満足度★★★★
これが500円!と、あまり金額を強調すると主催者の思いに背くようだが、正直な感想だ。(これについては後述。)
池袋西口公園は周囲との仕切りと言えるものがなく、その中心が噴水の目印になる大きな円と、それに接する中位の円が描かれているだけ。公園=広場にとって大事なのは境界でなく、そこに自由な空間がある事・・そんなコンセプト(?)に呼応したかのような本公演の会場は、奥(バス停と反対)側に組まれた階段式客席を起点に、広く丸く上演エリアを囲ったとは言え、上演の都合で置かれた収納小屋や、飛び飛びに置かれた矢板のフェンスの間から、丸見えである。開演30分前に行くと、囲いに沿ってずらりと半周行列ができていた(それでも十分座れた)。
階段客席の前に厚ゴムのシートが円弧形に敷かれているのが無料自由観覧席(0円)だ。雑魚座りだがさほど狭くなく、昨夜(日曜)は風がなく軽装でも十分しのげた。
オーディションを経た腕に覚えある役者陣達の本域演技。広いステージを縦横に走り、セットを移動させ、台詞に必ず動きがともなう(役者の力量が試される)リズミカルな展開、生演奏、聴かせる歌、照明音響映像、どれをとっても申し分ない仕事が、なぜ五百円なのか。芝居の中身と共にその企画主体に関心が向かう。
東京芸術祭、というどこかで聴いていそうでいないのが上演主体の呼称だ。ネットでみても「東京芸術祭2018」と今年の案内しかないが、当日配られていた「ガイド」によれば芸術祭はF/Tトーキョーを含む5つの事業で構成され、その総合ディレクターが宮城聰、そして芸術祭「直轄」の事業が入場料五百円の『三文オペラ』という訳だ。
芝居について一言。楽曲はクルト・ヴァイル作曲のものが全編用いられている(上演許可の付帯条件らしいと聞いた事がある)。なお日本語訳はSPACのブレイン・大岡淳名義だったが、この新訳が優れものであった。歌詞にはぶっきらぼうな直裁な(直訳風)言葉を当て、詩情に流れる事をきっぱり断ち切る一方、会話には現代日本の砕けた俗語が啖呵売よろしく詰め込まれ、この芝居の登場人物の階層(=貧乏人・アウトロー)をぐっと近く感じさせるのに成功した。難点一つはマイクを通した音では早口が聞き取りづらく、特に語尾が落ちる台詞が厳しくなった点。
さて芝居の内容もさりながら、次の事を考えた。「安い」という事について。演劇の現状についての宮城聰の言は正しい(挨拶文を参照)。その問題意識からの今回の企画。
500円に200名程度を乗じて10万円の入場料収入として、何かの足しにはなるにしても支出に遠く及ぶまい。「東京芸術祭」として予算の分母を高め、この公演のコストをひねり出したに違いない。宣伝費を抑えた感はある。海外演出家を起用してオーディション形式を取り、ギャランティーの拡大を抑えたかも知れない。とすれば彼らはお金より名誉を選ったのであるからして、栄誉にふさわしい拍手を送るべきだ。
演劇鑑賞人口の偏在が宮城聰の指摘の中にあったが、このように敷居を低くしてなお、私の周りには「演劇好き」又は「演劇に関わっている人」が占めていたという印象だ。だが、日本で演劇人口を増やすことは、民主主義や「おかしい事はおかしい」と言える社会を築いて行く事と同じで、時間のかかる作業なのだ。
最大の気づきは、恥を白状せざるを得ないが「安い」=「安物」と認識してしまう思考が働くこと。お金を払った以上はその元を取ろうとして価値を自ら高めようと操作する。長生きするにはポジティブシンキングも大事だが、芸術とはそういうものだと思えばストレスもかかるまい。
それはともかく、今回の公演はかなりクオリティの高いものだったが、その認識と並んで「タダ」という算盤勘定が働き、そのものの価値を引き下げようと脳内回路が自動的に動くのが判った。
野外劇「三文オペラ」を体験したればこその気付きは、芸術と対峙する時にそのような処理をしてはならない事、もっと別の回路を育てねばならない事、それが経済に飼い慣らされた豚にならないための抗いである事・・心すべし。終演後に微かに湧いた疼きの正体であった。