勧進帳
木ノ下歌舞伎
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/03/01 (木) ~ 2018/03/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
あいかわらず、つかみがよく、山伏にやつして義経一行が安宅関に至る経緯が面白く説明されて、勧進帳の富樫と弁慶一行の虚虚実実の駆け引きが現代青年版で展開する。ほぼ古典の素材を使いきっている。木下歌舞伎の面白さもよく出ていて、列挙になるが、構成では、四天王と、番卒を二役やることにしたこと。これでこの劇の構造が明らかになった。義経打擲以降は少しテンポがおちるのが残念。さいごの宴会などはもうすこし短くてもいいのではないか。この公演は1時間二十分古典はここ百年、どの公演でも1時間5-7分でやっているが、それは長唄の尺によるものではなくやはりドラマの長さと考えた方がいいのではないか。木下の力があれば、十分この尺に収めることもできたと思う。いつも音楽の使い方は抜群にうまいがこの公演でもラップ調の曲を中盤でうま
く使っていた。特筆は俳優で、弁慶をやった外人俳優のリー5世は関東にいないタイプの外国人で場をさらっていた。また、富樫は柄としては苦しいのに、よく演じている、ただずまいがいいところもこの俳優のいいところだ。KAATの大稽古場。350席が満席の初日だった。次はコクーンの切られ与三だ。これは絶対に成功してほしい。串田と木下。世代を超えて現代劇の現在考えられる最高のコンビだ。期待している。
真実
文学座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2018/02/24 (土) ~ 2018/03/05 (月)公演終了
満足度★★★★
情報が本当か、嘘か、ものごとを知ることによって人生は大きく左右される。だが、芝居のネタとしては、シェイクスピア、歌舞伎の昔から、いやいやギリシャの昔から「知らなかった!」ことが軸になっている作品は多い。おなじみのネタなのだ。
世界各地で上演されているフランスの若い人気作家セザールの「真実」は、嘘が転がって真実に行きつく喜劇だ。日本初演。
真実の素材は、フランス演劇お好みの男女の不倫。お互いが長年知り合っている二組の夫婦の不倫は、もちろん他に知られたくない事実だから、露見しそうになれば嘘を吐く。嘘の内容もさることながら、嘘を吐く相手や、その時の擦れ違いが次々に新たな事態を招く。その過程では真実も現れ、嘘も真実も、隠さなければならないという条件と相まって、収拾がつかなくなる。そのすれ違いを若い作家は超絶技巧でコメディに仕上げている。さすが不倫の本場だけあって、事態への対処の仕方もオトナでもあり、笑っているうちに「真実だけの夫婦なんて世界中探してもない」と納得する。
フランスで大人気、ウエストエンドでも大当たりと言うから、日本ではさしずめ三谷幸喜と言ったところだろう。ともに、笑劇を笑いだけに終わらせず、ちょっと人生の苦味を含ませるところも似ている。(タイトルの大げさなところも)。
文学座の85周年記念公演で二組のキャストが組まれている。
ボルドー組は渡辺徹が巻き込まれの主人公。文学座らしい品のいい舞台つくりだが、このホン、最近の風潮でもっと広いキャスティングをしたらクリエくらいまでならいけるのではないか。二人の女優にはない物ねだりだが、オンナの肉感が欲しいのである。
ブロードウェイと銃弾
東宝/ワタナベエンターテインメント
日生劇場(東京都)
2018/02/07 (水) ~ 2018/02/28 (水)公演終了
満足度★★★★
今月の新作のミュージカル二本が1920年代もの。その一本の「マタハリ」はフォーラムでやりながら、ここでは上演すら無視されている。見てみるとなるほど無視されるのも当然の舞台だったが、もう一本の「ブロードウエイと銃弾」はよく出来ていて楽しい。
華やかな表舞台と、銃弾が支配するギャングの裏社会が、表裏一体だった一九二〇代のブロードウエイ。地方出身の純朴な演劇青年(浦井健次)が脚本家を目指してこの町にやってくる。映画からスピンアウトの「ブロードウエイと銃弾」は、ここで初めて脚本採用となった青年この街の風習に振り回される喜劇だ。
まずは興業の金主のギャングからはお気に入りのトンデモ女優(平野綾・快演)を作中に入れることを要求され、ベテランの主演女優(前田美波里)からも次々に注文が出される。進退窮まった脚本家に、なんと、若い女優についてきたギャングのボディガード(城田優) が作劇上のアイディアを出してくれる。純情青年の劇作家と殺人も平気なギャングが二人三脚で舞台をヒットに導こうと頭をひねる。この意外な設定が旨い。ミュージカルなのだが、音楽はオリジナル作曲ではなく二十年代の曲の編曲である。これも効果を上げて一幕の終盤、タップに歌を織り交ぜてローカル試演の成功で盛り上がる。ブロードウエイのオリジナル振り付けを使っているそうで、きれいでシャレた装置の舞台に躍動感がある。
俳優陣も脇役までそれぞれの個性が際立ってバランスがいい。
だが、こんなあやふやな座組みの芝居がうまくいくわけはない。二幕はその崩壊が描かれるが、そのなかでは,芝居つくりの機微にも触れるところがあって面白い。
映画が原作だが、再演が待たれる異色のになった。
夜、ナク、鳥
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2018/02/17 (土) ~ 2018/02/24 (土)公演終了
満足度★★★★
この事務所が取り組んでいる故・大竹野正典の遺作の東京上演プロジェクトの一本。2003年の作品だからさほど古くはない。今回は演出者・役者も気張って吉祥寺シアターの公演。大入り。
看護婦四人が共謀して、邪魔な男たちを殺していく実話がもとになっている由だが、今は医療や後妻業などが話題になるご時世になって、事件そのものに妙なリアリティがある。
当時は看護婦は純粋培養されていた時代で、世間知らずの娘たちが医術のモラルと、世間のモラルの隙間に落ち込んでいく話である。首領格の松永玲子をはじめ、安藤玉恵に至る四人の看護師がそれぞれ、どうしようもない男で苦労して、保険をかけて殺してしまおうと言う事になる経緯はいささか安易だが,男たちに一方ではそれぞれ愛すべきキャラも与えていたり、女たちの反応も一筋ではない。いわゆる社会劇・問題劇になりそうな素材をうまく男女の話、ことに女同士の友情の話に落とし込んでいるところがうまい。演出の瀬戸山美咲はもともとが本屋だからそこをよく拾って、ノーセットに近い舞台で、倫理・論理が先走りしがちな素材を世話物にしてさばいていく。殺し場など一つだけは丁寧にやるが、うまいものだ。俳優もよく一人ひとりを立てて見せ場を作っているので、話の筋が見えても飽きない。
関西が素材でもあり舞台も大阪にしているが、劇的にはあまり関西風でないところがよかったようにも思う。この話にに大阪的な価値観を混ぜるとほんと、ぐちゃぐちゃになってしまいそうな話でもある。1時間50分。
嗤うカナブン
劇団東京乾電池
ザ・スズナリ(東京都)
2018/02/07 (水) ~ 2018/02/14 (水)公演終了
満足度★★★★
赤テントの唐組から俳優が、下北沢の人気劇団・東京乾電池から演出と俳優が、新宿暴れ者の第三エロチカから作者と、80年代に、元気のよかった、というより一目置かれて畏怖の念を持たれていた、その三劇団が手を組んで、スズナリで公演を打つ、昔では考えられないが、いまは時代の変遷を実感する座組みの公演である。どんなことになっているのか見てみようとなるスズナリなのである。
この三劇団は、30年を超える風雪を生き抜いて、追従を許さない独特の個性のある舞台を作ってきた実績もあり、今も公演が打てる(第三エロチカはTファクトリーと名を変えたが)が、こういう企画をやろうとするところに、唐が書けなくなった唐組と、結局岩松以後座付を持てなかった乾電池の現在の状況がある。脚本を頼まれた川村毅もどうまとめるかかなり苦慮したに違いない。もともと、わが道を行くという以外にさほど共通点のない両劇団が、看板俳優を出すと言う公演である。しかも、客から勝手に言わせてもらえば、ともに出来不出来の激しい劇団である。ここは役者のガラの面白さと、話は手慣れたメタシアターで喜劇・・・となったのではないだろうか、と客は勝手に想像する。
舞台は、なんと、パリの北沢、である。登場人物もちろんフランス人で名前もそれぞれ横文字だ。売れない男性コーラスの4人が銀行強盗を成功させる。歌っている間にカナブンが飛んできたのに触発された強盗だが、成功してみると仲間割れである。誰がどういう理由で裏切ったか、誰がカナブンか? と言うナンセンス・コメディだが、川村脚本はハードボイルドミステリのお決まりの科白をちりばめて、話を運んでいく。川村はもともと技巧もうまい作家だがこういう大衆劇のような芸もあったかと感心する。だが、唐組も、乾電池も、笑いの中身は解っていても、この洒落っ気を舞台で生かすには、普段の習練が足りなかった。演出の柄本明も舞台美術などは旨いものだが役者をまとめきれていない。
脚本は、ショーのような軽演劇としてはよく出来ていて、俳優が、例えば、バンドのところやダンスのところで愛嬌の一つも出せればお客は喜ぶのにそこが出来ていない。
いくつも注文は出てくる公演ではあるが、この二劇団がやる企画としては十分面白いし、こういう東京喜劇の路線はあまり成功していないのだから挑戦し甲斐がある。大阪に席捲されてきた喜劇と笑いの世界をひろげることにもなる。
三人姉妹はホントにモスクワに行きたがっているのか?
鈍牛倶楽部
駅前劇場(東京都)
2018/01/26 (金) ~ 2018/02/04 (日)公演終了
満足度★★★★
台詞よりも仕掛けの効果に頼る舞台が流行りだが、岩松了の舞台は台詞で見せる。ことにチェホフは岩松が学生の頃から取り組んだ作家で、自家薬篭中のもの。「三人姉妹」を河原で上演しようとしている小劇団のバックステージ模様と、芝居の「三人姉妹」を重ねて滑り出す最初の溶暗まではなかなかシャレてもいるし、随所に本歌取りがあって快調である。ワークショップのメンバーを集めたと言うキャストは、全くと言っていいほど実績が浮かばない俳優ばかり(出演表か配られたが、配役表が欲しい。誰が何をやっているかわからない)だが、よく稽古が行き届いていてそれぞれの役も過不足ない。メンバーの一人がマスコミに売れることで劇団内に波紋が広がっていく二場からは近くの住人なども出てきた話も広がっていく。この人物たちもさすが、鶴屋南北賞(だったっか?)受賞した岩松、キャラも台詞も面白い。三場には歌もあるがこれもなかなかいい感じだ。
近松心中物語
シス・カンパニー
新国立劇場 中劇場(東京都)
2018/01/10 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了
満足度★★★★★
再演はこうでなくちゃぁ、と言う出来である。
数ある蜷川演出の中でも、とびぬけた大ヒット作品。それまでは洋物ばかりだった蜷川が初めて取り組んだ歌舞伎だね、しかも作者はほぼ忘れられていた戦前の女性劇作家・秋元松代。これを帝劇で平幹・太地喜和子の新劇俳優でやるという東宝演劇部の決断が生んだ傑作を、新感線のいのうえひでのりの演出で再演する。しかも、掛け声ばかりでほとんど成功作のない使い勝手の悪そうな新国立劇場の中ホールで一月半の長期公演。製作は独立の制作会社のシスカンパニー。まぁ、芝居見物衆にとってはその首尾いかに、と物見高さも一段と掻き立てられる挑発的大興業なのである。
既に興行も半ばを越えていて、勝敗の帰路は明らかで、昭和の名作が、平成の名作ともなって甦った。ほめ言葉も、多岐にわたっていて、目にしたものは殆ど同意である。改めて言葉を重ねることもないだろうが、この再演の一番の成果は、蜷川をなぞらなかったことである。蜷川の初演が、森進一の歌に象徴されるように、歌舞伎にある伝統日本のモダナイズとして成功したことを引きずらず、男女の愛の形として、ドラマを徹底させている。
端的に例を言えば、二組の男女の重要なシーンは、すべて、中央の突き出したステージで演じられる。セットが抽象的だと言う事もあるが、そういう説明にとらわれず、ダイアローグが交わされる。蜷川にあった情緒的な「シーン」でなく、男と女の情念の激突が表現される。秋元松代の科白にある力強さの新しい発見である。理知的でありながら強い情念がある。劇場中に雪をふりまかずとも観客を引っ張っていける。この劇場の舞台の奇妙な形が初めて生かされたとも見えた。
俳優は主役が、いずれも、小商売、色街でも二流、と言う役柄をよく心得ていてスター芝居にならなかった。庶民劇と言う状況の把握で、蜷川演出の持っていた情緒性を填補した。脇もいい。小池栄子、市川猿弥(★5つ)、立石涼子、色街の女たち。
音楽もあえて、立てなかったところもよかった。森進一に対抗するように音楽が作られていたらきっと白けただろう。
再演はこのように新しく作品を時代の環境に合わせて、再生させることにある。平成の観客に向けた見事な再演である。蛇足を二つ加えれば、一つ、公費でやっている新国立劇場は、戯曲の再発見と言いながら、古脚本を並べるだけだ。この再演には遠く及ばず、ケラの岸田戯曲ほどのこともできていないではないか。だらしない。二つ、この興業が一番いい席で9千円。私はものすごく得をしたと思った。見物衆にこういう幸福感を味わあせえくれるのが興行主の役割である。以上二点を含め今回はシスカンパニーの完勝だった。、
父の黒歴史
ラッパ屋
紀伊國屋ホール(東京都)
2018/01/20 (土) ~ 2018/01/28 (日)公演終了
満足度★★★★
大雪、と言ったら東北の人には笑われるだろうが、東京では珍しく夕方から雪になって、たちまち交通機関は機能不全。普段なら一時間もかからない劇場まで一時間半。帰りは不通のおそれとの広報が行き過ぎて、終演後のノロノロ電車はガラガラだった。
そんな中でもラッパ屋の客は律儀である。いつも通り、ほぼ9割の客足だが売れた席には遅れても客が来る。結局最後まであいていた席は記者席・関係者席だけだった。
客席を見るとその劇団の健全度が解る。この劇団はサラリーマン演劇とうたっているだけあって、最近はさすがに若者の率は減っているが、それでも、老若男女まんべんなく市民の芝居好きがやってくる。政治のおこぼれにあずかろうとする劇団や、タレント頼みで儲け優先の劇団は少しは学ぶと良い。
旗揚げの頃から老成して見えた座付の主宰・鈴木聡もそろそろ実年齢還暦を越えたのではないだろうか。喜劇の作家と言うのは、そろって気難しいものだが、鈴木は(実際はそうでもないのかもしれないが)いつも春風駘蕩の雰囲気で劇場の入り口にいる。客も律儀だが、劇団の方も律儀で、結構メディアやほかの公演でも売れて、脇役に欠かせない役者も多くなったが、劇団員の顔売れはほとんど変わらない。
「父の黒歴史」は劇団員にゲスト十人近くの大一座。中身は、例によっての鈴木節で、面白く笑っているうちにお開きになる。ここのところ、小劇場も市民生活を舞台にとるようになって、いくつかの劇団が小商売の家を舞台に芝居を作ったが、この芝居の荒唐無稽な百円ライター製造業一家ほどのリアリティがない。及んだのは「60‘エレジー」の蚊帳屋くらいだ。この芝居のほとんどむちゃくちゃの一家が成立しているのは、家の根底のモラルに戦後昭和の時代精神をみて、鈴木が時代批評をしているからだ。喜劇作家の基本がしっかりしている。
過激な若者劇団も、昔の主義主張を繰り返す老残劇団もいいが、どちらも現実性がない。東京市民はこの劇団を市民劇団として誇っていいとさえ思う。
リタイアメン
燐光群
森下スタジオ(東京都)
2018/01/18 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了
満足度★★★★
燐光群らしい社会問題劇ではあるが、今回はうまく的を撃てたとは言えない出来であった。
生涯年齢が上がって、生産現場を離れた人たちがどう生きるかは大きな社会問題であるが、日本のリタイアメンが、そろって南アジアへ行って現地を踏み台にして日本でやれなかった悪行を果たしているわけでもないだろう。劇中あげつらわれて居る悪行はいずれも週刊誌などでおなじみのもので、面白おかしくわかりやすいがそれでは週刊誌の域を出ない。もっと話題を絞り込んで時間も並列するのではなく長いスパンにしないと、老後人生の一部は切り取れない。アフタートークで坂手が話していた日本人向けに教育したマニラの老人ホームに誰も来なかった、などと言う話は、それだけを追っても、この舞台よりは内容があったと思う。
生産年齢以後の生き方は、それまでにほとんどの人は劇中人物よりももっと大きく深い人生体験をしているわけだから、複雑で多彩である。今回のまとめ方は作者が坂手ではなく若手だったこともあって力不足だったが、テーマとしてはこれからも取り組んでもらいたいところである。
ぼくの友達
シーエイティプロデュース
DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)
2018/01/10 (水) ~ 2018/02/04 (日)公演終了
満足度★★★★
青山円形劇場が閉めて、ほぼ同じ大きさの劇場がその近くのビルの地下にできた。しかし、円形が劇場機能をよく考えて出来ていたのに比べると、こちらは、そもそも初めからここで演劇をやるつもりだったか疑いたくなるような劇場である。歩く以外方法のない入口の狭い急階段三階分を降りると、なかの天井の低さ、照明の釣りの悪さ、舞台の高さのハンパさである。まぁ、それはいい。小劇場は場所を問わず、頑張ってきたのだから。
アメリカの小芝居である。こういう作品群のなかに時代の人情・風俗をわきまえた小粋な作品に出会えることがあるので、「ロングラン」という釣り書きにつられてみにいった。
ジャニーズの人気者の初の演劇と言うので、客は女性ばかり。男は三〇〇近い客席で数えて六人。内三人は、女友だちに引っ張られてやってきた居心地の悪そうな男たちである。
しまった!と思ったが、もう遅い。こういう公演にも時に昨年のグローブの「蜘蛛女のキス」のような作品もあるから頑張って見る。
昼メロでは主役を張れる男優(辰巳雄大)が本格的ギャング映画で新展開を測ろうと、役研究のために本物のギャング(田中健)に会いに行く。何やら大物らしいギャングは情婦(香寿たつき)と住んでいて、この女が昼メロの男優のファンだった、などと言う出だしはなかなかうまい。以下は、いかにもいかにもの話がどんどん転がっていって、さすがアメリカの商業演劇の脚本はよくできている。ことに正体が知れないギャングを演じる田中健が予想以上の大健闘で面白い。こういう役はどこかで正体をわるものだが、つぎつぎに割っていっても先がある。ボケなのか、ホントは怖いのか、最後までわからない。その戯曲を演出も役者も心得て膨らませているところがいい。女優でただ一人の香寿たつきは折角おいしい役なのに、キュートにもなれず、コメディにもできず、惜しい機会を逸した。辰巳雄大は初演だから、まずは無難な出来であるが、演劇への適性はわからない。
しかし、かなりの大物と言うギャングの家のセットがあまりにも安普請風で、色使いが悪すぎる。音楽も小編成の劇伴で、効果音と変わらない。
ロングラン企画の第四弾と言うが、とてもロングランの気概があるとは見えず、まずはファンクラブの年次総会の余興と言った出来であった。
アスファルト・キス
ワンツーワークス
あうるすぽっと(東京都)
2018/01/18 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了
満足度★★★★
ブラジルの脚本だから、南米戯曲の多くがそうであるように思い込みが多い。そこを日本の時代に合わせ整理上演したという。
舞台面は、スピード感もあって、コンテンポラリーダンスのような象徴的な場面を挿入しながら,進む。或る雨の日、都市の交差点で交通事故で通行人が事故死する。その死の直前に、たまたま居合わせたこの劇の主人公が求めに応じて、その直前のキスをする。それをたまたま見ていた新聞記者が、男同士のキスを興味本位で記事にする。そこから・・・
という展開なのだが、なにぶんにもほぼ70年前の戯曲である。最近ロンドンで作者の没後記念で上演したと言う事だから(演出者も同じ)そこからとっての、この日本上演だろう。
発表当時と最も違うのはLGBTに対する市民感情の変化だろう。
多分、とこれは憶測でしかないが、原作はもっとゲイについて論及していたのではないか。
今回の上演ではそこはすっぽりと抜け落ちて(あるいは抜け落ちざるを得ない事情があって)いて、ドラマはその無責任な新聞記事によて巻き起こされる、現在で言えば、情報社会、ことにSNSの跋扈に対する告発劇のようなところでまとめている。
長年小劇場で苦労してきた古城十忍(共同演出)らしい配慮で、こうでもしなければ持たない、と感じた時代感覚はさすがであるが(パンフレットにそう書いてある)それならもっといい素材があったのではないかとも思う。同じ南米脚本の名作では「死と乙女」や「谷間の女たち」の世界は舞台を巧みに問題の焦点の外に設定して時代と場所を越えられる演劇にしている。この作品は主人公が遭遇する事件を、直、同じ時間で設定して進行していくので、そのたびに時代のずれを感じてしまう。象徴的シーンの挿入もそれを避けようとした工夫なのだろうが、ロンドンはよくても東京はどうだろう。
ロンドンはゲイの先進地で、差別とは言ってはならないが、区別を市民が受け入れてその上で市民生活が成り立っている。差別は深く隠れているのだ。そこがあってのこの演出者の工夫だと思う。
出演者は小劇場出身者で、大劇場の経験もある中堅で、長い台詞を早口でよくこなしているが、やはり吹き替え演劇のような翻訳台詞が抜けていない。むしろ、日本的な解釈でもっとゆっくりした台詞さばきでやった方が観客に届いたのではないかと思う。意外にセット・美術がよかった。
秘密の花園
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/01/13 (土) ~ 2018/02/04 (日)公演終了
満足度★★★★
言うまでもなく、唐十郎の代表作。本多劇場こけら落としの伝説の名舞台である。
柄本明、緑魔子 版を見ている者にとっては、見るのが怖いような公演である。
日暮里は坂の多い街、駅前には漆の木があって・・・・・と柄本の独白で始まる舞台の記憶はまだ体に残っている。あれからもう、35年も過ぎたのか。そういえば世代も完全に一回りはしている。
時代は変わった。ナマの演劇は時代とともに変わる。作品が古典として残っていくには、何がその芯になっていくのか、と言う事を痛切に考えさせられる舞台だった。
かつて本多で柄本明がやったアキヨシをその子の柄本佑がやる。幕開き、その最初の第一声からして違う。(そのことをあげつらっているのではない) 柄本明のモノローグには、大都会東京の片隅によどんでいるような下町から立ち上がってくるそこに生まれた人間の実在があり、アキヨシに引きずられて舞台に現れる人々にも、リアルな存在、イメージ上の人物などなど、見事に振られた多彩なキャラクターが、現実社会に太古の時代から残っている親子兄弟の人間関係や、天候や地形など人為の及ばぬ環境に操られて舞台の上の秘密の花園に咲き乱れる。めちゃくちゃに見えるようなプロットなのだが、観客の心をしっかりとつかんで離さない。
あれは1982年の東京が見た夢だったのだろうか。
柄本佑のモノローグには、明のような痛切な都会への憧憬もなければ、女性への思いもない。舞台全体も、本多が情念の渦巻く混沌の舞台だったにくらべ、形だけは似ているのにどこか客観的で透明な感じである。重ねて言うが、それをあげつらっているわけではない。それがナマモノの演劇の宿命で、今の「秘密の花園」はこうだ、ということでいいのだ。
それにしては…という感想になるのだが、今回の公演では、そこが思いきれていないのが残念だった。観客は唐十郎に導かれて、新しいいまの日暮里を見たいのである。
当時のものとしては珍しく公刊もされている初演の公演ビデオでも不完全ながらほぼ8割の舞台は残っているし、30年を超える以前の公演にしてはこれまためずらしく当時の多くの関係者が存命だ。今回はスタッフ全員その呪縛から逃れられなかったのではないか。若い演出者にとっては大きなプレッシャーだったのだろう。
思い切って新しい演出でやってもこの唐十郎の世界は壊れたりはしないと思う。戯曲のどこをどうと、いうことには数限りなくアイデァも浮かぶいいホンなのだ。それを舞台の上で実現していかなければ、またホンも生き残らないのだから。
ハイサイせば
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/01/06 (土) ~ 2018/01/08 (月)公演終了
満足度★★★★
沖縄と青森の地方でやっている劇団の合同公演。作は青森の畑澤聖悟。およそ関係のなさそうな二つの地方の演劇人が合同でやる芝居だから、さぞ、ネタに困ったであろう。しかもほぼアマチュアであろうから長期の稽古も公演もできない。その悪条件をこなすのも畑沢聖悟はうまい。
あらすじに出ている「お話」は苦肉の策ともいえる素材だが、立派に両地方の要望にもこたえ、ともに満足の結果だろうと思う。両地方とは遠い東京のアゴラでも普段は客の薄い日曜夜の7時半が超満席。75分の小品ながら、佳作と言える面白さだ。地方劇団の演劇活動と言う事は十分意義があり、また、畑澤の実績は十二分に評価するとして、畑澤、これでいいのか?と言うのはいつも気になる。
これは、東京の観客からの感想なのだが、こんなに、芝居のツボを心得た劇作家は現在の都会在住の劇作家の中にも何人もいない。当然、東京からの注文もあって、昴に書いた「親の顔が見たい」は、非常に面白かった。この劇団としては珍しく再演もやったくらいだ。ほかにも、民芸や銅鑼、青年座など、観客組織にのった新劇団にはその注文仕切りのうまさを買われて書いているが、最初の昴のようなスマッシュヒットはない。新劇団の注文仕事は、内容を地方巡演まで考えて書かねばならず(今は予想外の頑迷な規制があり、これにひかかると無駄にエネルギーを消費するので、程よく書くことを求められるらしい)、劇団となれば、出したい役者もいるだろうからその注文もあるだろう。地方作家にとっては、それほど自由には書いていないと思う。一方、地元では実績があるから、これまたその要望に応えて、青函連絡船の話や、いたこの話も書かなければならない。畑澤は無論それに不服を言っているわけではないが、東京の観客としては、畑澤の、腰の据わった地方を舞台にした作品を見たいのである。贅沢を言えば、日本のチェホフのような。
いま日本を芝居にするなら、地方都市、農村はいい素材になる。畑澤ならではの芝居が書けると思っているからだ。年齢的にも今が最後の、とは言わないがいい時期だろう。
今は、独立の小劇場系のプロデュース公演も増えているから、この作家のいい戯曲を、公共劇場や劇団の注文でなく、座組みにも面白さの出せるプロデュース公演で見たい。誰か、トラムか、東芸地下あたりで、応分のキャストをそろえてやらないだろうか。例を挙げれば野木の「三億円事件」だってプロデュース公演は見違える出来だった。
正直に言えば、今夜のこの芝居だって、東京在住の青森、沖縄出身の既成の俳優でやれば、もっと面白くなっただろう。地方の俳優にそれを言うのは酷だが、東京の俳優なら受けて立てるだろう。作者の側にしても、もっとケイコが出来れば、終盤の唐突な謎解きめいた終わりにしないで、戦争に巻き込まれる庶民に心情や言葉と言うものの魔力などを織り交ぜながら、さらに深いテーマを籠められたのに、と残念だ。
断罪
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2017/12/08 (金) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
青年座は頑固に日本の創作劇を上演し続けてきた。青年座が委嘱した劇作家は高い確率でいい作家になって、時代を画する戯曲を書いてきた。今年の古川、今回の中津留、ともに現在最も期待されている作家だ。おまけに青年座は新劇団」としては文学座と共に、「新劇団」がほとんど仲良しグループで傷をなめあっている中で、劇団活動ができる。破産していない。役者も養成できる。ともにアトリエを持ってそこでの公演できる。今回はその青年座劇場、客席200たらずのスペース公演である。劇団活動としては中津留登場は期待充分の作品である。客席は満席。芝居好きは知っている。この上演を実施しただけでも青年座は評価されるべきだろう。だが・・・
今回の「断罪は」いくつもの注文がある。
パンフによると積年の委嘱だったようだがこれは、テーマを舞台化する場の設定を誤ったのではないか。中級の芸能事務所の話だ。その事務所の代表的タレントがテレビで政治的発言をして事務所脱退に追い込まれ、そのタレント頼みの事務所経営が危うくなる。ここは商売一途とする経営者と、表現の自由を守ろうとする現場マネージャーとが対立するが、結局経営が「断罪」される。
確かに、大手の芸能事務所が勝手な我儘で芸能界を壟断しているのは事実だろう。個人の自由を束縛して人権を侵しかねない縛りを男女関係にまでかけているのも事実だろう。体を売って役をとることもあるだろうし、事務所の給与が安いのも事実だろう。しかし、それが表現の自由を犯し、創作の未来を摘んでいるというのはドラマ的な対立としては無理ではないか。
かつて、新劇団は自由に左翼賛美の演劇を上演してきた。組合をバックにした観客団体もあったがそれに支えられた新劇団の実際的なリーダーは、じつは資本家の家庭で育ったイイウチのボンボンだった。古い新劇団Sはやがて、アングラ劇団に粉砕されるが、そういうことは演劇界内のゴタゴタで、大衆はそれによって「知る権利」を失ったことなどない。芸能界の自由論議は遊戯にしかならなかったのである。今、劇中に描かれたような論議をしている芸能事務所のリアリティがない。
ベースにリアリティがないので、登場人物にいろいろ背景を設けているがそれも絵で描いたようないつもの手で味気ない。皮肉なことに、青年座の役者は、トラッシュマスターズに比べれば格段にうまい。いつもは聞き取れない台詞も多いが、今回は全部聞こえる。今日は俳優陣はあまり調子がよくなく、しきりに噛んでいたが、それでも台詞の処理の速さが違う。動きもアンサンブルもいい。役もきちんと解釈する。対立する善玉の大家も悪玉の石母田も十分うまい。大家など可哀そうな位、一語一語を生かそうとする。安藤、津田の女優陣も脇の鑑というほどにうまい。だが、登場人物それぞれにリアリティがないのでその演技も空転する。そんなにムキニなることはないのに、とつい思ってしまう。
トラッシュマスターズの役者でやったら、意外に現実感があったかもしれない。芝居と言うのは難しいものだとつくづく思った。2時間5分、休憩なし。
ミュージカル『メンフィス』
ホリプロ
新国立劇場 中劇場(東京都)
2017/12/02 (土) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
今年、歌と踊りのショー系のミュージカルでは一番の出来ではないか。山本耕史は子役の頃から見ていて賢そうだな、とは思っていたが、こんなミュージカルを歌い演出する才能があったとは!
ドラマの筋は単純な黒人差別の物語で、常識的な展開なのだが、メンフィスと言う場所にこだわりがあって、上滑りしていない。黒人地域の中の下流白人で偏見を持たない、という役どころを山本はうまく演じる。ここも上滑りしていない。相手役が濱田めぐみで、歌唱力はあるし、動きもいい。テンポのいい展開で客席もミュージカルの楽しさに巻き込まれる。このジャンルならではの舞台である。脇も、根岸季衣とか、栗原英雄とか、芝居からの人をうまく使っている。
いつもはだだっ広くてしまりのないこの劇場をうまく埋めた。一幕の中ほどで上下に道具をいたシーンが唯一間が抜けて感じがあったが、狭いDJスタジオをサット広げていく演出など鮮やか。フレームを付けた美術もいい。踊りも型どおりと言うところが少なく、舞台が生きている。ホリプロ久しぶりの演出人材発掘大成功である。
年末の忙しい時期にいいものを見せて貰った。、
斜交~昭和40年のクロスロード~
水戸芸術館ACM劇場
草月ホール(東京都)
2017/12/08 (金) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
すっかり昭和史の事件となっている「吉展ちゃん誘拐事件」を描いたのが「斜交」である。舞台は取調室の一室。三度も長い取調べを受けていながら決定的証拠がないと見て否認を続ける被疑者(筑波竜一)と、警察の威信を背負って任命された切り札の刑事(近藤芳正)の最後の10日間の白熱の取り調べだ。
刑事は、被疑者が犯人である状況証拠を自らの足で確かめたうえで取り調べに臨む。法廷に送るには犯人が自白するしかない。三度の取り調べを乗り切った犯人はあの手この手で逃げる。最後の日、刑事は被疑者のちょっとした証言のほころびから収集した状況証拠を一気に突きつけて落とす。密室の中の追跡劇に、強い心情証拠となるいくつかのシーンが挿入されている。半世紀前には大きな話題だった事件だけに当時はこの最後の取り調べも含めていくつもの記録が書かれ、映画やテレビ、流行歌のテーマにもなった。
今回の企画は刑事の出身地の水戸芸術館の企画で、近現代史でいくつも秀作のある新鋭古川健が書き下ろした。狭い取調室で追うものは、追われるものの心情に触れて自白を引き出そうとする。二人が対峙する形式は演劇では珍しくないが、効果を上げるのは容易ではない。今回の刑事役近藤芳正はかつて三谷幸喜の「笑の大学」で追われるものを演じて成功している。今回は立場が変わってその経験が生きている。茨城出身の犯人役の筑波竜一もまだなじみの薄い新鮮さが生きた。
斜交と言う言葉は広辞苑6版に載っていない新しい造語のようで、クロスロードと振った副題から察するに交差する道ということらしい。単純には、探偵と犯人と相反する道を歩む二人が交差する、と言う意味だろうが、いろいろな読み方もできる。芝居のフィナーレを見れば、真人間と非人間の交差、とか、人間造形を見れば、日本の高度成長期の格差の交差とも読める。単純にサスペンス劇としてもよく出来ているが、50年もたった事件に改めて考えさせられる舞台でもあった。
水戸仕立てだけに東京公演はわずか3日。草月ホールは下北沢ほど狭くないが、知名度が低い。客席は芝居好きがかなり集まっていたが、フォローできたた観客は多くはないだろう。地方公共団体主催と言う事で、いろいろ下らないお役所縛りがあって、再演も難しいだろう、公共団体いじめ、威張り、はここの所目立つが、残念と言うしかない。
『熱狂』『あの記憶の記録』
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2017/12/07 (木) ~ 2017/12/19 (火)公演終了
満足度★★★★★
「熱狂」を見た。
中身は、ヒットラーの政権奪取までの伝記劇だが、いくつもの視点のある芝居である。
三島は「わが友ヒットラー」を書いたが、これは平成版・古川版である。三島はレーム事件にまとめたが、古川版はそこに至るまで。
まず時事性。今年、芝居がその時代を敏感に反映すると言う事を、これほど知らせてくれた作品はない。また、大衆民主主義を、大衆の側からではなく、権力者の側で正面から描いた作品も珍しい。スローガンでも、あるいは恰好だけでもいい、大衆を熱狂させれば「権力」は奪取できる、と信じる人間と、それを利用する人間たちのドラマである。ヒットラーが総統と呼ばれることや独裁制にこだわったことなど、歴史の文脈の中で丁寧に描かれていて、独裁の構造とドラマがよくわかる。
何も知らない若者の支持層を広げることが最も簡単な支持拡大方法としたナチは、あの時代でも、選挙では過半数を取れなかった。しかし、ナチは結局,暴力で政権を奪う。同じことは起きないだろうが、「同じようなこと」は起きる。現にアメリカで起きていることは、カタチは違うがセイシンは同じである。日本でもそれは同じだ。この議論は政治論になるし長くキリがないからやめる。芝居では昨年、ケラリーノ・サンドロヴィッチが、別の視点からヒットラーをナンセンス劇にした。キリがないから止める、と言うのはよくないのだが、もう笑うしかない所へ落ちていきかねない。それだけ鋭い時事性がある。
次に戯曲。冒頭、裁判所で有罪の判決を受けながら聴衆を巻き込んでいく「熱狂」から始まり、時事的な背景を織り込みながら、常に形のない、また舞台に乗せることのできない「大衆の熱狂」を描いていく。欲を言えば、最後の政権奪取のあたりが少し駆け足になってしまって大衆の熱狂から遠くなっているのが残念だ。この作家は上手いという点では今、脂の乗った最盛期だ。もう新人ではない。古川は、今年、新劇二劇団に東ドイツを舞台に、ドイツを鏡にわが身を顧みる作品書いている。二十世紀通史が出来そうな勢いだが、それは作者の「今はいくらでも書ける」年齢と言う事もある。過去の劇作家の例を見てもその時期はそんなに長くはない。観客の方から見れば、ドイツはいいから早く「治天の君」に続く作品を書いてほしい。こちらはわが國のことである。年号も変わると言うではないか。それを書ききる作家はそんなにはいない。期待しているのだ。
舞台。演出の日澤は、脚本への寄り添い方がいい。目立たないが巧みに戯曲を持ち上げている。今回は、ナチスを支えた知名人ばかり出てくるのでやりにくかったであろう。三谷幸喜のナチ物のように近くの普通の人が出てきて下世話に通じるシーンがあればわかりやすく出来たのかもしれないが、そこを一人の語り手以外、全く切っているところが、三島に通じる思い切りの良さだ。演出はそこでも頑張った。
俳優はなんといっても、西尾友樹。冒頭のヒットラーの演説は随分フィルムを見たのだろう、見事。やたらに手を振り回すのが常道だが、彼はその時震えている。それでこの作品のテーマ、熱狂へのおののきとおそれがみえた。俳優たちは小劇場中心なので、残念ながら台詞がわかりづらい。初日と言う事もあるだろうが、西尾ですら噛む。発声法から直さないとこの劇場で辛いと,トラムや本多でも無理と言うことになる。地の柄に頼らないで地道なせりふの修練も俳優には必要だ。マイクがよくなったから何とかなるという問題ではない。
作品は10年程前、名もない小スペースで上演したと言うが、今回リニューアルしたという。進境著しい。古川は、前川、中津留、岡田と並んで、平成の代表的な現代ストレートプレイ作家だ。彼らが、再演を繰り返して(中津留はそうでもないが)舞台をシャープにしていくのは、新作疲れから逃れ、エネルギーを温存するためにも、またエネルギーを再生させるためにも賢明な方法だと思う。頑張ってほしい。
黒蜥蜴
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2017/12/02 (土) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
花組芝居も30年か! ベニサンでやっていたころは、近松心中物語とか、子午線の祀りとか、歌舞伎ネタのものは大舞台と言う風潮だったから、とても新鮮。しかも20歳代の若者が伝統芸能の人たちは入れないでやる(現実にはかなり勉強していたのだが)、と言うのが新鮮でもあり、無鉄砲でもあった。
歌舞伎と言うこの国固有の演劇伝統をどう取り入れるかは、さまざまで、今世紀には木下歌舞伎など面白いものも出てきた。とり付きにくい伝統芸能に若者が尻込みしないで取り組むのに花組も大きな力になったkとは疑いない。筋書でも言っているようにパイオニアの役割は果たしたのだ。あっぱれ!
今回は「歌舞伎浪漫劇」とうたっているが、中身は新派狂言の「黒蜥蜴」。加納幸和の組を見た。
基になる歌舞伎がないので、新しい脚本・演出で、歌舞伎の音曲や振付を取り込んで、物語はほぼ江戸川乱歩に忠実。三島本のように妙に黒蜥蜴美学に酔ってもいない。加納幸和はさすがによく歌舞伎のいいとこどりに慣れているし、今の流行にも目を配って花組らしい健闘なのだが、全体としては、この「黒蜥蜴」はどこが見せ場なのだろうと思ってしまう。
江戸川乱歩の著作権切れでこのところ山ほど、と言うのは大げさだが、多くの江戸川作品が上演された。舞台向きの猟奇原作も多いのだが、これは、と言うのは「お勢登場】位だったのではないか。黒蜥蜴もこの後次々に上演されるが、三島本を超える新しい黒蜥蜴を見たい。それは多分、この原作にもあり、花組も着目した「浪漫」を越えたところにありそう思えるがどうだろうか。
DRUMS
東京芸術祭
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2017/12/02 (土) ~ 2017/12/03 (日)公演終了
国際交流と言うと、よく能狂言を素材にする。日本人ですら一般人はガイドがないと理解できない古典を、いくらプロフェッショナルな演劇人同士とはいえ、安易に持ち出すのはいかがなものか? 同国人の三島由紀夫ですら「近代能楽集」でかなり苦労している。こちらの脚本は古典と三島の混ぜ合わせで、案の定、惨憺たる出来である。同時上演予定の日本人の組は舞台が完成できなかった。これは企画のせいだろう.ワークショップでちょっとやってみるだけ、あるいはテキストを渡して勝手に、と言う国際交流ならまだいいが、公開の公演にするのは無理があった。歌舞伎座のマハバラータもインド人が観ればこんな風だったかと連想する。しかしこちらは日本人が観客である。観客がインド人だったら・・・・。
東京国際演劇祭も国際と言うからにはこういう催しも人の交流が出来て目立つのでいいと考えたのだろうが、演劇の特性を考えて、多くの東京と名のつく国際イベントのようにやってみるだけに終わらないよう企画を練ってほしい。こういうものなら素材を見てもらうだけでもおおいに役に立つと思う。
スカーレット・ピンパーネル
梅田芸術劇場
赤坂ACTシアター(東京都)
2017/11/20 (月) ~ 2017/12/05 (火)公演終了
満足度★★★★
昔懐かしい「紅はこべ」ミュージカル版。タカラズカですでに三演、これも主役は同じで再演なので、手慣れたものである。ブロードウエイではさしたるヒットではなかったようだが、兄弟愛や義理人情が日本好みだった様で本邦では第二次大戦以前からおなじみのフランス革命裏話・冒険劇だ。もともと原作が最初に戯曲で書かれたそうで、人物配置も演劇的だ。
お互いに正体を言えない夫婦に石丸幹二と、宝塚時代からやっている安蘭けい。敵役が石井孝一。この三人が歌い上げるげる曲が多く、歌のうまい人たちだけに歌う方も聞かされる方もミュージカルの気分になる。しかし、レミゼが上演されてしまった今では、「紅はこべ」のイギリス騎士道物語は古めかしい。歌に頼らざるを得なかったのかもしれないが、もうすこし場面ごとに色合いをつけてもよかったのではないか。たとえば二幕。幕開きのイギリス宮廷のシーンはパーティの華やかな雰囲気からコミックな紅はこべの連中の登場、彼が正体を現すか?と言うサスペンスと波乱があるのだが、それぞれの内容が立っていない。