だから、せめてもの、愛。 公演情報 TAAC「だから、せめてもの、愛。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    俳優陣をみて観劇。年末押し詰り、人通りもまばらな夜の下北沢にて。
    丁寧に作られた舞台。飾り込みの得意な稲田美智子の美術、厳選された?俳優、私としては音楽。言葉不足までを補い、作者の伝えたい境域へと観客の心を誘っていた感がある。
    ドラマの軸は恐らく兄弟特に血縁でない長男と、父との家族的繋がりについて、であると思われるが、途中眠気で台詞を飛ばしたせいか(恐らく長男絡みの場面)、終幕で感動にまで至らず。謎解き=状況の全容が次第に明らかになるテンポが、スローである印象。ディテイルに疑問符が浮かぶと残念感が広がるが、幾つか複数に及んでしまい、その分減点になった、だけでなく父の存在がバシッと明瞭に見えてこなかったのが惜しい。

    ネタバレBOX

    ディテイルの大きな一つは、母が寝たきりになってしまったその具体的な症状。脳卒中系で全身麻痺は珍しいように思うが(大概は片麻痺)、それはともかく、まず急性期のリハビリという話が出ない、車椅子にも乗らない、認知障害がどの程度あるのか、ないのか、夫は妻の「どの状態」を見て、それ以上見たくなくなったのか、コミュニケーション不全の線が強そうだが、そのレベルの障害でヘルパー一人出入りしないのは非現実的で、次男も長男も出て行き、主に介護を担っていた次男の恋人(後に妻)が通うにしても限界がある。一日3回は排泄介助が要るだろうし・・など、具体的にイメージし始めると不明部分が大きく、家族それぞれがどういう状態に対しどう対応しているのか、そこがネックで話の輪郭がくっきりしなくなる。
    次男が恋人から妊娠を打ち明けられるくだりの煮え切らなさから、父の反応を言質に次男が物申す場面の運びはうまかったが、それ以前に父の様子が「ずっとおかしい」訳であり、息子らが父の変化をどう見ているのかがやはりぼんやりしている。そもそも変化する前の父はどんな父だったのか。芝居は父が「余命半年」宣告を受けた時点から始まるので、イレギュラーな状況での父しか観客は見ていない。従って息子らにとっての、また家族にとってのこの父の存在の性質は、息子らの父への態度や言動で知るしかないが、ヒントが薄い(例えば余命宣告された時の父は見違えるものがあったがこの頃また「以前のような○○な父」に戻った、などの台詞が欲しい)。
    父が「この頃おかしい」理由は、単に妻が寝たきりになった事、でなく、医師をわざわざ尋ねて告白させているくだり、「死ぬはずだった命を生きながらえている」死にぞこないの感覚(かつての特攻帰りみたいな?)にある、と推測されるが、余命を言われて輝いた命が、またくすんだ色に戻ったというのなら、問題自体は以前からあったわけで、それは何であり本人がどう感じているのかが分りたいが、父は黙して語らない。
    経済状況も気になる。父は治療に3年も専念できる程の資産家か、企業の社長か。
    電車で喧嘩をした父に意見した長男は「お前は息子じゃない、出ていけ」と父から言われ、言い返せず出て行くが、疎ましく思っていた友人宅に上りこみ、宅で飲めば良いものを(金もないだろうに)居酒屋に誘って飲む、ってのもどうか。
    父は時々(兄が出て行く前も)デリヘルを呼んで(一発やるでもなく)過ごす事が幾度となくあるらしいが、仕事をしていない長男が居ないタイミングは?、なども気にしだすと気になる。
    話の発端とも言える「長男は施設からもらってきた」報告を、最初余命宣告を受けたことを息子らに告げたその場で行なうのだが、この時父はどういうつもりでそれを息子に告げたのかが、よく判らない。父は何を正しいと信じる人である故に、それを息子に伝えたのか、それによって父の人柄がしのばれるが、この場面で感じられる人柄は、「後で真実が判って文句を言われたら困る」という程度の、クレーマー対策的な思想しか窺えない。息子の方も、過去の父を勘案して、どうそれを受け取ったのか、もちろん判らない。
    「自分の息子じゃない、出て行け」と話の成行きで言われたのに対し、素直に出て行くのも何だかであるが、その彼が酒に溺れる気持ちが実際よく判らない。父の発言が物の弾みであれば機を窺えばいい、本心からだとしたら、静かに受け止めればいい。脚本を書く演劇人の設定(須貝氏本人に重なるが)なら、もっと自分を客観視できないだろうか。。
    また父の喧嘩の際、警察を呼べと主張する相手(若者)と父の間に入ってとりなし、電話で長男を呼び出すのが彼の友人なのだが(彼は鉄道機動隊?)、登場しないその相手の所に息子は謝りに行き、戻って来ると父を家路へと促す。ここでの友人の判断がまた引っ掛かる。警察沙汰になるなら息子に出てきてもらって丸く収めた方が良い、という考え方も分るが、やはりよく判らない。相手の若者のイヤホンを引っ張った位で。。やった事に対するけじめを父は取る覚悟なのだろう、そこへ「前科がついては困る」と周りが判断し、まるで父の保護者であるかのように振る舞う理由が、「ある事情」にあったのだ、という風に展開のきっかけなら分るが、当然そうすべき事として事態が進むのがよく判らない。やった事はイヤホンを引っ張る行為だけなのか、殴ったりしたのか、もし殴ったなら警察を呼ぶべきだし、呼びたくないなら示談金を持参せねば。だが働きのない長男にそんなまねは出来ない。
    友人は「謝れば何とかなる」程度だが父は謝らないので困っている、という。帰宅後、「父さん、何やってんだよ」とやるんだが、だったら警察を呼ばせて、絞られて膿みを出して、その後「父さん、何やってんだよ」とやってもいい。事を未然にとどめ、問題の本質をみるための真相の露呈を観客から体よく奪っているように感じる。諸々をオブラートに包み、何となく「問題あり」程度で事は進んでいるのではないか。

    探せば違和感は多々あるが、不思議なもので、役者の佇まいとあの音楽、他のスタッフワークでドラマは劇的に見える。

    このドラマは「父」が、僅かばかりの変化の兆しを見せる、というラストで終える。正直言えば、これしきの変化に掛ける手間と時間ではないな、との印象だ。なぜあの程度の変化しか見せられないのか。というか、実は人間は「変わらない」という結語であったのかも。
    父の変化を望んで書いた作品なのであれば、父はそうめんを食う箸を置き、立ち上がって母の寝る部屋のドアを開ける、位させてみたってバチは当たらないと思う。

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    2019/12/31 01:38

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