満足度★★★★
ループを抜け出でよ
「犬と串」初鑑賞。会場も初の武蔵野芸能劇場、なぜ「芸能」か(「芸術」劇場は数多あるが)にも興味が・・。堅固な公共建造物だが、入口から清潔感あって風通しよい雰囲気。「芸術」でないからか?「黒」っぽくない。客席の傾斜もゆるく、席をがめつく配置してない(割とゆったり)。いわゆる「小劇場」が持つ、異界へ潜りこんで行く雰囲気が皆無。舞台の中身ほうは、学生演劇的な熱量、粗っぽさ、突抜け感といったものが、真正の小劇場に合う印象ではあった。
芝居・・ 体調の関係で不覚にも前半かなり寝てしまった。散見された「後半の繰り返しがしつこい」とのコメントが本当なら、惜しい部分を逃したことになる。後半を重点に見た私には、長いという印象は全くなく、ただ劇のディテイルが気になった。 すると、前半は破綻すれすれをスリリングに飛行し、後半になって冗長になった・・というのが全編を観た場合の平均的感想になるだろうか・・。後半の「SF的世界」(本編?)のお膳立てとなる前半では、「過去」と「現在」のエピソード説明場面は、中々テンポよく(夢うつつのなか)台詞もわいわいと響いていたから、ストーリー語りとして雄弁だったのだろうと推察する。一方後半はストーリーの進行としては停滞し、ネタ見せが主となっていたかも知れない。
話は(確か)1998年、小学6年のませた「天才」子役ワラビが、仲間(子役ら3人)とともに自分らで映画に撮ろうという事になるが、早すぎる青春の頂点を迎えた12歳はその18年後、三十を迎えんとするのに自堕落に引きこもり、他の3人を呼びつけては過去の「栄光」(撮った映画の一場面)を何度もしゃぶっては消費する毎日だ。四人の一人、紅一点のサクラ(二階堂瞳子)が今なお主人公との近しい(恋人ではないが)関係にある所、サクラを得んとする発明家?が挑戦状をつきつける。彼が発明したのは人の内面を覗く事のできるカプセル。これはワラビ自身にかぶってもらい、サクラに彼の中身を見てもらえばきっと彼に幻滅し、見限るに違いない。それのみを理由としてだったか朧ろだが、発明家と仲間らが彼の「内面世界」を旅するのが劇の後半の「SF」場面となる。
休憩を挟んで舞台装置はガラリと変わり、ワラビの「内面」=バーチャル世界を案内人と共に歩いている。舞台中央を中心に時計回りにグルグル歩くという古典的な演出。正確には忘れたが、彼が悔しんでいる事が何かが判る部屋、何が好きかが判る部屋、などとあって、そこにサクラの存在が見え隠れする、かと思いきや一切なく、代りに彼が敬愛するらしいプロレスラー(橋本真也?)が登場する肩透かしのネタの後、後半の大部分を占める部屋に辿り着く。そこでは主人公ワラビが小6の時に撮った映画で一番気に入ったシーンが、放っておけば何度も、延々と繰り返す(小6時代の四人は別キャスト)。このループが続く限りメンバーたちは現実世界に戻れないのだという。案内人はそう告げて(退屈なので)「休んで来る」と去ってしまう。こんな設定聞いてないと、発明家に怒りが向けられるだろう所そうはならず、メンバーはループに変化を起こそうと介入を試みる。だが虚しく天使の羽のボンデージ○○ちゃん(にしおかすみこ改め)が登場し「余計な事をしたのは誰だ!」とお仕置きとなり、円環は崩れない。このくり返されるシーンは「繰り返し」によって笑いを誘うもので単独では意味不明である。
さてループを維持しているのはワラビ本人だから、本人に変わってもらわなきゃ、となれば、何と本人もそこに登場と相なる。色々あって本人が心を入れ換え、また始まったループのシーンに変化が生じる。というか、周囲の者が介入しまくってなし崩し的に変えられ、それでも天使が登場しなかった、という事でもって本人が変化した事を表したか、混沌としていて覚えていないがそんな所である。
ストーリー的には、発明家が「ループを解消しないと抜けられない」設定を予め加えた事で、既にワラビが「前向きになる」変化に向かって総力動員される展開は明らかな訳で、「良くなった」ワラビとサクラを切り離す事などできない訳で、発明家は自らキューピットを買って出たに等しい訳で・・・ 物語の可能性としては、ワラビが皆から「見放される」可能性だってある。その危機感と背中合わせで、自堕落な彼の帰趨を見守る、というのであれば「物語に見入る」姿勢は持てただろうが、その可能性は「ループ」の設定で封じられた。その時点で後半は言わば「退屈な時間」に入ってしまってはいる。これが「冗長」の原因だろうが、主眼は「笑い」なんである。意表を突く展開でこの「予定調和」の時間を最大限引き延ばしている。
ただ「物語」も無視できない。ループをくり返す生活への嫌悪、否定的な感覚は自然だ。もっとも、繰り返しは重要であると人類の祖先が囁いている気がする事もある。いずれ、自ら望まないループは抜け出るしかない。抜け出ねばならない。この感覚が誰しも痛く判る部分だけに、この荒唐無稽を通り越した学園祭のような出し物は成立していた。