ルンタ(風の馬) 〜いい風よ吹け〜 公演情報 劇団態変「ルンタ(風の馬) 〜いい風よ吹け〜」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    12年ぶりの東京公演
    「変」な「態」を体感しに行く。もっとも、後半しか見られず(無念)。 無声、身体パフォーマンスなのでカテゴリーとしては舞踊に近いかもだ。音楽の存在が大きいのも同様。上手前のエリアで、三人のミュージシャンががっつり生演奏する。key、sax、bass担当が、各自色んな楽器(主に打楽器系)を駆使し、リノリウムの床と三方を黒幕に囲まれた黒い舞台での「現象」と、呼応しあう幻想的・土着的・イメージ探究的な音(楽)を響かせている。
     総勢十数名の肢体障害の男女が、それぞれの色(青系幾つか、赤、緑)のタイツ姿で、丸刈りでない者は皆髪をオールバックになでつけて登場する。多数の移動の形は横転がりで、ゴロゴロ、ペタリと回転する。
    多彩な場面が照明と音楽の転換によって連ねられ、主宰の金満里(自身も出演=女性)が綴った言葉のイメージを具現した場面が展開して行く。

     音楽を筆頭に優れたスタッフワークによる舞台を、最終的に実現させたものは恐らく主宰の金氏の情熱、あるいは資質だろう。最後の挨拶に「寝そべった」状態でマイクを持って喋る風情に、そのことを感じた。

    ネタバレBOX

    舞台上の「現象」をどう感じるかは、各人の感性だが、どう理解するか、どう認識するかを考えつつ観る、そんな時間であった。
    「異文化」との遭遇の際、自分の中に消化できないものがそこにあって、自分の中に取り込む時間というものを要する。 障害のある人とは自分は日常的な付合いがあるが、タイプの異なる障害、というだけで、そこには峻厳な山にも見える「異文化」がある。例えば、転がって移動するしかない人間の「生きる場」(喜怒哀楽のある日々のくらし)と、私たちの生活の場とを、並立に、同じ方を向いて生きる共生の関係として見ようとすると、「生きる」の内実を洗い直し、定義し直す必要に駆られる。
     しかし苦痛をもってでなく、心地よさの中にそうした考えを巡らすことが可能なのは、演劇に備わるべき娯楽性の証しだろうか。
     俳優についても考える。「あること」に限定すればこれほど雄弁な表現者は居ない・・という人がいる。俳優の力は「演じ分ける」事にある(マルチが良い)と考えられているが、「演じ分けている」事への感動は、「芸」に対する感動であって、手段としての俳優の身体による「表現」の価値は、舞台(作品)の中で持つ役割に徹してこそ生まれる、という(演劇における)「原理主義」?に立てば、この劇団のある俳優がある表現において持つ雄弁さは、著名な俳優の「ある場面」での演技と、等値かもしれない・・。
     舞台に立つ人間が容姿端麗なのは自己顕示がより強いという俳優側の意思の反映なのか、それが演劇にとって有用であるゆえの淘汰の結果なのか・・といった事にも考えは及ぶ。
     そうした諸々にもかかわらず、存在感を示す彼らを、とにかく「見る」しかなかった。得難い時間だ。

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    2016/03/13 03:26

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