君の庭
地点
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2020/10/01 (木) ~ 2020/10/11 (日)公演終了
満足度★★★★
KAAT公演「悪霊」が地点との遭遇であったが相変わらず面白い。各種取り揃えた古典を弄ぶ演出手法には好き嫌いもありそうであったが、このかんの「垢の付かない」新作(しかも日本語)3作目になる今作も新鮮味を失わない。理由は新鋭松原俊太郎の言葉の鋭さであるのは間違いないが、イェリネクに似た殴り書きのような独白のテキストと地点との相性も大きい。
天皇家が本人として登場する舞台に、一瞬「テーマは天皇制」?と構えたが、時計回りに回転する雛壇に座る天皇(皇帝?)以下の皇族四人(チラシ・パンフにキャスト5人とあるが当日の変更だろうか、説明なし。・・もっとも誰が台詞を吐こうがさして変わりなし)の、形が滑稽を醸すので、この「日本国の象徴」をどう弄りつつ国民を風刺するのかに速攻興味が移る。
断片的(チラ見せ的)で仄めかし臭を放つ言葉の波を心地よく味わった。
・・が、着地点を見定めるあたり=終盤に睡魔が襲い、芝居の結論を受け止める材料を逃してしまった。それでも言語化困難だが笑えるニュアンスの数々を浴びた感はあってそれで十分な気分になっている。
馬留徳三郎の一日
青年団
座・高円寺1(東京都)
2020/10/07 (水) ~ 2020/10/11 (日)公演終了
満足度★★★★★
これは秀逸、作家は青年団所属だが作品に触れるのは初めてだっただろうか。老人物に「在り処」というこれも中々秀逸な短編があるが、長野の過疎集落の一軒家を舞台に書かれた本作は、やがて見えてくる作家の着想に意表を突かれ、前のめりにさせられる。狙って書けるものだろうか・・神が味方したのではないか・・などと戯曲の出来に注意が向くが、ある部分でリアルを外した奇天烈な「演技」も効奏していそうな。
主客の逆転、小気味良く予測を外す展開、そしてじんわり滲み通る情感も悪くなく、もう一度観たくなる(観られないが)。
マッチ売りの少女
青年団若手自主企画vol.84 櫻内企画
アトリエ春風舎(東京都)
2020/09/26 (土) ~ 2020/10/04 (日)公演終了
満足度★★★★
3人で演じる別役実作「マッチ売り」、弟役が透明で声は録音か(台詞を別に処理していたか忘れた)。ほぼ戯曲の通りであったと思う。老夫婦の元を訪れる「女」は壁際に離れ、お茶をよばれる。立ち位置は実際の距離を表わさず、弟の存在は「実はいないのかも知れない」(共同幻想?)想定も可能であり、さらに外に寝かせてある二人の赤子の事も妄想か、と自由解釈できる作り。そうした処理は土台を失い抽象画の域に行きかねない所、実体を与えているのが俳優の声・佇まいで、この上演でも本戯曲は成立していた。
夫婦が茶を飲む折り畳み式テーブル(ハイキングとかで使いそうな)は最後は折りたたまれて「妻」役の男優が持ち去るが、そのタイミングは夫が「女」の過去の商売の客であった疑惑が語られるあたりなので、それへのリアクションと見えなくなく、夫はその場に残されるので、あるニュアンスが見えたり、戯曲解釈を遊んだ形跡があった。別役氏が紡ぐ「小市民」の老夫婦の言葉遣いも不意の来客(女)への対し方も、改めて味わい深く噛みしめた。
親の顔が見たい
Art-Loving
APOCシアター(東京都)
2020/09/16 (水) ~ 2020/09/22 (火)公演終了
満足度★★★★
日が経ってしまったが...。Art-Loving2度目の「親の顔」、こだわりの演目らしく、1度目とは上演条件、配役、劇場空間が違ってもこの戯曲を味わい楽しむ様が伝わって来た。俳優陣は実力派のようであるがステージ前面に透明幕を張り、演技エリアをかなり狭くとった事などにより、学校控室という空間でのリアル感と、声の届き具合に難点(あの幕を張るなら客席はもっと前にせり出して良いと思った)。厳しかったのは終幕近くで妻が夫に対する不満(親子関係の築き方)を堰を切ったように吐き出す場面、台詞が言葉として聞き取れず、同時進行では置いてけぼりでポカンとなった(後で確かあの場面の台詞は・・と思い出して補完し連続性を持たせたが時間差有り)。妻の「感情」は非常に重要だが、彼女が紡いで投げかけた「言葉」はそれ以上に重要だと思う。
さて私の注目点は一つ。即ち、上記の夫婦が閉じ括るラストの収め方。「言葉」が重要と書いたが、それは彼女の考え方、スタンスが奈辺にあるかが重要だという事でもある。
ミステリーの構造を持つ本作は、女子高生徒を自殺に追いやったらしい5人グループの親が集まった学校の控室で、「遺書」が何度も登場、そして出席者の中から「実は娘から・・」聞いて知っていたという事実も二度、後出しで出てくる。
大詰めで、リーダー格と言えそうな生徒の親である夫婦同士の言い争いの中で、妻は最後に「証拠になる携帯のデータを消去するように指示メールを娘に打たせた」と告白する。ここから暫くあって(その間夫はガックリ肩を落としている)ラスト、妻が夫に声をかけ、幾許かのやり取りがある。この「終わり方」は様々あって良いし(彼らをどんな人物として描こうとするかで)違って来るだろうが、私はこうありたいと願う形がある。まあそれだけの話で、そこが違っても芝居本体の面白さが減じる訳ではないが。。
(以降はネタバレにて、近々に改めて。)
All My Sons
serial number(風琴工房改め)
シアタートラム(東京都)
2020/10/01 (木) ~ 2020/10/11 (日)公演終了
満足度★★★★
「劇作家より演出家」を自称しても劇作家色の濃い詩森氏が、今回は古典を相手についに「演出」だけをやる(正確には翻訳で「書いて」いるが..)。演目・俳優陣と相まって興味津々、日程危うかったがどうにか観劇できた。
本企画は○○劇場プロデュースかと見紛う本格的な古典戯曲への取り組みで、詩森氏が自らの「演出家」像をトラムの土俵にさらす、言わば勝負舞台。して堂々たる舞台化だった。
この作品の現代との隔たりをどう捉え、処理するか、という点では評価がしづらい。劇の「調」としては、昨年新国立研修所の成果として観たイプセン作「社会の柱」が思い出された。こちらも地元のある会社の主の「罪」にまつわるドラマ。自らの過去の「嘘」によって今は名声を手にするが、当時を知る者の帰還により転覆の危機に見舞われる展開。ただし最後に「人間賛歌」が高々と歌い上げられる。
一方アーサー・ミラーの処女作という本作は、大戦後のアメリカの片田舎の町が舞台で、地元で成功者となった事業主ジョーにも「罪」の影が。
主人公である息子(社長の)クリスは、戦死(戦闘機が墜落)した弟ラリーの元婚約者アンを遠方から呼び出して彼女への思いを遂げようとしているが、母ケイトはラリーがまだ生きていると信じて疑わず、ラリーとの関係解消を意味するクリスとアンの結婚も当然受け入れられない・・この基本構図にアンの父(ジョーの共同経営者だった)を含めた戦時中のエピソードが絡みついて来る。
作家の筆力と、場面の狙いを的確になぞるケイト役神野三鈴の(演技的)八面六臂の最大が、第二幕でジョージ(アンの兄)を迎える場面。久しく故郷を離れたジョージは弁護士となり、獄中の彼の父(戦時中戦闘機のエンジンの部品の不良品を納品して約20人の兵士を墜落死させたスキャンダルでクリスの父と共に実刑を食らうがジョーは早々と出所)に会って証言を聞いたことで激高し、クリスの家を告発しにやってくるのだが・・。ジョージ演じる金井勇次も、登場しない父親に通じるだろうあるキャラを体現し、温かく残酷で切ない。
田島亮は2012年に同じクリス役を演じていた模様(この演目が今回選ばれた理由はそれだろうか)。罪を問う道徳劇のようなラストの生硬さそのままに、クリスの演技も生硬であったが、ドラマの「目線」となる役として不問に付されるも最後には母ケイトから「あの子は何者なのか分からない」と言わしめる謎が確かにある人物。このあたりで「戦争」が彼に何をもたらしたかを(観客に勝手に)想像させる何等かの引っ掛かりが欲しかった気がする(戦争は我々にはブラックボックスだ)。
一家の主(社長)ジョーを演じた大谷亮介が、本人のキャラもあって「人物」先行、台詞をニュアンス優先でねじ伏せた感が随所にあり、結果人物の魅力を放つ。彼が「神の眼差し」からくる罪責にでなく、息子の死の真相を知って絶望するラストには、これは戯曲通りだろうか、若きケイトの前に肩で風切るジョーが現われるという二人の出会いの濃密な一瞬がよぎる。彼の唯一の倫理「家族のため」の原点であり、この世の凡そ全ての人間が「そのために」生きる現実はあるが、不良部品の飛行機で墜落死した兵士らの存在が眼中になく、それでいて情熱家に見えるジョーの人物像は、(日本人の自分には)一般化しづらいものがある。アメリカでは「こういう人いるいる」の一類型なのだろうか、先日観た「心の嘘」の北部の親父を思い出す(あれほど酷くないが)。
作品背景についてはそんな風に納得しておこう。だがこの舞台の味はやはり俳優の仕事。そしてそれを引き出した演出の仕事も記憶に刻んでおこう。
風吹く街の短篇集 第三章
グッドディスタンス
本多劇場(東京都)
2020/09/23 (水) ~ 2020/09/27 (日)公演終了
満足度★★★★
7月の第一弾から続いた「風の短編集」第三弾の最終日、小松台東「グレートコマツブラザーズ」を劇場で拝見。他、配信では風間&喬太郎を鑑賞。
本多で小松台東を観るのもこの企画ならではだろうし、落語も他のミュージカル系・歌舞台も企画性満載だが、この企画のスローガンは「劇場の灯を消すな」であった。だが7月当初から9月末の3か月、コロナ状況的に変化はなくとも国内の「空気」は全く変わった気がする。
さて小松台東は後から思うと舞台上ディスタンスがあり、お得意の「密」でこすれあって加熱するドラマではなかったが、程よく意表を突く笑える展開や胸熱くする瞬間もあって面白く観た。塩野谷氏をはじめ配役が贅沢かつ的確で良い。ただ人数に比して深く描写しきれず薄味な感も。既に劇団員となった瓜生氏らが宮崎弁を操る宮崎県人を演じていた。
脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。
オフィス上の空
シアタートラム(東京都)
2020/09/17 (木) ~ 2020/09/27 (日)公演終了
末摘花
オペラシアターこんにゃく座
俳優座劇場(東京都)
2020/09/08 (火) ~ 2020/09/13 (日)公演終了
満足度★★★★
コロナ明けのこんにゃく座初観劇。演目の独特さは別にして、こんにゃく座公演としては、コロナ前との違いをあまり感じなかった、それは間引かれた客席の寂しさを忘れて舞台に見入っていたからで、これがこんにゃく座舞台の観劇なのだったと気づく。節の付いた台詞は、文節の区切りまで聞かなければ意味が通らないから嫌が応にも注意を舞台に振り向けざるを得ない。という意味で、再びこんにゃく座の舞台が戻ってきたと感じた由。ただし終演後の拍手量で現実に引き戻される。
本作は寺嶋陸也氏が他団体に書き下ろした楽曲(オケ用)との事だが、パンフには原作「源氏物語」とだけで脚本執筆者の名がない。台詞が美しく、趣深いので知りたくなったのだが。
パンフを読めば、この演目は高校演劇ではお馴染みらしい。源氏物語の中の一話だが、はっきり言ってしまえば、男女同権が常識である現代の感覚では「不実」で「未開」で「理不尽」な社会は遠い昔のもの、というかそう思いたい。光源氏の寵愛に全面依存した没落貴族の話などまともな神経では見ちゃおれない・・はずなのだが、なぜか身に詰まされ、笑えた。
父を亡くし家長となっている末摘花は光源氏の寵愛を受けたとされるが、現在この男は遠い明石に居り、屋敷の者(乳母、お付の女中=侍従、家内を取り仕切る宰相、その下で働く右近、左近)は普請も朽ちて寒いのにも耐えて源氏が都に呼び戻されるのを待っている。一方、寵愛の噂の真偽に疑念を抱く者、根を上げて屋敷を去る者あり。ある日、今は俄か成金となった男に嫁いだ叔母(末摘花の亡母の妹)が侍従(実は乳母の娘)を雇いたいと申し出る。過日は当家で代々受け継いだ由緒ある道具類を「買い取ってもいい」と言伝をよこした。そんな中、末摘花は鼻先の垂れた醜貌でも気品を湛えて真心を忘れず、気高く振る舞う家長を(家中の者に)演じている。源氏を想う末摘花の芯は、男性依存なのであろうか・・これは「源氏が来るか来ないか次第で見え方が変わる部分なのだが、「そうではなかった」(と結論できる展開が待っている)事実とも相まって、この気丈な女性がある魅力を湛えてくる。この人物像は、例えば忠臣蔵の大石内蔵助にも通じる。要は家長でありリーダーである末摘花が的確かつ温情ある判断で家内の者に対するのを見るにつき、少しずつ、最初は外見や口調で判断した外皮がはがれて、その人となりが顕われる。こういう体験は何時以来だろうか。末摘花の存在が最終的にこの作品の魅力。
Crime-2nd-
Sun-mallstudio produce
サンモールスタジオ(東京都)
2020/08/26 (水) ~ 2020/08/31 (月)公演終了
満足度★★★★
書き忘れ。配信観劇は全体記憶が薄れやすいようだ..。
Crime第一弾は観ておらず、2ndは配信に間に合って鑑賞できた。
犯罪にまつわる短編3つで2時間、各組頑張ってクオリティを高め、第3弾への期待に繋げたという所だろうか。記憶を掻き起こして一応感想を。
一つ目、女性記者によるインタビューで構成。人物の周囲は闇(道具は椅子のみ)、拠り所は言葉のみで何度も意識が飛んだ(疲労のため)。が、概ね事件のアウトラインは掴めた。闇サイトで出会った面識のない3人の男が不法に金品を得るために集まり(「志」ある者が三人寄れば文殊の知恵とでも考えたのか)、計画の詰めは甘く予定外の展開に場当たり対応に終始し、最後には殺人という結末を迎える。旧日本陸軍の暗喩(実話だが)にも見えた。
二つめはいじめ自殺事件の生徒の担任、生徒指導教員、女性教育委員(か教育長)、いじめた生徒の親(ともう一名居た気がする)による会話劇。この事件が話題になったのは教師が生徒のいじめに参加していた事。脚本では事件は、「パッとしない」教師が生徒に誘われ喜んでうかうかと参加したらそれが自殺した生徒の「葬式遊び」だった、と語られる。この事実を伏せようとする教育委、同情から隠ぺいに傾く指導教員に対し、良心の呵責に苛まれる担任は・・。(The Stone Ageブライアント・鮒田直也作←注目)
三つ目は高橋いさを作演出による、凶悪殺人犯に面会に来る被害者遺族(父親)のエピソードで語り手が刑務官。恨みつらみをぶつける事なく温和に季節の会話などをする遺族と、面会者に「感謝してます」を絶えず口にする受刑者の、激する事のない会話の片鱗に「事件の涙」を想像させるうまい設定。死刑囚への肉親以外の面会は例外措置だった、という事でやがて最終面会日が迎える。
犯罪に眉をひそめながら被害者遺族の各様の思いを知ろうとせず、厳罰化を口にして溜飲を下げる風潮。世知辛い時代には「他人を利用する」エゴが増殖するが、これも「利用」の仕方だろうか。作家の執筆動機は知らないが、ステロタイプな「被害者」像に対するアンチテーゼが、社会派な気配を消しても読み取れた。
心の嘘
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2020/09/04 (金) ~ 2020/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
休憩挟んで2時間40分とのアナウンス。コロナ下では少人数、短時間に傾きそうな所「おーよくやるな」と思う。もっとも観客としてはディスタンス規制により座りやすく、荷物も置きやすく、2時間半超えでも乗り切れると思える。そして開幕以後はアナーキーな台詞や展開も空中分解せず、芝居はラストまで無事運行した。
以前俳優座5Fでの翻訳劇を(型どおりの外人演技の濫用で)忍耐で観た記憶があるが、今回は俳優がある微妙な線を出している。狂気や狂気に触れたリアクションを応酬しつつ正常に戻らぬまま飛行する劇の「正解」のない演技も、何かが狙われており、その結果「心の嘘」の一つのあり得る形が提示されたと見えた。演出がどんな言葉で何を俳優に要求したのか大変に興味がある(どんな舞台もだが)。
その問題のドラマ。後で調べると1985年初演とある。この劇が普遍的かという議論をすれば、「アメリカ社会と歴史」という要素を我々はカッコに入れて作品を見ており(見ることが許されており)、だから海外のものは何でも(特にアメリカ産と聞くだけで親近感を持つし)「普遍性のあるドラマ」と錯覚しそうだ。
だがこのドラマでは、人間の相互理解や関与し合う「力」が、機能不全となった悲劇が終始描かれる。悲劇は時代性と不可分である。彼らを包囲するものを告発する意志が作者の筆に宿っていると推察できるから。何に対する告発なのか、そこは分からないが。。
ゲルニカ
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2020/09/04 (金) ~ 2020/09/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
リニューアル前も足を踏み入れた事のないPARCO劇場を見たさに、とはこじつけで、専ら長田女史のこの題材は必見と大枚はたいて観劇した。
序盤にも関わらず俳優の台詞に宿る感情、というか、それらで構成される場面が細密で、栗山演出の力量だな、と感じ入る。
盆を使った装置転換と照明を使った心理的な場面転換、殆ど前面に出ないが深層に響くような音楽、俳優はその上に配されている印象だ。
氏がよく使う象徴的な大型装置は、今回バトンで吊られる赤い布。近い質感の、古紙を模したような大型パネルも転換時に舞台上に躍動する。肌合いはバスクの村の家々の土壁にも通じていそう。冒頭舞台奥に横一列並んだ俳優たちのシルエットに浮かんだ衣裳からして濃厚に「異国」が香り、かの地での物語が始まる。
布はある場面で意外な使途で登場し、ここでも栗山演出の存在感を見せるが、私の中では他ならぬ「スペイン」を意識させる音楽に琴線を弾かれた。
やがて来る無差別爆撃までの村の時間は、長崎の原爆投下までの「無辜の人々の日常」を描いた『明日』とは異なり、ゲルニカの村もスペイン内戦を闘う当事者である(戦争当時の日本人を全くの無辜と言い切れるかは議論がありそうだが)。とは言っても、「その瞬間」の到来を予め知っている観客(ほぼそうだろう)が見ているのは、内戦中でも確かにあった人々の日々の営みである。上白石演じる主人公=平等社会の理想に開眼した領主の娘は、男らが戦闘に身を投じていくのと対照的に、生きる日々の選択に真剣である。
脚本には長田女史の劇作家の円熟が随所に光る。創作としては爆撃の日までの道程に盛り込んだゲルニカ領主(今は亡き元領主の未亡人)のエピソードが効いている。ゲルニカの良心たらんとする領主の選択と変節の場面(詳述せず)。
冒頭の横一列の村人の姿は冒頭含め3度見られるが、正面に向かい前進しながら歌う歌は、ジプシーが育んだフラメンコを彷彿させる節である。拍子は鼓動、絞り出す声は心臓の吼え声。生きる事が常にレジスタンスであった民族の歌は惨劇にまみれた人類史を「生きる」我々を鼓舞する。俳優諸氏の歌唱の流儀は異なったが「地」の声が聞こえ、私はこのラフ感が気に入った。
ピンポイントで登場した映像も大きな効果を上げていた。
(語り足りぬ諸々はまたいずれ。)
風吹く街の短篇集 第二章
グッドディスタンス
「劇」小劇場(東京都)
2020/08/26 (水) ~ 2020/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★
配信にて2作品「隣人のおっちゃん。と、」「水の孤独2020」を鑑賞。
前者は張ち切れパンダ・薩川女史と怪優有薗氏の二人芝居で、ほぼ「無縁」な者同士であった50歳以上のおっちゃんと30代女性が、男が泥酔状態で間違って隣の部屋のドア前に陣取ってしまう出来事によって遭遇し、「異性」を相手に感じる要素ゼロでも続く会話の果てに一瞬心が触れ合うようなそんな話。
後者は池田ヒトシ&松岡洋子による、震災(津波)で夫を失った妻が夫の霊と9年ぶりに遭遇する話。津波にまつわる数ある(に違いない)エピソードの一つを描き、シンプルな台本ながら「2020版」として書き加えたらしい一節が9年前の惨事と「今」を見通す視線を与え、コロナの喧噪にかき消されがちな「命」のありかを感じさせる(思いの外)良質な作品であった。
スモール アニマル キッス キッス
FUKAIPRODUCE羽衣
吉祥寺シアター(東京都)
2020/08/28 (金) ~ 2020/09/07 (月)公演終了
満足度★★★★
久々に羽衣妙ージカルを観たが、最も完成度が高く感じられたのは何故か。総勢15人全てにメインキャストとなる小エピソードがあてがわれ、10個程あったろうか。曲に乗って描かれる色恋にまつわるエピソードは、人間と小動物が半々位。曲+歌には好みもあるが場面に即しており、秀逸なものが幾つか。振りと曲のマッチングもさすがだが、踊り手もいい。
今回の特徴は「口ぱく」との事。最初離れた男女が呼び合う声に違和感あり、奥の女性が生声、手前の男性がマイクを通したこもった声に聞こえ、確かに喉も枯れていたので窮余の策かと思えば、他もマイクの声である。そこで「なるほどステージ前面では録音を使い、感染症対策としている」と納得。だがよく見ると殆どが口パクである。
場面は音曲とダンスが基本構成要素なので、歌は音楽に乗せて録音できるが、ただの台詞は合わせが大変である所、よくやっていた。それにしても録音は声のテンションと身体状態とのギャップを生むが、臨場感ある録音の声に身体が付いていく。稽古の賜物か。またエピソードが少人数ごとなので稽古参加人数も制限できたに違いない。
さて今回感じた優れた点は恐らくこの「口パク」が理由だ。というのも生声であの動きを全力でやるのは無理である。録音だったからこそ身体パフォーマンス(口パク込み)に専念でき、質を高めた。コロナ対応のためのアイデアが舞台上でもうまく機能した訳である。演じ手と語り手の分離は宮城總のお家芸だが、この手法の利点に通じる。
糸井氏演出による「摂州合邦辻」の再演も嬉しい。
BLACK OUT
東京夜光
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2020/08/21 (金) ~ 2020/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★
作演出の名もユニット名も初、星のホールのNEXT COLLECTION(注目の若手)にしては小劇場の実力派を揃えており、評判も良いのでコロナ後初の三鷹(最遠方)へ足を運んだ。
小劇場演劇界のあるあるを超えて当事者だから書ける生々しい逸話が、2月後半あたり、つまりコロナ事態の迫る状況を背景に展開し、フィクションながら(観劇屋として)身に詰まされるリアルなドラマであった。
作演出を夢見る(まあまあ書ける)主人公が、「仕事はあり金にもなる」演助のオファーを受け、夢と天秤に掛けて手堅い将来像を思い描くあたりは切ない。
芝居の大部分はあるプロデュース公演の稽古。映像の仕事にかまけて?ブランクのあった鬼木が久々に舞台の仕事を受け、企画段階とは異なるコロナを題材に自分としては満足の行く台本で挑もうと意気込み、先の主人公も制作担当である旧知の女性の声掛けで演助に入っている。所が問題発生、観客の7割を動員するだろう事務所所属の若手俳優が台本に異論を唱えた。「今苦しんでいる人がいるのに何故コロナか」(彼なりの真剣な意見)。一度疑問を呈して黙ったが、いつか答えが解るだろうと思ってたが未だに理解不能と彼は言い、説得に失敗。結局鬼木は台本を書き直す事になる。「バイトのつもりで頑張る事にするよ」と主人公にこぼす鬼木。
物語は、主人公の「作演出者への夢」と「演助への期待度が高い現実」の葛藤の構図の中に意味づけられながら展開する。「夢」の片隅にいた制作の女性が実は婚約していて妊娠中、最後の仕事として鬼木の作演舞台を企画した事が後に判ったり(主人公は彼女と大学時代から演劇を作った仲で自分の夢も語り共有してくれていると思っていた)、演助を受ける代わりに鬼木に自作を渡してもらうよう依頼していたが今の仕事の中で渡すタイミングなく過ぎていた頃、別のルートから作演オファーが来て舞い上がる。一方「コロナ」から「不倫」をテーマに変えた鬼木の舞台は転換手順の検証など粛々と進み、主人公は演助の役割を見事にこなして信頼を得るが、作品の「中身」は観客には伏せられている。そこで主人公による舌禍事件発生。確か照明スタッフとして稽古参加し気安くなった声力のある女性に、つい通し稽古の感想を漏らす。相手は「演助」としての彼に「うまく行った」感想を期待したのだが彼は首を傾げ、「え、え、何、問題あった?」と突っ込まれて「正直自分がやった方がうまく行く気がする、台本も含めて」と本音を漏らす的にこぼす。「お前がそれ言ってんじゃねえ!」と一刀両断された直後(この先が「通常ない」だろう展開だが面白くなる)、稽古場の片隅でのこのやり取りに気づいた鬼木が、記録のために録っていた主人公のレコーダーを見つけ(このかん主人公は手も出せない)、会話の全てが全員が聴く中で再生される。次に主人公がとった行動が哀れで滑稽で、普通なら脇役に振られる類の中々なシーン。「演劇界」で生きて行こうとする彼の本心が実力者鬼木にすがりつき己の非を詫び、受けたオファーも断ると宣言するという行動へと突き動かす。つまり演助として「食って行く」道を選択したと見えるのだが、同時に「作演出」を貫く器ではない、との周囲の評価そのままが露呈した風景にもなる(自分を対象にしなければこうは書けないだろう)。が、主人公がオファー元に電話をした携帯を鬼木が取り上げ、「彼、今酔っぱらってるんです。仕事、とても喜んでまして。では」と相手に言って切る。それをきっかけにだったか、主人公はついに自分の本音に居直り、コロナの芝居の方が断然面白かった事、新しい台本がつまらないゆえに通し稽古もつまらない事、皆がそれを指摘しない事の欺瞞を吐き出すように言う。この瞬間は一旦突き落とされた地獄(世間)から、かつて魅せられ信じた演劇に対する思い(己にとっての真実)に踏み止まった瞬間とも言え、胸を掴まれる。鬼木は「面白くないと言われれば、謝るしかない」と頭を垂れ、「面白くないのなら面白くするしかない」と彼に稽古の進行を頼む。周囲は再び稽古に戻って行く。
もみくちゃになりながら舞台を作ってもコロナには勝てなかった結末を含め、演劇製作者へのエールになっていた。
ひとよ
KAKUTA
本多劇場(東京都)
2020/09/03 (木) ~ 2020/09/13 (日)公演終了
満足度★★★★
初演から9年。題名から舞台風景がすぐに浮かぶレアケースだったが、笑い所豊富であるのは記憶と違った。初演時は震災の記憶が未だ生々しく、笑いのある日常を背景(地)に、不穏要素が「図」として強調された、のに対して今回は(確かに脚本もそう描いてあるのだが)不穏な事情を背景とし(て利用し)、笑い待ちの観劇となった。
恐らくコメディエンヌにしか見えなかった主役渡辺えりの演技の影響も(本人は大真面目だと思うが)。本来なら物語そのものが問う「果たしてそれはあって良かった事なのか」という、ナイーブな問いが全編通じて波寄せるようでありたかったが、渡辺女史の逼迫振りを示すような噛みトチりは「コメディ的には」どうにかクリアしても、役の裏面史的にはどうだったか。聞けば前日が初日で、観劇日は魔の2ステージ目・・という問題ではなさそう。
役の女性は、渡辺本人と重なる要素はあるが、私には真逆の人物像に感じられる。「言わずにおれない」渡辺えりがあの行動に出る事は想像しにくい。男女同権の思想や女性のマイノリティ性の認識や自意識からではなく、言葉で状況が変えられないと悟ったからこそ家族のために「行動」を選択した一個の女性であり母親。それがこの芝居のヒロインである。
言わば自己犠牲・忍従の方に情熱を傾け得る古風な人格が、渡辺女史の演技に宿るか否か。。
社会の制度や風潮の変革を訴えることをしない代わりに、ヒロインは愚直に己の考えから割り出した「正解」を実行し、法が定める善悪を相対化した。そこには聖性が宿る危険もある(「危険」とは世間一般の価値基準によるが)。
芝居の方は母親が去った後も続けられていたタクシー会社を舞台に、様々な人間模様が展開するが殆どが男女関係に帰結し、親子関係が絡む。ヒロインの家族以外の人物は悲喜こもごも、人生あるあるを辿るのに比して、中心となる家族の事情はやはり特殊だが、両者がタクシー会社という場所で共存しているのが不思議である。従業員や関係者がある程度「過去」を知っている様子であるのも(やや曖昧に見えた部分もあったが)不思議なバランスで、この日常の帰趨には興味がそそられる。
KAKUTAお得意の笑いは吃音の長男(若狭)の妻(桑原)、男性目線では中々こうはフィーチャーされない「面倒くさい女性」キャラをうまく(可愛く)カリカチュアして見せていた。主人公が旅先で助けられた外国人のキャラ作りは(訛りも含め)芸の域。新米ドライバーの弟分だった男と恋人のカップルが訪れ終盤波乱を起こすが、主人公(母)の存在自体が波乱要因であり、このコミュニティの耐性を与えている。
この場所に横たわるぎこちなさや欠落が、言葉を当てられる事で埋まり、皆に収まり所が与えられ、芝居は終わる。シェイクスピア喜劇がフィナーレにもたらす統合は、戯曲がかくありたいモデル。KAKUTAらしい作品と言える。
風吹く街の短篇集 第二章
グッドディスタンス
「劇」小劇場(東京都)
2020/08/26 (水) ~ 2020/08/30 (日)公演終了
満足度★★★
村松恭子企画・演出(初?)によるアラバール3作品を観劇。「風の短編集」は第一章を逃し、第二章を楽しみにしていたが、今回劇場で観たのはこれのみ。生で観る演目に選んだのは、アラバール作品が難解そうだから(あと赤松由美出演もあったが降板していた..T_T)。ところが一つ一つの短編はむしろ分かりやすく、60~70年代だな~という感想で、つい最近観たアラバールの監督作品『ゲルニカの木』の「分かりやすさ」に通じた。村松女史がこの演目をなぜ選んだのか、の方に興味が湧く。舞台化という面では、戯曲を書かれた当時の文脈から現代(というより現コロナ状況?)に植え直すことが出来ておらず、見るに少々厳しいものがあった。合計で1時間に収まる3つの短編はそれぞれの「舌足らず」、即ち書かれた(上演された)当時なら説明不要だったろう何かが「要説明」となっている訳である。村松女史の中に何か恐らく思いはあるのだろうが・・処理しきれず消化不良。
フランドン農学校の豚/ピノッキオ
座・高円寺
座・高円寺1(東京都)
2020/08/28 (金) ~ 2020/10/03 (土)公演終了
満足度★★★★
佃脚本の「観たかった」作品。座・高円寺の「劇場へ行こう」シリーズで継続的な上演(毎年)を行うレパートリーの一つであるが、子ども連れも結構多い会場で一番手ごわい観客相手に舞台は健闘していた。
観てみると宮沢賢治作品のテーマが明確な「生き物を食べること」に関する考察的寓話と言ってよいくらいであったが、説教臭くなり兼ねない題材を、正当なラストにまで持って行く音曲多用した演出、演技は申し分ない。60分。
無畏
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2020/07/31 (金) ~ 2020/08/10 (月)公演終了
満足度★★★★
リアルタイム配信(その後アーカイブ鑑賞1日可)のみ。上演は駅前劇場。劇チョコらしい芝居が観られたが、配信での観劇「体験」は濃度として薄いためか、観劇した事を暫く忘れていた。見ている間は興味深く物語に入って行ったが・・。
(元々配信時間14時には観る事はできず、夜中に見るつもりであった。が、途中体調による睡魔に襲われ、翌13時まで危うかった。助かったのは「読み込み」によって期限を過ぎても見続ける事ができたこと。不明点を見直したり、十分堪能した。)
松井石根という唯一「政治家でない」処刑されたA級先般の名前は耳にしていたが、日中友好を願う親中派であった事、南京での無法な兵士の所行に怒り軍規引き締めを通達した等は「虐殺の司令官」イメージとはかけ離れ、どの程度事実が反映されたかは不明でも人物としてのリアリティはあった。むしろ「善意」の決断が結果的に何を招来したかを考察する適材を与えている。
戦後巣鴨プリズンの彼を訪ね真相に迫ろうとする弁護士(西尾友樹)と松井(林竜三)が舞台の後半、何気に30分を超える(測ってないがもっと長いかも)息詰まるやり取りがある。弁護士は「何故こうなったのか」「何を誤ったのか」の問いを、手を変え品を変え松井に投げて行くが、松井が自分を支えていた「善意」なるものの確信が揺らぎ、支えを失ったそれを差し出し裁きに委ねるまでを台詞にした脚本、命を吹き込んだ俳優に感服した。
イヌビト ~犬人~
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2020/08/05 (水) ~ 2020/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★
長塚圭史作演出の舞踊ドラマシリーズ(という名称ではないが)。パンフによれば「子ども向け」と。まあそんな感じだが、子どもの目に適う作品は大人の平均的評価を凌駕する、と考える自分にとって「子ども向け」とは「通常より高い作品レベルを目指す」と同義である。だから「子供向け」という概念そのものに意味を認めない。
舞台を観ながら、過去の新国立長塚舞踊子供向けシリーズを思い出したが、過去作よりもストーリーが通っていて、舞踊畑の演者たちの俳優振りを見た印象。面白い場面もあった。見ると俳優陣の(知名度的な)レベルが高く、コロナ禍に結集といった裏物語が匂い、それに乗っかりやすい観客層の「3コール」も予測済みのようであった。
物語を思い出すと・・何年か前に流行った伝染病(狂犬病)が理由でイヌが排外されている町に、ペットのイヌと一緒にある家族が移住してきたというのが始まり。私の理解が追いつかなかったのかも知れないが、「差別・排外に遭う種族」として設定されたイヌまたはイヌ族が、コロナ禍の現在に排外される「何」を象徴したかったのか、いまいちピンと来なかった。コロナ感染者への差別が、コロナが終息すれば無くなるものでなく人間の本質に根差すもの、というあたりの考察だろうかと思うが、私などは人間存在にとってのコロナ禍は、「それを嫌悪・排除する」という態度に隠れて表出されている「何か」を見る事で浮かび上るものと考える。そうした洞察を促す知的な要素が(子供向けだから回避したのか?)物足りなかった。
中劇場での長田佳代子の装置は幻想的で壮観であった。
フィジカル・カタルシス【THEATRE E9 KYOTO公演中止】
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/08/15 (土) ~ 2020/08/24 (月)公演終了
満足度★★★★
アゴラ観劇二発目。一発目の屋根裏ハイツ(の中村氏)と昨年利賀Cで決勝対戦した一方がここ。
結成間もないユニットに(HPを見ただけで)注目したのが一年半前だったが、その後中々の頻度で公演を打つも実際に観たのはアゴラ公演一本。思考優位の試行まだまだこれから、との感想に止まった、
だが2018年初演の今作はアグレッシブな製作で最後まで凝視させるものがあった。
台詞無し、身体パフォーマンスのみ、音楽の伴走なし、背後のディスプレイに同じ(ようで同じではないが)パフォーマンスをアゴラでやってる映像が流れ、録画の音が環境音のようにザー、と鳴り、換気の音のようでもあるが時おりの電車通過音も含め「音」が場を規定していると感じる(うまく使ってるという事か)。踊り、ムーブ(縄跳びやバスケ、アスリートっぽい動きが基調)は音楽の伴走の代わりに環境音に呼応する事で成立している模様。
何時しか始まり四名が入れ替わったり共演しながら予想を裏切りながら動力は加速し、上手奥のシンセドラム(パットは一つのみ)で中盤オフテンポな刻みを伏線に終盤インテンポの刻みがビート感を高めての最後の裏切りが生歌、初演作成の曲と今回の新曲を左右の壁に向かって唄う(コロナ配慮)。音楽に弱い私ではあるが、あの曲を知り尽くしたような花井のドラム(後で聞けば作詞作曲者だから当然ではあった)、演者の荒木、古賀による歌と、マルチ振りに感応。
注視させる「動き」が最大のテーマだが解説困難につき今日は割愛。