焼肉ドラゴン 公演情報 新国立劇場「焼肉ドラゴン」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    安易に絶賛してよいものか
     「政治的」な演劇である。
     プロパガンダ性が強いとまでは言えないが、在日コリアンの差別問題を扱っている以上は「政治」を抜きにして語ることはできないし、そこにどうしても韓国人側に立った「偏り」を感じないわけにはいかない。
     とは言え、日本人が差別者でないと言いたいわけではない。実際に我々はこの国の「歴史」を知っている。この舞台を観ている時の我々の「居たたまれなさ」の正体は、「加害者としての罪悪感」だ。しかしその現実の歴史に根ざした「加害者意識」があるからこそ、在日韓国人を「差別にあった可哀想な人々」、日本人の一部を「韓国人をいじめる酷い人」という二項対立で描くその手法に疑念を抱かないではいられないのである。
     人間を、そんな単純な図式の中に当てはめちゃって描くのは、『水戸黄門』のような勧善懲悪のドラマならともかく、こうした繊細さを求められる演劇の場合は「やっちゃいけない」部類に入るんじゃないのかな?

    ネタバレBOX

     たとえば、「焼肉ドラゴン」が国有地を不法占拠しているために、市役所命令で立ち退きを強制執行されるエピソードがある。
     日本人の市役所職員は、「在日はすぐに興奮して感情的になる」と“火病”をあげつらう発言をするのだが、そう口にする本人が、興奮して灯油缶を蹴る行為を繰り返す。言ってる本人の方が感情的というあからさまな戯画化だが、作者の鄭義信は、これを単に笑いを取るためだけに書いたのだろうか。そうだとしても、登場する在日韓国人が人間的に欠陥があっても決して揶揄される描かれ方はされていないのに、“在日を差別する日本人だけが戯画化される”ことには疑問を抱かざるを得ない。
     梶山季之『族譜』では、戦前、朝鮮人に創氏改名を迫った日本人を、こんな単純な鈍物としては描かなかった。五族協和を本気で信じるがゆえの「善意」の持主として描いていた。だからこそその「無知」が、民族の頃を無自覚に踏みにじるその残酷さが、観客の心に迫ってくるのである。対して『焼肉ドラゴン』の日本人描写は、悪い意味でコミックである。
     確かに、東京オリンピックから大阪万国博にかけての高度経済成長期、日本はそれまで放置してきた「戦後処理」の総仕上げのように国土開発を続けていった。全国各地で「不法占拠」されてきた土地が取り上げられ、住民が目腐れ金で追い出された例も少なくはなかった。
     しかし、『焼肉ドラゴン』は、、そうして住み慣れた場所を追い出されたのが在日韓国人だけではないという事実には触れようとしない。日本人の不法占拠者も同じように転居を余儀なくされていることには全く無頓着だ。在日コリアンの物語なのだから、そこまで描く必要はなかった、ということなのだろうか? しかし、そういった事情を知らない観客がこの舞台を観れば、「在日韓国人ばかりが差別に遭っていた」と思い込みはしないだろうか。
     龍吉は「佐藤さんに土地代を払った」(=日本人に騙された)と語るが、龍吉の場合はその通りであるのだろう。しかし、不法占拠と知っていて、その土地に居座っていた在日コリアンもいたはずである。みながみな被害者であったはずはない。そのことに鄭義信は一切触れようとしない。その結果、この物語では、「被害者としての在日コリアン」のイメージばかりが強調されることになる。

     “おかしなことに”、こうした歴史的事実について、『焼肉ドラゴン』には“なぜか触れない”部分が、かなり目立つのである。
     哲男が「金嬉老事件」のことに触れて、彼を差別と戦う英雄のように語るシークエンスもある。確かにあの当時、そのように彼を持ち上げる風潮があったのは事実であるが、彼の主張が自分に同情を集めるためのただの「口実」に過ぎなかったことは、彼の“後の犯罪歴”が証明している。しかし、そのことにも戯曲は決して触れない。そんな未来のことが語れるわけないじゃないの、というのは、正しい意見のように聞こえるが、一家離散の後、“理想の国”である北朝鮮へ行こうとする哲男・静花の二人の「未来」については、はっきりと不幸が待っていることが語られるのだ。
     金嬉老についても、静花に「人殺しをそんなふうに誉めるなんて」とひとこと言わせれば相対化できることだ。しかし鄭義信はそれをしない。こうした「語られない」例はいくらでもあるので、やはりこれは「あえて語ろうとしていない」と結論づけざるを得ないのだ。

     先述した通り、私は日本人が加害者でなかったと言いたいわけではない。しかし、この戯曲に価値判断の基準に偏りがあって、歴史をよく知らない観客、時代を体験してこなかった人々には「語られていることだけが真実」と錯覚させてしまう部分が確実に存在している。「戯曲を読む」という行為には、「語られていない部分にこそ真実が潜む」という視点が必要になる。
     金一家の離散劇は確かに哀しい悲劇だ。鄭義信には、一人一人の人物の情感を丁寧に描く技量は確かにある。龍吉の「俺からどれだけのものを奪うのか」という絶叫に真実があることを認めるにやぶさかではない。しかしそこで涙してしまうのは、歴史に無知ゆえの面が少なくないのではないか。加害者としての意識があれば居たたまれなさの方が優先するだろうし、彼らの主張に「偏り」を感じれば、それこそ龍吉自身が述懐する通り「それは運命だよ」と言ってあげるしかない。ここで泣けるのは、彼らコリアンが、観客にとって結局は「他人」だからなのではないか。
     一般観客の無知を責めるのはいささか酷ではある。しかし、演劇人が、特に戯曲を自ら書く身の人間が、この戯曲の「あえて書かない部分」に気付かないというのは、いささか情けないと言わざるを得ないと思う。

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    2011/04/24 09:09

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