tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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どさくさ

どさくさ

劇団あはひ

本多劇場(東京都)

2020/02/12 (水) ~ 2020/02/16 (日)公演終了

満足度★★★★

若手の才能を初吟味、とは言いじょう本拠地早稲田どらま館からいきなりの本多劇場、ここで賞味するのはどうかと懸念したが、ちょっと残念。懸念は半ば当った。
無論、彼らの才能の在り処は目の当たりにし、よくやったとは思うのだが、それを十全に味わえる環境とは言えなかった。ただし美術、照明の申し分ないスタッフワークとはこの劇場だからこそ協働できた由であるから何ともだが、作品そのものは恐らくどらま館が相応しく、我々は初演、ないし(確か賞を獲った)昨年の公演を観た上で、その彼らがどう健闘したかを見に行く、が正しい順序だった、多分。声量とか、舞台の雰囲気も小劇場、狭小空間向き。
しかし演出は切れ者、俳優は若々しく身体性高し。それが、もう一つ何かがと思わせるのは、小さめの空間が相応しいと思わせる事と繋がるのか判らないが、能や落語に対する造詣や、演劇的意味を読み解く能力が、何に使われるのか、どこに向けられて行くのか、「何かありそうだぞ」と強く思わせるに今回は至らず、私には。という事のようだ。

ポストトークでは本多劇場公演が決まる経緯からスタッフオファー(ゆうめいの制作請負も含め)にも話が及び、明け透けに喋る若い演出者にも興味を覚えたが、タイプは違えど中屋敷法仁の早熟さに通じるような。中屋敷舞台に私が何処となく感じる「手法を使える職人だが創造者としては思想がない」演出家像、が浮かぶ。新機軸を打ち出し認知されたい野心を持って悪い訳はなく、職人技を磨いて演劇界で仕事をしたい、も有りだ。ある種の「成功」を日本の演劇界で為そうという野心が行き場を失うだろう事や、革新的であることを包摂しない日本社会で演劇というものが芸術本来の役割をどう遂行できるのか、未来ある若者の今後を思うと考え込んでしまうが、余計な心配ではあり、単純に楽しみである。能や落語とツールとしてでなく愛着の対象として付き合える素地には、好感。

ネタバレBOX

舞台は能舞台を連想させる、正方形に近いエリアの隅に柱が立ち、正面から三つの区画、奥にもある。最奥は能舞台の橋渡しに寄せた感じ。柱は一本だけ天空へ伸びている。家屋の床の高さから、手前は一段下がっている。前作は能の隅田川を題材としたというが、この作品にも隅田川岸に佇む幽霊?が登場。一段下がった手前は川ないしは河岸を想起させる。その幽霊に「あなたは既に死んでいる」と言われる主人公は、落語の題材「粗忽長屋」の粗忽者が自分が死んだ事にさえ気づかずいるというブラックな笑い話から想を得た模様。「死」を取り上げ、死概念の揺らぎ、境界の揺らぎ等が表現されていく、この作品はこう纏めて良いだろうか。演出面では、先まで男が演じていた「死んだはずの男」が暗転後、同じ上着を着た女が演じるなど役を交換可能としたり、まあ良くあると言えば今や実験的とも言えない手法を、意図的にやったらしいのだが、含意を込め過ぎて頭でっかちに思われたのは疲労した自分の頭が追いつかなかっただけか。。二人の掛け合い台詞の途中でお笑いコンビ(ミルクボーイ)のやり取りになったりとオモロイ瞬間もあったが(前日はなかったが役者が相談してその回に披露したらしい)。
折しもその翌日に観たジエン社が、ある実験的な公演をやったのを観たが、やはり役を演じる役者を交換可能とする演出について、アフタートークでゲストの園田某氏が解説風に「初めてこういう形態を観る人には難解に思えたかも知れないが、」と断りを入れたのに対し、主宰・山本氏が勢作過程や理念について例の雄弁さで紐解いていた。
これを聴くに、経験値が大きく異なるとはいえ、手法を選択する背景、思索の深さに格段の差を感じてしまった(勿論山本氏が格上である)。それは実際の舞台にも表われていたと感じたが、またそれは別の機会に。
少女仮面

少女仮面

トライストーン・エンタテイメント

シアタートラム(東京都)

2020/01/24 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了

満足度★★★★

他の方の勧めや評判も耳にして腰を上げたのが正直な所だが公演半ば過ぎては当然ながら完売、当日券に並べる日もなく諦めていた所、ワンチャンスが成就し千秋楽を観劇した。ダメ元で劇場に開演ギリギリ(実際は2分過ぎ)駆け込んだ所がトラムシートをゲット、開演にも間に合った。
さて舞台。諸手の拍手とは行かなかった「理由」を考え始めるケースになった。

ネタバレBOX

トラムシートは最後列から劇場全体を見渡す位置。出来る事なら、ヒロイン春日野が身に纏おうとする虚構世界に自分も包まれるエリアに居たいのが願望である。
ところが舞台の方は開演前から備品類が収納されている奥まで見せ、敢えて虚構=作り物である事を強調している。床掃除等をしていたスタッフが去って少女と婆のやり取りのあと、視界を遮蔽する舞台幅に近い黒い壁(=バー春日野の店内を区切る)がゆっくりと降りてくる。スタイリッシュな演出だが、奥行が狭いのが淋しい(作り物性を強調するのだから良いのか..単に見る位置でそう感じるのか..はたまた工夫したが限界ありという事か)。いずれにせよこの遮蔽によって完全虚構世界が作り出された、とは行かず、透き間風がある。箱庭のように擬似世界を温かく包まない。そういった事が一つ。

いま一つは、序盤で飛ばすバーのマスターなど、名調子にも程がある程に名調子なのに何故か温まらない。一度台詞を噛んだが熱があれば気にならないのに気になる。私は千秋楽である事が役者に与える影響をあれこれ、これを見ながら想像を逞しくした。役者を気負わせてしまった、とすれば、これまでも正解が見えず模索中だったのではないか、とか。若村舞台の最後を最高に仕上げたいと役者達が力んだとか。。

あとは自分の記憶の問題でもあるが、大西女史の婆が、妙に存在感を発揮し、主役と相性が悪い。始めの登場からして婆でない「何者か」が婆に扮している、と錯覚させる風情(特に声)、私はうっかりこの婆が後で仮面を剥ぎ春日野になって現れるのかな、等と想像し、若村女史がこの声色を使っている、凄え、役者根性半端なかったんだな、等と思い込んだ。いや、そのくらい婆の作りが思わせぶりで、婆でない者が婆を騙っている風を醸していた。これは演技の質として問題だと思う。思うにこの役なら、水族館劇場の某女優(役者名忘れた)が風貌も声もピッタリである(そのまんまで行ける!)。一方少女役の方は役にピシャリであったが。

水道水を飲みに来る男は春日野に「女」を自覚させる男だがその接触の瞬間までは、「奇妙だけど居てもいい」程度の存在として背景色に馴染む案配でありたい、と願望する。何しろ奥行の無い舞台ではその雰囲気が出ない。焼け跡の時代を引き摺って登場し、そこにその時代を居座らせる水飲み男を周囲が扱い切れないのは、彼らも何処かにまだ戦争の記憶を止めているから。

しかしこれがどうにか少女仮面の舞台になっていたのは若村という女優のオーラの賜物だろうか。宝塚を極点とするスターシステムの花舞台を春日野は夢うつつに生きており、それがこの「少女仮面」という舞台を背負う若村女史の姿に重なる。その図がくっきりと表れるのはカーテンコール。演じた若村真由美がというより春日野が憑依した若村、が挨拶をする、これにより舞台が閉じたように思った。
作り物だと揶揄されれば作り物は作り物に居直り、睨み返すのみ、か。
メアリー・ステュアート

メアリー・ステュアート

アン・ラト(unrato)

赤坂RED/THEATER(東京都)

2020/01/31 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了

満足度★★★★

蜷川舞台の演助出身演出として、藤田俊太郎氏も大河内直子氏も未見だったが今回初めて大河内演出舞台を赤坂REDTHEATERで観、「演出」の仕事としてハッとさせられるものがあった。濃密な二人芝居、疲労のため一幕の後半は実に気持ちよく眠ってしまったが、後半集中できた。歴史の中の女性(権力者)の生きざまが現代的な視線によって再照射された戯曲は、作者の思いが硬質な作りの中から滲み出る風であった。メアリーを断頭台へと送った後、物語は色を変えた照明の中に浮き、二人は芝居の冒頭そこに居た両脇のそれぞれの机(楽屋の一角をイメージ)に戻り、黙って身づくろいをする。中央奥に据えられたアクリル製の?大鏡の周囲には雑然と歴史の遺物が積まれ配置されているが、空いた真ん中の演技エリアには土俵のような円が白く描かれ、芝居中にも活用されるが人と物がなくなったラストにはそれが歴史の表舞台の暗喩となり、薄れていく明りが最後にそれを残して消える。言語説明では追いつかない大きな文脈を表わす非言語表現になっており、これを描かせる感性は芸術家のそれであるなと、思わせるものがあった。
二女優を私は知らなかったが、素材の個性と堅実な仕事ぶりとが印象に。ただメアリー・スチュアートとエリザベス女王だけでなく、それぞれのお付とのやり取り等主役二名以外の役になり替わると、すぐには判りづらく台詞幾つか分置いて行かれる事も。展開の心地よい速度を優先し、俳優はよく動いていたが。。

野兎たち【英国公演中止】

野兎たち【英国公演中止】

(公財)可児市文化芸術振興財団

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2020/02/08 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

久々のala公演、当りであった。
可児市発alaシリーズを知った最初は、懐かしい「秋の蛍」(2013)..プロデュース公演の匂いを初めて嗅いだという記憶が。頑固親父の背中、渡辺哲、おしん以来の小林綾子、今やお馴染み粟野史浩、福本伸一らも居たんだな。とある湖畔でのウェルメイドな鄭義信作のお話を松本祐子が演出。2度目の「黄昏にロマンス」(2015)は平幹二朗・渡辺美佐子による二人芝居、二人の出会いと別れのユーモラスで切ない劇は可愛げで機能的な装置が印象的。最後が谷崎潤一郎の戯曲「お国と五平」(2016)だから今回3年半振りになる。昨年の別役実「移動」には手が届かず悔しい思いをした。

新国立の主催でない公演を「小劇場」で観るのは初めてだが、この劇場が似つかわしく感じられる作品だった。優れた海外戯曲を闇の中に浮かび上らせる小劇場THE PIT。
片言日本語の英国人俳優2名(ダンとその母)と、婚約者ダンを両親に紹介するため英国から日本に帰国した主人公咲子(俳優自身はハーフのよう)が、時折Englishで会話する。その字幕を映す電光掲示板は、縦長~のと横長~い(調度仕立ての家庭用高級スピーカーのような)洒落た箱(全長3m程度か)が二つずつ計四つ。場面ごとに縦横に移動(横長のはバトンを使って上下に、縦長のは左右に)、庭の場面では緑を、別の場面では街区の風景を映し出す。この美術は・・と見れば松井るみ。新国立など大型劇場で馴染みの重鎮美術家は「目の醒めるような」装置を作る・・これには例外がないな、と確認(しかして「目の醒める舞台を作る美術家」と命名、思い浮んだ時はもっとタイトな気がしたが..まあいい)。
岐阜県可児市の一公共劇場が英国北部で精力的に活動する著名な劇場と共同し、質の高い舞台を作り上げた事に素朴に驚いた。物語も日英にまたがる新作戯曲。見開き4頁の当日パンフに載った三氏の原稿が、公演の背景を密度濃く伝えているが、それによると英国リーズ・プレイハウスなる劇場との提携契約は何と13年前。観客と相見える舞台としては初めて、漸く実った成果という。
「drama」とはこういう舞台を指す言葉ではないか。事態を興味深く進行させながら、狭間に微かだが確かに提示される社会的なテーマ。社会生活の中で「問題」を背負った当人の「不在」(このドラマの主題は失踪)が、彼を思う舞台上の人物たちと同じステージへ観客を引き込んで行く。微細を描いて太い幹を感じさせる優れた仕事であった。

不思議の国のアリス・オブザデッド

不思議の国のアリス・オブザデッド

虚飾集団廻天百眼

ザムザ阿佐谷(東京都)

2020/01/28 (火) ~ 2020/02/03 (月)公演終了

満足度★★★★

廻天百眼inザムザを昨年に続いて2度目の体験。血しぶき(私はノーサンキュー)は極僅か。紅日女史の嗜虐性をくすぐるキャラが残酷物語プロパー劇団の支えである(言うまでも無いが)と感じ入る。他の嗜虐アイドル(M系だったりS系だったり)にもスポットが当り、不快な幻想空間は孤から群像への昇華を遂げて「程よい刺激」により生命を覚醒させる場となっている。その需要のありかを感覚し、思いを廻らす時間であった。

コタン虐殺

コタン虐殺

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2020/02/01 (土) ~ 2020/02/09 (日)公演終了

満足度★★★★

久々の詩森ろば戯曲舞台をスズナリで(敵陣に乗り込む構えで?)観た。力作であった。流山児氏の立ち姿も久々に拝んだ。密かに期待していた音楽・鈴木光介は生演奏でフル活躍(ペットを使えるのは大きい..)、劇との見事な絡みを堪能した。
キャバレーすすきのの支配人(流山児)とレディ達による2度挟まれるレクチュア・・「アイヌについて」「アイヌの世界観について」もリズミカルで小気味良く内容も的確。
舞台ではアイヌの二つの部族が同族意識を分断されていく様を明確に描き出す。「和を尊ぶ」正直なアイヌの真のリーダー像と、嘘と策謀にまみれた倭人(松前藩)の権力者との見事な対照が、残酷な悲劇を敗北者側の視線に徹して描いた事で鮮明に浮かび上がった。会場には意外に若者も多く、いたいけなアイヌ娘の悲恋の逸話が涙を誘っていた。
真正直な男を演じれば一品の俳優・杉木氏による(私としては「4cm」以来の)面目躍如たるシャクシャインが、敗北を前にしてさえその吐く言葉がヤセ我慢や高揚感の言わせた台詞でない、と信じさせた事が勝利である。

おんにょろ盛衰記

おんにょろ盛衰記

糸あやつり人形「一糸座」

座・高円寺1(東京都)

2020/02/05 (水) ~ 2020/02/09 (日)公演終了

満足度★★★★

演出家としての名前はよく聞いていた川口氏の本格舞台を初めて鑑賞。上手花道に謡い方と太棹の弾き手が二名ずつ、下手側には敷物の上に太鼓と鳴り物の演奏者。おんにょろ役に元唐組俳優丸山厚人、他は黒衣裳で人形を操る。途中、京劇あり、大蛇のうねりの舞いあり。伊藤雅子の装置の特筆は舞台下手上方に吊られた、うねる曲線で切り取られた大きな板。背後の黒にくっきり浮かんでいる。照明の当りで見え方が変わるが、後半、村人が喋くる場面でふと、板の輪郭が裏返し、周囲の黒部分が山、境界が稜線に見えた。
「おんにょろ」は以前戯曲を読んだが舞台は初めて。糸操り人形劇である事、語りや音曲の使用により、民話的世界がうまく舞台化されていた。

ネタバレBOX

追記するのは「作品」と「演出」について。以前戯曲で読んだ時、木下順二のうまい筆運びは終盤に「劇的」な瞬間を作ってはいる、だが「そうならない展開」もあり得る所を敢えてそう運ばせた意図は抽象的な思考に属し、民話風を装っているがどうも知識人的であると感じた。その事を芝居を観ながら思い出した。
おんにょろという馬鹿力を持つ無法者は、村人にとっては他の厄介者、「虎狼」と大蛇と並ぶ三大災難なのだが、おんにょろは村人におだてられて虎狼、そして大蛇を倒す。大蛇の時は、村人がうっかり口を滑らせた「もう一つの厄介者」の事を教えろと迫り、乱暴をするが、虎狼を倒して来たばかりで疲労のさなかにあるおんにょろの闘争心を村人らは炊きつけ、大蛇退治に出掛けさせる。大蛇退治の様子を見ていた村人らは、おんにょろが大蛇の体に摑まって湖の中に入って3日も出てこない事を確認し、おんにょろと大蛇が相打ちして双方とも果てたと判定、村に帰って祝いの儀を行うこととする。だがおんにょろは大蛇を倒し、草っぱらに放り出されてそこで2日間昏々と眠っていただけであり、村人が宴を催そうとしている時にやって来る。その前に湖に貼り付いていた村人らが一計を案じて、村で待っている者たちに「おんにょろが来たぞ」と触れてひと泡吹かせ、その後朗報を聴かせて安堵させてやるというドッキリを計画。
「劇的」はこれに続く展開で、「おんにょろが来たぞ~」が嘘と真の両面持ち得る事の劇的がある。そこから本丸の劇的へ。おんにょろが「もう一つの厄介者は誰だ!?」(それが人間である事を前のやり取りで聞いている)と迫ると、先程から肝を冷やしながらおんにょろと話をしていた長老が、ついに「それはおんにょろの事だ」とやけくそに告げてしまう。おんにょろは立ち尽くす、というラストだ。
虎狼も大蛇も、おんにょろも人間とは言え、架空の世界(フィクション)の住人である。そしてこのドラマは、村人たちと、おんにょろの二者の関係の物語で、村人の方はどこまでも平坦な現実そのもので、変数はおんにょろ、これが何を象徴するのかを劇の進行で見極めようとして行くことになる。
村に貢献したと思っていた自分が、退治されるべき厄介者とされていた、という逆転は、即ちおんにょろの側に身を置いた、「一人称おんにょろ」としての「劇的」瞬間である。従って観客はこのラストを、おんにょろに肩入れして眺める事になるのだが、そうする事によって何を読み取るかを考えるに、「善意」が(自業自得であるにせよ)「受け止められなかった」という哀しみであり、それを導き出している己自身と、人はつき合っていかねばならない・・・といったところ。
ところが彼は「善意」でそれを行ったのか、そもそも「善意」とは何か、と問えば、虎狼を退治すれば称賛される、自分のグレードの高さを誇示できる、それによって己の欲求をより遂げやすくなる、つまり彼は「権力」を欲しがった、とも解釈可能。ただし「承認欲求」は誰しもあるもので人間的そのもの、単に彼はそれを表わす方法を「知らなかった」だけなのだ、と診てみる。あるいは文化的な違いが解釈の違いを生み、差別の対象になったとも。「おんにょろ」を、例えば日本列島に勢力を形成していたアイヌ民族の末裔が(カムイ伝みたく)狼に育てられ、山に住むようになった・・そんな話を重ねてみる。それでもやはり無理がある。「象徴」としてのおんにょろは、しかし現実の表象である村人らには現実的な被害を与えていた事を戯曲は描いているので。
そんな訳で、最後に取って付けた劇的ラストを据えたこの作品だが日本演劇の古典の部類のようで。

演出について。作品の「欠陥」が、義太夫語りや京劇を入れ、また糸操り人形劇である事により乗り越られていたが、丸山厚人という特権的肉体はおんにょろという役にとってはどうだったか・・面白い試みではあったが「どこか抜けている」感のあるのがこの戯曲には助けになる所、鋭さを持ったやり手二枚目のキャラでは中々難しかったのではないか。休憩前のステージ側照明を落とさない演出、ラストの作りはもう少しサッパリした切れ味が欲しかった。
沖縄世 うちなーゆ

沖縄世 うちなーゆ

トム・プロジェクト

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/01/25 (土) ~ 2020/02/02 (日)公演終了

満足度★★★★

古川健氏の新作戯曲を久々に。青年座、昴、文学座、「斜交」と、評判の聞こえた書下し作品はいずれも見逃したが、今作はテーマが沖縄という事で足を運んだ。
手堅い印象のある小笠原響によるタイトな演出であったが、難点を先に言えば演技面で人物に入りづらさを覚えた。作品へのこだわりと制作(集客)面と、バランスを考えつつのキャスティングも悩む事だろう。
歌い手・島田歌穂が一つの目玉ではあったが(といっても披露されるのは島唄を鼻歌程度)、技を持つ俳優ゆえか、それとも演出か、技巧的・作為的演技は魅せるが、その時その人物に「なっている」のでなく「見せている」、役と役者との距離を感じる箇所が気になる。意図明確な場面での作り方は流れるようだが、最後は人物そのもの、そこに確かに誰それが居る・・その確信に勝る娯楽はない(と最近どこかで書いたが)という意味で、主要人物だけにもう一歩深い彫りが欲しかった。それは他の俳優にも散見されたのだが、古川健の大人しめの台詞運びが「書き切れていない」のか、台詞の背後を「読み切れていない」のか場面処理の問題かか・・勿体無い感があった。
この作品の命は、瀬長亀次郎(沖縄戦後史で最も著名な政治家)をモデルにした島袋亀次郎が、沖縄人民に向かって語り掛ける言葉である。島袋役の下條アトムが、彼が人心を掴み、鼓舞し続けた演説を生の声にした。この芝居の要はこれに尽きると言って過言でない。
ドラマの構造は圧政に屈せず道理を訴えていく勇気を鼓舞するこの演説の、背景としての人々の暮らしがあり、その事がまた演説に反映されていく関係にある。願わくは平場のエピソードが、「人々の暮らし」として普遍性をもって見えて来たかった(彼に繋がる人らの逸話は史実がモデルなのだろうけれど)。

見終えて思うのは、「大和」の罪の裏返しとも言える土地であり、一つのテーマでもある「沖縄」を語る難しさ、そして大事さ(無論ヤマトンチュにとっても)。東演「琉球の風」(中津留章仁)、文化座「命どぅ宝」(杉浦久幸)、そして今作。もっともっと語られたい。

苺と泡沫と二人のスーベニア

苺と泡沫と二人のスーベニア

ものづくり計画

上野ストアハウス(東京都)

2020/02/05 (水) ~ 2020/02/09 (日)公演終了

満足度★★★★

ものづくり計画初観劇。知人が過去作に出演していた事を知り親近感UP、また再演を重ねた前回公演の評判も記憶に。今回はレギュラー作演出でなく、勝又悠氏という映画畑の作・演出二度目の公演であるが、上野ストアハウスは冒険に相応しい劇場。
演劇とは興味深いもの。不思議な感覚の中で興味深く舞台上の「現象」を目で追った。

ネタバレBOX

一定の年齢幅に収まる若手俳優(女性多し)の芝居。中心グループは20代後半の設定(他も下が20代前半、上は30過ぎといった所か)、だが恋バナの風景は高校生のそれに近い(片思い含む。友達でわいわい共有、等も)。もっとも中心グループ6人組は高校時代ダンスを文化祭で発表した「青春」を共有した仲で、酒が入れば往時に戻る、と見れなくもない。
簡素な装置、照明変化で場面の移行、消え物なし、後部席からの遠目で容貌や表情がクリアに見えないことも助けて、全体の流れを鳥瞰的に見る格好になった。

最小限の素材(カット・台詞)でドラマを成立させる技は、編集を旨とする映画の人ならではだろうか。
まず居酒屋で騒ぐ6人グループ(主人公みなみが属する)の席に女店長が連れてきた新人バイト女子と一人ずつ自己紹介させるというリアリティすっ飛ばした導入から、観客のディテイルへの関心を削ぎながらも、舞台の方は馴染みやすいテンポで場面が変わり、「振り」を受けての次の場面という具合に巧く運んで行く。音楽、映画と同じくリズムが優先されている感がある。時間の芸術である音楽・映画は、極論すれば内容よりリズム(言葉の芸術では口調、文体に当たるか)を味わうもの。英語を知らずともLed Zeppelinに熱狂できる由。本舞台も人物の掘り下げが薄くともストーリーの展開に注視させるにはそれなりのテクニックが駆使されているのだろう、観る側(私)が勝手に人物の背景を与え、コマを動かし始める。中身にさほど執着なくとも。面白いものだ。
もう一点は、殆ど居酒屋でしか喋らない仲良しグループのナチュラルな会話の発声とテンポが地味に場面の意味伝達に貢献し、高校演劇にしばしば見出だす彼ら固有の(と信じさせる)台詞及び超ナチュラル演技に通じるものが(これは監督の過去作=映画の題材にヒントが)。高校生ノリの恋愛話の続く冒頭しばらく中年層は置いてかれるが、やがて彼ら彼女らなりの苦悩が覗かれ、共感の対象に浮かんでくる。
主役=みなみは彼氏と7年付き合って煮詰まっている状態。この二人の恋愛が最終的には中心線になるのだが、幸福なはずであるのは二人が仲良しグループ公認のカップルである事、ツツヌケである訳だが、要は「助っ人」は余る程いる。「甘い」と突っ込まれればその通り。

場面は居酒屋(酔笑苑)とその近所のバー(カラオケがある)のほぼ2箇所。
登場人物は大きく分けて6組。
酔笑苑のおかみとバイト娘2人、バーのマスターと女性従業員、主人公の高校時代の仲良しグループ(6人)、主人公の職場の先輩2人、いかがわしい店(スーパーガールズ)の店長(男)と女性従業員、デブ専男とイケメン男とそれぞれの彼女の4人。で、どの組にも属さないのは主人公の彼氏、主人公の親友となる女の子(居酒屋新人バイトがそれ)の二人。
「事件」は、イケメン男が年上のみなみに目をつけて誘い、みなみは疲弊のさなか、新たな恋の到来と浮かれ、やがて付き合う決断をし前の彼と別れるが、相手はクズ男であった。男はいずれ制裁を受けるが、その他のエピソードとして仲良しグループのリーダー的存在(エリート)が職場の銀行を辞めたが隠している事、スーパーガールズのマスターと恋仲の女性従業員とで何か画策しているらしい事、居酒屋のバイト2人があっさり辞め報酬の良いスーパーガールズの面接を受けた事、などなどが挟まれる。
銀行を辞めた女性のエピソードは丁寧に描かれ(少々センチメンタルに寄ってるが)、離反と友情物語の常道を辿り、他の逸話は味付け程度。ここで少々問題ありと思うのは「いかがわしい店」エピソードの顛末。
ドラマの都合なのだろうが、マスターと女性従業員の「謎」がラスト、ミュージシャンとしての夢を叶えるためにやばい店?を頑張ってお金を100万貯める目標を達成した事が判明。彼らは「いかがわしい」目的ではなく、音楽を目指すという「健全な」夢を持っていた、という種明かしを晴れがましくやってしまっている。職業に貴賎は無い、という事を踏まえているにしても、そこで働くしかない人間を、差し置いて脱して行く人間の「成功」にスポットが当てられる。しかも彼らは元々音楽活動をやっていて、地元では知られているのよ、と聞かされる。だったら音楽で勝負しろよ、という話だが、彼らはお金をテコに成功を手にしようとし、カネを貯めるために期間限定で「いかがわしい」仕事に手を染め、しめしめ金が貯まったら「抜け出せない人達」を店で買っておきながらそつなく抜け出して行く訳である。ケツに蹴りを入れたくなるエピソードだ。ほんの脇筋に過ぎないが、これを美談に収めている事はかなりのモヤモヤ。
例の、どの組に属さない女の子(=みなみの親友、暫く会わなかった)は一方のヒロイン然と存在し、身の振り方が注目される所、じつはスーパーガールズで働いており、才能を認められ、また彼女自身も「新しい夢をみつけ」、音楽グループとしてのスーパーガールズ(いかがわしい店としての、でなく)に加入する事になったと発表。汚い仕事としての「スーパーガールズ」から、抜け出した者だけで、この物語の登場人物たちが占められるが、彼らはどういう徳目によってその立場を得たのだろう。対照的なのは酔笑苑をやめてスーパーガールズに走った女子が身が持たないからと断念した事、つまり苦労を耐え忍んだ者が成功を手にするのだ、とどうやら「説明」を施している。
演劇というもの、容姿がその大部分をなす「存在感」が、配役にも反映する所あり、中心的な役が「成功」を得るのに根拠が薄ければ、意図せずして「容姿が良かったから」という因果関係が不可避に残る。・・この種の陥穽は、今のオリンピック、スポーツ界でのメダルへの固執に通じる気がするのは私だけ?

さて、みなみとその彼氏が主役とすれば準主役が仲良しグループになるが、それは、勤務先の銀行を退職していた事実を隠していたメンバーやみなみに対して、終盤ようやくにして彼女らの真顔の台詞が吐かれる事でその内実を表わす。悪口も言い合う仲という所が、この芝居が見せた一つの成果。彼女らの現在の会話がいつしか高校時代へと遷移し、文化祭で発表したダンスのシーンになるなどは中々ぐっと来るものがあった。思い出は美しくて良く、芝居の上でも(だからこそ)存分に美化することが許される。時間の経過とともに「変化」していく哀しみ、無常観、切なさが大きくはテーマに流れている、と勝手に解釈してそれなりに哀感を受け取ったが、やはり終局での個々の展開に工夫が欲しかった。どうにもならないもの、解決できないものの方に着目し、だからこそ仲間であろうとする・・そんな構図が浮かび上がって来たかった。
クリシェ

クリシェ

ティーファクトリー

あうるすぽっと(東京都)

2020/01/29 (水) ~ 2020/02/02 (日)公演終了

満足度★★★★

パフォーマーとしての川村毅は新人戯曲賞審査会で垣間見ていた。「やり手」であった(審査員や司会としてだが..何しろ声が通る)。その川村氏が昨年の審査会に姿を見せなかった。昨秋の劇団公演あたりからどこか孤独な勝負師のオーラを出していたが(個人の印象)、どうやら劇作家協会からも撤退したらしい(恐らく)。
組織に居る事の安定と窮屈さから抜け出たのだとしたら、やはり真っ向勝負を始めたという事ではないか・・。等というのはゴシップ並の憶測であった(失礼)。だがそんな想像と今回の「クリシェ」は妙に馴染んだので、ゲテモノ見たさに足を運んだ。
劇場へ走ったが冒頭を見逃し、語り手役の男が導入で語った情報がどこまでであったか・・老いた元女優姉妹が住まう邸内の状況が、見終えた時点で悔しくもスッキリ解明できず、未消化(いつか戯曲を立ち読みするつもり...コラ)。
だがそれをおいても、過去の栄光に浸り、今がその時であると倒錯し、周囲を巻き添えにして生きる・・その姿そのものを「こわい」と思うのは何故か。自分がそうなりたくない(だがなるかも知れない)醜さへの恐怖。守りたいものなど無い、と思っている者でも、恐怖映画を見て恐怖をおぼえるのは、やはり何かを守ろうと構えているから。恐怖はだから、己が美的感性、願望を指し示している。そして勿論、そこには差別の根源がある。
ナルシスティックな悲劇的な叫びを観客が受け止めるのでなく、グロテスクの様相に観客が叫びを上げる。最大のガス抜き。もっとも今作は謎解きの順当な道筋をたどる折り目正しいお話のようで。

グランギニョル、という見知らぬジャンルを観たく一時期焦がれたものだが、今作がそれだとしたら想像と違った。BGMに阿鼻叫喚の声、人が死にまくる、血を浴びて快感!・・そういう劇団既にあるが、これは何だろう。破壊願望か。ふと思い出したのは、小学生の頃、お化け屋敷に憧れ、住みたいと思った。怖いものと同化したい欲求・・少年期特有のもの? 性的な領域とどこか繋がっていた気も。。
人が人でない存在によって不可避に苛まれる状況が、人を「生」へと駆り立てる・・その力を求めていたのかも。
一体何の話だ。

まじめが肝心

まじめが肝心

文化庁・日本劇団協議会

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2020/01/24 (金) ~ 2020/01/30 (木)公演終了

満足度★★★★

たまにはエコー劇場で気の利いた喜劇を、と足を運んだ。かのオスカー・ワイルドが書いた18世紀の戯曲だったとは観劇後に知った。階級意識丸出しの婦人の台詞や牧師の登場など古めかしさが漂うが、作り込まない美術や人物の按配に現代感覚がある。演出・大澤氏は「翻案」とあった。
人の取り違えから大騒動に発展する喜劇では双子(又は兄弟)、あるいは瓜二つの人間という設定が常套だが、この話は架空の「弟」アーネストという存在が(居ないながら)中心となる。前半は伏線のための平常なやり取り、それが後半一挙に立ち、ドタバタとスピーディに喜劇が展開する。最も深刻なはずのエピソードの伏線が、ついでの如くサラリと回収され、最後を締めて大団円。

ネタバレBOX

見終えてもう一つ何かが・・足りんなァ、と考え始めた。未だ言葉にならず。
青春の門ー放浪篇

青春の門ー放浪篇

桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>

桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)

2020/01/25 (土) ~ 2020/02/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

鐘下OPALで忘れ難いのは「汚れつちまつた悲しみに」。その後も蛇口の水滴が時を刻むヴァイオレントな鐘下舞台を桜美林で観てきたが今回はその衝撃に近い。同演目は以前虚構の劇団による千葉哲也演出版を(確か雑遊で)観たが、彼らも若かったが現役学生、即ち登場人物である学生劇団メンバーと同年代である俳優らの存在感が数段優っていた、というより彼らそのものである。その分年齢の遠い役では苦戦していたが。だがその高い壁に向い、がむしゃらに食らいつく姿がある意味作品中の彼らに重なる訳でもある。
入場すると茶系の時代がかった柱や台、周囲に眼を向けるとやはり赤茶けたトタン板が張り巡らされ、塗装が剥げて焦茶の地肌が覗く鉄骨が劇場全体、天井にまで渡されて居る。ふと何処かの倉庫劇場かと違和感なく客席で場に馴染みそうになるが、いやいや全て設え物(のはず)である。両面客席が棚田のように組まれ、奥が闇に消えている。劇場の隅々まで舞台の時空を行き渡らせたい学生らの?ひたむきな心を想像する。
威しの音響が若者向け、ライブハウスで大音量に身を任せた昔を思い出す。かと思えば遠くで唄う声など繊細な仕事は、プロの手触り。随所に演出的趣向があるが、何よりイノセントを旨とする(巧まない)若い俳優らあって初めて効奏するもので、補助というよりハードルである。
自由の境域の先へ踏み出す危険と快楽がそこにあった「良き」時代、男前の作者の「出来すぎた」青春の日々を如何に憧憬しようとも絵に描いた何とかの部類、以前は決して自分の人生とシンクロしない話なのであったが、ここ桜美林徳望館劇場で展開するのはその炭坑出身の学生が主人公ゆえのカタルシスがトタンに囲まれた箱の中に反響し、、恐らく自分がその位置にあるだろう周囲の者共の中に突き刺さり、観客も彼の挙動に完全に同期する。
全員が孤高であり一まとまりに出来ない痛々しい「個」でなければ真の群像とはなり得ない事を感動とともにかみしめた。

それは秘密です。

それは秘密です。

劇団チャリT企画

座・高円寺1(東京都)

2020/01/23 (木) ~ 2020/01/30 (木)公演終了

満足度★★★★

初演は観ていないと思っていたが、お笑い芸人、逮捕・・?よく調べたらアゴラで観ていた。深刻な話題と、劇のスタイルとの乖離を若干感じた事をぼんやりと。
だが今作は初演とは舞台風景が異なり(サイズも倍以上)、チャリT路線での磨かれ方ではあるが光沢のある舞台に。美術のダークグレイがテーマにも即して硬質さと柔かさを許容し、キラリ光るものを感じた。
とは言ってもチャリTの本領は「問題の噛み砕き方」「説明の巧さ」にあって(以前「40minutes」で観た芝居(IS日本人人質事件の顛末)が私的にはベスト)、ナレーション(解説)とそのユーモラスな文体がそれに貢献し、説明のテンポに乗って芝居が進行するスタイルである。
テキストとしては情報を出す出し方・順序にやや難有り、「今注意を向けるべきはそっちじゃないでしょ」という躓きや、もっとディテイルを埋めて欲しい箇所も散見されたが、問題の焦点を一箇所に集約する方が得意なのだろうチャリTが、多面的で割り切れない「現実」の痕跡を舞台に残すことに(結果的に)成功していたのではないか。
俳優の「演技」は記号的で、感情移入を拒まれてしまうが・・

ネタバレBOX

・笑いを狙ったと思われる刑事二名のコント?の精度はもう少し上げたかった。
・お笑いコンビ達が冒頭のやり取りに小ネタが挟まるのも堂々と笑いを取りに行ってないように思えたり。

・中東への自衛隊派遣がイラク戦争時代の話なのか近未来(今般の中東緊迫からの)か、やや不明。非戦闘地域で起きた戦闘の残酷さを証言する婦人が語るのは伝聞情報、その出所は?...等の違和感はあるのだが、秘密保護法と「戦争」の親和的関係には真実性があり、極端なストーリーとは今や思えない現実に生きているのだな、と思う事である。
『どんとゆけ』

『どんとゆけ』

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/01/25 (土) ~ 2020/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

出だしが『だけど涙・・』と同じ。もっともこちらが元祖である。以前元祖と併演された『あしたはどっちだ』も、元祖の物語の数年後設定のスピンオフ。元祖に出てくる最も特徴的な人物・青木しのの過去に繋がるのが『だけど涙』だ、とは本作(元祖)上演後の挨拶で知り、工藤千夏の構想の的確さにひどく納得する。
それにしてもこちら元祖は傑作の部類。「死刑員制度」なる制度が存在する架空の物語であるが、想像を超えた状況に思わず笑ってしまう余白と、それでも場に流れる時間のリアリティが、絶妙に混在している。
配役がまた絶妙である。なぜぽこぽこクラブの彼?いやいや。若い死刑囚役、メイド衣裳で迎えるその「妻」、被害者の父、妻。問題の焦点がスペクトルのように移り変わるのも素晴らしい。

ネタバレBOX

その他・・
*積み上げたボール箱を止める木材が、所々十字架又は墓標となっていた(『だけど涙』では前列最端の席で分らなかった)。
*本作の初演(2009年)の前年公開された映画『接吻』がちょうど死刑囚の妻になる女の話。触発されたと想像するが、映画は女性の「精神(狂気?)」に焦点化していったのに対し、本作は明確なテーマを据え、しかも女性の存在に芯が通っている。
*「死刑員制度」はネガティブな制度ではなく、死刑の正当性を被害者(遺族)感情のみに限定し、被害者が望まなければ死刑は執行されない点で、一定進歩した制度だ。被害者側も処刑に立ち会う事以前に刑に処する決断を行なう点で覚悟を求められる。
悪霊

悪霊

CEDAR

シアター風姿花伝(東京都)

2020/01/23 (木) ~ 2020/01/29 (水)公演終了

満足度★★★★

風姿花伝にて中々本気勝負の芝居を観た。『胎内』『夜への長い旅路』など重厚な古典に挑戦しているユニット、とだけ。俳優陣そして演出も恐らくは若手であろう(三十路も若手の内ならば)、初めて観るユニットであったが作品世界に肉薄していた。
原作は読了していないが、何つってもワイダ監督の『悪霊』。二十代前半の心はガクガクと揺さぶられた。以来特別な思いがある作品だけに期待を募らせて劇場を訪れたが、休憩挟んで3時間20分興味津々、人物達を凝視し続けた。
映画の方は二十年以上観ていないのだが鮮烈な場面が断片的ながら記憶に刻まれ、観劇は結末までの道程をなぞる時間になった。ドストエフスキーの原作を、カミュがどの程度脚色したかは不明だが、映画版より原作に近いと推測された。映画はシャートフ目線で描かれ、舞台には登場しなかった妻(イザベル・ユペール)が恋に破れてシャートフの元へモスクワから戻る場面が序盤にある。この二人のプライベートな空間の描写が、結末を一層痛切なものにしていた、という事に今回気づいた。登場人物とエピソードがある程度そぎ落とされ、印象的な場面が断続的に連なる中から背景を類推させる作りであった(まあ映画的処理であるが、画面と人物が非常に印象深い)。
一方舞台のほうは冒頭から新劇の味わいで(外国戯曲ゆえか)、人物が面白く登場しては絡み合って行く。エピソードの繋がりがきちんと説明され、それでも登場させた人物全ては描き切れず、小説が描く物語の壮大な広がりを想像させた。
ロシアの地方都市の青年が「先進思想」にかぶれていく過程の中で、悪魔が暗躍する。権力や指導的地位への欲望・復讐心が、平和や人々の幸せの実現のための社会改革という目的を凌駕する。悲しい現実は、わが国の「左翼」が陥った一つの帰結である連合赤軍事件に殆ど直結するが、これは閉じた組織内の事でなく、私には今の現実そのものが策士ピョートルの罠に嵌った状態にみえる。「おかしい」と思いながらそれを言えず同調してしまう、策士が勝利した社会。

劇団黒テント第78回公演『ぼっかぶり』

劇団黒テント第78回公演『ぼっかぶり』

劇団黒テント

「劇」小劇場(東京都)

2020/01/22 (水) ~ 2020/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

約一年振り、とは言っても2019年中にはお目に掛かれなかった、黒テントの瓢けたお芝居。戦前戦中を生きたある歌人の生涯を独特の構成と演出でやっている。黒テントだけにやっぱり歌がいい。座長でござい服部吉次がぺーぺーの如く随所で細かな芝居(先日若葉町で見た龍某氏とえらい違い)、紅二点は本木&平田、心配する勿れ婆役内沢(久々)始め混成ならぬ混沌部隊。滝本女史、及び当日スタッフに居た女優3名の不参加は単なる配役上の問題?
不思議な味のある劇になっていたが、役名があるような配役なら人物の粒立ち(書き分け)がもう少し欲しい気も。もっともこの種の劇にしてはよく書かれた方だとも(千秋楽コールの役者紹介では一人一役であった)。。
千秋楽の幕を閉じた劇場を出て所用を済ませ、劇場前をたまたま通ったらバンに荷物を積んでいた。「これだけ?」よく思い出せば舞台上に出ていたものと言えば、蒲団、時々キーボード・・だけだった。照明一つで多彩に場面を作り、「学校」場面での蛍光灯色の明かりは秀逸で、飾り皆無のホリゾント?にも映えていた。
終演後の舞台挨拶にて、黒テントは今年50周年だと知る。模索しながら生き続ける劇団に秘かなエールを・・。

ポポリンピック

ポポリンピック

ゴジゲン

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/01/03 (金) ~ 2020/01/21 (火)公演終了

満足度★★★★

ロングランの序盤(2か3ステージ目)を観劇し、もう一回観てみたくもあったが叶わなかった。
ボーリング場に捨てられ不遇に育ったポポの物語。ボーリングが染みついてるポポは生活の中にボーリングがなきゃならず玉を持ち歩き、時々投げるという、特殊な生い立ち故の特殊な人間という設定。ストライクしか出さないポポは最初持て囃されやがて飽きられるが、あるボーリング場に職を得て仕事仲間を得る。またロッククライミングをする男と出会い、初めて「親友」を得る。
難を挙げれば、、オールメイルの若手俳優らは学校の教室の隅で目立ったやや不良男子グループ風・・役柄より俳優自身のキャラでファンサービス的。要は若い女子の肩笑いをゲットな存在キャラ。あと型で決めるギャグ(これも若い女子にアピール)を優先し人物イメージにブレが(特に主人公ポポ)。(先日別のレビューで触れたが)オリンピックの選考に漏れた種目を盛り上げようという「他意なき」イベント=純粋さを印象付けるため、アンチ(オリンピック反対派)を「これと間違えられちゃ困る集団」として自らを区別し、世間に取り入る姿勢(「誤解されて可哀想」と、観客のシンパシーを獲得できるとの前提だが、これは痛い)。また親友が頑張ってたスポーツクライミングが新種目に選ばれるや、ポポらの署名活動(ボーリングを公式に)にも、イベントにもえらく冷淡、「こっちは国を背負ってるんだ」とヒロイックに切れる姿は定型的(ありがち)でリアリティがない。あんなにスポーツを楽しんでいた彼が「楽しむ」境地から離れている時点で五輪って何?、アスリートとしてもどうなの?、いつからメダルを国威発揚・求心力にする途上国に日本はなっちゃったの?・・等々疑問を投げかける契機は多々あるが、石を投じる事がなく、最後は「世間との適切な距離の取り方」に戻って行くという話で、「それに抗おうとしたはずでは?」と。面白いのはポポがストライクを取れなくなるというラストだが、総じてこれらは作者がそうである所の「突出した才能で勝負する世界」の話であり、若い頃のある種の才能が発揮される場を得られず、紆余曲折の中で摩滅し、別の生き方(創造の方法)を模索するか勝負の土俵から退くか、次の人生のステージへ移る局面を描いているように見える。
「親友」の変貌はリアリティの面で厳しいが、公式選手はさながら正社員で、それ以外は非正規社員、上に立つ人間には責任がある、お前ら気楽でいいよな、と言う言葉の裏に「公式」とか「公」とかそこに繋がる「責任」の側から、格下を見下げるような「今」の空気は意図的かは判らないが舞台に反映ている。
理不尽さから反旗を翻したか、ラスト、仲間はどういう訳かヘルメットをかぶり、いつしか「アンチ」となっている(外見は間違いなく)がこれは唐突。オリンピック開会式会場の壁の前で、式を妨害するためなのかマイナー種目のスポーツの祭典への参加というだけを貫くのか判らないが、開会式の開始の合図を待って各々待機している所、ポポがふと空を眺める。それにつられて他の者も「戦いを忘れる」時間に入って行く。気づけば開会式は始まり、タイミングを逸していた。
ここだけ抜き出せば、戦場で夕日を眺める的なイイ話っぽいのだが、結局のところ彼らの行動の動機は何だったのか、うまく掴めない。

ただ役者らの敏捷さ、身体能力、ギャグを成立させる瞬発力で上演時間はコース料理のように飽きずに最後まで運んでくれた。俳優の実力を愛でる上演。美術も機能的でなかなか巧かった。

『だけど涙が出ちゃう』

『だけど涙が出ちゃう』

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/01/23 (木) ~ 2020/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

『だけど涙が出ちゃう』(工藤千夏作)を観劇。死刑制度がテーマの2本立ての一つ目。良い出来。出ずっぱりの三名が客演であった。家の主であるマサミ(山藤貴子)が居間の座卓に腕を付いて待つ。そこへ現れる神原(各務立基)と、お目当て天明留理子(神原の手の手錠に結ばれた縄を握った刑務官役)。二人の登場から会話が始まり「状況」が徐々に氷解し見えて来る。死刑に関する新たな制度に揺れる架空の物語にリアリティを与える畑澤聖悟の父(妻を死なされた遺族)、その娘(三津谷友香)。計5名の芝居。
今の現実と少しズレた架空の現実を、段ボール箱を使った山下昇平の美術、中島氏の照明が支えている。
死刑制度論議の優れた素材と感じた所以は、これも議論のある尊厳死に纏わる事件を扱った事、そして被害者(遺族)感情の絶妙な所を提示できた事(畑澤の演技も大きな要素)。

雉はじめて鳴く

雉はじめて鳴く

劇団俳優座

俳優座劇場(東京都)

2020/01/10 (金) ~ 2020/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

俳優座でも小劇場界に出張る保亜美や清水直子、また若手を配し、年配をエライ役にしない戯曲、杉山至の(久々見た)グレイトな美術で、新劇の俳優座の舞台である事をふと忘れ「事態の細かな推移」を凝視する小劇場演劇の世界に入り込んでいた。
女性の会話がやはり巧い作家。俳優座俳優が精度高く戯曲の要求に答えていた。危うげなストーリーが崖から転落せず踏みとどまってイイ話に収まるが、これが青少年(人間)理解の議論に一石投じる結末となり、広く現代批評ともなる。微かな辛味が(私としては)作品の命であった。

ネタバレBOX

二つの時が流れていた事が最終場で分るのだが、三十年の時を経た「答え合わせ」が本当に正解であるのかも含め、単純に割り切れない人生の時間を思わせられた。十代当時、学校という空間で、「俺に仕事をさせろ」状態の教頭も含めて(含めて良いのか疑問はあるが・笑)、彼を巧くいなす女性校長、ズルいサッカー部顧問、主人公である副顧問の女性教師と、新任のスクールカウンセラー、そして同部員の生徒(男女)が、問題の男子生徒と彼が離れたいと思っている一人親(母)と対峙する場が、彼を救わねばという真摯な思いを凝縮して結晶となる。その伏線は、演出か戯曲の指定か、芝居の冒頭に飛び交う声、即ち問題の生徒を探して呼ぶ声である。舞台中央上手寄りに立つグランド用スピーカーを通して流れる幾つかの声が、限定された区域を越えて行く音として残響するのだが、これと装置とのマッチングが素晴らしい。
多様に使いまわす回転舞台を舞台手前中央に据え、奥にややカーブのあるプラットフォームが左右袖まで渡されているが、それら全体がくすんだコンクリートの地肌色で、特に奥の高みのある通路は左右に立つランプと相まって、高速道路に見える。ごうごうと鳴る走行音に「声」が掻き消される情景がまず提示されるという按配である。前方席から見上げる角度がその印象を強めたのかも知れないが..。
奥の通路は「もう一つの時間」で、年を重ねた男がさらに年嵩の女性の車椅子を引き、見晴らしの良いそこで会話をする場所になる。
殺伐とした都市の象徴から、喧騒を離れたのどかな時間への変化。変化する背景色、生々しくひりつく「現在」が展開する回転舞台エリアとの対照も印象的であった。
ニオノウミにて

ニオノウミにて

岡崎藝術座

STスポット(神奈川県)

2020/01/11 (土) ~ 2020/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★

STスポットの狭い空間にはパフォーマンスエリアが大きく取られ、その片隅に申し訳程度の客席が割合スシ詰めで30席程度か。
このユニットの初見が数年前、横浜での殆ど取り付く島のない抽象舞台であったが、その風景を彷彿させた。ただし今回のは面白い。自分の感覚が耕されたのか..、しかし作り手の「問い」がより普遍的か否か(普遍的表現に昇華されているか)も大きな要素のはず。
言語化して伝える材料が見出しづらいが、四角の台上の世界はある種の箱庭。愛着を感じる。そう言えば初見舞台にもあった宙に浮かぶ大きな球体が、場面によって色を変えて幻想的に光っている。もう一つ魅力的なアイテム、弦楽器は三つの伝統的な楽器を兼ね備える(これ如何に)。

ネタバレBOX

本舞台は最終的にある結語へ集約される「集約型」でなく、当初のテーマからイメージが拡がる「拡散型」と言える、と言ってみる(トータル的には集約されねば演劇としては売り物にならないだろうけれど)。
奇想天外と言えば地点、先日観た鳥公園もそうであったが、装置など一工夫も二工夫もしているがそれが果して何に貢献しているのやら(笑)。チラシ通り「和」に寄った出し物で、せり上げた長方形の木の舞台、語り口とその中身も、能のテイストが(終わってみれば)そこはかと匂っていた。
従って身のこなし所作や装置を設える動きなども儀式として連続性があり、といって俳優は和のモデルに「似せて」いる訳でなく、独自。この舞台での約束事が自律的に成り立っている、と見える。
三幕の内一幕と二幕の間に休憩があり、おもむろにシュウマイセットとお菓子を売り出していた。思い返せばこれは歌舞伎系の劇場で休憩=食事として過ごす時間の再現である。売らんかな精神よりささやかながらのサービスでございます的売り子の雰囲気。場に馴染んでいた理由はそのあたりに。

といった具合で雰囲気はとても良いが、魚の外来種と移民を重ねてみる着想は、お伽噺に潜り込み、現実社会で首を出す、という風に行きたかったがそこは難しいものがあった。

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