雲間犬彦の観てきた!クチコミ一覧

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「堀川波鼓」 「ヂアロオグ・プランタニエ」 「霊感少女ヒドミ」

「堀川波鼓」 「ヂアロオグ・プランタニエ」 「霊感少女ヒドミ」

FOURTEEN PLUS 14+

西鉄ホール(福岡県)

2011/05/01 (日) ~ 2011/05/01 (日)公演終了

満足度

演劇やってるんだよね?
 板の上に立って、覚えた台詞を喋るだけなら誰にでもできる。
 そこにいるのが「俳優」であり、物語を演劇とする「演出」が存在するのであれば、そこにはその劇団にしか表現できない「個性」(=生まれながらのものではなくて、新しく生み出されるオリジナルとしての創作)が発生するはずだ。しかしそれがない。
 近松門左衛門と岸田國士と岩井秀人という組み合わせは面白いと思った。だからこそ観に来た。それが結果は単に芝居を三本並べただけの演出不在。いったいこの三本に、劇団は何を見出し、何を描きたいと考えたのだろうか?
 近松を現代語(口語演劇にもなっていない)で演じていることにも意味がないし、岸田は「対話劇」になり損ねている。岩井に至っては、戯曲自体が使い古された妄想話で、岩井作品の中でも質が低い。それをだらだらと演じているだけだ。それでも適当に差し挟まれる「くすぐり」で観客は笑っているが、そういう表面的な笑いに囚われている観客は、テーマが語られる部分では鼾をかいている。
 ある程度の演劇経験はある劇団だから、各自それなりに勉強もしてきたのだろうとは思う。しかしただ芝居を観て、それで感銘を受けただけでは自ら「演劇」を作り出すことはできない。劣化コピーを拡大再生産させるだけだ。「また一つ化けたなあ」なんて阿呆な批評を真に受けていたら、今後もくだらない芝居を垂れ流すだけになるだろう。

ネタバレBOX

 『堀川波鼓』を現代語で演じるについて、どのような「戦略」があったのだろうか。単に「原語のままでは感情移入して喋れない」という理由でそのようにしたのかもしれないが、それは「引き算の公式」で、決して誉められたものではない。「言葉」は時代と文化と密接な関係がある。パロディならともかくも、「女敵討ち」という、現代ならば、寝取られ夫が情けない、としか受け取られない現象を、「武士の一分」でもってやりおおせねばならなかった当時の武士の心情は、とても現代語で表現できるものではない。
 『ヂアロオグ・プランタニエ』は、岸田國士の戯曲の中でも、短いながら実験的な対話劇である。二人の女の会話は通常の会話ではない。相手の言葉を裏返し、更にそれを裏返ししていくことで、台詞が重層化していく。さながらラヴェルの『ボレロ』のような、「台詞によるオスティナート」を試みているのだ。浮世離れした台詞回しは、戯曲発表当時でもやはり浮世離れしていたので、これをそのまま喋ったところでリズムは生まれない。それが演出家には読み取れていないから、ダラダラとした印象しか与えない。
 『霊感少女ヒドミ』はもう、SFではすっかり使い古された「胡蝶の夢」モチーフを、岩井秀人が恐らくは先行作を特に参照するでもなく思いつきで書いただけの散漫な作品だ。ハイバイで演じていたとしてもたいして面白くはならなかっただろうが、近松と岸田のあとにこれを置いたせいでますます意味が不明になってしまった。

 ここはあえて好意的に、この三本を並べて見せたのは、近松の虚実皮膜論、これが現代演劇にまで連綿と続いていることを証明してみせようとした実験的な舞台だったと仮定してみよう。
 いや、この三本を並べられれば、ちょっとても演劇をかじったことがある人間ならきっとそれが目的なのだろうと予想する。近松の「女敵討ち」の物語は、現実がありうべからざる偶然で瓦解していく過程を描く。岸田の女二人の対話は、初めから現実を対話のための題材にしかしていない。岩井の戯曲の散漫さは、この2本と巧く組み合わせることによって、かえって演劇そのものの虚構性を浮き掘りにすることもできただろう。
 しかしそのためには、テーマ自体は共通していても、それぞれの戯曲のスタイルは、それぞれの時代を象徴するものとして演出しなければならない。近松に現代語を喋らせるべきではないのだ。
 単に三本の戯曲を並べるだけなのも芸がない。それぞれの戯曲を解体し、近松や岸田の人物を、岩井のドラマの中に“紛れ込ませる”くらいの冒険を行ってもよかったのではないか。現実と虚構がせめぎ合う物語を描くのであれば、それくらいの発想があってもよかった。

 この劇団が特に新しい演劇を模索したいわけではなく、従来あるものをなぞるだけで満足しているのであればそれはそれで構いはしないが、戯曲の選択だけを見ていると、必ずしもそうではないような気もするのである。意欲的なのに結果が伴わないのだとすれば、それはやはり演劇を観る努力を怠ってきたか、演劇するのに向いてないかのどちらかってことになるんじゃなかろうかね。
シングルマザーズ

シングルマザーズ

ニ兎社

大野城まどかぴあ(福岡県)

2011/04/10 (日) ~ 2011/04/10 (日)公演終了

満足度★★

シングルマザーたちの苦労は分かったが
 『ら抜きの殺意』や『歌わせたい男たち』を満点とするなら、今回の『シングルマザーズ』はせいぜい50点。
 2002年から2年ずつ区切っての4場構成、「ひとりママネット」の活躍を段階的に描いていくのには適切で、ソツがない。しかしそれがどうにも“教科書的”で面白くならない。ドラマが生まれてこない。シングルマザーたちが行政の不備によって苦労を強いられていることは分かる。勉強になるし、テーマそのものは面白い。しかしそれは「題材が面白い」のであって、「演劇としての面白さ」ではない。
 役者たちも、彼女たち自身の設定を説明するのに手一杯で、役者の演技としての面白さを発揮するには至らなかった。それが残念である。

ネタバレBOX

 タイトル通り、登場人物は一人を除いてみな、立場は違うがシングルマザーたちである。舞台が一室に限定されて、そこでのやり取りで物語を紡いでいくのは永井愛の真骨頂を発揮する最強パターンになるはずだった。
 ところが先述した通り、ドラマがなかなか生まれてこない。一番の原因は、彼女たちはみな「母」であるのに、その対となる「子供」が全く登場しないことだ。場所が母親の仕事場である事務所であるから、子供が登場しないのは当然だ、というのは言い訳にならない。台詞でいくら「しんのすけがどうたら」と説明されても、子どもたちは「ゴドー」ではないのだ。いないことで存在感を観客に感じさせるキャラクターではない。事務所に来ちゃいけないと言われていたのに来てしまった子どもの一人や二人は登場させないと、観ているうちに、この母親たちには本当は子どもなんていないのではないか、けれども子どもがほしくて、子どもがいるふりをしている、そういう「ごっこアソビ」をしている哀れな狂った女たちなのではないか、「あのしんのすけが」「あのしんのすけが」と名前ばかりが連呼されると、だんだんそんな気がしてくるのである。
 黒一点、「夫」の代表である吉田栄作は登場しているだけに、子どもの不在は余計に目立つ。子役を全国ツアーには連れて行けないという事情があったのかもしれないが、それは観客のあずかり知らぬところである。子どもを出せなかった時点で、この戯曲は明らかに失敗したのだと思う。
 俳優たちも、その真価を充分に発揮したとは言えない。もともとの公演は、もっと小さい劇場で行われていたのではないだろうか。まどかぴあの広いステージでは、いきおい全員が声を張り上げざるを得ず、それが演技を不自然なものにしてしまっている。根岸季衣ですら“わざとらしく”見えてしまうのだから、事態は深刻だ。沢口靖子は美しいが、美しさだけで舞台を“持たせる”のはいささか苦しい。何らかの形で、美人役者は“崩す”“癖を付ける”ことをしないと舞台では映えないのだが、それが殆どされないものだから、舞台上の印象は「なんだか小さい人がいるなあ」で終わってしまう。笑いを担当する枝元萌に、完全に食われてしまっている。
 唯一、沢口靖子が輝いたのは、吉田栄作がDV被害者を装うウソを見抜くシークエンスで、そこはまるで『科捜研の女』を彷彿とさせるミステリー的な興味を感じさせていた。そういう“ちょっと変わる”異化作用、緩急のリズムが作られていれば、この戯曲は「シングルマザーの勉強になって面白かった」芝居ではなく、「シングルマザーを扱った面白いドラマ」になっていたと思う。 

焼肉ドラゴン

焼肉ドラゴン

新国立劇場

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/04/16 (土) ~ 2011/04/17 (日)公演終了

満足度★★★

安易に絶賛してよいものか
 「政治的」な演劇である。
 プロパガンダ性が強いとまでは言えないが、在日コリアンの差別問題を扱っている以上は「政治」を抜きにして語ることはできないし、そこにどうしても韓国人側に立った「偏り」を感じないわけにはいかない。
 とは言え、日本人が差別者でないと言いたいわけではない。実際に我々はこの国の「歴史」を知っている。この舞台を観ている時の我々の「居たたまれなさ」の正体は、「加害者としての罪悪感」だ。しかしその現実の歴史に根ざした「加害者意識」があるからこそ、在日韓国人を「差別にあった可哀想な人々」、日本人の一部を「韓国人をいじめる酷い人」という二項対立で描くその手法に疑念を抱かないではいられないのである。
 人間を、そんな単純な図式の中に当てはめちゃって描くのは、『水戸黄門』のような勧善懲悪のドラマならともかく、こうした繊細さを求められる演劇の場合は「やっちゃいけない」部類に入るんじゃないのかな?

ネタバレBOX

 たとえば、「焼肉ドラゴン」が国有地を不法占拠しているために、市役所命令で立ち退きを強制執行されるエピソードがある。
 日本人の市役所職員は、「在日はすぐに興奮して感情的になる」と“火病”をあげつらう発言をするのだが、そう口にする本人が、興奮して灯油缶を蹴る行為を繰り返す。言ってる本人の方が感情的というあからさまな戯画化だが、作者の鄭義信は、これを単に笑いを取るためだけに書いたのだろうか。そうだとしても、登場する在日韓国人が人間的に欠陥があっても決して揶揄される描かれ方はされていないのに、“在日を差別する日本人だけが戯画化される”ことには疑問を抱かざるを得ない。
 梶山季之『族譜』では、戦前、朝鮮人に創氏改名を迫った日本人を、こんな単純な鈍物としては描かなかった。五族協和を本気で信じるがゆえの「善意」の持主として描いていた。だからこそその「無知」が、民族の頃を無自覚に踏みにじるその残酷さが、観客の心に迫ってくるのである。対して『焼肉ドラゴン』の日本人描写は、悪い意味でコミックである。
 確かに、東京オリンピックから大阪万国博にかけての高度経済成長期、日本はそれまで放置してきた「戦後処理」の総仕上げのように国土開発を続けていった。全国各地で「不法占拠」されてきた土地が取り上げられ、住民が目腐れ金で追い出された例も少なくはなかった。
 しかし、『焼肉ドラゴン』は、、そうして住み慣れた場所を追い出されたのが在日韓国人だけではないという事実には触れようとしない。日本人の不法占拠者も同じように転居を余儀なくされていることには全く無頓着だ。在日コリアンの物語なのだから、そこまで描く必要はなかった、ということなのだろうか? しかし、そういった事情を知らない観客がこの舞台を観れば、「在日韓国人ばかりが差別に遭っていた」と思い込みはしないだろうか。
 龍吉は「佐藤さんに土地代を払った」(=日本人に騙された)と語るが、龍吉の場合はその通りであるのだろう。しかし、不法占拠と知っていて、その土地に居座っていた在日コリアンもいたはずである。みながみな被害者であったはずはない。そのことに鄭義信は一切触れようとしない。その結果、この物語では、「被害者としての在日コリアン」のイメージばかりが強調されることになる。

 “おかしなことに”、こうした歴史的事実について、『焼肉ドラゴン』には“なぜか触れない”部分が、かなり目立つのである。
 哲男が「金嬉老事件」のことに触れて、彼を差別と戦う英雄のように語るシークエンスもある。確かにあの当時、そのように彼を持ち上げる風潮があったのは事実であるが、彼の主張が自分に同情を集めるためのただの「口実」に過ぎなかったことは、彼の“後の犯罪歴”が証明している。しかし、そのことにも戯曲は決して触れない。そんな未来のことが語れるわけないじゃないの、というのは、正しい意見のように聞こえるが、一家離散の後、“理想の国”である北朝鮮へ行こうとする哲男・静花の二人の「未来」については、はっきりと不幸が待っていることが語られるのだ。
 金嬉老についても、静花に「人殺しをそんなふうに誉めるなんて」とひとこと言わせれば相対化できることだ。しかし鄭義信はそれをしない。こうした「語られない」例はいくらでもあるので、やはりこれは「あえて語ろうとしていない」と結論づけざるを得ないのだ。

 先述した通り、私は日本人が加害者でなかったと言いたいわけではない。しかし、この戯曲に価値判断の基準に偏りがあって、歴史をよく知らない観客、時代を体験してこなかった人々には「語られていることだけが真実」と錯覚させてしまう部分が確実に存在している。「戯曲を読む」という行為には、「語られていない部分にこそ真実が潜む」という視点が必要になる。
 金一家の離散劇は確かに哀しい悲劇だ。鄭義信には、一人一人の人物の情感を丁寧に描く技量は確かにある。龍吉の「俺からどれだけのものを奪うのか」という絶叫に真実があることを認めるにやぶさかではない。しかしそこで涙してしまうのは、歴史に無知ゆえの面が少なくないのではないか。加害者としての意識があれば居たたまれなさの方が優先するだろうし、彼らの主張に「偏り」を感じれば、それこそ龍吉自身が述懐する通り「それは運命だよ」と言ってあげるしかない。ここで泣けるのは、彼らコリアンが、観客にとって結局は「他人」だからなのではないか。
 一般観客の無知を責めるのはいささか酷ではある。しかし、演劇人が、特に戯曲を自ら書く身の人間が、この戯曲の「あえて書かない部分」に気付かないというのは、いささか情けないと言わざるを得ないと思う。
「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査

「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査

福岡市文化芸術振興財団

ぽんプラザホール(福岡県)

2011/04/22 (金) ~ 2011/04/23 (土)公演終了

満足度★★★

両者の力量差は歴然
 コンペ作品2作を同時に☆評価させるというのはどうなのだろう。それぞれの項目を立てるべきものじゃないのだろうか。
 「柿食う客」を☆☆☆、「village80%」を☆☆として、「満足度」には「柿食う客」の方を入れることにする。
 しかし、「柿食う客」が演劇的に極めてアグレッシブであったのに対し、「village80%」は“頭でっかち”の印象が強かった。
 観る前はそれぞれの劇団のこれまでの活動を鑑みて、「どちらも個性を発揮していてよかった」くらいのことは言えるかと思っていたのだが、villageの力量不足はあまりにも明白である。学生演劇ならばまだしも、それなりに公演を重ねてきたプロの劇団としては、とても評価に値するものではない。演出が戯曲と乖離して、台詞を殺してしまっているのである。
 対して柿食う客は、本来ならこの戯曲の演出としては不適当な彼らのスタイルを、戯曲を解体することで強引に自らのものとして引き寄せて見せた。正攻法ではないという見方もできるが、演劇に何が正道で何が邪道かという規定はない。一見、不条理劇的ではあるが、一般客も充分に楽しめるものになっていたと思う。

ネタバレBOX

 戯曲と演出とは不可分である。演劇が総合芸術である以上、それは当たり前のことだ。villageの失敗は、演出が“先走った”結果なのではないか。渡部光泰の演出は、とても戯曲を読み込んだ上で考えられたものだとは思えない。
 テネシー・ウィリアムズの戯曲はミニ『欲望という名の電車』である。ムーア夫人の「虚言癖」は、『欲望』のブランチと同質のもの。自らのウソが作り出した妄想に飲み込まれた哀れな女の姿を描くことが第一の主題だ。作家もまた、彼が自称するチェーホフではない。
 しかし、作家が主張するごとく、夫人のウソは真実であって然るべきなのだ。哀れな女が哀れでなくなるための必死のウソが、どうして真実であってはいけないのか。だから作家もチェーホフであるべきなのである。
 この戯曲を演出するためのキモは、彼らの語る言葉が明らかにウソでありながら、真実かもしれない、いや、真実にしか思えないと、どうしたら観客に感じさせることができるか、その点にあったと言えるだろう。

 villageは、3人の登場人物の間に、6人の「白い服の人」を介在させた。ある時は3人の台詞をなぞり、ある時は3人に絡み、ある時は3人に弄ばれる6人の「彼ら彼女ら」は何者なのか。いや、ゴキブリだろうがシラミだろうがゴーストだろうが何者だって構いはしないのだが、問題なのは、彼らが演劇的存在として全く機能していない点である。
 狂言回しとして、コロスとして、物語を牽引するわけでもないし、黒子に徹するわけでもない。陰の主役を担わされているわけでもない。決定的にダメなのは、戯曲のテーマを浮かび上がらせる方法論を内在させていないだけでなく、かえって邪魔をしてしまっていることだ。
 舞台空間は、そこに人がいればいいというものではない。空間もまたそこにある「俳優」である。そして、この戯曲の場合、ムーア夫人を取り囲む空間は、彼女の「孤独」を演出している。それをごちゃごちゃした白い人で埋め尽くしてしまったことで、villageは舞台を「何の意味もない場所」にしてしまったのである。
 戯曲を読解する力もなく、マットウな演出ができないのなら、いや、あえて好意的に「戯曲の意味をわざと無視して、自分たち独自の演出がしたいのなら」と言い換えるが、その場合は戯曲そのものを解体して、自分たちのスタイルに合わせるくらいのことをしてもいいではないか、台詞だって翻訳通りのものに拘る必要はない。

 そう思って「柿食う客」版を観ると、villageの欠点が見事に解消されていたので驚いたのだ。
 戯曲の台詞が自由に組み替えられ、6人の俳優の役柄も随時移動し、繰り返される台詞は音楽と相俟って、いくつもの意味が重ねられていく。この台詞の重層化が、「台詞を解釈する時間」を観客に与えることになる。
 彼女は何者か、彼は何者か。一人一人の俳優の演技は、決して巧くはない。中には韓国人俳優もいて、発音すらたどたどしい。しかし同じ台詞を何度も聞かされた後、“明らかに他の俳優たちに比べて演技的に劣ってはいるが一生懸命に台詞を紡ぎ出す姿”を見た時、我々はそこに彼の「誠実さ」を発見することができる。最初は笑って彼の台詞を聞いているが、じきにそれが「感動」にシフトしていくのだ。
 だから最後の「ワタシハ、チェーホフデス」の台詞に、彼の優しさと労りを感じることができる。あたかもSF小説の中で、心を持たないはずの人形、ロボットに、人間の心が宿った、と感じられた時のように。

 villageも柿食う客も、決して巧い役者を揃えた劇団ではない。
 しかし、実際に舞台を観た時の彼我の差はいったい何によるものなのだろうか。基本的すぎることを言うようだが、やはり戯曲に向き合い、読み込むことができたかどうかの差だったのではなかろうか。
 villageは、奇を衒うことに躍起になるあまり、自分たちの演出にどのような効果があるか、という基本的な計算をすることを怠った。それが「観客不在」の独り善がりの舞台を現出させてしまった原因であろう。villageはまだ“演劇以前”のところで立ち止まってしまっているのである。
探偵〜哀しきチェイサー〜

探偵〜哀しきチェイサー〜

ココロ・コーポレーション

ももちパレス(福岡県)

2011/03/31 (木) ~ 2011/04/03 (日)公演終了

満足度★★★

探偵=沢田研二の妙
 友永麻里亜(高泉淳子)が、主人公・花山新太郎(沢田研二)のバー「Farewell」にやってきた時に頼んだカクテルがギムレットだった。
 ハードボイルド・ミステリーのファンなら、ここでレイモンド・チャンドラーの代表作『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』中の名台詞「ギムレットには早すぎる」を想起してニヤリとするところだろう。
 劇中で、花山は何度もフィリップ・マーロウやサム・スペードを気取る。そもそもバーの名前「Farewell」がチャンドラーのもう一つの代表作『さらば愛しき人よ(さよなら、愛しい人)』(Farewell,my lovely)から取られている。こうした「小ネタ」は決して「盗作」ではない。台詞やプロットをまるまるパクったりはしていないし、話の流れと関係なく過去作品の台詞を無理やりはめ込んだりもしていない。一部設定を借用しつつもオリジナルの物語を構築している。それがエピゴーネン(模倣)とオマージュ(賛辞)との決定的な違いなのだ。

 麻里亜は、自分の義理の娘・めぐみが何者かにレイプされ自殺した真相を知りたがっていた。花山が探偵だと知り、捜査を依頼するが、花山はいったんは依頼を断る。事件の真相をつきとめることが、他人の秘密を暴き不幸にする。そんな経験を繰り返してきて、すっかり嫌気がさしたと花山は言う。しかし、結局は麻里亜の頼みを聞かないではいられない。探偵は、「美女には弱い」のだ。
 このアンニュイでありながらどこか軽く、ユーモラスな花山を、沢田研二は自家薬籠中のものとして好演している。還暦を過ぎた沢田研二は、昔に比べるとすっかり太り、動きも鈍くキレがない。昼は探偵、夜はバーテンの二重生活者で、カクテルをシェイクする動きも雑で下手くそだ。カウンターを拭き掃除する時だけ妙にせかせかと動いて小市民的な性格が見え隠れする。
 しかし、その中年でだらしなく、かっこよさのカケラもない姿こそが、ハードボイルドミステリーの世界の中での「探偵」なのだ。 サム・スペードもコンチネンタル・オプもフィリップ・マーロウも、原作を読めば分かることだが、カッコよく見えるのはたいてい“やせ我慢”をしているだけだ。自分に力がなく、惚れた女を救うことも出来ず、口をついて出るのは愚痴や言い訳ばかり。それでも彼らが事件に立ち向かうのは、それが彼らの「仕事」だからだ。
 「タフでなければ生きられない。優しくなれなければ生きている資格がない」というハードボイルド探偵の金科玉条は、それが“自分には当てはまらないこと”だから、そうありたいという願いを込めて述懐されている言葉なのだ。

(以下のネタバレには本作のトリックや犯人について書かれていますので、DVDなどでご覧になる予定の方は、決して覗かれませんよう、お願いします)

ネタバレBOX

 友永めぐみをレイプし、自殺に追い込んだ外国人グループの主犯は、村岡兵庫県警本部長の息子・公彦だった。本城登美子からその事実を聞いためぐみの継母・麻里亜は、ニューヨークに渡り、公彦をオーバードラッグに見せかけて殺害、復讐を果たした。
 麻里亜が元看護師で薬物に詳しいこと、本城登美子が真犯人を知りつつも口をつぐんでいたこと、真相が明かされるための伏線はきちんと張られていて、ミステリーとしては過不足がない。

 「シャワーを浴びたら多分、君のことを抱いてまうわ。そうなってもええと思っていた。この部屋に入るまでは」「時々なあ、自分の仕事を本気で呪いとうなるわ。仕事言うよりは性分やな。探偵は俺の性分なんや。このまま話せば君にとって辛い話になる」
 麻里亜を真犯人と指摘する前の、花山のこの躊躇。ミステリーでは定番のシークエンスだが、これはダシール・ハメットの『マルタの鷹』のラストシーンにオマージュを捧げたものだ。花山は麻里亜を愛した。愛した相手を告発したくはない。しかししないではいられない。それは花山が「探偵」だからだ。それは、『マルタの鷹』のサム・スペードが犯人を告発した論理と完全に一致している。
 ハードボイルド・ミステリーへの敬意が、「哀しき探偵」への共感が、マキノノゾミにこれらの台詞を書かせている。沢田研二のけだるい演技と相俟って、この真相解明のシークエンスは、論理で成立している探偵小説の背景に、深い人間の情感が存在していることを鮮烈に描いた名シーンになり得ている。

 しかしそれでもなお、ミステリーとしての物足りなさを感じてしまうのは、被害者のめぐみと、犯人の公彦が一度も登場しないことである。
 時間的、空間的な舞台上の制約があるからだという理由は推測できるが、被害者と犯人の登場しないミステリーでは著しくサスペンス性を欠く。物語が言葉の説明だけで流れていくのはドラマ性を大いに減じることになる。
 マキノノゾミの主眼が必ずしもミステリーの方に傾いてはいず、神戸の下町人情の世界を描くことの方に注がれていたとしても、一応はミステリーの体を成しているのだから、観客としてはどうしても、台詞の説明だけで事件の顛末が語られる展開には違和感を覚えてしまうのだ。
 途中で挿入される直子の結婚詐欺話など、本筋に直接関係はないのだから、思い切りよく省いてもよかったのではないか。私はてっきり、直子を騙した男がめぐみのレイプ犯と同一人物で、「フェアウェル」にやってくるのかと期待してしまったのだが、何の関係もないと知って拍子抜けしてしまった。
 舞台よりも映画にした方が、ディテールをもっと詳細かつ情感を込めて描けただろう。演劇の同時性をうまく生かし切れなかった点が何とも惜しい。
14+

14+

FOURTEEN PLUS 14+

ぽんプラザホール(福岡県)

2010/05/20 (木) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

満足度★★

作り手の精神年齢が14歳
 宮沢章夫『14歳の国』を今なぜ上演しなければならないか、もちろんそこに意義はあるわけですが、それが観客に伝わる形で再構築されるまでには至っていないように思えます。
 原作は既に12年も前の作品で、その背景には神戸連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)があり、劇中でもそれを暗示する単語がいくつかつぶやかれるのですが、現代の「14歳」を中心としたティーンエイジャーの観客は、事件のことは殆ど覚えていないでしょう。彼らにとってもこの事件が「他人事ではない」と感じ取ってもらうためには、原作戯曲を現代の状況に合わせて、大胆に脚色、加筆する必要があったと思います。そうしなければ、この物語はただの「持ち物検査」の是非を問う程度のものとしか認識されない危険があります。
 いえ、大人ですら単純な教育問題を扱った物語としか受け取れていない様子を見ると、残念ながら今回の演出は殆ど失敗していると言わざるを得ません。一見、高い評価を受けているように見えますが、いずれの感想も原作戯曲のごく表層的な部分しか捉えていないのは一目瞭然で、そうならないことを演出は目指すべきであったのに、その視点が決定的に欠けていたことが残念でなりません。
 

ネタバレBOX

 そもそも『14歳の国』が提起していた問題は、持ち物検査によるプライバシー侵害の問題でもなければ、現代教育のあり方の問題だけに留まるものではありません。ましてや酒鬼薔薇聖斗の心の闇を探ることでもありません。教師と生徒、親と子、大人と子ども、人と人、その関わり方そのものに確たるものを見出せなくなっている現代、それを「教室」という空間によって象徴させようとしたものでしょう。しかし、宮沢章夫の原作は、決して普遍性を持ったものではなく、あの1997年の事件を想起する形でなければ観客への訴求力を持たない、極めて基盤の不安定なものです。
 教師たちがそこにはいない生徒たちの問題について語り合う設定は、すでに山田太一が『教員室』で描いています。時代は「校内暴力」が問題化していた頃で、教師たちは、暗闇からガラスを割って投げこまれる石に、自分たちの力の及ばぬ「何か」を感じ取って、恐怖に怯えていました。教師たちは自分たちが「人間」だと信じている。しかし、窓の外にいる「彼ら」は得体の知れない「闇」そのものでした。
 しかし、宮沢章夫が描く教師たちは、既に人間らしい心を持たなくなった、酒鬼薔薇聖斗と同じ「透明な存在」です。誰もが神戸殺傷事件の悲惨さに怯えていた12年前、実は「彼」を生み出したものが、この社会そのものではないのか、「彼」は我々の「写し絵」なのではないか、そこまで踏み込んで書かれたのが『14歳の国』という戯曲であろう、と思われます。タイトルの「14歳の国」とは、14歳の子供たちにとっての国という意味ではなく、「この国の全ての人間が14歳である」という、そこまで冷徹に見通した上で付けられたものではないでしょうか。

 事件当時は、16歳未満の未成年は刑事罰には問われないことになっていました。14歳であった「彼」の責任能力を認めないということは、「彼」はまだ「人間として認められていなかった」ということです。精神鑑定によって「問題」が指摘されたことも、「彼」の非人間性を証明しているように思えました。
 しかし、「彼」を「特殊な存在」と決めつけて、彼の「狂気」だけに責任を負わせようとしていた「大人たち」。つまり「我々」ですが、我々もまた「狂っていたのではないか」。即ち、生徒も同僚の教師の目も盗んで持ち物検査を行わねばならないと思いこんでいた「狂人」は、我々自身なのです。
 「子どもの持ち物検査を行わなければならないのではないか」、そう考えるのが「正しい」と誰もが思いこんでいた時代、あの1997年だったからこそ、この物語は、私たち一人一人の心に、「自分もまた狂っているのだ」という事実を、冷水を浴びせるかのように感じさせてくれていたのです。

 しかし、この戯曲を、現在そのまま上演しても、それだけの効果は生まれません。ここに感想を書き込んでいる誰一人として、神戸の事件に触れていないことが、演出の不備を証明しています。何となく事件のことを思い浮かべた人もいるかもしれませんが、この戯曲を理解する「重要な要素」だとまでは思い至らなかった、それどころか、劇中の年号を聞き漏らして、これが1997年を舞台にしていることにすら気付かなかった人もいるかもしれません。
 それは全て、戯曲の改訂と適切な演出を行わなかった演出家の責任です。

 一応、『14+』には大きく三つの特徴的な演出が行われてはいます。
 一つは教師の一人を女性にしたこと。二つ目は、教師の一人に博多弁を喋らせたこと。けれどもこの二つは戯曲を現代化、現実化することにたいして寄与していません。はっきり言えばしてもしなくてもいい演出です。
 一番大きな演出は、登場人物たちがいつも舞台の側に「人形」のように立っていて、出番が来た時だけ舞台に上がるというものでしたが、これは彼らの本質が「ぬけがら」であることを表現しようとしたものか。それにしてはたまに舞台の袖に隠れて道具を取ってくることもあって、この「人形演出」が徹底していません。「何となくの雰囲気づくり」以上の効果を生み出してはいないのです。

 6年前には佐世保で少女による同級生殺傷事件も起きました。漫画やゲームを模倣するかのように未成年の殺人が行われ、ものごとを短絡的に捉えたい人々は全ての責任をそういった「非実在」の作品に押しつけようとしますが、現実感を失い、透明な存在となっていたのは、そもそも「私たち大人」ではないのか。私たちがそもそもこれらの事件をすぐに「忘れ去っている」ことが、「狂っている」ことの証拠なのではないか。
 私たちは、どうやったって「正常」にはなれないのです。では「狂った我々はどうやって生きていけばいいのか、ただ最後の崩壊を待つしかないのか」。
 現代に『14歳の国』を再生する意味があるとすれば、そこまで描いてこそだと思います。時代を現代に移し、新たに起こった事件、新たに起こりうる事件、それらを付け加え、「まだ何も終わってはいない」ことを示さなければ、これは単に教師の狂気を描いただけの、あるいはただの教育問題を扱っただけのものにしか受け取られないでしょう。ましてや現代は、「14歳以上」が刑事罰の対象となり、12歳程度でも少年院送致が可能になるように、少年法が改定されているのですから。
 ついでに言えば、劇中にあるような「生徒の目を盗んだ持ち物検査」などは、現代では殆ど行われていないでしょう。保護者に許可を得た上での一斉検査もごく少数になっていると思われます。その意味でも、この劇の設定は現代に合致していません。教師たちの存在、台詞が既に「うそっぽい」ので、彼らの狂気もリアリティを欠いた形だけのものに留まってしまっているのです。


 作品についての感想は以上で終わりですが、演出家による、一部の観客の感想に対する感情的な反発については残念としか言いようがありません。演出家が「裸の王様」になっていて、周囲の誰も「王様は裸だ」と指摘してもらえない、そういう可哀想な状況になっていることが露わになってしまいました。
 批判的な意見に対して、シンパらしい観客が、感想も書かずに星だけ五つ付けているのも頂けない。
 こういうことは「やっちゃいけないことだ」と叱ってあげる大人が、福岡の演劇界にはいない、このことが一番の問題であるようです。
(この最後の感想は演出家氏と観客に対してのもので、作品評価の星には反映させていません)
『博多テクニカ女王街ラバー』(無事終了しました!)

『博多テクニカ女王街ラバー』(無事終了しました!)

劇団ぎゃ。

ぽんプラザホール(福岡県)

2010/06/24 (木) ~ 2010/06/27 (日)公演終了

満足度★★

劣化コピーはどちらか
 「不老不死」をテーマとした作品は、演劇のみならず、映画、漫画でもよく見かけます。まして「人魚」がモチーフとなれば、高橋留美子『人魚』シリーズをどうしても想起しないではいられません。実際、白髪の少女とか世話役の婆とか、『人魚』シリーズのイメージを踏襲したようなキャラクターが出てくるのですから、観ているこちらは気恥ずかしくなってきます。
 もちろん設定をそのまま「借りて」くるのではまずいと判断されたのでしょう、『人魚』シリーズはあくまで伝奇物語ですが、本作はSF風味の味付けを施して差別化を図っています。
 でもそれもどこかで見たようなイメージばかりで、やはり新鮮さを感じません。作り手はこういうのをうきうきしながら楽しんで書いているのかもしれませんが、観客から見れば作者自身の自己満足としか受け取れません。

ネタバレBOX

 「どこからが嘘でどこまでが本当か」、一応は博多の色街の移転を題材にしてはいますが、別にどこの色街だろうと成り立つ話です。人魚が実在した話などはハナからファンタジーなので、無理に現実と絡めると不自然になるばかりです。作者は 「虚実皮膜」の意味を勘違いしているとしか判断できません。
 話し言葉がどうして博多弁ではないのか、明治を舞台にしているのに、やたら現代のカタカナ語が出てくるのはなぜなのか(「クローン」と言わずに「培養」と表現したのには一瞬ホッとしたのですが、そのあとすぐに「劣化コピー」なんて言葉が出てきて萎えました)。言葉について鈍感なのも、全体の印象を薄っぺらなものにしてしまっています。
 野田秀樹あたりから、時代物でも平気で現代語を使う傾向が強くなりましたが、それが演出意図ではなくて、単に「作者が昔の言葉を知らないから」としか思えないパターンが増えました。特にこのお話は、時代が明治から平成の現代にまで移るのですから、言葉が今も昔も同じだというのは手抜きにしか見えません。

 お話が「借り物ばかり」であるのも困ったことで、『人魚』シリーズばかりでなく、『エヴァンゲリオン』からも露骨な借り物が目立ち、培養槽やそれをたたき壊すシーン、「私は二人目だから」みたいな台詞に至っては、誰か「それはやめようよ」と言ってやる人間はいなかったのかと頭を抱えたくなります。こういうのが「創作者としては恥ずかしいこと」なのだという感覚が、福岡演劇の中に育っていない、そのこと自体が問題であるように思えます。

 人魚と人間の恋の組み合わせも、ちょっと数が多すぎて散漫になってしまいました。おかげでメインになるべき名月さんとミツクニ君、遣り手婆の話を掘り下げるまでに至らなかった、これも脚本の失敗であると思います。
スカ☆ブラ

スカ☆ブラ

グレコローマンスタイル

西鉄ホール(福岡県)

2010/06/18 (金) ~ 2010/06/20 (日)公演終了

満足度

これは評価していいものなのか
 チラシを見れば、これが映画『ブルース・ブラザース』にオマージュを捧げたものだということは分かります。
 興味を引かれたのも、それが一番の理由でした。けれども、ここまでそっくりだとは思ってもいませんでした。これは既に「模倣」を通り越して「盗作」になってはいないでしょうか。
 和太鼓やバンド演奏が素晴らしかっただけに、残念に思います。

ネタバレBOX

 世の中には「似ている」お話はいくらでもあります。
 日本には「本歌取り」の伝統もありますから、元のお話を換骨奪胎したり、パロディにしたり、それ自体は「盗作」とは言えないでしょう。海外にも『ロミオとジュリエット』を改作して『ウエストサイド物語』を作った例があります。
 けれども、『ウエストサイド』は、設定こそ『ロミオとジュリエット』に題材を借りていても、台詞は全くのオリジナルです。

 『スカ・プラ』では、『ブルース・ブラザース』とストーリーが一致しているだけでなく、あるシーンを殆どそのまま真似たところが何カ所かありました。
 魚住がジェイをマシンガンで狙うシーンの台詞は、オリジナルでキャリー・フィッシャーがジョン・ベルーシを狙う時のものと全く同じです。結婚式をドタキャンされたこと、ジェイが「プリーズ」と嘆願して「地震に台風、イナゴの大群にも襲われて」と言い訳した後、魚住にキスして捨てていくところまで、完全に一致しています。これを「オマージュ」と呼ぶのには無理があります。

 作者が『ブルース・ブラザース』をこよなく愛していることは分かります。けれども仮にこの舞台をジョン・ランディスなりダン・エイクロイドなりに見せたら、確実に原作権料を請求されるでしょう。これは「やっちゃいけない」ところにまで踏み込んでしまっている事例だと思います。

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