アキラの観てきた!クチコミ一覧

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非常の階段

非常の階段

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了

満足度★★★★★

社会・集団・組織・家族・非家族・イデオロギー・経済システム
演劇として、非常に完成度の高い作品だと思った。
観ながら直感的に思ったことを、あえてクローズ・アップして、誤読のように感想を書いてみた。


……感想は、マルクスの経済発展段階説から始まったりする。


(一気に書いたらとんでもない長文になってしまった。過去最長ではないか。文章や論点に破綻がありそうだが、できればあまり突っ込まないでほしい・笑)

ネタバレBOX

マルクスの経済発展段階説によると、資本主義のあとには共産主義がやってくるという。
特に60〜70年代には、それを信じていた知識人(学生も)たちが世界中にいた。
彼らはそれを目指そうとした。
そして、今、それを信じている人は、ほんの一握りではないだろうか。

なんてことをこの作品を観て思った。

その理由は、「企業」「家族」という2つの集団の対比があり、その中の詐欺師集団が、カンパニーを名乗っていることと、彼らのブラック経済が、ひょっとしたら日本経済へのプラスになるのではないか、と思ってインタビューをしている政府機関らしき人々があったこと、さらに平等というキーワードなどからだ。

そうした「社会体制」「経済システム」という見方でこの作品を観ていく(ほんの少しイデオロギーも)。
たぶん、かなり視点がずれた「誤読」であるとは思うのだけど。

大庭家という「家族」がある。
そして、「詐欺グループS」という「非家族」の集団(組織)がある。
いずれも「人」の集まり。

「家庭」と「企業」と簡単に言い換えてもいい。
2つの「集団」、2つの「組織」。

そして、その中間に、1人の登場人物「ナイト」がいる。
Sに属していながら、大庭家の一員でもある。
Sでは新人、大庭家とは血のつながった家族ではない。

経済活動を行う「組織(企業)」、つまりフォーマル・グループが成立するには「目的」が必要だ。
詐欺グループの目的は明確。人(主に老人)を騙し、金を得る。
対して、人が血縁などでつながる「組織(家庭)」、つまりインフォーマル・グループには「目的」は必要ない。

そして、「組織」の成員たちのモチベーションを維持するものも異なる。
企業組織でモチベーションを高め、維持するための、組織への忠誠心の源泉は「お金」ではない。自己実現なのである。もちろんその前には、マズローの欲求5段階説ではないが、「集団に属したい」と思う「社会的欲求」や、「他者から認められたい」という「尊厳欲求」がある。
ナイトにとっては、Sという詐欺グループに属すことで満たされ、さらに組織のリーダー格2人に、プレイヤーとして認められることで自己実現への道しるべさえ見えてくる。したがって、ナイトの忠誠心、Sという「企業組織」への帰属意識は高まっていくのだ。

家族組織への帰属意識を維持するものも「お金」ではない。言ってしまえば「愛」であり、「慣れ(習慣)」ではないか。
一緒に暮らすことでの「確認」から相互間で得られるものだ。
ナイトは、自分が大庭家の本当の子どもではない、ということの負い目がある。
しかし、同時に「家族」としての「甘え」もある。

この2つの「組織(集団)」で揺れ動くナイトが、現代社会の動揺の象徴ではなのではないか。
ざっくり言ってしまえば。
この際、「善」「悪」なんていうことはここでは関係ない。

まあ、テーマが「悪」なのだから、「悪」についても少し考えてみる。
マルクスは、プロレタリアは資本家に搾取されている、と言った。
これは「悪」なのか? マルクスは「悪」と考えた。
搾取することが「悪」ならば、「資本主義」は「悪」である。
だからこそ、「資本主義社会」の次には「共産主義社会」が来ると論じた。

この作品では、経済活動をしている「カンパニー」は、「詐欺」グループだ。
つまり、通常のルールから言えば、「悪」なのである。
ということは、(私の考えるところの)資本主義を詐欺グループに象徴させているのは、マルクスと同様に「悪」であるとしているのだろう。
これは偶然ではないだろう。「自由(経済)」による「格差」「不平等」の結果生まれた詐欺集団なのだから。
それを政府(らしき機関)が取り込もうとも考えている、というのも象徴的だ。
老人がため込んだお金を市中に回すことで、「不均衡」を是正しようと考えているという点では、大義名分としての詐欺グループと考えが一致している。

市場では、個人が自己の利益を追求し、自由に任せておけば「見えざる手」により、適切な資源配分が達成されるとアダム・スミスは言った。しかし、実際は、富は高きところから低きへは流れず、「経済的格差」が生まれてくる。その「格差」は結果、経済の「格差」だけに留まらない。
かと言って、すべてが平等である共産主義には進めない。理由は後で述べる。
したがって、Sにいる彼らは、彼らの(勝手な)理論によって、富を再配分している。

劇中では、政府機関もそれに目をつけてアプローチしている。
市場経済だけでなく、ブラック経済にも介入し、コントロールしようとしているのか、と考えるとなかなか面白い視点だと思う。
新自由主義だの、ケインズだのといった、ところについても考えると面白いのかもしれないが、この作品からは大きく外れるのでこれはここでやめておく。

さて、先に「共産主義には進めない」と書いたが、その理由はこうである。
すなわち、全人民にとって、自由と平等がある、共産主義社会というものが成立するには、(諸説があるが)すべての成員が「善人」でなくてはならないと言う。
そりゃ無理だ、思う。
「悪」は悪いものだが、「善人」もツラいというところか。
なので、この作品のテーマである「悪と自由」というものは、それにドンピシャなのではないかと思ったのだ。

そもそもマルクスが「階級闘争不可避」と言っていたが、資本家とプロレタリアとの「階級闘争」はなくなってしまった。
生産性の向上により、その階層(階級)が消滅してしまったのだから。

ドラッカーの著書に『ポスト資本主義』という興味深いタイトルの書籍がある。
その中で、資本家は知識労働者に、プロレタリアはサービス労働者になった、とあった。
なので階級闘争はなくなってしまったと。

しかし、「格差」はある。
「資本主義」だから、「ある」。
自由経済だから「ある」。

劇中でも盛んに「平等」という言葉が使われていた。
その意味するところは、「格差」なのだが、使われ方としては、自己の正当化である。
つまり、「なぜ、人を騙す仕事をしているか」の回答でもある。
自分を守るための理由としては、大きなくくりのほうが聞こえがいい。「平等」とかね。
実は「カンパニー」にいる彼らは、やはり「自由な」資本主義の中にいるわけで、プロレタリアではない。

では、経済システムはどこへ向かうのか?
先の著書でドラッカーは、「知識」がキーワードであるとしていた。
しかし、「格差」の中で、それを得、活用できるのかという疑問がある。
先にも書いたとおり、「経済格差」は「経済」に留まらないのだ。連鎖していく。

そこで経済的組織が向かうのが、大庭家で示された「家族(的)な組織」ではないか。
かつて「日本的経営」として言われていた終身雇用、年功賃金などは、社員を「家族」のように扱い、できるだけ長く会社にコミットメントしてほしいと願っていた。
しかし、経済の低迷、バブル崩壊以降、それが続けられなくなってしまった。
ところが、ここへ来て、やはり「人」だ。企業を支えるのは「人」だということで「人本経営」なる言葉も出てきた。

劇中では、大庭家は、ナイトを迎えてくれた。
ナイトは知らなかったのだが、家族として籍まで入れてくれていたのだ。
とても喜ばしいことなのだが、ナイトにとってはそこは、「もう戻れない場所」であった。

生きるために周囲に合わせて、自分の感情を出さずにいたことが、思い出をなくしてしまっていたということに気づくのだ。
「思い出は感情と結び付く」という、当たり前のことに気が付いてしまった。
当たり前のことだから、本人への衝撃も大きい。

「人は何のために生きているのか」と大上段に振りかざすことをしなくても、「足りないモノ」に気が付いて、それが絶望的に補うことができないということに気が付いてしまえば、「生きる意欲」「ソウル」もなくなってしまう。

『非常の階段』では、イデオロギーとしても社会・経済システムとしても、限界が来ている現代をSと大庭家、そして、その間にいるナイトによって表しているのではないか、と思ったのだ。
途中に差し込まれる「素」を演じる役者の姿は、まさに「それ」を示していると受け取った。

自由主義・資本主義の先にマルクス主義・共産主義はありそうもなく、「知識だ」と言われながらも途方に暮れて、でも、最後はやっぱり「人」なのだ、と言えるのではないか。

その意味において、ナイトの姉・千鶴が、ナイトが最初にいた詐欺グループのリーダー・大谷に「ナイトに会え!」と強く迫るシーンは、とても意味深い。
いわば、作品の中の光明だ。
大谷は、ナイトを(方便としてだが)「必要だ」と言った人であり、千鶴は「家族」の代表だ。
2つの「組織(グループ)」が「ナイト」でつながり、ナイトが生きるための第一歩であるからだ。
やっぱり「人」でないと、「人」は助けられない、「人」は生きることができない。
資本主義の先には「人」がいる。

最後の群舞(私が勝手に「ひょっとこフォーメーション」と名付けた群舞)は、やはり「人」の流れに見えた。久しぶりの群舞、とてもよかった。

詐欺グループのリーダー・大谷を演じた倉田大輔さんが、中盤からリーダー的素養を全開し、グイグイとやってくるところ、頭も良さげなところが上手いと思った。
大庭家の父を演じた宮崎雄真さんも、詐欺グループとは違う、大庭家の空気を生み出しているようで良かった。
ナイトを演じた渡邉圭介さんもいいし、姉・千鶴を演じた笠井里美さんもあいかわらず上手い。

「家庭」である「大庭家」は、家長としての男親がいて、子どもたちはナイトを除くと女性ばかりである。対する「S」は、リーダーが男性で、女性も1人いるものの、男性社会である。
この対比、あえて、だと思うのだが、実は、作の広田さんの無意識から出たものではないか、なんて思ったりしている。
コンタクト

コンタクト

水素74%

アトリエ春風舎(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/23 (火)公演終了

満足度★★★★

終演後、アトリエ春風舎を出るときに
「今の芝居、面白かったですね」とかなんとか声を掛け、「出会い(ナンパ)」のきっかけを作ってくれた神作品だと思った。

……ウソです。

ネタバレBOX

人と出会うこと、接することは、意外と難しいかもしれない、
ということが底辺に流れている。
いやいや、そんなに思うほど難しくない、と思っている人もいる。

田中と井上は、ラウンドワンの入口で2時間以上もナンパをしようと立っている。
まだ誰にも声すら掛けられていない。
田中はナンパが得意だと後輩の井上に豪語していたのだろう。
しかし、ナンパについてはまったくの無能な男である(それ以外の生活でも推して知るべしなのだが)。

客入れから舞台にただ立ち尽くす彼らは、実はそういう2人だったのだと納得。
なんとなく客電が暗くなりつつ、なんとなく会話が始まり緩く物語に入っていく。

全編、ほぼ2人(ずつ)芝居と言っていい。
会話が成り立つ最小限の人数だ。
ナンパをしている田中と井上、通りがかった人妻とその女友だち、そして、未来から来た男女。

面白いのはそれら2人の関係に「上下」があることだ。
田中は井上のバイト先での先輩であり、井上にとってナンパの先生だと思っている。
人妻・増美と友人・直子は、直子が増美の保護者的な立場にある。
未来から来た男女は、女がダメ男に惚れてしまっている。
また、2人のうち、どちらかが「(より)ダメな人」なのだ。
物語が進むうち、「上下」の関係もグラグラしてくる。
井上が田中に「歩いて帰れ」と言うエピソードは好きだ。

それぞれの(2人だけの)世界同士がぶつかり合い、重なり合い、異次元とも言える会話が生まれる。
それを際立てたのが、「SF」仕立てである。
数十年ぐらいの近未来から来たという2人の男女は、男の母親が父親となる男と、その時間、その場所でナンパによって出会うのを阻止しに来たのだ。

全編、クスクス笑いが起き、ときには爆笑となる、コメディ的な作品でもある。

いわゆる現代口語劇であり、会話の絡み方がとてもいい。
「リアル」とは違う「ありそう感」のある会話が続く。
しかし、どこかふわふわして足元は緩い。
それぞれが深く考えているわけでもない。

井上はそれほど好みでない子(直子)に、押し切られる形でホテルに行くのだが、そのあともそれほど乗り気ではなかったのだけど、流れで、その気になっていき、付き合う感じになるという、そういう感じがなかなか。

ストーリー的には、観客には、未来から来た男の母親がナンパによって男と出会って、自分を生んだということが作り話であることがわかる。
ナンパを阻止したから、自分は生まれないので、消えてしまうと思っているのだが、当然、もとのエピソードがウソなので、消えるわけがない。
会話にしか出てこない、人妻の夫「マーくん」のダメさが未来から来た男・武史に重なる。
ダメの連鎖。

日本は数十年先には結構危険な国になっているらしい。
まあ、毎日パチンコをしてその金を恋人にせびるダメ男・武史からの情報なので、武史から見た世界観だから、アテにはならないのだが。
人と接するのが億劫になった日本人たちが、ダメな国にしてしまったのかもしれない。
確かに、そういうことは、ありそうかもしれない。リアルが辛い人たちの台頭で。

結局、全員がなんとなくモヤモヤした感じで終わるというのがいい。
ラストも田中と井上が劇場の出入口から去って行くという、雰囲気もこの舞台にマッチしていた。
なんとなく始まり、なんとなく終わる、またそれぞれの「閉じられた世界」へ戻っていくようだ。

井上を演じた田村健太郎さんは、ややぐだぐだ喋りをしています的な感じ(演劇で見かけるタイプというか)なのだが、それによって軽くメリハリがあるので、会話に弾みが出た。
対する田中を演じる用松亮さんの、ダメっぷりがいい。じわじわくる。

武史を演じた植田崇幸さんのダメっぷりも、凄くいい。自己嫌悪に陥りながらのダメっぷり。そして、その恋人・早苗を演じた後藤ひかりさんも、いかにもダメ男を好きになりそうなキャラが満開で良かった。

武史の母親で増美の直子を演じた鄭亜美さんは、独特のトーンがあり、何を考えているのか、どう行動するのかが読めない感じがよかったし、その友人役の島田桃依さんは、増美のような、そういう人を放っておけない感がよく出つつ、井上との関係を詰めていく貪欲さが面白い。
ただ1人、「普通」な人・ラウンドワンの店員を演じた永山百里恵さんは、他の共演者全部とのトーンを変えなくてはならないので、大変だったのではないだろうか。

で、田中と井上のナンパ成功率は5割以上なので(井上は成功、田中は食事まで行けた)、演劇終了で、今観た演劇という絶好の話のきっかけと、話題があるという中、実際にコンタクト(ナンパ)してみようと思った観客はいたのであろうか?
我妻恵美子  「肉のうた」

我妻恵美子 「肉のうた」

大駱駝艦

大駱駝艦・壺中天(東京都)

2014/09/13 (土) ~ 2014/09/21 (日)公演終了

満足度★★★★★

拍手鳴り止まず
客電が点いて、「終わりです」とならなかったら、いつまでも拍手が続いたのではないか、と思った。

舞踏が好き、大駱駝艦が好きで、我妻さんの踊りも好き。
なので、期待して見に行った。

ネタバレBOX

オープニング、真っ暗の中で幕が一気に引き込まれ、舞台が開いたのを肌で感じた。
舞台に照明が当たり、舞台の上を見て、鳥肌が立った。

ゴツゴツした岩場のようなものが舞台の上にそそり立ち、女性たちがラップにくるまれている。まるでスーパーに売っているスライスされた肉がトレイにあるように、だ。
そして、その両側には網にくるまれた踊り手たちが、天井から吊り下げられている。
まるで、チャーシューとかハムのようだ。

……と、タイトルの「肉」から、意外としょーもない想像をしてしまった。
しかし、そうではなかった。

このシーンは「画」になる美しさである。

しかし、ラップにくるまっていたり、網で吊り下げられていたりして、次にどう展開、つまり、踊るのかがわからなかった。
「動けないじゃないか」と思ったからだ。

しかし、そうではないことは、すぐにわかった。
ラップからの出かただけでなく、網の中での動きも素晴らしいものだった。
白い帽子を被っていたので、最初は男性が入っているのかと思っていたが(ダイナミックな動きなので)、女性だったと気が付いたときには驚いた。
その動きの激しさに釘付けになった。
そして、動いても「画」になっていたのだ。

次に毛むくじゃらな、やけに背の高い不気味なモノが登場する。
どこか鬼太郎的な妖怪や物の怪を思わせる。
「お!」と、声が出そうになるほど背が高い。
不気味だし、観客席に突っ込みそうになるぐらいに暴力的でもある。

あれだけの長さがあって、倒れたときに、手を使わず足だけで立ち上がったのには、驚いた。さすがである。中に入っていたのは、あとで我妻さんだとわかるのだ。なるほど、と。

その毛むくじゃらなモノが、あっさりとオンナの子たちに喰われていく。
「肉」になっていく。

さらに黒づくめで黒い笠を被った女性たちが現れるのだが、彼女たちもまるで物の怪のようだ。手に持った小さな鐘をリンリンと鳴らす。

前半では、女性の恐さを感じた。
分厚いメガネを掛けた少女たちが、毛むくじゃらな物の怪を恐れながらも、あっさりと倒し、喰らってしまう。
この毛むくじゃらの物の怪は、「男」なのかもしれないと思った。女性から見た「男」だ。

黒ずくめの女性たちも、黒いドレスから白い足が出てきているのだが、笠で表情が見えず、妖艶さに不気味さが加わる。。
大駱駝艦の定番、赤いハイヒールを片方だけ履き、それがコツコツと激しく床を鳴らし、さらに恐さを増す。
美しく、線がきれいな踊りである。だからこその恐さがある。

後半は、女性的な要素が全面に出てくる。
衣装を着ていても女性的であることが滲み出てくる。

我妻さんは、岩場のようなセットの上にいるが、後ろ姿がやけに女性的なものを発散しているように見えてしまう。
身体のラインを強調するような動きではないのに、前面で踊る女性たちのオーラに包まれているようで、そう見えるのだ。

『肉のうた』は、女性そのものを見せているのではないかと思ったのだ。
恐さ(それは私が男だからかもしれないが)、美しさ、あとは女性同士にしかわからない「何か」とか。

冒頭でラップや網から「女」とし生まれ出し、「肉」(男?)を喰らい、死んでいったとしてもさらに「女」である、というストーリーだったのではないだろうか。

80分という短い時間ながら、あらゆるイメージを凝縮し、1つの方法にとらわれることなく、表現して見せた、この作品は素晴らしいと思った。

我妻さんのイマジネーションの豊かさと、作品にまとめ上げた力量を感じた。
さらに、この舞台に登場した、大駱駝艦の女性陣たちの力量も、かなりアップしていたのではないだろうか。

誰一人、劣っている者はなく、高レベルで、美しく表現していた。
さらに、彼女たちのまとまりの良さを感じたのだ。

作品とは関係ないのだが、公演の途中で、小道具のフォークが舞台の上に落ちた。
もちろん拾うわけにもいかないのだが、そのままだと危ない。
どうなるのかと思っていたら、出演者の誰かが、踊りながら、足でフォークをつかんで持って行ったようだった。誰が持っていったのかもわからないぐらいに巧みであり、観客もそんなことが起こっていたことは気が付いていない人が多いのではなかっただろうか。
それぐらいすべてにおいて、緊張感があり、見事だったということなのだ。
ベネディクトたち/ミッドナイト25時

ベネディクトたち/ミッドナイト25時

ナカゴー

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2014/08/30 (土) ~ 2014/09/14 (日)公演終了

満足度★★★★

阿鼻叫喚(『ミッドナイト25時』)
魑魅魍魎
金槌殴打

ネタバレBOX

客演役者
阿鼻叫喚
魑魅魍魎
金槌殴打
弱肉強食
羊頭狗肉
硝子粉砕
英語嫌悪
鳥類親切

そんなストーリーで60分。

なぜこれが「面白い」と感じるのかは、よくわからない。
こんな雑な演劇には、激怒しそうなものなのに、大笑いし、また観たくなる。
高じてファンになってしまうほど。

そのヒントが劇中にあった。
ハンバーガー屋の店長が、逃げてきた女を一瞬で洗脳するシーンだ。
女は自分がハンバーガーの肉になるのを簡単に受け入れた。
というか、自ら早くハンバーガーになりたい、とまで言い出した。

「これだ!」
我々、観客は、ナカゴーに知らず知らずのうちに洗脳されているのだ。
それに違いない。

ナカゴーが劇場でハンバーガーを売り出したときには注意が必要だ。
観客のだれかが、その材料になっているかもしれないからだ。

ただし、彼らにも弱点はある。
「英語」だ。
だから観客は自分の身を守るためには、
受付で「お名前は?」と聞かれたら
「マイネームイズ……」と答えよう。

……うーん、くだらない感想。


ナカゴーは「まったく終わりが見えない」「繰り返し」の「くどさ」がある。
最近は、「繰り返し」はくどくなくなっているが、「くどさ」と同様の、「圧」が台詞のやり取りにある。
本当は、絶叫的な舞台は好きではないのに、それが面白く感じてしまう。
凄いと思う。

この作品は、客演の役者さんたちで構成されているのだが、ナカゴーの肝の部分はしっかりとつかんでいた。
演出がいいからなのか? よくわからないけど。

暴力シーンはいつもトンカチが振り回される。

窓ガラスが割れて、布団の上に散乱しているという設定が、いい感じでクドイ。
「英語はやめてー!」と叫ぶ、店長役の菊川恵里佳さんの、お猿のように、顔を真っ赤にして叫ぶ表情がいい。
冒頭に逃げ込んでくる女を演じた二宮未来さんの、最初から吹っ切れた演技も素晴らしい。

もう一本の『ベネディクトたち』を観ることができない。
残念無念
権利放棄
KOMA'

KOMA'

彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場 小ホール(埼玉県)

2014/08/28 (木) ~ 2014/08/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

観る者の、心を打つダンスとは、どのようなものなのか
年齢から、気持ちから、解放されたダンサーたち。
美しい。

ネタバレBOX

平均年齢が70歳以上の、さいたまゴールドシアターのダンス公演。
まさか、老人たちのお遊戯を見せられるんじゃないだろうな、なんて失礼なことを思いつつも会場へ。

「新作」としかわかっていなかったタイトルが会場で明らかになった。
『KOMA'』
たぶんドイツ語なのだろう。
「昏睡?」

なんて素晴らしい作品!
魅力的すぎる。

演出がいい! 本当にいい!
踊り手たちに、まったく無理がないのだ。

例えば、大駱駝艦の舞踏のように、単に立ったり座ったりしているだけなのに、見ているこちらの手に汗をかかせたり、鳥肌を立たせたりという、鍛え上げられ、突き詰められ、考えられた先にある踊りと、訓練を積んでいない素人の踊りは違うと思う。誰が考えてもそうだろう。
その専門家と素人の差は、ダンサー(踊り手)のセンスと資質も大きいが、さらにプラスされる「鍛錬の時間と量」にあるのではないかと思っていた。

ゴールド・シアターの方たちはどれぐらいダンスのレッスンをしたのかはわからないが、専門専業のダンサーとは比べものにならないぐらいの少ない時間と量であろう。
しかし、ゴールド・シアターの作品に「凄い」「素晴らしい」「美しい」と感じたのだ。

もちろん、「素晴らしい」の意味は、鍛え上げられたダンサーたちの表現に感じる「素晴らしい」の意味とは違う象限にあるのかもしれない。
しかし、「素晴らしい」と感じる心はひとつだ。

これはどういうことなのだろうか。
それは、つまり、表現者にとって、突き詰めて考えた先にあり、結果、「考え」のなくなった極限とも言えるダンス(表現)という意味において、鍛錬を重ねた人たちと近いところに行けたのではないかと思ったのだ。

そこに行くにはガイドが必要だ。それもとびっきり優秀なガイドでなくてはならない。
したがって、瀬山亜津咲さんがいかに素晴らしいガイドだったのかを、舞台の上に見たのだ。

言ってしまえば、「音楽に救われた」という部分もあるし、本水を使ったりの演出表現にも助けられていたところもあると思う。
とは言え、それだけでは観客を感動させること、「素晴らしい」と思わせることはできない。

では、演出以外に何が一体良かったのか、と言えば、「年齢」だろう。

さいたまゴールド・シアターは「年齢」をきちんと武器にしてきた。
最初の頃の演劇作品ではそれぞれが積み重ねてきた歴史を吐露させたり、台詞を覚えられないことをも1つのショーとして見せていた。
それに対しては「まあ、そんなもんだろう」とタカを括って見ていたりもしたのだ。

しかし、公演を重ねることでその見方が変わってきた。
「年齢」は武器になる。それを使わない手はない。
使うことで「意味」も出てくる。

さいたまゴールド・シアターのメンバーたちの「顔」や「身体つき」は、情報量が多い。
受け手にいろいろなことを感じさせる。
それが「年齢」だ。
立っているだけで「画」になる、なんて言い方もできる。

しかし、実は「立っているだけで画になる」というのは難しいのことなのだ。
「自然に」「自分のありままの姿で」「立つ」というのは難しい。

今回のこの作品では、それをさいたまゴールド・シアターのメンバーが手に入れたのではないだろうか。
歩く姿だけでワクワクさせるような、「ありのままの姿」を手に入れたということだ。

ダンスも芝居も「思い切り」が必要だと思う。
「年齢」というものは、(受け手に想像をかき立てることで)ビジュアル的にプラスになることもあろうが、「思い切り」という面では気持ちにブレーキを掛けてしまいがちになるのではないだろうか。
だから、「立っているだけで画になる」というものを獲得するために、「思い切りの良さ」も手に入れたのだと思う。
「年齢から解放された」と言ってもいいかもしれない。

瀬山亜津咲さんが、何回ものワークショップなどを積み重ねることで、彼らにその道筋を見つけさせたのではないか。身体を使い、ほぐして、リラックスし、気分や気持ちも解放されたのだろう。
それが結実して、今回の作品になったのだろうと思う。

先にも書いたが踊り手たちに「無理がない」のだ。
「無理を感じさせない」と言ってもいい。
解放されているから、ためらいも、てらいも、ない。
手は上がるし下がるし、足は前に出るし、身体は沈んでいくし。

ただし、年齢を重ねた人たちが、よいガイド(演出家)に指導されれば、素晴らしいダンス公演が必ずできるわけではない。
この作品でも、「私が観た回だけ」が素晴らしかったのかもしれない。
この先、またダンス公演を行うのであれば、いちから始めなくてはならないだろう。
そういう儚い「一瞬」の面白さもあるのではないか。
だから、それを知らず知らずのうちに感じ取っているから、観客は感動するのかもしれない。

専門のダンサーたちとはそこが違う。
つまり、専門のダンサーたち表現者は、訓練と鍛錬を重ね、経験を積むことで、「いつでも」「どこでも」素晴らしいパフォーマンスができる身体と心を手に入れている。
しかも、最高のダンサーたちは、毎回毎回の公演を「新鮮」に届けてくれる。
まるで、「今、初めて踊っている」ようにだ。
それはプロフェッショナルが作り出せるスリリングさである。

そこが両者の違いであり、意味だ。

オープニングはくるくる回りながら舞台の上を円を描くように動いていく1人の女性で始まる。
「自転と公転」のようで、「地球」とか「時間」とかを表しているのではないかと思った。
その人が、円を描いて動いた先で壁にドンと当たって止まる。
「地球」とか「時間」とかを想像していたのでどきりとした。

マイクの前で怒りのようなポーズをしながら、自らに付けた名前を、その理由とともにしゃべる人々。
「タンポポ」などの花の名前だったり、「自由」などのワードだったりする。
声を出すことで、身体も気持ちもほぐれていく。

水が天井からぽたりぽたりと落ちるシーンが印象的だった。
全員が床に座ったり横になったりして、その水を身体に受ける。
男性は上半身裸になり、女性は襟元を開け胸元で水を受けたり、口を開けて水を受けたりとさまざまである。

マスク前のパフォーマンスにあった植物の名前が頭の中に残っていたので、彼らが「植物」に見えた。
水を求める植物。
しかし、枯れているのか(失礼・笑)、伸びていかない。
そのうち、彼らは身体を丸める。
それは「種子」だと思った。

植物は「枯れて」その後に「種子」を残す。
「後に残すモノ」というのは、年齢とともに切実になるのではないだろうか。
「種子」(生物的な意味だけでなく)が残せれば幸いだと思う。
そういう「願い」のようなものを感じた。

その種子の回りを、冒頭と同じように自転・公転をしながら女性が通り過ぎる。
限りある時間。
連綿と続く命と意識。

大笑いして、目をつぶって歩いて、生きていることを確かめて、ラストは整理体操のように、呼吸をし、身体をほぐして「現実」に戻ってくる。
暗転しながらもそれが続く。
「続く」ということもいいのだ。

公演後に当日パンフを見て驚いた。
今回の出演者の年齢にだ。
一番若くて63歳、一番年長な方は88歳。
姿は確かに老人だったが、ダンスはそうではなかった。
もちろん若者のような激しいダンス、テクニカルなダンスというわけではないのだが、一挙一動にすべてを出し切っているような、気持ちのいいダンスであり、パフォーマンスであったと思う。

終演後、何もアナウンスがなかったが、ワークショップらしき映像が流れた。
約10分間。これも面白い。
安部公房の冒険

安部公房の冒険

アロッタファジャイナ

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2014/08/23 (土) ~ 2014/08/31 (日)公演終了

満足度★★★★

芸術家の感性というのは、私のような凡人には理解できない
小説から演劇、女性から女性へと「冒険」を続ける安部公房。
しかし、「冒険」と見るのは凡人である我々であり、「冒険」と感じないから、彼らは創作を続けることができるのだろう。

ネタバレBOX

芸術家の感性というのは、私のような凡人には理解できない。

彼らの行為は、我々からは「自分たちと同じ」、いわゆる「普通の男」「俗物」だな、という視線でしかとらえることができない。
しかし、彼の劇中での台詞が真の本心だとすれば、彼にとっては「創作」ことがすべてであり、ほかのことはまったく見えない。
女性たちも、彼の内面のひとつである。俗物な普通の男も彼の創作の、ある見え方のひとつにすぎないということなのだ。

安部公房は、新しモノ好きだったと思う。
古きプログレファンには有名な、富田勲と同じシンセサイザーを趣味として購入していたというところからもわかる。
しかし、創作においては、単に「新しモノ好き」ということからでは論じることはできない。
それなりに評価をされていた小説の世界から一歩踏み出して、演劇の世界へと足を踏み込む。
「小説家のお遊び」と評価される可能性も高いだけに、失敗すれば、確固たる地位を築いている小説に対してもダメージを加えかねない。

それでも演劇に踏み込んでいく。
それも、最先端を目指そうとする。
「文字」でできることとその「限界」、「映像」でできることとその「限界」、そして「演劇」でできることに創作の先端を見出したのだ。
「表現したいこと」は、どんな方法であっても構わない。
他人から見れば、小説から演劇へ移ったように見えるが、安部公房にとってはその差はない。
だから、そう思ったら止めることはできない。

昔、何かの対談だったか、何かで読んだことがあるのだが、「小説というものは、意味まで到達しない、ある実態(状態)を表すものであり、読者はそれを体験するのだ」と安部公房が言っていたと思う(違っていたらスミマセン)。
それを読んで(聞いて?)「なるほど」と思ったわけで、それ以降、小説に限らず、演劇などもそういう視点で見てきた。
私に、創作物の見方のヒントを与えてくれたのは、安部公房だと思っている。

だから、安部公房にとっては、表現方法は小説でも演劇でもいいわけなのだ。
今感じている「実態(状態)」を伝えることさえできれば、いいのだから。
しかも、表現方法を変えることを彼は「リスク」とは考えていないのだ。
「冒険している」とはまったく思っていない。
社会との関係(評価など)を気にしながらも、彼にとって創造の前には何も立ちふさがるものがないのだ。
だから表現者であり得るのだ。
これは「冒険している」と感じてしまう、私たちには理解できないことだ。

小説の世界でのパートナーは妻であり、新しい「演劇」の世界でのパートナーは女子大生だったあかねである。
彼女たちは安部公房にとって、パートナーというよりは、創作そのもの、創作の源泉、彼自身の内面のひつとでもあったのだ。

劇中で安部公房があかねを口説くようなシーンがある。
これは、演出家とか芸術家的な口説きのテクニックかと、笑いながら見ていたが、どうやらそうではない。
安部公房にとっては、切実な気持ちであり、「演劇」に踏み出し、創作を続けるためには彼女が必要だったことがわかってくる。

「愛人」とかそういう卑近なレベルでの問題ではないだろう。
もちろん他人や社会から見れば、有名小説家の下半身スキャンダルにしか見えない。
そういう危険を冒しても彼女を自分の手元に置いておきたかったのだ。

安部公房の冒険とは、新しい「創作」にすべてを捧げることで、リスクを取りながらも(本人はリスクとは思っていない)先に進みたいという欲求の現れであろう。
小説から演劇、妻から愛人、そういうベクトルの先には「創作(意欲)」があったに違いない。
しかし、「冒険」ととらえるのは、芸術家の心の中まではわかることができない、一般の、われわれの見方でしかないのだ。

劇中では、安部公房の演劇に対する想いが語られる。
それは、「今、それを舞台の上で演じている」ということが、ヒリヒリとしてくる。
確かに「安部公房がそう言った」のであって、この作品が主張していることではない。
しかし、やっているのは「演劇」である。
つまり、安部公房役の佐野史郎さんは血を流しながら、その台詞を言っている。
戯曲を書いた松枝佳紀さんも、ギリギリと歯を噛みしめながら文字を書いていったのだろう。
本当はどうなのかは知らないが、彼らにはそうあってほしいと思うのだ。

「頭の悪い観客たち」なんて言い放った安部公房の印象は、自分に対する絶対的な自信があること。
彼の小説を読んでいた中高生の頃、何かで彼のそういう発言を目にして、その自信の強さに辟易した覚えがある。
当時文庫になっていた小説と戯曲はあらかた読んでしまったこともあり、安部公房は遠ざけてしまった。

読者は、観客は、安部公房の作品のみに接するべきであったのかもしれない。
それは、私のような凡人には彼の内面を推し量ることができないからだ。

この舞台では、それを再認識したと言っていいだろう。
安部公房の外面(そとづら)ではなく、2人の女性に見せる、本当の姿、弱さが見える。
自信があるように振る舞いながらも、社会の評価は気になってしまう。
彼女たちがいないと創作活動が続けられない。外聞をも気にせず突っ走ってしまう。

オープニングは、ウソとマコト、について語る。
語りながら、安部公房の本当の年表を披露する。
その虚実をないまぜにしたところは面白いし、エピローグの台詞も(きどった)演劇っぽくてなかなかいいと思った。
思ったのだが、それらは蛇足ではなかったたか、と思う。

この作品は、安部公房、その妻、あかねの3人が劇中の登場人物である。
思い切って、この3人だけの「3人芝居」にすべきではなかったか。
そうすることで、より3人の関係が濃密になり、観客のベクトルも向けやすい。
また、その分、もっと彼らのエピソードや内面の吐露を増やしていけば、さらにもの凄い作品になったのではないかと確信する。
熱い作品なだけに、そこがとてももったいないと思う。

例えば、今のままでは、妻の印象が悪い。
あかねに対する嫉妬部分が見えすぎてしまうからだ。
エピソードを重ねることで、さらに安部公房と妻の関係が深まっていくことになり、この作品自体が、単なる「愛人スキャンダル」に留まって見えてしまうこともなかったのではないかと思うからだ。

また、先にも書いたが、この作品では安部公房の内側の姿が見える(安部公房と、その女たちを含めた「内側」だ)。
だから、それを露わにするためにも、もっと外側との関係の安部公房も見せることができたのではないかと思う。

狂言回しのようなキャラクターを入れることで、見やすくなったのは、「逃げ」ではないか、とまで思ってしまった。
劇中で安部公房が語る演劇についての熱い想いを聞くにつれ、それに真っ向からぶつかっていく姿勢としても、そうあってほしいと思ったのだ。

全体的に長台詞である。
それが実に効果的であった。
さらに彼らにそれを強いてほしかった。

私にとっては、映画監督という印象が強い荒戸源次郎さんの演出は、オーソドックスなものであった。
それが長台詞に耐え得るものであったと言っていい。
緊張感もいい感じであり、間もいいし、長台詞を聞かされるときにありがちな、ダレることもない。
台詞自体がいいということもあるだろう。

役者は4人ともよかった。
いい感じの熱さがあり、それが冷めることなくラストまで続く。

佐野史郎さんは、安部公房の創作に対する姿勢、つまり、やや狂信的とも言える姿勢とともに、弱さもうまく表現していたと思う。
妻役の辻しのぶさんもいい。きりっとしていて、安部公房をどうリードしていったのかをうかがわせる。少し強すぎるきらいはあるが。
内田明さんは、歯切れのいい違和感がうまい。
そして、あかね役の縄田智子さんが素晴らしい。
どういう経歴の方かは知らないが、あかねという役と今の自分自身の重ね方がうまくいったのではないだろうか。
演じているというよりは、「演じている自分」がいる。「役者を演じている」のではなく「役者になっている」とでも言うか、そういう印象だ。
経験を積めばさらに輝くのではないかと思う。

残念なのは、長台詞ということもあってか、各人1人につき、1回が2回ぐらい台詞を噛んでいたことだ。特にこの作品にとっては、それは大きなマイナスだ。
ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレム・バージョン

ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレム・バージョン

劇団四季

自由劇場(東京都)

2014/08/10 (日) ~ 2014/08/24 (日)公演終了

満足度★★★

感情表現が足りないのでは
ジーザス・クライストとユダの苦悩、そして2人のぶつかり合いがもの足りない。



“ロック”ミュージカルではなかったね。

ネタバレBOX

『ジーザス・クライスト=スーパースター』と言えば、ロック・ミュージカル。
映画はもちろん観ている。
好きな映画だ。

今回の四季版は、歌詞をきちんと聞かせようとしているためか、妙にはっきりした発音で歌っている。
そのせいか、歌にビートがなくなっている。
したがって、ロック感がほとんど感じられない。
バックの演奏も同じようにビートがなく、ふんわりした感じなので、余計にロック感を感じない(音も籠もっていた?)。

ロック・ミュージカルを楽しみにしてきた者にとってはそれは残念なのだが、ま、しょうがないか。
ロックなしのミュージカルとして楽しむことにした。

『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、ジーザス・クライストと、ユダの苦悩が2本の柱である。そして彼らの絡み合い、ぶつかり合いでその苦悩が表現される。

ユダは、ジーザス・クライストに対する疑問があるからこそ、彼を裏切り、居場所を教えてしまう。
だから、冒頭でユダがジーザス・クライストについて疑問を投げかけるシーンはとても重要だ。
しかし、四季版では、冒頭、ユダが独り言を言っているようで、強い気持ちが感じられない。つまり、ジーザス・クライストにぶつけていないから。
したがって、彼の裏切りが唐突に感じられてしまう。

また、ジーザス・クライストを演じた神永東吾さんは、声とルックスはそれらしいのだが、感情が表に出てこないのが気になる。
まるで、もう「達観」してしまっているようだ。
だから、彼が苦悩していることが伝わってこない。

特に「ゲッセマ」のシーンで、神に「なぜ自分は死ななくてはならないのか」と歌い上げるときに、歌はうまいのだが、感情が見えてこないので、悲痛感が伝わらないのだ。そこはこのミュージカルの肝ではないのか。大切なシーンなのに。

十字架を背負って歩く彼に対して、ユダが現れ、「スーパースター」を歌うシーンがあるのだが、ユダはすでにこの世になく、ジーザス・クライストの中の亡霊(幻影)として現れ、ジーザス・クライストを悩ませるのだが、このときも、ユダは舞台上手の隅にいて、ジーザス・クライストとは絡まない。
だから、幻影を見ているはずの、ジーザス・クライストの感情が見えてこない。

最初に書いたとおり、ジーザス・クライストとユダは、大切な2本の柱であり、彼らが、悩み、それを吐露し、重なり合うところに物語が生まれるのだから、もっと2人を、演出の上でも絡ませ、感情をほとばしらせてほしかった。

ジーザス・クライストや他のソロが歌っているときに、群衆がそれを聞いているシーンがいくつかある。
その群衆シーンがよくない。
何がかと言えば、歌を聞いているときに彼らは身体を揺らすのだが、多くが曲のリズムと違う動かし方をしているからだ。
それがもぞもぞと舞台のあちこちで動いていて、リズムと合ってないから気持ちが悪い。
敢えて全員の動きを揃えない演出なのだろうが、歌を聞いているときには、リズムを感じながら、あるいはリズムを取りながら聞いているので、違う動きが視覚に入ると違和感を感じる。

全体は1時間45分で、とてもスピーディで、手際のいい演出だと思う。
ダレるところなんて一瞬もない。
そこはさすが四季だと思う。

セットの荒野もいい。群衆シーンもいい。なにより自由劇場のサイズがいい。

ただし、観た回は、舞台の前半はノリが悪く、後半からやっと盛り返してきた印象がある。

ジーザス・クライストを演じた神永東吾さんとユダを演じた芝清道さんも(途中よれて残念すぎるところもあったが)後半が良かった。
問題は「感情」と「2人のぶつかり合い」だろう。

それさえなんとかなれば、いいミュージカルになると思う。
できれば、もっと「ロック」して欲しいのだが。
山犬

山犬

OFFICE SHIKA

座・高円寺1(東京都)

2014/08/07 (木) ~ 2014/08/17 (日)公演終了

満足度★★★

ISOPPさんと鳥肌実さんがイイ!
ただし、全体的には不発感あり。
なんか古いし。

ネタバレBOX

冒頭の、犬たちが現れ、インド人のコック(あとでわかるのだが)に殺されるまでのシーンにはゾクゾクした。
しかし、そのあとのシーンがイマイチ。

下品で少しグロいのだけど、テンポが悪い。
役者同士のリンクもうまくない。

面白シーンが笑えない。
もっとも、「下品で苦笑い」のあたりを目指したのかもしれないが、別の意味での「苦笑い」となった。

ドリカムネタとか、美味しんぼとか、古くないか?
さらにヒゲダンスには呆れた。
一周回って、面白い、には全然ならない。
パロディや小ネタのギャグならば鮮度が大切ではないか。
しかもどれも中途半端にやるのだから、面白くなるはずもない。

注文の品を持って、転んで料理を飛ばすなんていうのも、面白くない。
何かプラスαがそこになければ、コントとしてもレベルが低い。

下品さとグロさも、小学生が面白がって、わざとそういうことをしたり、そういう汚い言葉を言ってもたりしているようで、それぞれの必然性が弱いなと思った。
こういうのは、勢いで見せるか、ある程度(歪んだ)理詰めで見せないと、単に、そういう下品さ、グロさがそこにあるだけにしか見えないのだ。

再演にあたって、脚本は、再度練ったとは思うのだが、それが足りないのではないだろうか。今、これを再演し、観客に見せるということにおいて、どう修正し、どこを残すかというようなことが。
演出も残念ながらスピード感が足りない。大きな音だけではテンポ感は出ない。

ただし、ISOPPさん、さらに鳥肌実さんが登場してからは空気が変わった。
物語にグッと、深みが出てきて、面白くなるのだ。

ISOPPさんの動きは目を奪われるし、鳥肌実さんの学生服姿は卑怯なぐらいに面白い。
そして、片思いに焦がれる気持ちが切ない。
鳥肌実さん演じるテラニシが森下くるみさん演じるユキや、その仲間に焦がれる気持ちと、その裏側に、ISOPPさん演じる犬がテラニシに対する気持ちが物語を動かしていく。

テラニシの抑制されたやり場のない気持ちが、犬へ暴力として向かう。
しかし、犬はそれがうれしいかったりする。

無視される、というより、最初からいないと思われることぐらい悲しいことはない。

3人の同級生が小屋に閉じ込められ、追い詰められていくのだが、そこがうまくない。
切羽詰まった感が足りないので、人を殺しても喰うという行動にうまく結び付かない。
お話の都合上、そうなっているのにしか見えないのだ(グロいシーンが欲しかっただけ)。

3人の関係も、微妙なバランスで、かろうじて成り立っているのだが、それを、いかに「微妙なバランス」にあるのか、を見せていかないと、せっかくのストーリーが成立しない。
台詞の端々や動きや視線などで、それを丁寧に表現することが先ではなかっただろうか。
少なくともあまり面白くない、面白シーンを見せるよりは。

だから、脚本の根幹的な部分はとても面白いのだ。
3人の関係、彼らとテラニシとの関係、そして犬との関係。
それらが重なり合う様は、本当に面白いと思うのだ。
犬のバックボーンを描いたところなんて、なかなかだと思う。
その設定と中心のストーリーがうまく活かせれば、もっと面白くなったはずだ。
それを余計なことで、面白くなくしてしまっている。
「面白い=笑える」ことをただ足しても面白くはならない。

そうそう森下くるみさんは、無垢なイメージで人を傷つけている、という無意識さがとてもよかった。ただし、(しつこいけど・笑)下品なシーンは演出がイマイチなので、無垢さと無意識さを補強するというよりは、壊してしまっていた。
ユキは、テラニシにとって、女神だと思うし、社会との唯一のつながりだったのだから、もっと丁寧に扱ってほしかったと思う。

鹿殺しは、ロックなイメージがある。
ロックなビートを作品の底で鳴らしているような、気持ち良さがある。
今回は、それがなかった。
残念だ。

まあ、一番気になったのは、高校生が放課後、空き地で野球なんてする? 
ということなのだが。
いつの時代だよ、って思ってしまった。
いつの時代だとしてもないように思うのだが。
もしその設定を使うのならば、観客を説得してほしい。
マクベス

マクベス

NPO法人アートネットワーク・ジャパン(ANJ)

あうるすぽっと(東京都)

2014/08/16 (土) ~ 2014/08/24 (日)公演終了

満足度★★

マクベスの、何を見せたかったのだろうか
ロビーには大きなお城があり、子どもたちが入ったり、出たりと楽しそうにしていた。
マクベスをどうやって見せてくれるのか期待した。
しかし、びっくりするほど面白くなかった。
変顔したって面白くないものは面白くない。
「子どもに見せたい舞台」という前提を外したとしても。

ネタバレBOX

「子どもに見せたい舞台シリーズ」は何回か観ている。
時間が合えば是非観たいと思っているシリーズ。
フライヤーが凝っているし、内容もなかなか面白いからだ。

しかし今回はがっかりした。

「子どもに見せたい」というタイトルが付いているにのもかかわらず、子どもにはあまり受けなかったように思う。

今までこのシリーズでは、子どもたちは騒ぎながらも舞台の上に釘付けになっていることが多かった(『ドリトル先生』『ピノキオ』を観ている)。
しかし、この舞台(少なくとも私が観た回)では、「帰りたい」と愚図る子どもがそこここにいた。

途中我慢仕切れず、上着を頭から被ったり、横になって寝ようとしたり、もぞもぞと身体を動かしたりと、集中できない子どもも多い。
もちろん、今までも身体を動かす子どももいたのだが、それは楽しくて仕方ないという気持ちの表れだったのだ。

一体、何が問題だったのだろうか。

終演後、帰りながら、話していた親子連れやお母さんたちの話にそれがうかがえる。

まず、
「誰が誰かわからない」
というものがあった。

出演者が6人でいろいろな役を演じるのだが、演出と演じ分けが下手で、「今、誰が何の役」なのかがとてもわかりづらいのだ。
もちろん、ストーリーを知っている観客には、当然わかるのだが、初めて観る人や子どもにはまったくわからず、最初のほうのシーンから置いてきぼりをくらってしまったようだ(「あらすじ」が配られていたが、登場人物が何人もいるので、わかりづらい、という声もあった)。

例えば、マクベスとバンクォーが魔女に出会う大切なシーンも、誰がどうしてそこにいて、どうやって出会ったのかがわかりにくく、いきなり魔女に会うシーンに見えてしまうのだ。魔女たちのダンスシーンがその前に挟まり、役者全員が「魔女として」踊っているので、そこからマクベスとバンクォーが別れて、「魔女に出会う」というのがわかりにくかったようだ。

「誰が何をしてどうなったのか」だけでも演出で丁寧に説明されていれば、これき解決されたはずだ。

役者が6人しかいないのだから、何も6役も7役も演じされることなく、ストーリーと登場人物をもっと整理したほうがよかったのではないか。

また、
「台詞がわかりにくかった」
という声もあった。

台詞は、古い言い回しの、いかにもシェイクスピアというもので、長台詞ということもあり、子どもには「何を言っているのか」がわからなかったようだ。
この点についてはさらに言いたいことがあるので、あとで述べる。

そして、こんな意見も出ていた。
「芝居のところは全部なかったほうがいい」

この舞台は、芝居の要所要所にダンスが入る。
10〜15分おきに入るので、飽きている子どもも、そのシーンでは舞台を見るのだ。
だから「帰りたい」とダダをこねる子どもをなだめる身の母親たちとしては、ストーリーがわからないのだから、全部ダンスのほうがよかった、と言っているのだ。

そもそもこの舞台では、「マクベス」の「何を見せたかった」のかが判然としない。
オリジナルのまとめ方があまりうまくなく、見せたいところがわかりにくい。
これに比べると、柿喰う客の『絶頂マクベス』がいかに優れていたかがわかる。
見せたいところがストレートになっていて、テンポもよく、面白い。
この作品をそのまま子どもたちに見せたほうが、どれほどよかったかわからない。

舞台のオープニングは、普段着の男たちが、客席を通って舞台に上がる。
そして、まるで倉庫のような雑然とした舞台の上(机やイス、ホワイトボードや冷蔵庫、洗濯機などが置いてある)で、スーツに着替える。

彼らはスーツのまま、帽子や鉢巻き、たすき掛けにした布等で、それぞれの役を示す。
それを変えることで、別の役になったことをわからせようとする。
声色も変えたりもしている役者もいた(変なアニメ声のような、子ども騙しっぼいやつ)。

この「スーツ」の意味が舞台の上ではわからない。
なぜ、普段着からスーツに着替えて、マクベスを演じているのかがわからないのだ。
彼らの立ち位置がわからない、作品「マクベス」との距離感がわからない、と言ってもいいだろう。

先に書いたが、この舞台での台詞は少し古い言い回しになっている。
しかし、一部、現代的な言い回しが加わる。原作にないような台詞を加えたりしている。
その現代語のところは、面白「風」になっていて、朗々とした言い回しとは雰囲気が突然異なってくる。
面白いからそうしたのだと思うのだが、そうしてしまうことで、朗々と舞台の上で語られていたマクベスは一体何だったのか、と思ってしまうのだ。
つまり、どちらに軸足があるのか、ということだ。

例えば、マグダフの妻や子どもが刺客に襲われ、死んでしまうシーンがあるのだが、悲痛なシーンにもかかわらず、殺された子どもがすくっと立ち上がり、変な雰囲気でおちゃらけるのだ。
これでは何をしたいのかがわからないのではないだろうか。

役者の演技でも同じことが言える。6名のうち、5名は基本的には普通に演じているのだが、1名だけ、なぜか手振り身振りを多用して台詞を言う役者がいた。
もちろんこれも演出なのだろうが、その意図がわからない。
1人だけそんな演技をしているので、違和感がある。
トリックスター的な役割を与えられているとは思えないし、もしそうだとしたら、それは失敗していると言わざるを得ない。
どうも、台詞といい、演技といい、違和感だけが残ってしまう。

マクベスの世界に入っているのか、マクベスを「演じている」ということなのか、そこがわかりにくいので、観客は作品に入っていけない。

古い言葉づかいで、朗々とした言い回しであったとしても、きちんと伝える気持ちがあれば、子どもにも面白さは間違いなく伝わっただろう。

例えば、先日、新国立劇場で子どもためのバレエ公演を観た。
簡単にナレーションが付加されていたが、基本はバレエなので、無言で踊るだけだ。
しかし、あうるすぽっとのいた子どもの数の何倍もの子どもたちが、固唾を飲んで、舞台を観ていたのだ。
「帰りたい」とぐずる子どもはもちろんいなかったようだし(オペラパレスは観客席の音も響くので)、終演後のロビーは笑顔の子どもたちが溢れていた。

舞台の面白さ、物語の面白さをストレートに、かつ真摯に伝えようとすれば、学齢前の子どもであっても伝わるはずだ。

今回は子どもを飽きさせないようにするためか、とてもつまらないギャグを入れたり、ダンスを入れたりしていたが、それは本末転倒であり、本来の演劇の面白さを伝えることだけに徹してほしかったと思う。

ストッキングを頭から被り、それを引っ張って面白い顔をすることが、演劇の面白さを伝えることにはならないのだ、ということを肝に銘じてほしい。
子どもたちにとって、初めて出会う演劇体験がこれでは台無しではないか、とまで思ってしまった。
「帰りたい」言っていた子どもたちに、「またお芝居を見に行きましょうね」と言ったって、行きたいとは思わないだろう。

「マクベスの何かを伝える」ことができなかったとしても、せめて「舞台や芝居の面白さ」だけは伝えてほしかったと思う。

ラストは当然のように、スーツからもとの普段着に着替えて、客席を通って去っていく。
いかにもスタイリッシュでしょ、と言わんばかりの演出にはガッカリの気持ちしか起こらなかった。
マクベスの首らしき、王冠を付けたブタの首を、ドンと机の上に置いて。
何がしたかったのだろう。何を「子どもたち」に伝えたかったのだろう。

「子どもに見せたい」という前提を外して、普通に『マクベス』の舞台であったとしても、感想は同じ。ずいぶんセンスの悪いマクベスを見た、というものだ。

役者は、マクベス夫人を演じた美斉津恵友さんが熱演だった。
もっと、「夫人である」という演出がされていれば、よかったのにと思った。

ついでに書いてしまうと、つまらない舞台の定番として、「関係者笑い」とういうものがある。
いかにも「面白いでしょ」というシーンで、関係者らしき笑い声「だけ」が客席に響くというものだ。
特徴として、その笑い声は大きい。それは逆に白ける効果が抜群だ。
今回も、女性の大きな笑い声が響いていた。
おとこたち

おとこたち

ハイバイ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2014/07/03 (木) ~ 2014/07/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

「おとこたち」の「たち」の話
「後で思い出してもらう」っていうのは、いいことかもしれない。
思い出したり、思い出されたり。
老人へ向かってまっしぐらの、来るべき未来も、恐くないかもね。

ネタバレBOX

親のこと、将来の自分のこと、いろいろ見たくないことも含めて突き付けられた。

「突き付けられた」のだが、観ていて、「少し楽になる」可能性があるかもしれない、ということにも気が付いた。
もちろん、未来に必ず訪れることに対する「不安」がすべてなくなることはない。
しかし、「恐い」「辛い」と思ってしまう、自分の(あるいは肉親の、親の)未来は、ひょっとしたら「恐くなんてないかも」なんて思えてくる。
考え方ひとつ、と言えば、それまでのことかもしれないのだが。

ハイバイのうまさ、面白さは、自分の経験とは関係ないのに、自分の記憶だとか、それにまつわる感情だとかを引きずり出されるところにある。

「観客」として、舞台のこっち側の安全な場所で、「へへーん」とか「ほう」とか「なるほどねー」とは言ながら見ていられない。
エピソードの1つひとつが、笑いながら痛くなることがあるからだ。
心とか感情とかが、ズキズキしながら、なのに笑ったりもしながら観ている。

『おとこたち』は、「おとこ」の話なので、なおさらそれを感じた。
しかし、「痛い」だけではないし、「笑い話」だけでも、もちろんない。
その中には真実がある。その真実は、観客ごとのものであり、作品によって引っ張り出されたものだ。
見えないふりをしていたことや、気が付かなかったことなどの。

開演前に、携帯がどうとか、飴を食べるときにどうとかの前説が始まる。
そして、いきなり、前説の彼が「山田」になる。
劇場にいて、これからお芝居が始まりますよ、という現実からフィクションであるストーリーへ、シームレスにもっていく。
現実と地続きであるような導入だ。マクラから本題に入る落語というか、こっちが身構える前に物語に入っている。
だから、こちらの現実ともシームレスにつながってくるのかもしれない。

まず、最初のシーンからやられた。
バイトをしている山田かと思っていたら、そうではなかったことを知らされる。
自分の置かれている場所や時間、そして理由を別の何かと取り違えてしまっている人を老人ホームで見かける。

この設定から、この後展開するストーリーは、80代になっている現在の山田の記憶なのではないか、とも思った。
認知症になっても、昔のことはとてもよく覚えていたりするからだ。
もちろん、「記憶」なので、実際とは異なっていることもあるだろう。
よりドラマチックになっていることもある。つまり、そういうお年寄りには、実際の記憶がテレビや小説、あるいは他人の経験談(ドラマ)とない交ぜになってしまうこともあるからだ。

なので、山田たち4人のおとこたちの20代から80代までの行動は、山田の記憶によって、よりドラマチックになっている可能性もあるし、恐ろしいことに、4人のおとこたちは、山田以外の、別の誰かのドラマの登場人物で、彼らが山田の回りには「いなかった」可能性すらあるのだ。

それは横に置いて、彼らの半生(あるいは一生)は、辛いこともある。
しかし、それは面白い。
他人の話だから面白いということもあるが、「昔の話」だから「面白くなっている」とも言える。
いろいろ辛い話も、時間が経てば、「面白エピソードの1つになっていく」というのは、誰しもが体験したことではないだろうか。特に他人事であれば。
「面白い」は「可笑しい」ものもあるが、それだけではなく、「興味深い」という意味合いも含まれる。
それはたぶん「死」でさえ、そうなっていく可能性がある。

この作品のストーリーでは、ツラさの上にさらにツラさが重なったりする。
鈴木の死後わかる息子との関係とか、森田が病気になった妻から名前を呼ばれないこととか、とか、とか。
当事者にとってはツラすぎることだけど、友人ぐらいだと、「そんなことあったねー」って言えるのではないだろうか。「大変だったねー」って。

つまり、後で、その人のことをしみじみと思い出して語ることはできるのではないだろうか。
カラオケボックスのような日常の中で、「そうそう、こんなことあったね」と思い出してくれるのは、いいかもしれない。さらに『おとこたち』のように、「笑え」たりすると、なおいい。
そんなことを考えたら、少しだけ未来は恐くなくなってくる。
観客席で観ていた私(たち)は、誰かが「後で思い出してくれる」ことに気が付いたし、同時に「笑った」私(たち)は、「後で笑ってくれること」に気が付いたのだから。
さらに言えば、山田のように「自分」も誰かのことを「後で思い出すこと」や「後で思い出して笑える」ことに気が付いたのだ。

この先、誰か自分のことを思い出してくれて、さらに笑い話のように語ってくれさえすれば、「救われる」のではないか、と思った。
何から救われるのかはわからないが、少なくとも、「思い出してくれる人」「笑ってくれる人」がいることが想像できれば、「死」も「老い」も多少は恐くはないような気がする。
たとえ想像の記憶だとしても、思い出せるものがあるのもいい。楽しいから。

絶対に「老い」や「死」はやって来る。
だからと言ってそれ対しては何もできない。

だったら、誰かに思い出してもらうなんていうのは、素敵ではないだろうか。
できれば、笑いながら、誰かと語り合ってもらうなんて最高だ。

「認知症」で記憶が曖昧になり、いろいろ忘れてしまったり、「死」で存在自体が消えてしまったりと、「消失」が「恐さ」につながっているのではないだろうか。
まったく存在しなくなってしまうことへの恐怖だ。
それが、誰かが思い出してくれて、笑ってくれて、ときには語り合ってくれるということや、事実であろうがなかろうが、思い出すことがあったりすることで、その恐怖への軽減につながる感じがしたのだ。

このストーリーの「肝」は「おとちこたち」の「たち」であろう。
山田にとって、ひょっとしたら偽りの記憶の中にいる「たち」なのかもしれないが、「たち」がいることで、それでも彼は救われている。
思い出してもらえる友人たちと同様に、彼らを思い出している自分も、それによって救われている。山田は楽しそうだからね。

大学に入る前からの長い友人たちがいることは、甘いメルヘンかもしれない。
「友だちって、やっぱ、大切なんだなー」って思ってもいい。
しかし、年齢を経るごとに、「死」を迎え、自然と友人は減っていく。
だから、山田にとって、森田という存在は黄金の存在だ。

『て』は家族だったが、『おとこたち』は友人の話だ。
「最後は1人」などと悲壮感に包まれて思いながらも、やはり「社会」は人間関係で成り立っている。1人ではない。We are not alone なのだ。
友人や家族とは、しょっちゅう顔を合わせる必要もないし、すべてをわかり合える必要もないのだが、「つながっている」という感覚はとても大切なのだ、ということをこの2作は告げている。

もちろんそんなことわかっているし、ハイバイに言われなくてもそうしたいと、誰もが思っている。ただし、その距離感はとても難しい。
しかし、家族や友人との関係は、「後で思い出してもらえる」「後で思い出して笑ってくれる」あるいは「後で思い出してあげる」「後で思い出して笑ってあげる」ということが、結局、大事であると思うと、少し簡単に思えてくる。複雑に対人距離感を計り、微妙な動きをする必要もない。

家族や友人にかかわらず、つながっている(いた)人のことを、後で思い出し、ときには笑ってあげればいいし、自分がそうしてもらえる人であればいいのだから。
これが、「恐くなくなること」の極意ではないだろうか、なーんて思ったりして。

最初のカラオケで、いきなりチャゲアスの曲が流れた。
「あ、チャゲアスね」と思ったのだが、全体のストーリーと考え合わせると、ちょっと切なくなってくる。
まあ、うーんと深読みすれば、行ってしまったアスカに、逝ってしまった友人たちのことや、残されたチャゲと自分のこととかをダブらせたりして……それはないか、ないね。

ラストのシーンは特にグッときた。
相当、丁寧にリサーチしているのではないだろうか。
冒頭でも書いたが、認知症の人は、自分の記憶と他人の記憶(あるいはテレビなどのドラマ)が混在してしまうことがある。
サラリーマンだった人が「自分は農家だった」と語ったりするように。
でも山田は楽しそうに語っているよね、そこがいいんだ。

また、山田が介護の人たちに連れられて自分の部屋戻る姿には、老人ホームに面会に行った後に、そこに置いて帰るときのような、うしろめたさや切なさを感じた。

「恐くない」と言いながらも、実はこれが一番、辛く恐いシーンなのだ。
これを、乗り越えるときに本当の「恐くない」という気持ちが出てくるのだろう。
でも、「思い出して」もらえれば「大丈夫」だ。「思い出しながら」生きていけば「大丈夫」だ。

出て来る役者さんは、みんな好き。
永遠の一瞬 -Time Stands Still-

永遠の一瞬 -Time Stands Still-

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2014/07/08 (火) ~ 2014/07/27 (日)公演終了

満足度★★★★

今もどこかで起こっている戦争、そして人生の選択
「永遠の一瞬」を止めておけるのは写真だ。
人の気持ちは一瞬ごとに変わってしまう。
「永遠」というものは存在しない。

ネタバレBOX

女性の戦争カメラマン・サラと、男性の戦場ジャーナリスト・ジェームズのカップルがいる。
サラは、戦場取材中に一時意識不明になったほどの大怪我を負ってしまう。
彼女が負傷したときにその場にいなかったジェームズは、彼女を迎えに行き、2人が生活しているアパートに戻って来た。
実はジェームズは、やはり戦場取材中に心に深手を負っていたのだ。

帰国した2人の前に共通の友人であるリチャードが訪れる。
マンディーという、若く新しい恋人を連れて。

身体と心に深手を負ってしまったということによる、サラとジェームズの関係、さらにマンディーという恋人を手にした、リチャードとの関係など、久しぶり会う彼らの状況の変化が、さまざまな気持ちの動きになってくる。

そんなストーリー。

この物語には2つのテーマがある。

ひとつは、戦場ジャーナリスト(カメラマン)についてで、もうひとつは女性の生き方(と男性との関係)についてだ。

戦場ジャーナリストはなぜ戦場を取材するのか、戦場カメラマンはなぜ戦場の悲惨な姿にレンズを向けるのか、ということだ。
それは「強い使命感」にあるからだ。

マンディーがサラに問う。「レンズを向けている怪我をして死にそうな子どもにシャッターを切るのではなく、なぜ助けてあげないのか」と。
サラはそれ答える。「自分たちが伝えなければ、その悲惨さは誰も知ることがない。自分が助けようとしてもその子どもは助からなかった」。

伝えることで世界が知り、レンズの向こうにある悲惨な出来事が少しでもなくなるのではないかと思っているのだ。

しかし、マンディーにはそれが理解できない。目の前にいる子どもを助けることが先であると。
2人の間は、絶対に埋まることはない。

サラの側に立っていたパートナーのジェームズは、戦場で受けた心の傷は完全に癒えていないのだろう。さらに自分の記事が雑誌に絶対に掲載されないことを知り、心が折れてしまう。
「自分たちが何をしても戦争はなくならない」と言う。
つまり、使命感が折れてしまったのだ。
それが彼らの仕事の根幹であるのだが。

ジェームズの心動き、葛藤はよくわかる。それはた私が男だからかもしれない。
自分の精神が傷つき、最愛の人が死線を彷徨ったのだから、「普通」になりたい、と思うのは当然だろう。
しかし、サラは違った。
死線を彷徨ったのが自分だから、最愛の人が生きるの死ぬのかという不安にあったわけではないし、体験からさらに自分の意思を固めてしまったのだろう。

それは女性と男性の違いなのかもしれない。
女性にはそういう強さがある。
子どもを産み、育てるマンディーにも同じ強さがある。
ただし、それは「やりがいのある仕事を捨てても、自分の子どもを育てる」という強さだ。

サラの設定は女性戦場カメラマンなのだが、それを単に「仕事」と置き換えてもいい。
女性は「仕事」と「家庭」の選択を迫られる。
戦場カメラマンという設定にしたのは、その両立が非常に難しいからだろう。

安全な場所で幸福な妻になり、母になるのか、使命感とやりがいで、文字どおり命をかけた仕事を続けるのか、ということなのだ。

マンディーが現れたときに、サラはジェームズに聞く。「ああいうのが好みなのか」と。
サラの嗅覚が、ジェームズの変化を嗅ぎ取った一瞬だ。

彼らの友人リチャードは、言い訳のように、マンディーについて語る。
使命感を持ち、鋭さを失っていないサラを前にして、申し訳なさのようなものを感じてしまったのだろう。
しかし、リチャードはマンディーを選び、普通の幸せを選んだ。
ジェームズも、彼らを見て、心が揺らいだのではないだろうか。

サラの立場から言えば、「結局この男も、あの男もみんな同じだ」ということなのかもしれない。
男が女性に求めるのは、そういう生活なのだから。

リチャードからのプロポーズを受け、いったんは結婚する2人だったが、やはりすでに価値観が違っている2人は別れしか方法はなかったのだ。

別れた後、リチャードは新しい恋人をつくっていた。
サラは1人、また戦場に向かう。

男の視線から見てしまうと、サラの頑なさは、マンディーへの当てつけのように見えてしまう。
「私はあなた(たち)とは違う」「使命があるのだ」ということで、仕事に向かうことに頑なになってしまったのではないだろうか。

女性が仕事を続けるということは、戦場のような場所をかいくぐらなくてはならない。
決死の覚悟が必要であり、その姿は悲壮感さえある、というラストではなかったのではないだろうか。

「仕事か家庭か」という選択を迫られている女性たちは、この作品どう見たのだろう。
とても辛いラストであったのではないだろうか。

「永遠の一瞬」を止めておけるのは写真だ。
しかし、人の気持ちは一瞬ごとに変わってしまう。
「永遠」というものは存在しない。

サラを演じたのは、中越典子さん。キリリとしていて、対峙する者は正論でねじ伏せられてしまうような強さを感じた。
男性はそれを感じ取り、申し訳なさげに対応する。例えば、サラの目を正面から見ることができないような。
マンディーを演じたのは、森田彩華さん。屈託がなく、何でも思ったことは言ってしまう。しかし、悪気はなさそう。ただし、ひょっとすると強く使命感と仕事に燃えるサラに対して、誰もが言い辛いことを、わざと言ってるのではないか(言わば挑発している)と思ってしまうような、雰囲気がいい。

サラのパートナー・ジェームズを演じたのは瀬川亮さん。線の細さ、簡単に折れてしまいそうな雰囲気がよく出ていた。自分の記事が掲載されないことへの怒りや、気持ちの変化など。
友人のリチャードを演じたのは大河内浩さん。俗物のように見えるが、それはサラがいるせいであり、あれが普通のおじさんなのだ。

舞台の上手後方に舞台サイズと比べて小さなモニターがあり、戦場らしき写真が時折、映し出される。何が写っているのかは、ぼんやりとしかわからない。
つまり、世界のどこかでは、こうしている今も、悲惨な出来事が起きているということであり、サラの頭の中と、ジェームズの頭の中には、消し去れないそういう記憶が残っているということなのだろう。
残っていることは同じであっても、その影響は180度変わってしまったのだが。
七月大歌舞伎

七月大歌舞伎

松竹

歌舞伎座(東京都)

2014/07/05 (土) ~ 2014/07/29 (火)公演終了

満足度★★★★

夜の部を観てきました
『悪太郎』『修禅寺物語』『天守物語』の3本。

ネタバレBOX

『修禅寺物語』
将軍源頼家は、面作師の夜叉王に自分の顔の面を作るように依頼されたが、なかなか出来上がってこない。業を煮やして夜叉王のところに行くと、納得のいくものができないと言う。それに怒った頼家は夜叉王を成敗しようとすると、夜叉王の娘が、頼家に「実は出来ている」と面を差し出す。面は頼家にそっくりなのだが、夜叉王は、その面は生きた顔ではない、死に顔だ、と言い、渡すつもりはない。しかし、頼家はその面を持って帰るのだが……。
というストーリー。岡本綺堂の作品。

夜叉王を演じるのは、市川中車、つまり香川照之。
そういう見方をしてしまうせいか、力が入りすぎの印象。歌舞伎役者とは発声が違うようだ。歌舞伎役者さんたちは、もっと軽く声を出しているのに、通りが良い。

ラストは芥川龍之介『地獄変』を思わせる。面作り一筋で、それしか頭にない名人と言われる人の凄まじさ、怖さ。


『天守物語』
泉鏡花作、姫路の白鷺城天守閣に住む美しい富姫に妹分の亀姫が遊びにやってくる。
彼女たちは、人ではない。
亀姫は、自分の住んでいる城の殿様の首を土産に持ってくる。
生首は、人ではない彼女たちの好物。
富姫は、亀姫に白鷺城城主の白い鷹を与える。
亀姫が帰ったあと、天守閣に登ってくる人の姿があった。
天守閣に登った者は生きて帰れないと言われているのに……。
というストーリー。

『天守物語』と言えば、玉三郎。
歌舞伎ではない玉三郎主演の『天守物語』も観たことがある。
とにかく、玉三郎さんの美しさ、立ち姿は見事。
すっと立ち、それがまったくぶれない。
表情、客席に見せる姿、形をきちんとして見せる。

玉三郎が演じる富姫が心を寄せる、図書之助役の海老蔵も美しい姿であった。
背景は映像を使っていたが、セットは歌舞伎にしてはとてもシンプル。
舞台の上の役者を見てくれ、ということだろう。

富姫と、その妹分である亀姫(尾上右近)との姉妹のやり取りは、女学生のような明るさと華やかさ、若さまで感じるような演技だった。
姉妹2人が、互いの顔がつくぐらいに近づけてこちらを見る姿には、観客は思わず、きゃーっとなってしまうようだった(笑)。

人ではな異界の者たちの話なので、不気味な中にユーモアもあるし、耽美的な美しさもある。
冒頭、女中たちは、天守閣から、露を餌に、花を釣る、なんていうシーンから始まるのだ。
「えーっ」というラストではあるけど。

この舞台で驚いたのは、「カーテンコール」があったことだ。
歌舞伎座でカーテンコールは初めて見たと思う。
しかも、ダブル。
観客は大いに湧いた。

夜の部には、もう1本『悪太郎』があったが、見てない。
母に欲す

母に欲す

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2014/07/10 (木) ~ 2014/07/29 (火)公演終了

満足度★★★★★

作・演出の三浦大輔さんの、外連味、演劇へのスケベ心の放出
「不在」の「穴」は埋めることができない。
それを抱えて生きるしかない。

ネタバレBOX

銀杏BOYZの峯田和伸さん、田口トモロヲさんの出演に、大友良英さんが音楽を担当、というロックな布陣に、三浦大輔さんの作・演が気になって劇場に足を運んだ。

体たらくな毎日を送っている兄・裕一は、電話にも出ずに母の死を知らなかった。
友人が携帯に残したメッセージで初めてそれを知り、家に帰る。
葬式に長男がいなかったことをなじる弟・隆司。
仕事も手につかないほどに、嘆く父。
しかし、四十九日が過ぎ、父親が女を家に連れて来て、住まわせ始める。
そんなストーリー。

冒頭、むさ苦しく、暑苦しいアパートの一室で、電話の呼び出し音が鳴り響く。
テレビは付けっぱなし。
ベッドには半ケツ出した男が寝ている。
携帯も鳴り始め、ようやく男はゆっくりとベッドから出て、冷蔵庫の水を飲む。
そして、携帯の着信を確かめる。
その間、台詞なしで、電話の呼び出し音、携帯の着信音、付けっぱなしのテレビの音が小さく聞こえているだけ。
ゆっくり起き上がり、夢の中にいるようなスローペースで動く男に観客の視線は集中する。

このシーンは正直、凄いと思った。
「ベッドから男が起き上がる」だけのシーンを延々時間をかけて見せているだけなのに、とてつもない緊張感がある。
観客は固唾を飲んで見ているだけ。

全体のストーリーもそれほど複雑ではない。
しかし、このように、実に丁寧に、登場人物の内面までが見えるように、じっくりと1つひとつを見せていく。

時間があることをとても有意義に使い切っていると思った。
(休憩時間に「最初のシーンを見て、これだから3時間超えるのね」みたいなことを言っていた人がいたが、まさにその通りだと思って、思わず笑ってしまった)

銀杏BOYZのボーカル・峯田和伸さんが演じる兄の姿には既視感があった。
友人の1人に似ているのだ。
姿形ではなく、その佇まいが。
大学を中退して、家には帰らず、好き勝手なことをして過ごし、毎日は自堕落そのものと言える生活を送っている。
自分では理想に目指していると言っているが、それだったら何かしろよ、と周囲の人々は言う。
真面目に働いている弟がいて、弟から時折非難もされるが、兄弟仲はいい、そんな男だ。
私も人のことは言えない兄なのだが……。

私の友人は東北の出身で、方言ではなく、イントネーションの訛りがある。
その独特の一本調子の話し方、人の目を見て話せない様子、目自体がよく見えないボサボサの髪型、まさに劇中の兄と重なる。

劇中の一家の地元は、新潟かそのあたりではないだろうか。
新宿から高速バスで5時間ぐらいと言っていたし、方言というよりは、訛りがある標準語という印象で、どこか都会に近い場所。イオンではなく、でかいイトーヨーカドーがあるような町。

実母が亡くなって、葬儀に来なかった兄を弟はなじるのだが、「この気持ちを共有できるのは兄ちゃんしかいないと思っていた」と吐露するところで、兄と弟の関係が見えてくる。
一方的に非難するだけでない、そういうリアルな肉親の関係が見えて来るところが上手い。

実母が亡くなって、父親が飲み屋にいたらしい女を連れて来る。
もちろん、兄弟は反発をする。
その反発の仕方が、子どものようで笑ってしまう。
怒りがあったとしても、母がいないという現実に、寒々しい隙間風が吹いているような家庭に女性が居るということに、何か安堵を覚えてしまったので、強い口調で反発をしないのだろう。
この感覚がのちの彼らの行動にもつながっていく。

普通に考えて、四十九日が過ぎたからと言って、突然死した妻に代わる女性をいきなり連れてくるということは、あり得ないのだが、そこはストーリー的には譲るしかないので、そう見た。

(母となり得る)「別の女性」(兄の友人が「ニュー母ちゃん」と呼んでいたのには笑ったが)がやってくることで、「母の不在」が急に大きくなり、自分たちと母との「距離感」だったり、「依存感」だったり、「想い」が見えてきてしまう。
生きていたときには、「そこにいることが当たり前」すぎて見えなかったことが見えてきたり、そばにいるからこその面倒臭さなどは、「いなくなって」しまうことで、「甘い思い出」に姿を変えたりしてしまう。
死んでしまった者は何もしないが、残った者がいなくなった者に対しての感情を変化させるのだ。

父、兄弟たちの目には、新しい妻・母の姿は、「失ってしまった妻や母」の姿(いい思い出だけの)にしか見えてこなくなってしまう。

反発していた兄弟が新しい母を受け入れる気持ちになってきたときに、時間差で現れるのが、父の会社の同僚だ。
「それはおかしい」と正論を振りかざし、もちろん、薄々は父も兄弟も感じていて、誰もが口にだなかったことを指摘されてしまう。
正論だから反対はできない。

この、時間差によるショックはなかなか面白い。
全員が頭を殴られた感じではなかったか。

そして、ラストにつながっていく。
行き場を失った「母への想い」が、奇妙に捻れた方向に噴出する。
母の残した留守番電話のメッセージに性的興奮を覚える兄、新しい妻になるはずだった女性らしき女が出ているビデオに興奮する父、そして、それまでは年齢にふさわしい若い女性の格好をしていた弟の恋人は、まるで母のような衣装で現れ、弟はそれを受け入れる。

このラストは、普通に考えてあり得ないと思うのだが、作・演出の三浦大輔さんの、外連味、演劇へのスケベ心として、アリだと思う。
「行き場を失った母への想い」の噴出先は、「あり得ない」ほどの方向しかにないのだから。

父、兄弟たちは、「不在」を胸に抱えながら、次の1歩を踏み出した。
それは今までの生活と変わりがないのだが、確実に「母」の分だけ、「穴」が空いてしまった。
空いてしまった「穴」は何をもっても埋まることはない。
それを抱えて生きるしかない、というラストだ。

兄を演じた銀杏BOYZの峯田和伸さんは、とても存在感があった。
彼の出身は山形らしい。普段どういうしゃべりをしているのかは知らないが、ボソボソとして独特の一本調子の訛りは、リアルだった。
そこは演技ではないのかもしれないが、演技でない姿を見せることができるのは才能だと思う。
ロックなカリスマ性ではなく、等身大さが良かったのだ。

弟の池松壮亮さんもとても良かった。もう少しきつめの訛りと、兄との会話で、兄を慕っているし、信じているという、兄弟関係を、見事に演じて見せてくれた。さりげなくて上手い。

音楽は、大友良英さん。劇中歌だけでなく、客入れのときの音楽もとても良かった。
劇中歌のCDは買ってしまった。
第一幕で歌い、休憩を挟むのだから、つい買ってしまうではないか。
ムシノホシ

ムシノホシ

大駱駝艦

世田谷パブリックシアター(東京都)

2014/06/26 (木) ~ 2014/06/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

ミクロの視点から広大なマクロへの広がり
「外」にも「内」にもあるマクロ。

大駱駝艦を観はじめて20年以上になると思うが、その間の数々の作品の中にあって、本作『ムシノホシ』は、間違いなく私の中でのベストに入る作品だ。

ネタバレBOX

大駱駝艦の公演では、毎回、驚くことがある。

いつからか、言葉を発したり、台詞を言ったりするようになっていたり、今回のように白塗りではなく、銀色(ゴールデンズの金色ではなく)だったりと、「いつもの」場所に安住することなく、大駱駝艦は、常に変化することに対して貪欲である。

今回、ムシをテーマということで、ストレートに虫を想像させる姿と動きを見せた。
そういうストレートな感じもチャレンジではないだろうか。
誰が観ても「ムシ」なのだ。

前回はウイルスがテーマであったが、こうしたベーシックなもの、微細なもの、がこの世界を形作っているという意識から、この作品は生まれたのだろう。
「この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とする」と言い切る大駱駝艦だからこそ、「生」は大切なテーマであり、その「生」は我々だけで成り立っているのではないということを、思い起こし、それを見せることで、観客に感じ取ってほしかったのだと思う。

「ムシたちは何を考えているのか」と、人間の目線で擬人化してもしょうがない。

「あるがまま」「その姿、形、動きのまま」を踊ることで、見えて来るものもあろう。
踊り手の人たちが、それを身体で感じたことは、観客にも伝わる。
伝わり方はさまざまだ。
しかし、それでいいのだろう。

そしてそれは、具体的な「言葉」になるのではなく、「何だかわからないけど、ムシだ」「ムシが生きている」「ムシが死んでいる」という「そのまま」の姿だけで十分なのだろう。
「言葉」にする必要もない。言葉にするのならば、語ればいいのだから。
踊り手たちの身体によってトレースされたたムシが、観客の身体に入ってくる瞬間がある。

今回の「ムシ」という視点は、ミクロであるが、マクロの世界を背中に背負っている。
マクロを感じさせるのは、村松卓矢さんが芭蕉のような姿で現れ、俳句を詠むところだ。

具体的な個である「ムシ」という生き物、それは単に「サイズ」だけのことではない、そのミクロが形成する「世界」、さらに侘び寂びに代表される広がる「感覚「感情」、それを俳句の世界で表していたのではないだろうか。俳句も17文字というミクロにマクロを表現しているのだから。「マクロをミクロに閉じ込めている」と言ってもいい。
具体的なモノから、「感覚」「感情」という、途方もない広がりへ、だ。
しかし、俳句と同様に、マクロはミクロの外にあるだけではなく、「内」にもあるのだ。

大駱駝艦のヒエラルキーの頂点には、麿赤兒さんがいる。
そして、その下にピラミッドのような関係が築かれている。
舞台の上で、それははっきりとする。

そうしたヒエラルキーはあっても、マクロの視点からは、ムシの麿赤兒さんはミクロの世界であり、マクロの感情に包まれていく。ヒエラルキーなんて関係ない。世界は感覚のサイズだけ広がっていくのだ。
それがまた面白い。

村松卓矢さんが「静」ならば、我妻恵美子さんは「動」である。
ミクロの「ムシ」の世界を包む「静」と、破壊する「動」である。
彼らの存在によって、ぐっと広がりと奥行きが見えた。

最近、村松卓矢さんはこうした設定が多く、もっとアグレッシブに踊ってほしいと思うものの、逆にこうした「立つ」「歩く」だけで、さらに「台詞を言う」というのは、かなりの難度なのではないかとも思っている。「立つ」「歩く」だけで、観客を緊張させるのだから。

一方の我妻恵美子さんは激しい。単に乱暴なのではなく、美しく調和を破壊していく。

ムシを含む、この世界の無慈悲さと、儚さが、この2人の対比によって生まれている。

今回、麿赤兒さんが、激しく動き回り、踊る。
舞台上にいるシーンも多い。
じっと、立ち、腕を少し動かすといったような、「渋い」踊りではない。
一時期は、身体の線が崩れ、動きは大丈夫なのかと、不安に感じたこともあったが、「麿赤兒は健在」であった。
他の踊り手たちと絡み合って、世界を動かしているような踊りだ。
それにはシビれた。

ジェフ・ミルズさんと尺八の土井啓輔さんの音楽も素晴らしく、電気と竹、洋と和の対比から、それが混沌となっていくことで、快感が増幅される。

大駱駝艦を観はじめて20年以上になると思うが、その間の数々の作品の中にあって、本作『ムシノホシ』は、間違いなく、私の中でのベストに入る。
妹の歌

妹の歌

ガレキの太鼓

王子小劇場(東京都)

2014/07/16 (水) ~ 2014/07/21 (月)公演終了

満足度★★★

人生が自分の思っていたとおりにコントロールではないのだから
舞台も思いどおりにならないのかもしれない。
「思いどおり」と言うのは、演じる側だけでなく、見る側にとってもなんだけど。
だから、そのギャップが埋まらないと「もっと面白くなったと思う」と言ってしまう。
泣きはしないけどね。

ネタバレBOX

高校生が、自分がかつて小学生だったときに仰ぎ見た、年上のお姉さんたちを題材にした小説を披露する。
自分は、今、その「仰ぎ見ていたお姉さんたち」と同じ歳にいる。

そういう視点が入るのかと思えば、そうでもなく、その小説から、作者である女子高生の「今」が浮かび上がるわけでもない。
さらに、小説の中での女子高生の姿から、当時の、あるいは今の彼女たちの姿や、当人たちでは見ることのできなかった、人間関係などが見えてくるわけでもない。

単に、当事者たちも忘れかけていた、「あの日の出来事」がふんわりと蘇るだけだ。あとは離婚への違和感と葛藤。
もちろんそれも面白いアプローチだとは思うのだけど、長々と当時を題材とした小説を再現するのであれば、そうした視点が加わらないと、ただ、その小説を題材にしたリーディングの舞台を見ているようで、さらに深みが増していかない。

後半の離婚についてのホワイトボードでのやり取りは、内容的には面白いのだが、小説や、彼女たちの過去の出来事との結び付きが見えてこない。

それぞれの「今」について、これぐらいの掘り下げがあったとしたら、小説も、掘り下げ部分も活きてきたのではないだろうか。

ホワイトボードを使うことの「意味」ももうひとつわからない。
台詞のやり取りで見せたほうが、もっとスマートだったし、観客に届いたのではないだろうか。
講義じゃないのだから。

個人的に言えば、最後の暗転前にボードの上のほうに書いた赤い文字がよく読めなかった。
斜めの角度から見ているのと、字が崩れすぎていたからだ。
役者さんたちは、当然何が書いてあるのかを知っているとは思うが、読みににくい客席もある可能性があるのだから、翌日のシーンで読んでくれてもよかったのではないかと思う。
(終演後、正面に行って見ようと思っていたが、結局忘れてしまい、わからずじまい・・・少しモヤモヤ・笑)

今、30代になっている彼女たちが高校生になっているのを、本人だったり、別の役者だったりが演じる。
それは演劇ではよくあることだが、その使い分けがうまくない。
見ていて少し混乱してしまう。

もっと意味を持たして使い分けてほしい。
例えば、小説の中のフィクション部分とノンフィクション部分の使い分けなど、いくらでも方法はあっただろう。
または、小学生のときの記憶を頼りに書いている小説なのだから、例えば、間宮についての記憶が香苗の出来事に混在していて、その混在ぶりを別の役者が演じるなど、いろいろ見せ方はあっただろうと思うのだ。

今、高校生になっている道江は、かつて学校で何らかの問題を抱えていたらしい。
だから、少し年上の彼女たちが、仲良く遊んでいる姿は、「年上のお姉さんたち」という以上に魅力的だったのだろう。
その少し捻れた想いは、高校生になった今も、たぶん続いている。
かつての大食いファイターズたちは、今は昔と違っている。
それは当然だけど、それに戸惑う道江。

特に何ごとも起こらず、台詞だけで楽しむ群像劇で、ストーリーの軸が道江の想い、あるいは感情であるのならば、もっと整理が必要だった気がする。
そうした、台詞主体の作品として、ガレキの太鼓は面白いものを見せてくれるのだから、それぐらいの期待はしてしまう。

小説のあたりはいい感じで、ここからぐっと何かが変化あるいは、持ち上がってくるのかと思っていたのに残念である。

ラストに高校生の道江が、子どものように駄々をこねて(もうみんなに何も聞かないとか言って)、泣き出すのだが、あれば、幼すぎやしないだろうか。
物語の終え方としてはわかるのだけど。

されと小説を読むシーンで、ト書き的なものや、私(道江)の感じたことを、男性の役者が読むのだが、やはり、これは「私」、つまり道江が読んだほうがよかったのではないかと思う。
他人に書いたものを読んでもらうという高いハードルを、さらに自分が読んでみせる、というぐらいに、彼女(道江)が大食いファイターズたちにどんなに強い気持ちがあったのかが、よりわかるように思えるのだ。
自分の想いは、是非当人たちに聞いてほしいと思っているはずだから。
(「声に出して読んでいいのよ」を繰り返すシーンには笑った)

それの強い想いがあって、当人たち大食いファイターズが、いろいろな言葉や出来事をあまり覚えてなくて、さらに「今」があったりしたほうが、道江の中のギャップが高まったように思える。

劇場は斜めに仕切ってあり、左右が長い舞台になっていた。
しかし、その効果はあったのだろうか。
前後に厚みがあったほうが、よかったように思える。
特に、室内のシーンは、不自然に横に並んでいて、動きもほとんどなく、ホントにリーティング公演のようであった。
ソファやイスを配置して、それぞれの席で小説を聞いていたり、お茶を飲んだり、といった動きもほしいところだ。
下手から出て、あえて後ろを回る動線も、それほど活きてないように思ってしまった(同じ室内のはずなのに、出るときは下手から、戻ってくるときは上手から、という動きもあったりするし)。

途中までは、くすくす笑ったりして、とても面白かったんだけどなあ。

役者さんでは、万里紗さんの若さが強く出ているのと、工藤さやさんがなんかいい感じであった。前半は彼女が引っ張っていく感じがあったのだけど、後半はそうではないのが、すっきりしない。
「廃墟の鯨」

「廃墟の鯨」

椿組

花園神社(東京都)

2014/07/12 (土) ~ 2014/07/23 (水)公演終了

満足度★★★★★

人の生命力が熱く溢れる舞台
毎年夏に花園神社で野外劇を上演している椿組。
そして、そこに、土の香りが強いセンチメンタリズムが充満する舞台を見せてくれる、劇団桟敷童子の東憲司さんの作・演が合体した。

椿組の野外劇と東憲司さんの作風は、ぴったりとしか言いようがないので、とても期待して花園神社に向かった。

ネタバレBOX

劇団桟敷童子とは違い、年齢の幅、色とりどりの役者の個性が揃い、さらになんと、28人もの登場人物が舞台の上に現れる。

しかも、それぞれの登場人物が活き活きと描かれており、舞台の上が役者で一杯になるシーンでも、どの場所を切り取っても「人間」がそこにいる、と感じられる熱い舞台であった。

もちろん役者さんたちが上手いこともあるのだが、これだけの役者を動かし、まとめ上げ、作品に仕上げていく、東憲司さんの力を見せつけられた。

役者の身体と気持ちがうねるように、物語を作り上げていく。
その「うねり」は「人間の生命力」であり、人間賛歌に溢れていた。

舞台は、戦後間もない頃の地方都市(復員船が到着するところ。たぶん桟敷童子でお馴染みの九州地方か)、下水が流れ込むドヤ街。そこに暮らす人々。
このあたりを仕切るヤクザたちと、彼らに使われている「(米兵に対する)肉の防波堤」と呼ばれている娼婦たち。
彼らの前に、満州から引き上げて来た、女が現れる。
彼女は、ふとしたことから娼婦たちを逃がすことを手伝おうとする。
そこで一波乱起きる。
そういうストーリーに、戦争孤児たちや、満州の花屋などの話が絡んでくる。

セットが野外劇であることを十二分に活かしたものだ。
土の舞台、左右に爆弾が落ちた後に水が溜まっているという池、そこに天井から下水(本水)が、時折、大量に流れ落ちる。
オープニングから奥のドヤ街のバラックが立ち上げるシーンは素晴らしい。
新宿の喧噪、パトカーまでもが良いSEとなっている。
ラスト近くに大立ち回りがあるのだが、これが凄い。
水たまりに落ち、水がしたたり、必死の形相でつかみ合う。
単なる「手順」の立ち回りとは大いに異なって見える。
それだけの迫力があった。

主演の満州帰りの女・番場渡は松本紀保さん。
ドヤ街の住民やヤクザたちの中にあって、凜として立ち、なかなかカッコいい。
病気であるという設定も効いている。

主演と書いたが、物語の「軸」という意味である。幾人か登場人物たちが軸になる、群像劇であると言っていい。桟敷童子のスタイルである。
さらに、軸となる番場渡は、ラストの早い時期に死んでしまうのだ。
彼女の死を先に引っ張っぱることで、センチメンタリズムを感じさせるのではないところが、いいのだ。

八幡を演じた山本亨さんは、熱っ苦しくで、やっばりいい。グイグイ来る。
ヤクザの兄貴を演じた、粟野史浩さん、犬飼淳治さん、伊藤新さんはタイプの違う、いかにも悪そうな顔つきが良かった。
飲んだくれのエイボウを演じた椎名りおさんは、こういう役は初めてではないだろうか。爆発していた。こういう役は立ち位置が難しいと思うのだが、全体にうまく溶け込んでいた。

「主」とか「脇」ということを意識させず、どの登場人物も熱気でギラギラしている。
そのギラギラした熱を見事にひとつの方向にまとめ上げたと唸る。

「人間、まんま生きる」がテーマ。
満州帰りの番場渡が繰り返し言う。
そして、それは「今」を生き抜くということだけではなく、「明日」という日があることを想い生きるということを意味している。
孤児の1人が「ここには明日はない」「今日の次は今日だ」のようなことを言うのだが、そうではないことを意識させる。

番場渡は、満州では「満州花屋鯨の桜」という花屋のお嬢さんだった。
満州生まれで満州育ち。日本は遠い故郷。
このドヤ街に日本の桜を育て、花を見たいと思っている。

孤児は桜の花に「明日」を想い、娼婦たちは「明日」の自分たちを思い描く。

ラストはタイトル通りで、テント芝居の常道であるから、奥が開き、鯨が出てくるのだろうと想像していた。
もちろん、そうなったのだが、そこまでの引っ張り方がとても上手いのだ。
桟敷童子であれば、意外と早くそのシーンは訪れるのだが、ここではラストであろうと思っていた大立ち回りの後ではなく、それから時間が経っていき、「明日」がやって来たドヤ街の人々の前に現れるのだ。

死んで行ってしまった人たち、去って行った人たちが、大きな鯨を支えながら現れて来る。
このシーンには、わかっていたはなのに、グッと来てしまった。
美しいシーンだ。

人の命が、ワーッとこちらに溢れてくる、素晴らしいシーンであった。

オープニングと劇中の歌も良かった。

椿組の野外劇としても、東憲司さんの作・演出としても、トップクラスの出来であったと思う。
梵天ヤモリ

梵天ヤモリ

ひげ太夫

テアトルBONBON(東京都)

2014/07/08 (火) ~ 2014/07/13 (日)公演終了

満足度★★★★

唯一無二の「組み体操芝居」
星の数ほどある劇団の中で「唯一無二」と思う劇団はいくつかある。
しかし、ひげ太夫は、本当に唯一無二の劇団だ。
だって、男性役は全員がひげを描いているし、人が縦に4段重なる組み体操を芝居の中に入れてるし、セットも気持ちも人が演じてたりする劇団なんて、ほかにないのだから。

ネタバレBOX

ウクレレで歌う前説から、いつものようにスタート。
そして、いつもの、ひげ太夫。
面白い。
いつものように、全員でポースを取りスタートし、全員がポースを決めて終わる。
フライヤーも好きだ。
ひげ太夫のフライヤーは、手に取るといつも笑ってしまう。

女性のみの出演者で、彼女たちが2役演じるときには、男性の場合には必ず「ヒゲ」を描く。女性を演じるときには、それを消して出てくる。
それがひげ太夫。フライヤーの通り。

ストーリーは、イマジネーションが膨らむ、アジアが舞台のファンタジーな冒険譚。
その表現方法は、マンガ的とも言える。

今回の舞台は、エメラルド島。
そこで、梵天派、白鳥派という武術の2大勢力の対決を中心に、エメラルド島を我がモノにしようと企む、島と橋で結ばれた大陸にある、南王国の王の話。
人を感動させ、そのときに心の中に吹く風を操る武術の梵天派、対する白鳥派は拳と刀で戦う。
木彫梵三という男を軸に物語は進む。

ストーリーは、とにかくいろんな登場人物がどんどん加わりながら、あれよあれよと展開していく。いろいろ盛り込み過ぎだが、破綻はない。

2者の対決に第三軸を加え、登場人物を増やすことで、物語がやや膨らみすぎ、いくつかの大切な登場人物の背景を描き切れなかった感はあるが、観客をストーリーに惹き付ける力はあったと思う。

ストーリーも面白いのだが何よりこの劇団のウリは、「組み体操」。
毎回、凝った組み体操を見せてくれる。
人が上に4段重なるなんていうものまで、いとも簡単にやって見せるのだが、台詞のやり取りをしながら、スムーズに組んでいく様は、本当に凄いと思う。

今回も、人が「気持ち」「風」「涙」「馬車」や「きらめく橋」「エスカレーター」などを具体的な形にして、次々に見せていく。
「キラキラ」とか、キメのときの「ドーン」というマンガでお目にかかるような、擬音や装飾までも人が具体的に演じて見せる(ドーンは多すぎだけど)。
「画像のアップ」とか「ちびまるこちゃん」とか、そういうアイデアは面白い。

主人公の木彫梵三を演じるのは、作・演もしている吉村やよひさんだ。
彼女は今回も出ずっぱりで大熱演。
お約束の、自分が演じる役との共演シーンも、わかっているけど面白い。

そして、こでまり姫を演じた林直子さんが、抜群に面白かった。
キャラを立てすぎ、かつベタすぎる少し手前で留まったところがいい。

かなり三枚目の印象が強い姫は、主人公に対して一方的に思いを寄せていて、主人公は嫌がっていたりする。それで笑いを取る。
そういう設定はよくある。その場合、普通、主人公は別の(美人の)女性と結ばれて、三枚目は(やっぱり)振られてしまうのだが、この作品では違った。
主人公が女性に振られて、最後に三枚目っぽい姫のほうとハッピーエンドになるのだ。
これは意外だった。女性の書いた戯曲ならではなのかもれない。
普通にありがちな展開よりも、このハッピーエンドのほうが絶対にいい。後味もいいし。

後味ということで言えば、「悪者」キャラが何人か出てくるのだが、完全な悪党はおらず、収まりのいい大団円になる。
そういうところもいいのだ。
にこにこして見ていられる。

この作品には桟敷童子のもりちえさんが客演していた。
失礼ながら、どれぐらい動けるのか、と思っていたら、組み体操はもちろん、側転までも見せてくれた。
ドスの効いた王の役はぴったり。ひげ太夫にはいないキャラクターなので、いい人を選んだと思う。
ほかの役者さんもみんなよかった。
登場人物として、台詞を言って演じながらも、「橋」とか「キラキラ」とかモノや雰囲気を一瞬で演じ分けなくてはならないし、組み体操は一歩間違えは大怪我をしてしまう。
それを、全体の流れを壊さず、きちっと演じるというのは素晴らしいと思う。

舞台の最後は、いつもの通りの「NG集」。
舞台なので、「NG集」というのも変なのだが、劇中での組み体操などの失敗シーンを、まるで撮影していたかのように、再現して見せてくれる。ジャッキーチェンの映画を思い浮かべれば間違いない。

毎回、冒頭で、人がモノや気持ちを、どう演じるのかを、丁寧に説明するのだが、それは見ていくうちにわかるので、なくてもいいのでは。
「これは何々だ」と台詞で言ったりもしているのだから。

それと、ひと言だけ付け加えるとすれば、少々「長い」か。
回想シーンが多すぎるかもしれない。
うちの犬はサイコロを振るのをやめた

うちの犬はサイコロを振るのをやめた

ポップンマッシュルームチキン野郎

駅前劇場(東京都)

2014/07/04 (金) ~ 2014/07/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

ポップンマッシュルームチキン野郎の作品を構成する成分の配分に変化あり!?
ポップンマッシュルームチキン野郎は、脱法ドラッグに近いのではないか。
「コメディ」と称して上演しているのだが、実態は「感動的な内容」だったりする。
覚○剤のような感動(興奮)作用があるのにもかかわらず、「コメディですから問題ありません」と言い逃れをしてきた。あくまでもコメディであり、吸引は勧めていないということなのだ。
しかし、今回は騙されない。
感動的成分がやや多めなのだ。
脱法ドラッグに対する規制と同様に、感動と成分構造が似た内容をまとめて規制対象とする、包括指定をしてほしいと思うのは私だけではないだろう。

ネタバレBOX

相手の目を見て話すことのできないような、少し恥ずかしい「純愛」「絆」とか、そういう感動的なものを、相手の目を見て話すことのできないような「お下劣」だったり「お下品」だったり、アブナかったりする笑いの中に隠す、というのがポップンマッシュルームチキン野郎なのではないかと思う。

その2要素の配分が、感動2〜3で、お下劣7〜8というイメージだったのだが、前回の短編集作品『ちょっと待って誰コイツ!こんなヤツ知らない』から、感動を前面に出してきたような気がする。
「出しても大丈夫」と思ったのではないか。

今回は、感動要素がかなりの割合を占めていたと思う。
一家が殺害される衝撃的な冒頭のシーンを含め、その要素が大きい。

さらに、ゴルバチョフが未来予知(予測)から目覚めてからは、ほぼ笑い要素なしで、突っ走る。

当然、観客を惹き付けているので、脇に逸らさず一気にラストに持ち込み、この物語を完結させたいのと、観客にきちんと伝えたいからそうしたのだろう。
だから、ニワトリやトカゲ、さらにマッサージチェアが踊っていても、感動的であったりするのだ。

意識したのかどうかはわからないが、ここまでのいくつかの作品で、観客を、ある意味「鍛えて」きたのではないだろうか。
つまり、茹でカエル理論ではないけれど、熱湯にカエルを入れたら飛び出してしまうが、水から徐々に熱していくと、カエルは飛び出すとこなく茹で上がってしまうというアノ理論同様に、いきなり感動的な作品を見せてしまうと観客は、「そんなお涙頂戴は見たくないんだよ」と劇場を飛び出してしまうが、お下劣&お下品の下のほうに感動を入れて、徐々にその感動を増やしていくと、いつのまにか観客は、ポップンマッシュルームチキン野郎の感動的な作品に茹で上がってしまうということなのだ。

だから、観客は気をつけなくてはならない。
ポップンマッシュルームチキン野郎はそのうち、下品さが微塵もない、感動的劇団になってしまう。○ャラメルボックスのように、高校演劇部がこぞって上演してしまうような劇団になってしまうのだ。そうなってしまったら、どうする? え?

冗談はさておき、気になるのは、「笑い」の部分である。
下品で下劣で、アブナイ的な笑いは健在なのだが、どうも弱い。
もちろん、相当いいところもあるのだが、例えば、マッサージチェアが食べていることを自問自答するのだが、酒でまた自問自答する。これって、ここの劇団だと2回目はもう一捻りあったように思えるのだ。結婚したマッサージチェアが子どもらしいイスを持って出てきても、誰も何も触れないぐらいの感じが丁度いいのだ。

たぶん、そう書くと、作・演の吹原幸太さんは「いつもと同じだよ」と言うかもしれない。
しかし、観客がこの劇団に欲するレベルは、今、かなり高いところにある。
だから、「アブナイ的な笑い」も、「アブナイですよー」と、わざわざ宣言しているぐらいの、わかりやすすぎて、予定調和な「アブナさ」になっているような気さえしてしまうのだ。
例えば、キャバレーの名前「リトルボーイ&ファットマン」あたりが。
例えば、冒頭の中国ネタを止める感じも「ぬるい」と思ってしまう。

それぐらいの「軽さ」ならば、もっと量が欲しい。
前半の、タイトルが出る前までは、観客がイヤな気持ちになるぐらいの、そうしたネタを放り込んできてほしかったな、と思うのだ。

と、書いてきたが、それはあくまでも、この劇団に対するハードルの高さからのことであり、今回の作品自体は面白いと思う。

笑いがあり、切なさがあるいいストーリーだし、観客を引き込み、ストーリー展開を楽しませてくれる。
駅前劇場のサイズにあって、セットも素晴らしい。
特に、ラストに向かう前、ゴルバチョフが舞台中央に立ち、両側の扉がくるくる回るところがとてもいいと思った。

そして、今回も役者がいい。

前作『ちょっと待って誰コイツ!こんなヤツ知らない』で、「増田赤カブトさんいい!」と思った者として、彼女をメインに持ってきたことは大正解だったと思う。
ヒロインとして輝いていた。

また、主演のゴルバチョフを演じた加藤慎吾さんもいい。
彼がかっちり演じているから、物語がぶれないのだ。
下手に笑いを取らせることせずに、きちんとストーリーを支える。
この手法は、ポップンマッシュルームチキン野郎の今までの作品と同様の手法であり、ここが上手いと思うのだ。
コメディの面白さがどこにあるのかがわかっているのだ。

さらに、いつもそうなのだが、サイショモンドダスト★さんの、ここぞ、というところでのスイッチの入り方が素晴らしいのだ。
ニワトリ役の小岩崎小恵さんも、きちんと演じて物語を支えている。
また、美津乃あわさんを歌わせたところがナイスである。彼女は歌が上手い。スターであるという位置づけを全うできているし、彼女がレビューの中心にいなければ、締まりのないものになってしまったと思うほど。
そのほかの俳優さんたちもいい。上手いというわけではないが、「いい」のだ。

ストーリーに、血生臭さがあるから、切なさが際立つ。
それをうまく使って観客を感動させる。
その手法にまんまとはまったと思う。

ラストは、ゴルバチョフ同様に未来を予知できる男から「お前はわかっていると思うから……」という台詞を受けて、「可能性の高い未来の予知」としての、未来の幸せなシズ子を見るゴルバチョフの夢のような予知の中で、(たぶん)自分が出てくるであろうシーンで静かに終わる。
とてもベタだけど、ここまでの展開の巧みさで、いいシーンだな、いいラストだな、と思わせてしまう。

ラストの加藤慎吾さんの表情、増田赤カブトさんが犬の鳴き声に顔を上げたときの表情、とても素敵だった。

最後に、観客の1人として、次回作はもっとハードルを上げて観に行くと思うので、よろしくね、と書いておく。
ダンディ•ホット•ステージ

ダンディ•ホット•ステージ

LIVES(ライヴズ)

テアトルBONBON(東京都)

2014/07/02 (水) ~ 2014/07/06 (日)公演終了

満足度★★★★

ダンディー西とザ・ダンディージャックスが解散!?
LIVESの良さは、「おかしくも哀しい」ところにある。哀愁のあるコメディ。
いろいろなことに揉まれながらも、精一杯生きているおじさんたちを、温かい視線で描く。

ネタバレBOX

「ダンディー西とザ・ダンディージャックス」は、星屑の会の『星屑の町シリーズ』に登場する「山田修とハローナイツ」と双璧をなす、舞台内、ムード歌謡グループ。

卑怯な(笑)ほどのフライヤーの写真どおりな、人情喜劇が繰り広げられる。

今回は、25年売れないムード歌謡グループのダンディー西とザ・ダンディージャックスが、仕事が減って限界なので、引退することを決意する。
それを知ったテレビ局の若いディレクターが自分のドキュメンタリー番組の素材としていいのではと思い、密着取材をする。
ザ・ダンディージャックスと共演した若い地下アイドルグループとの対比を交えつつ、ストーリーは展開していくのだが、テレビが取り上げてくれたことで、仕事が来るのではないかと思うザ・ダンディージャックスは、引退を撤回しようと思うのだが、そうなると引退を取材するテレビ局は取材をやめることになるので本音は言えない。
というストーリー。

何度か再演している『ROPPONGI NIGHTS』で歌い続けてきた歌に新曲も加えて、劇中歌は多い。
どれも、いかにもムード歌謡っぽく、それだけでもにんまりしてしまう。

ベタな笑いも多いのだが、それをきちんと丁寧に見せ、確実に笑いを取っていく姿はさすがだ。
ほろっとさせるシーンもあるのだが、それもかなりベタなのだが、そう言うことも気にならない。
若いディレクターが長台詞で説明するのは少々野暮ったいとは思うのだが、それもいいと思えてしまうのがLIVESだ。

まあ、強いて言えば、地下アイドルグループのエピソードとシーンは、メンバーが5、6人もいるので、もっと絞ったほうがいいとは思ったのだが……。

地下アイドルグループは解散してしまうのだが、再度挑戦し直し、引退宣言したダンディージャックスも引退せずに続けることになる。
劇中、途中でテレビ局のプロデューサーが言ってしまうのだが、「どっちもアリ」だと思うというのがテーマであり、観客へのメッセージだろう。

「続けていけよ」ということなのだ。

……ダンディー西とザ・ダンディージャックスのCDRはもちろん買っている。
星の結び目

星の結び目

青☆組

吉祥寺シアター(東京都)

2014/07/04 (金) ~ 2014/07/09 (水)公演終了

満足度★★★★★

天に輝く美しい星を見つけたような作品
ある「家」の、戦前・戦中、戦後期のドラマが丁寧に語られていく。
戯曲も役者も演出も、衣装もセットもすべてが素晴らしい。
お手本にできるぐらいのクオリティ。
演劇好きの人には、どのようなタイプの人にでも、自信を持ってオススメできる作品。

ネタバレBOX

吉田小夏さんが時間堂のために書き下ろした作品を、自ら青☆組の作品として上演した。
時間堂の『星の結び目』も、もちろん良かったのだが、やはりご本人の「意図」や「思い入れ」としての作品を是非観たいと思った。

最初のシーンに奥様(吉永園の長女)役の渋谷はるかさんが登場する。
この方の佇まい、台詞の発声で、「この作品はいい!」と即座に思った。

梅子役の福寿奈央さんとの台詞自体がもちろんいいのだが、お嬢様だったこと、今は昔のような生活ではないこと、そして、何より自分が世間知らずではないか、と思っていることなどを、このわずかなシーンで見せてくれる。
渋谷はるかさんで、この舞台一気に締まったと思うのだ。

この方が物語の中心近くにいることで、そのほかの役者もじっくりと落ち着いて演技をしていたように思える。
梅子だけでなく、その叔母も演じていた福寿奈央さんも、年齢をすっと飛び越えて2人を演じ分けていた。さらに彼女は、この作品のナビゲーター的な役割も担っているのだが、そこもまた少し別の顔を見せてくれるのだ。
吉永園の次男・信雄とその父・初代甚五郎を演じる荒井志郎さんも、この作品では、いつもに増してさらに腰が据わっていて、両者の違いと「似たところ」をうまく表現していたと思う。
この落ち着きが、吉永園を大きくした才覚があり、ひとクセある男を表現できていたと思うのだ。
次女・八重子を演じた大西玲子さんも、ゆっくりと幼児になっていくのが上手い。
女中の吹雪を演じた小瀧万梨子さんも、この作品の全体の、このトーンの中でああいった役は難しいと思うのだが、それをうまく演じていた。
それぞれの役が、それぞれの大切なシーンできれいに浮かび上がる様は素晴らしい。

1つひとつの台詞のトーンも会話の噛み合い方も、最高であった。
そして、そのシーンのつなぎ方も上手く、美しく流れていく。
嫌な議員が出てくるシーンでさえも、そう感じた。

それぞれのシーンは、それぞれがまるで1本の短編集のように、深みがある。
「言葉に出さない」「出せない」気持ちがどのシーンにも詰まっていて、台詞と細やかな演技、そしてそれを支える演出によって、それが感じ取れるのだ。

梅子が次男・信雄に対して抱くほのかな恋心や、長男の甚五郎が妻に対しする気持ちうまく表現できないところ、さらに経理の山﨑と長女・静子の微妙な距離感、女中の吹雪を見る次女・八重子の暖かい視線、さらに父親・桂吉(藤川修二さん)がわずか1つの台詞だけなのに、その娘・吹雪に対する想いなど、本当に、1つの台詞、表情だけで、見事に表現していた。
山﨑と静子が、花見のあとのシーンで向かい合って踊るシーンなどは、2人の言葉にできない気持ちが溢れていた。

舞台とセットはやや高低差があり、演じるための2つの場があり、それらを廊下と階段でつなぐ。
和テイストの照明が床や天井から下がる。
このセットも品があり、美しい。

役者の出入りのための場所が左右2個所ずつ、前後(客席通路を含む)2個所の、合計6個所あるが、この数はこの規模の劇場としては珍しくはない。
しかし、その使い方が非常に巧みなのだ。

気配を見せるため、例えば次女が母を想うときに、傘を差して現れる女性は、薄暗闇の中から「気配」を少しずつ見せてくるために、上手手前の長い通路から現れたり、女中たちが、お茶を持って現れたりするのも、その動線の必要性から上手、下手と分けてみせる。玄関から奥に入ってくる感じや、川に面する場所などの使い方など。
2つの場の使い方もうまい。
部屋などの空間だけでなく、時間も表す。
空間と時間が重なりつつ、次のシーンを見せていくという巧みさもある。

この舞台のサイズだからできること、と言ってしまえばそれまでなのだが、どんなサイズの劇場であったとしても、この舞台の使い方、演出のセンスは、まるでお手本のようであり、演劇をする人は観て得るモノが多いのではないかと思う。
(それぐらいスムーズな場面展開や人の出し入れができていない公演が多いということなのだが)

ラストは、余計な説明台詞がなく、上田と梅子が一緒になって去っていくシーンに、登場人物たちの歌う「星の流れに」で、暗転になる。
この歌に歌われる女性であった梅子が、上田と出会えたことで、そういう境遇から抜け出すというシーンであり、自分のことではなくなったから、「歌える」ということなのだろう。だから、冒頭のシーンでも昔を思い出すように、この歌を口ずさむのだ。

この作品のラストシーンは、なんとなく覚えていたので、歌が途中から女性だけのコーラスになり、暗転していく中で、「これはこのままで終わっていいのに」と思ったのだが、その後のラストシーンの短い台詞と役者の姿に泣かされた。

その後の登場人物たちはどうなったのか、という後日談を挟まないところも、「物足りなさ」を感じさせるのではなく、多くを語らず、「それでいいのだ」と思わせる上品さがある。

この作品は、親を知らなかったり、片親だったり、早くに親をなくした登場人物ばかりが登場する。
そうした自分のアイデンティティの源泉ともいえる関係の喪失がある者たちが、兄弟や夫婦、さらに1つ屋根の下で暮らす他人とも「家族」のような関係を築いている(いく)様が描かれており、ラストの台詞はまさにそれをすべて言い切ったものであったのだ。

だから心に響く。

青☆組は本当にいい舞台を見せてくれる。
吉田小夏さんは戯曲が素晴らしいと思っていたのだが、その演出も素晴らしいことに気が付いた作品であった。

そうすると、オリジナルだけでなく、家族を描いた、他の作家の戯曲の演出も見てみたいと思う。イプセンとか。

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