安部公房の冒険 公演情報 アロッタファジャイナ「安部公房の冒険」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    芸術家の感性というのは、私のような凡人には理解できない
    小説から演劇、女性から女性へと「冒険」を続ける安部公房。
    しかし、「冒険」と見るのは凡人である我々であり、「冒険」と感じないから、彼らは創作を続けることができるのだろう。

    ネタバレBOX

    芸術家の感性というのは、私のような凡人には理解できない。

    彼らの行為は、我々からは「自分たちと同じ」、いわゆる「普通の男」「俗物」だな、という視線でしかとらえることができない。
    しかし、彼の劇中での台詞が真の本心だとすれば、彼にとっては「創作」ことがすべてであり、ほかのことはまったく見えない。
    女性たちも、彼の内面のひとつである。俗物な普通の男も彼の創作の、ある見え方のひとつにすぎないということなのだ。

    安部公房は、新しモノ好きだったと思う。
    古きプログレファンには有名な、富田勲と同じシンセサイザーを趣味として購入していたというところからもわかる。
    しかし、創作においては、単に「新しモノ好き」ということからでは論じることはできない。
    それなりに評価をされていた小説の世界から一歩踏み出して、演劇の世界へと足を踏み込む。
    「小説家のお遊び」と評価される可能性も高いだけに、失敗すれば、確固たる地位を築いている小説に対してもダメージを加えかねない。

    それでも演劇に踏み込んでいく。
    それも、最先端を目指そうとする。
    「文字」でできることとその「限界」、「映像」でできることとその「限界」、そして「演劇」でできることに創作の先端を見出したのだ。
    「表現したいこと」は、どんな方法であっても構わない。
    他人から見れば、小説から演劇へ移ったように見えるが、安部公房にとってはその差はない。
    だから、そう思ったら止めることはできない。

    昔、何かの対談だったか、何かで読んだことがあるのだが、「小説というものは、意味まで到達しない、ある実態(状態)を表すものであり、読者はそれを体験するのだ」と安部公房が言っていたと思う(違っていたらスミマセン)。
    それを読んで(聞いて?)「なるほど」と思ったわけで、それ以降、小説に限らず、演劇などもそういう視点で見てきた。
    私に、創作物の見方のヒントを与えてくれたのは、安部公房だと思っている。

    だから、安部公房にとっては、表現方法は小説でも演劇でもいいわけなのだ。
    今感じている「実態(状態)」を伝えることさえできれば、いいのだから。
    しかも、表現方法を変えることを彼は「リスク」とは考えていないのだ。
    「冒険している」とはまったく思っていない。
    社会との関係(評価など)を気にしながらも、彼にとって創造の前には何も立ちふさがるものがないのだ。
    だから表現者であり得るのだ。
    これは「冒険している」と感じてしまう、私たちには理解できないことだ。

    小説の世界でのパートナーは妻であり、新しい「演劇」の世界でのパートナーは女子大生だったあかねである。
    彼女たちは安部公房にとって、パートナーというよりは、創作そのもの、創作の源泉、彼自身の内面のひつとでもあったのだ。

    劇中で安部公房があかねを口説くようなシーンがある。
    これは、演出家とか芸術家的な口説きのテクニックかと、笑いながら見ていたが、どうやらそうではない。
    安部公房にとっては、切実な気持ちであり、「演劇」に踏み出し、創作を続けるためには彼女が必要だったことがわかってくる。

    「愛人」とかそういう卑近なレベルでの問題ではないだろう。
    もちろん他人や社会から見れば、有名小説家の下半身スキャンダルにしか見えない。
    そういう危険を冒しても彼女を自分の手元に置いておきたかったのだ。

    安部公房の冒険とは、新しい「創作」にすべてを捧げることで、リスクを取りながらも(本人はリスクとは思っていない)先に進みたいという欲求の現れであろう。
    小説から演劇、妻から愛人、そういうベクトルの先には「創作(意欲)」があったに違いない。
    しかし、「冒険」ととらえるのは、芸術家の心の中まではわかることができない、一般の、われわれの見方でしかないのだ。

    劇中では、安部公房の演劇に対する想いが語られる。
    それは、「今、それを舞台の上で演じている」ということが、ヒリヒリとしてくる。
    確かに「安部公房がそう言った」のであって、この作品が主張していることではない。
    しかし、やっているのは「演劇」である。
    つまり、安部公房役の佐野史郎さんは血を流しながら、その台詞を言っている。
    戯曲を書いた松枝佳紀さんも、ギリギリと歯を噛みしめながら文字を書いていったのだろう。
    本当はどうなのかは知らないが、彼らにはそうあってほしいと思うのだ。

    「頭の悪い観客たち」なんて言い放った安部公房の印象は、自分に対する絶対的な自信があること。
    彼の小説を読んでいた中高生の頃、何かで彼のそういう発言を目にして、その自信の強さに辟易した覚えがある。
    当時文庫になっていた小説と戯曲はあらかた読んでしまったこともあり、安部公房は遠ざけてしまった。

    読者は、観客は、安部公房の作品のみに接するべきであったのかもしれない。
    それは、私のような凡人には彼の内面を推し量ることができないからだ。

    この舞台では、それを再認識したと言っていいだろう。
    安部公房の外面(そとづら)ではなく、2人の女性に見せる、本当の姿、弱さが見える。
    自信があるように振る舞いながらも、社会の評価は気になってしまう。
    彼女たちがいないと創作活動が続けられない。外聞をも気にせず突っ走ってしまう。

    オープニングは、ウソとマコト、について語る。
    語りながら、安部公房の本当の年表を披露する。
    その虚実をないまぜにしたところは面白いし、エピローグの台詞も(きどった)演劇っぽくてなかなかいいと思った。
    思ったのだが、それらは蛇足ではなかったたか、と思う。

    この作品は、安部公房、その妻、あかねの3人が劇中の登場人物である。
    思い切って、この3人だけの「3人芝居」にすべきではなかったか。
    そうすることで、より3人の関係が濃密になり、観客のベクトルも向けやすい。
    また、その分、もっと彼らのエピソードや内面の吐露を増やしていけば、さらにもの凄い作品になったのではないかと確信する。
    熱い作品なだけに、そこがとてももったいないと思う。

    例えば、今のままでは、妻の印象が悪い。
    あかねに対する嫉妬部分が見えすぎてしまうからだ。
    エピソードを重ねることで、さらに安部公房と妻の関係が深まっていくことになり、この作品自体が、単なる「愛人スキャンダル」に留まって見えてしまうこともなかったのではないかと思うからだ。

    また、先にも書いたが、この作品では安部公房の内側の姿が見える(安部公房と、その女たちを含めた「内側」だ)。
    だから、それを露わにするためにも、もっと外側との関係の安部公房も見せることができたのではないかと思う。

    狂言回しのようなキャラクターを入れることで、見やすくなったのは、「逃げ」ではないか、とまで思ってしまった。
    劇中で安部公房が語る演劇についての熱い想いを聞くにつれ、それに真っ向からぶつかっていく姿勢としても、そうあってほしいと思ったのだ。

    全体的に長台詞である。
    それが実に効果的であった。
    さらに彼らにそれを強いてほしかった。

    私にとっては、映画監督という印象が強い荒戸源次郎さんの演出は、オーソドックスなものであった。
    それが長台詞に耐え得るものであったと言っていい。
    緊張感もいい感じであり、間もいいし、長台詞を聞かされるときにありがちな、ダレることもない。
    台詞自体がいいということもあるだろう。

    役者は4人ともよかった。
    いい感じの熱さがあり、それが冷めることなくラストまで続く。

    佐野史郎さんは、安部公房の創作に対する姿勢、つまり、やや狂信的とも言える姿勢とともに、弱さもうまく表現していたと思う。
    妻役の辻しのぶさんもいい。きりっとしていて、安部公房をどうリードしていったのかをうかがわせる。少し強すぎるきらいはあるが。
    内田明さんは、歯切れのいい違和感がうまい。
    そして、あかね役の縄田智子さんが素晴らしい。
    どういう経歴の方かは知らないが、あかねという役と今の自分自身の重ね方がうまくいったのではないだろうか。
    演じているというよりは、「演じている自分」がいる。「役者を演じている」のではなく「役者になっている」とでも言うか、そういう印象だ。
    経験を積めばさらに輝くのではないかと思う。

    残念なのは、長台詞ということもあってか、各人1人につき、1回が2回ぐらい台詞を噛んでいたことだ。特にこの作品にとっては、それは大きなマイナスだ。

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    2014/08/26 14:25

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