tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ROMEO and TOILET

ROMEO and TOILET

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

見なきゃ分からない。
全身白タイツで何をやるのか・・なるほど。パフォーマンスとして、一つのコンセプトに貫かれた一まとまりの出し物を、提示されたスッキリした後味があった。衣裳は制服の意味を帯び、集団で動く場面では号令が飛び交う、そのおかしさの一方、ゆったりと一人で語るのも白タイツなのも笑える。 事前に想像したイメージを、大きく裏切る豊かな出し物だった。
 会場に赴くと、客席を取っ払ったトラムの広間に両サイドの階段で降りて行き、中央にドーンと置かれた白亜の直方体を立って見上げ、客が開始を待っている。正面奥にはトイペを縦に積み上げた城壁がそびえ、直方体の周囲にもトイペが取り囲んでいる。
 「 白くてぼやっとした物」達は、誕生の極大である銀河と、極小である精子のイメージの間を縦横無尽、様々な場面を繰り出す。床に下りて客に混じりながら流しのギター弾きをやったり、なぜかカレーの材料を探せ!と豚を追いかけて客の居る床で大騒ぎの捕獲劇を延々と続ける。ここでの「延々」は、すでに開始以来あの手この手でこのテーマを追っかけている「延々」の延長としてあるので、言うなればジャブが効きすぎて笑うしかない状態である。
 凱旋公演との事で、正面のサイドの壁面に英語字幕が出る。外国人客の姿も見えたが、大いに楽しんでみえた。 

野鳩

野鳩

野鳩

駅前劇場(東京都)

2016/02/25 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

野鳩★三度目にして最後。
他劇団出演の佐々木幸子の所属として劇団名を認識し、一昨年初観劇、良い感じの脱力系はオチ無し、この劇団の目指す地点はどこだ・・?との興味。「外してくる」感じはナカゴーに近似だが、無意味度はこちらが高く、「それ系」?の原点を標した劇団なのであるか?・・などと想像。
 昨年の下北沢公演ではしまおまほ降板があり、味噌が付いたと感じた。そして今回の「解散」アピール公演の印象は、それなら、と見に来る客も居るだろうし(私もその一人)、色んな意味で「回収」しきろうというなら乗って上げましょうと、その覚悟の形を見に行った。
 近未来、ある中小企業の朝の朝礼の中にゾンビが一人居る、という驚愕の日常風景のオープニングから、「共存」の理想形がやがて絵に書いた餅、化けの皮をはがせば人というもの世知辛く、しかし最後は通るべき事実が通って物語はそれなりの大団円?に行き着く「まともな」芝居だった。
 ゾンビ話は「バイオハザード」を参照しており(・・ウイルスで感染し、一旦死んで蘇生する、欲求は食欲だけ、頭に打撃を加えれば死ぬ)、例外的に言語を覚えるゾンビが見出されため、人間生活の実験が始まる格好である。
 言語を覚えると共に感情を発達させ、仕事をまじめにやるので便利に使われていたが、社員による不正に気づいたりもする。そんなこんなで疎ましい存在となったゾンビ君は、ある「感染」事件の被疑者に仕立てられ、他の不正の罪もかぶせられようとする。彼が差別構造の下位の存在に位置づけられるのは、よくある構図だが、お涙頂戴にならない所に「らしさ」がある。彼は決して人間を攻撃せず、その事を周囲も確信している=ナメている。
 野鳩の主役佐伯女史との恋愛感情の芽生えも自然。マジ演技の二人以外は、キャラきわどい演技、キャラ破綻演技などそれぞれ持ち味を出していた。
 差別といえば、イキウメの「太陽」に、「我々と異なるが人間に近い存在」に対する差別が描かれていたが、およそ人間のトラブルが差別に源を発するゆえか、あからさまでない暗黙の合意でゾンビが(それまでの称賛の対象から)蔑視の対象となり不利な立場に落とし込まれて行く経過は、生々しく見入らせるものがあった。

この声

この声

オイスターズ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/23 (火)公演終了

満足度★★★★

何を考えているんだろう・・・
一介の美術教師のもとへ「相談」を持ち込んで困らせる女子生徒3人。シンプルな構成で、我々は「フツウのひと」である美術教師にどちらかと言えば自分を重ね、不可思議で掴み所なく底意地の悪そうでそうでなさそうでやっぱり空恐ろしい異性人な女子生徒の「出方」に翻弄される。ラストに「おっかしいだろお前ら」と、漸くぶちきれた一個人の叫びは、時すでに遅い遠吠えながら、理不尽さそれ自体への我らの憤懣を代弁して、ある種のカタルシス(笑)。 それにしてもオイスターズの芝居(三本ばかり観た限りだが)は、常識的で自己保身的で凡人な主人公を、周囲の者が独特の仕方で困らせる不条理劇だが、「困った人たち」の風情が面白い。つぶらな瞳をして「私、誤解してました」とか「人間というものは、こうして成長していくのですね、先生、勉強になりました!」とか、わざとらし~~い芝居がかった台詞を、「純粋さ」を失わずに言う、という演技をするので、リアリティは両極に引き裂かれ、「この混乱は夢だ・・」「悪夢だ・・」と頭を抱えることになる。 今回も頭を抱えたが、我らが凡人代表が舞台上でスケープゴートとして大変困ってくれるので、笑って劇場を出る事ができる。 現代生活の澱を、笑で解毒する一種の儀式だとするなら、今回も十分「毒」を味わえた。

ソンナニイヤカ?

ソンナニイヤカ?

演劇ユニットどうかとおもう

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2016/02/14 (日) ~ 2016/02/15 (月)公演終了

満足度★★★★

からしのきいた八編
素人が突つけば痛くてジメっと沈下しそうな話題が、劇的に生き生きと立ち上がる視角をもって切り込まれている。さらっと流す短短編から、ややじっくりといたぶる中短編まで、どの話も刺し具合が適度で芝居としてのムラもなく楽しめた。「現実」と地続きである所がミソだ。舞台の簡素な設えや、「裏」なはずの黒幕の仕切りの向こうに人が移動してるのが見えたりも、適度な風通しだと感じる。役者の佇まいも良い。お話は即ち問題をどう切り取り、評したか、というものとして、観客側に着地する。それゆえ、個々のお話にそれぞれ感想は湧き、それじたいが作者の提起した問題にコミットする事となる。
一作品だけ挙げれば、、ホームレスを扱った「今夜は住所不定」、渋谷区の条例の話題も含めてリアルに厳しい現実をなぞっている。しかし舞台であるマックの店員(外国人バイトと正社員)が、私達がそうあってほしいと思い描く人物に描かれていた、と私には見えた(現実にはもっと無理解で、当たらず触らずの対応にとどまり問題は自覚されない)。現実離れしない限度で考えられる最も温かいお話に仕上げたこと。それは「見放さない」眼差しに私には感じられた。 他のお話も、突き放して「異」なものとして笑うにとどまらず、どこか問題に踏み入っている。その具体的な場面としてそれぞれ立ち上がってみえるのだ。
短編が面白くある可能性が、こんな素朴な姿で現れてくれたという感じである。

猥り現(みだりうつつ)

猥り現(みだりうつつ)

TRASHMASTERS

赤坂RED/THEATER(東京都)

2016/02/18 (木) ~ 2016/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

お馴染み中津留節ににんまりしつつ、「自粛・自主規制・空気読みしない」この劇団が「日本」という集団に叩き潰されないことを祈る
今回の題材は宗教(とりわけイスラム)。これをめぐって論戦活発、言論を使っての神経戦がとある商店街の異国料理店内で展開する。
 中津留氏の書くものと言えば社会的な事象を真正面から取り上げ、B級映画的とも評される意想外の展開で楽しませる(そこが賛否両論であったりする模様)。人物たちはいたって真剣で、ドラマのリアリティからすれば笑えて良いところ、鬼気迫る演技で笑う余地を与えないというギャップが、TRASHならではの独特な味の源なのだろうと思う。事実、「笑えない」現実はある。問題をあぶり出す状況設定や議論を押し進める台詞に長け、あるテーマを巡る問題群を洗いざらいテーブルに載せ切る… これはなかなか出来る技ではない、というのもリアルな現実ではそんな言葉は吐かれないからである(朝まで討論でもない限り)。中津留氏の戯曲は人がとにかく喋る。観客の気を引くようなフックを繰り出し、論点が次また次とシフトし、つい見入らせられてしまうが、当然ながら、その結果人物の行為としてはそこここに不自然さを残す。近年のお笑いに多い、笑う対象であるところの「きわもの」が突如出現したかのようになる。私などは思わず「うわ〜」と笑う。深刻な問題を考える脳と、奇妙な人間の行動を見る脳は、同時に働いている。この違和感を展開の面白さでカバーする手腕もあるし、作品によっては違和感が限りなく小さいものもあるが、今のところ私にとってはそこがTRASHの持ち味になっている。
TRASHを観る者はこの両のバランスの一方が犠牲になる可能性を承知しておくべし。この劇団の突出した価値が「現実」への即応性にある限りは。…以上は、一応(私としては)褒め言葉である。

カゲキ・浅草カルメン

カゲキ・浅草カルメン

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了

満足度★★★★

浅草東洋館へ初潜入
喜劇の聖地・浅草は漫才の常設小屋・東洋館、その入口には「客引き」をやる作演出・望月氏の姿あり、客席をみれば五十がらみのおじさんおばさん、はたまたオタク風の者ら、「場末」的演出に総出で一役買ってるよな劇場にて、これも浅草の地に似つかわしい歌あり踊りあり、サービス精神に徹した芝居が飲食自由・嬉しい休憩付きで上演されていた。
 ドガドガプラスは昨年唐ゼミに作品提供したのが望月六郎氏(観れなかったが)、「芝居もやってるのだ」と知って今回初めて観劇できた。
 序盤は劇団が擁する若い役者がキャッキャと元気にやってる、、とだけ目に映っていたが、中々どうして徐々にそれぞれの役柄が見えてくると、それぞれがうまい。出はけも多くテンポの早い芝居だが台詞は澱む箇所一つなく、役にハマり切って小気味良いシーンも多々。もっとも皆、艶やかな着物を召して「女」を売り、男もホスト並みに化粧と仕草で「男」を売る、女郎に悪党のダークヒーローな演技の範疇に留まるとは言えるが、華ある役者にしか出来ないとも言える。 
 「お話」は一本筋が通って破綻は無いが、幕末とカルメンというイメージの飛躍ぶり、舞台に漂う雰囲気は唐十郎に近い。

ネタバレBOX

カルメンの物語が幕末を舞台に展開。主な登場人物が、悪党弾左衛門一味、島流しから戻ってくるガルシア(我流史荒)、その妻である軽女=カルメンと女郎仲間、彼女に虜にされた男ドンホセ(干愚鈍)、彼を慕う弟分、江戸一喧嘩の強い勝小吉一家、彼の息子勝驎太郎(後の海舟)・・といった具合。物語の箱をひっくり返したような多彩さは、堅気とヤクザ、体制と反体制、幕府側と尊王側といった判りやすい図式には全く回収されない。人物の殆どがアウトロー的であり、彼らへの批判的視線(説教がましさ)を入れずして物語を語り切っている所が私などには新鮮だ。テーマは個々がそれぞれの道を生き切る事であり、それが呪われた宿命であれ個人の欲求であれ、行動こそ尊ばれ、正当化こそすれ後悔せず、道を全うした果ての死に際は潔い・・要は皆が皆格好良いんである。屈折の極みにして妖気漂うカルメンがやはり中心にあって迫力満点。その屈折したあり方が、終盤の本人の語りで明らかになり、屈折しているにも関わらず観客の理解する所となる。
 従ってこの芝居は「分かる話」だが、雰囲気は唐十郎を彷彿とさせた。舞台崩しも短調の音楽と照明の頻繁な変化による転換もないのだが、今回ガルシアに唐組の久保井研、他にも唐ゼミの役者が客演しているのは自然に思われた。
 産休で離れていたらしい女優が子を産んだ女として登場し、1歳位の赤子を抱いて出ていたが、劇団事情を知っているのだろう、少なくない客から自然拍手が起きていた。この赤子が天然に快活で子役ならぬ赤子役が存在するなら、十分タメを張っていたのが笑えた。
親の顔が見たい

親の顔が見たい

かわさきシアターカンパニー

川崎H&Bシアター(神奈川県)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★

役者力、堅実。
マンション内の、にしてはそこそこの(70人程入りそう)スペースで、ぶち抜いたコンクリの梁が低い天井に残るのも黒く、劇場としての味わいを有しているのにまず驚いた。
「親の顔」は数多くやられている演目だが、やはり味のある戯曲だ。中学生にしてはかなり過激ないじめ内容や、援助交際など、ドラマ的な演出を「盛った」ようにも捉えられるが、うまく解消していく戯曲だ。
新たな証言や物証が、事実を徐々に露呈させるが、その段階段階で、その状況に見合っただけの抵抗を親たちは繰り広げる。そして退路を断たれて事実に向き合わざるを得なくなる・・という意味では、「悲劇」に始まりそれは覆らないが、ある意味ハッピーエンドである。
 この劇団は、口跡もすっきりした堅実な役者が押さえる所を押さえた演劇を繰り出し、劇の終盤にはある「高み」へと観客を押し上げていた。 開幕当初に見られた、各自の仕事をしている感の演技(横同士の反応がやや堅い)は、しかし個々の「仕事」を延長した先に、しっかりぶつかり合う形が出来ていた、そんな感じ。演技を機能的に捉えているのか、やれる事をこなせばここまで持って行けるという事か・・不思議な感覚だ。
 一点、最後に残る夫婦の対話、そして退出の場面。 芝居中では夫に抵抗した妻だが、最後には夫の後について行く、古典的な妻を演じる日常に帰って行く、という処理にしていた。 簡単には変わらない・・それが脚本に書かれてもいる一つの結語だが、それでも何か変わって行くのではないか・・そう感じたい観客に、この演出は「簡単に変わらない」ことを形として強調してみせたのだろうか。

オペラ研修所修了公演「フィガロの結婚」

オペラ研修所修了公演「フィガロの結婚」

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★

オペラ初心者
入門として適当かと観劇に赴いた。ある程度「長い」ことは覚悟していたが、14時開演、休憩25分、終演17時半。ラスト10分前で退出せざるを得ず、それで知ったこと。
・・「フィガロ」のラストの畳み込みは10分の中に凝縮されている(17時半終演が正しければの話だが、スタッフは「きっかり」だと言っていた)。
・・二組のカップル(若い婚約者同士と、伯爵・伯爵夫人)が、女性二人による計略(困った伯爵を懲らしめるための)により、自分の「本来の相手」と会っていながら(変装しているため)違う相手だと思い込んでいるところ、暴露され、大団円というラストだ。
 音楽はドラマに使われると叙情性が増す。素で聴いてピンと来ないポピュラーソングが、実はこのドラマに使われていた・・とドラマを見て発見し、「売れた」理由が分かる。つまり、音楽にとって、それがどんなシチュエーションのために作られたか、という事はとても大切な要素。
 「フィガロ」のモーツァルトの楽曲には有名なものも多い事だろう、耳にした事のある楽曲もあった。だが何よりの「発見」は、オペラ歌手の声の「色」=感情が、音楽に乗って明確な(芝居上の)表現になっていることだった。ほぼ、開演から終演まで、鳴り続ける音楽。台詞っぽい音の並びのときと、芝居の中でも「歌っている」歌との違いもある。「歌」は心情吐露であり、個人の感情というのは切々と迫ってくる(ミュージカルに同じ)。
 「フィガロ」はモーツァルトが愛される原点のようなものではないだろうか・・。ドラマの力、侮れず。モーツァルト・イメージというものがここで出来上がれば、この原点との差異によって他の仕事の意味付けが可能で、しばらくは持つ。(芝居もそうかも) その1ヒットが奇跡的に出来た訳でなく、モーツァルトは名曲を多産した人だからこの法則を持ち出すに不適切かも知れないが・・
 間違いなく人類の貴い遺産だ。
 
 あと二点ほど、考えた。日本人がこれをやること、について。「北京ヴァイオリン」という映画があったな。たとえば東南アジアの国に「フィガロ」を自分の声でやろうと志す人は居るんだろうか・・?(反語的疑問にあらず)
 もう一点、オペラのほとんどは、「知ってる話」である。見に行く人にとってはなおそうである。完成度の高いドラマ(と音楽の融合体)を、あの美味しい料理を、味わいに行く。 「演劇」という世界では、古典、定番的なものは、本流でないと思う。発展するものとして、「現在」に呼吸するものとして演劇はあり、そこに最大の価値と快感がある。ただ、「定番的な」ギャグやドラマ図式を借りていたりするし、時にはカレーを食べたくなるのは否定できない。 
 さて「フィガロ」は自分に何をくれたのだろう・・・。モーツァルトの楽曲は私の中に快感を埋め込んだ。 喜劇調の中に、時に心情吐露、感情の高まりが挿入されると、ハッとさせられ、思わず感動する。しかし、冷静に考えれば伯爵夫人が伯爵に振り向いてほしい心情なんて、どうでも良いではないか。だがドラマという仕掛けの中では、美しい歌声が意味を持ち、なぜか迫ってくるのである。「あそこ、よかったな・・また聴いてみたい」と、いつか思うかも知れない「快」が、あった。なぜそう反応したのか、について、しばらく考えてみよう。

ネタバレBOX

付言すれば・・この公演を観劇リストに選んだのは、東京イボンヌの「モーツァルトとマリーアントワネット」観劇の影響に違いない。 かの舞台には「演劇」として難点が多々あると渋いコメントを書いたが、あの劇が、生の楽団の演奏、声楽家の声によって本格的に「引用」しているモーツァルトの音楽に「主役」を譲っていると見えたからだった。 だが天才の所産を前にそうしない訳に行かない、やむにやまれぬ思い、というのも恐らくある、とも想像されたので、どれほどの求心力を見せるものかを垣間見に行った訳である。
 演劇の中にモーツァルト楽曲を「引用」する場合、すでに楽曲が持つ魅力、威力(皆が知る)を踏まえて物語が語られるのなら、実際に楽曲を本格的に鳴らす必要はなく、物語を先へと語り進めればよい、と、やはり思う。 だが、本格的に鳴らさなくては理解できない要素が「物語」にある場合は、鳴らす必然性があり、その効果を持つ。必然性にかこつけて、贅沢な演奏を聴くことが正当化される訳である。
例えば・・・モーツァルトの音楽にケチを付けるやつがいる、害悪だとののしる者がいる、そんなやつらに、さてそのお膳立てをした上で、いざ!と、聴かせてやる。溶解して行く彼らの顔が、演技が、痛快なことだろう・・。など。
 色々と意見を言わせる芝居というのは一定のレベルを印している場合が多いが、イボンヌの昨秋の舞台はそれに違いなく、オペラなるものの小さな扉を押してみようとさせるだけの力は、あの「演奏組」(楽隊と声楽家)が擁していたとすれば・・・。
 余談が過ぎた。


ザ・ドリンカー

ザ・ドリンカー

浮世企画

駅前劇場(東京都)

2016/02/17 (水) ~ 2016/02/22 (月)公演終了

満足度★★★★

キモノ芝居。
それなりに精魂使った投稿が、「登録する!」をクリック後、「このページは表示できません」となり、戻ると白紙になっていた。 この盛況ぶり(アクセス数の多さ?)、良きことながら・・ 理論的にでなく文体として微妙に表現した文章は再現できないので、箇条書きにする。

・西岡未央、どこかで見た・・そうだ新国立研修所で・・と芝居終盤で発見。主役の伊達暁もその何期か前の。他に猫ホテ・村上航、ナイロン猪俣、あと一人顔は一致しないが見たはずの役者・・・ 実力ある役者を使っての「浮世企画」の浮世とは、江戸の事? 氏素性知らぬユニット。
・文学座・山谷典子、俳優座・美苗ら「演じて書ける」才女の一人、今城氏の出自も知らず(こちらの方が経歴は長いかも?)。
・幽霊噺。・・語り部&男の幽霊役という難物が、猪俣による力技でどうにか成立したという点を除けば、各場面面白く観た。
・芸の道を求める主人公狂斎は絵師だが、その闇を描き出している。描きたい欲求に正直に描いてきた彼の、酒と饒舌に暮らす日々が西南戦争以後、死に怯える日々となる。虚しさにさまよい、絶望に漂う彼は、死んだ妻と死んだ後妻の霊、そして先の男の霊とのやり取りの中で、再生して行く。そこでは彼の裸の姿、弱さが暴露される。
・この場面は台詞劇としてぐっと深まるが、所詮幽霊とのこと、安定を獲得したその後の彼にとって、それは一つの通過儀礼、いわば「夢落ち」と言える。
・メッセージ的には、人は安定を欲するなら逆説的に、自分を極限に追い込み、何かを追求する所に身をおかねばならない・・といった風である(書き手の意図とは異なるかも知れないが)。名も無き失敗者のそれでなく、著名人のそれは、「成功の秘訣」的な教訓に変換されかねず、しかしそうした「極限」を欲する若者は存在するし、「極限」になり得ない現実に突き当たり、その神話を既に放棄した者も居るだろう。
・「闇」が印象に残る。台詞と、照明、音響のリズムが作ったのだろう、悪夢のある瞬間のようなイメージが、感覚的に(肌触りのように)残っている。人間の心の闇を舞台上にイメージとして表出させ得た。演出のうまさ。
・本に戻れば、時代や人物の情報の台詞への織り込み方、台詞回しの切れ具合もよろし。
・何yり、狂斎と交わる人物たちが魅力的に形象され、それぞれにおいしい場面が作れていた。役者たちの面目躍如。
・歴史に何を汲み取って行くのか・・作家の仕事をまた、覗いてみたい。

同じ夢

同じ夢

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2016/02/05 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★★

久々にこれは赤堀戯曲の世界だ・・と気分をよくして客で埋った場内を眺めやった。
小劇場=僕らの味方(単に「小さめの劇場」以上の意味がある)、そこへ行くとシアター・トラムは「小さめ」組でも、最近ちょっと違うんじゃない?(スタッフの対応など)・・・と、訝ることの多々あった所、このたびこのカンパニーであたかもスズナリのShampoohat!の世界が立ち上がっているのを見ると、それで何となく劇場まで見直してしまうから不思議だ。いつもは神経質な顔してる黒い制服のお姐様方の顔も少し緩んでいる。そうでなきゃ、である。
 ビッグネームの俳優たちであった。が例によって観劇前に情報をチェックしない癖で、赤堀作品とだけを念頭に、まず場内に入るとリアルな作り込み系の舞台装置で、思わず美術担当の名を見ようとしたがパンフは別売。最後まで判明しなかった俳優の名も含めて、観劇後に確認した。 分からなかった俳優とは女優二名。木下あかりは名前を認知していなかったが、麻生久美子は、麻生系の顔であるマイコかと思っており、声が麻生に似ているのでオヤこんな声だったか・・とそんな按配。 後方席からは「声」と身体の動きの情報のみで、顔の表情までは見えない。が、俳優が誰か、という余計な意識を最後まで斥けた上質なストレートプレイであった、というのが言いたい結論だ。 ただ麻生久美子の件は、そうなると主人公が好意を抱く女性、清純に見えて意外と摺れてる(煙草吸ったり)といったキャラが、麻生がやる役の定番なので意外性に欠く(つまり麻生と判った上で見たら先が読めた可能性あり)。
 だがそういった小さな憾みはともかく、赤堀ワールドのストレートプレイはこのメンバーが劇団を構成しているようにマッチングし、心をこめて当て書きした痕跡が見えた。 その意味では「キャラを活用」した訳でもあるが、現代口語やスーパーリアリズムの方に寄った芝居にとってキャラは重要。しかし決してキャラに「頼って」いない、役者の魅力をむしろ引き出していた。

 最後にはほのぼのと終わるドラマだが、「毒」がそれと意識されない程ベースに染み込んでいる(そう感じさせる余地がある)ため、最後に少々ほのぼのしても許せる気になる。 一見奇妙な人間たち、欠陥だらけの人間たちは、現実の社会よりも少しだけ周囲に分かりやすくその欠陥を気づかせてしまう分だけ、奇妙に見えるに過ぎない、という事は先刻承知で、その奇妙さ具合を見届ける体験が、赤堀戯曲の舞台の中身だと言ってよいかも知れない。 自分ならちょっと恥ずかしくて表に出せない部分を、暴露するのを注視しているのである。
 彼らは外的要因で何らかの救済を受けることなく、絶望的な破綻を回避してどうにか人間らしく立つ場所を確保する。今回の舞台では、登場する皆が、最後は、その瞬間だけかも知れないが「同じ夢」を見ているかのように見える。芝居としての慎ましい大団円が善である理由は、ここに描かれる人々の地続きに、非情な現実がぼんやりながら、確実に見通せるからだと思う。
 そして劇の終幕を感じ取る頃合、ドラマの舞台となったリアルな台所と居間、そこに仕込まれた細々とした品を一つ一つ見始める自分がいた。 リアルに「世界」が立ち上がった快楽を、そこにある物たちを目に刻みつける事で確かなものにしようとするかのように。杉山至のこんな具象な舞台は初めてだ。そしてここを包み込んでいる劇場を見回す。客席も見回す。
いや~芝居って、本当にいいものですねェ。。
(The Shampoohatの公演もぜひ)

鈍色の水槽

鈍色の水槽

ロデオ★座★ヘヴン

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/02/09 (火) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ロデオ☆二度目
十七戦地舞台「花と魚」+1、ロデオ前作「幻書奇譚」と同作者の舞台をみて、今回。いずれもミステリーの構造に、独特なオチ、それが成立するための世界観や思想についての劇中の議論。総じてそれなりにしっかり「落とす」手腕と、現代人にとって関心のあるテーマについて議論を試みるあたりに、一定の才能を感じる。
 コンパクトにまとめ、そのタイト感がよかったりするが、今回は「説明しきれてなさ」が勿体なく残り、いま少し粘って書き込んでよかったのではないか、と思ったりした。それはそれで良さが削がれてしまうのかも知れないが・・。

ネタバレBOX

人間と他の生物の異種交配による子が、人間らしく生きているなら、彼と人間の交配による子はもっと人間らしく生まれてくるだろうから心配ないんじゃないか(もっとも次はイルカ側に近いかも知れないが)・・と、考え始めると荒唐無稽なフィクションではある。
ただ、種の境界(ひいては様々な境界)を乗り越える、というテーマが流れているので、もっと過激な展開・・周囲の者も「異種愛に目覚めて行く」とか・・があっても良いのでは(一つの比喩であるので)、とも。
彼の地

彼の地

北九州芸術劇場

あうるすぽっと(東京都)

2016/02/12 (金) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

見届けた。
かの地出身としては罪深くも初演を見逃し、再演に歓喜、but,ステージ数少ないなァ・・ その少ない一人として見届よう・・ という事で懐かしい地名の出てくるお芝居を堪能した。
 「地域発」の「ご当地ドラマ」企画の中では、名所旧跡を無理やりに取り上げる事なく、当地の「現在」の生活感覚・風俗を軸にした作りがなされていたのが特徴。 それなりに踏み込んだ、バラエティに富むエピソード(フィクション)が織物のように紡がれている。 人間の暗面を見据える作家の視線は健在で、北九州は十分に都会ではあるが、「都市⇔地方」というありがちな図に還元される物語でなく、当地に「現代」を見出し得るドラマであることにより、光った舞台となった。

ネタバレBOX

北九州弁のネイティヴと、そうでない人が違和感なく混在する様。
 語尾「・・っちゃろ! これ北九州弁?」 正解は博多文化圏になる(と思う)が、東京人が関西弁使うのと同様、「どぎつさ」(鋭角な感情)を緩和する効果。
 懐かしの皿倉山・・これをサラクラヤマ(サを低音程、ラ以降を高音程で平板=アスカヤマに同じ)と発音していたが、私の周囲では「サラクラサン」(ラクラを高音程で言う=タカオサンに同じ)であった。(正式にはヤマなのだろうけれど)
 同地出身のうずめ劇場は在京で目にできるが、「飛ぶ劇場」は未見であった。 今回中心的な役を演じた同劇団俳優を通して、離れて久しい我が?北九州の空気を呼吸した気がした。 極々個人的感慨であるが。。
Opera club Macbeth

Opera club Macbeth

オペラシアターこんにゃく座

吉祥寺シアター(東京都)

2016/02/05 (金) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ナイトクラブでマクベス
ピアノ、フルート、パーカッションの楽隊が下手に控え、「マクベス」なのにどちらかと言うと軽快な音楽。初演で林光は作曲に苦労し、歌稽古は大変だったという(パンフより)。今回はリベンジ、とも。悲劇か喜劇か、難しいバランスの戯曲だった。酔った男が迷い込んだクラブでマクベスが上演される。観客は一人。いつしか男はマクベスになっていて、最後に印象的なオチがあるが、この二つを繋ぐ途中経過をどう描くか。戯曲としてはうまく書けたのか。酔った中年男がマクベスに重なって行く必然性に難があっては問題だが、観客の想像力が埋めるにしても、一方で厳粛に?進行して行く事態(マクベスのドラマ)をないがしろにも出来ない。男のドラマがマクベスに合流するお膳立てがしっかりなされていないので、マクベスのドラマに観客は没入しつつも男が出て来ると違和感を生じてしまう。そうした不調和も「不思議の世界の出来事」として軽快な音楽でまとめようとするが、そうするとマクベスのドラマ世界と不協和をきたしてしまう・・ そんな事で「苦労」があったのかと想像された。
役者はうまいし飽きない演出も施されていたが、スッキリしなさも。難しい挑戦をしたものだ、という感想。

No.32「米とりんご」

No.32「米とりんご」

KARAS

KARAS APPARATUS(東京都)

2016/02/12 (金) ~ 2016/02/22 (月)公演終了

満足度★★★★

勅使河原メソッド
舞踊は何を目指すものぞ。・・と問うてみる気にさせるがKARAS的たる処だろう。・・とは、果たして褒め言葉か(筆者はそのつもりだが・・)。 振付:勅使河原三郎とあり、師匠・佐藤利穂子のラインの先、つまり師の後を追う弟子の現在形=通過点としての今の形が見えた。つまり、勅使河原三郎語のボキャブラリーというものの存在が、みえた。でもって、このメソッド(実証者が勅使河原であり佐藤)による動きはそれ自体美しさ・不思議さ・軽妙さを醸す鑑賞に堪えるもので、その域に達しようと日々研鑽する鰐川枝里、という存在が確かにある。 のだが、勅使河原語(teshishとでも)を駆使したもう一つ別の「形」がそこにあるようにも見えた。振付:勅使河原は恐らく彼女を自分のイメージを再現する道具としてでなく彼女から発する何かを汲み上げているのだろう。「語」の使い手としては、ネイティブの正確な発音に達することはもはや目標でなく、ピジン語としての道を歩き始めている・・みたいな。
 それは何か、というのは端的に選曲された音楽に表れていそうだが、音楽のセンス自体は師匠のもの(恐らく)で、音楽が持つ崇高な完成度と、本質的に脆弱である人間の身体との非対称関係の中に、身体を人間的に輝かせる根っこがある、という「感じ」が流れているように思った。
 若く、動きのスピードは速い。荒い息遣いを洩らしながら、疾走して踊り終えた。後に何が残るかと言うと、彼女という存在以上に強い「メソッド」の存在感。この場を選んだ彼女がこの場所でどう育つか・・ 何となく楽しみではある。といった舞踊素人の感想であった。

屋上のペーパームーン

屋上のペーパームーン

オフィスコットーネ

ザ・スズナリ(東京都)

2016/02/10 (水) ~ 2016/02/17 (水)公演終了

満足度★★★★★

オフィスコットーネ☆大竹野正典作品
ここ最近の2公演3作品の大竹野作品のいずれにも魅了され続けだが、その一昨年「密会」「海のホタル」をみた私の勝手な理解は・・・ この凄み、代表作を取り上げたに違いない。おや「屋上のペーパー・・」?大竹野作品再び。柳の下に何とかではないが、一段落ちだろうけれどそれでも観たい。仕方ねえ・・・。 記録を見ると、以前にも2,3作を上演していた。
心から、嬉しい時間であった。
ノワールな話だが、見るべきものを見、語るべきことを語っている戯曲と感じる。描かれているのは一介の、現実にある人間の範囲を僅かも「盛って」ない、リアルな人間。この「リアル」には小っぽけで愚かな、というニュアンスもある。だからこそ、数時間のドラマの中での彼らの帰趨が喜ばしい。涙を催さずしてこの感動は、何だ。。
作家の作品群への興味は愈々増せり。

ありがとねえ!

ありがとねえ!

梅舟惟永企画

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2016/02/11 (木) ~ 2016/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

快活な演技
「ろりえ」は解散までに一度も観れず。役者的エネルギーが放出せずに鬱積した分だけ、燃焼物がなくとも自らを燃料としてめらめらと炎を上げるのか。梅舟という初めて目にする女優が、役者を続ける事に関して一票入れさせるだけの「届く」表現で爽快な燃え方を見せていた。
 4作家のテキストを得て、それなりの完成度を示していたが、戯曲の世界を忠実に立ち上げる、という所が目的でなく(そこまで高完成度な戯曲じゃない訳で・・)、このテキストの中でどれだけ俳優の魅力が見せられるか(俳優目線で言えばテキストを読み込んでいかに突っ込んだ芝居が出来るか)・・、そのためのフィールドとしての4小編。(もちろん、幼稚なテキストは幼稚な演技を引き出してしまう訳で・・、書き手も頑張ってはいる訳で・・)
 梅舟は4役をそれぞれ的確に演じ分け、それゆえ「同じ人がやってる」ようにも見えず。己を消し、役を生かしている。潔さ・歯切れよさ・快活さが「演劇的」質も高めている様が、見てとれる。
 テキスト如何より俳優の如何を評価してしまうのは何故・・。(「女優の生き様」的オーラがそうさせるのか・・)

青春の門〜放浪篇〜

青春の門〜放浪篇〜

虚構の劇団

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2016/02/03 (水) ~ 2016/02/17 (水)公演終了

満足度★★★★

恥ずかしい台詞も数打ちゃ?
大島渚の映画(「日本の夜と霧」など)に大学生の頭でっかちで意気がった左翼的な台詞が頻出する。独特の文体だ。それを思い出した。劇中にある「学生嫌悪」の対象としてサンプルになるのは、三島由紀夫が東大で全共闘学生と交わした討論の映像(本にもなっている)。これを見ると、頭の回転の速さや思考の周到さを競ってるような、それでいてどこか「明るい明日」を信じていて、君たちの本質はその「安心」の土台にあるのだろう、その居心地の悪さを払拭しようと悲観ぶったり理屈をこねくり回してるのだ、それでいその言動は結果的に君たちの得るべき地位を正当化しているんだぞな。。そんな突っ込みをしたくなる発言、要は「恥ずかしい」台詞というものが、かつて日本にもあった。(もっとも彼らはその世界観の中では真剣であったに違いないし、議論しない現代の日本の方が病んでいる。ただし議論の内容の吟味は別の話)
 「キューポラのある町」とか「青い山脈」も戦後らしい気恥ずかしさを醸すが、微笑ましい。これに輪をかけて屈折させたのが、上のそれと言えるか。

 鐘下辰郎が中原中也・小林秀雄らを題材に書いた作(汚れつちまつた悲しみに・・)を、先般桜美林大で観て圧倒された記憶が生々しい。こちらは昭和初期の文人たちの言動で、中原の一見「痛い」「恥ずかしい」台詞を、己を信じる力をメーター振り切るまで放出することで超克し、そのエネルギーによって「感動」に変えていた。
 この衝撃をもう一度と今回、虚構の劇団初観劇と相成った。ハードルは高い。

 さて今作は「演劇」が社会運動と渾然一体となっていたある時期のある場面を切り取った話だ。 五木寛之の原作にどの程度忠実かは分からないが、大学の演劇サークルのメンバーが中心となるドラマなので、現代の役者にも取り組みやすいものだったかも知れない。

 しかし桜美林の鐘下組が凄すぎたためか、今回は物足りなさも残った。戯曲は鐘下氏の書き下ろし、演出は千葉哲也。今回の「虚構の旅団」企画は「演出」の外部依頼が主眼との事だから、鐘下演出だったなら・・という選択肢は無かったわけだ。しかし肉薄しつつも届かなさが見えたというのが正直な感想で、「惜しい!」。
 左翼的世界を、揶揄の対象でなく、暗面を抉り出しながらも最後は明るく肯定的に描いたドラマは珍しい部類だと思う。

 舞台の設え、客席は出入り口を見る側に横長に組まれている。床よりも面積を広く占める二つの長方形の台(高さ40cm位か)が、機能として面白かった。 床と台それぞれにフタ付きの四角い穴があって、人がそこから登場し、出はけに多用されバタンバタンと開け閉めされる。その穴に入った役者が、外への階段に抜ける扉から出てきたり、雑遊は色々出来る劇場のようだ。

ネタバレBOX

役者のダメ出しはネチネチやりたくないが、「惜しい」との思いが強く、少しばかり。。
 ぶっちゃければ千葉氏が助っ人俳優として呼び込んだ、映像畑の三俳優が私としては不満。 学生役と若い少女の女優ははまっていたが、人生の厚みを出してほしい三人、ヤクザ役の男性と、その女、食堂のおばさん(元活動家)がもう少しだった。・・といってもよくやってはいるのだが。。
 ヤクザ役の男性は難しい役どころ、というのは演劇サークル学生10人の「敵」として存在する一方、かつては「活動」をやっていて挫折したか転向したかでヤクザをやっている、という設定である。脚本の問題かも知れぬが、悪者を彼一人に負わせ、他は舞台上には登場しないのである。色々受け止めねばならない事情だが、どことなく若さが出てしまう。学生らを怒鳴り散らす叫びも単色で直線的、若さだ。 もっと屈折して「読ませない」雰囲気が無きゃ、脚本が持つ年齢的広がりが出てこない。
 ヤクザの女も同じく、若さが見える。彼女は主人公の青年との対比で言えば、圧倒的に世間擦れしてなければならないのだが、線が細い。炭鉱、夕張と聞いて不意を突かれたような彼に、何を感じたのか・・ 同じ匂いを感じたか、あるいは青年の望郷の眼差しを感じたか、今は母親として包んでやりたい思いがよぎるのではないか・・といった演技が「形」には見えてこない。
 そして最重要人物、食堂のおばさん。この人もかつて「活動」に青春をささげていた設定だが、確かに役年齢なりにやや年配の女優が起用されていたが、若干キャラ違い。民衆の心も知り、それゆえ「革命」など到底無理だと悟ってもいるだろう苦労人が、学生らが決死の行動に出る姿をみて、年甲斐もなく心を動かされる、そういう人物は、もっと硬柔使い分ける練達な風情をまとうのではないか・・ また重い腰を上げるのには相当なものがある、と見えなきゃ、話の腰骨が湾曲してしまう。よくやってはいるのだが、「硬」に傾いていたように思う。その結果、最後にダイナマイトを巻きつけて登場した瞬間、笑えない(その原因は一人の負わせられないと思うが)。ここは痛快に笑いたかった。。
 ありきたりな取り組みでは、この最後まで「恥ずかしい」大量の台詞の臭気を、爽快さに変えることは出来ない、それだけ難物な本であったというのが結論になるか。
しあわせな日々

しあわせな日々

双身機関

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/02/05 (金) ~ 2016/02/07 (日)公演終了

満足度★★★★

しあわせとは。
Oh les beaux jours(仏)という題らしい。美しい日(々)。 以前観たALICAの上演も同じく中央に盛り上がった山の頂上に腰まで埋まった女優(ウィニー)が伏せていて、開演と共に起き上がって語り始めるパターンだった。時々男(ウィリー)が一言返す。美術は金氏徹平氏、男優は福岡ユタカ(ミュージシャン)を起用。休憩をとって二幕には女優は胸まで埋まっていたが、時間経過というより「徐々に埋まって行くみたい」程度の変化で、さほど深刻なイメージは無かったように思う。金氏氏の作った山は家電とかさまざまな物が入り組んで置かれ、時々崩れて大きな音を立てて床に落ちたりする(裏の操作で落ちる仕掛け)ので、「何かが壊れて行く」感じを表現していたのだろう。女優の語りは身体との距離があり、全てが比喩のように見えた。
 こちら双身機関版は、最初「同じ」との印象から観る内に「違い」が見えてくる。 女優の語りに温かみがある。夫への愛情の形、現状への折り合いのつけ方が語りに滲んでいて、「ああ、こういう話だったのか」と改めて気づく。
 この芝居の数少ない物語的要素は、一つは一幕から二幕への「埋まり方」の変化、そして夫(恋人?)の寡黙な中でも幾つかの発語を、どう作るかで夫の人物や彼女との関係性が謎解きとして浮かび上がる部分、あとは彼女の語りが徐々に明かしていくもの(といっても劇的な何かが起きる訳ではないが)。 ウィニーの一人語りがほぼ全てである。
 ベケットがこれを書いた時代の通念、風潮、事件、もしくは演劇的状況がきっとこの作品の下地に恐らくある。というのも、この芝居がこれ自体完成された美をたたえているのかどうかと言うと・・疑問である(そこは意見の相違がありそうだが)。従って、これを今やるというのは、ベケット的には日本でやるなら日本に置き換えた「しあわせな日々」をやるのが正解なのではないか・・と、戯曲をきちんと追えていないが、そういう印象である。
 女優の演技と、美術的な成果を評価。

神奈川かもめ短編演劇祭

神奈川かもめ短編演劇祭

神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2016/01/29 (金) ~ 2016/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

Cブロック。一番出来の良かった回、と審査員。
だそうであるが、傾向の異なる4作品をどれも面白く観た。好みでない作品にも良さがあり、理屈を拒絶した、感覚のみで感じ取るしかない作品の中に私は大きな可能性をみて一票を入れたが、観客の大勢は「分かり易い」芝居の方に集中した。
 審査員の持ち点は、配分がそれぞれにゆだねられており、4作品に一票差しか開けなかった審査員もいれば、大胆に一つに多く点を入れた人もいた。観客票が大きく偏った後からしてみれば、審査員は勇断により大胆に点差をつけるべきだったのでは・・とも思うが、点差をあまりつけないのは「つけがたい」との表明であったかも知れぬ。
 企画としてはユニークで、韓国からも2グループを招き、結果的にその一つが優勝したとのこと。
 司会進行にプロの男女(一方はFM横浜のDJ)がつき、劇団紹介・会場へのメッセージを読み上げながら、二人で軽く会話を交わして親密圏を会場内に作る。初めての対面の緊張の緩和になっていたのではないか。そうした演出や、休憩をはさんで審査員5名の講評を一作品ごとに聞くのも面白い。イベントとして、中々よくできた企画だと思った。
4劇団の作品内容については、また時間があれば。

プロキュストの寝台

プロキュストの寝台

Pカンパニー

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2016/01/27 (水) ~ 2016/02/01 (月)公演終了

満足度★★★★

珍しい題材
ギリシャの伝説の挿入によって、幕末のある名主の一家を中心に据えた物語が、不思議な光を放ち、扱いにくい題材を扱うのに成功していた。その題材とは「宗教」である。「神が下りた(憑依した)」とか、天啓によりある日突然「教祖」になるとか、科学主義から「危険」とレッテルを貼られそうな状況が展開していく。しかしその前段、被支配階級として嘗める辛酸・理不尽が描かれているため、宗教はそうした「状況」との関係で生まれた事も仄めかす事になる。「盗人は生きている」との台詞を最後に言わせているのを見れば作者の意図は明確に思える。
 新しい宗教が「救済」の可能性を擁し、同時に体制批判もはらむことに、封建体制によって浸みこまされた自発的隷従の人々の目が気づく。その結果、宗教一家はついに村八分にされる。 「新たな宗教」が敗北に帰するのは、キリストの時代も同じであった(イエスは旧弊を糾して救済を行ったゆえ処刑された)。
 一方社会(国家)に認知された宗教は徐々に飼いならされ、国家に取り込まれては教義じたいが国家の都合に左右される。 実は多くの「問題」は宗教そのものにでなく、それを扱う人間や社会のほうにあるのではないか・・。
 この芝居は「宗教」について語っていると共に、いやそれ以上に、その発生を必然たらしめた世の矛盾や非道、理不尽を問題にしており、それは自然なことだろうと、ただそれを言いたいのだと思う。
 それにしても嶽本氏の脚本は骨太で硬質な印象が強いが、Pカンパニーの役者は人々の「生活感」の中にしっかりと台詞を落とし込み、リアルかつ膨らみと色彩感のある舞台に仕上げていた。(そういえばPカンパニーは初観劇)
 

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