満足度★★★★
「劇作家より演出家」を自称しても劇作家色の濃い詩森氏が、今回は古典を相手についに「演出」だけをやる(正確には翻訳で「書いて」いるが..)。演目・俳優陣と相まって興味津々、日程危うかったがどうにか観劇できた。
本企画は○○劇場プロデュースかと見紛う本格的な古典戯曲への取り組みで、詩森氏が自らの「演出家」像をトラムの土俵にさらす、言わば勝負舞台。して堂々たる舞台化だった。
この作品の現代との隔たりをどう捉え、処理するか、という点では評価がしづらい。劇の「調」としては、昨年新国立研修所の成果として観たイプセン作「社会の柱」が思い出された。こちらも地元のある会社の主の「罪」にまつわるドラマ。自らの過去の「嘘」によって今は名声を手にするが、当時を知る者の帰還により転覆の危機に見舞われる展開。ただし最後に「人間賛歌」が高々と歌い上げられる。
一方アーサー・ミラーの処女作という本作は、大戦後のアメリカの片田舎の町が舞台で、地元で成功者となった事業主ジョーにも「罪」の影が。
主人公である息子(社長の)クリスは、戦死(戦闘機が墜落)した弟ラリーの元婚約者アンを遠方から呼び出して彼女への思いを遂げようとしているが、母ケイトはラリーがまだ生きていると信じて疑わず、ラリーとの関係解消を意味するクリスとアンの結婚も当然受け入れられない・・この基本構図にアンの父(ジョーの共同経営者だった)を含めた戦時中のエピソードが絡みついて来る。
作家の筆力と、場面の狙いを的確になぞるケイト役神野三鈴の(演技的)八面六臂の最大が、第二幕でジョージ(アンの兄)を迎える場面。久しく故郷を離れたジョージは弁護士となり、獄中の彼の父(戦時中戦闘機のエンジンの部品の不良品を納品して約20人の兵士を墜落死させたスキャンダルでクリスの父と共に実刑を食らうがジョーは早々と出所)に会って証言を聞いたことで激高し、クリスの家を告発しにやってくるのだが・・。ジョージ演じる金井勇次も、登場しない父親に通じるだろうあるキャラを体現し、温かく残酷で切ない。
田島亮は2012年に同じクリス役を演じていた模様(この演目が今回選ばれた理由はそれだろうか)。罪を問う道徳劇のようなラストの生硬さそのままに、クリスの演技も生硬であったが、ドラマの「目線」となる役として不問に付されるも最後には母ケイトから「あの子は何者なのか分からない」と言わしめる謎が確かにある人物。このあたりで「戦争」が彼に何をもたらしたかを(観客に勝手に)想像させる何等かの引っ掛かりが欲しかった気がする(戦争は我々にはブラックボックスだ)。
一家の主(社長)ジョーを演じた大谷亮介が、本人のキャラもあって「人物」先行、台詞をニュアンス優先でねじ伏せた感が随所にあり、結果人物の魅力を放つ。彼が「神の眼差し」からくる罪責にでなく、息子の死の真相を知って絶望するラストには、これは戯曲通りだろうか、若きケイトの前に肩で風切るジョーが現われるという二人の出会いの濃密な一瞬がよぎる。彼の唯一の倫理「家族のため」の原点であり、この世の凡そ全ての人間が「そのために」生きる現実はあるが、不良部品の飛行機で墜落死した兵士らの存在が眼中になく、それでいて情熱家に見えるジョーの人物像は、(日本人の自分には)一般化しづらいものがある。アメリカでは「こういう人いるいる」の一類型なのだろうか、先日観た「心の嘘」の北部の親父を思い出す(あれほど酷くないが)。
作品背景についてはそんな風に納得しておこう。だがこの舞台の味はやはり俳優の仕事。そしてそれを引き出した演出の仕事も記憶に刻んでおこう。