コーカサスの白墨の輪
東京演劇集団風
レパートリーシアターKAZE(東京都)
2019/04/03 (水) ~ 2019/04/07 (日)公演終了
満足度★★★★★
昨年の「記憶の通り路」以来、早くも「風」二度目の観劇の機会となった。演出はどちらも若手新鋭の江原早哉香だったが(今回カーテンコールで初めて目にした)、俳優の力量、持ち味は今回の舞台で見えた。中々面白い集団。ブレヒト作品の古典を、恐らく今回新演出かと思われるが正確な所は判らない。大小の人形を使い、飽きさせない演出だったが、「コーカサス・・」というブレヒトが書いた物語を飲み込み易く舞台上に再現させてくれたという印象。微妙~な存在であるアツダクの欲まみれかつ人間的な裁きに表わされるブレヒト的諧謔というか皮肉というか、清濁併せ呑んだ人間観、社会観が流れていて面白おかしい。人物を突き放した筆致に甘え気楽に見ていられるにも関わらず、鋭く突きつけるものがある。
休憩挟んで3時間近い舞台だが全く疲れなかった。(単に体調の問題かもだが)
ミュージカル『はだしのゲン』
Pカンパニー
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2019/04/03 (水) ~ 2019/04/07 (日)公演終了
満足度★★★★
小型ミュージカルが取るある様式にはめ込まれた舞台、最初は不自由に感じる。ある意味これは異化効果だらけの舞台ではないか・・・と。巨大な史実を前に「必死さ」の向けどころを俳優は探しているようでもあり、身体がリズミカルに元気に動くので窮乏感も疲弊感も出ない、とか。シンセで作ったいささか安っぽい音の音楽も含めて、役者の演技もリアリズムからは遠い「形」(悲しみや怒りは表現されるが表象・記号として作っているように見える)。画素数が高いのがリアリズム追及の方向だとすれば、これは思い切り低く設定したデザインという感じ。歌は真摯に歌われるが先述したようにシンセ音が「なんちゃって感」を出してるし。
だが仮そめの作り物だと割り切った形式の中に、胸をつくような印象的な場面が挟まれ、そこがえらく映像記憶に残る。
「はだしのゲン」の印象的な場面がなぞられていたが、ゲンの死んだ弟信二そっくりの隆太との場面など、漫画のニュアンスがうまく出ている。最も印象に残るエピソードの一つが、お金につられてゲンらが連れられた屋敷の一室に寝起きする蛆の湧いた体をもてあます元画家志望の男がゲンらに会って絶望の中にも元気を取り戻す話。そこで手にしたお金を持って急ぎ病気の妹にミルクを買って帰るのだが、被爆直後の惨状の中で唯一ゲンの心を温くした新たな命は今しがた奪われていた。原作にあったか記憶にないが、戦後「勝者」側となった朝鮮人である親切だった隣の朴さんと、日本兵となった朝鮮人が町で出会い、朝鮮民謡風の望郷の歌を切々と歌う。これらの場面は少なからず揺さぶるものがあった。
装置は場面ごとの持ち込みで、床は緩い傾斜で矢板を僅かな隙間を置いて縦に敷き、下からの照明を効果的に使っていた。
パラドックス定数第45項 「Das Orchester」
パラドックス定数
シアター風姿花伝(東京都)
2019/03/19 (火) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
上演履歴に見当たらず、企画の〆は新作?と乗り気でいたらもっと若気の作品という。それはそれで興味が湧く。
パンフjに「参考図書」としてフルトヴェングラー関連書の題名が見えた。二十世紀(前半)の最も著名な指揮者とだけ耳にしていたが、ナチスとのエピソードがあったと観ながら思い出した。史実が題材でもドラマ進行のポイントとなっているエピソードが史実をなぞっているかは不明。指揮者の名も呼ばれず、宣伝相とあってゲッペルスと書かれていないので相当程度フィクションが混じるとも窺えるが、楽団へのナチスの真綿で締めるような介入がうまく描けている。実際に宣伝相本人までが出張って言葉を交わしたかは疑わしいが。
オーケストラを描くのに演奏場面を出すかどうかは判断の分れ目になりそうだが、演奏どころか楽器を取り出す事もない(チェロなどは布でくるんだ中身は間違いなくフェイク)この舞台には違和感も不足感も覚えず、音楽と芸術について真正面から語った作品になっていた。
冒頭、袖で演奏を聴く指揮者の秘書、少し離れて鉤十字の腕章が見える制服姿。流れる演奏は古い音質からして恐らくフルトヴェングラー指揮の実際の音源で(クリアな音より余程いい)、緊張感が漂う。芸術を権力に利用し統制下に置こうとする力と、それに抗う音楽家(たち)、という単純図式でない配置もうまい。
戯曲中の出色は、良心的な存在として登場するチェリストに作者は「私は演奏が出来さえすればいい」と言わせる。だが彼の態度に「演奏すること」が即ち自分の良心に従う事である、という哲学が立ち上っている。これまで観た野木作品の中で、この最も若い時代の作品が最も老成し深みを感じさせた。
高名な指揮者が率いる楽団ながら、三分の一のユダヤ人演奏家が在籍するという状況が徐々に、やがてはっきりと桎梏となっていく。ある演奏会の開演間際にナチスが旗の掲揚を要求し、飲まざるを得なかった事に始まり、「敗北」を喫していく暗鬱の中、「私たちは演奏をしよう」と誰かが言う。この取り立てて何の飾りもない台詞に、虚を突かれた客は多かったろう。芸術を志す者たちへの敬意と静かな声援がひたひたと会場を浸すような感覚が作られた。「演奏をする」とは何か・・音楽家にとっての日常だろうか、それとも特別な何かであり、特別を担う者が芸術家であるのか・・。いずれにせよ「演奏をする」ただそれだけが希望であるような瞬間を作り得たことが、この作品の価値だ。
(劇団websiteによれば)初期作品の中には女性が登場する戯曲もまだあったが、やがて男一色の作品ばかりになったようである。本作は紅一点だが(演奏家に女性性を感じる部分もあってか一人という感じもしなかったが)、ドラマに丸みと膨らみを与えていた。
九月、東京の路上で
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2019/03/15 (金) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
一年以上空けての燐光群観劇。昨年1月の「リタイアメン」(清水弥生作、アジアとの共同製作)、燐光群ではないが3月の坂手洋二作・演出「ブラインドタッチ」以来だ。もっとも昨夏の「九月、東京・・」初演は完売で見逃した稀なケースで。。その話題作の再演は、「近い内に」との初演会場での約束通り実現し、鴨川てんしと中川マリの一人芝居との抱き合せ(こちらは観られず)と企画性にも配慮。半年後の再演とは燐光群としてはレアケースだが、客席はそれなりに埋まっていたとは言え満席には至らず、集客ダウンが見込まれたにも関わらず再演を決めた姿勢には(勿論個人的にも有難いが)敬意を表したく思った次第。
「九月、東京の路上にて」は関東大震災の朝鮮人(だけでなかったが)虐殺の足跡を広範に辿った原作著書のタイトルである。これには二重の意味がある。一つには著書に記述されたエピソードが再現される。この具体的な証言の力が、演劇的作為の中にあって作為を加えられない信憑性を持ち鋭い魅力を放っている。もう一つには、演者たちはこの加藤直樹著の現物を手に持ち、東京の「事件」現場を辿るという事をやる。エピソードはその「現在」に時間に挿入されて来る。彼らは有志で集まって世田谷区オリンピック対策何とか言う任意団体を立ち上げ、現場を訪れ議論をしながら「国際行事であるオリンピックに相応しい他国との向き合い方」を示すため、民間協力として今立つ場所=大震災時に殺された朝鮮人の追悼のため椎の木が植えられたとある神社の敷地に、当初あったはずの13本に足りない9本を植え直すという目標を掲げる。団体メンバー13名の他は、野党国会議員一人、彼を論難しようとランニング姿で現れる自称現役自衛隊員(実は防衛省の幹部)。以上が「現在」の2つのストーリーを構成し、最後には合流する。
一方過去の事件の再現には総員がコロスとして関わる。劇中劇の仕立てが衝撃を緩和してもなお圧倒される事実の強さがある。
震災当時の流言飛語や自警団の行動には各地各様の形成があり、警察などの公的機関も小さくない影響を与えたのは通説どおり。この「事実」の記述が現在学校教科書から消え、ある勢力からは刑事訴訟よろしく「証拠不十分」を盾に無きものにされる昨今であるが、僅かながら残された記録や証言には、作為的に作り出し得ない「具体」ならではの感触がある。事実とは何であるか、それを共有する事が如何に困難か、考えさせられる時間であった。
R.U.R.
ハツビロコウ
小劇場 楽園(東京都)
2019/03/26 (火) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
この年になってチェコの国民的作家を見出し喜んでいる。ハツビロコウには異色作でも、演目に興味津々。先日の「クラカチット」といい本作といいドラマの背景に相当程度の科学的知見が覗くが、彼はSF作家というよりは、科学の発達がもたらす生活様式の変化もさりながらその影響を被る人間の心理や反応パターンの変化を予言的に組み込んだ描写を施している。描く対象はリアルな人間であり、時代を先取りしたものだ。
彼を予言的な記述に駆り立てたのはやはり、(解説を読んだ訳ではないが)第一次大戦が示した科学技術の跳躍的進歩だろうと想像する。大戦開始時に空軍はなかったが、大戦中に爆撃機が飛ぶようになる。殺傷能力を拡大させた兵器により桁違いの死者、民間人の死者も出し、「未曾有の惨劇」という戦争のイメージはこの大戦からと言う。
その影からか本作も空想に遊ぶ娯楽の要素は小さく、警告のトーンが濃い。使役用の人造人間を製造する会社「R.U.R.」(最後のRがロボットの頭文字)が命名した呼称が人口に膾炙するのは、この作品が持つインパクトからだろう。原作戯曲を圧縮したハツビロコウ版は、簡潔に作品の要点を伝え、3幕3時期に分けてロボット発明以降の人類史的顛末を、孤島に存在するロボット製造工場の本部事務所で(原作指定通り)描いていた。
筆を入れたのは松本光生氏という。一人生き残った技師アルキストの最後の台詞など私がみた原作版より鋭く簡潔であったと思う。老いて朦朧とした彼は、ガルが最後に作ったというロボット2体(男女)の中に「人間」を見る。それは彼が「それを備えていれば人間である」と感じられるものが、彼らの中にあったという事。
始まりはロボットを人間が生み出した事で、ヘレナがその事への疑義を持ち込んだために事が歪んで行くが、それ以前に「ロボット以降人間は子を生まなくなった」という象徴的な事態が生じており、ヘレナがガルに頼んで魂を持つように作らせたロボットが人類を破滅的事態に陥らせたこともある必然の結末となっている。ところがロボット自身が自己増殖という欲求を持ったにも関わらずその方法を知らなかったため、最後の人間であるアルキストに方法を見出すよう頼み込んでいる。一方彼は自身の希望のため、地球上に生存者を一人でも探し出すよう彼らに言いつけているが、事態は絶望的である。先の結末は死を前にした最後の生き残りアルキストの自己納得ではなく、実質そこに人間が居た。彼らアダムとイブによって未来が開かれていく希望を彼は持ち、眠りにつく。そこには人間かロボットかという違いへの着眼はなく、ましてや人間同士を分かつあらゆる属性へのこだわりもない。人間とは何か・・アルキストの上に、この問いを刻んだ碑が立っていた。
水の駅
KUNIO
森下スタジオ(東京都)
2019/03/27 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
「水の駅」初日の当日券抽選に並び、くじ運の無い身が引いた事のない一番を引いて不吉さにビビりながらも、ほくほく観劇した。
沈黙の劇世界を彩る音楽はジムノペティ。ゆったりビートのアレンジ、通常演奏、エフェクトで歪めたバージョンと出てきて、このまま同曲の変奏で行くかと期待したがそれはなかった。他は基本クラシックで3曲位使っていたろうか。無音の箇所との組み合わせで変化を付けていた。
場内は、森下スタジオの内壁そのまま見せ、雛壇客席と開帳場の舞台装置が対面し(普通の舞台・客席の関係)、その周囲に隠しは置かず、照明の影に目立つ事なく沈むのみ。開帳場のどん詰まり(頂点)が人の登場する所だ。その頂上ラインの右寄りから左手前へ斜め一直線に白い矢印が、通路のように書かれている。実際人は皆ここを通る。その斜めラインに沿って、中空には洗濯物干しのように綱が渡され、綱には小型の照明が下向きに吊るされている。左奥に粗大ゴミっぽい山。そして白い通路の真ん中あたりに、ちょろちょろ水の出る音を立てて蛇口が立っている。
・・と情景の説明をしたが、聴覚情報は音楽か無音、芝居は視覚情報に殆ど頼るしかない。が、前の席の頭が舞台手前中央に位置取り、視界を阻むので、声のヒントがないと重要な情報を見損ねる。二人組の時など双方の働きかけや、それとは別におもむろにわーっと大口を開けて叫ぶ所が幾つかあるが、これを見逃してしまう。情景が見えないと退屈で睡魔が襲うので、後半は割り切って「今観るべきポイント」を探って忙しく上体を動かすことになった(もちろん最小限に)。
あと、元の形式(太田省吾演出)を知らないが、多数の出演者から想像されるように恐らくKUNIO演出の特徴と言えるのは、開帳場の奥から「役」を担った人物が順次登場し、無言のドラマを展開し去って行く仕様である事。各人物の「動き」というコンテンツ(人物設定・関係性)の作り次第で、舞台の質が左右される、という作りである事だろう。舞台全体が志向するものは多分無かった。が、意外に「まじめに」作られた印象で、生前の太田省吾の教え子であった杉原氏が、師匠の遺したものへ現在の彼なりに答えを返そうとした舞台と感じた次第。舞踏に通じるスローな動きを基準にした点にそれは表われたが、しかし貫徹するものが見えなかった、というのは、トークに招かれた内田儀がうまく解説していたが80年当時はバブルへ走り出す時代、物事が過剰さを帯びて行く世相があり、太田氏はそれをそぎ落とす事に表現の目的を据えた。過剰なドラマ性(ドラマティック)が無くとも人の営みがある事を、それを超低速の動きに映し出そうとした・・。今回の舞台の中で「あ」と思うシーンが、それは何でもない役者の動きの中にであるが、あった。「この感じが本来この舞台が狙ったものではないか」と、風が頬に当たるように感じた箇所の一つは、後ろ向きの歩行であったと思う。迷いの無い動きであるが速度は遅い。過剰を削り取っていった人間の姿は、即ち「余計なもの」がなくても生きて行ける要素を備えた姿と言える。余計なもの、の中に文化は含まれようが、本来不要なものに依存したあり方を疑うプリミティブを志向する舞台は、緩慢さに徹し、シンプルさに徹する、という所にあったことだろう。対して杉原演出版は、基本を無言、緩急に据えながら時にスピーディにも動く。人間模様に多様さを持ち込む。そうなると「水」は何の象徴なのか、という疑問が(これも内田氏が述べていたが)残る。まさにそのような印象を私も持った。「水の駅」という伝説ありきの、レイヤーとしての舞台であるが、視覚的な「形」を似せるという継ぎ方も、あるのやも知れぬ。「面白ければよい」のである。ただし私の目には(席の問題なのか)シーンが数々ある中で関係性を読み取ることができず判らず仕舞いのシーンが幾つか残り(全て判る必要は無いと考えているが)、あるいは複数いた男女カップルの営みに差異を感じられず、それがそのまま「面白さ」の半減となったのは事実だった。
部分的には表現の面白さや巧さ、形の美しさ、情緒など楽しむべき所はあったし、太田省吾のかつての仕事について想像を及ばせる貴重な材料にもなった。
クラカチット
東京演劇アンサンブル
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2019/03/20 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団の長い「模索の途上」での新展開を見た感触があった。それだけに小屋が閉じてしまうのが惜しいが、言っても仕方ない。
「クラカチット」の原作を今回は読んで観劇した(正確には観劇までに読了しなかったが面白さは十分に堪能)。そうした理由は、原作の台本化の仕事を見たかった事と、舞台を記憶に刻みたかったから(知識ゼロで筋が追えないと印象が薄くなる)。その読みが当たったのかどうか、判らないが、面白い舞台になっていた。
通常制作に名前を連ねている小森明子が脚本・演出(過去演出経験有り)、自作戯曲も書く桑原睦が共同執筆。新作での演出を担っていた公家氏は演出補、出演。保守的に固まらず、集団力を開く方向性に期待感。そして原作・・めくるめくスペクタクルなイメージが1922年という時期に流麗な文字表現になっていた事の驚き。(1916年の米映画「イントレランス」を作者は観ていたかも知れぬ。が最も影響をもたらしたのは第一次大戦の衝撃ではないか。)
戯曲化は難しかっただろうがよく舞台化した、と素朴に感心した。
原作も「爆発」から始まる。主人公プロコプがその現場からフラフラと宵闇に沈む人気のない路上に彷徨い出、既に心神耗弱に陥っているが、この火薬専門の化学者が今しがた新型爆弾を固める処理を施して陶器の入れ物に入れた後、机に残った僅かな残り滓が、彼の仮眠中に凄まじい爆発を起こしたらしい事が彼の回想で分かって来る。だが彼の負傷と心理的ダメージがどれほどかが読者に判るのは、さらに続く暗鬱な長い夜が明けてのこと。意識朦朧の中で彼の頭に渦巻くのは、化学者としての探究がついに得た成果への思いと、それと裏腹にとてつもない発明を人に手渡してはならぬという怖れと自責の混濁した感情である。だが彼は懴妄状態の中ある女性と出会い情熱的使命感を沸き立たせる。彼のその後の歩みは彼がクラカチットと名付けた爆薬を巡る「外からの力」と、最初に女性と交わした約束という「内的衝動」の葛藤の物語と言え、それが変遷していく様はそれはそのまま人生の縮図と言えなくない。恋愛遍歴に示される下部構造と、爆薬に絡む「仕事」「使命」「政治」「軍事」を司る思想=上部構造との潜在的な葛藤を思わせ、一義的でない物語叙述に大作家の面目躍如を認めずにはおれない。
作者は色んな夢をプロコプの脳に登場させるが、これが絶妙に彼の身体のみぞ知る精神状態を反映するようで、そういう部分にも凄みを感じる。
彼が最初に見る夢は、彼がトメシュという女たらし(学生時代の同じ化学専攻の知己、路上で偶然再会し介抱された)の家で、彼を探すヴェールの女性の訪問を受け、不在の主人(トメシュ)への託けを頼まれた後、彼女が自宅に戻って「物」を持参するまでの待ち時間に見たキャベツ畑の夢である。尋常でない心身状態で彼は女のヴェールの奥に可憐さを認め、痺れに近い感覚を覚えるが、うたた寝の夢にそれが早速現われる。広い畑に並んだキャベツをよく見るとそれはぬめぬめと光る醜怪な顔で、遠くの方にヴェールの女性らしき女性がキャベツに襲われるのを見て助けようとするが、彼の体にもキャベツの手がまとわりついて動けない。身体的危機を知らせるようでもあり、彼女への思いを裏付けるようでもある印象的な箇所だが、アンサンブルの演出は最初の夢の後も、幻視や気分、象徴等の次元の場面で床から数人が顔を出すキャベツ人間を使っていた。
装置は一面の白。中央正面にアルミ光沢の巨大な細いリング、後ろにも一回り小さなリングが立ち、SFである。原作公表当時での仮想近未来であり、核兵器の発展史を正確に辿っていないから(当然だが)、SFの扱いは妥当。映像も効果的で、冒頭細いリングに色彩のある光が走るのは見事だ(映像の正確さもさりながら、リングが肉眼では完全な円形に作られていた)。
役者の演技にはアンサンブルらしい生硬さも見られるが、恋愛ドラマでもある本作。柔和さを要する役に引っ張られてか膨らみのある演技もあり、舞台の成功に寄与していた。
原子爆弾(ある意味そう名付けて良い)クラカチットの存在は科学(者)の倫理的責任を問う素材だが、話の本筋は「ある数奇な人生を送る事となった男の物語」である。原爆投下以後の時代、「原子爆弾」は仮想の話ではあり得なくなったが、原爆と相似であるが同一でない「クラカチット」は前人未到の破壊的発明の比喩・象徴と解釈もでき、近未来ともパラレルワールドの過去とも取れるフィクションが成立する。もっともクラカチットを生み出した誇るべき業績は、畏怖の対象としてプロコプの道程に通奏低音を響かせている。いずれにせよK・チャペックの予言的作品の多義的であるゆえの魅力に、正当にあやかった舞台である。
「どろろ」
人形劇団ひとみ座
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)
2019/03/27 (水) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
ひとみ座は初観劇である。70周年記念で気合いを入れた公演らしい。「どろろ」が新作かどうか知らないが(仮に旧レパでも恐らく原作が流行った大昔のことで人形製作も含め新作に近い再構築に間違いない)、手塚作品の中でもこれは手放しの懐かしさ、買いである。
人形劇でも糸操りは一二度観たが、操り手が登場して体を使う方式は、「芸」として馴染みはあるが「劇」を観た事はなかった。今作「どろろ」は休憩15分を挟んで二時間半である。耐えられるものか心配もしたが全くの杞憂だった。
糸操りでは人形が上下の遠隔操作で独立して見えて来る秀逸さだが、こちらは役者が身を晒して声を出す動きも表情も、他の部位を支える補佐役の入れ替わり立ち替わる様子も、つまり「裏」=技術行使を丸見せしながら人形に魂を込める(より正確には見る側の想像を助ける)。人形の寸法も大きく、小劇場スペースでは十分。立ち演技をする不特定の農民等は面を付けて生顔を隠す。従って実物でないキャラクターに人格を託するアニメ声優的演技に寄る。だから筋立てが重要になる。
宮台慎司が自分にとって演劇即ち人形劇だ、というような事をどこかで言っていたが、リアリズムの彼岸にある様式が伝え得るリアルという事を思う。クナウカの演じ手と喋り手を分離する手法、また通常の演劇の方法の中にも人形劇モデルの効果を計算したものに時折出会っている気がする。
さて「どろろ」は傑作である。これを読んだ小学生時代既に手塚治虫の古典の部類だったが、興奮して読んだ物語が蘇り、深い感動に導かれた。
なぜこの物語の題名は「どろろ」なのだろう(「百鬼丸」ではなく)と素朴に思ったものだが、原作を圧縮したひとみ座の舞台で答えに行き当たった。(というよりコミックを読んだ小学生が漠然と出した答えを思い出させた。それだけ原作を最大限尊重し再現しようとした舞台と言える。)
初のひとみ座体験に少々興奮気味だが、気になっているなら観たが良し。子ども達が大勢客席に見えた事が嬉しい。
黄色い叫び
トム・プロジェクト
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2019/03/20 (水) ~ 2019/03/26 (火)公演終了
満足度★★★★
震災直後の「背水の孤島」が話題になった中津留氏の確かその次作、若手公演で上演された演目と記憶。トム・プロジェクトには珍しい会場、ホールの企画に参加した格好だろうか。民主党政権の「仕分け」が批判の的になったり帰宅困難者、計画停電といった「電気」に関係するワードなど時代を感じさせるが、今やる舞台としても堂々たる台詞劇だ。
中津留氏の近年の議論劇よりはストーリー中心だが、前半は会議風景だけに「議論」は交わされ、中津留らしい違和感ある台詞も(少なくとも2ヶ所)ありつつも、疵を補って余る骨太なドラマとして見た(違和感台詞を受け流す術を身に付けたのかも)。
宴もたけなわ。【当日券あり〼】
ひとりぼっちのみんな
王子小劇場(東京都)
2019/03/20 (水) ~ 2019/03/24 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年のSTスポット公演での初観劇の強い印象が王子小劇場にて破天荒路線で発展。文学少女的アンニュイがなりを潜めて。最初実はユニークな劇団名に惹かれて(近場のSTというのもあって)足を運んだが今では真っ当な名に思える。「みんな」をこの時代に生きるみんなでなく、劇団員、座組とすればすんなり、個々の顔(覚えてなくとも)と劇団の物語が浮上し、それを眺める不特定多数という構図。そう名乗れる資格を多数から獲得しつつあるという。。
まあ名の事はともかく..器用さと不器用さが独特に混在するグループだがそれを不問に付させるエネルギーと饒舌がある。舞台への明確なビジョン(または欲求)を持つらしい匂いが、私の関心に引っ掛かる。
前より客席数の多い王子小劇場で、芝居は縦横に動き回り、禁制かと思っていた男子も入り、福井夏という人物(主には同名の女優が演じる)の恋愛の足跡を奔放に舞台上に書きつけていた。
前回同様、テーマソングが2バージョンあり、ラストに2曲続けて総員参加の振付と共に流れ、ビートの効いたこれが意外に琴線を弾く楽曲。
汚れずに生きられない現実と、恋愛の中に花咲く清純との落差という大人計画が得意そうなドラマトゥルギーは自虐に寄ればブス会、元気で薙ぎ倒すのがひとりぼっち、等と取り沙汰される日が来るのかどうかはともかく、粗削りの中に光るものあり。前作と同じく恋バナに終始し、男女一対一となったシーンの実況中継(五七五ラップもあったけか?)など逐一覚えていないが、意想外の展開が客の退屈回避のアトラクションである以上に、本音の開陳となっていく所がこの芝居を正統なものに見せている理由。
ここまで紙幅を割く事はないか..。
空ばかり見ていた
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2019/03/09 (土) ~ 2019/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
岩松了作・演出舞台を初観劇。数年前の松井周演出「蒲団と達磨」、「市ヶ尾の坂」のドキュメント映像(市販DVD)、戯曲「テレビ・デイズ」も読んだが、岩松作品は戯曲と演出ともに目的を一にする印象があり(「書く脳」と「演出する脳」は違うとよく言われる)、岩松演出舞台を一度観たいと思っていた。
も少し岩松氏の印象を書けば・・社会派とは言われない「静かな演劇」の作家であり、自分の方法論と視点を明確に持ち、ルーティンのように作品を生み出せる職人の一人。時代に寄せる細波を敏感に感じ取り、そのインスピレーション即ち一片の細胞からクローン=劇世界を生み出す。役者への要求が人間の微妙な心理に及び、優れた俳優でないと務まらない・・そんな感じ。
舞台はその印象は裏切らなかったが、予想外な面もあり、それは意外に「静か」でなく躍動的でさえあり、まあ普通の演劇だった。ただストーリー説明は不親切(思わせぶりの時間も長い)、ただし私の見た所ストーリーは一応完成しており、小出しにして客を待たせる分だけ、役者が担う負担も大である。役者は十分やっていて人物を体現している分だけ躍動もあるが、それでもヒントは少ない。
ストーリーラインは、とある国(人の雰囲気は普通に日本っぽいが背景の植物は南方っぽい)の山中にある元学校のような建造物を拠点にして、「反政府軍」的グループ(の支部?)数名が武装ながらも日常性豊かに暮らしている。「戦闘状態」を表わすのは敵軍の存在でなく(捕虜は居るが彼らでもなく)、兵士らの「戦闘意識」である。
時々ヘリが通過し、対立する勢力との間の戦況も緩やかに進行する模様。部隊員の他、二人の捕虜、保険外交員の女性(営業に来る)、若い兵士の母親(差入れに来る)が行き交う。
過去何が起きてどういう経緯でどんな勢力図となって今こうなっている・・といった説明は台詞の端に上らない。常態化した対立関係の中で生きる事、にまつわるあれこれ(恋愛も含まれる)を徹頭徹尾個々人の「あり方」から描き出しており、関心の眼差しは人の「あり方」にあるという感じである。
架空の世界では、今の日本で一般的でない要素が強調されている。即ち、己と公との間に生じる大義、上下関係に流れる忠義・信頼、また不信。そこに様々な欲望が絡む。
発する言葉には必ず動機があり、言動は相手に影響を与え、思考や行動を引き出す。時にそれは考え方と態度の変化をもたらし、人はそれを喜びまた失望する。失望はその代償を求め、思わぬ行動へと駆り立てる。死への恐怖を押し殺すため享楽を愛す者、使命感を持ち続けようとする者・・。人と人の絡み合いの曼荼羅模様が私はよく作られていたと思う。
そこはかと流れる憂い、戦いに倦んだ身体、それをおチャラかすような女性の存在との対比など、絵としての美しさがあった。
母と惑星について、および自転する女たちの記録
パルコ・プロデュース
紀伊國屋ホール(東京都)
2019/03/05 (火) ~ 2019/03/26 (火)公演終了
満足度★★★
普段なやり取りの中に微細な心理表出の契機を書く蓬莱竜太作、だが栗山民也演出の味か、コメディ演技な要素のある二人(鈴木杏・田畑智子)を追うのが大変。結構な傾斜のある開帳場、ステージ高もある紀伊国屋ホールでは前列端の席は確かにつらい条件である。そこへもってきてこの日は序盤でハプニングがあった。開帳場の中腹あたりが「自宅」と「スナック」の場転のための可動式の台になっていて、自宅場面で出ている卓袱台が、最初に引っ込む際、台に乗っていない足があったらしく何かくるくるとお洒落に回転していると思うとガラガッシャーんと食器類ごと落下してしまった。この音たるや破壊的で、ちょうど場転で三女(芳根京子)が客席に向かって語る最中、一所懸命な喋りを彼女はストップさせる事なくペラペラと喋り続けるので全く台詞が入って来ず。おもむろに現れた「お店」の簡易セットと共に母(キムラ緑子)が登場するも、このお芝居のルール説明も兼ねている序盤では「つなぎ」を失敗し、酔った姿のインパクトもわざとらしく見えてやはり台詞が入って来ず、わあわあと騒ぐ長女(田端)次女(鈴木)も、母のいる時間との関係性が把握できず、続く台詞の数々が全く意味不明という時間が暫く続いた。この時点で「金返せ」という気分に満たされ、今後の展開でどれだけ回収できるか?と考えた程だ。
後から「もし席が違ったら」と想像してみたのだが、舞台上の失敗というのは常にあるものだが、俯瞰できる場所なら卓袱台の奇妙な動きから「転落」は予測の範疇となり、「ああやっちゃったな(うっしっし)」くらいに受け流したのではないか。それが見えづらい席の目線では、まず「お洒落に回転する卓袱台」に目が行き、見えなくなって破壊音が鳴った時点でもまだそれも芝居に含まれる可能性を考え、いやそうではないと打ち消すまでに結構時間を費やしている。役者の声はガンガン聞こえているが頭の上を通って行く。事ほど左様に芝居というものは言葉だけでなく身体、ミザンス(立ち位置)全てで表現されるものもあり、「見えづらい」というのは(同じ料金なのに)結構なハンディであった。とりわけこの芝居のような、言葉にしない部分、表面に見えない部分を語るような繊細な芝居を観る場合には。
そんな事で、前半は役者の芝居全てが「ミスを取り戻そうとする誇張した演技」によるリアルもへったくれも無い芝居にしか見えて来なかったり、頭の修正機能では歯が立たなかったが、第二幕、役者も心をリセットしたことだろうと信頼し、身を委ねた。新劇出身栗山式コメディ調(こまつ座に多い)がわざとらしく感じる部分もありつつ、この芝居は母が生前行きたいと言ったらしい国(中東っぽい)へ三姉妹が母の骨を撒きに来た時間が「現在」で、道行の過程で母との回想シーンが挿入してくる構造でそれ以外の要素はないと判った。三姉妹それぞれの母との一対一の場面は酷寒の地で無風の湖水を眺めるように、研ぎ澄まされリアルである。このリアルはキムラの演技に過重なほど依存しており、凄みがある。初演の斉藤由貴の母は恐らく「男を変える、それを隠そうとせず自分を貫こうとする」女性そのままのイメージを当てたに違いなく、女長女次女二人のコメディ演技(といっても通常これが大舞台での平均的リアリズム演技だろう。純粋リアルな演技と比較しての事だ)との取り合わせは自然であった事だろうと想像する。どちらが良いとは言えないがキムラの演技が突出してみえた結果は否めない。初演と変わったもう一人、三女役芳根の特徴はよく知らないが、一般に苦労を知らないと言われる末娘のイメージを覆す中心的エピソードでの役割を果敢に演じていた。
親という理不尽な存在を、受け止めていく成長の過程が描かれている、と言ってよいドラマだが、特に三女エピソードの渦中(過去)と、当人が居ないその後(旅の途上)で娘らにとっての母親の像が変貌する(蓬莱だけに微細なのだが)様は見事というしかなく、微妙なラインを演じたキムラは初演で作られた自然な関係性に挑み、捻じ伏せた勝利者とも言えようか。
しかし・・旅の終焉に至り、語りの中で序盤で触れたらしい台詞(伏線)が出てくると、「ああここで芝居は全てを整理して収まるのだな」と、最初に水面下の流れを読み損ねた自分は置いてけぼりを食う。後は想像で補うしかないが、私の逞しい想像力?にも限界があり、結果的には中抜け感の残る観劇となったのは事実である。
終演後、何らかの釈明でもあればと思ったが、何もなかった。その事には無力感がよぎる。商業につきまとう「責任」の問題では近年は消費者劣位の状況が作られつつあると感じているせいもあるが、規定の商品を提供したとは言えますので・・とでも説明されそうで苦い味が残る。劇の評価とは別物とは言え結果的に感動は薄れた。私の周りの多数が(恐らく芝居を掴み損ねたせいだろう)寝ていた。
事故への対処はある。まず芝居を止め、客にこれは予定外の事態である事を共有してもらう、そのちょっとした時間をもらい、芳根が語りをやり直す。芝居は損なわれないどころか、失敗を克服して芝居を成立させようと、観客は能動的・協力的な観劇態度を示すはずだ。不慮の事故は身体がそれに反応するのが自然で、そういうリアルな存在を観客は信頼する。その信頼に値する身体が、気を取り直して芝居をまた続けて行く態度を応援しない客がいるだろうか。芝居中それが出来なかったとしても、終演後、「そのこと」について作り手が感知していることを示すだけでどれだけ報われるか。主催者に言えという話ではあるが。
伯爵のおるすばん
Mrs.fictions
吉祥寺シアター(東京都)
2019/03/20 (水) ~ 2019/03/25 (月)公演終了
満足度★★★★
吉祥寺シアターの後方席がどうも苦手でこの日も開演ギリギリ到着、これは居眠りかと心配したが、予想に反して指定席しかもこれ以上ない良席であった。
この長さをMrs.fictionsがホントにやるのか...上演時間2時間50分を知らせる貼紙を見て思わず訝ったが、終わってみればMrs.fictionsらしい(と言っても数えるほど回数、否、分数見ていないが)ウェルメイド志向の舞台である。開幕前から布の映写幕に数字が刻まれ、三桁から四桁台、千数百と来れば「伯爵」のいそうな年代、西暦だと悟る。明転するとタイトルの「伯爵」の一般的イメージに相応しい西洋式の邸内である。全く先の読めない始まりから徐々に法則的なものが見えて来てもなお予測は裏切られ、観客の連想速度が上がって終盤は追走劇並に加速といった感じ。
さて物語の方は伯爵年代記という趣向で幾つかのエピソードが時系列に展開。主人公を除いた登場人物がその都度変わるが、前に出た役者は出て来ず新たな俳優の顔見せと相なる。この形式の芝居ならヒロイン以外の脇役には同じ役者の変わり身を楽しむのが定番と言えるが、敢えてそうしなかったらしい。
開演中につき詳細に触れないが「各場面は芝居全体のために、芝居全体は各場面のために」との精神を折り目正しく守りつつ「メッセージのため」への目配りもしつつ、芝居好きが作った芝居ありきの芝居だ。(これをどう解釈するかはお任せ)
キャンパーズ シークレット
Oi-SCALE
サイスタジオコモネAスタジオ(東京都)
2019/03/19 (火) ~ 2019/03/24 (日)公演終了
満足度★★★★
初の劇団を、数年ぶり二度目のサイスタジオで。密かに期待を膨らませていたがその理由は今思えば(以前来た時の朧ろな印象だが)作り込み自由で逆に大変そうな空間(一から仕立てなきゃならん)、既成のやり方に囚われない人達・・そんな連想をしていたらしい。
私の勘違いはOi-SCALEをもっと新しい集団だと思い込んでいたことで実は10年選手である。想像(勝手な想像だが)に反して時系列に進む比較的折り目正しいストレートプレイであった(ただし奇想な要素はある)。であるので、劇団色を明確に感知するに至らなかったが、展開や舞台処理に独特の筆致がある。作・演出の林氏が主要人物として出演もし、毎回なのか今回いきなりなのか型破りな手段も使い、しかし処理にはこなれた感もある。が一定レベルの劇団公演にしては(台詞量に比して)役者の噛みがやや見られ、本の上がりの問題か、稽古がうまく組めなかったか・・色々想像した。ストレートプレイとは言え組み立て方が見えない分、想像の羽が伸びる。
さて入場すると四角の舞台エリアが真ん中にどかんとあり、闇ではなく星明りの下に沈んでテントその他のキャンプグッズの数々が見える。エリアを囲むように客席があり、メインの正面に二列、サイドはメインに近い方から10席程度、一列。各自の席までは舞台エリアと客席を区切る低い塀の内側を歩く。キャンプのエリアに踏み入る感覚。林氏の語りからぬるっと芝居に入っていく。
青春謳歌した「あの頃」から20年経ったというから恐らくは今やアラフォーとなった仲間が集った、その物語を縦糸に、キャンプ場関係者やたまたま行き逢った人らが横糸に絡む。キャンプあるある的なマニアックな会話が効果的に挟まれ、キャンプ好きである林氏だけにディテイルに信憑性が生まれている。作劇の端々にちりばめた具体イメージがおいしい。
ただ、創作の出発点にあるのだろうと推察される「時間」への慨嘆、記憶の甘味さといった概念化・言語化の困難な感覚的要素を、軸に据えようとしている印象で、これは演劇としては難物に挑戦しているという他ない。そこから踏み出した後、本当は物語はさらに続いていくものではないか、などと考える。登場人物全てが十分に役割を遂げる作りになっているとは言えない憾みもある。
しかし都市生活者にとって「見なきゃ分からない」範疇である、山の夜がもたらす言葉にならない何か、例えばそれを探る感覚的思考を促すものは、このキャンプ場という設定、作り込まれた風景そのものにある。
三人の姉妹たち
タテヨコ企画
小劇場 楽園(東京都)
2019/03/14 (木) ~ 2019/03/24 (日)公演終了
満足度★★★★
たまに観るタテヨコ企画を前作「美しい村」に続いて観劇と相なった。前作や以前観た作品に比べ、ナチュラルに「通った」芝居である。一味変わった事をやる、という個性を追求する集団であるとすれば「普通」に落ちた、という表現になるのかも知れぬが、俳優力を感じさせた舞台であり正統なものだ。タテヨコ所属俳優も中々だと感じたが、チェーホフの三人姉妹が時折重なって来る大きな貢献として客演・岩崎正寛氏の長男役があった。研究の道を進んでいれば今は名を挙げていたろうに、、と周囲から言われるが当人は片田舎での日常の刹那的享楽に埋没している。「田舎で腐って行くイメージ」「都会への憧れ」は日本の地方生活のモチーフであり社会経済構造と精神性・思想性の卑近な表れだ。特に「三人姉妹」を意識せず見たのが良かったのか、あの作品の空気感が風のようにふと香ってくるのが効果的。
静物画
青春五月党
北千住BUoY(東京都)
2019/03/15 (金) ~ 2019/03/17 (日)公演終了
満足度★★★★
(大幅修正)前知識を求める事は殆どないが、知識も何もあの柳美里である。そして福島の高校生の出演、初めてとなる北千住BUoY・・払拭しても付いてくる色で先入観まみれの観劇だった。自分が三十分早く来場していた事に席に収まってから気づいたが、暖色照明を受けたステージ奥をぼんやり眺めながら、柳美里の足跡や福島の事を思い巡らしていた。演技エリア(教室の机・椅子が置かれてある)のさらに向こうに、BUoYの特色らしい元浴場を壁の(富士山の絵でなく)見事なレリーフごと残した空間と、湯船から突き出た潅木が褐色に浮かんでいる。つまりかなりの奥行きになっている。潅木は持ち込みであるから何らかの意味を持たせている、とすれば教室の外、つまりグランドを表す目印か。潅木は桜の木の記号・・時々紙の花が舞っている。
記憶を遡ったが柳美里の小説は一冊も読んでいない(映画化された「家族シネマ」はみた)。演劇との所縁はもっと後に知ったが、戯曲を一つ読んだだけ。それでも20代から知る同世代(多分)の存在は頭の片隅に居座っていた。小説の道を見出す手前、出自である在日家族のあれこれを、それに圧殺されないための防衛手段のように舞台に投げ込んでいたに違いないと想像されるその時期、即ち彼女の生涯年譜の時期区分を示す名称が、私にとっての「青春五月党」。言わば符丁に過ぎなかったこの劇団名が現実に姿をみせるとは。。
さて舞台に立つのはふたば未来総合高校の演劇部(演劇科?)の生徒たち。私の観た回は女子バージョン。十代の子が舞台上で驚くべき臨場感を持つことがあるが、この舞台も例に漏れずである。広義の現代口語演劇の範疇。ただ演劇チックな演技を回避できたナチュラルな身体は、正直を旨とし、気持ちに馴染まない台詞は小さくなる。役者を自負する俳優であればどうにか正当化して明瞭に発語するだろう。だが彼女らの武器はこのナチュラルさ、というより存在そのものである。
小学校低学年で震災を体感した彼女らが、ふと3・11について語る言葉・声の疑いようのなさは、役者が十人束になっても作れそうにない。描写力がある、のではなく身体そのものが媒体となり、当時の事と、その時から現在へ彼女らが船となり船荷に運び来った「それ」が、観客の中に「当たり前のように既にあったこと」であるかのようにスゥッと流れ込んで来る。
構成面の拙さは否めない。言葉の静かな力が劇的に表出した後、同種の展開が反復されたりするのが勿体ない。構成とは時間上の場面配置という事になるが、配置を決める根拠となる何か、演劇の形式特有の原理があるのに違いない。
この舞台に登場するのは高校生の俳優の他、多摩高合唱部のメンバー。彼らが歌う讃美歌は冒頭で音だけが流れるが、姿を見るまでは大人のプロの既存音源を使ったのだろうと思った。ラストではステージ奥に登場し、同じ讃美歌を歌った。防護服のTAICHI企画5名のヒト形ビニルのパフォーマンスが異化をもたらしていたが、原発事故の象徴的イメージは本体ドラマとは一定距離を置きながらもドラマの通奏低音に共鳴し、不思議なマッチングだった。これら協力出演と、協力スタッフ、彼らと共に一介の客もまた、このプロジェクトを、というかこの舞台を、暖かい心で支えたい気にさせる何かが、エーテルのように場を包んでいた。あくまでそれは極私的な、私固有の感覚であった可能性は高いが...。
平田オリザ・演劇展vol.6
青年団
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了
満足度★★★★
「オリザ演劇展」の感想ラスト「忠臣蔵OL編」。AそしてBを観た。Aは天明瑠璃子のご家老(大石内蔵助)がすっとぼけてても何か知らん説得力で最終的に集団を方向付けていくリーダーシップ、最後に「これって運命でしょ」の決め台詞で一同納得。Bは、Qの破壊的演技しか知らない永山由里恵と、笑ってる芝居しか知らない川隅奈保子を見たく観劇。永山は割とマトモだった。ご家老役森内女史はカリスマというより販売系叩き上げ支店長、責務を果たす中間管理職のトーンで存在し、それにバランスするのが取り巻く面々、横の影響のし合いが作った空気感が良かった。要は個々の存在の信憑性に関係するもの。江戸中期の赤穂藩の状況にOLのテイで対峙する荒業が通るミラクルは、同作品を見慣れたせいだけでもなさそう。
ただ袴姿の男がやる「武士編」に比べ、伝えたい何か(平田氏は「伝えたいものなどない、表現したいものは山ほどある」と言うが)の明確さが問われる。戯曲の「無理」を通せた優れた布陣(運が良かった回)ならともかく、そうそうリアルで濃密な芝居にはならない以上、伝えたいものを受け取るという観客とのコミュニケーションが舞台の価値を担保する事実は否めない。そこを抜かすと、舞台は役者力を評定する場という意味に寄ってしまう。複数チームの上演なら、役者力の競技の場というゲーム性を持つが、意味合いは同じだ。青年団、平田オリザ戯曲に限ったことではないが。
しかし層の厚い青年団ならではの祭典、今後も続けられたし。
地球ブルース
不思議少年
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/03/14 (木) ~ 2019/03/17 (日)公演終了
満足度★★★★
アゴラ劇場でまみえた地方劇団の一つ。昨年度は「棘/スキューパ」二本立てでその内長編の方に今度の芝居は似ていた。古びた柵に囲まれた苔むしたよな屋上のリアルなセットがよく、一人の孤独な生に連想を繋ぎ止めつつ、前作より入り組んだハチャメチャ芝居に必要な重しを与えていた。ユニットの大迫、森岡コンビに二人加わり、ある一人の女性と一人の男性の人生をタイムリープしながら役を替え替え四人でスピーディに演じる。
前作は一人の女性だったが今作は男女、そこにもう一人の男が絡んだり、とにかくタイムリープでの「やり直し」を繰り返す芝居なのだが、ヨーロッパ企画のようにさんざ散らかしてきっちり回収する(それを使命とする)事はない。
冒頭、屋上の出っ張りに突っ伏して寝た女性が目覚めると「あなたは死んだ」と三人の木の精(気のせい)に告げられ、現実遊離した話をこれから見せられるのだと早々に判るが、悲愴感の無さに「観てみようか」という気になる。白ける間もなく客を運ぶ技術は長けている。
ただこの哀れな人生をいじくって宇宙的な話に展開する芝居は、不思議少年のカラーとなるのか、たまたま前作と重なっただけなのか。
話は飛ぶが、連想したのがいつかテレビだかでやっていた「循環コードのヒット曲は一発屋で終わる」の実証コーナー。不吉な事を言うようだが、この循環コード(典型はパッフェルベルの「カノン」)の曲は、演劇で言うところのちょっと甘くキャッチーで予定調和的で、さほど不幸でない人生にフォーカスし特別扱い、肯定するよくあるパターン、これに私の中では通じ合うものがある。循環コードの曲は「それっぽい」形を与えてくれるが温い。タイムリープを使う時点でその轍に足を掬われる危険があるが、今作はそれを辛うじて回避した、代わりに話の筋が犠牲になった。そんな印象だ。演出・演技的手腕の引き出しを、地に足の着いたお話で発揮させてみてはどうか。とは、役者・森岡光の更なる深化を願っての希望。
わたしとわたし、ぼくとぼく
劇団うりんこ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/01/24 (木) ~ 2019/01/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
アゴラ劇場でのうりんこ観劇は二度目。もっとも劇団うりんこは作・演出外注で、「子供が見るも可」な作りである事を除けば芝居は作・演出者にむしろ帰属する作品と言ってよい(「うりんこ」は器である)。
今回もその感想が当てはまる、作演出の関根信一氏ならではの舞台である。先般久々に見たフライングステージ同様、蔑視される側に置かれた人間が偏見という壁を越え、人と繋がる喜びを支えに歩み出すまでに昇華するストーリー。淡々とした構成ながら行間に凝縮されたものが溢れ出てくるようで、胸を熱くした。
世界は一人
パルコ・プロデュース
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2019/02/24 (日) ~ 2019/03/17 (日)公演終了
満足度★★★★
四畳半から宇宙を見る的バイバイの劇世界を、大舞台と著名役者、音楽コラボという従来とは異質な条件の中に見事花開かせていた事に感服した。岩井氏をアーティストと認識した舞台。ただし彼の終生持ち続けるだろうモチーフに真正面から、脳ミソを総動員して恐らく結語に到達しなかった。描いていく先が曼陀羅に見えたのではないか、飽和状態になった岩井氏の脳内を想像した由。それでもこの世界に浸った幸福感は大きい。過去作「ポンポン」に見た子供世界の大人顔負けのシビアさ、瑛大、松尾、松、それぞれの人生の(つまり生き方の)形、人間としての形が、歪にゆがんでしまう過程が露悪でなくよく判り胸に落ちて来る。
「なむはむだはむ」でしか知らなかった前野氏の音楽だが起用に納得。