現代韓国演劇2作品上演「最後の面会」「少年Bが住む家」
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2024/10/04 (金) ~ 2024/10/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「最後の面会」。
「少年B」と立て続けに観た。こちらもズドンと打って来るものがあった。オウム事件をなぜ韓国人作家が?という問いには答えがあった。実行犯林泰男に面会に来る主人公の女性役が終始、相当量の熱とテンションをもって演じる。彼女を支えて来たものを次第に理解する。その彼女に最後に突きつけられる真実を、観客も彼女自身のように受け取らせられる。「少年B」と通底するモチーフが浮上する。両者の違いを考えようとする自分と、等しく見なければならないと諭す自分がいる。
両作品とも、人をある生き方の態度へと促すものがあり、それは人を裁く懲罰システムの根本の危うさをも示唆しているのだが。
オウム事件において抜かせない問いは、世界を救う事と、殺戮を結びつけていた麻原及び実行犯らの認識だが、劇中に直接的な答えはない。だが理想を目指しているという自負(主体的関わり)と、流れに抗えない空気(受動的関わり)、後者が根本だが認めるには抵抗がある。
林は忠誠を証する必要性を強く自覚する。それはあたかも日本人以上に日本人たろうとする他国人の精神構造に似る。韓国人劇作家がこの作品執筆に掛かる着眼はそこにあったか。
Nel nome del PADRE パードレ
サカバンバスピス
APOCシアター(東京都)
2024/10/17 (木) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
この二人の会話劇となると、濃密でひりついた芝居になる(そんな題材を選ぶ)だろうと予測はしていたがその色彩については想像してもイメージを結ばなかった。という訳で本番当日その開陳を待つ。
千葉氏は緩急の付け方は(男が女を落とす手管に似た)アプローチでどこまでも千葉氏であり、岩野女史はそうだこの切れ味だと思い出させる。そして二人が作る色彩的なものはやはり無かったのだが、舞台の内容的には十分である。「物語」を伝えたかったんだな、と思える。
歴史上実在した人物がモデルとなっているらしい事が途中で分かるが、その事からするともう片方についても恐らく・・。芝居中で語られた情報を手掛かりに探してみるか、と思っていたら、どうやら種明かし的な事がブログに書かれているというので後で見てみる事にする。
立場の異なる二人、やがてパードレ(父)と自身との関係が語られている事が分る。その関係によって自分自身という存在がよくも悪くも深く規定され、個人の存在の根源(父が不在であるケースも含めて)を形作るという洞察(旧約聖書の神はほぼ父的存在と言ってよい)に導かれるようでもある。
「なぜこの二人か」・・基本的にナゾであるが、最終場面である種の氷解が訪れる。
現代韓国演劇2作品上演「最後の面会」「少年Bが住む家」
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2024/10/04 (金) ~ 2024/10/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「少年Bが住む家」。
座高円寺での韓国現代戯曲リーディングでの上演は2019年、まだ5年?という感覚だが(コロナが作った時間的空隙は大きい)、その実演を名取事務所がやった初演(2020年)を見逃しており、今回の再演でどうにか観劇に漕ぎつけたが、圧巻。
行間が凄い。脚本の導く所大ではあろうが、何処までも深く刺さって来る舞台のベースとなったに違いない初演の陣営を後で確認すると、出演者の一部(母役・鬼頭典子と姉役・森川由樹)以外は役者が変わり、しかも演出も異なっていた。
重苦しい物語の展開であるにも関わらず見入ってしまうのは、人(びと)が生きる瞬間を為す人の感情の襞、もどかしいながらの愛らしさ、殺伐の中の微かな潤いが、舞台に刻印され、観る者を満たすゆえだ。
ふと今思い出したのが聖書にある五つのパンと二匹の魚が数千人を満たしたという逸話。
芝居のテーマを思いめぐらすにも聖書が過ぎる。
イエスの逸話や喩え話でしばしば言及される「罪人(つみびと)」の概念が、年々リアルに像を結んで来るのだが、イエスの論的・政敵である律法学者と罪びとの関係の構図は人類普遍の業について考えさせられる。
律法学者自らはそれをひたすら守り続けている事をもって身分を保障されている「律法」が、それを厳密に守る事の出来ない庶民との間の境界を作り出している。
例えばローマ支配下の(属国的な身分の)イスラエルでは徴税人は罪びととされる。だがイエスは彼らを食事の場に招き入れる。また姦淫の罪を犯した女が石撃ちの刑に処せられようとした時イエスは「一度も罪を犯した事のない者だけが彼女に石を投げる事ができる」とし、人々を帰らせる。
そこで問題とされているのは彼らが人を裁く根拠とするルール(律法)が果たして適切なのか、であり、神が統べる国の本当のルールと全く相容れないルールを破ったか破らないかをもって人を抑圧し、支配し、マウントを取る馬鹿らしさである。
さしずめ、年始に起きた能登大地震に「道路事情に鑑み現地入りは控えるべし」と官房長官が発信したが、道路事情によって幾らでも変容し得る過渡的なルールとも言えないルールを「破った」として一人の国会議員の現地入りがバッシングの対象となった。
これを思い出せば、「ルール違反」と称して人を裁く事の本質が分かる。
能登の災害を最優先で考えているのではない、「悪」にカテゴライズして叩く事の快楽、安心、保身と、災害に積極的な支援を為さない自らの正当化。最も醜い人間の姿を拝んだ今年の年頭であった。
犯罪報道に触れて無為に人を殺した者への怒りが湧く。自然な感情だ。だが一方でそうした「怒りの対象」を欲している自分がいないかどうか、自分が良き社会を「本心から願っている」のかどうか、常に自問すべき一つのテーマだと思う。
さて本作はそうした日本社会へのもどかしさを抱える自分に、「人を裁く」偽善と訣別して違う道を見出して行く人たちの物語を見せてくれ、しこたま溜飲を下げさせてくれた芝居であった。深い感動へと導くのは彼ら(加害者として針の筵を歩くように生きる)が、心ない他者に一矢報いる事によってでなく、乗り越えて行く姿を描いているからに他ならないが、ハッピーエンドがご都合主義とならない稀有な舞台である。
遺失物安置室の男
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2024/10/04 (金) ~ 2024/10/14 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
新高円寺のアトリエにて昨年観た短編オムニバス公演は可愛らしく小気味よかった。あの感覚の出所は作品そのものに加えて、日常生活でのちょっとした休憩所のような場の趣きであったかに振り返っているが、二度目になる夢現舎のオリジナルの舞台も前回に通じるものがあり、やはり可愛らしい作品をこの場所で観た、という感覚が心地よさになっている。アットホームと言ってしまえばありきたりだが国道沿いでも道を歩けば人の暮らす地域の色がありその一隅に佇まう地下劇場には、前にも見た顔。しかつめらしくチケットを切る他所よそしさとは逆の、と言ってウェットなしつこさの無い丁度良さが心地良さの理由のようだ。
舞台正面奥にはどーんと黒地に白で遠近法の奥行ある遺失物収納庫が描かれたパネルが置かれる。父の代からのこの倉庫の管理人を受け継いだ男は静かに陳列された「物たち」の声を聴き、忘れ物を探し、引き取りに来た人たちの意思よりも物たちの思いを尊重する。そこに男自身の「解釈」も挟まれるため事は単純でなくなるのだが、彼の物への執心は、記憶喪失である事と裏腹の関係にも見えて来る。そして一人だけ雇われている若い女性、曰くある物を預けに、または探しに来た幾人かの人物が絡みながら何やら懐かしげな情緒の漂う大団円に至る。
初演から何度か上演を重ねている演目らしく、新作にしては完成度は高い話だと思った。
先の美術はかの山下昇平であった(ナベげんの美術でお馴染み)。平面のパネルだと判る絵が記号としてのみでなく三次元空間の中の安置室を感覚させていた。
諸国を遍歴する二人の騎士の物語
劇団青年座
吉祥寺シアター(東京都)
2024/09/28 (土) ~ 2024/10/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別役作品の中でも骨の太い戯曲、との10年前テアトル・エコー公演での印象は変わらず、やはり名作。
演じる俳優によって、とりわけ二人の騎士役の風情で、舞台風景が変わる、役者本位の作品であるのは別役実戯曲の特徴でもあり、氏のかねて主張する「演劇的」演劇とは、10年前の舞台と二つを見比べて実感する所だ。
とある村を二人の騎士が(申し合わせた訳でなく)訪れた事の「意味」(理由、ではなく)が分かるのは劇の終盤である。別役一流の「会話がもたらす転倒」が事態を動かす動力としてでなく、結語となっている点で特異な作品でもある。それだけに結末には震撼とさせられる。
満場の拍手は自分も頷ける所で☆五つやって良い出来だったが、自分にとって別役作品は「衝撃的」がスタンダードであるので、点は渋くなる。
広い世界のほとりに
劇団昴
あうるすぽっと(東京都)
2024/10/02 (水) ~ 2024/10/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
秀作。
大山くんだりまで出向くようになったのも最近の事だが、昴の海外戯曲舞台を観た帰路は足取りも軽い。初の作家の翻訳物でも不安はなく、今回も詩的なタイトルに惹かれ観劇に臨んだ。
このたびの劇場は、客席は勿論、ステージでもアトリエの2倍以上はありそうなあうるすぽっと。二幕物で二時間半。
このテンポは往年の「新劇」のものだったろうか、と思う所があったが、芝居は緻密に構築され、広い空間もうまく使っている。天井の高い室の壁と古式ゆかしい扉、天井近くの梁と、杉山至にしては具象性の高い美術が意外であったが、これは住宅の修復を生業とする父(先代からの家業)と依頼主の女性との交流の中で、家族や人間関係の暗喩として「建物」が語られる所があって視覚的にも大きな部分を占める(戯曲は父をして「こういう堅固な家屋の修繕はじっくりと半年程かけてやるのが良い」と誠実な提案をさせ、その事により依頼主である妊婦との間に時間経過に伴って生まれた関係性の深まりを表現し、逆にこの場面を通して時間経過を伝える仕掛けとしてある)。修繕が終わった日、最後の挨拶を交わした二人の背後にいつの間にか建物の梁の影がくっきりと映り、夕陽が二人を包む絵が浮かぶのが超絶に美しい。
彼と妻との間には息子が二人あって、19になる兄には彼女が出来、冒頭は二人のデートの場面。16の弟は明示してはいないがアスペルガーのような特殊な性質を匂わせる。兄の彼女に一目ぼれして悩むが、それが発展する事はない(なぜなら程なくして亡くなってしまうので)。父の両親は健在であり、前世代にありがちな夫婦問題を抱えるが、二人の孫に対しては良き祖父母。会話の場面の多くは舞台の上手前、下手前、奥、中央といった狭いエリアで、または上手半分、逆といった具合に行なわれ、瞬時転換する(完全暗転は二、三回だったか)。
そして場面によっては「そこに居ない」人物が部屋の隅に佇み、あるいは立っていたりする。死者または超越的存在の眼差しが仄かに、その場面を性格づける趣きとなり、全般に不安が漂う物語展開を、和らげているのか、強調しているのか・・。
一幕を終えた時点では全てが宙ぶらりんで些か耐えがたいものがある。
(この休憩時に近くの女性らが「再生を描くってあるから大丈夫だよ」と一縷の望みを見出したように言っていたのを聞いて、自分も救われた。)
ストーリーには「ラビット・ホール」と重なる展開があるが、こちらはその重なる部分を物語の「当て馬」的に使っていた。その作者もこちらの作者も同じイギリスのほぼ同年代、どちらかの影響というのはあったかも知れない。
俳優たちの健闘が最後には胸を熱くする。こういう舞台を目にすると演劇という芸術があって良かったと実感する。
白魔来るーハクマキタルー
ラビット番長
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2024/09/26 (木) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初の生ラビット番長。
名を知ったのはもう十年前。自分的に「見分けが付かぬ」劇団名3つ(はらぺこペンギン!、ぬいぐるみハンターと)の一つだったが、かねて未見だったコチラの生舞台を漸く目撃した訳であった(どーでも良い前置きだが)。
ハートフルストーリーを演るとの先入観で観ると一見異質な作で、持ち味であろう群像劇の要素はあってもタイトルが匂わす「恐怖」の物語となっている。脚本上の苦労が見られ、辻褄の点では序盤で(演出的に)躓きがあったのだが、終ってみれば骨格が明瞭な舞台。劇空間には蠱惑的空気が残り、心地良い感触があった。
歴史に名も残らぬ人々の開拓期北海道を舞台としたと覚しい劇世界は、史実や歴史考証を踏まえたのでは辿り着かなそうなフィクショナルな世界だが、架空の物語にしてはある種の、固有のリアルがある。
第38回公演『バロウ~迷宮鉄道編~』
激団リジョロ
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/09/27 (金) ~ 2024/09/30 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
テントで唐作品を観た時これに近い当惑を覚えた事を思い出した。今でこそ「何をやっているか」の大枠は判りつつ観ているが、言葉の断片がイメージを繋いで結晶させる「回収法」が唐十郎の作劇であるのに変わりはなく、サブリミナルに脳裏に残った断片を繋ぐ、またある言葉を橋渡しに展開する遊びの要素は野田秀樹にも渡辺えりにも踏襲され、本作のテキストにもそれが色濃くあった(今回は主宰金光氏のでなく彼の思い入れのある他作品だったとは後で知った)。
ただし今回この「置いてかれる」感は半端なく、台詞の大部分が分からないのはもどかしさを通り越して唖然の(というか笑ってしまう)レベルで、音が聴き取れないか、あるいは抑揚を脳内変換してどうにか判明する事が稀にある以外は、音は耳に入って来るのに意味に変換されない状態(例の睡魔による言語把握力の減退とは別物。とは言え前半は体調的に抗えぬ寝落ちが結構長くあったんだが、怒声が終始耳に響いていた)。・・なのであるが、入魂の大声と身体的躍動を通して伝わる熱だけが身体に余韻として残るアングラの原体験を、思い出させるものがあった。
それにしても(まだ繰り返すが)台詞が「聴き取れない」問題は難点というより「不思議」の範疇であり、つい考える。この舞台の俳優の中での優先順位なのだろうが、言葉は届くに越した事はない、という至極当然の事実は一言言わないではいられないのだが。前作とも考え合わせて、本劇団の作劇は「言語」から立ち上げるより「動き」と不可分に作られている感が大である。舞台となった熊本の方言(・・ばい、等の語尾は聞き取れるし自分は九州育ちなのである程度はニュアンスで汲み取れても良いはずなのだが)は、身体運動と同じ次元の声帯振動運動として体操競技をやり切ってる感覚だろうか。
天草四郎の物語に集結、と解説にあったが、バテレンの末路を現代の風景の暗喩として結晶するその部分くらいは、言葉を聞き取りたかった。
暗喩がねじくれまくって闇に消えるアングラの「解釈を拒む」作りと見るも可だが、じっくりと言葉を咀嚼させる時間も、私は欲しかった。(結局聞き取れない問題に終始したな。。)
リング・アウト
A.R.P
小劇場B1(東京都)
2024/09/25 (水) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
大文字アルファベット三つ(+ピリオド)の別の劇団と峻別できた2年程前より気にしていたユニットを漸く観劇。パンフに目を落とせば主宰が「書くのは早い方」と書いてある。やっぱそうか、となぜか自分の想像と合致(今作では苦労したというのが趣旨であったが)。その想像に違わぬ上手い脚本に導かれ、楽しく観劇したが、快適な観劇車の旅は巧みな場面運びに加え、役者の貢献も大きく、付き合いの長い劇団のような濃い(緻密な?)交流が成立していたのは予想外のレベルであった。
話はファンタジックなある家族の物語であったが、後刻また吟味してみたい。
寿歌二曲
理性的な変人たち
北千住BUoY(東京都)
2024/09/12 (木) ~ 2024/09/17 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
注目しているユニットだが先般の特別企画のガザ・モノローグやその前の公演も知らずにうっかり見逃し、今回はしかと観る事ができた。通常は「寿唱」一本でも公演は成立する所、「寿歌Ⅱ」が合わさる。蓋を開ければ2時間半と大きな負荷なく見終えた。
二作共通の役はゲサクとキョウコ、オリジナルではこれにヤソ、Ⅱはクマとカリオという役がプラスの4人芝居だ。Ⅱ→オリジナルの順で上演。時系列的に繋がっていそうな二作だが、若干テイストが違う。
Ⅱは旅一座が現役で、「宣伝隊」として鳴り物を鳴らして芝居のさわりや音曲をやる場面が賑々しく挿入されるが、役者がこれだけはっちゃけてるのに熱が上がり切らないのは空間のせいか、使ってる音のせいか・・と訝りながら見ていた。場に和みを与える女形役、途中で加わる謎の女(踊れる)が辿り着いたとある街では、一座に振り向く者もいない急いた殺伐さがあり、終末感が漂う。
その後になるオリジナルの方では、無人の荒野でミサイルがコンピュータ頭脳によって発射されているが、それを観て知っているのでその前段が描かれていると察知される。Ⅱとオリジナルの間に、人類はある境界を越えた。
超人的なヤソと出会うオリジナル「寿歌」はやはり独自の風合いがあり、結論的に言えば、二作を続きとしてまとめようとした演出が、些かオリジナルの方の趣きを削いだ感があった。
数個のパンと魚を集まった何千人の群衆に分け与えたという聖書の逸話から「物を増やせる」技を具備したヤソなる人物が、精神病みのように何かにとらわれているが、食べ物の安泰を無邪気に喜ぶ二人はそんな事に意に介さない。が、やがてヤソが居なくなった時、二人の中には何かが残る。その「何か」は観客の想念に委ねられるが、人の居ない荒野(これも聖書における信仰を理解するキー)においてこそ想念は強く広く深くなる。その戯曲の意図が、この舞台では十分にさらい切れてなかったような。。
個人的な思いとしては、新国立研修所の卒公の「親の顔が見たい」で観た荒巻まりのを恐らく約十年振りに目に出来た(チラシデザインではよく見ていたが)。腕の立つ役者。
キャストでは2作共通の役は、キョウコに荒巻ともう一名(こっちは男)、ゲサクに滝沢花野ともう一人(大西多恵子)とダブルで配していたのが大西氏が降板となり、滝沢氏のみ一人で全ステージを担ったためか、喉が枯れていた(泣)。
上質なステージであり試みも素敵だったが、上演というのは難しいものだと実感する。
セチュアンの善人
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2024/09/20 (金) ~ 2024/09/28 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ブレヒトの代表作の一つ。長年持ちレパとしていた演劇アンサンブルの最終公演(鑑賞会公演)を観たいと申し入れていたのが上演中止となり、泣く泣く断念したのが10年近く前。そんな事を思い出したが、漸く上演が観られた。
俳優座劇場のステージが近く見える。小劇場の範疇。のっけから所狭しと走り回るワン役による所か。こんな元気の良い逸材が俳優座に居たのか・・?と驚いたら、桐朋の学生だった。学生演劇はさほど見ていないが、以前桐朋学生の発表公演を観た時の印象は、出来上がった感にまで持って行けるポテンシャル。即ち若さ、による柔軟さ。適役を与えられれば無敵状態。
本舞台では降板と再配役が相次いだ模様だが、結果的に大きな役に起用された桐朋学生の存在感と劇団とのマッチングは頗る良かった。
ブレヒトらしい皮肉の効いた寓話(教育劇を思い出させる)を心行くまで堪能。三人の神様の登場や心優しい売春婦(善人)のシェン・テと効率を重んじる冷徹なその従兄弟シュイ・タの謎が寓話性を高めて美味しい。
根底には資本主義社会の構造(人間の行動原理を含めた)を物語を使っておちょくり暴露する視点があるが、「恋愛」をまな板に載せているのが興味深い。
ベラスケスとルーベンス
やみ・あがりシアター
Paperback Studio(東京都)
2024/09/21 (土) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ルネサンス〜近現代の美術史にちょうど関心を寄せていたタイミングだったので、公演を2日前に知って急遽出かけた。久々の千歳烏山周辺を懐かしく歩き、当時は無かったpaperback studioへ初訪問。
「観客に読ませる」とあったそれは予想以上に大きな部分を占め(実験公演と謳っていた事は当日知った)、これはこれで一つの要素であるが、観劇者としてはそんなアレコレを経ながら二人の画家の物語が骨太に着地していた事を喜んでいる。
「実験」についてはまた別途考察してみたい。
カンキの歌
演劇企画アクタージュ
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2024/09/19 (木) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アクタージュを初覗き。こういう舞台を観た記憶があったか・・と言えば無い訳ではないのだろうが、言ってしまえばエゴチックな(ゆえに散漫に見える)舞台の観劇気分(はっきり言えばもう何も起きないと諦め気分)からの終盤の巻き返しの振り幅はちょっと記憶にない体験。
最終的に19名を数える人物たちは押し並べてフザケており、その表層的な側面を絶えず見せられ、一定の理解に着地しない断ち切られる台詞。客席を意識したいい気なおフザケやアピールが混じる・・。この自分的にアウトな空気に(体調とばかりでなく)睡魔が前半襲って来ていたが(ディテイルのリアルを問題視しない感性には平気の平左かもだが)舞台が可視的に動き始めるポイントが中盤にあり、少しずつ目に耳に入って来た。そして散らかり尽した伏線を片付け終えて終了。この回収時点で初めて伏線での意味も分かり、フザケていた(ように見えた)芝居上の理由も分かるという案配。
中盤までのリアルに見えないやり取りを含むこういう脚本を、何に注意しながらどう書くのか、と興味はもたげる。
舞台上で役者が喋り、人間感情を表現し、それ以上にキャラ・アピールしたりするチャンスを準備することを使命として書いているのだろうか・・。断ち切られる台詞は喰い気味の反応で連鎖、入れ替わり立ち替わりの人物の忙しない出ハケは短距離走かつ持久走だが、大団円は訪れる。観客は笑顔になる。変な気分である。
俳優の立ち姿、顔はよーく見える。デフォルメ演技を厭わず繰り出す度量の方を評価すべきか?という思いは、自分の中では背徳的なのだが、終演後に俳優らの半数以上がズラッと並んでのトークでは、役とほぼ変わらない風情の者、真逆の風情の者、初舞台の(とは思えなかった)者、実は音楽畑の者など居て、興味深し。
星の伯父さま
風煉ダンス
上野ストアハウス(東京都)
2024/09/18 (水) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
寡作と言える風煉ダンス久々の公演。堂々たる新作。祝祭性たっぷり。面白い。
・・と書いたが10年程前までは新作公演を普通にやっていた模様。「まつろわぬ民」を劇団の根城らしいせんがわ劇場で観たのが私の初風煉で、これを座高円寺でも演り、その後ツアーもやってたから、僅かな持ちネタで回してる等と勝手な当て推量。
野外劇の「スカラベ」(2016年)は雨除けテントで撥ねる雨滴を気にしつつ、目の前ではずぶ濡れの役者たちのはしゃぎ走るのを眺めたものだが、野外というのが堂に入っていてこれがこの劇団の標準形か?とも。映像で観ていたその前年の「泥リア」も野外劇。いずれも「広い舞台」を好き放題使い、小道具・大道具に衣裳への遊び的こだわりは、劇場公演も同様。その特徴は芝居を遊ぶ自由さにあり、これを体現する風煉女優の吉田、御所園らや常連男優の醸す空気が、今やある意味現在へのアンチと言えてしまうのは、讃えるべきか嘆くべきか。。
初日、バタバタで開演を迎えたような空気も場の高まりに。主宰が「ご覧下さい!」と告げたタイトルコール「星の王子さま」にツッコミが入るのもご愛敬。サンテグジュペリ及び「星の王子さま」を慕う人々と研究対象とする一人の学者(主人公)と、彼らが訪れた砂漠の地に住む謎の人々そして「願いが叶う」花を略取しに潜入している悪人コンビ。可愛らしい物語だ。「ご愛敬」はそこここに散らばり、劇空間は伸びやかである。この漂っている雰囲気が、私的にはえらく好みである。
許し
avenir'e
新宿眼科画廊(東京都)
2024/09/14 (土) ~ 2024/09/24 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
紙のチラシを作らなかったらしく、直前まで私も知らなかったが、面白そうな企画(戯曲も)、役者も巧そうだし、という事で出かけた。
イタリア人の名前の作者による、ちょっと皮肉の効いた「海外戯曲」という感じだったが、路上で久々に出くわした家族同士の辛辣でこれはハートフルな話になり得ないと判るやり取り。ある真相に導かれた結果も因果応報だが不条理劇の匂いも残す。
役者が巧く、独特な世界観を成立させていた。
ふらりと出向いたにしては面白かったが、小さな劇場とは言え客席の少なさには「勿体ない」と呟かずにはおれぬ。
『ミネムラさん』
劇壇ガルバ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
企画に惹かれ旗揚げ以来久々にガルバを拝見。パンフによれば今回のユニークな企画の実現に至る経緯は過去公演にあり、ガルバ的試みの必然的結実であったらしい。
三名による書下ろしとの事で、(書下ろし依頼は冒険でありしかも「×3」であるので)大きな期待せず、ただ役者の立ち姿を拝むのを楽しみに、といった構えで観劇に臨んだのだが、三つの話が明確に展開するわけではなく、三つの要素を包摂した一つの作品として仕上がっていた。(その苦労の跡が見え、最終的な構成を誰が行なったのか、とパンフを見るも不明。先程読んだ朝日新聞のレビューによれば、西本由香演出の下ワークショップにより練られて行ったプロセスがあり、集団創作の成果であるらしい。)
この些か混沌とした作りは「ミネムラさん」というカタカナ表記の一人の人物を巡る舞台の世界観に相応しかった。一人を描く事で人間を描き出そうとしている。人は多様な側面を持つ、という事でもあり、人間の存在の他者を欲する性質とその表裏の関係にある孤独、その一人の生に、捜索(といっても別役作品ばりに無責任な人物たちによる)する者たちの眼差しが注がれる、という構図。人と人を取り巻く世界をふと俯瞰させる。
作者の一人・笠木女史の大声が序盤で気になり、実は少々幻滅気味な気分がもたげたのだが、次第に気にならなくなった。(後で見ると当初の安藤千草降板によりだ代役を受けた由。)
ヤマモトさんはまだいる
東京演劇アンサンブル
あうるすぽっと(東京都)
2024/09/12 (木) ~ 2024/09/16 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
デーア・ローアー戯曲と聞いて予想される範疇であり、中々重層的で重厚であったが、「ヤマモトさん」という固有名詞から想像した「一つの物語」という想念を消し、違う人物が出てきたら違う物語、くらいに割り切ってエピソード集として最初から観るのが良い、と思った。前の場面とどう関連があるのか、という注意で見ているとその注意に引っ掛からないので脳内での整理が(コンディションが悪いと尚更)追いつかなくなり、睡魔となる(今回は短時間襲われた程度で乗り切った)。
理解が及ばない場面もあったが(パンフにあるキャストのコメントからして「台詞が指示する具体を探っている」とある位で)、かくありたい生を示唆し想起させる「言葉」それ自体が脳内に投げ込まれ、明滅を起こす。現実の皮相さの中での、人の緩やかな繋がりが匂って来るような。
現代か近未来チックなユニークな音楽は、何と池辺晋一郎(音程が明確な旋律ではあるが(楽譜には落せそうだ)、コード展開がなく打楽器音的に響かせている)。
出演者の数は多く、パンフには所属が書かれていないが客演俳優も結構居たのでは(私が認識できたのはOn7の宮山女史。彼女はシヅマがやった同作者の「最後の炎」に出演していた)。
高い壁で仕切られた四つの空間を反時計回りに盆を回して場面転換をするが、同じ方向へ、淡々と為されるのが段々とシステマチックに見えてしまったのは私の集中力のせいか。様々な人物たちがいて、多方向に想像力を稼働するから、並列に存在している各組が持つ特徴、というか性格付けの+αが欲しい気がした。
詩人が二つ目の詩を読む終盤に、それがヤマモトさんに向けたものだとは認識出来なかった(指示する何かを見過ごしたのだろう)。具体的なヤマモトさんを通じて、あるいはそこに居ない誰かを介して繋がっている人々の群像を作者はやはり見せたかったに違いない。
詩を読む時間、その詩には書かれていないか、読まれずに終わるテキストが、背後に流れる。その流れて行く言葉が、いや、たとえ表れずとも青年の中でこうした言葉が反芻され推敲されただろう事実が、胸に迫って来る。
それだけに「誰に向けた言葉か」「その人との関係は」を知りたくなる。だが、誰であろうと成立するでしょうに、という作者のチクリ指摘が聞こえる気がしなくもない。
バスタブで遊泳するあなたへ
劇団テアトル・エコー
劇団テアトル・エコー ケイコバ(東京都)
2024/09/05 (木) ~ 2024/09/08 (日)公演終了
実演鑑賞
約十年前にエコーで賞を獲ったものの(リーディングは別として)舞台化は困難な「人魚」が登場する(しかも複数)戯曲という事で眠っていた本作を、アトリエ公演企画の中で蘇らせたということのようである。
テアトル・エコーも久々、幾つか気になる公演を見逃している思いから衝動的に(アトリエも見たさに)出かけた。
「何かの生物になる」病気が流行しており、主になっちゃうのが「人魚」。風呂場のバスタブに籠るという症状の後、突如人魚になる、という経過は他の入院患者とも共通してる、といったよー分からん設定があったり急迫事態なのに何処かのどかに進むお芝居である。この人魚をパペットで表現し、舞台中央に置かれたバスタブ(的な装置)に入った役者が飛び出ると役者は操り手となりパペットがバスタブのヘリに腰かけ、人魚の下半身が披露される。
人魚のみならず、サボテンや、竜なんてのもあり、人魚は「上半身が魚」のパターンもある。それらの患者の連れ合いや家族、そして医師、看護師も登場。
不条理な状況に戸惑いながらも状況をある程度楽観的に受け入れている所が不条理劇であり、病気の蔓延という点ではコロナを受けての創作かと思いきや違った(パンフは後で確認)。
不条理とは言っても、病気(現象)を納得してしまえば他はリアルな人間ドラマでもある。そこで、架空世界のお話は「整合性とドラマ性」の塩梅が肝になる(矛盾が多すぎると興ざめだが、それをフックに展開する話の面白さが凌駕すれば矛盾を解消する=七難隠す)。
この芝居の場合、展開の突飛さにまず戸惑い、そして人魚のままで屋内を移動している点など、あまりに漫画チックで「興ざめ」要素は高かったが、徐々に物語の方が追いついてきた感。最初に取った遅れは私的には挽回まで行かないのだが、どうにか最後には拍手を送れた。
病気の原因は「ストレス」とされている。だとすると、今回の病気が流行りだした近年特有のストレスは何か、となる。もっとも花粉症理論で、いよいよストレスは臨界点に達しこの奇病が発生するに至ったという設定も可だが、ストレスとは人間に付き物なものでもある。私的には「今ここに至って深刻化している」ストレス状況の方を、示唆されたいのが願望である。
整合性の点では、ストレス解放のため沖縄に療養所があってそこに行けば(旅費は自分持ちだが)「発散」により治癒して(人間に戻って)帰還するケースが多いらしく、主人公夫婦も最後はそうなるのだが、同じ病院で治療中の先輩は、沖縄に行く資金がないため海を渡って沖縄へ行こうとしたが途中で全身「魚」化して海の住人となる。その理由も、その現象が暗喩しているものも、十分に説明されない放置プレイ。何か洒落を利かせた理由を出すか、現代批評があるとイイナと思った次第。
主人公に当たるのは、妊娠して臨月を迎える妻と人魚化した夫の夫婦。夫は妻の出産に立ち会いたいため、沖縄に行こうとしないが、妻は立会いは不要に思っている。というより夫が「何もできない」後ろめたさを出産立会いによって解消しようとしているように見えて仕方ない。サボテン化した「父」は献身的に尽くして来た妻と、必ずしも両親の関係に納得していない息子が絶えず見舞っているが、父は竜にも成り、その時は意識があり、サボテン化した時は意識がなく自分がサボテンになっているということも知らない(プライドを傷つけるのが心配で妻は伝えていない)。これが最後に露呈し、意趣返しといった展開になる。上半身が魚の夫を見舞う妻と主人公の妻、他の見舞人同士も知人同士となって本音吐露タイムがあったりする。主人公夫の同郷の先輩が偶然人魚化した患者で居たが、見舞い人もなく、夫が主な会話の相手、とは言えいまいち反応が薄く淋しい思いをしていた所、サボテン父の息子はよく話を聞いてくれ満たされたりする。後半で年輩の主治医が「魚である夫に出産立会いさせるか」について検討に検討を重ねた結果、人魚化してしまう(原因はストレスだから)。そして水中出産を思いつき、それなら自分も出産を担当できるし夫も立会いが出来る・・もっともその案件は妻が破水して帝王切開となり、実現はしなかったが・・といったようなエピソードが続き、大団円。
「病気」の流行は一時的なものであったような気配もあるが、「先輩」は魚となってたゆたっている。ストレス問題は社会からなくなったのか・・無孫そんな事は書かれていない。
役者はよく演じよく立ち回っていた。またアトリエでの公演を企画してほしい。
あの瞳に透かされる
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2024/09/04 (水) ~ 2024/09/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
初日、喋り倒す人物の役がその加重な役割に翻弄されていた印象が強く残ってしまったが、作品の力強さには最後に頭を垂れた。
老齢の役(演じるその人も中々の、と見受けた)の藤夏子、メリハリの利いた立ち方に好感、既視感もあったが、後で調べると今は八十路で映像の方に随分露出していたらしいからTVか銀幕の向こうに見ていた可能性は高い。この人がオーラスに往時を思い出して動揺する場面がある。恐らく本当に動揺してしまい何か(台詞?)を見失った風であったが、その臨場感に飲み込まれた。
テーマは「慰安婦」。歴史修正がまかり通る巷の言説と、その背後にある思想の貧困、精神性の貧困(自立の対極)、即ち現代の病を照らし出す芝居でもあった。
ヘッダ・ガブラー
ハツビロコウ
シアター711(東京都)
2024/09/10 (火) ~ 2024/09/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
本作どこかで観たと思っていたのは思い違いか(戯曲を前半だけ読んだ、等あり得る)、、あるいは毎回驚かされるハツビロコウ流アレンジによるものかも・・。
どちらにしても細部(特に後半)は記憶になかった。
以前「触れた」時の人物イメージとはまるで異なる人物が登場し、書かれて百年を経た戯曲の上演とは思えない現代性と、物語構築の精妙さがやはり印象に残る。
二日後に落ち着いて当日パンフを眺め、主宰の弁を見ると、ヘッダの戯曲をある軸を通すべく松本氏が「書いた」と書いてある。毎回気になっていた優れたテキレジだが、今回はより大胆に書き直したという事か。
特殊な人物としてのヘッダではなく、ごく普通の女性としてヘッダを捉え直した、との弁であるが、近代の憂鬱を捉えたイプセンの洞察による人物造形は、当時は(周囲の反応等で)センセーショナルに演出するに値しても、現代的視点で捉えれば「普通にいる」のかも。もっともヘッダに象徴された人間の「善悪の彼岸」を求める性質は、今も大きなテーマであり続け、収縮に向かう日本の思想状況では強力なアンチに。(三島由紀夫の価値はこうして時代に逆照射される。。)
変わる事なく息詰まる緊迫劇を作るハツビロコウである。
今回は原作を読みたくなった。