非常の階段 公演情報 アマヤドリ「非常の階段」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    社会・集団・組織・家族・非家族・イデオロギー・経済システム
    演劇として、非常に完成度の高い作品だと思った。
    観ながら直感的に思ったことを、あえてクローズ・アップして、誤読のように感想を書いてみた。


    ……感想は、マルクスの経済発展段階説から始まったりする。


    (一気に書いたらとんでもない長文になってしまった。過去最長ではないか。文章や論点に破綻がありそうだが、できればあまり突っ込まないでほしい・笑)

    ネタバレBOX

    マルクスの経済発展段階説によると、資本主義のあとには共産主義がやってくるという。
    特に60〜70年代には、それを信じていた知識人(学生も)たちが世界中にいた。
    彼らはそれを目指そうとした。
    そして、今、それを信じている人は、ほんの一握りではないだろうか。

    なんてことをこの作品を観て思った。

    その理由は、「企業」「家族」という2つの集団の対比があり、その中の詐欺師集団が、カンパニーを名乗っていることと、彼らのブラック経済が、ひょっとしたら日本経済へのプラスになるのではないか、と思ってインタビューをしている政府機関らしき人々があったこと、さらに平等というキーワードなどからだ。

    そうした「社会体制」「経済システム」という見方でこの作品を観ていく(ほんの少しイデオロギーも)。
    たぶん、かなり視点がずれた「誤読」であるとは思うのだけど。

    大庭家という「家族」がある。
    そして、「詐欺グループS」という「非家族」の集団(組織)がある。
    いずれも「人」の集まり。

    「家庭」と「企業」と簡単に言い換えてもいい。
    2つの「集団」、2つの「組織」。

    そして、その中間に、1人の登場人物「ナイト」がいる。
    Sに属していながら、大庭家の一員でもある。
    Sでは新人、大庭家とは血のつながった家族ではない。

    経済活動を行う「組織(企業)」、つまりフォーマル・グループが成立するには「目的」が必要だ。
    詐欺グループの目的は明確。人(主に老人)を騙し、金を得る。
    対して、人が血縁などでつながる「組織(家庭)」、つまりインフォーマル・グループには「目的」は必要ない。

    そして、「組織」の成員たちのモチベーションを維持するものも異なる。
    企業組織でモチベーションを高め、維持するための、組織への忠誠心の源泉は「お金」ではない。自己実現なのである。もちろんその前には、マズローの欲求5段階説ではないが、「集団に属したい」と思う「社会的欲求」や、「他者から認められたい」という「尊厳欲求」がある。
    ナイトにとっては、Sという詐欺グループに属すことで満たされ、さらに組織のリーダー格2人に、プレイヤーとして認められることで自己実現への道しるべさえ見えてくる。したがって、ナイトの忠誠心、Sという「企業組織」への帰属意識は高まっていくのだ。

    家族組織への帰属意識を維持するものも「お金」ではない。言ってしまえば「愛」であり、「慣れ(習慣)」ではないか。
    一緒に暮らすことでの「確認」から相互間で得られるものだ。
    ナイトは、自分が大庭家の本当の子どもではない、ということの負い目がある。
    しかし、同時に「家族」としての「甘え」もある。

    この2つの「組織(集団)」で揺れ動くナイトが、現代社会の動揺の象徴ではなのではないか。
    ざっくり言ってしまえば。
    この際、「善」「悪」なんていうことはここでは関係ない。

    まあ、テーマが「悪」なのだから、「悪」についても少し考えてみる。
    マルクスは、プロレタリアは資本家に搾取されている、と言った。
    これは「悪」なのか? マルクスは「悪」と考えた。
    搾取することが「悪」ならば、「資本主義」は「悪」である。
    だからこそ、「資本主義社会」の次には「共産主義社会」が来ると論じた。

    この作品では、経済活動をしている「カンパニー」は、「詐欺」グループだ。
    つまり、通常のルールから言えば、「悪」なのである。
    ということは、(私の考えるところの)資本主義を詐欺グループに象徴させているのは、マルクスと同様に「悪」であるとしているのだろう。
    これは偶然ではないだろう。「自由(経済)」による「格差」「不平等」の結果生まれた詐欺集団なのだから。
    それを政府(らしき機関)が取り込もうとも考えている、というのも象徴的だ。
    老人がため込んだお金を市中に回すことで、「不均衡」を是正しようと考えているという点では、大義名分としての詐欺グループと考えが一致している。

    市場では、個人が自己の利益を追求し、自由に任せておけば「見えざる手」により、適切な資源配分が達成されるとアダム・スミスは言った。しかし、実際は、富は高きところから低きへは流れず、「経済的格差」が生まれてくる。その「格差」は結果、経済の「格差」だけに留まらない。
    かと言って、すべてが平等である共産主義には進めない。理由は後で述べる。
    したがって、Sにいる彼らは、彼らの(勝手な)理論によって、富を再配分している。

    劇中では、政府機関もそれに目をつけてアプローチしている。
    市場経済だけでなく、ブラック経済にも介入し、コントロールしようとしているのか、と考えるとなかなか面白い視点だと思う。
    新自由主義だの、ケインズだのといった、ところについても考えると面白いのかもしれないが、この作品からは大きく外れるのでこれはここでやめておく。

    さて、先に「共産主義には進めない」と書いたが、その理由はこうである。
    すなわち、全人民にとって、自由と平等がある、共産主義社会というものが成立するには、(諸説があるが)すべての成員が「善人」でなくてはならないと言う。
    そりゃ無理だ、思う。
    「悪」は悪いものだが、「善人」もツラいというところか。
    なので、この作品のテーマである「悪と自由」というものは、それにドンピシャなのではないかと思ったのだ。

    そもそもマルクスが「階級闘争不可避」と言っていたが、資本家とプロレタリアとの「階級闘争」はなくなってしまった。
    生産性の向上により、その階層(階級)が消滅してしまったのだから。

    ドラッカーの著書に『ポスト資本主義』という興味深いタイトルの書籍がある。
    その中で、資本家は知識労働者に、プロレタリアはサービス労働者になった、とあった。
    なので階級闘争はなくなってしまったと。

    しかし、「格差」はある。
    「資本主義」だから、「ある」。
    自由経済だから「ある」。

    劇中でも盛んに「平等」という言葉が使われていた。
    その意味するところは、「格差」なのだが、使われ方としては、自己の正当化である。
    つまり、「なぜ、人を騙す仕事をしているか」の回答でもある。
    自分を守るための理由としては、大きなくくりのほうが聞こえがいい。「平等」とかね。
    実は「カンパニー」にいる彼らは、やはり「自由な」資本主義の中にいるわけで、プロレタリアではない。

    では、経済システムはどこへ向かうのか?
    先の著書でドラッカーは、「知識」がキーワードであるとしていた。
    しかし、「格差」の中で、それを得、活用できるのかという疑問がある。
    先にも書いたとおり、「経済格差」は「経済」に留まらないのだ。連鎖していく。

    そこで経済的組織が向かうのが、大庭家で示された「家族(的)な組織」ではないか。
    かつて「日本的経営」として言われていた終身雇用、年功賃金などは、社員を「家族」のように扱い、できるだけ長く会社にコミットメントしてほしいと願っていた。
    しかし、経済の低迷、バブル崩壊以降、それが続けられなくなってしまった。
    ところが、ここへ来て、やはり「人」だ。企業を支えるのは「人」だということで「人本経営」なる言葉も出てきた。

    劇中では、大庭家は、ナイトを迎えてくれた。
    ナイトは知らなかったのだが、家族として籍まで入れてくれていたのだ。
    とても喜ばしいことなのだが、ナイトにとってはそこは、「もう戻れない場所」であった。

    生きるために周囲に合わせて、自分の感情を出さずにいたことが、思い出をなくしてしまっていたということに気づくのだ。
    「思い出は感情と結び付く」という、当たり前のことに気が付いてしまった。
    当たり前のことだから、本人への衝撃も大きい。

    「人は何のために生きているのか」と大上段に振りかざすことをしなくても、「足りないモノ」に気が付いて、それが絶望的に補うことができないということに気が付いてしまえば、「生きる意欲」「ソウル」もなくなってしまう。

    『非常の階段』では、イデオロギーとしても社会・経済システムとしても、限界が来ている現代をSと大庭家、そして、その間にいるナイトによって表しているのではないか、と思ったのだ。
    途中に差し込まれる「素」を演じる役者の姿は、まさに「それ」を示していると受け取った。

    自由主義・資本主義の先にマルクス主義・共産主義はありそうもなく、「知識だ」と言われながらも途方に暮れて、でも、最後はやっぱり「人」なのだ、と言えるのではないか。

    その意味において、ナイトの姉・千鶴が、ナイトが最初にいた詐欺グループのリーダー・大谷に「ナイトに会え!」と強く迫るシーンは、とても意味深い。
    いわば、作品の中の光明だ。
    大谷は、ナイトを(方便としてだが)「必要だ」と言った人であり、千鶴は「家族」の代表だ。
    2つの「組織(グループ)」が「ナイト」でつながり、ナイトが生きるための第一歩であるからだ。
    やっぱり「人」でないと、「人」は助けられない、「人」は生きることができない。
    資本主義の先には「人」がいる。

    最後の群舞(私が勝手に「ひょっとこフォーメーション」と名付けた群舞)は、やはり「人」の流れに見えた。久しぶりの群舞、とてもよかった。

    詐欺グループのリーダー・大谷を演じた倉田大輔さんが、中盤からリーダー的素養を全開し、グイグイとやってくるところ、頭も良さげなところが上手いと思った。
    大庭家の父を演じた宮崎雄真さんも、詐欺グループとは違う、大庭家の空気を生み出しているようで良かった。
    ナイトを演じた渡邉圭介さんもいいし、姉・千鶴を演じた笠井里美さんもあいかわらず上手い。

    「家庭」である「大庭家」は、家長としての男親がいて、子どもたちはナイトを除くと女性ばかりである。対する「S」は、リーダーが男性で、女性も1人いるものの、男性社会である。
    この対比、あえて、だと思うのだが、実は、作の広田さんの無意識から出たものではないか、なんて思ったりしている。

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    2014/09/21 06:51

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  • コメントありがとうございます。

    誤読ではないか、というのは多少なりさも自己防衛的なものあったりしまして(笑)、ただ、書き出したら止まらなくなってしまい、楽しくなりすぎました。でも、ズレすぎましたけど。
    「全然誤読じゃないです」と言われてひと安心してます。
    ありがとうございます。

    ひょっとこ時代から、ヒロタさんとその劇団の作品は、あとでいろいろ考えるのがとても楽しいんでいよね。その場で終わらない感じが。そこが好きです。
    この作品は、資本主義の行き詰まりと、個人、家族、企業、そして政府という視点が、実に丁寧に盛り込んであるなと、書きながら、確信しました。

    「甘粕」のネーミングにきな臭さを感じたので、そこについても書きたかったのですが、それは止めました。満州経営との関連性(まさに「悪と自由」を感じさせますから)とか、面白そうなのですが(笑)。

    2014/09/22 07:23

    これはとてもありがたい感想をありがとうございます! 全然誤読じゃないです。少なくとも甘粕という登場人物に代表させた政府側の人間の意図を、もっとも正確に汲みとってくださった意見だと思います。あれは安易な犯罪者肯定ではないかと批難されることも多く、僕としては、うーむ、そうは書いていないはずなのだが……、と思っていたところなので大変ありがたいです。深く感謝いたします。

    2014/09/21 07:15

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