tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1221-1240件 / 1809件中
731

731

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2018/04/24 (火) ~ 2018/05/02 (水)公演終了

満足度★★★★

著名な劇評家の姿も見えた回。注目度も上がっている?パラドックス定数、というか野木萌葱作の舞台を久々に拝見。
731部隊員であった者が都内の某所(戦前からのアジトという設定)に「空っぽの封筒(裏にその場所の住所が記載)」が送られた事や、自分らの身を守るため互いの動向を知る目的から、集まっている。
登場人物は6名。時代設定は1947年。米国占領下、東京裁判より前で彼らは「戦犯」として法廷に引き出される恐怖も抱えているらしい。
作劇には面白い着眼もあったが、その一つ「帝銀事件」はドラマの比較的中心で、タイトルを「帝銀」としても良い程に絡んでいる。
ここでこのドラマは(史実としては見つかっていない)真犯人を登場させている。フィクション、とまで言えないのは、事件に使われた毒薬の性質から731出身者である可能性が高い、という視点を押し進めたためのようだ。
また、民間の血液銀行(ミドリ十字の名は出さないが)設立、旧陸軍軍医学校跡地に見つかった人骨問題、731人体実験の研究成果がアメリカの手に渡った事実、などに触れてドラマに絡めている。
こうしたトピックの合流地点として歴史を再構成する面白さは判る気がするが、どこか不満が残るのはなぜか・・。

ネタバレBOX

後に薬害エイズ事件を引き起こすミドリ十字のくだりについて・・
設立の計画を進めようとする男に対し、上官に当たる者が、「(アメリカのテコ入れで飲まされそうな)非加熱製剤には気をつけたほうが良い」と真面目にアドバイス。研究者としての良心をアピールさせるのに余念が無い・・と評したくなる。つまり後の歴史を知る者による後付けの脚色の匂いがする。
アメリカに利用され続ける日本、との視点は正しいとして、しかし物事の「裏側」を知る彼ら(登場人物)が手をこまねき、情報を人々に知らせなかった事によって、現在の対米隷従の延長を見ているのに対し、その責任を問わずこの場面でアメリカ牽制の(面と向かっては絶対に言えない)判った口を利かせるという、この描写が、こうした問題の根っこを浮かび上がらせる事にどれほど貢献するのか、むしろ曖昧に濁すことにしかなっていないではないか・・と、私などはどうしても思ってしまう。

米国が731資料をごっそり持ち去ったというのは731部隊の現地での事と私は勘違いしていたが、確かに・・。持ち帰った資料が日本人からGHQに渡るルートが最もあり得る。ただ、731で己らのやった行状を恐れる者たちが、GHQのスパイと判った某氏を一様に責めるのは、解せない。なぜなら、「裁き」を恐れる相手=米国が既に自分らの行状を知っている、という事態の中に、自分らはどう利用されるのか、捨てられるのか、という「より大きな」問題の地平に今や至った事に気づくはずで、そうした「見えない敵、もしくは審判者」を前にして無力を知った時、人は自分の行いを「罪」の側面から考え始める、という事があるのが自然だろうし、あるいはそれに抗おうとして真反対の行動を取ろうとする、また真実を見ないようにする、といった行動が考えられる所、芝居では「裏切った裏切らない」の話をまだやっており、しかも「理性的に」議論をしている風なのだ。
ここで思うのは、「理性」とは「裁き」という恐怖の手が及ばない所で内弁慶的にポーズを取っていられる事、の意ではないか。つまりは、まだ罪と向き合わずに済む状態をこの閉塞空間が保証している、というより彼らはまだ井の中の蛙なのである。そこで語られる理性的な言辞を、何だか格好良く見せて芝居を収めようという意識が私には理解できない。
一兵卒である部下が、「あれほどの事をやったのに・・」と、告発すべきという趣旨で発言する終盤の白熱場面。「だから何だ」「何が善か悪かも判っていない頭で言うんじゃない」と、幹部の一人が言うが、それこそ「判ったようなこと」だ。社会の必要悪を担うことで社会的地位に収まる欺瞞が、今も通ってしまう社会である以上、「だから何だ」とは反語的意味も持ち得るが、作者としてはどうだったか。。

一つのバロメータと思われること。過去に観た「三億円事件」や「東京裁判」にも共通するが、男の「地位」を示す制服=背広など=を格好良く着こなし、その制服に見合ったいっぱしな台詞を吐かせる演出が、あの衣裳でなく別物でも成立するかどうか。私は成立しない、と見えてしまう。
今回「良心がある」と部下に慕われた「己らの行いに悩む」男は、それまでクリーム色のジャンパーをまとっていたが、血液銀行に引っ張られた(それは懐柔された事を意味する)後のラストでは、皆と同じく濃いグレーの制服を着こなして登場する。
その制服が意味する欺瞞を、作者はことさらに暴かない。むしろその制服で収まりがよく感じるような台詞を吐かせ、「生きるためには仕方ない」「皆必死で生きている」メッセージの方が強調される。「罪」は掘り下げきれずに劇は終わるのだ。

「悩む男」と、彼を慕う部下が、良識の側にありそうだが、部下のほうは実際に手を汚しておらず、実質一人である「悩む男」が中国人の人体実験と被験者の調達が日常であった731部隊の幹部連中の中では、ドラマ的には「一石投じる」べき役となる。
だが「自分はもう医者にはなれない」と嘆き、皆の「心配の種」であった彼が最も感情をあらわにするのは、満州に渡る前、脳外科専門の上司のために手術の訓練の実験台にする戦死者を調達して与え、切断された頭部を運んでは埋めていた、その記憶を語る時だ。「腐った頭部を運ばされた」事がいかに忌まわしいものであったかを訴え、「俺の731はそこから始まってるんだ!」と叫ぶ。これはこの問題に触れるために必要なくだりであったかも知れないが、ここでの描写が具体的であるのに対し、731で「行なったこと」の描写がもう一つ足りないという比較が生じる。731での「行い」についての証言は、「罪」を論じる視点との関係でも、自分の感情からも語られていないように思う(記憶違いかも知れないが)。
一人「悩む男」は、その事をむしろ語ることで観客にも「語ることが彼にとって必要なことだった(一人では抱えきれなかった)」と理解させる事になっただろうところ、それは部下への手紙(他の者には空の手紙)の中に書き綴られていた事になり、部下は終盤で「あんな事をしておいて、どうして明らかにしないのか」と、「あんな事」としか言わずに訴える。しかしその発言は「悩む男」が秘密を漏らした証拠の重要性が際立たせられ、「悩んでいた男」は慌ててしまう。終盤で、この男はすでに「ブレていた」訳だ。
ブレない内に行動に至らないなら、ドラマ的にもその説明が施される必要がある。元々、「行い」に関する「悩み」など無かったのではないか、と後の印象が上書きされ、そして元々そうだったのでその通りになった、と見えた。
人物の一貫性からすれば、「悩み」が何らかの形で発露されて良いのだが、それは差出人の無い封筒を関係者に送りつけていた張本人である事が終盤明かされる事でその「ぶざまさ」を指摘される事で立ち消えとなり、つまりは「関係者を招集する」行為までがせいぜい、彼の「悩み」が押し出した行為だった、という事なのだ。

その事の傍証は、「あんな事までして・・」と部下に言わせたその具体的な内容に、この劇の中では言葉化された箇所が無いこと。「丸太と言っていた」「どんな場面でどんな口調で言った」「どんな気分だった」という、ある一点でも良いその瞬間を切り取った証言が、ない。「丸太」の話題から発展したのは「これは本来マテリアルと呼んでいた語がいつしか・・(これを遮る声)」と、一般的な記述の紹介だけだ。
既に知られた史実・・だから触れるに及ばない、とはならない。実際に見たわけではない史実・・について語ろうとしているのだから、想像力たくましく迫って欲しかった。

敗戦後間もない時期に、どの程度その「行為」の意味を認識し、捉える事ができたか、そういう人間がいたかは不明だが、劇に登場する「悩む男」の存在は「気づき」の予兆であって、この伏線に対して、「気づき」及ばずガックリ、となるか、「気づき」はなお生き残り、希望を託せるか・・という風に展開はどちらかになりたいが、そこがぼやけている。敢えて言えば「ガックリ」であるが、芝居として「ガックリ」と位置づけられていない。

一人の人間が果たして「罪」に苦しんでいるのか、社会的制裁を恐れているのか、一神教の観念を持つ者とそうでない者の間にも差があろうが、仮に唯一神観念がなくとも「罪」の観念は実際の人間を想定することで生じるものと思う。
しかし結論的にこのキーとなる男は罪の問題に深く触れていたとは言いがたく、そうとなるとこの劇には当初から「罪」の視点で出来事を語るべき者はいない事になり、「節度ある発言」を発する者も居るが、おしなべて「対立」は矮小な範囲で霧散している。

野田正彰氏の「戦争と罪責」はかの戦争で主に加害行為を行なった元軍人が、戦後数十年経ってなお残す心の傷跡を読み解こうとした論述で、問われなかった(裁かれなかった)「罪」を持て余す者が少なくない事をこの本で知ったのだが、大概「罪」を擁護するのは本人でなく親族など周囲の者ではないかという事をそのとき思った。殺人事件の遺族が一様に重刑を望む訳ではないのに周囲が熱くなっている、という構図に似ているかも知れない。ベクトルは逆だが。

1年かけての7作品連続上演が風姿花伝で為される第一作目。新作が含まれるのなら、その折には「変化」を確かめに見てみたい。
寿歌

寿歌

愛知県芸術劇場 / SPAC(静岡県舞台芸術センター)

舞台芸術公園 野外劇場「有度」(静岡県)

2018/04/28 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★★

SPACで、宮城演出で、『寿歌』。未知数に惹かれて観劇した(もっとも「寿歌」を私は初見、北村想作品は何作か観劇)。
三人芝居。ネジ一本足りな気な女を演じる(割と普通顔なのに舞台上で俄然存在感を示す)たきいみき、漫才の片棒に仕込んだ彼女をリヤカーに乗せて荒野を行く(芸達者風情の)奥野晃士、「ヤソ」と名乗って「ヤスオ」と呼ばれる超自然人(長髪痩身の役作りを成し遂げた?)春日井一平が、核戦争で人類がほぼ絶滅した地球の上を、シュールな言動をかましながら旅を続ける。
山間にある野外劇場「有度」は既に夕暮れ、両側に舞台領域を広く取ったコンクリートの建造物(照明などを設置)が途切れた先は、奥深い高木の林。カミイケタクヤの美術は、バイパスのようなカーブのついた道が8の字に、主な演技エリアがちょうど頂点から下るカーブが手前にせり出すように設え、地面は遊び心がのぞくガラクタを散らした上にビニルが覆っている。
不思議な時間が流れていた。劇中ミサイルの発射音が絶えず鳴り響き、まだ使いきれない大量のミサイルが人間の手を借りずに発射されている、という短い説明が台詞中にあるのみ。行き交う人も無し。
深刻な設定と旅する二人の脳天気さとの落差が醸す何でもあり感は、物を増やす術を使う仙人風、というか浮浪者風の男との出会いをも包み込み、やがて幻想的な蛍の光の場面、実際に最後に降らせる雪をも許容するだけの詩情が溢れて滲み出し、全体を満たしていった。
浮遊するような掴み所のない台詞は、一つ一つその意味合いが整理され、逐一目的が明確になっている、と思った。戯曲が持つ「不思議感」は台詞を伝える事だけでも醸せる事だろうが、舞台上の一秒一秒を躍動させるためには(役と同じ時間を観客も生きるには)、役に行為と存在の一貫性を与える台詞の意味(それはどういう行為か)のあぶり出しが不可欠で、とりわけ不条理風な劇では重要、つまり難作業と思う。そこを的確に選択し、塩梅できていたのが今回のSPAC版「寿歌」の出色だったとの印象である。

ネタバレBOX

登退場コースが短いせいか?コールは4回も起こったが、拍手していたい時間というものは確かにある・・と、会場の反応に共感。
ところで作者はこの戯曲をさほど考え無しに書いた、最後に雪を降らせたいというだけが始め頭にあった、という。本物の雪(といっても機械で作る雪だが)は見た目も違い、何とも言われぬ感興がよぎる。リヤカーに乗って進む二人の背後から、雪が垂直に上り、それがふわりと彼らの前方(つまり観客側)に降ってくる。
『南の島に雪が降る』で作り物の雪の書き割りと紙を降らせた雪に、観客である兵隊は皆涙した、あのくだりを思い出す。
他に意味はない、ただそれが「ほしい」思いだけで彼らは工夫を凝らして舞台を飾った訳だった。舞台の上には「ここ」ではないユートピアがある。しかし核戦争後の人も居ない孤独の旅を行く彼らの中に、ユートピアを見ている自分とは、何だろう。
ERROR

ERROR

CHAiroiPLIN

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/04/21 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★

スズキ拓朗は貧乏育ちかボンボンか、のほほんと育ったのかそれともキビシク育てられたか・・などと考えさせる不思議さがある。台詞大いにあり、踊りもあるが本格的に踊っているスズキやユニット所属の女らの巧い「踊り」を見ると、他の人達は「まあ得意」な役者さんを揃えた感じだろうか。あるいは特訓したのだろうか??
太宰「人間失格」と植物(庭に植えるもの)の成長物語を絡めて言葉遊びと身体遊び、物遊びを様々に結びつけて、ソロ、集団、グループのシーンを作っていた。
多様な演出がある中、この集団が突出して持つのは音楽的素養のよう。全員の(動きながらの)コーラスは聴かせる。その楽曲提供は主人公=葉蔵役3名の一人、清水ゆり氏の詞・曲という。ピアノ生演奏+歌も担って十二分の活躍だった(パンフにネームが見られなかったのはなぜ?)。

革命日記【青年団・こまばアゴラ演劇学校“無隣館”】

革命日記【青年団・こまばアゴラ演劇学校“無隣館”】

こまばアゴラ演劇学校“無隣館”

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/04/14 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★

蠱惑的な劇空間になっていた。もう一度観たいと思ったが一週間前には完売。青年団(関係の公演)としては早い方ではないだろうか。
青年団の舞台にありがちな幾つかの特徴がない。例えば最後に伴奏無しで歌をうたったり、つまらない駄洒落を言ったり(いやこれはあったか)。
時代設定は「既に政治運動の時代ではない」とだけは判るが、実際に革命を目指す「運動」がまだ残っている、となると1980年代かせいぜい90年代か、と思うがそのあたりは架空設定であっても良いように思う。
舞台装置が良い。いつもとステージを逆にしたのも良いが、アパートの四畳半の部屋でなく、カモフラージュなのか瀟洒なマンションの一室といった風も良い。一番はこの場に流れている空気、思想が絶妙な具合に「有り」と思われるように作られていること。「革命」の大義を「利用」したり、逆に言葉に絡め取られている様もみられるが、中心的な論争になるテーマが「運動」の問題を突いていて、抗議する側の正当さに対してやり込めようとする側の欺瞞がみえても一方的に悪として描いていないこと。
・・登場人物全ての問題が解消していくウェルメイドではないが、登場人物全てによって「一つの正解に集約されない」ことが結果的に示されている事、それがこの舞台の成果であり魅力。もう一度観たいと思わせた青年団久々のヒット?(再演だけど)

「ハムレットマシーン」フェスティバル

「ハムレットマシーン」フェスティバル

die pratze

d-倉庫(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

最終組のシアターゼロ(韓国)/IDIOT SAVANTの手による「ハムレットマシーン」を観る。
僅か10数ページのテキストに、娑翁作品の断片や同時代(作品発表は1977年)の事件や状況を皮肉にまぶした「台詞」がまるで煮込んだシチューのように濃厚かつ難解である所の原戯曲は、必然に十通りの予測の付かないバリエーションを与えたが、同じ戯曲を上演するのだから各集団が「このテキストをどう捕まえたか」は重要で、その「つかみ具合」を読み取ることを通して観客は「ハムレットマシーン」という作品を「知る」、あるいは「知る端緒となる」体験をする・・という事でありたい。

結局10のうち4団体を拝見したのみだが、トリを飾ったIDIOTはほぼテキスト通りを「喋り」、ト書きにも目配りがなされていた。言わば「忠実な」上演という事になるが、何らかの掴み取り方ができなければ、たとえ戯曲に忠実たろうとしても上演できる代物にはならないだろう。
IDIOT SAVANTを以前に観た時は、演技過剰でテキストに合わないものを感じたような記憶があるが、今回その記憶を呼び覚ました一つ、中心的俳優(女性)の中性的、否男性的と言っていい佇まいと声、動きが、主にテキストの語り役を担っており、出色であった。目読すれば散文詩に過ぎないコトバが、人物の「台詞」として響いてきた。

IDIOTがこのテキストから汲み取ったのは、激烈な感情を伴う絶望であり、その方向での(表現の)最頂上を目指す立ち居と喋りによって、激情ほとばしる舞台となっていた。他の(私が観た)集団では観られなかった、また同様に周囲にも今や特異と言う他ない境地がそこにあった、と思う(この集団の色なのかも知れないが)。すなわち、状況に対する絶望という心情だ。それが起こる背後には、公正たろうとする心、道理が叶う社会であるよう願う己の心に従って生きる下地がなければ、発生しない。その「個」あって初めて「社会」に対し絶望し得る主体が存在する・・という意味で、激烈な「絶望」の言葉を吐く人物の形象そのものが困難を伴うという事なのであり、それを形として見せ、最後まで破綻なく絶望を表現し通した点において、このバージョンは特異である、と言わざるを得ない。
まず始まりが秀逸。黒衣裳の身を包んだ男女が応援団のように客席側を向いて足を踏ん張り、必死の形相でガナるのが、一定のリズムを刻む不思議なフレーズ「カーツカッカ/カーツカッカ/カッカッ」。シンコペーションを含むこのフレーズを繰り返す4拍子のリズムを叫び(足を踏み鳴らし)、一人、一人と別な役割を担う動きが混ざって全体が変化していく。身体パフォーマンスが基調ながら、台詞は流れ続け、また喋らないパフォーマーの演技も演劇的に展開する。この身体パフォーマンスの判りやすさと、吐かれる言葉の難解さの具合がちょうど良い。
この冒頭の激しくも整ったパフォーマンスから、各章に分かれたテキスト通りに、場面(の風合い)が変化を辿り「カーツカッカ」は一旦封印される(オーラスで復活)。
「私はハムレットだった」に始まるテキストが、オフィーリアの呟き、ハムレットが女装する、等と場面を渡り歩いて最終局面に向かうが、はっきり言ってその場面構成から「ストーリー」を理解するのは困難だ。ただ絶望的な状況があり、それが如何に絶望的かを「感じ取っている」人物たちのその感じ取り方を、佇まいを通して客席からキャッチする事ができる。
問題はその絶望的状況というものに対する想像力が、観客側にあるかどうか、かも知れない。否、たとえ実体験がなくとも表現によってそれは「ある」と、伝える事はできるのかも知れない・・(そこは私には判らない。)いずれにしても随所に創造性の発露をみた出し物だった。

一方の韓国の団体は、取り立てて言う事のない、言ってしまえば「中身が薄い」という印象が強く残る出し物だった。同じ意味合いの行為を延々と繰り返して得られるのは時間の引き延ばしの他に見当たらなかった。
構造として同じパターン(一人の男が二人のマシーンを呼び出し、二体の関係は最後に不具合を起こし、暗転)を何度か繰り返す作りだったが、毎回のパターンの違いも、従って何が共通点なのかも、わかりづらい。
そもそも3人の役の分担のあり方が演技を通じて伝わって来ず、代わりに何か解説があるわけでもなく、「わからなさ」を相殺するパフォーマンス面の面白さがあるかと言えば、それもなく、混沌とした風合いが良い、といった舞台効果があったわけでもない。
白塗りの男女が俳優の「マシーン」を演じるが、その動きは表現としても(機械を演じようとするためか)拙ない。今一人は、どうやら注目の俳優という事だったらしいが、先の単調なリフレインを4回ばかり繰り返すだけに終わるこのパフォーマンスで、彼はマシーンを呼び込む役にもかかわらず彼自身が「私はハムレット」(ナン、ハムネッ)と台詞で言っていたりする。役回りが理解できない一方で、彼の演技そのものの中に面白さを発見できたかと言えば、それも残念ながら無い。何か解説を聞けば違った風に見えたかも知れないが、それを舞台上に表現して見せるのが演劇だろう。
気になったのは韓国に「ハムレットマシーン」の翻訳本があったのかどうかだ。
日本語訳では作者ハイナー・ミュラーの「戯曲」数点と論考が収められた書籍があり、ハムレットマシーンにも相当数の訳注が施されている。これを見なければ、作者が何を意識して、どういう状況認識の土台の上にその語句を用いたか、素人には到底理解はできない。おそらくそういう類いのテキストだ。

酷評したくなるパフォーマンスはこのシリーズを以前観た時にもあったし、それだけ厄介だがやり甲斐のある戯曲と格闘し、競演するフェスティバルの醍醐味でもあろうか。しかし今回のテキストはこのサイズのイベントには、難物ではなかったか。

地底妖精

地底妖精

Q

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2018/04/20 (金) ~ 2018/04/23 (月)公演終了

満足度★★★★

STスポットでの永山由里恵と武谷公雄の怪演が記憶に新しいQの新作(上演は二度目という)は早稲田どらま館で、同じく永山のほぼ一人芝居。無対称の存在(地底の生き物)とのパーティ(おならの出ない芋を勧めるのにほぼ終始)に始まり、延々と喋くり回るのは妖精とはこれ如何にである。客席にやたら視線で絡むかと思っているとついに舞台上に客を引っ張り上げ、一くさり遊んでみたり、突如夢の再現らしいゲロい映像が流れたり、終盤に漸く登場するもう一つの生物・・と、飽きが来る暇もない。妖精(自分をそう思っている人?)の暮らす世界は一体どこなのか、ピンクの芋と蔓は(サツマイモ色の塗り損ないでなければ)何を象徴するのか、モグラは彼女にとって何か・・といった疑問は湧くが、答えを探す必要性を感じさせない。彼女が抜き差しならぬ所へ進んでいく「感触」があり、人格の一貫性の表れと思われるこの感触はテキストが構築したものか、俳優の仕事か。型破りが標準である所のQの今回も美味しい舞台をみた。

テンペスト

テンペスト

劇団山の手事情社

大田区民プラザ(東京都)

2018/04/12 (木) ~ 2018/04/13 (金)公演終了

満足度★★★★

よく記憶を辿れば、(WS発表公演でない)山の手事情社の本公演を目にしたのは初めてだった。ただし今回の舞台の印象は「初めて」のものでなく、古典演目への切り込み方が予想よりやや晦渋であった。『テンペスト』について記憶にあるストーリーを引っ張り出し、なぞる事なしに、この舞台に随いて行く事はできなかった。原作を知っていることが観劇の条件であるのは、古典という下敷きに依拠しながら、その古典作品についての再読み込みを怠っているようで、あまり好きでないが、対するWS発表は新作である。この劇団が持っている演劇観、尺度、何を重視しているかを未だ知らず。
これから欧州へ渡りルーマニア・シビウ演劇祭とルクセンブルクで上演する。かの地では知られた演目だけに観られ方も随分違うのだろう。
彼我の演劇文化の違いを聴けば彼我の人間観・権利意識の違いなど諸々考えさせられる。(ミュージカルでない)海外からの風を日本にどう吹かせられるか・・一つのテーマになって良いと時折思うものの、日常の中にその場所が見えない。

マッチ売りの少女

マッチ売りの少女

劇団PPP45°

桐生市有鄰館(群馬県)

2018/04/07 (土) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

桐生市は十年程前に一度通過したのみ(桐生駅始発のわたらせ渓谷鐵道を往復した朧気な記憶)。旅気分で親八会の『マッチ売りの少女』を観に当地へ赴いた。新宿の細いビルの5階だか、階段で上った狭いスペースでかぶりつきで観たのが同会『父と暮らせば』朗読。これは各地をまだ巡演中とか。辻親八の相手役は渋谷はるか。汗水迸る熱演の彼女が今回も中心的役(娘)に座り、さらには桟敷童子・大手忍!(弟)、俳優座・清水直子(妻)、辻(夫)。演出藤井ごうによる本格的な舞台であった。
旧商家の蔵が集合した有鄰館の一角で、客席は40~50程度。観客数は30余名といった所だろうか。
別役実作品のシュールさが、笑い、そして居心地の悪さを通過して、ある哲学的な問いの前に強引に立たせられるミラクルは、辻演じる夫と渋谷演じる娘との「対決」を軸に、この対決が紆余曲折するための妻や弟の介入が絶妙に絡んで仕上がる。弟演じる大手のキャラの豹変、辻との夫唱婦随のコンビを奏でる清水演じる妻、かくも美味なる舞台にこの客数は寂しい限りだが、みれば皆良い顔をしている。この場に立ち会えた幸福を自分も噛み締めた。

ネタバレBOX

保存対象となる蔵での上演には、都会的な演目は若干そぐわなさはあったが、当初都内での上演が決まっていたと言い、急遽不都合が生じ、劇場探しに奔走したという。確かに、雑遊での上演が簡易チラシで案内されていた。梟門と共に改修に入った事により、今回の運びとなった訳だ。(改修がギリギリになって決まったのだとすれば、やはり消防法改正絡みでダメが出たためだろうか・・)

辻親八は椿組の舞台で見た程度であまり知らなかったが、どうして達者であった。『マッチ売り』は念願の演目だったと言う。今後は何よりも貴重な財産である『父と暮らせば』をアピールし、上演し続けたいと挨拶。
親八会は個人企画であるが演出の藤井氏も企画部員的存在とか。ユニークな仕事を断続的にでも、世に出して欲しい。
自己紹介読本

自己紹介読本

城山羊の会

シアタートラム(東京都)

2018/04/17 (火) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

初演を逃し、稀少な城山羊atトラムを鑑賞。再演をやるのも珍しいようだ。初演は下北沢の小劇場B1で席数も少なかった。見逃した人達からの熱い要望に応えた格好だろうか・・? シアターイースト(=300席前後)で十数ステージやる団体だから、B1(=100未満?)の十数ステージでこぼした客、トラム(=200前後)10ステージでも埋まる算段だ。
さて舞台。「なぜか居続ける」モンダイは、城山羊ではスタンダードと弁えるべきか。「用も無いのになぜ立ち去らない」「市職が昼間からなぜ暇?同僚と約束なんかして」「人の会話もぼんやり座って聞いてるし」(時間指定は無いが、日中であるのは明白)・・そんな突っ込み所はあるものの、面白さに走って芝居内部で決定的矛盾を来たすには至らず、不自然さをキャラに回収させ、一応は有り得る話に収まっていた。
エロ要素も皆無ではないが(いやしっかりあるが)奇抜な展開は抑え目でリアル路線に寄っていた。この劇団のを見慣れたせいか、面白い部分は面白く観、馬鹿馬鹿しいと心で呟きながらも身につまされる部分を寄り添いながら観ていた。

ネタバレBOX

人の行動の根底には性欲や異性への意識があり、性は個人の活力の源と社会の推進力である・・生物学的な真実は、性の扱いづらさゆえ伏せられ、代替物を持ち出してお茶を濁されるのが常。その滑稽が、エロ「抑えめ」のこの芝居では主軸に座っている事が最後に明白になる。
城山羊の他作では性的衝動がアトラクション的に盛り込まれるが、今作は動物の生態観察の視線で人間を眺め、その根底に性欲を見ようとする。果たして・・?そうだと信じるも信じないもあなた次第。
砦

トム・プロジェクト

シアターX(東京都)

2018/04/10 (火) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

再演歓迎。告知をみた時から観るぞと決め、予定通り観劇できた。予想通り(と言うと低評価のようだがさにあらず)見応えあった。伊達に年輪重ねていない村井国雄と藤田弓子の夫婦に見入り、芝居に入り込んだ。若手三人(原田、滝沢、浅井)が複数役及び三位一体の語り部として「夫婦の芝居」部分を進め盛り立てるべく走り回るという構図は理にかなっていた。
ダム建設反対闘争と聞いて隔世の感がよぎるのは、お上の計画が間違っていたと結論付けたことのない国では、お上に楯突くことの罪、不実行で不利益を被る人への罪、無駄を行う事の罪、それらが立ち塞がって正論も掻き消されてしまう。その現代の空気の中にこの手の話を持ち込む場合の常套が幾つかあるやに思うが、この舞台は夫婦を描き、二人の間にはあったかも知れない「罪」には触れても、社会に対してはブレなかった生きた軌跡を、ブレずに描き切っていた。
物事の正解不正解を出すのは(頭の作業としては)簡単だがこの夫婦の十年以上にわたる闘い即ち二人の存在が、辛うじて短絡な結論に甘んじようとする我々をとどめ得た事を、胸に刻めと芝居は言っているようでもある。

「ハムレットマシーン」フェスティバル

「ハムレットマシーン」フェスティバル

die pratze

d-倉庫(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

第一弾=サイマル演劇団、隣屋を観劇。
表現というものは自由である。それを味わえば良い、と言えばそれで良いのだろうが・・10団体の競演となると、題材について知らない事が不足に思われて来る。通常なら観ている内に原作?を知るという事になるのだろうが、今回の題材では、果たしてどうだろうか・・そんな事を思った。
今回全てを見られないが、一つでも多く観たいし、観たいと思わせる中毒性が企画そのものにある。

曖昧な犬

曖昧な犬

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2018/03/22 (木) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★

舞踊のほうでなく演劇舞台であるミクニヤナイハラを観るのは昨年の吉祥寺に続き二度目。nibrollは何度か観て既にお気に入りだが、こちらは実験的「演劇」である。以前NHKで放映された『青ノ鳥』、DVD『五人姉妹』を映像で観たが、このプロジェクトはかぶりつきで、息がかかる距離で観たい、と思った。今回は「台詞はまくしたてながら走る」ノリを離れ、比較的穏やかに発語していた。いずれにせよ台詞がミソなのに変わりなく、矢内原美邦が自身のテキストで勝負したパフォーマンスという事になる。舞台成果は、この時の自分の注意力では台詞を「追う」のが精一杯、パフォーマンス全体を見渡せず。昨年と今年、吉祥寺シアターの後方の席は「遠く」感じてしまった。一回り小さな劇場空間で狭い思いをしながら観てみたい。

ハムレットマシーン

ハムレットマシーン

OM-2

日暮里サニーホール(東京都)

2018/03/22 (木) ~ 2018/03/24 (土)公演終了

満足度★★★★

東独の演劇人として伝説的に轟くハイナー・ミュラーの代名詞的作品を、初めて目にする。絶えずよぎる「旧作品を今やることの限界」への懸念と、演劇史に刻まれた作品に触れることの期待を、ともに燻らせつつ座席に着いた。
OM-2は二度目になるが、いずれ抽象的な舞台になる事は覚悟の上で、「お茶を濁す」のでなく前傾で表現に向かう作品になっているかどうか・・境界を超えられるのかどうかを見ようとする自分がいた。

某評論家と同姓同名の中心的俳優が登場。と、いきなり金属バットでテレビや冷蔵庫を叩き始める。ステージでギターを壊すジミヘンやら鍵盤にナイフを突き立てるキースエマーソンが頭をよぎる。・・60~70年代の前衛表現は破壊にあり、(冷戦を淵源とする)構造は自分らを囲う目に見えない堅固な壁であって、「壊す」表現は「壁」の発見・再認識を促す運動的意義があった訳だった。
一般論を続ければ・・いま物を叩き壊す行為が、プロテストの行為として飲み込みづらいのは、今の時代は様々なものが本質のところで壊され、または壊れている。破壊の向こうに、何か(希望)があるとは考えにくい時代なのである。とすると破壊は「贅沢な遊戯」の類か、出口を失った自暴自棄のイメージしか浮上しない。

ただし、この公演のパフォーマンスは「一般論」からの把捉を許さない毅然とした何かがあった、ような気がする。そう思いたい? いや実際、目を離させず飽きさせず、興味の持続を可能にしたのは、役者の仕事に拠るところが大きい。そして演出・・円形に囲んだ客席のその後ろを自転車が走る。冒頭、中央に巨大な壁があって電話で会話する男女の片方は見えない。やがて巨大壁は吊り上げられ天井に張り付く。当日パンフにもあるタイトル付の数場面が、それぞれ異なる趣向で展開する。この構成からして詩の構成に似て断片的だが、それぞれ視覚・聴覚、また触覚を刺激する印象的な情景が作られ、場面に潜む美学的なメッセージを読み解こう(感じ取ろう)と味わうことになる。

『ハムレットマシーン』は今年の「現代劇作家シリーズ」(d倉庫)に取り上げられ(OM-2公演もその関連企画)、ハムレットマシーン特集年である。テキストは翻訳本で15頁程度。詩的で難解な、隠喩に満ちて皮肉の利いた、シェイクスピアのテキストや社会状況をいじり倒したような文章だ。どの役がどの台詞を言うように指定したいわゆる戯曲でもなく、H・ミュラーがこれを演劇として世に出して評価されたならば、(テキストとしては現代批評性において評価はされようが)上演の形態に特徴があったのではないか・・とは想像である。
ストーリーは編まれておらず、ベースとなる「ハムレット」以上のどんなストーリーを貴方は欲するのか?と反問されそうな勢いで従来の戯曲様式を平然と踏み倒し、ただただ言葉が連ねられる。これを読み解いてからでなければ判らない舞台、とは演出の敗北だろうが、高度に「現在的」な原文を、上演することとは上演する「現在」へ翻案するという事であり、演出家にとっての難物であると同時に挑戦しがいのある山であるのかも知れない。
「観る」自分は、何か言語で表せる「意味」に読み替えようとするが、文脈のみえない示唆的な場面を「意味」に読み換えることは(原作を結局読まなかったし)できなかった。感覚的な刺激の中からサブリミナル効果のような「意味」的なものを感覚的に感じ取っていて、眠っているのかも知れない。

ブラインド・タッチ

ブラインド・タッチ

オフィスミヤモト

ザ・スズナリ(東京都)

2018/03/19 (月) ~ 2018/04/01 (日)公演終了

満足度★★★★

通し券があれば毎日観たい芝居だった。
その理由は置いて・・
二人芝居。観客にとっても、視線を散らす事のできない濃縮された時間だが、開幕から力みなく、いつしか誘われた。

燐光群の、というよりは、坂手戯曲の調子であったと、体言止めや「である・だ調」の頻出に改めて思うところなれど、会話で状況が立ち上がるストレートプレイのモデルのような作品である。刑務所の面会室のボード越しでなく生身の再会を十数年ぶりに果たした男女二人が、新たな二人の結婚生活を始める一軒家にやってきた、その瞬間からの恐らく何ヶ月間かの物語。関係の物語だ。
少し遠めの過去と、ある事に関する真相が、徐々に顕現してくる。まずは場を認識させ、近い過去を類推させ、二人の距離を推測させる、言わばベールが剝がれて行く過程がうまい。

男は「運動」の中で、ブラインドタッチというバンド(二人組み)の片割れとしてライブ活動をしていたが、騒乱事件(抗議する市民と機動隊との衝突)に巻き込まれ、騒乱を主導したとしてバンドのもう一人の男と共に有罪となり服役する。よりリーダー的存在とされて冤罪で服役する片割れを残して、彼は再審の結果16年目に釈放された。
男と知り合って間もなかった女は、二人を救出する運動に打ち込み、その過程で男と結婚した。女は男との関係について、また相手への配慮について、言葉にし得る限り言葉にし、二人の間の信頼関係が続くことを前提にあらゆる事を話題にする。それは男の社会復帰への道を伴走しようとする行為であり、男は女に応答するべく、言葉を紡いでいく。

その中心にあるらしいのは、音楽、ピアノであった。
女は新しく借りた部屋にピアノを置いている。運動の世界では著名なバンドであったブラインド・タッチの一人が解放された・・男の釈放は「運動界」ではそう認識される。だが沖縄の集会に招かれ、ジョイント演奏を乞われたと女に告げられた瞬間、彼は演奏を強く拒む。
理由はひどく納得できる衝撃的なものだった。即ちバンドを主導していたのは譜面が読める獄中の片割れであり、曲の主軸は彼が演奏し、男のほうは破壊的な音の介入をして掻き回す役であった。譜面も読めない。
この告白への女の反応がよい。少なからず動揺して一瞬視線が宙を泳ぎ、「事実」の確認のための質問を続けた後、女を支えていた何かが脆く崩れそうになる予感が走るが、女は彼との関係を続ける方途を探るのだ。

借りた一軒家の庭に、男は離れを作り始め、暗転のたびに基礎、柱、全体と出来上がっていく。ほぼ囲いができたある暗転の後、なぜか女がその部屋に閉じこもっている。「独居房」的に使った感想を言う。「あなたはよくこれで何年も耐えられたわね。」
場面は前後するが、話題は性的な事柄に及ぶ。つまりは、何でも話題にする女のある種の意志の表れだ。と、男はアレが「できない」事を女に詫びる。女は自分が悪いという。私の方が年上である事を言い、何かの団体の○○さんとはやれたのかと訊くと、男は強くは抗わず、認める。「一緒に住む意味とは」「結婚とは」「繋がる事について」・・。
女は自分が出て行く、と言う。男が自分のほうこそ、と。すると女は「この部屋の家賃もあなたの救出支援活動のカンパが財源。あなたに住む権利がある」と明快に答える。執着を断ち切った、突き放した語りの後ろに、女の内にある情熱を、観客は仄かに感じ取る。女は男へ介入し続ける。男の意固地な拒否をみて、怪我を装うために指に包帯を巻きはじめる。「これは二人の新婚旅行だね」と知人に言われた沖縄行きを断行する決意を示すと、男は渋々首をタテに振るのだった。

会話の前後関係まで覚えていないが、女は男のその「演奏」に対するこわばりまでも最後は溶解して行く。ある一言が確か、あった。が忘れた。いやそれは女が弾くピアノの音だったか。。
「離れ」の壁を引ん剥くと、そこにはもう一台のピアノがあった。女はそれを貯金をはたいて買った自分用のピアノだという。男には、男のために買った、部屋に置かれたピアノを「あなたはそのピアノを弾いて」と、あてがう。
無言の間。男は、ピアノへと近づき、手を伸ばしてみる。その意味するところを観客が回顧する間もなく、二人は「演奏」を始めるのだった。

ネタバレBOX

問題はこの演奏である。パンフには「ピアノ指導:斉藤ネコ」とあった。小曽根真でも山下洋輔でもなく、絶妙な人選に思えたが、二人の演奏は即興の部類に入るものだった。男と女がアジテーションしあいながらピアノを激しくうねるように叩く。なかなかの衝撃だ。私が聴いた回では、完成形というものがない印象を残した。次をどう叩くか、どういうタイミングで、どういう感情を乗せて叩くのか・・これは即興ゆえの(ジャズに通ずる)面白さがある。ドラマの中ではこの「即興音楽」の要素は独自の生命を帯びるような、奇妙な違和感があるが、ドラマを破壊せず成立している。
この即興の行方を毎回見届けたい。冒頭「毎回見たい」と述べたそれが理由。この欲求は一方でないが、マニアックな願望だろうか。
詩×劇2018 つぶやきと叫び―礫による礫ふたたび―

詩×劇2018 つぶやきと叫び―礫による礫ふたたび―

遊戯空間

新宿文化センター(東京都)

2018/03/21 (水) ~ 2018/03/24 (土)公演終了

満足度★★★★

遊戯空間じたい久々のお目見えで、和合亮一と来ると生真面目なリーディング舞台では・・と若干警戒しつつ観はじめたが、何かをブチこまれた。
この演目の初演?は見ていないが、震災から7年の今、和合氏著『詩の礫』を読んだのも昨年古書を安く入手してであり、今の感覚から程遠い震災直後の「感覚」(身体的反応)から出た文章を、現在の東京でどう舞台化するのか・・。
要は震災直後は特殊な身体的・心理的状態を人にもたらす事を知る現在、つまりその反応を原発事故・津波の悲劇と結びつける事による詠嘆調を「古い」と感じてしまう現在、あの言葉はどう今に響かせられるのか、という警戒であった。

この舞台は、「震災直後」という時間に、役者それぞれが素手で、半ば強引に、向き合い寄り添う態度に徹すること、それを自らに課すことで、成立していたと思う。
文の構成、20人程の俳優への割り振り、シーン分割とそれぞれの演出的趣向は、徐々に徐々に、下腹に響いてきた。
放射能への無理解による福島人への差別が露出した光景。また津波の後老いた母を探しに家族が訪れ、髪飾り一つだけを見つけ、よかったよかった、よかったよかったと、喜んで帰って行ったという記述。やがて一人称による直接話法が頻出し、地の底から響かせるような語り、叫び、張り詰めたテンションと速度でまくしたてる。
重い空気が続けば少し引いた場所で小休止と行きたいのが人情だが、この舞台では(演出的工夫は別として)、被災地に生きる誰か、若しくは和合氏の言葉を、代りに「言う」以上、どのような事があろうと「引く」態度を微塵も見せてはならず、情念、狂気、何を寄る辺としようが「深刻さ」を保つ事が課せられている。そしてそれは「忘れようとしている」我々が変わらぬ事実に向き合うべきである事と、向き合い方=態度のありようを厳しく問うているように思えたのだった。

テキストは舞台の終盤近くまで、2011年から遠くは離れないが、突如2018年と表示され、「詩の礫 起承転転」。鬼が来た「どうたどうた どどどうた」どこに何をしにどんな姿して「鬼がきた」・・と、ラップ調で長い歌詞を、足踏みに乗せて言う。
台本は持たず喋り通し、動き通し、体を酷使したこの出し物は、東北という犠牲を顧みない日本の現実を反転させた、儀式のようにも思えた。

この公演のために集った面々は、出自も容姿のタイプも、声質もバラバラに見えたが、終わって並んだ彼らは、目的を強く同じうし使命を全うしたことにより、その目的において替えの利かない集団として見え、不思議な感情が湧き起こった。

叫ぶ詩人の会というのが昔あったな。

『椿姫』『分身』

『椿姫』『分身』

カンパニーデラシネラ

世田谷パブリックシアター(東京都)

2018/03/16 (金) ~ 2018/03/21 (水)公演終了

満足度★★★★★

『椿姫』観劇。久々のデラシネラ。小野寺修二演出作品と言えば「あの大鴉」もそうだった。しかし形容詞としての「芸術!」を当てたくなったのは小野寺作品初見(4,5年前だったか)の衝撃以来で、それ以上。
微細なニュアンスに及ぶ動き、演技、アンサンブルは、「完璧」の単語を使うに相応しく、秒単位で「見る」注意を観客に起こさせる。「椿姫」のどこかで読んだか見たかしたか、しなかったかも忘れたが、見たかのように思える悲恋物語の構図が浮かび上がり、いつしかストーリーを追わせている。
台詞も吐く。役者出身の方は喋り上手でも踊り、ダンサー出身は踊りが主だが喋る場面もある。他流試合なのではあるがダンサーか俳優かの違い以上に個性の違いが際立ち、それぞれの見せ場を光らせている。マイム一本で行かず台詞が出始めたのは意外だったが、「形」にこだわらず物語描写に効果的だった。が何と言っても小野寺修二の舞台は「動き」が秀逸。緩急あり、めまぐるしく美しく目の離せない華麗な動きが、一つでない目的で構成され、次へと連なっていく様は圧巻。
衣裳は現代的で、崎山演じる「椿姫」は青のフォーマルジャケットにスカート、という感じ。言語しぐさも現代のそれで、彼女を熱愛する男(野坂)のその想いが最終的には「通じていた」ゆえの悲劇的結末に、複雑な心境を伴って感動を湧かせる物語構造は原作のそれだろう。「現実に擦れ切った感性」へのアンチはおそらくどの「現代(時代)」にも存在する。
「ウブさ・若さ」「勝利(恋敵に対する)からの慢心」といった野坂氏のノンバーバル表現による心情描写だけでなく、アンサンブル表現が絶妙に展開を予感させるヒントを与え、道を敷く効果も秀逸。なぜこの動きが、あのニュアンスを示唆するのか・・小野寺の発明?着想?は判り易さのせいか、そう評されない感があるが天才の域ではないか?と、思ったりする。

赤道の下のマクベス

赤道の下のマクベス

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/03/06 (火) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

鄭義信らしい作品であるのは勿論だが、戦後在日三部作に比べれば舞台設定からしてシリアス。戦犯収容所での「日常」と、その場所が必然にもたらす展開と。前者あっての後者である所の徹底した作りは鄭氏の信条でもあろうか。演技は喜劇色を帯びていて、一見過剰にみえるが、笑いが最終場面での泣き笑いを準備する。そうしながら国家の罪、戦争の罪、民族差別を掘り下げている。

ネタバレBOX

理不尽に「日本軍の罪」を背負って処刑されていった朝鮮人たちの叫びが、我々の心に沁み込むようにと願うかのように最後に雨が降る。雨季が来た!と、生きる実感をかみ締める残った二人の姿が、私たちの希望に思えた、鄭義信マジック。
隣の芝生も。

隣の芝生も。

MONO

座・高円寺1(東京都)

2018/03/15 (木) ~ 2018/03/21 (水)公演終了

満足度★★★★

MONO舞台二度目(土田戯曲は3、4作目か)。前回のMONO舞台に(セットも)似てウェルメイドが目指されているが、勢いは前回があった気がした。今回は「設定」の問題で、ヤクザ稼業から足を洗った元組織(末端の小さな組)が稼ぎの道を「そろそろ探さなきゃ」といった呑気な構えや、そもそもヤクザ世界を描くに端からリアルを免除している。加えてヘナチョコ親分のヘナチョコな理由が後半になって判り、その理由がヤクザ素人がいきさつあってやるしかなくなった、的説明だったのに、若い頃は親父さんに世話になり、姐さんのために頑張ろうと思ったと、実はヤクザの自覚をもって長いらしい発言があったり、うむ、この矛盾(の種)がアンリアルの限度を脅かしていた。借りたビルの部屋の同じ階に開店したスタンプ屋と、この元ヤクザの事務所(探偵業を始めようとしているらしい)の人間ドラマが相互乗り入れして、大村わたる演じる「兄」の失踪が絡んで、謎多い彼を中心に話は進む。
惜しむらくは張られた伏線(謎)が説明され切れないところで芝居を終わらせていること。・・そういう切り方も無くはないとは思うけれど。。

きみはいくさに征ったけれど

きみはいくさに征ったけれど

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2018/03/13 (火) ~ 2018/03/18 (日)公演終了

満足度★★★★

竹内浩三を題材とした作品だが、現代の東京に暮らす青年(学校ではいじめに遭っている)が夏休みに死んだ父の郷里である伊勢(竹内浩三も然り)の祖母宅で過ごしたひと夏の物語、といったところ。竹内のキャラ付けが良く、青年との交流を一つの軸に、また祖母や地域の人たちとの交流をもう一つの軸にドラマを紡ぎ、さりげなく戦争と竹内浩三を織り込んでいく。現在を主に置きながら過去に触れる、そのバランスが絶妙だった。快活で笑いも取る竹内キャラが秀逸。TOKYOハンバーグ大西弘記作、関根信一演出で無駄を排した現代的な舞台となった。

毒おんな

毒おんな

椿組

ザ・スズナリ(東京都)

2018/03/02 (金) ~ 2018/03/14 (水)公演終了

満足度★★★★

椿組 atスズナリは二度目。前回見て「野外だけが椿組でない」と。
今回は劇作家としては未見の青木豪作品、また高橋正徳演出、もうひと押しは俳優・津村知与志。(彼の気持ちいい立ち回りを観たくて足を運んだ芝居は結構ある)
小泉今日子である。日程が固まってきたので予約しようとしたら既に全日程完売。小泉出演を忘れていた。
だが当日狙いで日程を取ったら、開演二時間前に抽選券配布、30分後「当日券」と「キャンセル待ち」の当選と順番発表、私は後者だったが、実はハズレではなく、最終的に強引にでも席に座らせる。「今まで観劇頂けなかった方はいません」とのスタッフの説明だった。
ガッツリと主役小泉の「芝居」を喰べた。著名である事(別の媒体を通して見慣れている)、小顔美形である事、理由は特定できないが「注目」させる(させ過ぎる)ものがあり、以前トラムで出演した舞台とは打って変わった「手の内」に収めた感のある箇所も多々ある役者姿であった。
毒婦=犯罪常習者の「たらしこむ」芝居は地でも行けそうな素材だが、地が前に出て技(演技)が引っ込むと、器量及ばずの他の役者とのバランスが気になってしまう。これは容姿に関する「その状態が罪」というやつ・・序盤にそれがあり不安がもたげたが、次第に「役」の役割へと注意を向ける事ができた。
毒婦=犯罪モノのスリルという面では、「殺人」が匂う彼女自身の台詞「(彼氏がいつの間にか)消えちゃうの」で客席から一瞬笑いが漏れるが、本来はゾッとさせる瞬間。笑いは深刻さを遠ざける防御という事か、、小泉女史自身の演技が呼び込んだ面も否めず。だがそんな事もありつつ、全貌が徐々に見えてくる案配よし。
戯曲のポイントは女の犯罪と生い立ちの関連だ。問題行動はその背景を想像させ、その「説明」が人間ドラマの側面を持たせる。女の回想場面は現在進行中の「現在」シーンの中に、女が見ている風景として現われる(時に現在シーンと錯綜、この処理がうまい)。時系列に進む芝居としてまとまっているが、短くはさまれる回想シーンでの、母、母の妹、父とのやり取りは鮮明な印象を残す。家族を養う仕事に疲弊した母が、流行らない整体師の夫と娘(現在の女)に食事を作るために一時的に出入りしていた妹との仲を疑い、たまたま肩を揉んでいた所を目撃して妄想と嫉妬にやられてしまう。妹(娘の叔母)が姉家族から身を引くタイミングを逸して通い続けていたある日、「その時」が訪れる。母が薬を混入して去ったその紅茶を、目の前で(叔母でなく)父が飲み、その後交通事故で亡くなるという事が起きる。この出来事が娘に与えた内的作用は想像する以外ない。女に対して同情的に描写していない所が良い。最後に女が露呈した凶暴性は殺人に関する知識を体得したそれで、ミステリー性(娯楽)の要件を満たし、収まりがついていた。彼女を受け入れる事になったホストに当たる北海道の牧場での人間関係のドラマも面白く客演福本伸一、津村が強く気持ちよくサポート。

このページのQRコードです。

拡大