tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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対岸の永遠

対岸の永遠

てがみ座

シアター風姿花伝(東京都)

2016/03/04 (金) ~ 2016/03/30 (水)公演終了

満足度★★★

海外を舞台とした他国人の芝居を日本で観る・・難しい課題に挑んだ成果は。
久々のてがみ座観劇だったが、長田戯曲の感触は多分刻まれており、それを思い出させられた気がした。 文学的、というのが印象を言い当てる一つの言い方だが、その要点は何か・・。 台詞が、ある範囲というか、枠から飛び出ることがなさそうに感じる、そういう台詞の連なり、書き手にとって心地よい響き、所謂「文学的」=詩的、と言ってよいかも知れないが、素な日常言葉が混じる、のでなく、詩のほうに寄った表現が、混じる。生身の人間から発したことを確信させる言葉が、「文学的」の範疇を逸脱してでも飛び出てくる可能性、予感がない、ということなのだと思う。 とても微妙な部分について言っていてそんなのは芝居の本質に関わらない、という意見もありそうだが・・・私にはその部分が、「こちらか、あちらか」の境界を揺れており、どちらに立つのかは重要なのだ、という感じを持っている、今のところ。

ネタバレBOX

 問題は戯曲にもありそうだが、まず見えるのは俳優だ。もう少し切実に、「そこに居る」リアリティを持てないのか・・・確かに、ロシアという土地の、庶民の感覚を身体ごと立ち上げることは難しい課題だろうけれど。 戯曲に対する確信が、持てていない? 演出はどうか・・・
 シアター風姿花伝のゆかりの演出家である事は今回知ったが、上村聡史演出+風姿花伝の秀作を頭に過ぎらせないでは行かない。戯曲をどう解釈し、何を生かそうとしたか・・ 美術や音響など「お膳立て」は期待感を駆り立てるが・・・
 亡命者である「父」を演じた俳優の佇まいはユニークだったが、彼がいったいどういう詩人であったのか・・そこが分からなかった。作者はどう描きたかったのか、も。彼自身が「逃亡」の途上で体験したものや、祖国に住む娘が(現代)出会うチェチェン出身者のこと、など「悩ましいテーマ」を想起させるが、その事と出会ったがゆえに彼らがどう変わったのかが分からないし、詩人の思想そのものとの関係も、結びつけづらかった。
 何より、娘にとって「父」を許せない決定的な理由があったが、それならば嫌悪や恨みを通り越して、無視の段階に至っていておかしくない。その彼女が、何をきっかけに父を受け入れるのか、そこも分からなかった。最後は歩み寄る、ということが物語りを一歩進めたようだが、結果先にありき、と見えなくない。役者自身が、その理由を見出していないと見えた(戯曲に書かれていないからだが、彼女はどう納得しているのだろう)。
 夫が改心する理由も分からない。爆撃音を聞いたことで、一時的に、日本での震災直後のように、何か真っ当な生き方をしなきゃと、テロを間近に見てそんな気になったのか。他に見当たらないのは私の鈍感な感性ゆえか。
 ヨシフ・ブロツキーという詩人(劇作もあり)を題材に書いたのだという。評伝に近い(史実を踏まえた)物語か、フィクションか。後者だという気がしたが、それにしては、実在した人物の威光というか、事実性(重さ)に依拠した作りに見える。
 一番困ったのは恐らく、この芝居をどう自分の場所に引き付け、重ねればよいのか、だろうと思う。 頭の悪い自分には、当たりも付けられない。
おたふく

おたふく

NPO法人 演劇倶楽部『座』

シアターサンモール(東京都)

2016/03/17 (木) ~ 2016/03/21 (月)公演終了

満足度★★★★

山本周五郎。
前回の『座』公演=『友情』を面白く観たのでリピートした。今回は前回のスタジオから本館のシアターサンモールと広くなったが大きさに見合う舞台になっている。
前回のような全生演奏ではないが、要所に生の笛が入っていた。「友情」の話が持つ鋭利さに比して、人情噺はまた違った趣である。ある種のユートピア的な関係性が、ドラマを成立させる程度にピンポイントで押さえられていなければならない。その点、少しイメージを違えた登場人物も居なくはなかったが、壌晴彦の読み下す地文に喚起される「想像の世界」と相補完しあって、周五郎の人情噺が具現した。
フェリー二の「道」の主人公(ジェルソミーナ)ばりに健気で甲斐甲斐しく鷹揚で謙虚な、理想的な「おしず」という「女」像は、後に展開するドラマの伏線だが、やはりこれは男の心ばかりでなく観客の琴線にも届く。この女には相応しからざる「秘密」が、ある深刻な事態を引き起こしてゆくが・・・
 以上は後半のお話で、前半はおしずの苦労した前半生になっている。主に兄弟(家を出た二人の兄と、二人の娘=おしずとおたか)の物語だ。
 芝居は休憩を挟んで前編・後編に分かれ、同じ「おしず」が主人公ではあるが、それぞれ単独の話として観ても成り立つ。あるいは別個の短編をつなげたものかも知れない(推測)。

 周五郎の世界は、善人ばかりが登場する都合の良いお話、と見えなくないが、人間の醜さ弱さ、業を見ずには生きられない時代の人々へ、「ありえなくない形」=人間の可能性を「お話」の形で示そうとしたのではないか・・。 ある種の厳しさが、この人情噺の背後に流れているように感じる。
 芝居は分かりやすく、演出に親切な工夫が、前回と同様施されていた。「日本の文化遺産」に焦点を当てて行く『座』の仕事。

ネタバレBOX

後半の夫婦の人情噺は、二人の夫婦への不思議な収まり方が、悪くない。そのため、終盤に分かるその背景なるものは、なくたって良い。が、それも悪くない。
ただ、そのオチが明らかになる前段に夫の疑念、嫉妬、荒廃が挟まるので、物語らしくはなるが、さほど深刻にならずとも良く、おしずの「愛」を最終的に否定して離反することは考えにくいので、まぁ「ちょっとした誤解だったね(笑)」で済む話である、というのが衆生の同意するところではないか。 であるので、妹のおたかがたまたま知った夫の「疑念」に、怒るのも良いが、切々と姉を思う言葉をこぼす程度でよく、相手を責める部分に比重をおかなくて良いと思った。 人の信頼がいとも容易く壊れること、に対する「怒り」と普遍化してみるも可だが、それとて、やんわりと責めてこそ、効果も。
・・といった所などは、ドラマを成立させるべきピンポイントの微妙さの例か。
イスラ! イスラ! イスラ!

イスラ! イスラ! イスラ!

岡崎藝術座

STスポット(神奈川県)

2016/02/03 (水) ~ 2016/02/08 (月)公演終了

満足度★★★★

言葉が流れて落ちてくる
併演の前作が第一希望だったが余力なく、時間の合間に予定をねじ込む格好で新作を観た。O藝術座は数年前一作のみ目にして、アカンと思ったので暫く目にとめなかったが、言葉がうるさいので(例えばチラシ、またウェブにても)気の散りやすい性分としては「だったら一度語ってみな」と、別に自分に言われた訳でないが、観に(聴きに)行った。当て込んだ通り、言葉が多い。散文を書き散らしたような独り語りの長台詞を5人の登場人物に与え、キーワードのような単語(固有名詞)から、その実在する具体的なものについて語っているらしい雰囲気がある。が、虚構かも知れない。実在する被造物と、それへの解釈を、先人の考察や遺産を合切引用する事なく、事物に真正面に対して生まれる言葉をノートに書きつけている(それを役者が読んでいる)感じである。そういう感触を持ちながらそれを観(聴き)、その感触だけ持ち帰ったので、語られた内容については殆ど覚えていない。言葉が第一多すぎるし。でもって、言葉そのものが持つ可能性を追ったはよいが、言葉のみに依拠したかのようなこの表現は、演劇としてどうなのか・・という思いもよぎる。だが何にせよ言葉が多く、こう多くては意味伝達という効用を超えた何かに近づくのも必然だ。それは絵画のような全体像的なイメージを持ち始め、何かはっきりした形に結実しはしなかったが、そういう事が可能な「予感」を覚えた。食って糞を出すだけの生物、例えば蚕が繭に変態する位の変化を、通常「語義」以上でない言葉なるものが遂げる瞬間が文学にはある。それを自由への楔であると言ったとて、この作品を観た後ではさほど罪にならない気がする。(これじゃベタ褒めか・・・)

バカから醒めたバカ

バカから醒めたバカ

INUTOKUSHI

武蔵野芸能劇場 小劇場(東京都)

2016/03/05 (土) ~ 2016/03/11 (金)公演終了

満足度★★★★

ループを抜け出でよ
「犬と串」初鑑賞。会場も初の武蔵野芸能劇場、なぜ「芸能」か(「芸術」劇場は数多あるが)にも興味が・・。堅固な公共建造物だが、入口から清潔感あって風通しよい雰囲気。「芸術」でないからか?「黒」っぽくない。客席の傾斜もゆるく、席をがめつく配置してない(割とゆったり)。いわゆる「小劇場」が持つ、異界へ潜りこんで行く雰囲気が皆無。舞台の中身ほうは、学生演劇的な熱量、粗っぽさ、突抜け感といったものが、真正の小劇場に合う印象ではあった。
 芝居・・ 体調の関係で不覚にも前半かなり寝てしまった。散見された「後半の繰り返しがしつこい」とのコメントが本当なら、惜しい部分を逃したことになる。後半を重点に見た私には、長いという印象は全くなく、ただ劇のディテイルが気になった。 すると、前半は破綻すれすれをスリリングに飛行し、後半になって冗長になった・・というのが全編を観た場合の平均的感想になるだろうか・・。後半の「SF的世界」(本編?)のお膳立てとなる前半では、「過去」と「現在」のエピソード説明場面は、中々テンポよく(夢うつつのなか)台詞もわいわいと響いていたから、ストーリー語りとして雄弁だったのだろうと推察する。一方後半はストーリーの進行としては停滞し、ネタ見せが主となっていたかも知れない。
 話は(確か)1998年、小学6年のませた「天才」子役ワラビが、仲間(子役ら3人)とともに自分らで映画に撮ろうという事になるが、早すぎる青春の頂点を迎えた12歳はその18年後、三十を迎えんとするのに自堕落に引きこもり、他の3人を呼びつけては過去の「栄光」(撮った映画の一場面)を何度もしゃぶっては消費する毎日だ。四人の一人、紅一点のサクラ(二階堂瞳子)が今なお主人公との近しい(恋人ではないが)関係にある所、サクラを得んとする発明家?が挑戦状をつきつける。彼が発明したのは人の内面を覗く事のできるカプセル。これはワラビ自身にかぶってもらい、サクラに彼の中身を見てもらえばきっと彼に幻滅し、見限るに違いない。それのみを理由としてだったか朧ろだが、発明家と仲間らが彼の「内面世界」を旅するのが劇の後半の「SF」場面となる。
 休憩を挟んで舞台装置はガラリと変わり、ワラビの「内面」=バーチャル世界を案内人と共に歩いている。舞台中央を中心に時計回りにグルグル歩くという古典的な演出。正確には忘れたが、彼が悔しんでいる事が何かが判る部屋、何が好きかが判る部屋、などとあって、そこにサクラの存在が見え隠れする、かと思いきや一切なく、代りに彼が敬愛するらしいプロレスラー(橋本真也?)が登場する肩透かしのネタの後、後半の大部分を占める部屋に辿り着く。そこでは主人公ワラビが小6の時に撮った映画で一番気に入ったシーンが、放っておけば何度も、延々と繰り返す(小6時代の四人は別キャスト)。このループが続く限りメンバーたちは現実世界に戻れないのだという。案内人はそう告げて(退屈なので)「休んで来る」と去ってしまう。こんな設定聞いてないと、発明家に怒りが向けられるだろう所そうはならず、メンバーはループに変化を起こそうと介入を試みる。だが虚しく天使の羽のボンデージ○○ちゃん(にしおかすみこ改め)が登場し「余計な事をしたのは誰だ!」とお仕置きとなり、円環は崩れない。このくり返されるシーンは「繰り返し」によって笑いを誘うもので単独では意味不明である。
 さてループを維持しているのはワラビ本人だから、本人に変わってもらわなきゃ、となれば、何と本人もそこに登場と相なる。色々あって本人が心を入れ換え、また始まったループのシーンに変化が生じる。というか、周囲の者が介入しまくってなし崩し的に変えられ、それでも天使が登場しなかった、という事でもって本人が変化した事を表したか、混沌としていて覚えていないがそんな所である。
 ストーリー的には、発明家が「ループを解消しないと抜けられない」設定を予め加えた事で、既にワラビが「前向きになる」変化に向かって総力動員される展開は明らかな訳で、「良くなった」ワラビとサクラを切り離す事などできない訳で、発明家は自らキューピットを買って出たに等しい訳で・・・ 物語の可能性としては、ワラビが皆から「見放される」可能性だってある。その危機感と背中合わせで、自堕落な彼の帰趨を見守る、というのであれば「物語に見入る」姿勢は持てただろうが、その可能性は「ループ」の設定で封じられた。その時点で後半は言わば「退屈な時間」に入ってしまってはいる。これが「冗長」の原因だろうが、主眼は「笑い」なんである。意表を突く展開でこの「予定調和」の時間を最大限引き延ばしている。
 ただ「物語」も無視できない。ループをくり返す生活への嫌悪、否定的な感覚は自然だ。もっとも、繰り返しは重要であると人類の祖先が囁いている気がする事もある。いずれ、自ら望まないループは抜け出るしかない。抜け出ねばならない。この感覚が誰しも痛く判る部分だけに、この荒唐無稽を通り越した学園祭のような出し物は成立していた。

ルンタ(風の馬) 〜いい風よ吹け〜

ルンタ(風の馬) 〜いい風よ吹け〜

劇団態変

座・高円寺1(東京都)

2016/03/11 (金) ~ 2016/03/13 (日)公演終了

満足度★★★★

12年ぶりの東京公演
「変」な「態」を体感しに行く。もっとも、後半しか見られず(無念)。 無声、身体パフォーマンスなのでカテゴリーとしては舞踊に近いかもだ。音楽の存在が大きいのも同様。上手前のエリアで、三人のミュージシャンががっつり生演奏する。key、sax、bass担当が、各自色んな楽器(主に打楽器系)を駆使し、リノリウムの床と三方を黒幕に囲まれた黒い舞台での「現象」と、呼応しあう幻想的・土着的・イメージ探究的な音(楽)を響かせている。
 総勢十数名の肢体障害の男女が、それぞれの色(青系幾つか、赤、緑)のタイツ姿で、丸刈りでない者は皆髪をオールバックになでつけて登場する。多数の移動の形は横転がりで、ゴロゴロ、ペタリと回転する。
多彩な場面が照明と音楽の転換によって連ねられ、主宰の金満里(自身も出演=女性)が綴った言葉のイメージを具現した場面が展開して行く。

 音楽を筆頭に優れたスタッフワークによる舞台を、最終的に実現させたものは恐らく主宰の金氏の情熱、あるいは資質だろう。最後の挨拶に「寝そべった」状態でマイクを持って喋る風情に、そのことを感じた。

ネタバレBOX

舞台上の「現象」をどう感じるかは、各人の感性だが、どう理解するか、どう認識するかを考えつつ観る、そんな時間であった。
「異文化」との遭遇の際、自分の中に消化できないものがそこにあって、自分の中に取り込む時間というものを要する。 障害のある人とは自分は日常的な付合いがあるが、タイプの異なる障害、というだけで、そこには峻厳な山にも見える「異文化」がある。例えば、転がって移動するしかない人間の「生きる場」(喜怒哀楽のある日々のくらし)と、私たちの生活の場とを、並立に、同じ方を向いて生きる共生の関係として見ようとすると、「生きる」の内実を洗い直し、定義し直す必要に駆られる。
 しかし苦痛をもってでなく、心地よさの中にそうした考えを巡らすことが可能なのは、演劇に備わるべき娯楽性の証しだろうか。
 俳優についても考える。「あること」に限定すればこれほど雄弁な表現者は居ない・・という人がいる。俳優の力は「演じ分ける」事にある(マルチが良い)と考えられているが、「演じ分けている」事への感動は、「芸」に対する感動であって、手段としての俳優の身体による「表現」の価値は、舞台(作品)の中で持つ役割に徹してこそ生まれる、という(演劇における)「原理主義」?に立てば、この劇団のある俳優がある表現において持つ雄弁さは、著名な俳優の「ある場面」での演技と、等値かもしれない・・。
 舞台に立つ人間が容姿端麗なのは自己顕示がより強いという俳優側の意思の反映なのか、それが演劇にとって有用であるゆえの淘汰の結果なのか・・といった事にも考えは及ぶ。
 そうした諸々にもかかわらず、存在感を示す彼らを、とにかく「見る」しかなかった。得難い時間だ。
思い出し未来

思い出し未来

少年王者舘

ザ・スズナリ(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/08 (火)公演終了

満足度★★★★★

千穐楽だった。
曼荼羅模様の如く形容し難い舞台に(今や積極的に)幻惑されながら、(千秋楽なので)人に勧められない事をまことに口惜しく思った。少年王者館を一昨年に知ってから本公演3本程(天野天街演出作品となるとその倍以上)観ているが、今回はシュールさより、情感が勝っていたと思う。緻密に意表を突くあの手この手の遮蔽膜の表面に「情」が滲み出しているかにみえた。
様々なイメージが去来する。機械的な台詞、照明、音、全てを駆使しためまぐるしい劇の経過は、何かが「解体」されていく工程である。見通しを阻む建造物を一つ一つグシャリとつぶして行くその果てには自由があって、「あらゆることが許される」状態が訪れる。明かりに照らされた夕沈(今回の主役)が佇む中、壮大な時間経過を表す音が、その「自由」の地平に鳴り響き、中で耳に残る「戦争」の轟音には、象徴的を超越して迫り、恐ろしくなった。 振付シーンも長く、毎度の天街ワールドとは言え、どこか力が入っていると感じたのは気のせいか。 拍手、拍手!

友情

友情

映画美学校

アトリエ春風舎(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

「あれだ。」「おや?」「書き足してるぞ・・」「生徒らのために。。?」「見届けたぞよ(涙)」
元々リアリティを超越してる話をどうこう言うのも詮無く、こいつをやり切れる役者がいかに特権的肉体の持ち主か・・ナカゴー的力は役者を動かしてる凄さなのかも知れなかった。「船堀の友人」から書き加えられたシーンはそれぞれ、さぼてんの人たち、ばあさん二人組など、俳優に「唖然」「絶叫!」「がむしゃら」の演技を強いて、舞台それじたい虎の穴と化していた・・・。
 怒涛のナンセンスの荒野に、一輪の花のような友情が微かに風に吹かれて・・みたいな具合に行きたかったのは承知で、頑張っていたなぁ。でも惜しかったなぁ。「映画美学校」の卒業公演という文脈で舞台と彼らを眺め、私としては渡辺源四郎商店のあの芝居で涙を誘ってた女優の「学ぶ姿」に遭遇でき、新鮮であった。
 こんな芝居があって良いのか・・・との「常識」の間を縫って生き延びてほしい。

Be My Baby いとしのベイビー

Be My Baby いとしのベイビー

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

初☆加藤健一事務所
少数キャストの芝居を多くやっているので、何となしに小劇場芝居の雰囲気を想像していた。 そういえば本多劇場の常連であった。(本多は小劇場か?私は微妙だと思う、特に後部席の場合。)
さて会場に入ると、乗峯氏の美術が、軽快なコメディに違いないお芝居へと客を誘っている。白地にポップアートな色彩のイラスト(線書き)で、まずステージが囲まれ、ロンドンだかの街にある家の書割りも舞台上に置いてある。
コメディでは役者のはじけた演技、気の利いた仕草が、芝居を豊かに膨らませる。役者の力量がえらく大きく左右することは間違いない。
出演者計六名。二組の男女(親子の世代差あり)と、その他の端役を男女それぞれ一名の俳優が担う。この端役組の粟野史浩、加藤忍が縦横に演じ分け、会場を沸かせていた。 
再演でも会場はほぼ埋まり、盛況だ。配役がもちろん違うのだろう。加藤健一以下、戯曲の分かりやすさもあるが明快な演技で俳優の力を見せつける舞台だった。(細かい部分では「もっと欲しい」所もなくはなかったが・・) 
軽快なコメディ、ではあるが、ロンドン育ちとスコットランドの文化的な距離も描かれ、結婚式にキルトを着る、着ないの意見対立が「笑い」の中にも「あり得る光景」として描かれており、これは「現実を刺す」笑いに分類され得ると思う。よその国の事として日本では気楽に見れるが、それでも最後に訪れる感動は、そうした事々が乗り越えられたゆえの感動に他ならない。大いに祝福を送らねばならぬ所以だ。

ネタバレBOX

隣席に座ったご高齢な女性二人が時々、何か喋っていた。これを一つのバロメータとするのは乱暴かも知れないが、気になったこと。
最近「宗教」を巡って考える事が多いが、この芝居の最後、大団円は言わずもがなの結婚式、牧師がありきたりの言葉ではあるが二人への祝福を述べる。そこには笑わせる要素はなく、従ってドラマの「笑い」に紛れていたメッセージを、真顔で語らせる場面だと知れたが、「大団円」のノリそのまま会場がガヤガヤとしているのだ。そして、牧師が喋り始めるやお隣の女性がまたボソボソと話し始めた(しょっちゅう話しているのではなく、劇中三度程だったので、そこには理由があるかも知れない、と推測した)。
このドラマは、当初反目し合っていた男女が、一つの新しい生命の媒介によって理解そして愛へと導かれて行く。そこには「愛」にとって必要なものと、不要なものとが示されている。人は如何に不要なものにとらわれているか・・。現実はこのドラマのようには行かないが、ドラマが感動を用意しているのは確かで、「神は奇跡を成したもう」という希望が恐らく(作者にとって)核である。その事を改めて確認し、ドラマを終えようとするのが最後の牧師の場面なのである。・・と、芝居の流れで感じたのだったが、ガヤガヤとスルーされたのは、まぁたまたまかもしれない。芝居の方の問題かもしれない。だが日本人にはそういった辛気臭い場面、宗教的な臭いのする場面を嫌う感覚がやっぱりあるのではないか。(あそこは台詞、聞きたいでしょう・・違うかな??)
深読みかも知れぬが、そんな事を考えた。(以前「禁断の裸体」で感じた、宗教の扱いの不得手さに通じるだろうか。)
いつかの膿

いつかの膿

VAICE★

駅前劇場(東京都)

2016/03/01 (火) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

旗は翻るか?
ユニットとは言え、劇団的結束をアピール。プロデュース公演と劇団の違い、なんてのは古いテーマかも知れないが、ふとその事を考えた。
劇団は「継続」が前提になっており、「次にご期待」と言える。それはある面では「言い訳」にもなるが「継続」を約したのだから覚悟の表明でもある。また一つの公演を、劇団という文脈上に位置づける事が正当化される。
プロデュースは、それ一発で評価を受ける。だから最大公約数的な舞台になりやすい・・とは必ずしも言えないと思うが(舞台を観ての感想)、しかし俳優の選定、劇場選びには確実に影響しそうだ。
 アラフィフ、と自称する面白い陣容のユニットVAICE★(ヴァイスあかぼし)は今後も第二弾三弾と、揚げた旗ははためかせて欲しいし、もしそうあるなら、今回の舞台も良かったと思う。
 今作は、これ一本で(他の文脈を借りず)成立するかと言えば、私は微妙だと思った、というのが上のように書いた理由だが、とは言っても、それなりのレベルを達成し、面白い舞台ではあった。
劇の中盤から浮かび上る「不在の人物」の、現われ方が面白い。映像でしか見ない白川和子という女優による母役が、この人物(息子)を手引きする。「ソファ」ゆえに、人物らはこの場所に集い、劇を展開するが、その吸引力をソファに持たせるのは少し無理がある。母の思い一つが皆をそこに引き留めている訳だが、同じ時・同じ場所に集うのは「話合い」のためで、話合う議題としての「ソファ」が弱い。ただ、ソファは単に媒体であって、ドラマの本体はその媒体を通して露見して行く真実のほうにあり、この本体に観客の関心を引きつけられれば「弱点」は問題にならない、のかも知れない。
見終えた全体の感想としては、俳優は難しい人物形象をよくやってたが、戯曲が要求する地点にはあと一歩と思える部分も正直あった。が、戯曲が説明していない部分をよく埋めた、という方を評価すべきなのかも知れない。
 「付け足し」のような場面が、ラスト、長い暗転後にある。暗転前の投げかけに対する、ドラマの作り手の答えが、その場面だ、という事になっているが、そこに突如、それまで登場しない、またパンフにも乗らない男優と女優1名が何の説明もなく登場する。そしてよく意味の判らない作業(置き式の暖炉を移動しようとして、また元に戻す)を、男衆がやって終演となる。
この閉じ繰りが、それまでのドラマの穴を全て埋めるためのやや強引な「仄めかし」術になっていると感じるが、なぜか後味が悪くない。体を使っているからだろうか・・。最後は汗かいて号令かけて、締めくくる。「劇団」らしいと言えばらしい。

赤い竜と土の旅人

赤い竜と土の旅人

舞台芸術集団 地下空港

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2016/03/03 (木) ~ 2016/03/13 (日)公演終了

満足度★★★★

「原発こわい」と口で言ってみよ。
印象・・・真剣さ、誠実さ、若さ。

ネタバレBOX

最近「原発」の話題を避ける風潮があり、その結果被ばく地域の住民保護や移住の権利を云々したり、より正確な実態を究明しよう、といった話に繋がるようなドキュメントやドラマも、敬遠されている。
 そうした心情が多くの日本人を支配している理由を、「言わずもがな」と一蹴せず、考えて言語化したほうが良いと思うのは、禁忌の領域が拡大させることは自分の首を絞めるに等しい愚かなことだと思うゆえだ。
 で、端的に言えば被ばくは健康の逆だから、触れたくない。だが、本当に健康に注意するなら、放射能被害の実態を可能な限り知ろうとするはずだ。実際には人々は「健康であろうとする」選択肢を奪われている、ないしは放棄している訳である。
 そこには、曖昧なら触れるまじ、という基準はありそうだ。例えば、放射能は測りづらい、という事情。しかしそれ以上に、放射能に言及すべからず、という「空気」から、正確な情報を得る可能性が低いことを悟っており、結果「判らないのなら触れないほうが良い」、という判断なのだと思う。つまり、「放射能問題に触れるまじ」との「圧力」に、負けているという訳なのだ。
 だが、そういう事では身も蓋もないから、例えば反原発派が「必要以上に騒ぎ立てている」といった説を採用し、後ろめたさを回避している、という事もあるだろう。 ただ、国内に間違った意見を持つ者が勢力を得ているなら、本気で彼らを諭し、原発推進を唱えるべきだ。そうしないのは「反原発派が必要以上に力を持っているから」「自分が悪者にされる」と、ここでも言い訳に使われるが、実際にはそれを本気で信じていないからだろうと思う。
 ・・・こうした奇天烈なあれこれは、結局のところ「被害の実態を明らかにする」という方針を実現できていない、という既成事実から、「風桶」式に導かれている現象なんだろう。

 自民党改憲案がもし通ればこれは歴史的な「えらいこと」だが、これが如何にえらい事かを見るより、野党共闘を人々が応援するのかどうかと、風見鶏のように「空気」を読んでいる。でもって当然ながらマスコミはこれを白々しい視線で報じるので、「空気」としては自民党支持が多数派と見える(日本ではテレビ報道を信じる人の割合が8割と言われる。諸外国では50%以下)。 大樹になびく心情が巷を漂うさまが見えるようだ。 

 遠大な前置きが果たして相応しいかどうか・・・だいぶ引かれそうだが、今回の地下空港の舞台で、久々に「原発」の恐怖に触れたと感じた。それだけ、如何に普段この話題が遠くなっているか、という証左なのだろう。
 イギリスはウェールズの西端の島には原発があり、2013年、経年劣化した原発を新調する取引相手に日立製作所の名が挙がった。 この地を作品製作のために訪れ(助成により)、今回の作品が出来たという。

 岬に行けば竜(赤)の声が聞こえるという片足の青年ロイの物語は、「旅人」がその村に持ち込んだ「窯」、その窯に棲む竜(黒)の存在、青年が恋をする旅人の娘、青年のおばさん(母は昔死んだ)、窯の力がもたらす「経済効果」に目をつけた事業家、その妻、息子、村長、役人その他を巻き込み、紡がれて行く。 劇団桟敷童子の拠点すみだパークスタジオが、ややなだらかに組まれた客席以外はがらんどうに椅子だけがあり、役者は開場時刻から場内で発声練習しながら案内などをやっているが、いざ劇が始まると無駄の無い統一した挙動に入る。椅子を使った場面転換、本域の歌をはさみながら、最初牧歌的にみえた「物語」が徐々に暗雲が垂れ込め、最終的には悪夢の様相を呈するに伴い、語られている「窯」が、原子炉の隠喩である事が明白になる。
 このお話が含んでいる警鐘は、日本では既に起きてしまった原発事故についての言及を促すが、恐らく観客は受け止めがたい思いで劇場を後にしたのではないか。俳優の演技に拍手を送りつつも。
 もし、この歪な状況を変え得るとすれば、やはり「語ること」「言葉を見つけること」で、息をするしかないのだと思う。
 日本は今危うい所にいる。実際の危機より、その危機への対し方について。

 「敢えて」語ってみせた地下空港の今作には、その意味で驚き、「語られない」奇妙さが、改めて思い出された。 そして「語らない」のは自分も同罪である。
わが闘争

わが闘争

ハツビロコウ

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/03/01 (火) ~ 2016/03/06 (日)公演終了

満足度★★★★

鐘下辰男の台詞劇。
のっけから喧嘩腰で始まる会話は、「事件」後、雨音響く村のとある場所で、喪服の事件関係者と刑事二人によるもの。男ばかりの中に女の喪服が一人混じり、奥にはこの場面には関わらないスウェット姿の青年、後に判る「犯人」に当たる青年がぼうっと立っている。 「喧嘩」は刑事のほうが嗾(けしか)けているが、この態度が「正解」である事が一人ずつ露見して行くというドラマの運びだ。 にしても、喧嘩言葉のドスの利き具合が半端ない。この場面にあるどす黒い快感は、鋭利な言葉の応酬が互いに拮抗している所から来る。
 「津山事件」にどの程度依拠しているかは不明。オリジナルとして観た。かつて村人が信じる宗教(神道系?)を司る辰巳家が、新興勢力に敗退した三、四代前の過去を、事件の背景に据えている。新興勢力とは企業であり、雇用創出する土建業が利権と結びついて「力」を持って行くといった光景は、きっと日本の近代史上津々浦々に数多見られた事だろう。 この村でも「神」は周縁に追いやられ、ある時点で辛うじて保っていた村における象徴的権威まで奪われた。 この因縁にケリを付ける事を使命とする「信者」(青年)が、殺しの加害者となり、殺された女はたまたま青年の描く「ストーリー」上に位置づけられ、被害女性となった。女の日頃の「素行」もあってか、犯人を一方的な悪だとは他の者たちも考えていないらしい。ここに集った被害女性の夫、実兄、加害青年の姉(被害者兄の妻)、三人の「関わり」が次第に浮かび上がる。展開ごとに、事実はその前の認識を覆し、納得できる「全容」に結実して行く、文字通りのサスペンスだ。
 この戯曲の強烈な特徴は「過去の因縁」を、現在に影響を及ぼし得る(及ぼす資格のある)要因として刻みつけようとする意志である。戯曲は刑事に、逃走中の犯人が「死」に追いやられる可能性を憂える台詞を言わせている。青年が殺してしまった女性を、でなく、彼をこの物語の悲しいヒーローと見ているのだ。
 辰巳家の末裔である姉弟は親を早くに亡くし、母代りの姉は弟に辰巳家の末裔としての誇りを説き、弟は純真な「信者」となる。一方姉は敵方の家の長男に嫁いだ。相手は容姿端麗な姉に十代の頃から惚れていたが、終盤の姉の台詞は結婚承諾が両家の因縁への自分なりの決意である事を仄めかす。が、彼を本当に好きになった、とも言う。彼女の異性に対する本心は被害女性の夫にあり、相思相愛であったらしい事等も仄めかされ、関係は入り組んでいるが、いかにも小さな村の狭い人間関係を示している。物語のテーマの核心はやはり、犯人と宗教との関係、宗教側が近代に領土侵犯された歴史にあると思われる(これを単なる<味付け>に用いるには重すぎ、晦渋だ)。 
 犯罪には社会が一目おくべき示唆を含むことがある、と思う。ある価値観の浸透が、多くの「負」を帯びたものである場合、「負」は何か別の形をとってでも噴出しない訳に行かない・・と教える。テロに対する見方も違ってくるだろう。・・そんな事を考える。
 まァ作品解釈はともかく、俳優の佇まいに見惚れた舞台であった。

ネタバレBOX

テーマをめぐって追記。
辰巳家の没落は、端から見れば、単に権力関係が変わって一方が隆興し、一方が凋落しただけの事だ。ただ、信仰に支えられた秩序と貨幣経済による秩序(合理主義?)の本質的な対立は洋の東西をまたいで根深い問題だ。
自由主義経済が放任主義では立ち行かないのは周知の事実だが(これに反駁する新自由主義なるものもあるが)、弊害を来たした時、市場原理に代わる決定原理を、どこに求めるかという問題が浮上する。まず、「民主主義」というシステムが挙る事だろうが、全ての案件を有権者による投票で決める事はできないから、限界がある訳である。選ばれた政治家が政治決定を行なう(代行する)際、決定の根拠としての思想がなければならない。何に価値をおくか、倫理的機能をどこに求めるか、という時に人類が長年にわたって蓄積した宗教的価値体系、慣習のご登場となる訳である。
 かつて社会主義陣営がとった政治システムは、統制経済であったため、自由競争が阻害され、人員配置も「競争」によらず人脈や自己利益誘導という原理で決定し、歪な官僚制が発達してしまった云々といった弊害が指摘された。ソ連の科学技術の発達は、ある意味で「米国との競争」が成したもので、やっぱり競争原理な訳である。で、東側が敗北したのは世界が「競争原理」で動いていたため、競争原理を排した陣営が当然の如く敗北した、という事である。高福祉を実現している北欧などを見ると(あまり詳しくはないが)貿易黒字や国内総生産などで一定の経済面の実績を上げている(「競争」にも対応している)。かつての東欧は対外的な(経済的)勝利を、他の問題に優先できず、その原因は恐らくソ連の覇権の影響と思われる。
 「競争原理」があらゆる技術を発達させている事は間違いなく、それが国力・企業力となって「支配」関係を生み出す。この事はある種の「自然現象」だ。これを正当化しているのは「科学・技術の進歩」だろう。 では、「科学・技術の進歩」じたいを相対化する価値観、例えば宗教がそこにあったとしたら、どうだろうか。市場経済や、ある種の競争原理は、当然に主張していた正当性を、この宗教の前では失うのだ。 そして、こうした宗教を見出し、あるいは生み出す契機と考えられる状況が、はっきり見られるのも事実。構造的経済格差がそれだ。
 辰巳家の青年は、「宗教」に立つ地点から、たまたま敵への復讐に至ってしまったのかも知れないが、強力に働いていたのは「没落」という状況であったのかも知れない。(宗教は文字どおり彼の生の「拠り所」となった・・)
君は即ち春を吸ひこんだのだ

君は即ち春を吸ひこんだのだ

公益社団法人日本劇団協議会

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/03/01 (火)公演終了

満足度★★★★

新美南吉半生の記
若くして逝った童話作家・新美南吉の短かった作家人生と青春を、素朴なタッチで描いた作品。否、「素朴」は新美南吉の人生への印象か・・ 等身大の人間の温度を感じるストレートプレイだった。
エコー劇場に作り込まれた田舎の家屋、上手には紅梅か桃の花が咲き乱れた裏庭があり、これに面した縁側のある畳部屋が、新美正八=南吉(寺本一樹)のささやかな「書斎」で、彼が人生の殆どを過ごしたのがここ愛知県半田市(知多半島)だという。冒頭セピア色の照明が強く当たり、一気に「そのむかし」へ観客を連れて来る。
微妙な恋仲の女性・ちゑ(まりゑ)が、医師として大阪で活躍したり動的であるのと対照的に、田舎で教員生活を送っている新美は、徴兵検査ではねられた肺病病みが最後に露見する事で諸々が符合する「陰」を帯びている。ただしその時点までは(肺病については)「噂」の真偽は明かさず、新美の「陰」も見えるような見えないような、微妙な色づけにしてある。
肺病を巡っては、彼を慕う事になる女生徒(白勢未生)がいずれもこの死病で亡くした二人の友人に対し、サバイバル・ギルティを抱いているエピソードの後、新美の喀血が始まる、という仕立てになっている(彼女が献身的に彼を介抱しようとする)。 ちゑや、生涯の友人(シライケイタ)の「死」も新美の生に強く突き刺さる。その一方で欲得を隠さず生きる一庶民である父(高橋長英)と、あっけらかんとした継母(南一恵)が、老いてなお健康そうなのも、新美との対照を印象づける。
そうこうする内に「病」に倒れ、死に行く新美南吉・・彼の生が一体何であったのか。本編には新美の作品があまり出てこず、作家としての葛藤も具体的には触れられない。ただ、彼のはかない人生が、それでも彼の内側には豊かな時間が流れ、彼は外的な「何か」にすがる事なく、自立して人と対し、彼自身の生き方を貫徹した・・そんな風情が台詞や行動よりは佇まいによって象られていたと感じた。そうなると新美南吉が登場人物である必要があったのか、素朴な疑問は湧くが・・。
演技の質の面では、新劇系の高橋、南と、技巧的?な若手と、ややバラけた感があったが、それぞれの良さが出た場面が認められ、群像劇としては成立した。ただ、もっと場面の意味を鋭利に作り込める余地はあったかも知れない。 今回の「日本の劇」戯曲賞受賞戯曲は、観客全員に配布されていた。

クラッシュ・ワルツ

クラッシュ・ワルツ

刈馬演劇設計社

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/02/26 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了

満足度★★★

リアルとウェルメイド
贅沢なトークゲストが並んでいたが(当日は柴幸男+かもめんたる)、都合により退座(芝居を観れただけで御の字)。 芝居はナンセンス劇の始まりかと勘違い。次第にマジメにストレートプレイを仕上げているのだと、途中で修正した。 ただ、無理もない。 事故現場に花を供えているのを咎め、あるいは表札を見ていただけで泥棒と疑い、彼女らを家の中に連れ込んで、(セミパブリック空間でもない)「応接室」を人のクラッシュする場に設定しているからで。 どことなく不自然さが漂うので「不条理系?」とみても、罪はないと思う。
 息が詰まるようなやり取りがすったもんだあって、互いの不理解状態が、(隣家の下手なピアノのように)「少しずつ良くなって行ってる」と、芝居を観て実感されるかどうかだが、私は登場人物たちの心情を、終始「眺める」立場を離れずに終ったし、「よくなってる」と信じる気持ちにはあまりなれなかった(ならなくて良いとも言える)。 お話のほうは、謎かけ(伏線)を謎解くプロセスを飽きずに追えた。が、リアリティを逸脱する箇所がそこここにあり、解消しきれず残ったように思う。
 たとえば・・息子を轢き殺した加害女性を許さない父(元夫)が、実は相手をホテルに連れ込んでいた・・。また、女性の方は愛のないセックスで子を宿したが、毎月命日に花を捧げるうちに偏執的な愛を膨らませたか、子を産み育てたいと願い、一度も献花をしない母親を難じて自分のほうが彼を愛していると嘯く・・。など。
 最大の謎は、相手を「許したい」と言い出す妻が、なかなかその態度を示さず、恐縮し続ける加害女性をずっと眺め続け、どうにもサディズムを感じてしまう面。だが彼女は地味な服装や髪型に甘んじるその女性の人生を奪ったことを申し訳ないと、頭を下げて泣く。途方もない分裂があるが、それを自覚的に摘出しているとも見えない。
 最後のオチは如何にもウェルメイドだが、抑え目な演出でも、私は甘く感じた。沖縄行きの話をしながら泣くシーンは、「リアル」に重心を置くなら、最後までリアルを貫徹してほしかった。「踊り」はもっと「型」が決まっていて良いが、このあたりは好みの問題か・・

 演目は二年前の劇作家協会新人戯曲賞(最優秀)をとった作品で、作者本人の演出による再々演。この年の最終選考に残った5作に「東京アレルギー」「血の家」など、こまばアゴラで上演された作品があり、中々接戦だったのではないかと想像された。

ROMEO and TOILET

ROMEO and TOILET

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

見なきゃ分からない。
全身白タイツで何をやるのか・・なるほど。パフォーマンスとして、一つのコンセプトに貫かれた一まとまりの出し物を、提示されたスッキリした後味があった。衣裳は制服の意味を帯び、集団で動く場面では号令が飛び交う、そのおかしさの一方、ゆったりと一人で語るのも白タイツなのも笑える。 事前に想像したイメージを、大きく裏切る豊かな出し物だった。
 会場に赴くと、客席を取っ払ったトラムの広間に両サイドの階段で降りて行き、中央にドーンと置かれた白亜の直方体を立って見上げ、客が開始を待っている。正面奥にはトイペを縦に積み上げた城壁がそびえ、直方体の周囲にもトイペが取り囲んでいる。
 「 白くてぼやっとした物」達は、誕生の極大である銀河と、極小である精子のイメージの間を縦横無尽、様々な場面を繰り出す。床に下りて客に混じりながら流しのギター弾きをやったり、なぜかカレーの材料を探せ!と豚を追いかけて客の居る床で大騒ぎの捕獲劇を延々と続ける。ここでの「延々」は、すでに開始以来あの手この手でこのテーマを追っかけている「延々」の延長としてあるので、言うなればジャブが効きすぎて笑うしかない状態である。
 凱旋公演との事で、正面のサイドの壁面に英語字幕が出る。外国人客の姿も見えたが、大いに楽しんでみえた。 

野鳩

野鳩

野鳩

駅前劇場(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

野鳩★三度目にして最後。
他劇団出演の佐々木幸子の所属として劇団名を認識し、一昨年初観劇、良い感じの脱力系はオチ無し、この劇団の目指す地点はどこだ・・?との興味。「外してくる」感じはナカゴーに近似だが、無意味度はこちらが高く、「それ系」?の原点を標した劇団なのであるか?・・などと想像。
 昨年の下北沢公演ではしまおまほ降板があり、味噌が付いたと感じた。そして今回の「解散」アピール公演の印象は、それなら、と見に来る客も居るだろうし(私もその一人)、色んな意味で「回収」しきろうというなら乗って上げましょうと、その覚悟の形を見に行った。
 近未来、ある中小企業の朝の朝礼の中にゾンビが一人居る、という驚愕の日常風景のオープニングから、「共存」の理想形がやがて絵に書いた餅、化けの皮をはがせば人というもの世知辛く、しかし最後は通るべき事実が通って物語はそれなりの大団円?に行き着く「まともな」芝居だった。
 ゾンビ話は「バイオハザード」を参照しており(・・ウイルスで感染し、一旦死んで蘇生する、欲求は食欲だけ、頭に打撃を加えれば死ぬ)、例外的に言語を覚えるゾンビが見出されため、人間生活の実験が始まる格好である。
 言語を覚えると共に感情を発達させ、仕事をまじめにやるので便利に使われていたが、社員による不正に気づいたりもする。そんなこんなで疎ましい存在となったゾンビ君は、ある「感染」事件の被疑者に仕立てられ、他の不正の罪もかぶせられようとする。彼が差別構造の下位の存在に位置づけられるのは、よくある構図だが、お涙頂戴にならない所に「らしさ」がある。彼は決して人間を攻撃せず、その事を周囲も確信している=ナメている。
 野鳩の主役佐伯女史との恋愛感情の芽生えも自然。マジ演技の二人以外は、キャラきわどい演技、キャラ破綻演技などそれぞれ持ち味を出していた。
 差別といえば、イキウメの「太陽」に、「我々と異なるが人間に近い存在」に対する差別が描かれていたが、およそ人間のトラブルが差別に源を発するゆえか、あからさまでない暗黙の合意でゾンビが(それまでの称賛の対象から)蔑視の対象となり不利な立場に落とし込まれて行く経過は、生々しく見入らせるものがあった。

この声

この声

オイスターズ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/23 (火)公演終了

満足度★★★★

何を考えているんだろう・・・
一介の美術教師のもとへ「相談」を持ち込んで困らせる女子生徒3人。シンプルな構成で、我々は「フツウのひと」である美術教師にどちらかと言えば自分を重ね、不可思議で掴み所なく底意地の悪そうでそうでなさそうでやっぱり空恐ろしい異性人な女子生徒の「出方」に翻弄される。ラストに「おっかしいだろお前ら」と、漸くぶちきれた一個人の叫びは、時すでに遅い遠吠えながら、理不尽さそれ自体への我らの憤懣を代弁して、ある種のカタルシス(笑)。 それにしてもオイスターズの芝居(三本ばかり観た限りだが)は、常識的で自己保身的で凡人な主人公を、周囲の者が独特の仕方で困らせる不条理劇だが、「困った人たち」の風情が面白い。つぶらな瞳をして「私、誤解してました」とか「人間というものは、こうして成長していくのですね、先生、勉強になりました!」とか、わざとらし~~い芝居がかった台詞を、「純粋さ」を失わずに言う、という演技をするので、リアリティは両極に引き裂かれ、「この混乱は夢だ・・」「悪夢だ・・」と頭を抱えることになる。 今回も頭を抱えたが、我らが凡人代表が舞台上でスケープゴートとして大変困ってくれるので、笑って劇場を出る事ができる。 現代生活の澱を、笑で解毒する一種の儀式だとするなら、今回も十分「毒」を味わえた。

ソンナニイヤカ?

ソンナニイヤカ?

演劇ユニットどうかとおもう

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2016/02/14 (日) ~ 2016/02/15 (月)公演終了

満足度★★★★

からしのきいた八編
素人が突つけば痛くてジメっと沈下しそうな話題が、劇的に生き生きと立ち上がる視角をもって切り込まれている。さらっと流す短短編から、ややじっくりといたぶる中短編まで、どの話も刺し具合が適度で芝居としてのムラもなく楽しめた。「現実」と地続きである所がミソだ。舞台の簡素な設えや、「裏」なはずの黒幕の仕切りの向こうに人が移動してるのが見えたりも、適度な風通しだと感じる。役者の佇まいも良い。お話は即ち問題をどう切り取り、評したか、というものとして、観客側に着地する。それゆえ、個々のお話にそれぞれ感想は湧き、それじたいが作者の提起した問題にコミットする事となる。
一作品だけ挙げれば、、ホームレスを扱った「今夜は住所不定」、渋谷区の条例の話題も含めてリアルに厳しい現実をなぞっている。しかし舞台であるマックの店員(外国人バイトと正社員)が、私達がそうあってほしいと思い描く人物に描かれていた、と私には見えた(現実にはもっと無理解で、当たらず触らずの対応にとどまり問題は自覚されない)。現実離れしない限度で考えられる最も温かいお話に仕上げたこと。それは「見放さない」眼差しに私には感じられた。 他のお話も、突き放して「異」なものとして笑うにとどまらず、どこか問題に踏み入っている。その具体的な場面としてそれぞれ立ち上がってみえるのだ。
短編が面白くある可能性が、こんな素朴な姿で現れてくれたという感じである。

猥り現(みだりうつつ)

猥り現(みだりうつつ)

TRASHMASTERS

赤坂RED/THEATER(東京都)

2016/02/18 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

お馴染み中津留節ににんまりしつつ、「自粛・自主規制・空気読みしない」この劇団が「日本」という集団に叩き潰されないことを祈る
今回の題材は宗教(とりわけイスラム)。これをめぐって論戦活発、言論を使っての神経戦がとある商店街の異国料理店内で展開する。
 中津留氏の書くものと言えば社会的な事象を真正面から取り上げ、B級映画的とも評される意想外の展開で楽しませる(そこが賛否両論であったりする模様)。人物たちはいたって真剣で、ドラマのリアリティからすれば笑えて良いところ、鬼気迫る演技で笑う余地を与えないというギャップが、TRASHならではの独特な味の源なのだろうと思う。事実、「笑えない」現実はある。問題をあぶり出す状況設定や議論を押し進める台詞に長け、あるテーマを巡る問題群を洗いざらいテーブルに載せ切る… これはなかなか出来る技ではない、というのもリアルな現実ではそんな言葉は吐かれないからである(朝まで討論でもない限り)。中津留氏の戯曲は人がとにかく喋る。観客の気を引くようなフックを繰り出し、論点が次また次とシフトし、つい見入らせられてしまうが、当然ながら、その結果人物の行為としてはそこここに不自然さを残す。近年のお笑いに多い、笑う対象であるところの「きわもの」が突如出現したかのようになる。私などは思わず「うわ〜」と笑う。深刻な問題を考える脳と、奇妙な人間の行動を見る脳は、同時に働いている。この違和感を展開の面白さでカバーする手腕もあるし、作品によっては違和感が限りなく小さいものもあるが、今のところ私にとってはそこがTRASHの持ち味になっている。
TRASHを観る者はこの両のバランスの一方が犠牲になる可能性を承知しておくべし。この劇団の突出した価値が「現実」への即応性にある限りは。…以上は、一応(私としては)褒め言葉である。

カゲキ・浅草カルメン

カゲキ・浅草カルメン

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了

満足度★★★★

浅草東洋館へ初潜入
喜劇の聖地・浅草は漫才の常設小屋・東洋館、その入口には「客引き」をやる作演出・望月氏の姿あり、客席をみれば五十がらみのおじさんおばさん、はたまたオタク風の者ら、「場末」的演出に総出で一役買ってるよな劇場にて、これも浅草の地に似つかわしい歌あり踊りあり、サービス精神に徹した芝居が飲食自由・嬉しい休憩付きで上演されていた。
 ドガドガプラスは昨年唐ゼミに作品提供したのが望月六郎氏(観れなかったが)、「芝居もやってるのだ」と知って今回初めて観劇できた。
 序盤は劇団が擁する若い役者がキャッキャと元気にやってる、、とだけ目に映っていたが、中々どうして徐々にそれぞれの役柄が見えてくると、それぞれがうまい。出はけも多くテンポの早い芝居だが台詞は澱む箇所一つなく、役にハマり切って小気味良いシーンも多々。もっとも皆、艶やかな着物を召して「女」を売り、男もホスト並みに化粧と仕草で「男」を売る、女郎に悪党のダークヒーローな演技の範疇に留まるとは言えるが、華ある役者にしか出来ないとも言える。 
 「お話」は一本筋が通って破綻は無いが、幕末とカルメンというイメージの飛躍ぶり、舞台に漂う雰囲気は唐十郎に近い。

ネタバレBOX

カルメンの物語が幕末を舞台に展開。主な登場人物が、悪党弾左衛門一味、島流しから戻ってくるガルシア(我流史荒)、その妻である軽女=カルメンと女郎仲間、彼女に虜にされた男ドンホセ(干愚鈍)、彼を慕う弟分、江戸一喧嘩の強い勝小吉一家、彼の息子勝驎太郎(後の海舟)・・といった具合。物語の箱をひっくり返したような多彩さは、堅気とヤクザ、体制と反体制、幕府側と尊王側といった判りやすい図式には全く回収されない。人物の殆どがアウトロー的であり、彼らへの批判的視線(説教がましさ)を入れずして物語を語り切っている所が私などには新鮮だ。テーマは個々がそれぞれの道を生き切る事であり、それが呪われた宿命であれ個人の欲求であれ、行動こそ尊ばれ、正当化こそすれ後悔せず、道を全うした果ての死に際は潔い・・要は皆が皆格好良いんである。屈折の極みにして妖気漂うカルメンがやはり中心にあって迫力満点。その屈折したあり方が、終盤の本人の語りで明らかになり、屈折しているにも関わらず観客の理解する所となる。
 従ってこの芝居は「分かる話」だが、雰囲気は唐十郎を彷彿とさせた。舞台崩しも短調の音楽と照明の頻繁な変化による転換もないのだが、今回ガルシアに唐組の久保井研、他にも唐ゼミの役者が客演しているのは自然に思われた。
 産休で離れていたらしい女優が子を産んだ女として登場し、1歳位の赤子を抱いて出ていたが、劇団事情を知っているのだろう、少なくない客から自然拍手が起きていた。この赤子が天然に快活で子役ならぬ赤子役が存在するなら、十分タメを張っていたのが笑えた。
親の顔が見たい

親の顔が見たい

かわさきシアターカンパニー

川崎H&Bシアター(神奈川県)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★

役者力、堅実。
マンション内の、にしてはそこそこの(70人程入りそう)スペースで、ぶち抜いたコンクリの梁が低い天井に残るのも黒く、劇場としての味わいを有しているのにまず驚いた。
「親の顔」は数多くやられている演目だが、やはり味のある戯曲だ。中学生にしてはかなり過激ないじめ内容や、援助交際など、ドラマ的な演出を「盛った」ようにも捉えられるが、うまく解消していく戯曲だ。
新たな証言や物証が、事実を徐々に露呈させるが、その段階段階で、その状況に見合っただけの抵抗を親たちは繰り広げる。そして退路を断たれて事実に向き合わざるを得なくなる・・という意味では、「悲劇」に始まりそれは覆らないが、ある意味ハッピーエンドである。
 この劇団は、口跡もすっきりした堅実な役者が押さえる所を押さえた演劇を繰り出し、劇の終盤にはある「高み」へと観客を押し上げていた。 開幕当初に見られた、各自の仕事をしている感の演技(横同士の反応がやや堅い)は、しかし個々の「仕事」を延長した先に、しっかりぶつかり合う形が出来ていた、そんな感じ。演技を機能的に捉えているのか、やれる事をこなせばここまで持って行けるという事か・・不思議な感覚だ。
 一点、最後に残る夫婦の対話、そして退出の場面。 芝居中では夫に抵抗した妻だが、最後には夫の後について行く、古典的な妻を演じる日常に帰って行く、という処理にしていた。 簡単には変わらない・・それが脚本に書かれてもいる一つの結語だが、それでも何か変わって行くのではないか・・そう感じたい観客に、この演出は「簡単に変わらない」ことを形として強調してみせたのだろうか。

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