赤い竜と土の旅人 公演情報 舞台芸術集団 地下空港「赤い竜と土の旅人」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「原発こわい」と口で言ってみよ。
    印象・・・真剣さ、誠実さ、若さ。

    ネタバレBOX

    最近「原発」の話題を避ける風潮があり、その結果被ばく地域の住民保護や移住の権利を云々したり、より正確な実態を究明しよう、といった話に繋がるようなドキュメントやドラマも、敬遠されている。
     そうした心情が多くの日本人を支配している理由を、「言わずもがな」と一蹴せず、考えて言語化したほうが良いと思うのは、禁忌の領域が拡大させることは自分の首を絞めるに等しい愚かなことだと思うゆえだ。
     で、端的に言えば被ばくは健康の逆だから、触れたくない。だが、本当に健康に注意するなら、放射能被害の実態を可能な限り知ろうとするはずだ。実際には人々は「健康であろうとする」選択肢を奪われている、ないしは放棄している訳である。
     そこには、曖昧なら触れるまじ、という基準はありそうだ。例えば、放射能は測りづらい、という事情。しかしそれ以上に、放射能に言及すべからず、という「空気」から、正確な情報を得る可能性が低いことを悟っており、結果「判らないのなら触れないほうが良い」、という判断なのだと思う。つまり、「放射能問題に触れるまじ」との「圧力」に、負けているという訳なのだ。
     だが、そういう事では身も蓋もないから、例えば反原発派が「必要以上に騒ぎ立てている」といった説を採用し、後ろめたさを回避している、という事もあるだろう。 ただ、国内に間違った意見を持つ者が勢力を得ているなら、本気で彼らを諭し、原発推進を唱えるべきだ。そうしないのは「反原発派が必要以上に力を持っているから」「自分が悪者にされる」と、ここでも言い訳に使われるが、実際にはそれを本気で信じていないからだろうと思う。
     ・・・こうした奇天烈なあれこれは、結局のところ「被害の実態を明らかにする」という方針を実現できていない、という既成事実から、「風桶」式に導かれている現象なんだろう。

     自民党改憲案がもし通ればこれは歴史的な「えらいこと」だが、これが如何にえらい事かを見るより、野党共闘を人々が応援するのかどうかと、風見鶏のように「空気」を読んでいる。でもって当然ながらマスコミはこれを白々しい視線で報じるので、「空気」としては自民党支持が多数派と見える(日本ではテレビ報道を信じる人の割合が8割と言われる。諸外国では50%以下)。 大樹になびく心情が巷を漂うさまが見えるようだ。 

     遠大な前置きが果たして相応しいかどうか・・・だいぶ引かれそうだが、今回の地下空港の舞台で、久々に「原発」の恐怖に触れたと感じた。それだけ、如何に普段この話題が遠くなっているか、という証左なのだろう。
     イギリスはウェールズの西端の島には原発があり、2013年、経年劣化した原発を新調する取引相手に日立製作所の名が挙がった。 この地を作品製作のために訪れ(助成により)、今回の作品が出来たという。

     岬に行けば竜(赤)の声が聞こえるという片足の青年ロイの物語は、「旅人」がその村に持ち込んだ「窯」、その窯に棲む竜(黒)の存在、青年が恋をする旅人の娘、青年のおばさん(母は昔死んだ)、窯の力がもたらす「経済効果」に目をつけた事業家、その妻、息子、村長、役人その他を巻き込み、紡がれて行く。 劇団桟敷童子の拠点すみだパークスタジオが、ややなだらかに組まれた客席以外はがらんどうに椅子だけがあり、役者は開場時刻から場内で発声練習しながら案内などをやっているが、いざ劇が始まると無駄の無い統一した挙動に入る。椅子を使った場面転換、本域の歌をはさみながら、最初牧歌的にみえた「物語」が徐々に暗雲が垂れ込め、最終的には悪夢の様相を呈するに伴い、語られている「窯」が、原子炉の隠喩である事が明白になる。
     このお話が含んでいる警鐘は、日本では既に起きてしまった原発事故についての言及を促すが、恐らく観客は受け止めがたい思いで劇場を後にしたのではないか。俳優の演技に拍手を送りつつも。
     もし、この歪な状況を変え得るとすれば、やはり「語ること」「言葉を見つけること」で、息をするしかないのだと思う。
     日本は今危うい所にいる。実際の危機より、その危機への対し方について。

     「敢えて」語ってみせた地下空港の今作には、その意味で驚き、「語られない」奇妙さが、改めて思い出された。 そして「語らない」のは自分も同罪である。

    0

    2016/03/06 04:33

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大