tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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バウンス

バウンス

イデビアン・クルー

世田谷パブリックシアター(東京都)

2025/02/21 (金) ~ 2025/02/23 (日)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★★

この舞台も刺激的だった。格好良く、コミカルで、人間模様の隠喩が満載。音(楽)、台を組んだだけの舞台も風景に見える。秀逸。

ボンゴレロッソ 2025

ボンゴレロッソ 2025

A.R.P

小劇場B1(東京都)

2025/02/19 (水) ~ 2025/02/25 (火)上演中

予約受付中

実演鑑賞

満足度★★★★

2度目のA.R.P.は前回と打って変わった物語のテイスト、絵柄(出演陣)。興味深く拝見。

ネタバレBOX

タイトルに「2025」とあるし過去作の再演なら劇団の特徴を表す作品かな、と想像逞しく劇場へ赴いたが、女性ばかりの元JKの同窓会のお話。語り手である二十歳そこそこの店員が三十歳になる店長が今日まさに同窓会を開こうとしている事を紹介。18年前憧れの教師(当時25歳位?)に告って交わした約束「30歳になってまだ自分を好きだったら結婚してやる」を実現するイベントとしてこの会を持とうとしており、舞台はその会場となる自分が店長をしているイタリアンレストラン。この設定が二人の会話で説明され、いよいよ同窓生が集うのだが、暗転の都度2,3人ずつ舞台上に現われ、近況報告がてら人物紹介、何度も暗転があって結局(主人公を除いた来訪者)12人が舞台上にひしめく。この人数の多さにまず笑ってしまう。
中心的なストーリーは、入院して来られなくなった先生のために、当時情熱をかけた文化祭でのパフォーマンスを再現する(バンド&ダンス)というもの。そこに立ち塞がるのが、メインボーカルだった優等生(同窓会の音頭も取った)の失踪(劇中では早々に仄めかされる)。その発覚が発表当日である(先生には配信で届ける段取り)。その背景である一人の元JKの高校時代から現在までの半生に分け入る事で、皆が空白の時間を共有する按配である。
さてこの劇では個人的に追求に値するテーマと考えている「音楽との融合」(音楽も演技もライブ)への挑戦があった点で心踊るものがあった。文化祭で披露したブルーハーツのある曲が最後に演奏される事は読める展開ながら、次第に焦点化されるその場面がついに到来し、ギター、ベースにはアンプを通して実際に演奏を披露する事となる。曲の中盤からダンスも加わり(演奏チームとダンスチームが人数的にほぼ半々)、「文化祭」の再現はドキュメントな要素を帯びる。(私的にはもっと生々しさ=ドキュメント性を濃く味わいたかったが、これは冒険である。)
演奏技術の巧拙はともかく(曲の情感を伝えるレベルではあった)、この挑戦には好感であった。
かしましい女子芝居、の範疇ではあったが、このサイズの芝居でこの人数(!)を巧く舞台上に配し、成立させていた。

願わくはこの作劇の着想の部分「18年前の教師と生徒の口約束」を本気にして今その時を迎えようとする女子、という「夢見がちな少女」キャラが夢潰えた時にどう変化するかも、人間ドラマとしては描いてほしかった。「ズベ公」とディスられ、反省する、という笑いオチになっていたが、彼女の「夢」が何か別の事情を回避するためにかこつけた代償であったとしたら、向き合わない不誠実、昔の恋を引っ張り出して来た(長い手紙を教師に送った)迷惑を「反省」、という事はあり得るだろうけれど、夢見る事は(子供っぽいと突っ込まれようと)全く悪くない。
また生意気な語り手が最初に「本当の主人公はこのズベ公の店長ではなく、こっち(失踪した女性)」と紹介した深刻な方の人物は、文化祭で彼女にこの歌を歌わせる事に先生がこだわった理由であった曲の歌詞(仮面を付けて生きる苦しさから解放されよと促す)を18年越しに受け止めたが、その場で笑顔になるハッピーエンドよりは、各人が三十路にあっても感じる人生の哀感と共に共有する、といったラスト、そこからの踊り!・・と行きたかった。単なる好みと言われればそれまでだが・・。
美しい日々

美しい日々

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2025/02/11 (火) ~ 2025/02/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

見応えあり。
新国立の研修所公演は結構観ており意外に(?)当たり率が高いのだが、本作も「観に来て良かった」と初台を後にした。今期研修生の発表は二度観られた。先日の岡本健一演出「ロミジュリ」は有名戯曲の料理法=演出が攻めており、俳優らは古典世界を生きるよりは現代性を体現する素材として懸命に立っていた印象だった。「争い」の本質にこそ瞠目すべき、との明快な演出だった。
これとは打って変わって今作では、人物の存在を観察・凝視される現代口語演劇の登場人物として舞台に立ち、別の難課題にしっかり組み合っていた印象。松田正隆の初期戯曲?(ちゃんと調べてないが)と言われると分かるのは、他の代表作たちが徹頭徹尾リアルな現代口語演劇であるのに対し、象徴的・脳内風景とも見える場面が劇進行に介在している。そして十分魅力的な戯曲である。(演出は研修所で三度も取り上げたという気持ちは分かる。)
二部構成。前半は都会の一隅、木造アパート(台所は共同)につましく住まう互いに知らぬ間柄の二組の人間模様で、第二部へと向かう第一部のラストは貧しい兄妹が住む部屋での殺人事件(そうであったとは二部ではっきり分かるが)。一方の独身男が住む部屋では別種の破綻がじっとり進む。戯曲か演技の的確さか、新居の話さえしている婚約者との決定的破綻の原因が、後に能天気な元生徒(昨年まで教師だった男を慕う)がわざわざやってきて読み上げる「観察記録」によって「性生活」にあったことが暴露されるのだが、その前段で既に「それ以外にないよな」と観客は確信している。仄めかしとそれへの言及。男の「不全」又は「それの物足りなさ」がアイテムとなる物語はどの時代にも在るが、この時代におけるそれは救いの無さの象徴として十二分に機能する。
そして男が友人に弟の実家に身を寄せると言った九州の田舎の広い家の居間が、第二部の舞台。田舎が持つ開放性(自然に開かれている)と、この家の特徴だろう「人間の良さ」が、都会の毒を舐めた人間の躓き、傷を逆に浮き上がらせるが、悲観に飲まれそうな主人公たちが、どこか清々しさを湛えている。その微かな希望のようなものに胸がざわつく。

ネタバレBOX

冒頭から暫く、ロミジュリ等で求められる「過剰さ」の演技の残滓があり、現代口語演劇の俎上に乗りづらい感覚を覚えていたが、物語の進行に従い気にならなくなり、「それが正解だった」とまで言えるか分からないが、人物の等身大の心情が理解できた。
ヨゴレピンク

ヨゴレピンク

スラステslatstick

駅前劇場(東京都)

2025/02/19 (水) ~ 2025/02/26 (水)上演中

予約受付中

実演鑑賞

満足度★★★★

松本哲也作品は久々になる。行間に語らせる戯曲を書く特徴はあったけれど、今回はまた独特な世界。不思議な世界。特徴ある役者たち共々に、好物であった。
熟年縛りの婚活パーティの参加者男二人女二人、無対象で手前側にも参加者がいる設定のようで俳優らが正面を向いて椅子に腰掛けて並ぶ。右端の男は他が自己紹介する度に小さなカメラで構え、向かい側に気を遣いながら写真を撮る。後で彼は「カメラマン」だと紹介される。司会であるコーディネーター合わせて6人の芝居。無対象の人々がいる、という事もあるが、舞台上の余白、時間的空白で妙な間が生まれのがいい。思い切った場面の省略も、場転で流れるMが惚けていてこれがまた良い。

カリギュラ

カリギュラ

カリギュラ・ワークス

サブテレニアン(東京都)

2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

オフィス再生の「正義の人びと」でも作家役で登場していた長堀氏がタイプライターの前で語り始め、そう言えば・・と。題名だけは大昔から(カミュ作でお馴染みの文庫版もあったし)耳馴染みのある「カリギュラ」の内容は全く知らなかった。女優が扮したカリギュラの独白が、権力者の孤独、人間の真実、哲学的難問の領域に踏み込んだ事を台詞の端に滲ませる。「カラマーゾフの兄弟」(未読だが)で問われる「全てが許されるとしたら、人間は・・」という仮想の問いを実地検証できる絶対権力者は、何を選択するのか・・この問題設定をストーリーから汲み取るまでにやや時間を要した。大量の書物が置かれたサブテレニアンの黒い空間、紗幕の使用等、演出が勝ったステージであったが、この劇場の客席の最上段(一列目、二列目、三列目まで急峻な傾斜がある)に座ると、俯瞰の目線となり、趣向が「見えてしまう」ので少々戸惑った。
今少し低い目線で役者や物たちを水平に眺める想定で、演出が施されたのでは、と推量した。立体的な視覚情報が、役者の台詞への集中を幾度も途切れさせたような。(単純に自分の身体条件によるのかもだが..) 
その点が見終えて惜しく思った部分だが、最後には高揚をもたらしていた。そして(例によって)原作を読みたくなった。

『APOFES2025』

『APOFES2025』

APOCシアター

APOCシアター(東京都)

2025/01/18 (土) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

一回のみのステージ「田実陽子×オノマリコ」を配信鑑賞。注目のオノマリコ脚本、秀作だった。東日本震災のあった日の都内、小さな飲食店を営む主婦が、帰宅困難者が集って活気付いた店内を眺め、安否を気にした夫から帰宅が遅くなる旨のメールを感慨深く受け取り、その時感じ、考えていた事を今振り返って語る。彼女の独白は、この日は皆が「良い人」だった事を改めてとしみじみ噛み締め、その夜を懐かしむささやかな本心を吐露する。遠くで起きた悲惨な現実への言及は独白の中には無い。想像の余白に、人間の真実が忍び込む。

残念だった(と思っただろう)のは、終盤の大事な場面で音響オペのミスだろう、終演後のアナウンスがチラッと流れてしまった。芝居は何とか持ち堪えていたが、一度切りのステージ。オペの方は土下座して謝罪した事だろう(でなきゃ許さん)。。

『パラレルワールドより愛をこめて』 『パラレルワールドでも恋におちて』

『パラレルワールドより愛をこめて』 『パラレルワールドでも恋におちて』

ザ・プレイボーイズ

シアター711(東京都)

2025/02/02 (日) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

「愛をこめて」観劇。受付でまごついて冒頭を見逃し、急ぎ入場するとシンプルな装置、カラフルな空間で「突如の異変」後のやり取りが始まっている。ただ、二人の関係性にいまいち自信が持てず宙ぶらりんな時間が過ぎる。65分の芝居では開演には間に合いたかった。
役者は「間」を使う芝居を展開。途中イイ話系の気配も漂う。キャラと容姿がまるで違う二人は、タイトルが「パラレル」なら同一人物だろうに「俺たち」って言っちゃってるし(別人の二人、という風にも聞こえる)、暫く人物設定が判らなかった。女子がコロス的に男役やったりと、「ちょっとお粗末様で失敬」が通るコントを幾分拡大した感じで(リアクションに間があるのもお笑いの「察して、笑って」からか)、私はと言えば「いい話系」のお笑いが嫌いなのである。
細部を埋めてくれる演劇でならイイ話は辛うじて受容するが、結論(感動)先取りでリアリティ無視でも感動してくれちゃう観客ばかりと思うなよ・・等とまァ無気になる事もないけれど、斜に構えてしまう。これは失敗だったか・・とつぶした別用が頭をよぎるも、後半は盛り返し、ストーリーを追う構えにはなった。AI風マネージャーの「効率優先の仕事は一流だが生き方ド素人」というイノセントなキャラが恋バナに発展。シリアスな場面はリアル(現実)を仄めかす。大御所に気に入られた相方のお陰で「向こうの世界の俺」は仕事が入って順風満帆。相方は元々高校時代、大笑いさせる台本を見せてくれた「俺」に付いてきた優さ男、「俺」の望みならやろうとする相方の内面に気づかず(あるいは内心気づいて?)、「俺」は世に出る将来像に舞い上がって(相方の「犠牲」で実現する)夢を脳天気にも語る。煮詰まった相方は破綻をきたして入院。ジャニー・Kを想起させるお誘い、また今カノと別れる選択肢まで提示された結果であった。(芸人というよりアイドルの話のようだが..。)
一方「パッとしない」こっちの「俺」は相方に無理させる事はなく、売れないままである。

パラレルの同一人物が人生展開の分岐する時点ですでに「全然違う」ので、「パラレルワールドの話である必然」が揺らぐ。とりわけ俳優としての見た目に準じた「対女子アピール度」の違いは、ネタとしても私には笑えず、フィクションが「素」に戻る(見た目いじりかよ..。と)。そもそも「容姿で変わる」ならずっと前から運命は変わってるはずで、生まれた時点で二人が「同一人物」であるかどうか等分からんし、その前提で物語を語る必要性もなくなる。そこはできれば、「本来同じはずだが内面のどこかが違った故に見た目も変わっている」くらいに見せてほしいわけである。
大御所に気に入られた相方が仕事をもらって成立していたなら、世間から「あいつらそんなに面白んないのにテレビによく出てんな」くらいの齟齬が生じかねない。また、相方がいなくなったのに仕事はもらえてるのか? だったら元々実力はあった。であれば「こっちの世界の俺」も売れてておかしくないのに売れないのは? 何か別の要因(コンプラが厳しくなって・・とか)が説明として加わる必要が出て来る。
感動の場面はある。向こうの「俺」が、こっちの「元気な相方」と対面する。自分の世界に戻って相方と向き合う覚悟をする、という変化がドラマである。
同一人物と勘違いする相手の反応を楽しむ構造は沙翁「間違いの喜劇」の昔から演劇のテンプレだが、王道な展開は良き哉。
全体に演劇的ポテンシャルを高めているものがあり、空気感としては脇の女子二名の活躍が「気持ちの良いスタッフの居酒屋」にいる気分。
スタッフ・ワークはしっかりしている印象だった。後で見ると音楽が「虎に翼」の森優太、耳に心地よく芝居に寄り沿った劇伴は確かに好印象。

ネタバレBOX

見逃した冒頭は恐らく・・暗転後、奥の壁をバリッと突き破って別のパラレルワールドから絶叫と共に登場(この声が下で聞こえた)、驚いた「俺」(パッとしない方)が、売れてる「俺」に心配されて訪問を受けた、そんな説明が台詞で為されていたようである。
ただ、リアルさ(テキスト上の)に若干の隙き間があると、そっちの可能性もあるんでは?と確証のないまま成り行きを眺める事に。結果入り込めず、「何か一所懸命やってるな」、という褪めた感覚を久々に味わった前半はきつかった。
事後的反芻によってこのお芝居は理解し、飲み込んだのだが、やはりこういった出し物は「その時に楽しむ」事に価値がある。
えらい酷評になってしまった。気軽に楽しめるお芝居だった、で良いではないかと言われそうだが。。
女性映画監督第一号

女性映画監督第一号

劇団印象-indian elephant-

吉祥寺シアター(東京都)

2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

千秋楽を拝見。直前に椿組「キネマの大地」を観たばかり。本作も映画を題材にし、しかも時代が重なる。史実上の日本の女性映画監督第一号、坂根田鶴子も満映に渡り、現地で「偽の国家」の矛盾と直面する筋書きである。先に観た芝居でも耳にした(意味的に同じ)台詞が、全く異なる芝居ながら「同じ場所と時代」の中で聞こえてくるのは不思議な感触だった(ただの偶然だけれど)。
吉祥寺シアターでの上演は劇団印象としては初めてだろうか、天井の高い劇場をうまく用い、視覚的効果が良かった。万里紗の胆力を以前もどの芝居かで観た記憶があるが、見上げたものであった。溝口健二役をやった内田健介を目にする機会が最近多い。俳優の力量を舞台を観ながら認識する事はあまりないが(大体芝居に集中するので)、その力は大きいと感じた所である。

史実や歴史上の人物を描く場合に課題となる「史実と虚構」のバランスが本作でも課題であったと思う。豊富にある訳でない素材を使って舞台を立ち上げる作業という点では、攻めた仕事をしていたが「何故今これか」のエクスキューズが十分表わされていない感触も残った。
結局は好みの話になりそうではあるが、私としては満州の場面ではその問題の性質上、可能な限りリアルな描写に挑んで良かったのではないか。テンポよく軽快に、身も蓋もない会話もさらりとやらせて先へと進む、歌踊りも織り込んだタッチが満州に来て写実主義の絵画のようなリアリズムの演技が展開する、そういうバランスが正解でなかったかな、と。
中国人女性役の「中国訛りの日本語」をもっと追求するのも一つかも知れぬし、脚本上で言えばその中国女性が坂根に反問する言葉(私はここにいるのですか?)が、彼女自身から出た言葉ではなく半分は坂根の脳内の(記憶から作り上げられた)彼女が想念の中で言った台詞にも聞こえた。だがここはリアルに「彼女が言っている」言葉=全くの他者からの言葉として聞こえたかった。それは「彼女自身の想念から出て来た」という事実によって免罪を生じさせるからであり、リアルな時間の中で坂根に突き付けられた満洲国の真実はそう簡単に打ちのめされ、改心されるには行かない難物なのであり、「人の住まない荒野に入植しただけ」との認識が「人を追い出して国を作った」認識に変わるプロセスの中に問題の困難さがあるような問題だからである。
「私はそこにいない」という詩的表現は今の日本社会の女性の地位を言い当てる場合にも使用可能だろう。現在の問題が相対的に軽いと言いたいわけではないが、人権蹂躙の規模が桁違いであるのは事実だ。そして坂根が「そこに彼女がいる」ような映画を撮ろうとはしなかったのなら、それは何故か、という具体的プロセスにも多くが籠められ得るだろう(それは端折られている。だから中国女性の場面は記憶を再構成したものに違いない、となる。挽回できない時点で振り返っているから)。
中国女性が体現できたかも知れない「リアル」感は、作品のテーマとして流れる(説明し得る)メッセージを超える濃密な何かを語り出すのではないか・・そういう場面を夢想するのである。

ネタバレBOX

先に観た芝居と共通の「満映」情報は、、
実に広大な土地に建設された撮影所であった事、様々な映画に対応できる六棟もの屋舎があり、本土の映画業界は戦況の悪化で逼迫しているのにこっちは規制も少なく資金も潤沢である事、満人(中国人)の社員が多数(4割方)おり、撮影スタッフにも起用して五族共和を映画製作の中で体現する社風がどことなく流れている事、そして特徴的エピソードとして、満州人の観客が初めて映画を見る時、最初はスクリーンではなく映写機から出る光の方を見ていた事。
満映に関する資料を両作家とも読み込んだのだろうと興味が湧く。
キネマの大地―さよならなんて、僕は言わないー

キネマの大地―さよならなんて、僕は言わないー

椿組

新宿シアタートップス(東京都)

2025/02/10 (月) ~ 2025/02/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初日~3日間5ステージを潰し、漸く開始したという。日時を振替えて拝見できた。
先日観たばかりの「映像都市」も「映画撮影所が舞台」の鄭義信作品。本作は満映(満州映画協会)が舞台という事で、以前松竹だったかの「さらば八月の大地」の変奏か、と見始めたが、恐らく同じ作品か、ベースにはなっている(途中撮影所の裏だかのベンチのある場所に既視感あり。そこで初めて主役をやる女と、恋仲らしい中国人スタッフが淋しい会話を交す)。だが見ながら思い出したのは椿組で9年前に花園神社でやったもう一つの「撮影所が舞台」の鄭作品「贋作幕末太陽傳」(戦後日本が舞台)の方が芝居のトーンは近かった。

本作、鄭流の小ネタの数々もあるが見事に嵌まり、敵対国に帰属する者同士の間に生まれた友情や、刹那の時空(満州自体がそれ)に身悶えしながら生んだ情愛が、歴史とシンクロして次第に緩い結び目が強固に締まるように形成されていく。
芝居の時間の中で、ともすれば笑いが上回って滑り落ちがちな事もある鄭作品が、今作では紐がすり抜ける事なく結び目となり、大地の上の楼閣が真実に思われたのである。
如何にもな、あざとい芝居くさい仕草も総動員したそれらがことごとく決まっていた。この感覚はかなり昔、本当に拙い若者らによる短い芝居に感じた事がある。胸がざわっと波立ち、なんでこんな芝居に?と自問しながら感動している自分がいた。あれって何だろう・・「これが感動って言うのだよ」AIが感情を学ぶ瞬間のベタな台詞が適合する。

ネタバレBOX

鄭作品の常連アイテムとは・・映画撮影所自体がその一つと言えるか。
前にやった「贋作幕末太陽傳」(2015年まじかよそんな昔??)がどうやらそうだったらしいのは、都会の片隅にあるビル街の日常と、熱情迸る体臭のする人間世界を並列して描いていた「青き美しきアジア」(新宿梁山泊の謳い文句だった「物語の復権」そのままだ)に通じる構成。映像都市でも、父から継いだ閉館寸前の映画館の館主と、別の世界では映画監督の現場で身悶えする日々、互いに夜見る夢の世界となっている、その構成。
片足を引き摺る人物の登場率の高さも特筆。「焼肉ドラゴン」にも、確か「20世紀少年少女歌唱集」にも「映像都市」にも。不具となった足は過去からのくびきと現在の不遇を象徴する。朝鮮民族の「恨(ハン)」はある一つの事柄への恨みに止まらない時間的集合に対する感情であるらしい。二度と取り戻せない何か、を象徴する。
その他にも色々ありそうだがこのへんで。
おどる葉牡丹

おどる葉牡丹

JACROW

座・高円寺1(東京都)

2025/02/05 (水) ~ 2025/02/12 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

座高円寺には珍しくL字型客席とし(能で言う脇正面席が下手側=能に同じ=にある)、上手側袖と、下手寄りの奥裏に逃げる口の二箇所から、9名の女優がよく出入りする。JACROW女優の一人が「いきなり市議を目指すと宣言した夫の妻」の役どころで今作の主人公。
自民党ならぬ民自党からの出馬ゆえ、横の紐帯を保つ古い因習や選挙で勝つ「合理的」手法としての地元との関係作りやドブ板選挙など、「先人たち」の集まりで学び知っていく。その実録ドキュメンタリー的世界が単純に面白く、女同士のバトルといふものはかくも面白き哉、である。
作劇の工夫としては本来「ライバル」であるはずの「政治家の妻」たちの本質が行き着く所まで行き着いた後、主人公の女性が自ら進路を切り開く所がユニーク。それなりのメッセージ性を残して終幕となる。9名の役の描き分けも良い。
座高円寺のだだっ広さの今回のような解消法もあるのかと発見。

何時までも果てしなく続く冒険

何時までも果てしなく続く冒険

ヌトミック

吉祥寺シアター(東京都)

2025/01/17 (金) ~ 2025/01/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

久々のヌトミック。宣材も随分前に手元にあり、吉祥寺シアターでやるというので観に行く。(もう一つの後押しは(忘れていたが)滋企画の次回公演に演出として迎えていた事。)
ドラム、ギター(他諸々)、キーボードの三名の演奏と、俳優たちがどう絡むか・・舞台上の奥行の中間あたりに楽器パートの各エリアが下手側、上手側にあって、俳優はその間を縫ったり舞台前で、基本無対象で喋る。
思った通りダイアローグは無く詩的な散文を喋る。演劇の時間の「次の瞬間」への白紙の期待を用意するのは俳優でなく音楽だ。言葉は大したことを言っていない気がしている(言語芸術の側面が弱い)。音楽がその穴を埋めていると感じる。
アフタートーク(つやちゃんとの)で主宰の額田氏が言うには、今回は演者の「役として語ってもらう」面を意識した、との事。従来は「役が無かった」、つまりテキスト・スピーカーとして役者に立たせていた。
地点の手法では延々と「動きながら語る」パフォーマンスの各演者は「役を演じる」というより、当てがわれた役が受け持つ台詞をその身体で語る、という現象だった。これは一つの確立された形態だ(地点の場合「動きながら語る」身体性と声・発語の力が突出)。ヌトミックに限らず「一人称語り」のテキストの上演では、その演劇表現的欠落を補う部分に独自の発想や演出力が発露するが、そこでもテキストの力は重要になる。
今作ではやはりテキストに引き込む力がなく、それは「役」的なものを当てがうといった手法以前の問題に思える。で、どうしても音楽性の高さがアンバランスに際立つ。中盤、言葉のリフレインから複雑コードのファルセットのハモりがクライマックスを作っていたが、音楽ライブとして耳が聴いていたら、素晴らしい瞬間だったろう。
だが「演劇」の中で用いるにはそのストーリー上の必然から用いられる事が理想である所、文脈が分からないため「高まり」に自然に同期できない。折角だからその奥に秘めた狙いを汲み取った気になる観劇の営み(解釈先送り)はよくやる事だし可能だが、「乗らない」選択も出来てしまう。私は分からないものにはやっぱり乗れない、となった。
芸術作品には解説によって作者の意図に近づける事があり、かつ意図が分った方が断然いい場合もある。今作も意図を伝える補助的な何かが欲しかった。言葉を使うとすれば、それは舞台製作上の着想などは二の次で、ここで言う意図とは「何がこれを世に出さずにおれなかった理由か」の自身なりの言葉、社会に向かって自己証明する公的な言葉の事。
色々難癖をつけたが、あるいは自分がいずれ超克するかも知れない「見慣れないものへのハードル」の可能性も無くはない。

おばぁとラッパのサンマ裁判

おばぁとラッパのサンマ裁判

トム・プロジェクト

紀伊國屋ホール(東京都)

2025/02/03 (月) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

トムプロジェクトは昨秋久々に目にしたが、せせこましい時世をチクリとやる喜劇、舞台では初見の大和田獏の鷹揚な風情も芝居に合っていた。
その点今作では、柴田理恵のおばぁ役からして喜劇の作りとは言え、太川陽介共々、芝居を自分に寄せ過ぎ?の嫌いあり。
大和田氏(娘の友達の父、実は判事)は仕草が押し並べて主役の間合い(もしや台詞の出が遅いのを芝居にしちゃってる?)、太川氏(おばぁが相談に行く弁護士兼議員)は逆に脇役に寄り過ぎ(おちゃらけ風)、もっと草臥れたリアルな中年の深みを湛えていたかった。
そういった役人物の形象の点ではやや淋しい思いがしたが物語は面白かった。

米国統治下の沖縄で、庶民の食卓に並ぶささやかなおかずのさんまに掛けられていた関税が取り払われ、本土の身内から魚を輸入しているおばぁはウハウハ。ところがそこへ関税復活の報が入り、おばぁは立ち上がる。自分の儲け、もとい自分たち家族の生活を守るためだ。関税が無ければ安く売る事ができ、沖縄の家庭の食卓にはお魚が出る。その魚を売ってる自分らも、勿論儲かる事は嬉しいが、何より誇らしい。お客の顔が見えている。商売というものの原点に思いを馳せる。
時代は米国支配下の沖縄と古いが、自治政府の上に君臨するギャラウェイによる関税復活と、庶民・中小いじめの税制を断行する今の財務省(の影響下の政府)が、冒頭の展開でいきなり重なる。
庶民は庶民で頑張っている、それをネコババして自分らの私腹を肥やす支配者という構図が明瞭だ。
願わくは劇中において税というものの本質、正当性の議論が、今に重なる形で展開しないかと最初期待したのだが、焦点は外国支配の不当性に・・それは当然そうなるっきゃない。
ただ、お決まりの正義論に収斂する事の懸念は、それを唱える側が人間的にも無垢で汚れがないという描写に流れがちな事。もっとも本作はおばぁも弁護士も判事も「打算もあれば葛藤もある人間」として戯曲にはっきり書き込まれてあるのだが、演技上そこがさしたる壁になっていない。乗り越える事が決まってるドラマの進行上、ちょっと停滞してみせなきゃ、くらいに私には見えてしまい、ドラマの起伏が乏しく映った(要は予定調和)。
また演技論に戻ってしまいそうだが、自分の好みについては今日はこのへんで。

日の丸とカッポウ着

日の丸とカッポウ着

MyrtleArts

浅草九劇(東京都)

2025/02/05 (水) ~ 2025/02/11 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

くるみざわしん作品はなるたけ観よう、という事で観てはいるが、期待を上回る出来(二つに一つはイマイチなのもあるだろう位の構えで観ているせいもあり)。
歴史上のある題材をマニアックなまでに掘り下げ、庶民と婦人と、戦争を描く。時期は満州事変前後から太平洋戦争末期。国防婦人会という存在にスポットを当てた。これほど面白おかしく、感情豊かに、戦争という現象を「婦人」(主人公)の目線で描けた所が過去にもありそうだが新しかった。役者もいい。関西弁もいい。

出口なし

出口なし

LesAutres

studio ZAP!(東京都)

2025/02/07 (金) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

以前D倉庫の現代戯曲シリーズで本作「出口なし」の回があったが、2団体を観て面白い作品だと思った。今回の舞台は小さな劇場を良い塩梅に飾り、シックな劇空間。学生又は学生上がりの若い俳優らによる、どんなメソッドがベースかは分からぬが演技に一定の統一感があり、サルトルのテキストが頗る「よく分かる」舞台だった。
(リアリズムの観点では洗練の余地はうんとあるに違いないのだが、それゆえ「没入」の度合いも浅くなったろうが、それはこの戯曲に合っており、観客の能動性を要請する。言ってしまえばD倉庫での「演出」の勝った上演よりうんと「芝居」になっていた。)

ニッポン人は亡命する。

ニッポン人は亡命する。

うずめ劇場

シアターX(東京都)

2025/01/24 (金) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前作「地球星人」に続き異色作。あとうずめ劇場では公演の題材を通じて出会った人たちやたまたまその時期に縁のあった人を舞台に上げる公演の系譜があるが、今回の舞台も(内田氏以外は演劇玄人と思しいが)そんな空気感があった。それが不思議な臨場感を醸しもするが、今作はうずめの三俳優のほぼ独壇場で、ほぼ初であった鈴江俊郎氏の輪をかけて異色なテキストにより混沌の度合いは深まる。とある日本人の男(劇作家、荒牧大道)が亡命の申請にやって来たドイツ大使館を舞台に、応対した大使館職員(日本人、後藤まなみ)と男を止めに来たという男の妻の姉(松尾容子)三人が三すくみの押し問答をする。日本が危険な社会である参照として語られるのが例の「明日のハナコ」事件であり、話題は表現の自由から学校教育、政治や日本人論まで、職員を納得させたり逃げられたり、姉が男を制すると見せかけて援護したりと忙しない。結局は「所長を出せ」という事で別の者を呼びに行っては埒が明かんと別の者、最後はドイツ人のゲスナーが登場するも出入りのドイツ人だったでガクッ、といったドタバタが続く。
私的には推敲が足らず、何度も同じ円を巡る三人のやり取りの何処かを削るのが得策だった(巡る度に新情報は入ってるが大意を伝える事を優先し細部を断念するのも大事)。もっとも幾ら言っても言い足りない亡国ニッポンの真実を言い切りたい動機は理解できる。ただダイアローグを交わす同士が対立したり賛同したりの変遷は筋が通ってなくてはならん所、そこをすっ飛ばした漫才ノリ、あとは趣旨だけ踏まえて台詞はアドリブのような様相の時間が長く、いずれも演るのであれば限定的に効果的にやりたい。
そんなこんなで「演劇」としてはかなり異色の部類であったが、私は「言いたい事を言う」装置としての演劇の体現を見る思いであったし、正直言えば嫌いでない。
登場して歌を何曲か歌い、社会に理想を求める無垢さを象徴するのが男の妻役であったが、ダブルでこの日の2ステージのみの出番。透明感のある佇まいであったがもう一方のステージも観たかった。

映像都市

映像都市

“STRAYDOG”

赤坂RED/THEATER(東京都)

2025/02/05 (水) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

成程・・・鄭義信の初期作には「千年の孤独」「人魚伝説」「愛しのメディア」と魅惑的タイトルが多かったが本作もその一つ。幕が開くと、、鄭戯曲に欠かせぬアイテムがきっちり揃い踏みである。それらは清新で衒いなく、若き作家の衝動を素直に伝えて来る。自分的には胸キュンである。
鄭氏が新宿梁山泊を離れる最後の作品となった「青き美しきアジア」以前の上記作品は未見であったので念願叶って嬉しい。
StTRAYDOGなる劇団のノリも百聞は一見に如かず、興味深く拝見した。
難点を先に言えば、役者の演技を超えて来る音楽(抒情的な曲のチョイスか音量のせいか)が、「そこは役者の身体を通してドラマを感じたい」という瞬間があった。主だった役には劇団的に中堅と思しい演者を配するも「若い」範疇〔私の目には)で全体的に若く、微かに生硬さを残す。主宰がこの演目を彼らに課する心根が(勝手な想像だが)思われる。
奇しくも同氏による間もなく上演の「キネマの大地」が恐らく映画の撮影所が舞台の芝居だろうので、楽しみ。

本作元々は(チネチッタ)というのがタイトルに付いていて、フェリーニが良く描く撮影現場の狂騒が本作にもあって面白い。そして演劇ならではのドラマ上の仕掛けが映画というテーマと重なる。映画への、人生へのオマージュとなる。

平和によるうしろめたさの為の

平和によるうしろめたさの為の

城山羊の会

小劇場B1(東京都)

2024/12/04 (水) ~ 2024/12/17 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

下北沢小劇場B1公演が早くも完売、並ぶ時間の取れた楽日前日、余裕で何時間か前に着いて、と目論むも何のかので到着が開演一時間前。見ればキャンセル待ちの列が予想外の長さ(十数名いたか)しかも周辺に望みを掛けて来たらしい面々がすぐには帰らず滞留し、活気付いていた。
そんな事で今回の配信を有り難く拝見す。相も変わらず男女の際どい綱渡り(要は不倫)ネタでやはり笑わせる。芝居的には飛び道具福井夏に古館氏、常連岡部たかしとキャラも生かして美味しい事この上無しだが、早々に完売は劇場のキャパより出演陣かな。
城山羊の会初見の時は芝居のリアリティの欠如(強引に無茶な展開にしてる。で、観客の乾いた笑いもヤだった)を酷評したものだが芝居が良くなったのか自分の間口が広くなったのかで言えば明らかに後者(と思う)。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・バルコニー!!

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・バルコニー!!

爍綽と

浅草九劇(東京都)

2025/01/29 (水) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

東京にこにこちゃん萩田氏がこの企画に過去作を持ち込んでお馴染みの役者に登場願っての舞台化。駅前劇場との違いか、若干の出演俳優の違いか、作りそのものの違いか、過去3作観た東京にこにこの方がちょうどのバランスに感じられた。放たれる小ギャグの質は同じでも場内の空気で「滞空時間」が変わる、のか、ギャグの質そのものが低かったのか。。
ベースが「お笑い」でそれに「お芝居」まで付いて来るなんて贅沢~~、というノリなら、可不足なしであるかもだが(そういう目で観てないので判らんが)、「芝居を観る」つもりで作劇を凝視すると、「超有名な悲恋物語の変奏」である今作の場合、原典との関係は緻密に書き込まれていたい、という願望がある。如何せん元が糞真面目な頭では、厳しい評価に流れる。

ネタバレBOX

二人が死ななかったとしたら・・。ロミジュリが自死を回避したその後、三人の子に恵まれた日常がナンセンスまじえて描かれるが、登場人物らが一人一人消えて行く。一人ジュリエットが事の成行きを受け入れているが、「ごめんね」が混じっている。手引きをした薬屋は、日常の中にも薬屋として登場していたが、消えるのは約束の範囲だったのか、ジュリエットが薬屋の言いつけに従わず自分の願望を優先したからなのか(祭が嫌いな薬屋の意向に反して、皆が楽しみにしていた夏祭りが話題となりそこに友情話も恋愛話も収斂していく)。ロミオの思い残しであった「バルコニー越しに二人の手が届く」場面を実現する、というのがジュリエットの「夏祭り」に寄せた願望であったなら、約束を犯してまでも断行する動機はあるし、それを最後に全てが消え去る、という儚いラストが想定される。だが一体ジュリエットが飲む事を義務づけられていた薬が何なのか、約束の中身は何だったのか等はぼんやりのまま、なし崩しで一気呵成にラストに持って行く。最後の「キメの絵ヅラ」頼みであったがこれは前の台詞から読めてしまうし、なし崩しでぼんやりした過程からあの絵に到達した所で、それをどう喜べば良いのか戸惑ってしまう。
そうした欠陥にも関わらずノリで持って行く技、細かく笑わせる役者の技量は買いであったが。
トップ・ガールズ

トップ・ガールズ

犬猫会

SOOO dramatic!(東京都)

2025/01/23 (木) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

大変興味深い脚本であり舞台。蠱惑的な世界。隅々まで味わった。
表通りのバイクの音も侵入して来る会場だが「劇」空間がしっかり作られており、横広の客席と舞台、出はけ口は下手側の奥の奥だが移動途中にピアノが置かれ、後藤浩明氏が静かに座り終始抑えめな音を鳴らす。飲み込み易い戯曲ではないが(言葉は晦渋でないのだが)これに拮抗する密度の濃い舞台であった。

メモリーがいっぱい

メモリーがいっぱい

ラゾーナ川崎プラザソル

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2025/01/24 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い。前にプラザソル主催の「キレナイ」二本立ても面白かったが、同じ作演出者による今回は一作品、気軽に見られる人情喜劇とはいえ、力が籠って感じられた。
元々好んで観る「分野」ではないのだが、それはヒューマンコメディは人間性の新たな発見という心地良さの一方で、現実の厳しさにあっても「そうありたい」訳であり、描かれている現実が甘ければ、そりゃそういう話もあり得るだろう、となる訳である。単純な話だが、どの程度シビアな現実のスパイスが振られているか、によって基本的に出来が決まると考えている分野である。
以下はネタバレになりそうなので、別途。

ネタバレBOX

今作には「ロボットの父」が登場。この「謎」について解明がなされるのは最後の最後だが、その時点ではその謎は遠くに引っ込んでいる。娘の婚約者である青年が娘の郷里の島を訪れ、初めて紹介された「父」に仰天した後、村の婆さんが親切に青年に話して聞かせる話が回想シーンとして展開する。娘が生まれたばかりの時、小学生時代、思春期と移り変わる中で、旧式ロボットの「父」のイノセントな風情が段々と風景に馴染み、村で働き者として頼られる存在にも。でもって思春期を迎え、プログラミング通りに娘を「守る」行動が、娘の恋愛場面を邪魔したりもする。ロボット父はその「一途さ」が愛される。手塚治虫の時代既にこのモチーフは用いられて来たが、演劇という舞台で実際に演じるに当っては、子供に「高い高い」をしたり大回転をしたり即物的な場面もあるがこれを面白くクリアしている。このバランスが良かった。
また後日書き足したい也。

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