実演鑑賞
満足度★★★★
「テンペスト」の初観劇は確か新国立劇場主催、白井晃演出で。段ボール箱とそれを運ぶ台を活用して、中劇場の奥行き深いスペースが物流倉庫に見えたのだが、だから何だという感を否めなかった(著名な戯曲をこんな風に遊んでみた、というビッグネームありきの遊び)。王を演じたのが確か古谷一行。その後この演目には大きな関心を持たず、恐らく今回が二度目である。が、終盤に近づくにつれて勝手知ったる演目かのように再現感覚に見舞われた。この物語が持つ力でもあろうし舞台の構成力かも知れないが、伸びきった膜が突如収縮するように伏線回収に掛かるよう。口跡に難ありの主役(王)のカクシャク老人振りが終盤ピッタリに見えてくる。「こんな世の中に(生まれて来るなんて)」という台詞が最近観たTOKYOハンバーグ「目を向けて、背を向ける」にあったが、「今は不幸な時代」を前提で語られても何ら違和感のない時代認識を、この舞台に当てはめれば、「にも関わらず」私は敢えて許し、和解を望むという王の言葉が格段の意味を帯びる。(当然ながらキリスト教の言う人間のあらゆる罪にもかかわらず、神はイエスの犠牲を通じて人間に赦し=救いを賜ったとのモチーフに通じる。因果応報目には目を、罰する事を通じて道理を思い知らせる意思こそ正しいと言われる今、甘いと言われようが許す、と言う。その見返りは?「争いの種を残さない」ため・・どこかに利己的な動機がなければ信用できない、とは下衆の料簡であるが、そうでない愛の存在を死をもって証そうとしたイエスの磔刑から、利他的な動機はあり得ると、どこかで信じてはいながら大方パフォーマンスで偽善だと思ってしまう我らである。が・・王は自らが島に幽閉された後に得た魔法を失ったものの一矢報いた身で、またミラノ王に返り咲く身で、「許す」態度は可能なのであって・・と考え始めるとワヤである。如何に「許す」ことは難しく「和解」は言う程簡単ではないかを見せつけられている時代に「敢えて許す」「和解のために」と人々が言えるのだとしたら、いや一人の王が為したその決断を支持できる民であったなら。
この演目は俳優座劇場で一度も掛からなかった演目だと言い、「やった事のない」優れた作品がもっと他にあったのか、見出すのに苦労するような案配だったのかは分からないが、劇場の最後を飾るに相応しいメッセージが、というか最後の公演の舞台で俳優の口から出るにそぐわしい台詞が、含まれた演目として「テンペスト」は選ばれたと感じた次第である。
役者は新劇系の幾つかの劇団の俳優が集められ、新劇色の傾きを感じなくもなかったが、「テンペスト」がこれほど鮮やかに自分に入って来るとは予想しなかった。