tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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R.U.R.

R.U.R.

東京娯楽特区

調布市せんがわ劇場(東京都)

2020/01/05 (日) ~ 2020/01/06 (月)公演終了

満足度★★★

今回3公演目という若手、初であったが演目にひかれて観劇。1年前のハツビロコウ公演はやや圧縮版(1時間半強)であったが今回のは2時間。結論的に言えば結構厳しい観劇であった。台詞をもっと大事にしてでも休憩を挟んで2時間20分、やるという判断も有り得たと思った。もっともラストの台詞までの時間をどう按配するか、という観点ではスピード優先が正しい判断かも知れぬが。。
ロボットの支配に下った人類が「奴隷」であるはずの(自らが作った)ロボットと対峙する状況のリアル感覚の度合いが、登場人物らにどう共有されているか、その上でどういうやり取りになるか、この劇の高揚は何から来るのか、役者の「思い」の向けどころという点で相当厳しいものがあった。拙いながらの役のリレーはどうにかゴールまで完走はした、とは思う(その間の多くの台詞を勿体無い扱いにしているのは否めないが)。
せんがわ劇場には5年前、重厚に作られた風煉ダンスの舞台以来で、今回ステージ床面と袖、歩くと木の音がする普通のステージの様子を初めて見たが、この小屋の使えこなし方についても考えてしまった。空想物語であれば尚、その工夫は考えられて良い気がした。

だから、せめてもの、愛。

だから、せめてもの、愛。

TAAC

「劇」小劇場(東京都)

2019/12/25 (水) ~ 2019/12/30 (月)公演終了

満足度★★★★

俳優陣をみて観劇。年末押し詰り、人通りもまばらな夜の下北沢にて。
丁寧に作られた舞台。飾り込みの得意な稲田美智子の美術、厳選された?俳優、私としては音楽。言葉不足までを補い、作者の伝えたい境域へと観客の心を誘っていた感がある。
ドラマの軸は恐らく兄弟特に血縁でない長男と、父との家族的繋がりについて、であると思われるが、途中眠気で台詞を飛ばしたせいか(恐らく長男絡みの場面)、終幕で感動にまで至らず。謎解き=状況の全容が次第に明らかになるテンポが、スローである印象。ディテイルに疑問符が浮かぶと残念感が広がるが、幾つか複数に及んでしまい、その分減点になった、だけでなく父の存在がバシッと明瞭に見えてこなかったのが惜しい。

ネタバレBOX

ディテイルの大きな一つは、母が寝たきりになってしまったその具体的な症状。脳卒中系で全身麻痺は珍しいように思うが(大概は片麻痺)、それはともかく、まず急性期のリハビリという話が出ない、車椅子にも乗らない、認知障害がどの程度あるのか、ないのか、夫は妻の「どの状態」を見て、それ以上見たくなくなったのか、コミュニケーション不全の線が強そうだが、そのレベルの障害でヘルパー一人出入りしないのは非現実的で、次男も長男も出て行き、主に介護を担っていた次男の恋人(後に妻)が通うにしても限界がある。一日3回は排泄介助が要るだろうし・・など、具体的にイメージし始めると不明部分が大きく、家族それぞれがどういう状態に対しどう対応しているのか、そこがネックで話の輪郭がくっきりしなくなる。
次男が恋人から妊娠を打ち明けられるくだりの煮え切らなさから、父の反応を言質に次男が物申す場面の運びはうまかったが、それ以前に父の様子が「ずっとおかしい」訳であり、息子らが父の変化をどう見ているのかがやはりぼんやりしている。そもそも変化する前の父はどんな父だったのか。芝居は父が「余命半年」宣告を受けた時点から始まるので、イレギュラーな状況での父しか観客は見ていない。従って息子らにとっての、また家族にとってのこの父の存在の性質は、息子らの父への態度や言動で知るしかないが、ヒントが薄い(例えば余命宣告された時の父は見違えるものがあったがこの頃また「以前のような○○な父」に戻った、などの台詞が欲しい)。
父が「この頃おかしい」理由は、単に妻が寝たきりになった事、でなく、医師をわざわざ尋ねて告白させているくだり、「死ぬはずだった命を生きながらえている」死にぞこないの感覚(かつての特攻帰りみたいな?)にある、と推測されるが、余命を言われて輝いた命が、またくすんだ色に戻ったというのなら、問題自体は以前からあったわけで、それは何であり本人がどう感じているのかが分りたいが、父は黙して語らない。
経済状況も気になる。父は治療に3年も専念できる程の資産家か、企業の社長か。
電車で喧嘩をした父に意見した長男は「お前は息子じゃない、出ていけ」と父から言われ、言い返せず出て行くが、疎ましく思っていた友人宅に上りこみ、宅で飲めば良いものを(金もないだろうに)居酒屋に誘って飲む、ってのもどうか。
父は時々(兄が出て行く前も)デリヘルを呼んで(一発やるでもなく)過ごす事が幾度となくあるらしいが、仕事をしていない長男が居ないタイミングは?、なども気にしだすと気になる。
話の発端とも言える「長男は施設からもらってきた」報告を、最初余命宣告を受けたことを息子らに告げたその場で行なうのだが、この時父はどういうつもりでそれを息子に告げたのかが、よく判らない。父は何を正しいと信じる人である故に、それを息子に伝えたのか、それによって父の人柄がしのばれるが、この場面で感じられる人柄は、「後で真実が判って文句を言われたら困る」という程度の、クレーマー対策的な思想しか窺えない。息子の方も、過去の父を勘案して、どうそれを受け取ったのか、もちろん判らない。
「自分の息子じゃない、出て行け」と話の成行きで言われたのに対し、素直に出て行くのも何だかであるが、その彼が酒に溺れる気持ちが実際よく判らない。父の発言が物の弾みであれば機を窺えばいい、本心からだとしたら、静かに受け止めればいい。脚本を書く演劇人の設定(須貝氏本人に重なるが)なら、もっと自分を客観視できないだろうか。。
また父の喧嘩の際、警察を呼べと主張する相手(若者)と父の間に入ってとりなし、電話で長男を呼び出すのが彼の友人なのだが(彼は鉄道機動隊?)、登場しないその相手の所に息子は謝りに行き、戻って来ると父を家路へと促す。ここでの友人の判断がまた引っ掛かる。警察沙汰になるなら息子に出てきてもらって丸く収めた方が良い、という考え方も分るが、やはりよく判らない。相手の若者のイヤホンを引っ張った位で。。やった事に対するけじめを父は取る覚悟なのだろう、そこへ「前科がついては困る」と周りが判断し、まるで父の保護者であるかのように振る舞う理由が、「ある事情」にあったのだ、という風に展開のきっかけなら分るが、当然そうすべき事として事態が進むのがよく判らない。やった事はイヤホンを引っ張る行為だけなのか、殴ったりしたのか、もし殴ったなら警察を呼ぶべきだし、呼びたくないなら示談金を持参せねば。だが働きのない長男にそんなまねは出来ない。
友人は「謝れば何とかなる」程度だが父は謝らないので困っている、という。帰宅後、「父さん、何やってんだよ」とやるんだが、だったら警察を呼ばせて、絞られて膿みを出して、その後「父さん、何やってんだよ」とやってもいい。事を未然にとどめ、問題の本質をみるための真相の露呈を観客から体よく奪っているように感じる。諸々をオブラートに包み、何となく「問題あり」程度で事は進んでいるのではないか。

探せば違和感は多々あるが、不思議なもので、役者の佇まいとあの音楽、他のスタッフワークでドラマは劇的に見える。

このドラマは「父」が、僅かばかりの変化の兆しを見せる、というラストで終える。正直言えば、これしきの変化に掛ける手間と時間ではないな、との印象だ。なぜあの程度の変化しか見せられないのか。というか、実は人間は「変わらない」という結語であったのかも。
父の変化を望んで書いた作品なのであれば、父はそうめんを食う箸を置き、立ち上がって母の寝る部屋のドアを開ける、位させてみたってバチは当たらないと思う。
高校演劇サミット2019

高校演劇サミット2019

高校演劇サミット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/12/27 (金) ~ 2019/12/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

今回は一ステージのみ、駒場高「てくてく」オーラスの回を観劇。終演後、生徒たちのやり切った涙を見るだけでもう胸が。。通常高校演劇は大会で落ちればそこ止まり、全国まで行けば都合3回程度上演する事になるのだろうか。しかし毎回一回勝負で臨む訳で、今回のように所謂公演として3日間3ステージをやり切るという事は学齢期である彼ら彼女らにとって特別な、大きい事なのだろう。

高校演劇に触れて感じる思「強み」は何と言ってもナチュラル演技。「今」が匂い立つ。社会を操縦しているのは(老齢にして)パッパラパーの権力者たちだが、最も「今」を感知しているのは若者であり良くも悪くも「今」を鋭く「今」たらしめている。オリジナル脚本を書いた人は(多分)大人であろうが、彼らの生活圏と接していなければ書けまい。
彼らを「包囲」している社会という建造物が、壁が、彼らを圧迫し、自分や他者をめぐって苦悶する姿は、客席をほぼ埋めていた中高年男性(に限らずだが)の姿と何ら変わらないと思う。
舞台は美術室。(憂さを逃れて)訪れる生徒らがいつしか増え、常連になった7~8人が不可避に接触していく中で個の抱えるものが顕れ変化も遂げる話であるが、それぞれ「居そうな」人物で秀逸である中、最後に爆弾級=ミュージカル女優を目指すかなりうざい(痛い)生徒を投入。一方「ここで部活やろうか」という話題が進む中でも個性がぶつかる。そこへ「自殺クラブ」なる案が浮上。そこから修羅場、そして終盤アップビートのMをバックに彼らが「演劇」という手段で己らの暗面を表現し始めた場面であるかのような、台詞連射の抽象的・詩的なシーンとなる。
美術室へ逃れて来る彼らは同質性を持たず、傷の舐め合い感が皆無。価値観を異にし反目さえする様相は教室の縮図にも見える。特殊な生徒たちのエピソードに括らせないが、一人ひとりの個性を明確に描き分ける事で群像を立ち上がらせていた。
無論「助け合い」「共感」「連帯」などとはこのドラマは無縁、というより意図的にそこに落ち込む事を避けているかのよう。むしろ相手を突き放す(普段は本音を出せず仲良しを演じるという気遣いに疲れ果てている、その反動のように)。本音が零れ出る場所となった美術室とはユートピアであり、ここで起こった事こそ生徒らの人生にとって真に貴重な学びだ、と芝居が言っている訳ではないが、根源的な問題と向き合う場面と時間をこの演劇は高校生たちに、教師たちに提供したかったに違いないと思えて来る。いずれにしても生徒(役者)自身と役との距離(の近さ)は、この舞台にとっての強みである事は言うまでもない。

ネタバレBOX

別に断る必要もないが・・演技・テキストともに拙さのある本作に星五つの理由。過去見た幾つかの高校演劇の中で最上。飴屋法水「ブルーシート」、柳美里「静物画」よりも。無論これらはテキストが優れていたし生徒らの魅力も引き出していたが、監督(まあ演出ですけど)の存在が大きく見えた。今回の作品は限りなく出演者たち自身に近い劇世界でありながら、超具体から普遍へ手を伸ばし、高尚な領域に触れんとするところがあった。
貧乏が顔に出る。

貧乏が顔に出る。

MCR

OFF OFFシアター(東京都)

2019/12/26 (木) ~ 2019/12/30 (月)公演終了

満足度★★★★

2度目のMCR、凡そ2年振りか。その時のスズナリでの多場面の劇より、OFFOFFに合う萎びた部屋での場所変らずの作劇が良かった。再々演と知っていたが、新作の新鮮さで目に入ってきた。

ネタバレBOX

友達とは何か、を考察するシミュレーション劇。後日加筆、かも。

青い鳥

青い鳥

世田谷シルク

シアタートラム(東京都)

2019/12/25 (水) ~ 2019/12/28 (土)公演終了

満足度★★★★

先日のアゴラに続き、三茶はシアタートラムにて世田谷シルクの「青い鳥」を鑑賞(シアターXの円公演は断念)。主宰・堀川女史は無隣館での修行?を経て、「赤い鳥の居る風景」(座高円寺、2014年)以来の大型舞台で演出的存在感を示していた。原作(戯曲)の持つ幻想的で物憂げな雰囲気をよく再現し、貧しい家の子供・チルチルとミチルが訪れる先の世界もカットせず2時間10分たっぷり。総勢30名程が様々な衣裳で出入りし、固定役を担う数人以外は一人が4~6役を担う。
堀川女史らしい趣向は随所にある。目立った所では対面しあう客の視界を遮るように中央に引かれたレースの幕。照明の具合で透けて見えるが、カーテンを移動・開閉しながらチルチル・ミチルの居る世界と裏側の世界の関係を示したり、病室のカーテンにしたりと場面によって便利に使い分け、時に吊ったバトンごと上に飛ぶ。

今回の大きな翻案はチルチルを病室の老人、ミチルを介助者(病院スタッフでなく身内か、より親身に病人を気遣う人)に変えた事だ。
老人役を青組の藤川氏が演じ(客演は知っていたがチルチルとは予期せず)、大半は旅に同行するメンバーの反目やら、訪問先の世界の描写になるが、やがて旅から戻った(気づいたら寝ていた)現実の場面で、この翻案の着眼が生きる。原作では貧しい小さな兄妹が様々な世界で人物と出会い、現実の世界を支えているもの、即ち自分たちとの関係(約めれば孤独ではない事)を体感し、ついでに隣家の女性が解決されるというおまけ付きの大団円なのだが、今作はもう十分に生き死を待つのみの老人に「今この時」を生きる喜びを全身で語らせる。そして原作どおり、隣の娘との対面へ接続される。この一連の「現実」場面は伏線を回収しながら作者の思いを台詞に無理なく、がっつり書き込んだ戯曲の教科書的な躍動する場面だが、「症状のバロメータ」としか老人の言葉を解しない殺伐とした病院の「現実」にその場面を作った。藤川氏に当てたかと思える嵌まり方で、年輪を重ねた人間の口から零れ出た言葉が堀川氏の翻案意図を結晶させていた。 

ネタバレBOX

「変える(換える)」「加える」演出の作業に、「省く」「兼ねさせる」作業を強化されん事を・・観ていて思ったこと。振付=舞踊表現と演劇(ドラマ)という両領域を跨ぐスタンスで作る事を始めてしまった堀川女史はその表現の性質からして帰属先は自分自身しかなく、受難の芸人生をつい想像するが、着想力に様々な(現実に関わる)知をテコ入れし、製作を続けて欲しい。
ガリバー旅行記

ガリバー旅行記

三条会

ザ・スズナリ(東京都)

2019/12/26 (木) ~ 2019/12/29 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年面白く観た『ひかりごけ・男子バージョン』(確か)に出ていた夏目慎也とG.K.Masayukiの名も見えたのでほぼ全幅の信頼と期待をもって観劇日を待った。スズナリへ到着すると客席の埋まり具合は程々(お陰でゆったり座れる。制作的には何だが)、ステージを見るとこれがまた一風変った仕掛け。鈍く光る(金属製に見える)半円形の台が壁面から出ており、外周に沿ってレールっぽい溝があってその両端、即ち左右のどん詰まりは開口し、のれんの目隠しが垂れている。要は空港の荷物受け取り場にあるベルトコンベアの形だ。冒頭その半円の外周に沿って俳優らが順次立ち、奇妙な挨拶を始める。
客席は程々と書いたが、演出関氏の「芝居の面白がり方」=作風が通好み?客を選ぶ?のだろうか。本作もけったいな演出であったが、確かにガリバー旅行記であった。
方向性は好みである。ただ、漫才で言うボケのアイデアは潤沢なのだが、ツッコミと言うか拾い方が難しい所、切れ味がもう一つ欲しい箇所もある。夏目+立崎真紀子のコンビをしつこく登場させてサラリーマン風ガリバー男にツッコミやらせる反復ボケなど、ボケる事でガリバーから何を遠ざけているか(それによって困らせているか)が、もう少し判りたかった。
奇態なアイデア勝負に見えるが一朝一夕思い付きで出来上がる代物でなく、様々な試行錯誤により時間をかけて細部が作られた感触があった。何つっても犬が登場って・・客に対するボケも極まり、客はどうツッコんで良いか判らないが、いずれ受け方を見つけるのやも知れぬ。

ネタバレBOX

ボケと言えば最後にMasayukiが周りが歌う中でガリバーの旅行を要約して語る。語り口は「まとめ的」なのだがよく聴けば「全部説明しちゃってんじゃん」と、思わず(好意的に)突っ込みたくなったが・・反応は客に委ねる風であった。
「ガリバー」は小人の国を訪ねる話、としか認識していなかったが、実は様々な世界を訪れ、その発見と出会いから人間と人間の理想について思索をして行く話なのだとか。
俳優では、夏目氏の場面対応力をもっと見たかった。大谷ひかるという女優はどこかで印象深く見たという記憶があり、昨年の「ひかりごけ」以外に・・とぐぐってみると危口氏の遺作「わが父、ジャコメッティ」に出演とあった。色んな役と場面を見たい女優。良い書き手や演出には良い俳優が集う(若しくは育つ)と常思うが三条会もその例に漏れずと見受けた。
ゴン太のクリスマス

ゴン太のクリスマス

さんらん

ギャラリーしあん(東京都)

2019/12/21 (土) ~ 2019/12/25 (水)公演終了

満足度★★★★

ギャラリーしあんを好んで使うさんらんの、この場所に相応しいオリジナル戯曲の2度目の観劇。小品なれどユーモラスで中々気の利いた劇。自然光で役者の素肌も見える間近な狭いスペースで異界が立ち上がるという面白さ。この芝居に集った演者も個性バラバラながら好演して愛らしい。久々のさんらんであったが着実に仕事を重ね劇団の地歩を築きつつある事が窺える公演でもあった。
終演後、お年を召したお隣様が「本当にいいものを見たねえ」と言いたげな晴れ晴れとした笑みをくれたので、「そうですね」と会釈で返答。この極小サイズで上演される芝居は目撃者も極僅かである事を(勿体ない意味で)つい考えるが、そんな狭量を霧散させる。
子供の世界を見ながら、ふと人生を思った。ゴン太は健気だが我が儘を言う。それが本心なのか、血の繋がらない親への気遣いという名の愛なのかは判らないが。ただ与えられる事、それに感謝する事(擬音はうっしっしでもいい)、そんなシンプルな人生の時間が、許されていいという事について、長らく忘れていた気がする。 

トウキョウノート

トウキョウノート

青年団若手自主企画 堀企画

アトリエ春風舎(東京都)

2019/12/24 (火) ~ 2019/12/29 (日)公演終了

満足度★★★★

自分が「東京ノート」を知らなかった事に観ていて気づいた。以前観たのは矢内原美邦による舞台で個々の台詞も粗筋もよく分からないバージョン(「東京ノート」を知る人が演出を楽しむ作品)が唯一だったようで。
非常に繊細な、演出の志向がよく伝わって来る舞台。作品は75分という時間が示すように(タイトル表記も変えてある)原作の「物語」を辿るというより、場面や台詞をコラージュし絵画的に提示したものと思われた(粗筋を知らないのでそう見えただけかも?)。
闇に親しみ静寂が際立つ演出で、主人公に据えているらしい坊薗女史の(悲劇の裏返しのような)晴れがましい笑みを湛えた様子と、その他の人間たちとの質的な差が、一方を死者もしくは生者と見せたり、その逆に見えたり、場面が原作モチーフである絵画に見えたり、ミザンスと照明に非常にこだわった演出である。特徴的な演出だが、それが技巧としてでなく情感そのものとして(粗筋は判らなくとも)じんわり伝えてくるのが心地よく、作り手へのある種の信頼を獲得していたと思う。今後が楽しみ。

libido:青い鳥

libido:青い鳥

libido:

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/12/19 (木) ~ 2019/12/22 (日)公演終了

満足度★★★★

利賀演劇人コンクールで2017年の優秀賞を取った3名(いずれも「青い鳥」演出で/最優秀賞無し)の内、二席(二等)の受賞者・岩澤哲野氏による作品。但し利賀では60分、本作は15分ばかり長いバージョン、さすが「演出」コンペ受賞作とあって演出で魅せていた。
利賀での他の受賞者は一席・松村翔子(モメラス)、三席・Ash(カワサキアリス)。「青い鳥」3バージョンを是非セットで観たいと思ったものだが、上の二名の「青い鳥」(一つは受賞作そのものではないが)は目にしたのでこれでピースが揃った事になる。Ash氏のは「利賀では端折ってしまった箇所」(「青い鳥」後半、誕生を待つ魂の世界)をモチーフにした独特な二人芝居で中々興味深かったが、松村氏のはほぼ利賀上演版でSTスポットという狭い場所で観た。コンペが「テキストvs演出」のバトルを見るものとすれば、前者はオリジナル・テキストのため考察できないが、後者及び今回のは確かに演出的側面の色濃い舞台。松村演出は(細部は忘れたが)空間を四角く縁取り、窓を思わせる木枠を使い回して細やかに場面を転回する俳優の動きが印象的だった。今回のはチルチルとミチルを男女の性別通り特定の二名を配し、他は黒っぽい被り物的羽織をまとい、コロス的に立ち回る。二人の演技がナチュラルであるのが(この場合)特徴と言えるだろうか。今回アゴラの通常の入口側をステージとしたが、その理由がラストに判る。寝ている兄をそのままにして、妹が扉を開けると、現実の光が差し込む。自然光の雄弁さが際立った(これは時間帯を選ぶが、会場に合わせた演出なら今回だけの特典という事に)。

ネタバレBOX

件の演出を拡張するなら(というか私の好みを言えば)、ラストの構図の劇的効果を残して、カーテンコール無し、暗転の後俳優は皆いなくなって、先程の扉だけが開いている。全てが夢であったクリスマスの朝を観客も迎えた的な。無責任な意見だが。
キレイ -神様と待ち合わせした女-

キレイ -神様と待ち合わせした女-

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/12/04 (水) ~ 2019/12/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

「観たい!」投稿をしようとした何ヶ月前はこのページは無かった。その時点では既に完売、立見席発売日も開始30分後には売り切れ。キャストの影響と思われるが、前日の当日券予約電話、しかもワンチャンスで通じるとは思わなかった。劇場には座席確保時間内ギリギリに到着し、「最後に残った」二階立見席で観た。不思議と全く立ちが苦にならず、打ち寄せる情動の波に委ねた3時間40分であった。

初演、再演を映像で見、5年前の再々演ではやや失望の感があった(期待値も高かった)が、前回はキャスティング変更程度であったが今回はあらゆる点で刷新、改良が図られていた。
キャスティング面では著名人多数である事もそうだが、歌唱面がぐっと上り、決定的なのは各俳優が役のキャラクターの掘り下げ、新解釈と言って良い人物像の提示があった。これが実に合っており、新たな側面を見せ、さらに楽曲変更あり、新たな歌場面追加もあり、また荒唐無稽を潔しとした元の脚本に意外にもリアルの補強があり、付け焼刃でなく自然な流れを作っており、また恐らく松尾スズキ自身がキャストで登場していた前回までは松尾トーンで舞台も回っていた、その構図を変え、ピースとしての人物らに自立した存在感を持たせていた。
期待半々で赴いたが大きく上回った。松尾氏はコクーンの新芸術監督となるという。力の程を示したと言える。
舞台美術は、基本構成は変わらないものの今回はアジアン・エスニックな雰囲気。全くの抽象から、ある地域を想起させるプランへの変更の理由は判らないが、そぐわしく感じた。
とにかく「キレイ」好きには贅沢な時間。

ネタバレBOX

宮崎吐夢的ギャグも捨てずに歌舞伎の被り物での登場を折節に用意し、初演以来の「いや~俺にまだ出番があるとは・・」(荒川良々)も復活。神をドスで殺す、「ウォーターなのねええ」も維持、取捨選択には苦労したかも知れないが的確に思えた。麻生久美子の「事実は事実」の情感は爆弾級。幼いケガレを演じた生田絵梨花はオリジナルなケガレを作って堂々たるもの。再演で存在感を示した大豆丸(橋本じゅん)の方は女房役麻生を前にしてか「人間的」過ぎる反応で余裕がないかに見えたが演出の指示だろうか。神木ハリコナ、小池ハリコナのキャラ、カネコキネコのキャラ、我らが岩井秀人のジュッテンも前回までとガラッと変わったキャラを開拓。ヘビーメンスシスターズは解体して空き倉庫は娼館となり、そこに居る戦争未亡人は人権団体のご婦人方当人(前は別の役を兼任)、カスミの鈴木杏は、最も楽しみであるエビに噛まれた歌をうまくこなし、落着いた台詞回しで存在感を増したが、全体としても役どころの重心が皆何センチか下がって重量感、迫力が増していた。
音楽はオーケストラピットでの生演奏。テンポの変わる曲など、歌い手のノリに即応しやはり臨場感が違う。こうしてじっくり演奏され歌われると楽曲の魅力がひしと迫る。

難点が一つあったとすれば、マイクで拾った声が方向性を失い、二階席という場所のせいか分らないが、残響=ブレが大きかった。
また、席の選択は、同じ立見席なら上手を選ぶべし。下手寄りで演じられるシーンの頻度が高い。
モジョ ミキボー

モジョ ミキボー

イマシバシノアヤウサ

シアタートラム(東京都)

2019/12/14 (土) ~ 2019/12/21 (土)公演終了

満足度★★★★

秋に同ユニットがOFFOFFで上演した『アイランド』(アゾル・フガード作の著名な二人芝居)を見逃したが、再演を重ねた(2010/2013)ネタを広いトラムで持ち込んでの公演に予約無しで観劇した。後で確認した所、あの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(2015)もこの三人組(鵜山演出を入れて)の上演であった(その時は上演主体は誰なのかチラシを幾ら眺めても判然としなかったが今年漸くイマシバシノアヤウサと名を付けたという)。
大の大人が渋みのある声で、実は子どもを演じていると程なく気づき、大の大人の奮戦を一つ眺めてやろうぞ、と構えて舞台に対した。一面に散らした手描き絵の小道具、というかミニ書割を縫って、二人は妙に活発に歩く。子どもだからだ。だが体力が子どもと違うので疲れるとぞんざいになる。その居直り方も含め、愛らしく思えてくる。
英国のとある街が舞台。学校では異端の類である二人は、町で互いの相棒を見出したのだった。そして二人の冒険の日々が一日一日と重なる。何と言っても二人のテンションを高めているのは、町の映画館で見た『明日に向って撃て!』(1970。原題は「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」ブッチはポール・ニューマン、サンダンスがロバート・レッドフォード)。映画の休憩時間、二人はどっちがブッチでどっちがサンダンスかを決め、後半の続きを見る。正面を向いて映画を見る二人の背後に映像が流れるが、よく見れば出演俳優二人が映画になりきって撮った映像である。有名な♪「雨にぬれても」のキャサリン・ロスとポールとの自転車二人乗りの場面は、ウィッグを付けた浅野とペダルを漕ぐ石橋。
自分が20代前半に心酔したアメリカン・ニューシネマの代表作であるので、「これを使うとはズルイ」と呟きながらも2人のはしゃぐ気持ちは我が事の如くで、衝撃的なラストの実際の音が流れ、画面をじっと見詰める二人に自分はただ共感するのみ。
二人の蜜月は終りを迎え、やがて大人になったモジョ(浅野雅博)が町を訪れ、建物の陰にかつての相棒ミキボー(石橋徹郎)を見つけるが、芝居の冒頭はそのシーンであった事が分る。ここで交わされる台詞は作家の最も力が入る所だろう。過ぎた時間の振り返りをしない事を二人に瞬時に合意させた部分に、作家の願望を見る。子ども時代の二人を決別させる事になった「事件」、即ち「大人の事情」の惨い結末は、それでも二人を決定的断絶に導くものではなかった、という願いである。作家の思いを体現するべく二人はブッチとサンダンスの最後をやって見せるが、ラストシーンというのが皮肉で屈折した余韻を残す。佳品である。

THE CHILDREN'S HOUR  子供の時間

THE CHILDREN'S HOUR 子供の時間

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)

2019/12/12 (木) ~ 2019/12/24 (火)公演終了

満足度★★★★

以前俳小の上演を観た時は随分寝たと記憶していたが、観ている内に筋を思い出した。独特な戯曲で、二人の女性が苦労して設立した寄宿舎付の教育施設を舞台とし、前半は善悪の彼岸にある子供達の混沌・殺伐とした世界を垣間見せ、後半は問題児の「嘘」が引き起こした出来事とその後の哀しい顛末が描かれる。独特であるのは、前半と後半とで物語の色合いが変わって来るところ。
前半は善悪が不分明な、否「大人を騙す」事に命をかけているかのような「問題児」(劇中ではその語で呼ばれる)とそれに翻弄される生徒たちの世界が、現代の私たちが直面する「なぜ人を殺してはならないのか」「なぜ嘘をついてはならないのか」といった根源的問いやイジメという問題範疇へいざなう。対して後半では「嘘」がもたらした悲惨な結果を告発するトーンがあり、それと並行して、ここが本作の頂点というか、どんでん返しでもあるのだが、その事件によって「嘘」であったはずの誹謗中傷が、真実であった可能性について当事者の一方が内省の結果確信し始めるという、「告発」の訴状を無化する話がもたげてくる。その当事者はもう一方の当事者に語りかけて行くに従い、相手を前にそれを確信し、信頼する相手に告白するのだが、あたかも誹謗を受け止め是認したかのように自分への制裁を行なってしまう。
この戯曲で(恐らくたまたま)扱われているジェンダー問題は、書かれた前世紀前半という時代では未だ「権利」の問題としては認識されておらず、ただこの戯曲はその存在を、辿らせた運命は厳しくとも、優しく存在させている、という点で特異な作品だと思う。
さて男性一人、その他全て女性という芝居。配役2チームあり、主要な役もダブルとしていた。
「子供の世界」は秀逸に描かれていた。一方大人の方は戯曲の問題(時代のギャップ)もあって硬質で演じづらい面がありそうであった。前半ラスト、嘘の張本人である生徒を追い詰め、嘘である事を暴こうとする場面で、その追及の甘さが気になってしまう。「そう訊いてしまったら言い逃れできちゃうじゃん」とか。一度他の大人を信じこませてしまった証言を、逐一反証する困難はあるが、しかし都合の良い時に泣き、被害者的態度を昂然として(まるで全身で闘いを挑むよう)とって来るその女生徒が、証言の矛盾をつかれてその証言が自分ではない別の女生徒からの伝聞であったと証言を翻したのに、教師ら大人はそのもう一人の生徒を呼び出して「それを本当に見たのか」と訊いてしまう。証言の信憑性が疑われたはずの問題児の、追及逃れに等しい証言を、疑うのでなく「真実である可能性」を求めるかのように訊き質してしまうのだ。もっと高飛車に「あなたは何を(問題児に)伝えたのか」と、訊かねばならない。もっともそう訊いたとて、転嫁した相手の女生徒の「弱み」を握っている問題児は、証言を引き出してみせただろうが。
戯曲にある、問題児が女生徒の(嘘の)証言を引き出すためにこれみよがしに「弱み」を連想させる単語を口にする、その不自然さに違和感を持たない大人というのも、演じにくいと言えばその通りだろう。
現代の比較的言語力・反駁力のある風情が出てしまうと、問題をスルーしてしまう事が腹立たしくなる。虚偽証言で貶められた大人は、無残に子供に敗北を喫したが、果たして反証を展開して真実を実証できるのか、という所に注目する動機付けが強く刻印される。しかし話はその「闘い」の経過を端折り、名誉毀損を訴えた法廷で敗訴した結果、人が寄り付かなくなった学校に設立者の女性二人が暗鬱に佇む場面になっている。問題児とやり合ってすんでの所で追及しきれなかった、という後味は、真実追及問題を未消化で残してしまう。難しい所だが、子供との対決では大人は子どもに及びもしなかった、という後味が相応しかったのではないか。
その要素として、流されたデマの「内容」が当時の社会(キリスト教国である米国のとある地方)では生理的な拒絶とでも言うべき反応を引き起こすもので、いささか理性的でないやり取りが不可避に生じてしまう背景を、確信させる何か時代考証的な要素が(大変難しい課題ではあるが)欲しかったかも知れない。
以上は戯曲上後半場面への接続を考えれば、の話である。これを現代の上演として見れば、前半の子ども達(特に問題児)の行動線はイジメの構図を仄めかして秀逸ではあった。

ただ最後(注文を続ければ)、問題の諸々が膿を吐き出すようによくも悪くも滞留を解かれて一つの区切りを迎えた時。神経を衰弱させていた主要人物である教師の片割れが、ようやく「外」の空気を吸う勇気を得て、そっと木枠の窓を開ける終幕の図がある。光注ぐ月を彼女が見詰める時間であるが、これが少々長かった。あの尺を取るなら役者は何でもいい心の変化を見せてほしい、という、まあ小さな事と言えば小さな事だが、そういう部分を生かさない所には勿体無さを感じる。照明のアウトが単に遅れただけかも知れないが...。
この小さな部分に自分が引っ掛かる理由は、一応ある。役者が提示すべき事はしっかりと提示されており、後は観客の想像に委ねられる領域となる・・という説明は可能だろう。だが、親切すぎない提示の仕方である方が良い場合と、真実であると信じさせる演技がもっと掘り下げられて良い場合があるとすれば、終幕に月を眺める主人公は、後者であると思う。恐らく解答は無数にあり、もしかするとふと頭に過ぎったパートナーとの楽しい思い出に小さく笑みが浮かぶかも知れない。あるいは教育を目指した若い頃、学問の神秘に向って大きく見開かれた目を、今また宇宙に向かって開いているかも知れない。あるいはただ少し寒さを覚えて身を震わせたが、それでも彼女のある強い意志が視線をいよいよ強くしていくかも知れない。涙を浮かべても良いのだと思う。そこに人間が居る、という事を確信できる事以上に観客が得られる演劇の快感は、無いのではないかと思うこの頃である。

狂人教育

狂人教育

池の下

d-倉庫(東京都)

2019/12/13 (金) ~ 2019/12/15 (日)公演終了

満足度★★★★

数年前、確か北区pit/区域にて二階席(1階=ステージにあたる四角いエリアを吹き抜けの桟敷から覗き込む格好であった)で一度観た切であった池の下の今作は、寺山修司作の中でも印象深い演目。
前観たの池の下は「エレベーターの鍵」だったらしい。端正、隠微、形式美といった寺山修司風な仕上がりに「へえ」と思った記憶。今作は正に「人形」が登場するのでどハマりな演目だろうとぼんやり予想しながらd倉庫へ入場。前とは収容数も膨らんだが客席は中々の埋まりよう。舞台側では開演前から人形メイクと衣裳の俳優が4人、背中合わせにぐるり椅子に座り、天井近くの糸繰りから伸びた紐に腕をくくられ、操られている(そのように動いている)。
1時間にコンパクトにまとまった「狂人教育」であったが、作り手の関心は「操られた存在」=人間も然り、という点にあり(パンフに演出談)、それを反映して人形世界の芝居がメイン、即ち操られた人形の仕草が強調された演技。
一方、医師が残したという「この家族の中に一人狂人がいる」との言葉から犯人探しが始まり、皆が己を「異端」とされる事を恐れ、主人公の小児麻痺の女の子以外の家族は皆揃って同じ行動をするようになり、最終的にその彼女は処刑されるという排除の論理、全体主義のテーマについては、後退の感があった。つまり集団化の過程には人間らしさが濃厚に表れるはずなのだが人形の知能の度合いというか、思考力や認識力が「良くできた人形の仕草」によって低く見えてしまうので、私たち人間に起き得る話という風には(頭で連想を働かせないと)見えて来ない。
冒頭の唄に乗っての猫(紙製)の首切り(ハサミでチョン)、劇終盤の女の子の首切りと、手際よく処理していたが、さらっとやってしまうので余韻がない。さらっとやる所に残酷さを感じたいのだが私の感受性は追い付かなかった

私たちは何も知らない

私たちは何も知らない

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2019/11/29 (金) ~ 2019/12/22 (日)公演終了

満足度★★★★

平塚らいてうをはっきり主役に据えた作劇、そしてキャスティングで、凡そ想像していたビジュアル(雰囲気も)を全く裏切って、歴史劇(フィクション性は抑制され史実をなぞる劇)でありながら、演出的工夫により現代翻案に等しい舞台となっていた。

ネタバレBOX

ロングラン公演も終盤であったが、「女性」=弱者と「同情」という構図を凛として拒む女性像、故にであろうか、感情的な高揚という面では肩透かしである。
だが逆に、らいてうとその生涯の伴侶となる男(唯一の男優)との関係にしても、他の編集員らの懐妊・出産を通じて見える男像も、敵性を滲ませず(男を女の敵として登場させ溜飲を下げるといった場面がない)、「既に自立した」存在として力強く生きる女が描かれる。
そして終盤、らいてうは「青鞜」に関わった人達の未来の姿を映した夢を見る。軍国婦人となった人、抗った人、変遷を遂げる人、らいてうもまたその一人である歴史を生きた女たちが瞬間、群像と映る。らいてうの「未来」は即ち我々の「過去」な訳だが、この登場人物らは現代性濃厚なだけに、らいてうにとって未知なる事態は我々をも待ち受けている、と予感させる。
朝倉あきの裏のない演技、技のない演技(とはこれ如何に)が舞台を淡泊にしている感は大きいが演出者的には狙いであったかも知れない。
「原始女性は太陽であった・・」のラップは舞台のコンセプトを明快に表して秀逸。
リーディングフェスタ2019 戯曲に乾杯

リーディングフェスタ2019 戯曲に乾杯

日本劇作家協会

座・高円寺2(東京都)

2019/12/14 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

至福の公開審査。一篇も対象戯曲を読んでいないが、審査員のコメントからどんな作品かが彷彿としてくる。今回は女性劇作家の審査員を3名とした。川村氏、永井氏の姿が居なくとも、議論は充実。何より劇作の世界の深さを知り、可能性を展望する情熱と思考力、直感を言語化する力が迸る熱い場が、やはり好きである。

アサガオデン(劇場版)

アサガオデン(劇場版)

少年王者舘

ザ・スズナリ(東京都)

2019/12/14 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了

普段もストーリーがあるようで無いような少年王者舘舞台だが、今回はフィーチャリング・夕沈、パフォーマンス主体でもやはり、というかこれぞ少年王者舘という内容であった。クライマックスに夕沈の落語(上方落語)を持って来たがこれが秀逸で、様々な落語演目を想起させる働きアリを丁稚に見立てたお話。(「次の御用日」「七段目」「阿弥陀池」「愛宕山」等等を思い出しつつ聞いた。)
4人の白装束の女性、生演奏は坂本弘道氏で、絡みもある。脳が欣喜雀躍する1時間半。

RITA&RICO(リタとリコ)

RITA&RICO(リタとリコ)

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2019/12/14 (土) ~ 2019/12/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

面白い! SPAC団員・渡辺敬彦演出・脚色による『セチュアンの善人』。氏は演出経験者ではあるが所謂「演出家」ではなく、今回はブレヒトを「苦手」とする宮城聰氏が氏を抜擢したのだとか。演出とは言え「裏方」だからか長い髪を不精に伸ばし、締切り間際の物書きよろしく頭を掻きながら俯き加減にそのへんを動いていた。
世界観的にはSPACで上演された西悟志演出『授業』に近いものを感じた。テイストは違うが。才能の貯蔵庫であるSPACを憧憬する。

Butterflies in my stomach

Butterflies in my stomach

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2019/12/08 (日) ~ 2019/12/17 (火)公演終了

満足度★★★★★

開演少し前から一人、二人と登場する女優。青☆組らしい衣裳はボディラインを淡くぼかす長スカートと、シルクっぽくヒラッとした白ブラウスで揃えている。「交換可能」な7人の女優には「いち」「にい」「さん」と役名が振られ(パンフで確認)、それぞれ7歳、17歳・・67歳までの七子を担当するが、「いち」「にい」の数と年齢が規則的に対応しておらず、「なんで?」と疑問が湧く。
と、客電落ち直前に見たパンフの箇所にこれはOn7(オンナナ)立ち上げ公演へ書下した作品、とあった。個性と主張の強いOn7メンバーとの共同作業の足跡を残したのだろう「いち」「にい」だと納得し、さらに開演冒頭の自己紹介で(役名でなく)役者名を言うあたりにもOn7始動宣言の模様を重ねるとそれが見事な導入となり、役者の挙動を追う内に早くも目頭が熱くなった。
ストーリーは七子の生涯。幼少から老年へと時系列に進む。各女優は受持ちの(年齢の)七子でない七子の台詞も喋ったりとフレキシブル。周辺人物たちも七子以外の役者がコロス風に入れ換わって演じる。
気付けばOn7の姿は何時の間にか消え、この座組としての躍動的な七子物語が紡がれていた。七名はサッカーや新体操のようにフォーメーションを変えポジションを変えて流れるように動き、道具と声を使って音響効果も担う。
青春の日々。それを予感する少女時代。クラスでは女子の眼中にない男子、そこに現われた転校生。恋、そして別れ。いつの間にかしていた結婚。子育て期、倦怠期、老年期。いつしか背景にうっすらと、例の眼中になかった地味な男を伴侶とした、地味だがそれでも丁寧に歩んだ人生の、終末期にその夫への疼きに近い心情が観客の想像力をくすぐる程度にふっと流れる。地味男(夫)専属の福寿奈央の演技はやや突き出ており、遊びがある。
音楽は(確か)使わず、全て役者のアンサンブルが芝居のリズム(うねり)を作り、出来事・行為の「行間」に漂うエーテルのような情感が、打ち寄せるさざ波のように観客を揺さぶるのだ。

ネタバレBOX

距離をとって人生を描写するタッチは数年前同じく春風舎で上演された「海の五線譜」に通じ(作品としては今作が先)、誕生から死までを俯瞰して形式・象徴的表現を模索した舞台と言えば、柴幸男作「あゆみ」が浮かぶ。
だが「あゆみ」がディテイルを削ぎ落とした究極形とすれば、こちらは具体物の手触りがあり、一見不要な要素(遊び)が紛れ込んでいるのが有機的で「形式」が狙いでない事を感じる。
女性像の背後に「戦後」という時代も感じさせ、それが「今」を意識させる。「あゆみ」はノスタルジーに浸らせるが今作はノスタルジーを拒む疼きがある。
365度人生

365度人生

張ち切れパンダ

小劇場B1(東京都)

2019/12/07 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

「365度・人生」・・タイトルの謎解きは本編の台詞になっているのでご安心を。。
今回は張ち切れパンダの「劇団」的キャラを近しく感じる観劇となった。無論その大きな要素は芝居そのものにあり、「七子」という存在を作家と役者が作り上げたこと(薩川女史の持ち味も生かされていそう)。基礎学力に難有り、現実的なビジョンが苦手でその場のノリに弱く、それでも人並みに人情があり情熱的でもあり夢を描く、しかしピントがずれていたりもする。男から見ると(彼女の父のように)叱りたくなり、もしくは遊びたくなる女の範疇。本来多面的である丸ごと一個の人間を薩川朋子が全身で表現した。団員中島が異色キャラを担うが客演陣もそれぞれ細密度の高い人物造形。
書き手は男子に辛辣で、課題解消せず自己責任と放逐するが、七子の生きる姿の前には男の悩みなど霞のよう。女性讃歌であり人間讃歌。物語もさる事ながら、役者たちの「演じる」佇まいに胸を熱くした。

ネタバレBOX

小竹向原でたまたま前日に観た芝居の主人公も同じく「七子」。どちらも愛すべき七子である、と本心から言えるのが嬉しい。
熱海殺人事件『売春捜査官』

熱海殺人事件『売春捜査官』

Project Nyx

芝居砦・満天星(東京都)

2019/11/29 (金) ~ 2019/12/08 (日)公演終了

満足度★★★★

つかこうへいの代表作を味わいたく久々の女性(nyosho)の館・Project Nyxへ。場違い感に抗う構えで、芝居砦・満天星をこちらも久々に訪れたが、小屋の佇まいも何時からか仮住まいを脱して年季の入った喫茶店のようにひっそりとながら図太い存在感を醸していた。
梁山泊で主役級を10年ばかり?やった申大樹が此度は演出(監修に金守珍がしっかり付いてるとは言え)という事で密かに期待を膨らませて開演を待った。パンフによれば北区つか劇団に所属歴があり、念願であったという。
主役を務めた傳田圭菜は彼女の新宿梁山泊(ほぼ)デビューの舞台で役者名を連呼する金守珍の甲高い声の中でその風変りな名前の響きと、初々しく緊張した顔とで記憶にたまたま残り続けた女優だったが、劇団にもしぶとく居続け、近年妖しく開花。今舞台ではスター・システム批判もしなる脚で蹴散らし、堂々たる主役振りを見せた。終演後は礼賛礼賛の拍手。
とは言え、作劇(翻案)と、その演技には難渋の跡も見られ、テキストとしては原作をちゃんと読んでみたく思った(つか氏は「原作」などクソ食らえと言いそうだが)。昨夏の燐光群版は坂手洋二流の翻案は織り込み済みであったが、こちらも加筆されたらしい朝鮮半島絡みの逸話の比重が嵩み、脇筋が膨らむ感じも坂手並みの感あり。
・・もっとも「原作」知らないから何とも、だが。
手の内の多くなく、恐らくは没入型演技の不得意な(今回見ていてそう思った)傳田女史が、女史なりに勢いでもって(滑りそうになりながらも)快調に場面を乗り切って行く様は何とも痛快。台詞が要請する伏線が辿れているとは言えない箇所は多々あったが(演出の問題かも知れない)、登場人物ら及び観客の「期待」を一身に背負って風を切る傳田自身の姿をいつしか観客は追い、終局に至って初めて彼女(傳田女史もしくは木村伝兵衛)が「弱さ」を垣間見せるが、そこから歩み出す後姿は美しく、伏線回収不十分を補って余る力強さがあった。つか舞台は、役者を酷使し、輝かせる仕掛けである(現時点の仮説)。

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