「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査 公演情報 福岡市文化芸術振興財団「「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    両者の力量差は歴然
     コンペ作品2作を同時に☆評価させるというのはどうなのだろう。それぞれの項目を立てるべきものじゃないのだろうか。
     「柿食う客」を☆☆☆、「village80%」を☆☆として、「満足度」には「柿食う客」の方を入れることにする。
     しかし、「柿食う客」が演劇的に極めてアグレッシブであったのに対し、「village80%」は“頭でっかち”の印象が強かった。
     観る前はそれぞれの劇団のこれまでの活動を鑑みて、「どちらも個性を発揮していてよかった」くらいのことは言えるかと思っていたのだが、villageの力量不足はあまりにも明白である。学生演劇ならばまだしも、それなりに公演を重ねてきたプロの劇団としては、とても評価に値するものではない。演出が戯曲と乖離して、台詞を殺してしまっているのである。
     対して柿食う客は、本来ならこの戯曲の演出としては不適当な彼らのスタイルを、戯曲を解体することで強引に自らのものとして引き寄せて見せた。正攻法ではないという見方もできるが、演劇に何が正道で何が邪道かという規定はない。一見、不条理劇的ではあるが、一般客も充分に楽しめるものになっていたと思う。

    ネタバレBOX

     戯曲と演出とは不可分である。演劇が総合芸術である以上、それは当たり前のことだ。villageの失敗は、演出が“先走った”結果なのではないか。渡部光泰の演出は、とても戯曲を読み込んだ上で考えられたものだとは思えない。
     テネシー・ウィリアムズの戯曲はミニ『欲望という名の電車』である。ムーア夫人の「虚言癖」は、『欲望』のブランチと同質のもの。自らのウソが作り出した妄想に飲み込まれた哀れな女の姿を描くことが第一の主題だ。作家もまた、彼が自称するチェーホフではない。
     しかし、作家が主張するごとく、夫人のウソは真実であって然るべきなのだ。哀れな女が哀れでなくなるための必死のウソが、どうして真実であってはいけないのか。だから作家もチェーホフであるべきなのである。
     この戯曲を演出するためのキモは、彼らの語る言葉が明らかにウソでありながら、真実かもしれない、いや、真実にしか思えないと、どうしたら観客に感じさせることができるか、その点にあったと言えるだろう。

     villageは、3人の登場人物の間に、6人の「白い服の人」を介在させた。ある時は3人の台詞をなぞり、ある時は3人に絡み、ある時は3人に弄ばれる6人の「彼ら彼女ら」は何者なのか。いや、ゴキブリだろうがシラミだろうがゴーストだろうが何者だって構いはしないのだが、問題なのは、彼らが演劇的存在として全く機能していない点である。
     狂言回しとして、コロスとして、物語を牽引するわけでもないし、黒子に徹するわけでもない。陰の主役を担わされているわけでもない。決定的にダメなのは、戯曲のテーマを浮かび上がらせる方法論を内在させていないだけでなく、かえって邪魔をしてしまっていることだ。
     舞台空間は、そこに人がいればいいというものではない。空間もまたそこにある「俳優」である。そして、この戯曲の場合、ムーア夫人を取り囲む空間は、彼女の「孤独」を演出している。それをごちゃごちゃした白い人で埋め尽くしてしまったことで、villageは舞台を「何の意味もない場所」にしてしまったのである。
     戯曲を読解する力もなく、マットウな演出ができないのなら、いや、あえて好意的に「戯曲の意味をわざと無視して、自分たち独自の演出がしたいのなら」と言い換えるが、その場合は戯曲そのものを解体して、自分たちのスタイルに合わせるくらいのことをしてもいいではないか、台詞だって翻訳通りのものに拘る必要はない。

     そう思って「柿食う客」版を観ると、villageの欠点が見事に解消されていたので驚いたのだ。
     戯曲の台詞が自由に組み替えられ、6人の俳優の役柄も随時移動し、繰り返される台詞は音楽と相俟って、いくつもの意味が重ねられていく。この台詞の重層化が、「台詞を解釈する時間」を観客に与えることになる。
     彼女は何者か、彼は何者か。一人一人の俳優の演技は、決して巧くはない。中には韓国人俳優もいて、発音すらたどたどしい。しかし同じ台詞を何度も聞かされた後、“明らかに他の俳優たちに比べて演技的に劣ってはいるが一生懸命に台詞を紡ぎ出す姿”を見た時、我々はそこに彼の「誠実さ」を発見することができる。最初は笑って彼の台詞を聞いているが、じきにそれが「感動」にシフトしていくのだ。
     だから最後の「ワタシハ、チェーホフデス」の台詞に、彼の優しさと労りを感じることができる。あたかもSF小説の中で、心を持たないはずの人形、ロボットに、人間の心が宿った、と感じられた時のように。

     villageも柿食う客も、決して巧い役者を揃えた劇団ではない。
     しかし、実際に舞台を観た時の彼我の差はいったい何によるものなのだろうか。基本的すぎることを言うようだが、やはり戯曲に向き合い、読み込むことができたかどうかの差だったのではなかろうか。
     villageは、奇を衒うことに躍起になるあまり、自分たちの演出にどのような効果があるか、という基本的な計算をすることを怠った。それが「観客不在」の独り善がりの舞台を現出させてしまった原因であろう。villageはまだ“演劇以前”のところで立ち止まってしまっているのである。

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    2011/04/24 03:34

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