満足度★★★
POPでキッチュ、そして
エロティック(というよりお下品)で、グロテスク。
混沌と雑然が織りなす大騒ぎ。
セットや装置もPOPだったり、グロテスクだったりと見所も多い。
高さや奥行きもある。
POPな衣装と、役者たちの醸し出す雰囲気は独特の世界観。そして生演奏がとてもいい。演奏しながら動くことで、音が動くのがとてもいいのだ。
ネタバレBOX
パンドン将軍一家の物語。
お下品で雑然とした一家に将軍は軍隊の規律を持ち込む。
やがて家族の軍隊は戦いの中、徐々に崩壊し、将軍はひとりとなる。
そして将軍は動物たちの家族を新たに手に入れる。
パンドン一家は、何と戦い、何を失い、何を手に入れたのか。
食べられる者たちの復讐ともとれるし、一家、あるいは将軍の妄想ともとれる。
エネルギッシュなダンスや振り付けは、生や性のギラギラ感を見せつける。
全力なダンスや演技は気持ちがいい。
もの凄い運動量だと感心した。
動物たちの雰囲気が面白い。ひっそりとしていて、やがてグロテスクな恐怖に変わる。
ただ、少ない台詞や歌詞が聴き取りにくかったのが難点。
また、同時多発的にあまりにもいろいろなことが舞台の上で起こっていて、すべてに全力なので焦点が定まりにくい印象。
全体を俯瞰するように見ればよかったのかもしれない。
とは言え、詳細なところに面白さが宿っていたりしたのだが。
先にも書いたとおりに、それぞれのダンスがとてもいい。
伸びるところで、すっと伸びる様は気持ちいい。それぞれの技量の高さがうかがえる。その技量の高さをもっと前面に見せてほしかった。つまり、見せ場のようなものがもっとあったほうがよかったのではないかと思ったのだ。
全体のテーマであろうし演出のためなのだろうが、混沌&雑然の中に、そうした個性が埋もれてしまったのが残念な気がするのだ。
また、物語性もあまり感じ取れなかった。部分部分では面白いと思ったところもあったのだが、見終わった全体の感想としては、あまり楽しめなかった。
単に合わなかったということなのかもしれない。
残念だ。
舞台とは関係ないのだが、問題は子ども連れの観客である。
始まってかなり経ってからその家族が入って来た。4人ぐらいの子ども連れ。舞台が行われているのに、子どもの声が聞こえてきた。もちろんヒソヒソ声ではあるのだが、結構響く。さらに1人の子どもが通路を上がって来てなぜだか階段に座ったりしてしまう。
驚いたのは、その子が席に戻り、なんと携帯ゲームを始めてしまったことだ。明かりが明々と点いている。なのに母親らしき女性は注意さえしない。たまりかねた周囲の注意で母親らしき女性は子どもに声をかけていた。しかし、子どもは下にうずくまったまま、ゲームを続けていた(明かりが漏れるのだ)。
そのうちゲームはやめたのだが、隣の子どもと突っつき合ったり、もぞもぞ動いてみたり、上着を脱いでみたり、また上着を頭からかぶってみたりとずっと動いている。ヒソヒソ声も聞こえる。
ずっと視線の端に入るし、もぞもぞした音も聞こえるので、舞台に集中できない。本当に迷惑だ。
極めつけは、カーテンコールのときに子どもが母親らしき女性に「つまんなかった」の一言。小さな声だが聞こえてしまった。
・・・しかし、細かいところまで覚えているな、と我ながらあきれてしまう(笑)。それだけ、気に障っていたということなのだが。
たぶん関係者の家族だろう(ファンならば、観劇するときの周囲への迷惑を考えるので、あり得ないと思うので)。知り合いが出ているとは言え(たぶん)、舞台に興味のない子どもは連れてほしくないし、じっとできない子どもの同伴もダメだろう。本当にイライラした。(もしそれが関係者の家族ならば)劇団側に一考を願いたい。
満足度★★★★
とにかく会話のリズムが心地良い
テンポのいい会話にのまれた感じ。
ひょっとしたら水面下ではそんな想いが渦巻いているのかということで、既婚者にとってはビター。
これからの人は「自分たちは違うもんねー」と思うだろうけど・・・。
ネタバレBOX
陶芸工房が開設されて1周年を祝うパーティが行われる。
その工房で行われている陶芸教室に通う主婦たちと、彼女たちの夫が訪れる。
主婦たちが胸に秘める夫との関係が会話の中から露呈していく。
ときめきを求める者、転勤に従わない者、子どもを事故で失ってから夫婦の中がうまくいっていない者、教室の若い先生と不倫をしそうな者。
彼女たちに共通しているのは、夫の自分への無関心さだ。
彼女たちの不満に気がついた夫たちは、自分も妻と同じ陶芸教室に通ったり、自分の気持ちを吐露したりするのだが、彼女たちの心の中に溜まった不満は厚く、その程度では晴らすことはできない。
さらに、工房の大先生の後妻は、先妻の子どもとのコミュニケーションがうまくとれず、イライラしている。大切に飼っていた犬もいなくなった。
そんな中、不思議な男が工房に訪れる。記憶喪失なのか、自分のことが思い出せない。
その彼を工房の息子は、子どもの頃一緒に遊んだといい、さらに姿が昔のままだと言う。
彼は一体だれなのか、そして、皆が抱える不安や不満はどこへ行くのか、という物語。
他人の家のことには平気に、そして強気に口出しできるけど、自分ちのことにはからっきし、みたいな感じ。
物語の解決または解決の糸口のようなものが、それぞれ見えてくるのかと思っていたら、そんなご都合主義的なラストを迎えることはなかった。不思議な男の正体も、本人は主張するが、それは本当なのかどうかもわからない。
つまり、解決はなし、なのだ。ま、現実はそんなものかと思ったりするのだが、何か方向だけでも示してほしかったような気がする。
和解はないのか、分かり合えることはないのか、ということだ。
皮肉なことに、工房を建てた大工の娘と若い大工はこれから結ばれようとしている。今目の前では、結婚のなれの果てたちの姿があるというのにだ。
謎の男の、物語への関与の仕方がうまいと思う。単なるリアルなものだけではなく、ちょっとした隙間に、伝承とともにうまく差し込んできたなと感じた。しかも、それも変にファンタジーとならないところがニクイのだ。
とにかく、役者がうまい。
冒頭、2人の男性の最初の台詞には、「・・・」と思ってしまったのだが、そこにいる和美(舘)がその2人のテンションをうまく持ち上げていて、「これはいいぞ」と思った。
そしてさらに、伸子(仲坪)と昌江(椿)が登場すると、もう、舞台の雰囲気は一気にヒートアップした。
とにかく全体の会話にグルーヴ感がある。
役者、特に女性陣の会話が、リズム感があるというのだろうか、とにかく素晴らしい。最後まで引き込まれた。決して長い上演時間ではなかったが濃厚な印象が残る。
そして、タイトルの「西から昇る太陽のように」なのだが、台詞にあったように、あるアニメの歌の歌詞(たぶんバカボン)だそうで、それを聞いて、太陽が西から昇るのだと和美は勘違いしたそうだ。
この作品の作者は男性だということだ。作者の性をもとに考えてしまうと(ひょっとしたらフェアじないかもしれないが)、タイトルの意味するところは、主役である主婦たちの「思い込み」について述べているのだはないかと思うのだ。
それはかなりイヂワルな見方かもしれないが、「アニメの歌詞により、誤った知識をすり込まれた」=「(世の中にあるいろいろな情報から)夫婦とはかくあるべきであるという思い込み」(自分たち夫婦にとっては誤った情報)にとらわれてしまった女性たちの話なのではないかということだ。
すなわち、彼女たちの思い込みは、「自分のところの夫婦関係はそうではない」それは「夫が自分を構ってくれない、理解してくれない、見てくれない」からだという感情を生んでしまい、それが不満となり鬱屈していくのだ。
もちろん、それに気がつかない夫の本当の鈍感さもあるのだろうが。
太陽は西から昇らないということは、学校で教わって知ることはできたのだが、夫婦の関係はかくあるべきだ、ということについての答えは誰も教えてはくれないだろう。
というより、他の主婦たちがそれなりにアドバイスをしていても聞く耳を持っていないようだ。
夫の声も耳に届かない。
答えはないだろうし。自分で出す以外には。
作者の横田さんは既婚者だろうか、そうだとしたら、自分の奥さんに「おまえの考えていることは、西から太陽が昇る、ということなんだぞ」とこの舞台を通じて伝えているんだったりして・・・ま、そんなわけはないけど(笑)。・・・夫の鈍感さもあるんだし・・。
こうなると、一体この夫婦たちはどうなるんだろうと見ていて、少し不安になるのだ。もちろん自分のことを振り返ってみて。
・・・なぞの男が訪れた森野夫妻には、ほんのちょっとだけ何かが見えたようなのだが。
だから、「結果」が、それも「少しハッピーな結果」がほしい観客が多かったのではないかと思うのだ。そうなると単なる人情モノになっちゃうんだけどね。
満足度★★★
カットバック&グロテスクな衛生(精神)博覧会
単に「並べてあるだけ」の感じがしてしまった。
期待が大きかった割には、残念ながら楽しめなかった。
ネタバレBOX
幕が開いて「病院みたいだな」と思ったら、結局そのまんまだった。
音と場面のカットバックによるオープニングから期待は高まったのだが、先に進むも、それ以上の深みのようなものは感じなかった。
後で二つ折りのパンフを読むと、作・演出の方は現役の精神科医とのこと。
「ああ、なるほど」とは後から思ったものの、舞台の上からは、その表層的なものしか受け取れず、それぞれの深いところへ連れて行ってはもらえなかった。
もちろん、私の受け取り方に関する問題なのかもしれないが。
本職の視点あるいは、本職とは思えないような歪んだ視点(あるいは偏見)が見せてもらえたら、もう少しは楽しめたように思える。
精神に異変をきたした人たちを、病室のような箱にきれいに並べて、まるで展示して見せているような悪趣味的な舞台に見えてしまった。
下着が見えることに関しては、どうでもいいかなと思ってしまった。楽しくもなければ苦しくもない、もちろん面白くはまったくない(下から風が起きるシーンはバカバカしくもあり、これは面白くなるのかと思ったりしたのだが)。
世代ごとに区切られ、それぞれの登場人物の妄想のようなものがカットバックのように示され、それが軽く交錯する。
世代と言っても、自称であるので、もちろんそのあたりも怪しくもあるのだが。
下着がキーワード。ワードというか、ポイントというか。それを「見せる」こと「見せてしまう」ことが、舞台上の彼らの、状態の比喩なのだろうが、それだけにしか見えない。
舞台の上で展開されるのは、作者のイメージの羅列なのだろうが、それはある一定の範囲内だけでのイメージに見え、枠からはみ出ることはない。
同じところをぐるぐる回っている感じで、最後まで突き抜けることはなかった。つまり、「・・・で?」ということ。
「ある一定の枠」は、全体が目指すベクトルを指し示しているようには思えず、舞台上で溜められつつあるエネルギーの向かう先がイマイチつかめない。
その方向は、作者の頭の中にあるのだろうか、それとも作者の頭の中でも未整理なのだろうか。
頭の中にあったとしても、未整理であったとしても、その「ぐるぐるした想い」のようなものは、観客である私にも届けてほしかったように思う。
ぐるぐる回りながら、一定の方向に突き抜けるようなエネルギーの放出があったのならば、カタルシスのようなものを感じただろうし、また逆にヴォルテージが徐々に高まりその頂点での肩すかしがあったのならば、それはそれで感動したかもしれない。
しかし、それは両方ともなく、ちょっと感傷的になりつつも、意外と平坦にラストを迎えてしまった。
否定的な言葉ばかりを書き連ねてしまったが、セットはいい感じで、役者はうまいと思った。セットも含めた「トーン」の統一感もいい。
また、マメ山田さんが黒い衣装でけたたましく笑いながらで登場するところは、グロテスク感が増大し、背筋がぞくっとした。
ところどころ笑いがまぶしてあるようなシーンもあったのだが、笑えるようには設定されていないので、笑えなかった。
ただし、巨大なトンカツには、不覚にもちょっとだけ笑ってしまったのだが。
満足度★★★★★
海獣の咆哮を聞け! 人はそれでも生きていかなくてはならないのだ
強いメッセージが込められた熱い舞台。
その熱さに乗せられ、観ているこちらもラストまで一緒に突っ走った。
120分は決して長く感じない。
ネタバレBOX
鈴木興産の倉庫(スタジオ)に入ったときから、「やっぱり桟敷童子だ感」が充満している。
倉庫だからできる大胆で大掛かりに組み上がったセットがそこにある。
期待感は高まるばかり。
やはり唄がいい。登場人物全員が叫ぶような歌声が染みる。
ここにも強いメッセージが込められている。
物語は、いつものような伝奇モノとは少し様相が異なっていた。
時は、幕末、ペリーの黒船が来航し、日米修好通商条約が締結され、横浜が開港されることになる。
横浜の小さな漁港にも、その波が強く押し寄せてくる。
漁師は海に出ることを禁じられ、異人のために作られる建設現場の力仕事で日銭を稼ぐ。攘夷を唱える侍が横行し、人を襲う。
そんな中、異人相手の女郎「らしゃめん」に、これからなる幼い女たちが女衒と女将に連れられて舞台となる小さな漁港にやって来た。
横浜に異人相手の遊郭ができるまでの間、面倒を見てほしいということなのだ。
彼女たち、らしゃめんは、異人を一定の場所に閉じこめるため、つまり、「お国のため」に働くと言う。それを頼まれた母娘は、親身になって見るからに痛々しい彼女たちの面倒を見る。
しかし、女郎たちは、異人に抱かれて鬼になってしまうという迷信を信じ、毒を飲み死を選ぶ。
それに気がついた村の人々は彼女たちを生き返らせようと一生懸命になる。
その騒ぎの中、海獣の咆哮が聞こえてくる。
舞台となる漁港と同じような漁港から売られてきたと言う女郎たちだが、実は地獄のようなところに生まれ育ち、そして地獄に売られていく。
地獄しか知らないので地獄でも懐かしく帰りたい場所であると思う彼女たち、そして彼女たちを待ち受ける境遇はあまりにも悲惨すぎる。
それでも生きていかなくてはならない。どんなことがあろうとも、絶対に死んではならない。そういう強いメッセージが舞台上から押し寄せる。
過剰すぎるほどの気持ちの表出がある。
逞しく生きる漁村の人々と、おびえ震える幼い女郎たちの対比。それを結ぶ、1人の女郎のカラ元気が悲しい。自分たちを大切にしてくれる家族にウソをついて、わざと波風を立ててしまうのは、自らの境遇がさせてしまうことなのだろうか。
同じ女郎仲間のために、自分が先にらしゃめんになると言う彼女の姿は美しくもあり、逞しい。
結局逞しい者だけ、生きることに欲望がある者だけが生き残っていく。
彼女1人だけが、毒を飲んだときに「生きたい」とあがいた。生きたいという強い気持ちがあるから生きていける。
そして、彼女たちを見守るのは、海神様ではなく、海獣様。
老いも若いも、富める者も貧しい者も平等に連れて行ってしまう海獣様。信仰の対象ではなく、恐れの対象だ。
しかし、救いでもある。海の向こうに救いがあるというのは、海の向こうからやって来た異人相手の女郎になる女たちにとっては皮肉でもある。
海獣様の咆哮を聞いて恐怖できる者は、生きる欲望がある。
また、この舞台では「お国のため」という言葉の欺瞞も強く指摘する。お国のためと言われてらしゃめんとなる彼女たちには、お国は何もしてくれなかったし、これからも何もしてくれないだろう。そんなことよりも、「食べて」「生きろ」ということなのだ。
役者がいい。うまいとかどうとかと言うことではなく、まっすぐに正面を見ているような姿勢と目の力がどの役者もいいのだ。そういう姿が心を打つ。だから桟敷童子は好きなのだ。
桟敷童子では、いつもスペクタクルのような舞台展開をついつい求めてしまうのだが、今回もラストはとてもよかった。凄いスペクタクルというわけではないのだが、思わず涙してしまったことは確かだ。少々センチメンタリズムすぎかもしれないが、とてもいい。
異人の妾になってまた村を訪れた女郎に、世話をしていた女房が「もう会うことはないだろう」とキッパリと言う様はセンチメンタリズムを突き抜けていた。
ちょっとだけ気になったのだが、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の一文をお札売りがさらり言うが、そのタイミングはそこでよかったのだろうか。
また、攘夷浪士が、女郎に切腹を迫るのだが、この一文を知らないと、斬り殺すのではなく、「なぜ切腹をさせる?」と違和感を感じたかもしれない。
それを舞台で説明してくれ、ということではないのだが・・・難しいところだ。
そして鈴木興産を後にするときには、すでに次回の公演も楽しみになっていた。
満足度★★★★
家族はいいものだ。そこには、まるで毛布にくるまっているような温かさがある。
何回も同じことを書いてしまうが、青☆組(吉田小夏さんの脚本と演出)にはやはり「品」のようなものを感じる。
しっとりとした上品さ。
昭和が舞台で、まるでモノクロ映画を観ているような柔らかさがある。
午后は、すっかり雪だけど、家の中には、いつも毛布にくるまっているような温かさがある。
そして、それがあることを信じている。
ネタバレBOX
確信犯的に入れたであろう、昭和のホームドラマの香りがするような紋切り型な台詞と(それほど多くはないが)、まさにステレオタイプな登場人物とを散りばめつつ物語は進行する。
意地悪く言えば「昭和レトロ・テーマパーク」のようなところに位置しそうなほどの、台詞と家庭・家族の様子がある。それはTVドラマや映画をひな形にしたような印象さえ受ける。
ただ、本質的なところで家族の在り方みたいなところ、普遍とも言える家族の姿に軸足があるので、それが昭和のパロディや昭和の時代劇(昭和はもはや時代劇だ!)に、ギリギリなってしまわないところがいい。
前作では、団地に熊がどこにでもある日常のように現れたのに、単なるメルヘンではなかったようにだ。
あいかわらず、時の重ね方が巧みだ。すっと、時間を遡ったり、時間が交差したり、それが物語に効果的に使われる。
そして、今回も役者がいい。昭和的な話し言葉な登場人物なのに、引き込まれてしまう。呼吸のタイミングなのか、何なのかわからないが、台詞が織り上げる世界が美しく上品に感じる。
うまい台詞が、役者の声のトーンによって、それはまるでビロードのように耳に届く。
それにつけても、男は弱い。昭和も平成も。弱いから怒鳴る。昭和の男性は怒鳴ることぐらいはできた、とも言える。同性として痛いぐらいによくわかる。
父親と夫が怒鳴ったり怒ったりするシーンは、逆に父親と夫が強く責められているようだ。それに対して、姉妹の間、姉妹と母親の間に流れる空気は緊密で堅固。
父親の年老いてからの様子(声だけしか聞こえないが)で少し安心したが、家族が一緒にいるときは、まるで孤立しているようでちょっと哀い。
でも、家族は嫌うことも見放すこともしない。
それは熊が住んでいる団地よりもメルヘンなのかもしれないが、家族というもものの本質はそうなのだと信じたい。
ひとつ気になったのは、主人公となる作家の女性の声色だ。日常でも一部の女性が使いときどき耳にする、自分の「地の声」ではない、トーンを高くして、まるで甘えたような声を出してたことだ。
「地の声」のところがところどころ出てきていたので気がついた。足の悪い彼といるところや家族といるところでは、特にその「作り声」が多かった。
演出でそうしているのかなと思いつつも、その切り替えがあまり明確でなかったので、非常に気になった。日常でも気になっているのでよけいにそう感じたのだが。
そして、どうでもいいことだが、個人的にバター飴とホワイトアスパラの缶詰には昭和の匂いが濃厚にした。
満足度★★★★
染み入る
「家族」ならではの、どうにもならない感情が静かに語られていた。
ネタバレBOX
言葉のトーンとリズムがやけに心地良い、長い独白に導かれて、家族と血縁と絆、そして「赦し」とが、ぐるぐるとつながっていく。
日常描写が続くのだが、特に何も起こっていない日常が、意外とゴツゴツとした手触り。各々がゴツゴツしたものを心に秘めているからだ。
何とかしたいと思っていてもどうにもならないゴツゴツしたシコリのようなものが日常の中にある。それは赦せないはずの父親のことだったり、仕事を辞めている夫のことだったり、会ったことのない妹のことだったり。
その日常が、薪割りの激しさに導かれるように、そして家族が予期しなかった養蜂家の訪れとともに少し変わっていく。
気持ちを表に出すこと、それが「赦し」であって、長男は自らの束縛から解放され、(たぶん)元小学校の先生も漫才のネタにすることで、やはり少し解放される。
好転していく家族は、新しい家族を迎え(養蜂家の男も含め)、ともにカレーを食べて笑顔になる。
純粋な津軽の言葉と、標準語とその中間ぐらいの言葉の使い分けの感じがやけにリアル。
准教授のポジションが、ややうっとうしさもあるものの、全体のトーンを明るくし、家族にとっては他人であるのだが、その言葉の端々に家族に注がれる温かい視線が感じられた。彼は、全体から浮いてしまうような役柄なのだが、それをうまく持ちこたえ、好演していたと思う。
残念なことに、一番の肝であるところの、長男が手紙を読んでからの激しい行動と、それを予見していたと思われる養蜂家の男と准教授のくだりがどうも理解できなかった。
舞台からのメッセージを見落としていたのかもしれない。もしそうであったら、申し訳ない。
満足度★★★★★
とてもよくできたシチュエーションコメディ
初めて観た劇団だった。
で、まだまだこんなに面白い劇団が世の中にあるんですねえ、とつくづく思った。
自分にとって都合のよくないことを、他人に知られたくなくてその場逃れをしたり、ウソをついたせいで、さらにどんどん深みにはまっていくという、まるでお手本のようなシチュエーションコメディ
ネタバレBOX
夫婦仲のあまりよくない主婦しのぶは、テニスコーチと家で会う約束をしていた。しのぶはテニスコーチに自分が結婚していることを告げていない。なんとなくのアバンチュールの予感。
そこで、かつての恋人で、いまだ独身のラジオDJミッチーが同じマンションに住んでいるのをいいことに、マンションの3Fにある彼の部屋を一時的に借りることにした。このマンションは家具付きであり、同じ部屋の形というのがミソとなる。
ところが、しのぶとテニスコーチがいるミッチーの部屋に、ミッチーの現在の恋人涼子が急にやって来てしまう。
涼子はミッチーが結婚していると思いこんでいる。ミッチーは結婚が面倒なので、そう思いこませているのだ。
そこでミッチーは、マンションの11Fのしのぶの部屋を自分の部屋であると涼子に思いこませることにした。その部屋にはしのぶ夫婦の赤ちゃんがいて、ミッチーには家庭があるのだと涼子に思い込ませるには、さらに都合がいい。
しかし、しのぶの夫が予定よりも早く帰宅してきてしまった。
また、マンションの部屋に火災報知器を散り付けに来た男がいたり、ミッチーの仕事仲間が彼の家を急に訪れたり、ミッチーの妹が婚約者をミッチーに合わせるために訪れたりと、人が増え、事態は深みにはまっていく。
次々と現れる人たちには、しのぶとミッチーは適当なことを言って納得させるのだが、別の人が現れて、顔を合わせると、話の辻褄が合わなくなってくるので、さらに、その都度、その場逃れのことを言い、なんとかその場を切り抜けようとする。
これが、しのぶとミッチーの2つの部屋で同時進行していく。
さて、しのぶとミッチーはこの事態をどう切り抜けることができるのか、彼らを取り巻く人々との関係はどうなっていくのか、というこの設定だけでも面白そうなストーリー。
スタートの「?」となる見せ方と展開がうまい。ここから見事に劇中に引き込まれた。
スタートから徐々に深みにはまっていき、面白さがテンポアップしてくるのが、とてもうまい。
この企みをうまく進行させたい、しのぶとミッチーには、次々に試練が訪れ、その場逃れの話をしてなんとかその場を切り抜けるようとする。
彼ら以外の人たちは、意味が違う内容の話をしているのだが、日本語特有の主語がなかったりする台詞のやりとりで不思議と辻褄が合い、勝手に納得してしまう。だからあらすじを知っていたとしても、笑えるし面白いと思う。実にうまい脚本だと思う。
あり得ない、とんでもないキャラがテニスコーチだけだったというのも、うまい配分だと思う。
この配分が多すぎると嘘くさくなりすぎるからだ。
彼の突拍子もないキャラのおかげで、しのぶのアバンチュール的な動きにリアリティがなくなり、後の彼女の夫との復縁に無理がなくなるということも計算の上なのだろう。
火災報知器取り付けに来た男の、抑えたテンションが、ドタバタしすぎそうになる雰囲気をうまく中和しつつ、彼もこの騒動に巻き込まれていくあたりの展開もよい。一本調子になりそうなストーリーに、ちょっとした理由がわかっているサブを入れることで、またぐっと物語が面白くなるのだ。
また、ドア2つ、さらに出入口が4個所の舞台の使い方がとてもうまい。その場にいてほしくない人物の隠し方、現れ方がとてもよく、さらに階の異なる別の部屋の出来事を一気に見せてしまうなどお見事。
すべて丸く収まるところに収まると思っていたら、最後の最後にミッチーのカップルにだけ、破局が訪れたのはちょっと意外だった。さらに追加でハッピーエンドがあるのかと思っていたので。
本当に面白かった。こうなると次回も楽しみになってきた。
次回への期待も込めて星5つとした。
満足度★★
物語の設定はよかったのだけど
・・・なんていうか残念。
メッセージの伝え方が、あまりにもストレート。
せっかくの演劇なんだから、その物語にメッセージを込めるだけで、すべて直接的な言葉にしなくても、と思う。
それを伝える演技も・・・、だった。
1時間55分が長く感じてしまった。
ネタバレBOX
神宮外苑の競技場に大学のゼミらしき人々が訪れる。引率する講師により、66年前にここでは学徒動員の壮行会があったことを告げられる。もちろん学生はそのことを知っているのだが、講師は今、自分たちに同じことが起きたらどうするのかと問いかける。
1943年の同じ競技場では、学徒動員壮行会が行われ、学生たちが行進をしていた。そして出征。
ジャングルの中、従軍看護婦とともに敗走する日本軍。その中に学徒動員の壮行会にいた2人の将校がいた。
さらに、近未来の同じ競技場では、第3次世界大戦が起こり、地下のシェルターに生き残った人々がいた。地上ではまだ戦闘が続いていた。
この時空を超えた3つのストーリーが、微妙なシンクロとともに進行していく。
なかなか面白そうな内容となりそうだった。
特に冒頭(ラストでもある)のシーンは衝撃的で物語の始まりはよかったのだ。
しかし、その3つは生命の糸で繋がっていることや、近未来に日本軍の兵士が幻のように現れるのだが、あまりドラマチックさは感じない。
命が繋がっていくことの大切さをもっと強調すべきではなかったのだろうか。近未来では「なんでこんなことになってしまったのか」ということや現代での「戦争に向かうことの恐れ」がやけに声高に叫ばれるのだが、どうも上滑りしてしまっており、命を繋ぐことの大切さにはうまく絡めていないように感じたからだ。
これはもったいないと思う。
また、幻で現れる(時空を超えて現れる)兵士は少々蛇足的に感じてしまった。
戦争に対するメッセージがあまりにも、メッセージ、メッセージしすぎというか、直接すぎて逆に伝わらない。
それを台詞にして発するのは、1人悦に入った感じの役者たちで、しかも、その台詞自体は、あまりにも紋切り型なので、聞いていて辛いものがあった。
物語がきちんとしていれば、直接的な台詞にしなくても伝わるのだということを言いたい。
内容に関しても、戦場で敵に遭遇し、仲間には降伏して生きろと伝えるわりには、自分は「敵と戦っているのではなく、戦争と戦っているのだ」と言いながらも、自らの死を選んでしまう学徒の少尉がいた。戦争と戦って勝つということは、とりもなおさず「生き残る」ということなのではないのだろうか。
生きることの大切さを訴えなければ、物語全体とのバランスがとれないように思える。ドラマチックにする、ということを取り違えてしまったようにしか感じられなかった。
また、冒頭の学生たちを競技場に連れて行った講師は、学生に何を学ばせたかったのかが、イマイチ伝わってこない。自分は出産で講師を辞め、学生には論文を提出させるだけという、放りっぱなしの状態なので、学生は単に論文をみんなで書いた(一部の学生は自分で本を探して読んだだけ)というだけで、何を学んだのかがまったく見えない。声高に、というか偉そうに「戦争が」と語る講師は、そんな抽象的なことを言うだけで、指導も何もしないのか、と呆れた。
こここそ、「出産=新しい命」そして「それを繋ぐことの大切さ」を観客に感じられるようにしてほしかったと思う。
どうも、設定は面白そうだったが、ストーリー的には少々雑な印象だ。
また、出演者が多く、いろいろな人が物語の中心に現れてくる、という手法なのだろうが、力量的な問題もあり、観ている側の視点が定まらず、芯がつかみにくい。
劇団の役者を1人でも多く出したいということはわかるのだが、そのレベルについて、つまり、舞台に立てるレベルかどうかは、もっと冷静に判断すべきだと思う。
台詞を覚えてしゃべることができればいいのではないのだから。
ダンスとの融合はとてもよかったと思う。ただし、もうひとつ身体にしなやかさが感じられなかったのは残念だ。
また、ダンサーを使うということからか、ダンサーが絡むシーンが多すぎる印象だ。ピンポイントで使用を絞ったほうが効果的だったと思う。
「生命」みたいなものの象徴として(確かにそんな使い方でもあったのだが)、もっときちんと全編を貫いてに使われていたら、かなりよかったのではないかと思った。「月の光」という大切なキーワードとともにそれができていたら良い舞台になっただろうと思う。
以上、厳しいことを書いてきたが、あらゆる場面で真面目であり、ダンスとの融合や物語の広がりはよかったので、今後に期待をしたいと思う。
Dプログラム ひょっとこ乱舞/shelf
中ホールにて。
映像+舞台
ひょっとこ乱舞20分+shelf20分
各劇団の良さは出ていたと思うが。
ネタバレBOX
【ひょっとこ乱舞】
劇団を紹介する映像はPVのように作り込まれていた。
舞台は「監禁」の話。不思議な展開。
ひょっとこ乱舞らしい雰囲気があり、短いながらも刺激的だった。
台詞のバランス&タイミングもいい。
中ホールクラスの劇場経験があるので、舞台の使い方もうまい。
ラストの放り投げ方は評価が分かれると思うが、この時間内であれば、これでよかったように思った。
【shelf】
中ホールの大きな舞台には合わないのでは、と思いつつも、集中して観てしまった。舞台の左右の空きは、余白に感じてしまったのだが。
佇まいがやはりいい。女優たちのオーラのようなものを感じたし、女優に関しては声も張りがある。
しかし、後半で、なぜか沖縄風の歌が流れる。しかも2コーラスも。
さっきまで、舞台では「ギリシャでは・・」と浪々と台詞が流れる「トロイアの女」を演じていたのだから、どうも曲との相性が悪いような。
shelfはまだ2回(両方ともイプセン)しか観ていないのだが、そのときはこんな感じではなかった。ほかの公演のときには、こんな風な歌の使い方するのだろうか。歌は、なかったほうがよかったな、と思う。
あえて星を付けるとすると以下のようになる。
【ひょっとこ乱舞】★★★★
【shelf】★★★
Cプログラム 第七劇場/チェルフィッチュ
劇団の紹介のような無料イベント。
映像で過去の作品を見せ、実際に舞台での上演もある。
各劇団とも映像と舞台合わせて20分で計40分。
中ホールにて。
無料パンフレットに今回関係する日本の劇団のプロモーションが収録されたDVD付き(「東京舞台」LIVE版のときに上映されたものと同じ内容)。
ネタバレBOX
【第七劇場】
台詞が音楽にかかっていて、とても聞き取りづらくて残念。
独特の雰囲気のエッセンスは味わえる。
未見だが、魅力的な劇団に見えた。
本公演もチェックしたくなった。
【チェルフィッチュ】
とても挑戦的な作品。
どんな展開になるのかとわくわくし、ひやひやし、途中でなんとなくにんまりとしてしまった。「演劇」のギリギリの淵に立っているというか。
人が立っているだけなのに、中ホールの舞台が狭く感じない不思議さ。
10〜15分程度なのだが、あえて星を付けるとすれば、以下のようになる。
【第七劇場】★★★
【チェルフィッチュ】★★★★
満足度★★★★★
高き彼物を熱く目指す
練り込まれてきちんと形になっているものが、提示されている感じ。
なんというか、きちんと仕事がされている感じが心地よいのだ。
観劇していて身も心も預けられるような安心感さえある。
ネタバレBOX
ストーリーは、主人公の元教師が、悩みを持つ少年と偶然出会い、彼が前に進むことを決意する手伝いをする。さらに、それをきっかけとし、元教師が自らの過去の秘密と向き合い、家族と再生していくというものだ。
加藤さんが演じる主人公の元教師の「熱さ」がいい。
「高き彼物」を目指す視線と姿勢がそこに感じられる。
その姿勢が、後に明らかになる彼の秘密の出来事を生んでしまうというのは皮肉である。
しかし、それに向き合うという姿勢もまた、この人だからこそ、と思わせる。
とはいうものの、それに向き合い家族や自分の愛する人に告白できるには、時間とタイミングが必要だったのだろう。
とても重い話を含んでいるのだが、気持ちの良い展開が先に待っている。
それは、あり得ないような展開であったとしても観客も望んでいるような方向である。
それが単なる秘密の告白だけが話の山場ではない、この舞台の面白さでもある。
深刻なのだが、明るく救いのある話、こんな物語を演じ、観客に伝えるのはとても難しいと思う。しかし、それを見事に見せてくれた。
小泉今日子の演じる教師もいい。
すっとした佇まいと同様の、自分が愛する元教師の驚くべき告白にも、いささか動じることなく、受け入れ、自らのものとするのだ。
そんな人に愛された人、つまり元教師の人柄までもうかがえる。
元教師の祖父もいい。
緊迫したストーリーになりがちな中にあって、緊張感を解きほぐすような、佇まいそのものがとてもいいのだ。
元教師の告白は、なんとなく『ベニスに死す』を思い起こした。
【《ハノイ》タンロン水上人形劇団】伝統芸能プラス
予約なしの当日券で観劇。
地下1階の広場に亀の形をした池が作られており、そこが舞台。
観客は立ってそれを取り囲むようにして観劇する。
いわゆる古典的な伝統芸能の上演かと思っていたら、少々違っていた。
ネタバレBOX
水上人形劇は、水の上を舞台として、池の後ろにすだれを下げそこから操演する。
いくつかのパートに分けられ、最初は、竜2頭が水を吐きながら泳ぐ、次は、極彩色の鳥のつがいに卵が生まれ、ひなが孵る話。
そして、子供たちが相撲をしていると、段々大きな子どもが現れ相撲に勝っていく。そこへ最初にいた子どもによく似た子が現れ、大きくて強い子どもに勝ってしまう。その子は、カッパに似た妖怪のような者だった。
と、ここまでは、水上演劇なのだが、突然観客側から人が現れる。
スーツにネクタイという男装の女性で、トランクを手に人類の進歩・進化について語る。その声を聞き、水の中から先ほどのカッパが現れる(人間の俳優)。
彼に、言葉と衣服と食べ物(マック)を与える。彼は、水の中の仲間、エビ、カニ、魚たちが止めるにもかかわらず、それにつられて水から出てくる。
そして、水の仲間たちも一緒に連れていこうとするが、彼らは水から出すと動かなくなってしまう。
彼は、与えられたモノを戻し、仲間と水の中へ帰っていく。
ラストは極彩色の動物たちが喜ぶ。
というストーリー。
実にわかりやすい。
水上演劇のほうの台詞はすべてベトナム語なので、実際は何を言っているのかまったくわからないのだが、ストーリーは追える。
20分の上演時間だし、スタンディングで観るには丁度いいと思う。
舞台となる池は見下ろす位置なので、後ろだと観にくいかもしれないが、前だと水がかかってしまうかもしれない。
星を付ける感じではないので付けないでおく。
満足度★★
【《台北》世紀當代舞團】しなやかでのびやか
台北の世紀當代舞團と矢内原美邦さんが組んで上演した40分の中編作品。
当方が内容をつかみそこねたか・・・残念。
ネタバレBOX
台北のイマを映し出すようなクラブ(語尾が上がるほうのクラブ)が舞台。
数脚の椅子と少し高い場所にたくさんのミラーボールで飾られたDJブース、そして背の高い鏡、さらに飲み物が置いてある小さなカウンターというシンプルな舞台装置。
ビートが効いた音楽に乗り、数人の男女が踊る。
そして、たどたどしい日本語で「1人で来た」と告げる。
台北の夜の街や市場の風景が、舞台に降りて来たスクリーンに大きく映し出される。
このスクリーンは、舞台の影を映し出したり、字幕用のスクリーンにもなる。
また、舞台から客席に降りて、観客も踊らせるような演出もある。
ダンスと台詞、そして映像が散文詩のような世界を織り上げる。
都会の孤独、なのかと思ったのだが、男女間に関する孤独と言ってもいいようだ。
舞台で繰り広げられるのは、(たぶん)男女間についてのみなのだ。
ダンスは延々そんな感じであり、ダンスそのものは、しなやかできれいな動きではあったが、もうひとつ内容的な深みを感じなかった。
台北の市場の様子(夜?)や町中で運動する人々の姿が映像で映されるのだが、その関係がイマイチわからなかった。
どうも消化不良。
中ホールの1階のみであったが、わざわざ台北から来た出演者に申し訳のないほどのガラガラぶり。
そもそも告知の方法・時期に問題があるのではないだろうか。
無料なのに。
満足度★★★★
「創作とは何か」と「レバノンの現状」を静かに語る
レバノンの現状と、さらに創作に対するメッセージが込められていた。
オリジナルの映画作品を下敷きにし、それを新たな作品に取り込みつつ、オリジナルにあった骨格をうまく利用するということで「創作」についての考察を、さらに再構築によって生まれつつある作品内容そのものには「レバノンの現状」を織り込んでいくという舞台だった。
ネタバレBOX
イタリア映画『特別な一日』の設定や台詞を使い、新たな作品を再構築する、という企画を、企画の段階でレバノンの検閲官にプレゼンテーションするという内容。
しかも、それを制作するのは、今回の舞台を作り上げた3人という設定であり、リナ・サーネーとシャルベル・ハベールは、自分の役をそれぞれ自らが演じ、プレゼンの場所には来ていない設定のラビア・ムルエは、検閲官を演じるという複層的な構成になっている。
プレゼンは、モニターに作品内容を示す写真を投影し、リナが脚本を読み上げ、作品の意図を説明し、シャルベルが生演奏で音楽を付けていく。
検察官は問題になりそうな個所を指摘し、リナはそれ対してさらに意図と理由を説明する。
検察官は、徐々に作品に取り込まれていき、プレゼンに協力する。最後は、自ら演奏に加わってしまうのだ。
映像を見せ、それを言葉で説明するというものなので、演劇的な要素は低い。
しかし、映像作品というわけではなく、それを説明して見せるのに、「検閲」という手法を使うところで、内容への指摘、その反証などが無理なく使われ、「創作」や「レバノンの現状」という2つのテーマが浮き彫りになっていく。
舞台で演じられる、検閲官と制作者のやりとりが「演劇的」な部分なのだが、プレゼンされる作品の内容そのものも、とても重要である。
プレゼンする新しい作品は、レバノンのベイルートが舞台となっている。もとになった映画ではローマが舞台で、ヒトラーのイタリア訪問パレードに町中の人々が参加するという設定であり、この舞台中の作品では、レバノンにある2つの政党のデモに町中の人が参加するという設定になっていた。
パレードやデモの熱狂は遠くで行われており、誰もいなくなりひっそりとした街の中に残された女と男が出会うという「ロマンス」的な物語がその中心となる。
映画のほうはイタリア映画らしいしっとりとした情感があるもので(あまりよく覚えていないが・笑)、舞台での作品は、そのロマンス部分(2人に何かが直接的に起きるような意味のロマンスではなく、出会いによって心が少し動くという意味のロマンスではないかと思うが)を少し残しつつも、レバノンの現状を静かに語る。
検閲官に作品内容を説明しつつも、「作品を創作する」ということは、実は「かつてあった作品の再構築と引用にすぎない」というメッセージが繰り返し語られる。
この舞台でプレゼンされる作品がまさにそれであり、あえてそうすることで新たな作品を生み出すことができるのかどうかということを、実際にわれわれ観客に提示しているのだ。
それは作品を創る側としては、挑戦的なテーマであり、自らも血を流すことになるかもしれないという諸刃の刃ともなる。
「創作とは何か」を自ら考えてみようとする作品なのだろう。
そういう「作品を作り上げる」という行為、「創作」について述べているだけでなく、作品の内容で語られるものについても興味深いものがある。
それは、例えば、現在のレバノンでの女性の立場やあり方、それは、戦時中のイタリアの女性のそれにダブってみえるし、ファシスト党が台頭していたイタリアと、この舞台の作者が語る、レバノンにあるファシスト的な要素もダブらせてある。
ということは、自国の政治活動り一部をファシズムと重ね合わせていることであり、レバノンの情勢はよく知らないが、とても怖いことではないかとも思う。
そういう重ね方が面白く、かつ刺激的でさえある。
レバノンの現状は、とても複雑怪奇で、一言では言えないような状況のようだ。宗教や宗教の中でも派や政治的な信条、その他いろいろな要素で分断混乱しているように見え、語られる内容はとても重いものがある。
デモを行う2つの大きな政党のことさえ、この作品を観るまでは知らなかったのだから。
新たにつくられる作品そのものの内容についても、日常生活に疲弊した女が男と出会うことによって、何かが変わっていく、心の中にさざ波が立つということが、静かに示されるのだが、それはとてもドラマチックなことであった。
実際にプレゼンされる作品は、観客のわれわれにも検閲官と同時にプレゼンされることになるのだが、男女の心の動きと、内容がはらむテーマの具象化(例えば、永遠に続くループだったり、家族の姿は一切見えないなど)がとても実験的で面白く、これが実際に映画になったとしたら、とても面白いものになるのだろうと予感させる。
と言っても、シネコンでロードショーされるような作品ではなく、ユーロスペースとかシアターイメージフォーラム的な劇場で単館ロードショーされるように作品であろうが。
イタリア映画『特別な一日』もまた観たくなった。
ちなみに生演奏される音楽は、エレキギターが中心で、ループを使う感じがリシャール・ピナスあたりを彷彿とさせ、また、ノイズ的な使い方やピアノや鍵盤ハーモニカとの合奏も心地よく、とてもいい雰囲気を持っていた。
満足度★★★★
どっひゃー。
こんな演出とは!
前半は、少々・・・だったのだが、後半からの展開には目を奪われた。
スサマジイ。
演出の力を見せつけられる。
もちろん、役者にもブレはない
ネタバレBOX
岸田國士氏の脚本の最初と途中に今回オリジナルの脚本を足したそうだ。
今回の追加部分は、客いじり的な要素があり、観客との距離を縮めるにはそれなりに面白かった。
・・ったのだが、それにより、もとの物語の芯が少々ぼけてしまったように感じた。
大切な夫、友吉を戦場に行かせたくないという妻の数代の行動が、この時代(あるいはどの時代であっても)、とても奇異なことであるということ、そう見えてしまうことに対する疑問の投げかけが物語のメッセージであろう。
したがって、その登場から突然歌い現れて、顔を歪める数代は見るからに奇異な存在として観客に提示される。
他の登場人物もほぼ変なテンションだったり、今風の話言葉や衣装なのだが、数代ほどは変ではなく、数代と比較すれば至って普通である。
将校家のひとびとの、数代の登場に戸惑う表情からもそれがうかがえる。
もともと数代はその存在が少々疎まれているようだし。
本来は、その中にあって数代が「浮き」、一般の人々との温度差が露になるのだろうが、冒頭の新たに追加したシーンには、客いじりなどもあり、その独特のテンションの余韻があるまま本編に突入するので、登場人物すべてがほぼ似たような、変なテンションの変な人たちに見えてしまう。
テンションが変なのではなく、現代風のチャライ感じの将校と女子高生のような将校の夫人のいでたちと、現代風の台詞という表面的な様子にも惑わされてしまっているだけなのだ。
そのために、数代の存在という物語の芯がぼけてしまったのではないのだろうか。
数代と他の登場人物たちの徐々に明らかになる差を明確にするためにも、この新たな追加シーンは、イメージのミスリードをしているのではないのかと思った。
さらに中盤に差し込まれた、将校の息子の恋物語も物語全体の中での位置づけが見えてこない。相手の娘の変なしゃべりも意味ありげなのだが。
登場人物の中で、衣装も演技も唯一シリアスなのは、数代の夫、馬丁の友吉である。彼だけがどうしてそうなのかがイマイチわからなかった。将校一家(一般の人たち)と数代の中間に位置する、あるいは何かに属することのないナチュラルな人ということなのだろうか。
数代を演じた大西さんの、口調、台詞回しのトーンにはしっとり感があり、重さがある。だから変なテンションのとき、あるいは変な顔をするときは、痛々しい。
その痛々しさが、伝わってくることがこの舞台のキモなのではないのかと思ってきた。それは痛々しいほどの人を想う気持ちであり、ホンネを口には出すことが憚れる時代の痛々しさでもあるのだ。
後半の変なテンション抜きの彼女の表情や台詞には、さらに凄みが加味され、これは凄いと思わざるを得なかった。
このトーンを持っている女優さんを使うのだから、彼女だけシリアスのままで、周囲の時代の波に乗っていてホンネを語ることができない人々のほうをハイテンションにする、というのが、(たぶん)正攻法に近い演出なのだろうが、それを選ばず逆の関係(周囲よりも数代のほうを変なテンション)にしたところが今回の舞台なのだと思った。
ラストに訪れる悲劇は、結局、自分の夫への強い想いが裏切られ、夫に対して「それだけ」としか言えなかった数代の絶望感と哀しみの現れなのだろう。
夫の出征に対して、死をもって抵抗した数代の行為は、この時代であれば、数代の思いとは裏腹に、逆に戦場に夫を送る妻の美談として祭り上げられてしまうのだろうな、という深読みもしてしまった。
満足度★★★
『鬼~贋大江山奇譚』スピーディで勢いはある
演出がスピーディ、演技には気迫があり、勢いがあった。
物語も面白さはある。
ただし、納得はできない。
ネタバレBOX
鬼と呼ばれる民がいた。それを都では退治するとい名目で次々と滅ぼしていた。
その中の生き残りの鬼の女、伊吹は、都の信綱に助けられ、100人鬼を殺せば人になれると言われ、鬼退治を続けていた。伊吹は信綱に惹かれていて、「人」になりたいと思っているのだ。
一方、かつて鬼退治で勇名を馳せた、信綱の昔の友、虎造は、無辜の民を殺戮することに嫌気をさし、自らが「鬼」となって、大江山で鬼の生き残りたちと徒党を組み、都を脅かしていた。
伊吹は、都の命により大江山の鬼退治に出かけるのだが、伊吹は虎造に見初められ、退治できずに戻ってきてしまう。
大江山の鬼たちを退治することを迫る都と大江山の虎造に挟まれた伊吹は悩む。
自分が鬼退治をするのは、「人」となって信綱のもとへ行くことなのだが、討たれる鬼の気持ちもわかるからだ。
戦いに勝った者たちが、「人」であり、負けた者たちは「鬼」と呼ばれ退治されるという歴史ロマン的なストーリーに、鬼の女、伊吹を巡る恋愛が絡むストーリーで、なかなか面白いと思う。
そんな話だが、前半は正直退屈してしまった。しかし、後半、鬼と都が対峙するあたりから、ぐっと面白くなってきた。
国の統一の名のもとに、都の周囲の人々を「鬼」と呼び征服してきた。
征服した側にとっては、統一した国づくりというのが、「正義」であり、征服された側にとっては、一方的に攻められ、その復讐が「正義」となる。
ここに、正義の名のもとの「暴力の連鎖」がある。
征服された側の生き残りたちは、徒党を組み、都を脅かす。都の人を襲い金品などを奪ったりするのだ。彼らにとっては、それは復讐であり、自らの行動には正当性があると思っている。復讐することが正義だからだ。
一方、都としては、住民を守るために彼らを排除しなくてはならない。しかし、最初は彼らの殲滅を目論んでいたのだが、途中からは、首領の首1つでよいとする。つまり、徒党を解散すればよいというのだ。
いったんそれで話は収まったのだが、鬼たちはやはり納得できず、再度都に反抗をする。
ここでポイントなのは、「鬼」として都のために働いた伊吹は、鬼退治の功績として「人」と扱われ、都に取り立てられているのだが、大江山の「鬼」虎造の愛を受け入れることで、再び都に立ち向かうことになるのだ。
このことは、つまり、愛によって、「暴力の連鎖」を「断ち切る」のではなく、また「繋いだ」ということなのだ。しかも、これが続くことを高らかに宣言する。
このストーリーは現代の映し鏡のようなのだが、単にそうであることを見せているだけで、どうあるべきなのか、のようなものや、解決を提示してくれない。問題提起というわけではなく、「暴力の連鎖」を宣言する伊吹の姿はまるでヒーローのようで、それを賞賛しているようにしか見えない。
ここは見ていて、すっきりしない、気持ちがよくないのだ。
また、細かいことだが、登場人物には、女性が2人出ている。そこで「美」「醜」(あるいは年増)という2軸の、ありがちな手法で笑いを取ろうとする。
美しくない、あるいは年齢が高いほうの女性を笑い者にするという手法だ。
もう、そういう設定はいいんじゃないかと思う。ストーリーに重さがあるだけに、そういう方法で笑いを取ろうとするのは、まったく楽しめない。
男性である私がそう思うのだが、女性の目からはどうなのであろうか(とは言うものの実際は、女性の観客はそれなりに笑っていたのだが・・・)。
殺陣はとてもいい。動きもキレも素晴らしいと思った。
しかし、ダンスシーンが何回かあるのだが、下手というより雑に見えた。
舞台が狭いからのびのびできないからか? 手足やフリの順番をただ追っているように見えてしまった。
いずれにしても、これは印象が悪い。殺陣ぐらいのレベルであればいうことなかったのだが。
劇中、レベッカや広瀬香美などの歌が流れる。それは、それほど悪くはないのだが、時代劇的な内容で「ロマンスの神様」で踊られるのは、ちょっと苦笑してしまった。
また、殺陣のところに流れる音楽のボリュームが大きすぎるのと、殺陣がいいのにその音楽があまりにもワンパターンで、せっかくの殺陣を殺してしまったように感じた。
さらに、殺陣中の台詞のときに、忙しなく音楽のボリュームをいちいち下げるのだが、音楽と生の声の台詞の音のレベルが違いすぎて、台詞が貧弱に聞こえてしまうのが、残念。
役者たちは力みのようなものがあったのだが、好演だったと思う。特に主人公の伊吹の面構えというか、目の感じはなかなか印象的。主人公を張っているという気迫を感じた。
これは公演自体とは直接関係ないのだが、観客の多くは、出演者の家族や知り合いが多いようで、温かい雰囲気だったのだが、関係者の知り合いらしき子ども連れを見かけた。その中で、終始、子どもと母親がしゃべったり、子どもが立ったり座ったり、動いたりという家族がいて、舞台への集中を妨げてしまった(ちょうど視線の端にその姿が入るし、声は意外とよく聞こえてしまう)。
子どもと見たい気持ちはわかるが、発表会ではなく、一般客もいるのだから、劇団側として前もって考慮してほしいなあと切に思う。
満足度★★★★
笑い至上主義
自分の持ち場では、ここぞとばかりに主張を強めるというのが、ここのやり方なのだろう。それがオーバーすぎるのだが。
ま、簡単に言えば、ドタバタ色が強すぎるというところだろうか。
そこが少々しつこく感じてしまったが、そういうものだと思ってしまえば、あとは楽で、最後まで飽きずに観られたのは確か。
ネタバレBOX
「ブンガク」とか「ブンガクの賞」というのは、ドタバタのための舞台であり、そこ対して何か思い入れとか、考えがあるようではなく、作家という存在そのものも、「普通の生活ができない人」のような、まるで大昔のイメージのまま。
さらに賞取りレースのドタバタも、あくまでもコメディの範疇を出ず、リアル感には乏しい・・・そういったリアリティだの思想だのは、どうでもよく、まずは、笑えること、笑いが中心にあることが大切なのだろう。
しかも、わかりやすい、ということも大切にしている。
わかりやすさと言えば、各キャラクターがくっきりとしている。まるで、太いマジックで輪郭をなぞったぐらいにキャラがくっきりしていてとてもわかりやすいのだ。
くっきりしたキャラが、そのキャラ通りに動くというわかりやすさ。
ただし、ホテルのウエイターの夏目は優柔不断な、一歩前に出ないキャラなのだが、結局はどうなりたいのかが、本人は決断したと言うわりにはグラグラしすぎだし、同棲している恋人がいるのにもかかわらず、あっさりほかの女に心を奪われるのも、なんだかなぁと思うものの、それも笑いのためにそうしました、と思えば、ま、それでもいいかと思う。
とにかく笑いが最優先になっていつつ、ストーリーもきちんとあるというところがここの特徴なのだろう。しかもほとんどの登場人物が、極端に戯画化され、かつハイテンション。
ただ、殺人事件が絡むのはいいとしても、登場人物の中から犯人が出るというのは、コメディ(しかもドタバタコメディの)の楽しさを削いではいないだろうか。
犯人探しの中で、疑わしい人が次々と変わりつつ、観客が「こいつは犯人か」と揺さぶられつつも、結局は、別にいた(登場人物以外にいた)、もしくは、単に小説の中の話だった、でもよかったように思える。
結局犯人だった編集者が「犯罪をしても賞を取りたかった」という台詞だけで、犯人とせずにここの部分の要件は足りたと思うのだ。
満足度★★★★★
ある意味、美しい舞台
脚本・役者・演出のどれをとっても、素晴らしいとしか言いようがない。
緩急の見事さ、舞台から放射される熱量にしびれた。
ここまでくると「美しい」と思ってしまう。
もちろん、このサイズの劇場ということも多分にあると思うが。
ネタバレBOX
いわゆる東京裁判をわずか95分程度で見せてくれると言う。
一体何が見せられるのか、あるいは何を見せてくれるのか、と思いつつ劇場に入った。
東京裁判の核心となるところを見事につかみ出し、われわれに見せてくれた。
戦勝国が一方的に裁く不公平な裁判ということだけでなく、被告人たちの「責任」や「罪」そのとらえ方の違いなどが、次々とあらわになっていく。
登場人物たちの、それぞれのバックボーンの持たせ方がうまい。
そのバックボーンからの発言があるので、いろいろな角度からこの裁判を見ることができるのだ。
余計な説明がないのもいい。
さらに、一人芝居のように、弁護人たちの台詞と演技だけが観客に届き、他の検察、判事、被告たちの姿も声も見えず、聞こえないという演出も効いている。
スピードを上げるところ、じっくり聞かせたいところ、それぞれをきちんとメリハリを持って見せてくれる。
ヒートアップするところ、呼吸を整えるところでは、観ている側もその呼吸になっていくようだ。
衣装のスーツは3つボタンや三つ揃えなどで雰囲気を出していたが、どうも眼鏡が気になってしまった。あとは帽子があったりすると雰囲気が出ていたかもしれない。
若い役者たちのノリに乗っているような、エネルギー溢れる演技が素晴らしい。
台詞間の間(ま)や、視線、表情、互いの言葉だけでないコミュニケーションのとり方など、細かいところでも見せてくれていた。
こんなに近いところで見ているのだから、ごまかしなどはきかない、まさに真剣勝負の姿があった。それは確実に心にも届いた。
これだけ、レベルがある程度揃い、観ていて気持ちいい演技もなかなかないと思う。
東京裁判を含め、戦前・戦中の歴史的な知識が多少でもあるとより楽しめる(逆にまったくないと楽しめないと思う)。
チケットもよく見るとなかなか凝っていた。
急遽時間ができたので、ダメもとで当日券で、と思ってでかけたのだが、観ることができてこれほどよかったと思ったことはない。
パラドックス定数、これから目が離せなくなった。
満足度★★★★
安定した舞台で楽しめた
重松清氏の小説の舞台化。
ベテランたちの安定した舞台で、安心して観られる。
特に加藤武さんの、最後まで衰えない、存在感のある声の張りは見事。
ネタバレBOX
定年を迎え、特にすることがない主人公山崎が、地域の自治会のひとたち、つまり、定年の先輩たちに出会う。彼らから、定年後の過ごし方のアドバイスなどを受けたりしながら、自治会の仕事に精を出す。
自治会の仕事をしながら、自分たちのニュータウンについて再確認し、さらに同じ世代のせつなさ、やるせなさを感じる。
そんな中、ニュータウンをランク付けするという雑誌の取材を通じて、ニュータウンとともに歴史を刻んできた自分たちの歩みを確認する。
そんな物語がビートルズの旋律に乗せて、繰り広げられる。
とにかく、安定した演技と演出で、すっと内容に入ることができ、まったく飽きずに楽しめた。
小説は読んでいたのだが、実際に動き会話する登場人物たちを観ていると、「ああ、こういう世代の方たちの話だったんだなあ」と改めて思ったり。話す速度とか、テンションとか。
小説のように泣けるという感じはなかった。悲哀とか切実さを感じなかったためだろう。
それは、舞台の上の主人公たちが、溌剌としていて、エネルギーがあったからだとも思うのだ。観客は、そういうエネルギーを感じ、希望のようなものを得たのではないだろうか。
観客には舞台の上と同世代またはそれに近い世代の方がかなり見受けられ、共感のまなざしとともに温かい笑いに包まれていたのが印象的だった。
ただ、30年前の私鉄沿線にあるニュータウンというと、一戸建てではなく、団地であり、一流企業をリタイヤして、悠々自適で有り余った時間を何に使うのかだけが悩みのタネっていうのは、贅沢だなあと思ったり。
そのような定年を迎えることのない私にとって、なんかピンとこないというのが、ホンネでもある。
満足度★★★★
【A面】あいかわらずの、というか、やや強めの、なんちゃらぶり
前作「サマーゴーサマー」と同様に、困った人が出てきて、それにしかたなく、本当にしかたなく、嫌々ながら、突っ込みまくるといういつもの「なんちゃらスタイル」。
腰がぐらりと砕けて笑うしかない、という感じもいつもの「なんちゃら節」で、それがぐだぐたとやって来る。
70分という上演時間もなんちゃら。
やっぱり好きだ、あひるなんちゃら。
ネタバレBOX
山奥の山荘のようなところで、ひたすらカセットテープのテープを引き出し、グニャグニャにしている3人組。
大学からの友人で、どうやら彼らは明日、初めての犯罪に手を染めるらしい。
そのためのテープを朝までに(朝というのは6時ということに決まった)作らなくてはならないのだが、特に困ったちゃんのナカヤマがまったく作業に身が入らず、ひたすら脇道に逸れてしまっている。
紅一点のハヤカワも最初はそれをたしなめる側だったのだが、軽いノイローゼ(台詞より)というか、ひどい妄想が始まり、わけがわからないことを言い張ったりする。
キシモトは、そんな2人をなんとかこちら側に来させて、作業を続けさせようとするのだが・・・。
そんなストーリーにどーでもいいような会話が続く。トイレにした石が動くとか、七不思議とはとか、リーダーがだれでルパンは誰なのかとか、イタリアのスパイだとか、コードネームがやもりだとか、的な。
そもそも、何の犯罪を企てているのかが、具体的に説明されなので、こちらが想像するしかないのだが(テープぐにゃぐにゃにして音が変になる変なテープレコーダーだ、と人を騙すというようなことか)、それが、ずっと引っ張られるだけに、ラストに至っても具体的な説明がないので(まさか台詞聞き漏らした?)、なんかすっきりしない。
また、ナカヤマみたいな人は、犯罪のグループ、というより、何かのチームワークが必要なときに入れないだろうとも思う。そんな正論的なことを言ってもしょーがないんだけどね。
犯罪を犯すことに対する心のブレーキとも違う、単なる困った人。
「犯罪」という見えないゴールに向かっているだけで、しかも途中の会話のアレなんで、不条理臭さえ漂ってくる。
軽いノイローゼにある人たちが、犯罪という妄想に囚われているようにも見えるし。
ま、きちんと、ところどころで笑わせてもらったのは確かなのだが。
というか、いまどきカセットテープっていうのも、なんちゃらだなあ。
「あひるなんちゃらって知ってる?」みたいな楽屋落ちなんかがあってちょっと新鮮だったりして。
困った人のレベルが、困った人というレベルをやや超えていて、ゆるく面白いというより、ちょっとむかついてきてしまう。イタイって言っても言い過ぎではない危険レベルに、たぶんいる。
「いつもよりアナーキーな」という劇団側の説明はここのことなのかもしれない。客演だけのB面があるだけに、ここはひとつ、思い切ったピンボールを投げてきたのかもしれないと思ったりして。
このむかつき度合いがどのへんで来るのかによって、あなたの「なんちゃら度」が決まるかもしれない。
早めにむかつく人は、なんちゃら度は低く、この舞台はなんちゃら苦行かもしれない。逆にまったくむかつくことなく、へらへらと笑って観られる人には、素晴らしいなんちゃら舞台になるだろう。
前作では、まったくむかつかなかった私をして、あまりの困ったちゃんぶりに、ちょっとイラッときてしまった。これはよくないことだ。いや、劇団側ではなく、私のほうが、だ。
「彼らの話すことは、彼らは本気で思って言っていると、受け取っていいのだろうか?」と何回も考えてしまうような、わけのわからない話が重なり合う。徹夜の際の独特のテンションとも違う変なテンション。
それは、独特のテンポと会話の応酬と間と、声のトーン。
この感じ、この感じが、いいんだよなぁ、もうへらへら顔で観ちゃってるんだよなぁ。
でも、この波に乗れない人は、わずか70分だが、辛いなんちゃら時間を過ごすことになるかもしれない。
波に乗るコツは、1つだけ、力を抜いてあきらめること、「なんちゃらすること」とも言い換えられるちゃら。
「ニーチェじゃなかった、にーちゃんだった」というギャグは、今のところ今世紀最大のギャグと記憶したちゃら。
客演だけのB面も気になるが見に行けそうにない。よその人たちだけでこの空気感を出せるのかがとても気になるちゃら。
一見誰にでもできそうで、誰にでもできるわけのないこと(つまり「なんちゃら」を)をやっているように思えるからだ。それは単なる思い入れによる、思い過ごしなのかもしれないちゃらが。