劇的作為の中にあって作為を加えられない信憑性を持ち鋭い魅力を放っている。もう一つには、演者たちはこの加藤直樹著の現物を手に持ち、東京の「事件」現場を辿るという事をやる。エピソードはその「現在」に時間に挿入されて来る。彼らは有志で集まって世田谷区オリンピック対策何とか言う任意団体を立ち上げ、現場を訪れ議論をしながら「国際行事であるオリンピックに相応しい他国との向き合い方」を示すため、民間協力として今立つ場所=大震災時に殺された朝鮮人の追悼のため椎の木が植えられたとある神社の敷地に、当初あったはずの13本に足りない9本を植え直すという目標を掲げる。団体メンバー13名の他は、野党国会議員一人、彼を論難しようとランニング姿で現れる自称現役自衛隊員(実は防衛省の幹部)。以上が「現在」の2つのストーリーを構成し、最後には合流する。
一方過去の事件の再現には総員がコロスとして関わる。劇中劇の仕立てが衝撃を緩和してもなお圧倒される事実の強さがある。

震災当時の流言飛語や自警団の行動には各地各様の形成があり、警察などの公的機関も小さくない影響を与えたのは通説どおり。この「事実」の記述が現在学校教科書から消え、ある勢力からは刑事訴訟よろしく「証拠不十分」を盾に無きものにされる昨今であるが、僅かながら残された記録や証言には、作為的に作り出し得ない「具体」ならではの感触がある。事実とは何であるか、それを共有する事が如何に困難か、考えさせられる時間であった。

R.U.R.

R.U.R.

ハツビロコウ

小劇場 楽園(東京都)

2019/03/26 (火) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

この年になってチェコの国民的作家を見出し喜んでいる。ハツビロコウには異色作でも、演目に興味津々。先日の「クラカチット」といい本作といいドラマの背景に相当程度の科学的知見が覗くが、彼はSF作家というよりは、科学の発達がもたらす生活様式の変化もさりながらその影響を被る人間の心理や反応パターンの変化を予言的に組み込んだ描写を施している。描く対象はリアルな人間であり、時代を先取りしたものだ。
彼を予言的な記述に駆り立てたのはやはり、(解説を読んだ訳ではないが)第一次大戦が示した科学技術の跳躍的進歩だろうと想像する。大戦開始時に空軍はなかったが、大戦中に爆撃機が飛ぶようになる。殺傷能力を拡大させた兵器により桁違いの死者、民間人の死者も出し、「未曾有の惨劇」という戦争のイメージはこの大戦からと言う。
その影からか本作も空想に遊ぶ娯楽の要素は小さく、警告のトーンが濃い。使役用の人造人間を製造する会社「R.U.R.」(最後のRがロボットの頭文字)が命名した呼称が人口に膾炙するのは、この作品が持つインパクトからだろう。原作戯曲を圧縮したハツビロコウ版は、簡潔に作品の要点を伝え、3幕3時期に分けてロボット発明以降の人類史的顛末を、孤島に存在するロボット製造工場の本部事務所で(原作指定通り)描いていた。
筆を入れたのは松本光生氏という。一人生き残った技師アルキストの最後の台詞など私がみた原作版より鋭く簡潔であったと思う。老いて朦朧とした彼は、ガルが最後に作ったというロボット2体(男女)の中に「人間」を見る。それは彼が「それを備えていれば人間である」と感じられるものが、彼らの中にあったという事。
始まりはロボットを人間が生み出した事で、ヘレナがその事への疑義を持ち込んだために事が歪んで行くが、それ以前に「ロボット以降人間は子を生まなくなった」という象徴的な事態が生じており、ヘレナがガルに頼んで魂を持つように作らせたロボットが人類を破滅的事態に陥らせたこともある必然の結末となっている。ところがロボット自身が自己増殖という欲求を持ったにも関わらずその方法を知らなかったため、最後の人間であるアルキストに方法を見出すよう頼み込んでいる。一方彼は自身の希望のため、地球上に生存者を一人でも探し出すよう彼らに言いつけているが、事態は絶望的である。先の結末は死を前にした最後の生き残りアルキストの自己納得ではなく、実質そこに人間が居た。彼らアダムとイブによって未来が開かれていく希望を彼は持ち、眠りにつく。そこには人間かロボットかという違いへの着眼はなく、ましてや人間同士を分かつあらゆる属性へのこだわりもない。人間とは何か・・アルキストの上に、この問いを刻んだ碑が立っていた。

水の駅

水の駅

KUNIO

森下スタジオ(東京都)

2019/03/27 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

「水の駅」初日の当日券抽選に並び、くじ運の無い身が引いた事のない一番を引いて不吉さにビビりながらも、ほくほく観劇した。
沈黙の劇世界を彩る音楽はジムノペティ。ゆったりビートのアレンジ、通常演奏、エフェクトで歪めたバージョンと出てきて、このまま同曲の変奏で行くかと期待したがそれはなかった。他は基本クラシックで3曲位使っていたろうか。無音の箇所との組み合わせで変化を付けていた。
場内は、森下スタジオの内壁そのまま見せ、雛壇客席と開帳場の舞台装置が対面し(普通の舞台・客席の関係)、その周囲に隠しは置かず、照明の影に目立つ事なく沈むのみ。開帳場のどん詰まり(頂点)が人の登場する所だ。その頂上ラインの右寄りから左手前へ斜め一直線に白い矢印が、通路のように書かれている。実際人は皆ここを通る。その斜めラインに沿って、中空には洗濯物干しのように綱が渡され、綱には小型の照明が下向きに吊るされている。左奥に粗大ゴミっぽい山。そして白い通路の真ん中あたりに、ちょろちょろ水の出る音を立てて蛇口が立っている。
・・と情景の説明をしたが、聴覚情報は音楽か無音、芝居は視覚情報に殆ど頼るしかない。が、前の席の頭が舞台手前中央に位置取り、視界を阻むので、声のヒントがないと重要な情報を見損ねる。二人組の時など双方の働きかけや、それとは別におもむろにわーっと大口を開けて叫ぶ所が幾つかあるが、これを見逃してしまう。情景が見えないと退屈で睡魔が襲うので、後半は割り切って「今観るべきポイント」を探って忙しく上体を動かすことになった(もちろん最小限に)。
あと、元の形式(太田省吾演出)を知らないが、多数の出演者から想像されるように恐らくKUNIO演出の特徴と言えるのは、開帳場の奥から「役」を担った人物が順次登場し、無言のドラマを展開し去って行く仕様である事。各人物の「動き」というコンテンツ(人物設定・関係性)の作り次第で、舞台の質が左右される、という作りである事だろう。舞台全体が志向するものは多分無かった。が、意外に「まじめに」作られた印象で、生前の太田省吾の教え子であった杉原氏が、師匠の遺したものへ現在の彼なりに答えを返そうとした舞台と感じた次第。舞踏に通じるスローな動きを基準にした点にそれは表われたが、しかし貫徹するものが見えなかった、というのは、トークに招かれた内田儀がうまく解説していたが80年当時はバブルへ走り出す時代、物事が過剰さを帯びて行く世相があり、太田氏はそれをそぎ落とす事に表現の目的を据えた。過剰なドラマ性(ドラマティック)が無くとも人の営みがある事を、それを超低速の動きに映し出そうとした・・。今回の舞台の中で「あ」と思うシーンが、それは何でもない役者の動きの中にであるが、あった。「この感じが本来この舞台が狙ったものではないか」と、風が頬に当たるように感じた箇所の一つは、後ろ向きの歩行であったと思う。迷いの無い動きであるが速度は遅い。過剰を削り取っていった人間の姿は、即ち「余計なもの」がなくても生きて行ける要素を備えた姿と言える。余計なもの、の中に文化は含まれようが、本来不要なものに依存したあり方を疑うプリミティブを志向する舞台は、緩慢さに徹し、シンプルさに徹する、という所にあったことだろう。対して杉原演出版は、基本を無言、緩急に据えながら時にスピーディにも動く。人間模様に多様さを持ち込む。そうなると「水」は何の象徴なのか、という疑問が(これも内田氏が述べていたが)残る。まさにそのような印象を私も持った。「水の駅」という伝説ありきの、レイヤーとしての舞台であるが、視覚的な「形」を似せるという継ぎ方も、あるのやも知れぬ。「面白ければよい」のである。ただし私の目には(席の問題なのか)シーンが数々ある中で関係性を読み取ることができず判らず仕舞いのシーンが幾つか残り(全て判る必要は無いと考えているが)、あるいは複数いた男女カップルの営みに差異を感じられず、それがそのまま「面白さ」の半減となったのは事実だった。
部分的には表現の面白さや巧さ、形の美しさ、情緒など楽しむべき所はあったし、太田省吾のかつての仕事について想像を及ばせる貴重な材料にもなった。

クラカチット

クラカチット

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2019/03/20 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団の長い「模索の途上」での新展開を見た感触があった。それだけに小屋が閉じてしまうのが惜しいが、言っても仕方ない。
「クラカチット」の原作を今回は読んで観劇した(正確には観劇までに読了しなかったが面白さは十分に堪能)。そうした理由は、原作の台本化の仕事を見たかった事と、舞台を記憶に刻みたかったから(知識ゼロで筋が追えないと印象が薄くなる)。その読みが当たったのかどうか、判らないが、面白い舞台になっていた。
通常制作に名前を連ねている小森明子が脚本・演出(過去演出経験有り)、自作戯曲も書く桑原睦が共同執筆。新作での演出を担っていた公家氏は演出補、出演。保守的に固まらず、集団力を開く方向性に期待感。そして原作・・めくるめくスペクタクルなイメージが1922年という時期に流麗な文字表現になっていた事の驚き。(1916年の米映画「イントレランス」を作者は観ていたかも知れぬ。が最も影響をもたらしたのは第一次大戦の衝撃ではないか。)
戯曲化は難しかっただろうがよく舞台化した、と素朴に感心した。
原作も「爆発」から始まる。主人公プロコプがその現場からフラフラと宵闇に沈む人気のない路上に彷徨い出、既に心神耗弱に陥っているが、この火薬専門の化学者が今しがた新型爆弾を固める処理を施して陶器の入れ物に入れた後、机に残った僅かな残り滓が、彼の仮眠中に凄まじい爆発を起こしたらしい事が彼の回想で分かって来る。だが彼の負傷と心理的ダメージがどれほどかが読者に判るのは、さらに続く暗鬱な長い夜が明けてのこと。意識朦朧の中で彼の頭に渦巻くのは、化学者としての探究がついに得た成果への思いと、それと裏腹にとてつもない発明を人に手渡してはならぬという怖れと自責の混濁した感情である。だが彼は懴妄状態の中ある女性と出会い情熱的使命感を沸き立たせる。彼のその後の歩みは彼がクラカチットと名付けた爆薬を巡る「外からの力」と、最初に女性と交わした約束という「内的衝動」の葛藤の物語と言え、それが変遷していく様はそれはそのまま人生の縮図と言えなくない。恋愛遍歴に示される下部構造と、爆薬に絡む「仕事」「使命」「政治」「軍事」を司る思想=上部構造との潜在的な葛藤を思わせ、一義的でない物語叙述に大作家の面目躍如を認めずにはおれない。
作者は色んな夢をプロコプの脳に登場させるが、これが絶妙に彼の身体のみぞ知る精神状態を反映するようで、そういう部分にも凄みを感じる。
彼が最初に見る夢は、彼がトメシュという女たらし(学生時代の同じ化学専攻の知己、路上で偶然再会し介抱された)の家で、彼を探すヴェールの女性の訪問を受け、不在の主人(トメシュ)への託けを頼まれた後、彼女が自宅に戻って「物」を持参するまでの待ち時間に見たキャベツ畑の夢である。尋常でない心身状態で彼は女のヴェールの奥に可憐さを認め、痺れに近い感覚を覚えるが、うたた寝の夢にそれが早速現われる。広い畑に並んだキャベツをよく見るとそれはぬめぬめと光る醜怪な顔で、遠くの方にヴェールの女性らしき女性がキャベツに襲われるのを見て助けようとするが、彼の体にもキャベツの手がまとわりついて動けない。身体的危機を知らせるようでもあり、彼女への思いを裏付けるようでもある印象的な箇所だが、アンサンブルの演出は最初の夢の後も、幻視や気分、象徴等の次元の場面で床から数人が顔を出すキャベツ人間を使っていた。
装置は一面の白。中央正面にアルミ光沢の巨大な細いリング、後ろにも一回り小さなリングが立ち、SFである。原作公表当時での仮想近未来であり、核兵器の発展史を正確に辿っていないから(当然だが)、SFの扱いは妥当。映像も効果的で、冒頭細いリングに色彩のある光が走るのは見事だ(映像の正確さもさりながら、リングが肉眼では完全な円形に作られていた)。
役者の演技にはアンサンブルらしい生硬さも見られるが、恋愛ドラマでもある本作。柔和さを要する役に引っ張られてか膨らみのある演技もあり、舞台の成功に寄与していた。

原子爆弾(ある意味そう名付けて良い)クラカチットの存在は科学(者)の倫理的責任を問う素材だが、話の本筋は「ある数奇な人生を送る事となった男の物語」である。原爆投下以後の時代、「原子爆弾」は仮想の話ではあり得なくなったが、原爆と相似であるが同一でない「クラカチット」は前人未到の破壊的発明の比喩・象徴と解釈もでき、近未来ともパラレルワールドの過去とも取れるフィクションが成立する。もっともクラカチットを生み出した誇るべき業績は、畏怖の対象としてプロコプの道程に通奏低音を響かせている。いずれにせよK・チャペックの予言的作品の多義的であるゆえの魅力に、正当にあやかった舞台である。

ネタバレBOX

広渡常敏という精神的支柱を失った事が如何に危機的か、という修飾語付きでこの劇団を知った私は、その故人の事を何も知らず、不安の面持ちで船出したであろう劇団の「その後」を十年余観てきた。包括的思想と具現力・方法論を持つ事が創作集団の条件ならば、リーダー亡き後の演劇アンサンブルは才能を見出だし育てる努力と、継承すべき「精神」の内実を模索する途上であり続けた、という事になるんだろう。それ自体ごく自然な姿な訳だが、新進劇団とやや異なるのは、ある種の評価と支持者を持つ集団として既に存在していた事。既存レパの遺産と新作挑戦の両輪が、時にギクシャクと軋みながらも前へと進み来たって今日なおを健在である事を単純に祝福したい。
競争原理に身を晒しながらも市場原理とは距離を取り、これに信頼して進む劇団である限り、私は見続けて行きたい。
「どろろ」

「どろろ」

人形劇団ひとみ座

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2019/03/27 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

ひとみ座は初観劇である。70周年記念で気合いを入れた公演らしい。「どろろ」が新作かどうか知らないが(仮に旧レパでも恐らく原作が流行った大昔のことで人形製作も含め新作に近い再構築に間違いない)、手塚作品の中でもこれは手放しの懐かしさ、買いである。
人形劇でも糸操りは一二度観たが、操り手が登場して体を使う方式は、「芸」として馴染みはあるが「劇」を観た事はなかった。今作「どろろ」は休憩15分を挟んで二時間半である。耐えられるものか心配もしたが全くの杞憂だった。
糸操りでは人形が上下の遠隔操作で独立して見えて来る秀逸さだが、こちらは役者が身を晒して声を出す動きも表情も、他の部位を支える補佐役の入れ替わり立ち替わる様子も、つまり「裏」=技術行使を丸見せしながら人形に魂を込める(より正確には見る側の想像を助ける)。人形の寸法も大きく、小劇場スペースでは十分。立ち演技をする不特定の農民等は面を付けて生顔を隠す。従って実物でないキャラクターに人格を託するアニメ声優的演技に寄る。だから筋立てが重要になる。
宮台慎司が自分にとって演劇即ち人形劇だ、というような事をどこかで言っていたが、リアリズムの彼岸にある様式が伝え得るリアルという事を思う。クナウカの演じ手と喋り手を分離する手法、また通常の演劇の方法の中にも人形劇モデルの効果を計算したものに時折出会っている気がする。
さて「どろろ」は傑作である。これを読んだ小学生時代既に手塚治虫の古典の部類だったが、興奮して読んだ物語が蘇り、深い感動に導かれた。
なぜこの物語の題名は「どろろ」なのだろう(「百鬼丸」ではなく)と素朴に思ったものだが、原作を圧縮したひとみ座の舞台で答えに行き当たった。(というよりコミックを読んだ小学生が漠然と出した答えを思い出させた。それだけ原作を最大限尊重し再現しようとした舞台と言える。)
初のひとみ座体験に少々興奮気味だが、気になっているなら観たが良し。子ども達が大勢客席に見えた事が嬉しい。

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