KOMA' 公演情報 彩の国さいたま芸術劇場「KOMA'」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    観る者の、心を打つダンスとは、どのようなものなのか
    年齢から、気持ちから、解放されたダンサーたち。
    美しい。

    ネタバレBOX

    平均年齢が70歳以上の、さいたまゴールドシアターのダンス公演。
    まさか、老人たちのお遊戯を見せられるんじゃないだろうな、なんて失礼なことを思いつつも会場へ。

    「新作」としかわかっていなかったタイトルが会場で明らかになった。
    『KOMA'』
    たぶんドイツ語なのだろう。
    「昏睡?」

    なんて素晴らしい作品!
    魅力的すぎる。

    演出がいい! 本当にいい!
    踊り手たちに、まったく無理がないのだ。

    例えば、大駱駝艦の舞踏のように、単に立ったり座ったりしているだけなのに、見ているこちらの手に汗をかかせたり、鳥肌を立たせたりという、鍛え上げられ、突き詰められ、考えられた先にある踊りと、訓練を積んでいない素人の踊りは違うと思う。誰が考えてもそうだろう。
    その専門家と素人の差は、ダンサー(踊り手)のセンスと資質も大きいが、さらにプラスされる「鍛錬の時間と量」にあるのではないかと思っていた。

    ゴールド・シアターの方たちはどれぐらいダンスのレッスンをしたのかはわからないが、専門専業のダンサーとは比べものにならないぐらいの少ない時間と量であろう。
    しかし、ゴールド・シアターの作品に「凄い」「素晴らしい」「美しい」と感じたのだ。

    もちろん、「素晴らしい」の意味は、鍛え上げられたダンサーたちの表現に感じる「素晴らしい」の意味とは違う象限にあるのかもしれない。
    しかし、「素晴らしい」と感じる心はひとつだ。

    これはどういうことなのだろうか。
    それは、つまり、表現者にとって、突き詰めて考えた先にあり、結果、「考え」のなくなった極限とも言えるダンス(表現)という意味において、鍛錬を重ねた人たちと近いところに行けたのではないかと思ったのだ。

    そこに行くにはガイドが必要だ。それもとびっきり優秀なガイドでなくてはならない。
    したがって、瀬山亜津咲さんがいかに素晴らしいガイドだったのかを、舞台の上に見たのだ。

    言ってしまえば、「音楽に救われた」という部分もあるし、本水を使ったりの演出表現にも助けられていたところもあると思う。
    とは言え、それだけでは観客を感動させること、「素晴らしい」と思わせることはできない。

    では、演出以外に何が一体良かったのか、と言えば、「年齢」だろう。

    さいたまゴールド・シアターは「年齢」をきちんと武器にしてきた。
    最初の頃の演劇作品ではそれぞれが積み重ねてきた歴史を吐露させたり、台詞を覚えられないことをも1つのショーとして見せていた。
    それに対しては「まあ、そんなもんだろう」とタカを括って見ていたりもしたのだ。

    しかし、公演を重ねることでその見方が変わってきた。
    「年齢」は武器になる。それを使わない手はない。
    使うことで「意味」も出てくる。

    さいたまゴールド・シアターのメンバーたちの「顔」や「身体つき」は、情報量が多い。
    受け手にいろいろなことを感じさせる。
    それが「年齢」だ。
    立っているだけで「画」になる、なんて言い方もできる。

    しかし、実は「立っているだけで画になる」というのは難しいのことなのだ。
    「自然に」「自分のありままの姿で」「立つ」というのは難しい。

    今回のこの作品では、それをさいたまゴールド・シアターのメンバーが手に入れたのではないだろうか。
    歩く姿だけでワクワクさせるような、「ありのままの姿」を手に入れたということだ。

    ダンスも芝居も「思い切り」が必要だと思う。
    「年齢」というものは、(受け手に想像をかき立てることで)ビジュアル的にプラスになることもあろうが、「思い切り」という面では気持ちにブレーキを掛けてしまいがちになるのではないだろうか。
    だから、「立っているだけで画になる」というものを獲得するために、「思い切りの良さ」も手に入れたのだと思う。
    「年齢から解放された」と言ってもいいかもしれない。

    瀬山亜津咲さんが、何回ものワークショップなどを積み重ねることで、彼らにその道筋を見つけさせたのではないか。身体を使い、ほぐして、リラックスし、気分や気持ちも解放されたのだろう。
    それが結実して、今回の作品になったのだろうと思う。

    先にも書いたが踊り手たちに「無理がない」のだ。
    「無理を感じさせない」と言ってもいい。
    解放されているから、ためらいも、てらいも、ない。
    手は上がるし下がるし、足は前に出るし、身体は沈んでいくし。

    ただし、年齢を重ねた人たちが、よいガイド(演出家)に指導されれば、素晴らしいダンス公演が必ずできるわけではない。
    この作品でも、「私が観た回だけ」が素晴らしかったのかもしれない。
    この先、またダンス公演を行うのであれば、いちから始めなくてはならないだろう。
    そういう儚い「一瞬」の面白さもあるのではないか。
    だから、それを知らず知らずのうちに感じ取っているから、観客は感動するのかもしれない。

    専門のダンサーたちとはそこが違う。
    つまり、専門のダンサーたち表現者は、訓練と鍛錬を重ね、経験を積むことで、「いつでも」「どこでも」素晴らしいパフォーマンスができる身体と心を手に入れている。
    しかも、最高のダンサーたちは、毎回毎回の公演を「新鮮」に届けてくれる。
    まるで、「今、初めて踊っている」ようにだ。
    それはプロフェッショナルが作り出せるスリリングさである。

    そこが両者の違いであり、意味だ。

    オープニングはくるくる回りながら舞台の上を円を描くように動いていく1人の女性で始まる。
    「自転と公転」のようで、「地球」とか「時間」とかを表しているのではないかと思った。
    その人が、円を描いて動いた先で壁にドンと当たって止まる。
    「地球」とか「時間」とかを想像していたのでどきりとした。

    マイクの前で怒りのようなポーズをしながら、自らに付けた名前を、その理由とともにしゃべる人々。
    「タンポポ」などの花の名前だったり、「自由」などのワードだったりする。
    声を出すことで、身体も気持ちもほぐれていく。

    水が天井からぽたりぽたりと落ちるシーンが印象的だった。
    全員が床に座ったり横になったりして、その水を身体に受ける。
    男性は上半身裸になり、女性は襟元を開け胸元で水を受けたり、口を開けて水を受けたりとさまざまである。

    マスク前のパフォーマンスにあった植物の名前が頭の中に残っていたので、彼らが「植物」に見えた。
    水を求める植物。
    しかし、枯れているのか(失礼・笑)、伸びていかない。
    そのうち、彼らは身体を丸める。
    それは「種子」だと思った。

    植物は「枯れて」その後に「種子」を残す。
    「後に残すモノ」というのは、年齢とともに切実になるのではないだろうか。
    「種子」(生物的な意味だけでなく)が残せれば幸いだと思う。
    そういう「願い」のようなものを感じた。

    その種子の回りを、冒頭と同じように自転・公転をしながら女性が通り過ぎる。
    限りある時間。
    連綿と続く命と意識。

    大笑いして、目をつぶって歩いて、生きていることを確かめて、ラストは整理体操のように、呼吸をし、身体をほぐして「現実」に戻ってくる。
    暗転しながらもそれが続く。
    「続く」ということもいいのだ。

    公演後に当日パンフを見て驚いた。
    今回の出演者の年齢にだ。
    一番若くて63歳、一番年長な方は88歳。
    姿は確かに老人だったが、ダンスはそうではなかった。
    もちろん若者のような激しいダンス、テクニカルなダンスというわけではないのだが、一挙一動にすべてを出し切っているような、気持ちのいいダンスであり、パフォーマンスであったと思う。

    終演後、何もアナウンスがなかったが、ワークショップらしき映像が流れた。
    約10分間。これも面白い。

    0

    2014/08/29 05:34

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大