ワーニャ伯父さん 公演情報 シス・カンパニー「ワーニャ伯父さん」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ケラ演出チェーホフ、舞台上の設え(美術)は「まとまり感」と奥行きがあって良い感じ。冒頭舞台ツラでの芝居と、奥を仕切るのはゆったりと天井から吊るされたレースのカーテン、それがふわりと開いて中央の楕円の大テーブルが見える。ロシアの田舎だけに土地だけは広く家屋の間取りもゆったりな、質素ながらに瀟洒な屋内は、宮沢りえを筆頭に登場人物の風格とタメをはってバランスが取れている。
    従って、見た感じは良いのだが、宮沢りえ演じる夫人の「田舎暮らしの退屈」はいまいち表現できていない。退屈しなくていいんじゃない?くらいに見える。この都会志向は、近代がもたらした社会構造の問題(チェーホフの四大戯曲にはどれもこの問題が根底にある)に触れる部分で、抜かせないはず。

    また、ケラ演出の特徴として、時折(こたびは時折である)そこここに笑わせ所がある。逐一は覚えていないが、ラストの別れの日、夫人が籠の中の小鳥に同意を求めるしぐさが地味にやられていて、本気で笑わせにかかっているのかいないのか、微妙な空気が「ケラ舞台・・」と感じさせる片鱗。
    他は割とオーソドックス、かつ、分かり易く作られていたと思う。

    ネタバレBOX

    チェーホフの4大戯曲には詳しくなく、『ワーニャ伯父さん』と『かもめ』を戯曲を読んだのみだが、この二つはどこか雰囲気が似ており、どちらも後半にピストル騒ぎがあるので混同気味。『かもめ』は一度舞台を観て、あとは『楽屋』に有名な台詞が出て来るので頭の中にイメージができているが、その分『ワーニャ』が霞んで記憶から遠のいていた。従って、ほぼ「初めて観た」に等しい。

    とはいえ、読んだ時の印象は次第に蘇ってくるもので、この戯曲の「感動」がどのように成立するかを想像しつつ読んだ事も合わせて思い出した。後半のワーニャの「テンパり具合」がどう観る者の身につまされる表現になるか・・そこが要であり、静かに終わって行くラストの余韻が、「生きていかなきゃね」や「働きましょう」「私たちの苦労がなぜなのかが、いつか分かる時が来る」といったチェーホフ特有の台詞に通じる、人生を諦観しながらどこか希望も抱いている(今なお生きているとはそういう事である)感慨に満たされるかどうか・・それが舞台でどう成立するのかだ。

    結論から言えば、最後の静寂の中で事務仕事に勤しむシーンの、長くゆったりした時間に、様々な示唆がこめられていて「終わり良ければよし」とも言えるが、芝居としてはそのようにまとまっては見えなかった。
    静的にみえる対話のシーンを動的な行動のシーンに仕上げた技は見事だが、ワーニャの本音が言葉になって露呈する後半以降の伏線として、前半の芝居が位置づけられるように作られたかどうか、やや疑問(それはなくたって成立する、という割り切り方も可能ではあるが)。
    私としては、ワーニャが吐露した近代社会の矛盾にも触れる問題(都市と地方の格差や、都市の思想が地方を侵食していく)が、今の私たちに通じる問題として見ることができるか、という部分では、ワーニャの態度の変化は唐突な問題提起と見えなくない憾みがある。・・戯曲の問題が既にあるとも言えるが・・。
    ワーニャをどう作るかはやはり難しい・・と舞台をみて改めて認識する観劇になった。

    女優陣は言うことなし、主要役の男優に注文。ワーニャ(段田安則)については書いた。老主人役の山崎一は作為的な老け役、まるでギャグ担当だ。著名な俳優でうまいので安心して見られるが、老人には見えない。ラストの別れのシーンで雄弁に、コケてみせるが、女の退屈の根本原因である夫が、相手を退屈させるキャラに見えないというのは、失敗というより意図的なギャグになっている。
    「退屈」と言いながら夫人はこの田舎でそこそこ人生を楽しんでる、と見えても別にいいじゃん。100年前の「ワーニャ伯父さん」皆知ってるっしょ。色々遊んでみなきゃ面白くないしこれはそういう企画なの!・・と反駁されれば説き伏せられそうではあるが。

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    2017/09/10 00:43

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