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ミッドナイト・イン・バリ ~史上最悪の結婚前夜~

ミッドナイト・イン・バリ ~史上最悪の結婚前夜~

東宝

シアタークリエ(東京都)

2017/09/15 (金) ~ 2017/09/29 (金)公演終了

満足度★★

酷評である。こんな高いチケットを、なぜ買ったのかと、終演後に思い出すと、そうそう。荻野清子の音楽、また、テレビドラマで高名な脚本家が台本執筆・・。和製ミュージカルの本格的なヤツなら、一度観ておくのも・・との期待で購入した。いそいそと雨の有楽町へ足を運んだが、感想を述べようとすると、思わず口を閉じたくなる。
ただ、荻野さんへ一言。
「見せ場(歌の場面)がそもそも少なく、あっても必然性が薄く無理やり捻じ込んだ歌場面、いやはや盛り上がらない事この上なし。これほど湧き上がって来ない脚本では、あの程度でも致し方なかったでありましょう。私はそう解釈しています。」

ネタバレBOX

なぜこういう事になるのか・・ありゃりゃこりゃりゃ。である。
TV界の著名脚本家の「鳴り物入り」?と思ったが、実のところ仕事にあぶれたのでフィールドを(一段格下の?)舞台に移して再起を図るという事だったのでは?と邪推してしまうほど、本が面白くない。
予想出来る台詞ばかり。そして、笑いを狙った台詞の、「笑いだけではないよ」というひねりもなく、単発で萎えてしまう。「それだけ?」「おいおい」と心で突っ込みばかりが入る。急にシリアス調になってじんわり感動、お涙頂戴・・って、涙腺より汗腺に響いて生汗がにじんでくる。
作=岡田惠和。その欠陥だらけの本を演出する人=深川栄洋も、映像業界の人(主にTVドラマ)。平板な舞台処理は、学芸会の延長だ。
中で、栗山千明が健闘。次いで、溝端淳平。ロートル2人が「思うように動けない!」を登場時点から言い訳にしているような動き。真面目なんだろうけど下手クソな浅田美代子(特に歌がダメ。誰のキャスティングだ?)、歌は歌えるがソロとアンサンブルは別物かな・・の中村雅敏は、芝居が下手、というより、コメディなのにぜんぜん面白くない台本に「滑らされている」、というのが正確なところだろう。
結婚を控えた若い男女の「不和」も取ってつけたシチュエーション。男の父と、女の母が初めて出会う設定から、二つのカップルが生まれる話だろう事はほぼ予想できるが、その予想を忘れる位のエピソードを挿入して最後に大団円、と行きたいところ、二人を接近させる運びに苦慮している筆裁き。
最初の出会いのとき、浅田母は中村父を怪訝な目で見、父が挨拶をしようと迫ると逃げるという、挙動不審があるが、その原因も大したもんじゃないだろうと予測され、そしてその通りになる。さんざ逃げ回った挙句、ようやく向き合って「(ひょっとしてあなたは)チャッピー?」と浅田母は中村父に問う(何、チャッピーって。渾名のチョイスのセンスは一体どうなってる。いきなり「チャッピーって何?」の歌に突入。こっちが赤面)。相手が(自分の知る)「チャッピー」だと分かったから逃げていたのか、逃げ回った後、気づいて聞くのかも、判然としない。「逃げる」行為が、母と父のどういう経過に由来するのか、結局よく分からない。納得行く「謎解き」につながる「謎掛け」ではなく、その場で客の目を引こうという「だけ」の、姑息な展開だったというわけだ。
若い男女の方も、バリにまで来ていながら、不和が生じてしまう原因も判然とせず、従って解消した時の喜びも薄い。というか、観客として殆ど関心を寄せることができない。嵐の夜、人は思わず本性を露呈してしまう・・というイメージと重ね合わせた可能性はあるが、全く嵐の夜、という雰囲気が出ていない。最初は印象的な落雷閃光があるが、その後は背景の色も、音響も、その設定を助けておらず、昼か夜かも天気か曇天か雨天かも分からない。居心地悪く4人が同じ空間にいる気まずさも滲み出てこないのだ。こうした諸々は、単なる手抜きなのだろうか。
唯一彼らの「実力」を感じさせたのは、ほぼドラマが(煮え切らないまま)収束したあと、ウェディング衣裳に身を包んだ二組のカップルが、中央通路の両側から登場し、輝かしい照明を浴びてたたずむ。私は通路のそばであったので覗き見たが、芸能人オーラというものは確かにある。そういう照明の当て方でもあったが、普段の芝居で役者が通路を走っても、こうはならない。
一応「よい話」なのであるから、大方の人間は「許す」ことだろう。私は料金との兼ね合いで、不満を言う。別の芝居も目白押しの中、これを選んだのは、自分だ。恨むなら自分を恨め。
川を渡る夏

川を渡る夏

オフィス3〇〇

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/09/15 (金) ~ 2017/09/24 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/09/15 (金)

すみだパークスタジオが騒がしかった。正面と両脇に張った黒幕がふわりと揺れたり、向こうで人が動き物が擦れる音がしたり。これが気にならないだけの役者の飛躍力。言葉遊びが小気味よく、絶妙。危うい飛び道具・若松武史のあのしゃがれ声は元々の声か? 名は聞けども実は初見のこの俳優、新生物を見るインパクトである。何だこの存在は・・!?
双子(一卵性双生児)の論理=自分が思っていることを相手も思っている・・だから「赤がよかったのに遠慮して相手に譲った」とは、自己矛盾だがそこから始まるのが人生でありドラマ。
死後の世界とも行き来するハチャメチャ騒ぎだが、10年間の昏睡状態を経て蘇った主人公(当時高校生で今オトナ)の「自分探し」が、個性的な導き手(級友や教師、家族、伯父さんなど主人公の過去と密に関わりがある)を同伴者として展開するという軸が保たれ、突拍子もない場面の転換が脈絡を超越しても空中分解しない。迷路を辿るように難解にも関わらずどこか郷愁に満ち、おかしな者たちが健気に生きるおかしみがある。そして増水した川がもたらした不可逆な運命、すなわち「死」が、はじめは生の、やがて死の顔をして現れて来る。揺らぐ地面、暗い水面。たたみ掛けるように進む時間を、視覚が必死にとどめようと稼動するのは左脳でなく、腹か、あるいは体全体だろう。全身で受け止めたこの芝居を、私は愛する。愛さざるを得ない。

ネタバレBOX

初日の賑わい。著名な劇作家、演劇人、劇評家の顔も散見され、「渡辺えり、観られてるな~」と妙な感慨。
きゃんと、すたんどみー、なう。

きゃんと、すたんどみー、なう。

青年団若手自主企画 伊藤企画

アトリエ春風舎(東京都)

2017/09/15 (金) ~ 2017/09/24 (日)公演終了

満足度★★★★

素舞台に近い使用法の多いアトリエ春風舎に、作り込まれたリアル美術が嬉しい。
畳の間から縁側、短い渡り廊下で奥の家屋とも続きになる。
縁側を降りた奥の下手は抜き板を縦に重ねた時代がかった塀。
畳の上の円卓に麦茶のポットとグラス、、やや斜めに傾いた日射が縁側を照らす。
開場時間(開演20分前)から既に奥側に二人の作業員が座り、部屋にはタオルを被って足を見せて横になる何物か。時折会話していた二人の声が、前説の後に大きくなり、上々の日常芝居の開幕。

余程時間が余っているのか、作業服の比較的若い男女の間にプライベートな時間が流れ始め、長い沈黙の中、見合う二人のキスの寸前に寝ていた某が奇声を上げて起き上る。(この絶妙なタイミングをどう図ったのか未だ不明。)

芝居は伏線と謎解きの構成もあるが、どちらかと言えば伏線抜きで強烈なキャラが登場して展開を見せるので、場当たり的、というか小説的?、ロードムービー的?予測できなさがある。そのためか、きちんと仕込んだ謎掛けの「解き」が今一つだったりもする。
その典型が序盤、男女の関係への想像を促して閉じる一言「元気出しなよ・・」という女の台詞。含蓄があるが、後の「謎解き」が待たれる「振り」にしては、中身はぼんやりしていた。・・男の傷心の源は震災時に帰宅困難者となった妻を自宅で出迎えた時に妻が発した咎めるような一言。・・二人は間もなく離婚し、その後妻は死に(死因には触れず)・・云々。
肩透かし気味なのだが、この「分からなさ」を大きな欠陥とは感じない。最初に張った伏線が意識に上らない程に、あれこれ強烈な刺激(謎掛け)がぶち込まれるからだ。「場当たり的」展開は他にも粗さを残したが、問題はその粗さより、話しがどのあたりに収斂して行くか、にある。

伊藤毅企画、前々作(第一作)以来の観劇は、第二作を飛ばして三作目。気まぐれ気分で観てみたら、障害者とその家族という設定が同じであった。
第一作の「アリはフリスクを食べない」では、軽度の障害を持ち作業所で働く兄と、婚約者の家族が出した条件に従って別居を決めてしまう弟、つまり家族内のやむ無き断絶が描かれる一方、彼に理解を示す女性スタッフが、彼との同居(結婚)を望んでいるらしい(が言い出せない)仄めかしの芝居をラストに置いていた。

今作も「障害者を抱える家族」問題が軸になる。
面白く観たが、この問題の視点から眺めると、物足りなさもある。またこれ(障害者)を扱う難しさを認識した舞台でもあった。

ネタバレBOX

(障害者を登場させた秀作として『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』が思い浮かぶ。障害を「問題」の源としてでなく「武器」として捉えていたから。主役は身体障害の青年だが、友人の軽度知的障害の男も信憑性ある行動が描かれていた。)

さて伊藤企画の今作も、「軽度」の知的障害のある人物が中心となる。その女性・雪乃(村井まどか=年齢は行っているが童顔)と、若死にした母親に代って姉の世話をしてきた二人の妹・・次女ツキハ(月遥)、カスミ(花澄)という家族構成で、その実家が舞台である。(父親についてはあまり語られない)
今日は次女の結婚・転出の日。冒頭から縁側に座るのは引越し業者の従業員らしいが、事情あって(妹の転出を受けいれられず姉・雪乃がパニックになったらしい)、一時休止状態になっている。

芝居に登場するのは、次女が結婚する一風変わった婚約者、その同級生(上述の男女が勤める引越し屋の社長)、雪乃が通う先に居る自閉症系?軽度知的障害のあるボーイフレンドなど。

ドラマ上の矛盾は多々あるが、最大の問題はやはり「知的障害を持つ人」の描き方、演技だろう。
今回の舞台では、「普通とは何か」という問題提起のために障害者が駆り出された、という印象がある。有効な問いであれば結構なのだが、果たしてどうだろうか。
「普通」を根底から疑い、相対化してきたのが60年代からのアングラ演劇であると私は思っており、しかしながら相模原事件この方、理詰めでこの問いに答える事が一定必要な状況にあるのかも知れない、と一応は理解する。

にしても、やはりこの芝居の「障害者」雪乃とそのボーイフレンドに対する、周囲の対応のほうに、違和感がある。とても長年一緒に暮らしてきた人達とは思えない初心者のそれで、つまり「現実を切り取った」絵としては、緻密でない。
頑張ってはいるが、障害者を演じるのがそもそも難しい課題である。彼ら障害を持つ人の「人物」如何で、筋書というものも変わって来るはずで、「どういう彼らなのか」・・描き切れていない所で問題提起は可能なのだろうか・・(これを言われちゃ実も蓋もないが?)そう思ってしまうのが正直な所だ。

「こういう障害のある人を抱えると大変だネ」という素朴な台詞が、芝居の終盤に吐かれる事にも違和感がある。当事者でない引越し屋に言わせた台詞ではあるが、このテーマを掘り下げるに当たっては、これはとうに「終わった」問いであり、終盤に改めて持ち出す類ではない、と私は思う。「大変なことは何十年も前に分かっている」が当事者の思い。「そこから先」の歩みの方がうんと長いし重要なのではないだろうか。

相模原事件の彼の手記をみると、食って寝て垂れ流すだけの「心失者」(植松被告の用語)を見て、彼らを「生かす」意味を見出せなかった事がわかる。
しかしこの芝居に登場する軽度の知的障害を持つ彼らが、周囲を「疲弊」させる程の仕打ちをするのだと仮にしてみよう。もしそうなら、如何に周囲が真摯に向き合わなかったか・・当事者なら考えるだろうと思う。私の知る軽度の知的障害を持つ男性(ちょうどこの芝居に登場する彼らに近いだろうか・・20代後半~30過ぎ)は、実に男気があり、寡黙だが周囲への気配りのできる人だった。私は年下の彼の人格に尊敬の念を抱いていた。もう亡くなってしまったが(泣)。それらは彼らが身につけた「処世術」なのかも知れないが、「普通の人」よりは「混じり気がない」ように私には見える。彼らがそうできるのは、自分の生き方、行き方を全うしているからだ、と感じるようになった。短期的な目標しか持てない彼らだが、確かにそれはあり、「やりたいこと」のために彼らは生きている。その点、全く健常者と同じである。
そうであるから、他者を慮る事ができるのだ。
話は脇へ逸れるが、「自分がいかに我慢しているか」を、自分より「劣った」人間に対する非難によって表現するケースがある。我慢して社会のルールを守っているのに、彼らはそれをしていない、守れていない。その彼らが一丁前の顔をして生きている、支援を受けている、優遇されている。その事を許せない心情が「自分の生き方を全うできていない」事に起因していると、気づけるか気づけないかの差は、大きい。気づかせてくれた彼らに私は感謝している。と言って、自分が幸福になれた訳ではないが・・。
それはともかく、彼らには一貫した人格があり、予測可能性が十分にある。芝居に戻れば、何十年も暮らした人達があれしきで根を上げるというのが、「リアルでない」と感じる最大の理由だ。
もちろんこの芝居にも、「普通」を基準にした偏見に対する疑義はこめられているが、投じた石があまりに小さく感じられる。

ドラマ構成の問題で言えば、今回役者一人の降板で台本を書き換えたという。その影響か、最終盤の「やや感動」場面に不自然さと、後味の悪さを残した。
中盤、雪乃が相思相愛の○○君との「結婚」を宣言して「お世話になりました」と、家を出て行こうとする。
「いつもはお母さんと一緒に来るのに・・」と不審がった○○君の来訪が、その展開に繋がった格好だが、二人の決意に対して周囲はそれをただ否定し続け、最後には妹らが「普通の人だって大変なのに、あんたたちは普通じゃないの」という本音の説得となる(この台詞がリアルに出てくるには何らかの特殊な設定が必要と思うがそれは置いておく)。
この中盤の騒ぎを踏まえて、最後。その直前、死んだはずの「母」が三女の前に登場し、三女の本音ほ引き出す。「自分は姉のために犠牲になった(だから結婚もできず彼氏もできない、的な不満)」・・本心を言って泣く三女を、母は励ます言葉を紡ぐ。お前が生まれた時には雪乃はお姉ちゃんしてた(素朴にイイ台詞だ)、お前は自分で選んで姉の世話をしてきた・・これからも、いやこれからは、自分のやりたいようにやりなさい・・。
三女が落涙した後、これを受けた最後の場面である。
引越し屋も婚約者も去り、三人姉妹が居間に揃った時三女は雪乃の結婚を認める宣言をする。ここで終わっても良いのだが、この後の展開がある。○○君をやむなく一人で帰らせた(一人で来れたから帰りも大丈夫だろうと)、その彼が事故に遭ったという連絡が入る。雪乃に化粧をして上げようとはしゃぐ三女と、電話を受けた次女の対比が、長い・・のは置くとして・・次女が三女に事の次第(この時点ではまだ「事故った」という情報)を告げ、事実を共有した二人と、何も知らずに「結婚する」とはしゃぐ雪乃の対比も、長い。もう一度電話が鳴った時、雪乃が「電話なってる」と言い続けても二人は電話に出ようとしない・・。
なぜ電話に出ないのか?これは大いに引っかかる。
事実を知ることで、それを踏まえて雪乃にどう対しようかと、必死で賢明な判断をしようとする・・私はそれを見たかったのだが、二人は耳にフタをしたまま、雪乃の「おめかし」に集中していく。○○君は果たして亡くなったのか、持ち直したのか。恐らく亡くなったという結論になりそうだが、電話を取らない事により、妹の方が「萎えて」しまわないよう、事実にフタをしたのだ、と作り手は見せようとしたと思う。
だがここには重要な問題がある。
雪乃が○○君の死を受けいれられないだろう、という判断を二人が共有している事実がある。それは障害のある彼女らが「結婚などできない」と根拠なく否定したのと同様に、根拠のない事だ。これから彼と会えなくなるかも知れない事実、今の内に会っておいたほうが良いかも知れない可能性、雪乃の「思い」が持続的なものかどうかについての洞察・・そうした「判断を迷わせる」幾つかの要素を、省いてしまう大雑把さが、リアルな芝居であるだけに、気になる。この二人の態度を懐疑的に描く角度を、作者は有していない、と見えた。むしろ二人の態度は美談に収まる、そういう評価が滲む。
「姉の結婚を認める」という妹の思いは、姉の「心」に即した判断であるのか、一般的にそれが良いことである、という判断を彼女自身の中で完結させてはいないか。この事を批判的に作者が描いているのだとしたら、二人がその事に気づく話にしなければその視点は観客に伝わらないだろう。

「こんな重い荷物を背負った二人が、姉に歩み寄っている姿、何と美しいことだろう」という視点。施しの視点であり、妹らが姉からどんなものを「授かったか」という視点がない。必ずや、それはあるはずだ、というのが当事者の感覚だと、繰り返すが私は思っている。

「普通」「健常」といったカテゴリーの実質を解体する言辞が、例えば唐十郎の戯曲には溢れているし、常識という観念を顛倒させる台詞劇ばかり別役実は書いてきた。かの時代から我々はよほど退歩してしまったのだろうか。

・・長々と愚痴をこぼしたが、「障害者=大変」の等式は現在の経済状況、雇用状況との関連でもたげてくる「魔の等式」であり、これにハマれば即、己の首をも締めにかかるのだ。「本当なのか」を吟味する命題ではなく、拒否し続け、その論拠を後づけでも見出そうとすべき、悪しき命題だと心すべきだと思っている。
でなければ(今日も電波を使ってアホな目くらまし演説をやっていた)我が日本国の首相の見え見えの口車にさえ、丸め込まれてしまう。(いや、既に負けてこうなっている訳だが・・泣)
ひとり芝居フェス

ひとり芝居フェス

野方スタジオ

野方スタジオ(東京都)

2017/09/01 (金) ~ 2017/09/17 (日)公演終了

満足度★★★★

閉鎖前の「ひとり芝居」3連荘(チャン)の最終週にようやく観劇が叶った。前回も出た平成マリーの他者演出、フジタタイセイの一席は観ずに終ったが、殺風景な一室を殆ど装飾もせず、しかし次第に堂々と劇場然として見えても来たこの風変わりな小屋を、見納める事ができた。
「劇場を作る」のは何か・・上演される芝居も勿論だが、何よりも観客であるらしい・・そんな事を考える得がたい実例にもなった。
4、5回訪ねただろうか。RAFTや空洞より多い。謝謝である。

ネタバレBOX

芝居はいずれも小編で全70分程。一番手の明良朔は「ゆで卵の作り方」というイヨネスコの作品から翻案した「ゆで卵の作り方と捨て方」。この「劇場」の環境、特性を最も活用し、適合したパフォーマンスで、「ゆで卵・・」(原作)のテキストを劇中朗読しつつ換骨奪胎し、一つの別の芝居となっていた。「劇場」空間の舞台と客席の地続き感(境界の希薄さ)を逆手にとって、微妙な境目の上で遊ぶように台詞を吐く。「卵」は卵子の隠喩で「捨てる」とは排卵の言いだが、自らの「女性」性(ジェンダー)への疎ましさが呟くような台詞の中に滲む。痛い記憶と現在が重なりつつも、困難を超えて行こうとする微かな明るさもある。
雲の劇団雨蛙のはオタク少女っぽいキャラ(黒縁大眼鏡、ストレートロン毛、ミニスカにジャンパー)のいしむらまいか出演、作・演出もそれぞれ劇団員が担当。手描きイラストをめくりながらの「自己紹介」が、生年月日がピッタリ同じというモー娘。の何某と比較しながら進み、虚実の境目が混沌としてくる「明け方の夢」のような短編。
最後は楽園王「よだかの星」、印字されたテキストを読んでは捨てる、変てこな場所で区切って読む、というお得意の演出。原作そのまま(恐らく)というのが見えた時点で、いかに演出を凝らしてもある点数以上には行かない、原作を超えられない、と思ってしまった。まとまりがあり、場面の変化を作るアイデアはあり、クライマックスも作られていたが、「よだか」という作品が、作り手の「言いたい事」とイコールではない・・と、まずそう考える。何か別の言いたい事のために、「よだか」は選ばれた、その背景が知りたいのである。
冒した者

冒した者

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2017/09/06 (水) ~ 2017/09/22 (金)公演終了

満足度★★★★

文学座アトリエを久々に訪問。上村聡史演出のも暫くぶりだ。
周囲が地割れででも削られたような、勾配のきつい開帳場がドンと置かれ、客席はアトリエの空間の二辺を使った斜め三方向から舞台に対峙する。私は下手の端に座って、真横から見る格好。開帳場を下手奥へ回り込んだ足元には、焼け焦げた炊事用具や何かがリアルに置かれてある。その先が劇場の出入口だから、観客は時代を遡らせる見事なオブジェを目にして会場に入る事になる。
開演後はその通路からの出入りがあり、開帳場の上部=上階から張り出した廊下で狭くなった隙き間から這っての出入りもある。
開帳場の中央には巨大な鉄球がぶつかったか中華鍋のような球面のへこみがあり、最初の場面ではこの穴を囲んで住人が久々の贅沢な夕食をとる。人が足を滑らせて転ぶ、足を踏み入れる事で相手に心理的に近づく、などの活用があったが、およそ邸内の床には見えない(床そのものがあり得ない位傾いてるし)奇怪な穴は、被弾の跡にも見え、舞台全体が焼け焦げた色で統一されている。開帳場の正面奥の上は(戯曲では三階建てとあるので)三階の廊下で人はあまり通らない。が装飾の格子が邸宅の内部を表し、存在感がある。その右手即ち壁の突き当たりで直角に曲がって一段下がった通路、その下に奥(玄関か?)へ通じる通路があり、確か上手側の客席脇も出入ルートになり、自由度が高いのが良い。
戦後間もない頃。三世帯が同居する屋敷に、彼が師事する男(この芝居では観察者を担う)を訪ねて若者が現れたことで、人々はざわつき始める。世代的にはアプレ(戦後派)に属し、彼に気づいて響きあうのが同じ世代になる盲目の娘。何が彼らをざわつかせるのか・・。アプレ、と言ってみてふと思い出すのは三島由紀夫、狂った果実・・。戦前までの日本人を支えていた価値体系が崩壊し、ある人々の中に虚無が棲み付く。虚無たる対象は見えず、見えるのは虚無という鏡に映る自分たち自身であった、のだろう。彼らは元来抱えていた本質的な不安定要因におののき始め、狂気を帯びていく。
それを劇的に描き出した三好十郎の筆力、演出と俳優の格闘が、撓みない3時間55分の舞台に結実した。
時代は古いが、全く古さを感じさせなかった。

百鬼オペラ 羅生門

百鬼オペラ 羅生門

ホリプロ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2017/09/08 (金) ~ 2017/09/25 (月)公演終了

満足度★★★★

作家として数年間注目してきた親近感もあって立見席情報に飛びつき、少々強引に予定を組んで観劇。柄本佑を除く俳優と演出をチェックせぬまま当日劇場へ。満島ひかるは次第に分かったが演出家の名は元より知らず、田口浩正や銀粉蝶には気付かず。
「百鬼」の語のイメージに当てた視覚的効果の際立つ舞台美術がまず目に飛び込んでくる。生演奏・生効果音、そして衣裳、舞踊はエキセントリックで暗い物語と親和性が感じられた。
採用していた芥川の小説は、冒頭と最後に「羅生門」、途中「蜘蛛の糸」のさわり、「鼻」「藪の中」は全編語りきる。中心に位置するのは魅惑的な「藪の中」だが、もう一つの物語、これは恐らく長田の創作で、旅をする男(柄本佑)と、旅の途中に会っていた女(満島ひかる)を巡るお話は遅まきの謎解きとして最後に展開する。芝居は最初に登場する男(旅人)の目線で眺めるという構造。

オペラとしては、歌は惜しい所がある。ヒネりの利いた歌、単純に良い歌もあるが、ここぞという場面での歌は歌詞が文学的で、明快な語句が印象づけられる耳に入りやすい歌になっていないのが残念。(誰もが阿久悠にはなれないけれど。・・しかし歌ごとの詞・曲担当が高額なパンフにも載っておらず、不審が湧いたが、どうやら作詞は長田ではなく、歌も披露する青葉市子(シンガーソングライター然と登場)が曲と詞をセットで書いた風で、彼女とコンビらしい中村大史も作編曲として名を連ねている)。
・・この感想が一つの典型で、「判りづらさ(やすさ)」への意識をもう少し持ちたかった、というのが全体に対する感想としてある。

ネタバレBOX

美術作品としては、装置と衣裳、舞踊系の動きの抽象表現、ワイヤー吊りや、時折「出演」する演奏者の佇まいが醸す空気感が、ある統一感をもって大変に素晴しい。だが、魑魅魍魎の棲む異界を表現した全体の雰囲気が、小説「羅生門」の「百鬼が徘徊する世の中」という比喩としてでなく、逆にファンタジーとしての異界(例えばげげげの鬼太郎や妖怪の棲む世界)そのものの表現になっている。従って、「貧困」というテーマ設定とは齟齬がある。
物語のほうは「羅生門」「蜘蛛の糸」は貧困が軸になり得、「藪の中」も微妙な所だが貧困を背景に感じ取ることは可能。そして旅する男が見出す女がその貧困を体現していたのだが、男の女を見る目、「美しさ」に引き寄せられたという設定が、「金のために男と寝る商売女」の性(=すなわち貧困)を超克する論理としては、今ひとつ胸に落ちない。そして「鼻」はやや異質な位置付けとなる。
「藪の中」も基本的には人が真実に辿り着くことの困難、もしくは不可能性、あるいは一つの事実に潜む多様な真実の存在といったテーマとなる所、記憶ははっきりしないが三番目の証言エピソードの展開に工夫が施され、自分の知る「藪の中」でなかった(気がする)。何よりも、三人の証言を、別人が代わりに行なうという設定の意味がいまいち飲み込めなかった。その一人である多襄丸に、旅の男が成り代わる必然性もいまいち読み解けない(なぜ殺される男でなく多襄丸なのかが)。
問題の「鼻」だが、長い鼻の持ち主である偉い僧侶(田口浩正)のその鼻は、遠くからでは見えたり見えなかったりで、そもそも鼻なのか、罰ゲーム的に何かを装着させられているのかが不明で、「鼻」という作品に思い当たるまで迷走した。皆、鼻を指差して笑う。弟子(小松和重)の奇怪な行動癖は師匠を割りと公然とコケにしてよさそうな空気を持ちながら、実は師匠思い、というキャラの一貫性が、ある感動に落とし込み切れず、消化不良。僧侶のほうは著名な俳優がやりがちな「ちょい間」を逐一挿入してテンポ感に難あり。ギャグをやって受けずにしょげる、という一連のネタ(何度か披露する)が、決まらない。堂々とアホ・キャラ(小説の設定とは少々異なるが)でそこだけでも通すような痛快さが欲しかった。
「鼻」は恐らくこの戯曲の中では和ませ役が期待されたに違いない(と後で想像した)異色なものだが、このギャグの決まらなさは、海外の笑いのセンスでOKが出されたせいではないか、と勝手に想像している。
DOUBLE TOMORROW

DOUBLE TOMORROW

演劇集団円

吉祥寺シアター(東京都)

2017/09/08 (金) ~ 2017/09/17 (日)公演終了

満足度★★★★

「円」の芝居を過去2回だけ観ていて、少々残念な思いをしていたが、今回の挑戦。どういう脈絡でなされたのか、不明となれば、舞台を観てみるしかない。
ダンスと、演劇と、表現の軸足が異なる二つの領域にまたがる舞台作品であり、抽象性が高い・・というのは予測の範囲だったが、全体としてどういう出し物であったか・・抽象的な作品だけに直感的な言語でまとめるなら、こうだ。
パンフにはドラマトゥルク・長島確による制作過程の記述の他に、俳優自身のチョイスした言葉(「信頼」など)が並んでいて、不安が過ぎった。作る主体の「個」としての言葉はあっても、舞台そのものを括るコンセプト、メッセージ、言葉が無いのでは?、という不安だ。
ある面で、不安は当り、他方、場面の生み出すアイデアの豊富さには感心した。ただし、長い。冗長な時間が後半に訪れ、アイデアを大胆に削ることを惜しんだ結果に思われた。もっとも削るための基準があればの話だが。
何から始めて何を突き止めたのか。・・私は元来ワークショップの効用を称揚する人間だが、その限界を感じる所もある。今回の作品がもし「演劇集団円」の俳優同士で行なったワークの中で発見した事々の「発表」だとすると、「演劇集団円」すなわち自らについて赤裸々に語るというのが、作品を貫く線になり得ただろう。特殊だが一つの発信になり得ると思う。しかし今回の舞台での主体は(登場人物に名を与えるならその名は、)不特定の個人の集まりであり、顔はあって無いようなもの。人間一般を代弁する、という表現であれば、もっとシビアな側面が欲しい、と思った。
途中、演劇の領域、正面を向いての「語り」があるが、一般的な単語の羅列を、熱を込めて発するという表現が、「動き」を主とする抽象表現とそぐわなかった。具体的な事象を踏まえて、一般的な概念を示す語を発するという場合なら、「事実」と「概念」が引き合うのは自然だが、抽象的な表現の中に、重ねて「概念語」が混じっても、殆ど意味の無い時間となる。その気まずさは、他の場面にもあった気がする。
本格的な「ダンス」に挑戦し、披露したのは最後の最後、その途中で唐突に照明が落ち、幕となるが、ワークインプログレスのニュアンスなら、「何に向かって」のワークであるのかがやはり分かりたい。まあ、勝手に「円の進化」に向けたワークだと解釈し、実現する見通しは薄いと思える「この次」を期待するスタンスで、見守ることにする。(ひょっとしたら本物の進化の途上であるのかも・・それが実証された時は相当なインパクトだ。)

『巨獣の定理』

『巨獣の定理』

かはづ書屋

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2017/09/06 (水) ~ 2017/09/11 (月)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/09/06 (水)

浜尾四郎、という作家の存在を知っただけでも甲斐あったというもの。「新青年」編集長・横溝正史の誘いで探偵小説を執筆し、江戸川乱歩らとも同時期に活躍するが、40歳で夭逝したという。その代表作の一つ『殺人鬼』が今回の舞台のベース。前時代の資産家の女中部屋で、同時進行で発生する殺人事件の推理劇が展開する。即ち、確信犯的?娯楽路線で、始めは「乱歩」の世界かと思わす「時代」の空気感が蟲惑的で、好みである。

ネタバレBOX

芝居が佳境を越え、とりあえずの一件落着の後、長めの暗転があり、明けると3ヶ月後のある朝。表面的な平和と、真犯人を逃す懸念が語られる切迫感が同居する中、満州事変の勃発を知らせる新聞記事が話題に上るという、大詰めの雰囲気も探偵モノ娯楽作品の常道という感じで良い。
が、事件の真相を足早に語る中に、小さくない矛盾(説明しきれなさから来る不自然さ)が一瞬混入し、オヤ?となった。舞台には登場しないもう一人の「探偵」が犯罪に一枚噛んだらしい事、彼は真犯人(らしい人物)のアリバイを証言して、容疑から解いてやった、にもかかわらず、結局自分が逮捕されてしまってなお、証言を覆さない背景には、真犯人との通常でない関係が想定されるが、芝居ではその言及がなく、あったとしてもその伏線が本編に組み込まれていなければ、浮いてしまう。このあたりは、娯楽作品であっても解消して決定版として欲しいと思った。

浜尾四郎の原作もいつか読んでみたい。
イマジネーション・レコード

イマジネーション・レコード

Nibroll

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2017/08/29 (火) ~ 2017/09/03 (日)公演終了

満足度★★★★

nibrollは矢内原美邦を含む異ジャンルのアーティストが集うユニット。ミクニ・ヤナイハラ・プロジェクトは矢内原主宰の「演劇」をやるプロデュースユニットで岸田戯曲賞をとったのはこちら。
・・なのだが素人には二つの区別は曖昧で、よくよく思い出せば、ミクニの方は機関銃のように台詞を吐き出し合う形態だが、nibrollの今作、出演者らが絶えず動き、走り、喋りもする「舞踊」系パフォーマンスも、表現形態の差ほどには、本質的な違いはないように感じたりする。
姿形の美より、行為の質から組み立てられた一連のシーンは、これを踊っている若者たちへ「innocentであれ」と願いを込める演出=師匠の影が浮かぶような、従順な弟子の姿が印象的なパフォーマンスだ。
中央に相撲の土俵位だろうか、照明によって円形にくり抜かれた部分があり、全体の照らし方を場面により塩梅し、計8人だったか、その円を出入りしたり通過したり、最初の衣裳は一枚ずつ脱がれて行き、不可逆な時間を刻む。声を掛け合ったり、グループに分かれて歩を進めたり、孤立でなく共同して何かに取り組んでいる様がある。これに何をイメージしたか・・逼迫した事態に手をこまねいている余裕はなく、とにかく何かしなければならない・・頭を働かせよ、動け、そこに人が居る、手を組め、前に進ませよ・・。人の皮を一枚剥げば、孤立ではなく、この「実態」がある、との説か・・?分子が絶えず振動している様?眼球も人の心理も同じく動き回り、とどまる事がない・・事実の描写か願望か。
何かを感じたがはっきりコレ、というものに着床せず、ふわりとした感触のままを持ち帰った。

ネタバレBOX

冒頭は闇の中から1(右足を前へ=強く)、2(左足を後ろ=弱く)とリズムを刻む集団の足音が響き、ようやく上がってきた照明が正面(客席側)を向いて歩く踊り手達を照らす。
紆余曲折?あって終演に近い事を知らせるMが鳴ると、照明が落ち始め、円の上で彼らは冒頭と同じ歩を刻み出すが、リタルダンドで照明のアウトに合わせて止まる、という演出だった。私としてはまた暗闇に戻り、同じく力強い足音が響く、と行きたかったが・・そうしなかった理由を考えながら劇場を後にした。大した考えは浮かばないが、〆メに拘る自分とは?
幸福な動物

幸福な動物

温泉ドラゴン

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2017/08/23 (水) ~ 2017/09/03 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/08/28 (月)

「君は即ち春を吸ひこんだのだ」観劇(シライケイタ出演)、その少し前に劇作家協会新人戯曲賞受賞で、名を知っていた原田ゆう。「君は即ち・・」はもう一歩という印象だったが、一度観たきりで見逃している温泉ドラゴンの分業体制公演(作と演出が別)を観たさに出かけた。
架空の国、時代の設定でテーマは戦争。戦火は及ばない地方ではあるが、政治は否応なく入り込む。
藤井由紀(唐組)の客演も気になる所、ホームとはまるで印象のかけ離れた役柄で、スッピン(多分)で通した潔さとも相俟って記憶に刻印される視覚体験だった。
架空の国や時代を設定した芝居は、リアルで通せば破綻が起きやすく「笑」に逃げたくなるところ、(気になる部分は多々あったが)ストレート勝負でぶつける演出が、やはり正しいと思える締めくくりになっていた。
時折流れるラジオ番組(放送室の風景も再現)、反政府運動、違法な手段で難民を亡命させる商売に手を染める女、劇中で夫を失う女・・。リアルなフィクションである演劇の図面引きに、作家が注いだ汗の跡が見えるような気がして、拳を握った。

金色夜叉『ゴールデンデビルVSフランケンシュタイン』

金色夜叉『ゴールデンデビルVSフランケンシュタイン』

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2017/08/18 (金) ~ 2017/08/27 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/08/27 (日)

金色夜叉と、フランケンシュタイン、無理やりな取り合わせは無理やりにせよ同舞台で存在できたようであるが、ゴールデンビルが判らなかった。
今回も賑々しく歌、踊り、様々な穴(出入り口)からの登退場と「見得(切り)」の演技に明け暮れた浅草の夜であった。
本としての「未完成感」(尻切れトンボ感?)は残るが、それがさほど気にならないというのは何だろう。B級だと蔑みつつB級な快楽を求めて足を運ぶ自分が居るわけである。
そんな中、役者はしっかりとジツリキを蓄えているようであり、他人事ながら(いや実際そんな感覚)有能な俳優諸氏が「卒業」などせず、荒唐無稽なドガドガワールドにある面で厚みを与え、熟成させて行くなら、それは是非観てみたいものだ。

15 Minutes Made Anniversary

15 Minutes Made Anniversary

Mrs.fictions

吉祥寺シアター(東京都)

2017/08/23 (水) ~ 2017/08/27 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/08/25 (金) 14:00

二度目の15minutesはやはりラインナップに惹かれてつい・・というやつで。だが冒頭二つを見逃し、それでもお得感有り、であった。何やら評判の良い梅棒、乱筆手抜きチラシをよく目にする地蔵中毒、その名を知って早20年未だ未見のキャラメル箱。15分に圧縮されたパッションでの初お目見えは幸福体験である。
懐かしの歌謡に乗せたダンスとマイムでストーリーを語る梅棒は、バイト先の憧れのパティシエに勇気を出してラブレターを書くもタイミングを逸するたびにマイナス志向に陥る女の子を、影で(否、公然と)応援する学ランの応援団たち。恋敵や自棄のリバウンドを乗り越えて恋が成就するべく立ち回る彼らと女の子の「昇ったり堕ちたり」がリズミカルに(音楽に乗っているのだから当然だが)展開する。粋な振る舞いや展開を見せた時に客席から上がる歓声も、見ものだが内輪乗りでなく初見の者でも拍手をしたくなる、うまい作りである。題材と設定と、曲のチョイスが良いが、狙った感がなく「応援団」そのままに爽快な風が吹く。この日の終わりの会(ポストトーク)も梅棒主宰とメンバー2人、トークもノリ良し。
地蔵中毒は脱力系(観る方が脱力する)シュールでエロ禁破りでオチのみ理解不能という大変非効率な仕上がり、敢えて狙っているかという、形容しがたい出し物で、意外に癖にならないとも限らない、独特な空気である。
キャラメルボックスは二人芝居、子供を残して旅行(確か宇宙旅行)に出た夫婦が衝撃音の後15分で宇宙船が爆発するシチュエーションで、息子に残す遺言をスマホの動画で撮り合っている。そのうち夫婦の相手に対する本音(教育方針の違い、その他)が吐露されたり波乱もあるが、息子には本心を伝えたい、という一点で互いに対する愛の確認作業になり変わり、最期を迎えるという「うまい」短編の上演。
見逃した柿喰う客と吉祥寺シアター演劇部(高校生中心)も惜しまれたが、上記3つに加え毎回15minuitesでは良品を(主宰劇団だけに)出すMrs.fictionsの「見せる」短編の計4作、十二分に堪能した。特にラストのMrs.・・の父役の岡本篤(劇団チョコレートケーキ)の独特の味が効いていた。お涙頂戴の逆の線を貫徹し、哀愁が見えそうで見えない、というより想像するしかない背中を客に見せている。客はドライで居ても良く、泣いても良い、・・客それぞれに委ねる柔軟な佇まいに愛があり、内心拍手である。

チック

チック

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2017/08/13 (日) ~ 2017/08/27 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/08/25 (金) 19:00

ドイツの人気作品の移入という。演出は雷ストレンジャーズの小山ゆうな。主役の少年二人は演劇界の今を時めく時生(柄本)、名前から七光な篠山輝信。ヒロイン役土井ケイト。その他(少年の父母など)あめくみちこ、大鷹明良。
チック(柄本)はロシアから転校してきた異端児で、クラスのいじめられっ子マイク(篠山)の目を通して見たチックが描かれ、物語はマイクを語り部として進む。そして物語は、マイクが意識していたクラスの女の子から誕生会パーティの誘いが二人にだけ届かず、チックが誘った車の旅(当然違法)にマイクが同行した事から始まる。旅は二人に不思議で貴重な体験を重ねさせるが、それはチックやマイクを取り巻く学校での境遇(社会での境遇の縮図でもある)や、マイクに居場所を与えない家庭との対比で、実に新鮮で、淡々と描かれる事実の連なりがやがて、人も羨む勇気ある冒険に見合う豊かな収穫となり、マイクが手にしただろう事が分かる。ドラマ上それがはっきりと観る者に分かるようなアイデアがこめられているが、原作を書いた作家の眼差しを、恐らくは観客は知ることになるのであり、二人がやがて日常に戻り、闘う事となる場面で力になるだろうこの体験の本質が何であるか、についても、今や観客の知るところとなっている。
・・これを何と名づけるか。例えば「愛」と呼ぶとするなら、この物語の「大人たち」の姿を探すのに手間はかからない。自分の周囲、人物ばかりでなく疑念と監視を奨励する社会そのものに、これの欠如、排除を見出すことができる。何をもって「闘う」のか・・無力に思える自分たちの実情を思うとき、彼らの姿が脳裏に印象的に浮かび上がってくる。

ワーニャ伯父さん

ワーニャ伯父さん

シス・カンパニー

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2017/08/27 (日) ~ 2017/09/26 (火)公演終了

満足度★★★★

ケラ演出チェーホフ、舞台上の設え(美術)は「まとまり感」と奥行きがあって良い感じ。冒頭舞台ツラでの芝居と、奥を仕切るのはゆったりと天井から吊るされたレースのカーテン、それがふわりと開いて中央の楕円の大テーブルが見える。ロシアの田舎だけに土地だけは広く家屋の間取りもゆったりな、質素ながらに瀟洒な屋内は、宮沢りえを筆頭に登場人物の風格とタメをはってバランスが取れている。
従って、見た感じは良いのだが、宮沢りえ演じる夫人の「田舎暮らしの退屈」はいまいち表現できていない。退屈しなくていいんじゃない?くらいに見える。この都会志向は、近代がもたらした社会構造の問題(チェーホフの四大戯曲にはどれもこの問題が根底にある)に触れる部分で、抜かせないはず。

また、ケラ演出の特徴として、時折(こたびは時折である)そこここに笑わせ所がある。逐一は覚えていないが、ラストの別れの日、夫人が籠の中の小鳥に同意を求めるしぐさが地味にやられていて、本気で笑わせにかかっているのかいないのか、微妙な空気が「ケラ舞台・・」と感じさせる片鱗。
他は割とオーソドックス、かつ、分かり易く作られていたと思う。

ネタバレBOX

チェーホフの4大戯曲には詳しくなく、『ワーニャ伯父さん』と『かもめ』を戯曲を読んだのみだが、この二つはどこか雰囲気が似ており、どちらも後半にピストル騒ぎがあるので混同気味。『かもめ』は一度舞台を観て、あとは『楽屋』に有名な台詞が出て来るので頭の中にイメージができているが、その分『ワーニャ』が霞んで記憶から遠のいていた。従って、ほぼ「初めて観た」に等しい。

とはいえ、読んだ時の印象は次第に蘇ってくるもので、この戯曲の「感動」がどのように成立するかを想像しつつ読んだ事も合わせて思い出した。後半のワーニャの「テンパり具合」がどう観る者の身につまされる表現になるか・・そこが要であり、静かに終わって行くラストの余韻が、「生きていかなきゃね」や「働きましょう」「私たちの苦労がなぜなのかが、いつか分かる時が来る」といったチェーホフ特有の台詞に通じる、人生を諦観しながらどこか希望も抱いている(今なお生きているとはそういう事である)感慨に満たされるかどうか・・それが舞台でどう成立するのかだ。

結論から言えば、最後の静寂の中で事務仕事に勤しむシーンの、長くゆったりした時間に、様々な示唆がこめられていて「終わり良ければよし」とも言えるが、芝居としてはそのようにまとまっては見えなかった。
静的にみえる対話のシーンを動的な行動のシーンに仕上げた技は見事だが、ワーニャの本音が言葉になって露呈する後半以降の伏線として、前半の芝居が位置づけられるように作られたかどうか、やや疑問(それはなくたって成立する、という割り切り方も可能ではあるが)。
私としては、ワーニャが吐露した近代社会の矛盾にも触れる問題(都市と地方の格差や、都市の思想が地方を侵食していく)が、今の私たちに通じる問題として見ることができるか、という部分では、ワーニャの態度の変化は唐突な問題提起と見えなくない憾みがある。・・戯曲の問題が既にあるとも言えるが・・。
ワーニャをどう作るかはやはり難しい・・と舞台をみて改めて認識する観劇になった。

女優陣は言うことなし、主要役の男優に注文。ワーニャ(段田安則)については書いた。老主人役の山崎一は作為的な老け役、まるでギャグ担当だ。著名な俳優でうまいので安心して見られるが、老人には見えない。ラストの別れのシーンで雄弁に、コケてみせるが、女の退屈の根本原因である夫が、相手を退屈させるキャラに見えないというのは、失敗というより意図的なギャグになっている。
「退屈」と言いながら夫人はこの田舎でそこそこ人生を楽しんでる、と見えても別にいいじゃん。100年前の「ワーニャ伯父さん」皆知ってるっしょ。色々遊んでみなきゃ面白くないしこれはそういう企画なの!・・と反駁されれば説き伏せられそうではあるが。
『+51 アビアシオン, サンボルハ』

『+51 アビアシオン, サンボルハ』

重力/Note

WAKABACHO WHARF(〒231-0056 神奈川県横浜市中区若葉町3-47-1(神奈川県)

2017/08/31 (木) ~ 2017/09/04 (月)公演終了

満足度★★★★

重力/Note・・チラシで名は知っていた程度で、目当ては神里雄大作の演目。昨年STスポットでの再演(岡崎藝術座版)をニアミスで逃していたので、ふいに知った公演情報にラッキーと呟き、噂の若葉町WHARFへ足を運んだ。
岡崎藝術座は過去2作を目にして、「評判」の所以がつかめずピンと来なかった。昨年の「イスラ!イスラ!イスラ!」(STスポット)は、長い一人語りを5人がリレーで続ける饒舌なテキストで、語る内容のディテイル掘り下げ具合や何かに、「応用編」的ニュアンスを嗅いだので、基礎編は「アビアシオン」だろうと踏んだというのもある。数年前観たのは抽象度の高い舞台で寡黙、コンテンツも薄いところ、ある実力派俳優の風情(居るだけで様になり何やら意味深に見える)に頼ってどうにか持った作品、正直そういう感想を持ったのだが、作演出の一貫したテーマへの一つのアプローチ、とも思われた。だがその場合はテーマを知らなければ到底解読困難、普遍性に欠けると言わざるを得ないわけで、ただアートの世界にはままありそうにも思え、「アート志向」の強いF/Tトーキョー出品作の一つにも過去名を連ねていたのを思い出して納得したような事だった。
その系統の作品からすると、「アビアシオン」といい「イスラ」といい俳優が身体を動かす間も無いほどの多量のテキストが、作者の創作意欲の大部分を占め、事実今回の舞台も、ダイアローグは皆無、一人称の「私」が喋り続ける言葉を三名の俳優が分担し、何らかの「動き」を付すことで「これはリーディングではない」と、峻別には辛うじて成功していたものの、対話でないテキストを喋る身体の「動き」は、通常の演劇での「内容に即した動き」にはなりえない。
演出はリーディング(テキストを発語する)行為とは別の行為を俳優の身体に要求していたわけだが、テキストの叙述にとっては妨害にもなりかねない前半が形作られ、後半には情景描写のテキストに寄り添った「内容に即した動き」が成り立つ部分があり、音響と動きによって「終わり」が示され、ある種の「演劇を見た」後味は残した。
一人称の語り(登場人物一人が自分の台詞を吐き続ける)は、「地の文」のみが続く小説などのリーディングに近い。従ってこの作品の力は、テキストそのものにある。フィクションではなく作者が実際に見聞きした旅行見聞記に属するこの作品の強みは「実際に見聞きした」事物と、己自身との距離感の絶妙な表現にあり、引き込むものがある。
ただ、この一人称は、本来同化しえない他者のリアルを想像させる媒体にとどまる。文学の領域に思われた。
このテキストに独特な演出をほどこした重力/Noteは、テキストと距離をおきたいのか、親和的なのか、いずれにしてもテキストをよりよく観客に届けるのに成功したのかしなかったのか、様々な試みは見られたが、この芝居の「見方」を提示するべき序盤から前半、「演出」にこだわり過ぎて逆に退屈、というか言葉が入りづらい。演出のし甲斐は無いかも知れないが、客とこのテキストに出会わせることが、このテキストを選んだ使命であって、客が知らないテキストを知らない内に解体してしまっては意味がない・・という基本的な認識に照らせば、演出権限の発動を我慢し、まず最初に丁寧な「提示」、役者という身体に馴染ませることも含めたその時間を用意しなくちゃあかんのでは・・というのが素朴な感想。試行錯誤の結果今回の形になったのだとは思うが。

小竹物語

小竹物語

ホエイ

アトリエ春風舎(東京都)

2017/08/24 (木) ~ 2017/09/04 (月)公演終了

満足度★★★★

ホエイの作品も「珈琲法要」は再演で観たし、割と網羅しているかも・・?という自負は評価にあまり関係ないが(毎回題材もテイストも違うし)、河村竜也と作品提供する山田百次のユニットが二人の実験場でありつつも芝居のクオリティの平均値が漸増していることを感じる。
「怪談」「くすぶるアイドル」「狭い業界」の鄙びた情景が目だった綻びなく見える中に、特に見なくて良い人間模様が目に入って来てしまう・・という気詰まり感を愉しむ(笑う)観劇の時間であった。
霊や「死」が意外に隣合せであるという事実が、オチになるというより身も蓋もなく露呈し、ガイコツ踊りが笑えるのと同じギャップで笑える。
菊池佳南の人物・素材としての安定感は好もしく、プライベートな修羅場が公然と展開する終盤では目に涙、心情は十分表現され伝わるにもかかわらず、深刻にならない天性の佇まいがあって、舞台を大いに助けている。各人、「怪談」番組の出演者としての登場とあって、個性的。また仕事を終えた後に借りた部屋の備品を原状復帰する作業はアトリエ春風舎の現場感で、「裏側」がリアルにみえるのが良い。

シアンガーデン

シアンガーデン

少年王者舘

ザ・スズナリ(東京都)

2017/08/18 (金) ~ 2017/08/22 (火)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/08/21 (月) 19:30

現代の正統的なアングラ、と評したペーターゲスナーの言葉を思い起こす、(ここで言うアングラは恐らく状況劇場のそれに近い。)意表をつく、だけでなく普段気づかぬ本質的な何かに触れる、言葉遊びと奇想天外な劇的展開が、哀切のトーンの中に幻影のようにめまぐるしく、懐かしく生起し、やがて消え去る。
この劇団を初観劇とみえる若者が「すっげぇ面白かった」と、一人ならず感想をもらしていたのが妙に嬉しかった。

二輪草 

二輪草 

metro

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2017/08/09 (水) ~ 2017/08/13 (日)公演終了

満足度★★★★

濃密な70分であり、月船さららの女優としての意気込みを感じさせる一人称語りの舞台、ではあった。
江戸川乱歩の猟奇的文学の世界は、地の文の語りによって伝わってくるし、古めかしい部屋、年のいった雇われ人の風情、畸形の造形もリアルに迫っている。
それだけに、演技的に迫り切れない部分がくっきりと見えてしまう憾みはあった。
「不幸」という言葉と、それを発する本人の自覚とのギャップが、おそらく哀れみを催させるポイントであっただろうが、どうだったか。「人と違う」ことへの気づきの「途上」のぼんやり感は表現されていたが、その悲しみ、恐らくもっと物事を知ればより絶望へと近づくであろう、心情の「まだその先がある」予感が見えていたかどうか。基本的に容姿に恵まれた者が未体験とならざるを得ない「心情」の表現に、肉薄しようとした足掻きは見えたが、抜けきれてなさも残っていたのは否めない。

転がる石に苔むさず

転がる石に苔むさず

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2017/08/01 (火) ~ 2017/08/08 (火)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/08/04 (金) 19:30

公演期間にこのページはUPされていなかったので遅れて投稿。
オイスターズでしか見ない平塚直隆ナンセンス芝居、俳優座がやるというのだからやっぱり観ておこうと足を運んだ。
俳優座には老練俳優という笑いの武器があった・・企画段階で狙いがあったか知らないが、異色の舞台になったことは確かだ。私の観た回では老俳優の筆頭、90代の中村たつが体調不良で降板、かなりイメージの異なる代役(予め準備されていたという)の方が「(干支は)たつ!」と名前にかけた台詞を台本に忠実に言ったのも寂しく、だいぶイメージが変わったのではないかと思う。
ナンセンスを掘り起こす平塚戯曲だが、「良い話」にまとまることがある。絶妙なところに収めるのが作家の腕の見せ所だとすれば、今回は良い話のラインへの「蹴散らし」がどうだったか。中村たつという女優の風貌しか知らないが天然の破壊力が絶妙なバランスをこしらえたとしたら、やはり代役ではつらい、という事になるだろう。
だがこの手の芝居=奇妙芝居とでも呼んでみる=が益々上演される演劇界でありたい。



解散

解散

江古田のガールズ

サンモールスタジオ(東京都)

2017/08/12 (土) ~ 2017/08/20 (日)公演終了

満足度★★★★

初、江古田girls イン・サンモール。意外やまともに演劇である、という印象。勝手な予想と違ったというだけの事だが・・。
荒唐無稽さや笑いへの貪欲も、劇団員(今回は二名が中心的役で登場)のエンジン全開で自在な立ち回りが幻灯機の光源のような按配に周囲を照り映して、ある「信じられる」世界が構築され、周囲の俳優も皆、「演技」的に(主に笑いに向けて)全力で表現に勤しんでいた。表現アスリートといったところ。
俳優の技術レベルが予想外であったことと、若さ、輝き(年寄り臭いが・・)を引き出しそれをフル活用した躍動的ステージは成功と言えよう。
このステージが、江古田のガールズのスタンダードであるかどうか、そこは判らないが・・共通していそうなのは、細かな粉末のようにまぶされたチョイ毒ありの<笑>のネタで、またいつか味わってみたいと思わせた。テンション高し!

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