monzansiの観てきた!クチコミ一覧

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蟻の女王

蟻の女王

タッタタ探検組合

ザ・ポケット(東京都)

2014/05/14 (水) ~ 2014/05/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「空想する力」を狂演とともにテーゼする小さな役者たち
「蟻」の生態系を、政治劇だったり、恋愛劇であったり、コメディであったり、純粋な観察記であったり、ミュージカルであったり、実に豊富なバリエーションで舞台化してくれる一大テーマパークだった。



私はタッタタ探検組合が『蟻の女王』上演する その情報から、「こんな感じかな…」という予測があった。
セットは洞窟のような、薄暗い黄土色で、蟻のコスチュームを着用したおじさん、おばさん達が4本の脚を動かすのだろうなと。映画作品でいえば『センター・オブ・ジ・アース』(ディズニー・ピクチャー)のミニチュア版である。



実際どうだったか。
黄土色のカラーは そのままだったが、立体的に、重層的に「巣窟」をイメージする舞台・美術セットであった。


感想を要約しておこう。それは一言「 やられました!」である。

ネタバレBOX

第一に、「ちびっこウェルカム・ステージ」は、交尾といった大人向けシーンがある以上、小学生の昆虫収集家には早すぎる内容だったと思う。このR指定問題は 演劇における「擬人化」は どこまで可能か、というリアリズムの行方に絡む。



第二に、政治劇における進め方である。「蟻を介したらこそ現代社会に還元しえる」脚本。

私が 心に残ったのは、次の台詞である。(ニュアンス)


「たぶん、若いあなた たちのためにこの国を…いや、今は止めておきましょう」/ソルト大佐(あおき けいこ)

「世の中の不条理は、みなが己が大義だと信じていることだ」/ソルト大佐(あおき けいこ)



社会派コメディ集団『チャリT企画』の室田渓人客演がデモンストレーションか。徴兵制復活まで議論される この現代社会。「若い働き蟻」が飢え、それを犠牲につつ、絶対権力者である「バルサミコ女王」が地域覇権を画策する 構造は、一種のリアル・メッセージだった。
フリー・ジャーナリスト・池上彰が、NHKの大学生向け講演会で、「歴史を学ぶことは、未来を予知することです」と語っていた。舞台における独裁政権が崩壊するメカニズムは 「ある国の例」であろう。


「バルサミコ女王」が失脚するハイライトは、「ブース!ブース!」を連呼した、演説中の抗議行動にある。「蟻の国民」の信任を全面的に失った原因も国営放送局によるラジオ中継だ。
最近の国際政治でいえば それはイギリス首相・ブラウンが2010年総選挙活動中に労働党支持者の女性宅を訪問後、公用車内で「ブスだ」と、その容姿を中傷していた事実が「ピンマイク」に拾われていた出来事だろう。
この失言ニュースを受け、労働党は惨敗をきし、「政権交代」が起こった。


つまり、これは私の指す「ある国の例」ではないが、マス・コミュニケーションの実践例を「蟻の国」に置き換えた、とてつもなく高度な政治劇である、という評価なのだ。
現職海上自衛官が軍隊所作指導に関与している点も注目に値する。



第三に、「擬人化の極限」である。
人間が他の動植物、昆虫、細菌と異なる習性は「宗教」だろう。



敵国の潜伏者が病床にひれ伏すシーン。


「捕虜の扱いを定めたアリス条約によれば…」/ホップ医師(柴田O介)

「何をいうか!女王を毒殺しようとした 者なのだぞ。捕虜ではない!」/兵隊アリ幹部


直後、潜伏者は死亡した。


その「蟻」の表情は、安らかであり、アニメ『フランダースの犬』最終回を印象付ける、まさしく「天に召された」亡骸だった。(照明、音響の演出効果はない。メインのシーンでもない)
ここで仮説を提示したい。
つまり、脚本段階に「ト書き」で そう指示されていたわけではなく、演出が「安らかな」その表情をアクセントしたのではないか。


働きアリ「あの、一つだけ、お願いがあります。お墓に入れてやってもいいですか?」


兵隊アリ幹部「別に構わんが」


働きアリ「同じ〈種〉には違わないので…」


「お墓」は「宗教」だ。結局のところそれが「擬人化の極限」を強調したシーンである。このことは「交尾におけるリアリズム」の問題に深く関与し、タッタタ探検組合からすれば かなり踏み込んだ演出だったのではないか、と思う。




第四に、「バルサミコ女王」を狂演した斎藤 啓子を評価したい。

女独裁者の威圧、妖艶、存在をウェーブするハスキー・ボイスは、観客における「引く」というリアクションを逆利用していたように思える。
『蟻の女王』を 小柄な巨体のおばさんが演じたわけだが、「女としての幸せ」を語るあたり、そこに人間らしい、少女のような「儚さ」を読み解く。タマゴの産卵シーンに関しても、その苦悩は「母親らしさ」である。
「恋愛」にしろ、「産卵」にしろ、「蟻」の雌が有する生物学的本能だろう。
これは第三の「擬人化の極限」と密接であるが、観客が「女性らしいな」「卵は大切なんだな」という人間的感覚に陥ったパーソンこそ斎藤 啓子であった。





2013年秋コレクションには こう記している。

【オジさん、オバさんが 負けない点も存在する。それは、3人掛かりで持ち上げるアクション•シーンだった。この時、スローモーション効果を多用していた〜】


2014年春コレクション『蟻の女王』は、序盤のミュージカル・テイストから上記のアクション・シーンへ至るフローである。
「蟻」のコスチュームが「衣装」や「黒子」に変身。何度も書くが一大テーマパークであった。

しかし、もし、タッタタ探検組合ならではの「スロー」と、ミュージカル・テイストが華やかに融合すれば、さらなる「アトラクション」が開業できたはず。

「蟻」のコスチュームも、触覚はいいのだが、キャストの顔面を覆い過ぎ。誰が誰だか分からなくなる、感情移入の妨害だろう。



今、「空想する力」は、子どもたちに最も要求されるべき能力だ。

この舞台を観劇したならば、公園で「蟻」を踏んだり、「巣」に オシッコを流入する子どもは消える。なぜなら、そこにソルト大佐が、タラゴンが、ニゲラが生活しているかもしれない。
特に、第三の「擬人化の極限」からいうと、「蟻」に死生観を与える教育効果がある。


そうした「空想する力」は演劇専売のイリュージョンである。
劇団かさぶた終始公演『凡』

劇団かさぶた終始公演『凡』

劇団かさぶた

シアター711(東京都)

2014/05/15 (木) ~ 2014/05/18 (日)公演終了

戯曲、地域、男と女のパラドックス
戯曲風味のシュール・レアリズムが突出しており、時に役者が、時に観客が困惑してしまう。


普段、いわゆる〈劇〉を観て、その役者が読み込む脚本の存在を気にする余地はない。シェイクスピア劇においては、難解な叙情詩のニュアンスなり、また伝統の文法式を意識することはある。これは、「英語圏の父」がシェイクスピアなのだから、その脚本(日本語訳だが)を役者、観客が「追う」のは当然の結末だろう。


ただ、『劇団かさぶた』はシュールレアリズムというべき都会の空気感が漂っている。NANASHI(力み気味)が前説にセーラ服姿で登場するなど、その姿勢は「反社会」である。
この形式が「戯曲」を正統に記し、演じ、それを異質にすることが既に異質なのだ。

ネタバレBOX

「幽霊」という日本ファンタジーをオチに引用した点は西野マコトの「失敗」だろう。「狂気」をもつ田舎人が 「公園の違法建造物」において錯綜する そのパラドックスはミステリーであるが、「幽霊」が台詞を放つことにより彼らは もはや「狂気」ではなくなってしまう。
西野マコトは この相殺を どう考える。



清彦「読んでもいいですか」

足立「ああ、いいよ」


そう、毎日新聞を読み始めた清彦(半野 雅)はグチャグチャに折ったあげく、奇声とともに投げた。

清彦「すいません」

足立「時々、新聞には そういう役割もあるからね」


清彦「なんか、“お前ごときに読めるのか?”って言ってくるようで!」


たしかに、金髪、短パン、ビーチサンダルの若者が新聞紙を開いた姿は、相当「異質」である。「新聞離れ」が叫ばれる中、清彦の教養を伝えるシーンだと思った。「きっと、何がしかの理由があるはずだ」と。

それが、怒り狂う「キレる若者」に変質した衝撃シーンは、「狂気」であり、笹本、足立が「共存」してしまっていることが、「地域の狂気」を象徴する。呼び方を変えれば「場の狂い」である。

それを説明するのが、役所に勤める地方公務員・森田、雅美の「狂気」というポジションだろう。「唯一の客観」は棺桶を叩く正人だった という逆説には ニヒリズムも感じる。


男A、男B、男Cの深層、雅美の人物描写は欠けており、中途半端な脚本ではあった。
しかしながら、
春子「目立たない女なんです」雅美「そう、あなたは目立たないということを自分で解ってるのね!」(妖艶)
といった、相手の台詞をレスポンスする、似た台詞を往復する「居酒屋会話」の退屈性と、世の中をえぐる 洞察、「狂気」。これは評価したい。
バカにふりそそぐ木漏れ日の温度

バカにふりそそぐ木漏れ日の温度

GORE GORE GIRLS

王子小劇場(東京都)

2014/05/08 (木) ~ 2014/05/12 (月)公演終了

茶番は ここまで笑と汗を招集する
モンドセレクションに魅了された
お笑い芸人…。


そもそも、この「モンドセレクション」とは、民間団体による食品評定のことです。

《日経トレンディ ネット》
【モンドセレクションとは、ベルギーのブリュッセルに本部を置く国際的な品評機関。世界各地にある優れた市販商品の評価、品質向上を目的として、1961年にベルギー王国経済省とEC(欧州共同体:当時)が共同で創設したものだという】(2008年02月04日)


最高金賞を授賞した、株式会社ロッテが製造・販売する「チョコパイ」、金賞授賞の同社「雪見大福」などは、よほど甘菓子が苦手な方でなければ、一度は口に頬張ったのではないでしょうか。

GOREGORE 舞台ですと、近くの東武ストアから購入してきたであろう「モンドセレクション」が中央テーブルに散乱しています。こうしたセットなわけですが、一言に要約すれば「お笑いの裏の世界」。まさしく、『芸人版・楽屋』だったといえます。


でも、GORE GOREは「女性しか感じえない感触」を指す擬音語の
はずですよね。
チラシにもラテン女子を掲載したのですから、「芸人物語」は そうしたGOREGOREを毛穴に吸収したい女性客を裏切ってしまう。


そのなか、女芸人役・大城麻衣子が しっとりクリーミーな「名言」を遺しましたね。



ネタバレBOX

「女はね、トマトジュースが置いてあると飲んじゃうものなの」


トマトジュースではなく、実際は「吐血」を注いだコップを飲んでしまった、というオチです。


左半分の観客は「チョコパイ」を
めぐるネタに爆笑してましたが、この大城さんが台詞を放つときに限り、女性客みんなGOREGOREだったかもしれません。
おやすみカフカ

おやすみカフカ

ttu【2017年5月末解散】

STスポット(神奈川県)

2014/05/09 (金) ~ 2014/05/11 (日)公演終了

寝巻きに、カフカを


身体にグサリと突き刺さる台詞。

「心臓、消化、」をエンドレスに放つキャスト。たかだか「肉体のパーツ」を言語化したに過ぎない。

しかし、こうしたリピートに胸が灼熱になり、ある種の拒絶感覚さえ覚える、そんなシーンであった。



公演場所のSTスポットは 演劇専用劇場=アクトシアターではなく、芸術空間=アートスペースに活用されてきたところだ。『宗教劇団ピャー!!』といった、世の中が退避してしまう演劇スタイルを採用する劇団からすれば、そのミニ・キャパシティは「鬼に金棒」である。
ttuは「文学前衛論」だと思った。





昆虫は いわざとなれば食用である。某芸人は「芋虫を食べた」らしいが、生態学的な「共生」を
クローズアップするなら、人類の命運を握っている存在だろう。
アインシュタインは「蜜蜂が絶滅したら人類は4年で滅ぶ」と分析した。
授粉の主たる媒介者がいなくなると、果実が実らない。種も土壌に育たず、広域の植物が衰退する。
動物、ヒトにも多大な影響が生じる生物サイクルについては小3の
子どもでも解るはずだ。


話は変わるが、私は高級果実・マスクメロンを生育したことがある。
ところが、「授粉」という原理を忘れてしまった結果、巨大マスクメロンは収穫できなかった。
ということは、逆に人口的にヒトが農家の役割を果たさなくとも、小粒マスクメロンは収穫できたのだ。

媒介者は もちろん「昆虫農家」である。昆虫はIT社会におけるサーバーのごとく、この地球上に羽ばたかなければならないプレイヤーなのだと実感した。

ネタバレBOX



井上陽水の名曲『夢の中へ』を含む歌謡曲と、多摩美大的リベラル・フォーマットが混在化した舞台空間…。これは文明社会とナチュラリズムの「棲み分け」という解釈も可能であると思うが、個人的には せっかく天井から吊るした白熱球が「心の原風景」なるナチュラリズムを創出したのにもかかわらず、一曲、二曲程度の歌謡曲のために世界観が損なわれ、とても「もったいない」気がした。



カフカは『変身』で、次のような台詞を書き記す。


「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口は ただ お前のためだけに用意されたものたまからだ。おれはもう行く、たまからこれを閉めるぞ」


これは主人公を拒む門番の台詞である。


舞台の冒頭シーンは 「文学」を立体的に身体へ転換したに過ぎなかったが、中盤につれ抽象性も増し、「思考する時間」から すればよいサロンであったのだろうが、その分断が響く。
若いコミカルな演技も排除すべきだった。
チャージ

チャージ

劇団銅鑼

板橋区立成増アクトホール(東京都)

2014/05/09 (金) ~ 2014/05/11 (日)公演終了

新 労働讃歌 いたんですね、『トイレの神様』は

※Aキャスト観劇


東京中小企業家同友会に『劇団銅羅』が加盟している事実を初めて存じ上げた。

たしかに法人化する劇団は数多い。その文脈から すれば不思議ではないはずだが、「運送業」「製造業」「清掃業」の業種分けの一つに「演劇」があると思うと、高倉健がアイドル・メンバーを務めるくらい変だ。
もっとも、正確な分類方法で示せば「興業」というポジションになるのだろう。



本作『チャージ』舞台セットは清掃会社オフィスである。その周辺は「エネルギー」「単三電池」をイメージする巨大モニュメント。
パステル・カラーは『劇団銅羅』の得意技であるが、モニュメントについては いわゆる「山羊ビル」と称される都会の商業ビル群に映った。



アトリエ公演『おかしな二人』(女性版)でも拝見したキャストが杉本 遥役 福井 夏紀だ。とても表情センサーが豊富であり、「天然娘」を演じるには ぴったりな役者だと その当時思った。
やや難しい解釈をしよう。
ところが本作『チャージ』だと、22歳の役柄を ふてぶてしく、感情の均一性を保持しながら、その「人間成長」を繊細な身体観により伝えていた。
制服を どう着るか、どうモップで拭くか、どう挨拶するか…。
所詮は管理システムの「決まりごと」をめぐる行動規範に過ぎない。いや、むしろ それすら逆手にとり、「『仕事の意義』とは何なのか?」を、自己コントロール手段である「身体」から、遥の「変化」を形式化していったのである。
個人的には『おかしな二人』(女性版)の「変顔ファン」です。

ネタバレBOX


キャスト陣が清掃会社・アークビルサービスを訪れ、一定期間?研修してきたらしい。それは久保 健太役 山形 敏之、佐野 美鶴 役 向 暁子 が意気揚々と作業にあたるビューが証明している。



小中高・教育機関は「働けば、誰かの役に立つよ。」という道徳教科書のようなテーゼを配布する。それは美徳化だろう。
実際のところ、人を傷つける反キリスト教的職業も存在するし、「崇高な理念」を謳う職業ほどダークサイドだったりする。
詐欺師の更正ストーリーが本作『チャージ』だ。では、この詐欺師が「世の中で最も卑屈な職業」かといえば、私は ガッテンがいかない。

それと、脚本・田口 萌が挨拶文で「舞台上に清掃現場を出現させたこのドラマは、実は同時に演劇人達が必死に働く姿を間近で直接目撃できる絶好のチャンスを生んでいる」と述べていらっしゃったが、俳優が舞台に立ち演技するモーションは「働く」ではない。演劇が総合芸術である以上、「働く」ではなく、「仕事」こそがふさわしい単語だろう。
アフター・トークに出演した株式会社アークビルサービス社長も こうコメントした。
『劇団銅鑼』とは「お客様に喜んでもらう“仕事”」だと。
あの日消えた韋駄天の姿を僕らはまだ誰も知らない

あの日消えた韋駄天の姿を僕らはまだ誰も知らない

COTA-rs

シアター風姿花伝(東京都)

2014/05/07 (水) ~ 2014/05/11 (日)公演終了

戦国エナジーが ずっぽり

戦国舞台+ライブの二部構成。

10分遅れのオープニング・ステージに出現したのが岩政昂志と鈴木アルマルベス僚だった。
まるで漫才コンビのごとく劇場を盛り上げました。エンジョイできるトークショーといった感覚ですね。



「のりピー」こと酒井法子を主演に迎えるなど、大女優のセンセーショナルな復帰作にも選定された、織田家「お市の方」にまつわる史実がベース。
浅井長政 演じるSADAは「戦国エナジー」を妖艶に、男らしく体現していました。

浅丘ルリ子 主演の「お市の方」バージョンだと、こちらは五反田・大ホール「ゆうぽうと」上演であったわけですが、二部「歌謡ショー」を除いても2時間近い上演時間です。

SADAバージョンは60分間。たしかに織田信長と浅井長政が殺陣をするシーンは観念的だったかもしれない。
でも、SADAを筆頭とする「戦国エナジー」が、時代劇を効率化するハイライトだった。「意外に 熱くなるな…」という演技でもありました。
それと、「お市の方」を演じた 蘇芳 さくら が大和撫子だったんですね!その印象から、二部ライブにて踊る大人レディな彼女とは またギャップがあり素敵でした。

ネタバレBOX


二部ライブはSADAさん のライブです。
岩政さん、アルマルベス僚さん が随所に漫才を繰り広げるのですが、この お二人に対し、彼はきっちりした「兄貴」でしょう。


合間に、お二人が


岩政「痛い〜。笑わせて〜」(舞台シーンを再現)

アルマルベス僚「フラミンゴ‼」(一発ギャグ)

「ねえ、なんで いつも やってる最中に半笑いなの?」


などのネタを延々、する。



こうした微妙な空気感を、「兄貴」たるSADAさんが ピシャリとクールに替えました。


“消臭力〜♩”ですね。



ライブはアップ・テンポな曲から静かなメロディまで幅広い。普段は赤坂ブリッツ 等の劇場公演も行うボリュームを考慮すると、「近くで生観したいぜ」ファンにとっては一等級でしょう。


だって岩政さんとアルマルベス僚さんが極短パンジーンズ一丁の半裸なんですもん。うんうん。「近くで生観したいぜ」ファンの方、お勧めです!
舞台版天誅

舞台版天誅

ACRAFT

シアターサンモール(東京都)

2014/05/07 (水) ~ 2014/05/11 (日)公演終了

忍びは久保田イズムだ

久保田 脚本は、スピーディなシナリオとファンタジックな娯楽性が話題沸騰である。

世界中で遊ばれるコンピュータ・ゲーム『天誅』を舞台化した本作。さすが肉体派アイドル・森 歩が主演なだけあり、そのメインはアクロバットだった。


久保田氏が代表を務める『企画演劇集団ボクラ団義』は DM(ダイレクト・メール)にPR・DVDを 付ける映像制作力がある。(現在休止)

『天誅』も 原型はコンピュータ・グラフィックだから、「久保田イズム」は発揮されやすいタイプだったのだろう。


いわゆる「緑のやつ」こと「ボスキャラ」はグラフィック描写であった。森 歩が殺陣対決をするシーンは、敵役がモニターを視聴し、その身体の動きにマッチングさせるべく苦心したようである。つまり、どういう内訳かというと、別室においてカメラ撮影する合成技術だ。技術協力は神奈川工科大学先進技術研究所にまで及ぶ。

ネタバレBOX


一方、『企画演劇集団ボクラ団義』は制作協力という参加ではある。まあ、「久保田イズム」を全面にアピールする公演であることも間違いないわけだが、私は「贔屓目」を感じた。
「当て書き」の上、沖野 晃司、竹石 悟朗、大神 拓哉を主要キャストに就任させたのだろう。大神は『ボクラ団義』でも必ず「三枚目」だし、沖野は 毎回の「黒幕」である。

鉄塔の要所要所を自前メンバーで固めてしまった結果、あろうことか主演・森 歩すら電飾役となっているこの現象。殺陣といい、側転といい、ジャンピングといい、森はハイ・パフォーマンスであった。しかし、彼の人間ドラマの部分が「あやふや」に なった感が強い。
『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

TOKYO NOVYI・ART

シアターX(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2014/06/07 (土)公演終了

観るたびに発見がある…重層的な、深い霧のような作品
日本は言論の自由が確保され、市民の権利が保障された民主主義国家である。
1945年から誰しも この国の政治社会レジームを疑わなかった。ウクライナ情勢をめぐり「欧米側」に立つメディアは、ロシアを反民主主義=帝国主義国家に擬似化するプレゼンスだろう。

確かにロシア史は弾圧下の民衆抜きに語れない。しかし、ロシア文化人・知識人の“反抗心”を、私たちは ともすると過小評価してしまったのではないか。
水爆の父ー民主活動家のパブロフ博士は著名だろう。だが、仏思想家・アルベート・カミュが記した戯曲『反抗的人間』より、遥かなる“反抗心”を有した演劇人 も、 また実在したのだ。

彼らは反戦運動を街頭でアピールするのではなく、劇場で、兵隊を集め、「檻」を表現した。さらに、新聞やテレビ放送では伝わらない政治談義を、劇場というパブリック空間を駆使し、観客と役者とのコミュニケーションから実現してしまったのである。


日本は民主主義国家なんかじゃない。開発独裁型国家とは違い、社会システムが「巧妙」である分、国際人権団体の網を潜っているだけだ。



それは さておき、ロシア文化功労者・レオニード・アニシモフ氏はロシア演劇史を直視してきた演出家だろう。
「演劇にできることは何か…」。
その苦悩と舞台形式を同氏が舞台芸術監督を務める『東京ノーヴイ・レパートリーシアター 』に込めたようである。

ネタバレBOX


名作『コーカサスの白墨の輪』。
設定はコーカサス地方・現グルジア共和国である。イントネーションを よく聴けば、「東北弁」「九州弁」「関西弁」「標準語」の他、中国系の日本語訛り、欧米系の日本語訛り など、「日本語の幅」を最大化したラインナップであった。

一度目の観劇は「和洋折衷」ならぬ「和亜折衷」のコラボレーションが革新的だった。ところが、二度目は「妙にしっくりくる」感覚であった。


レパートリー・シアターは「シフト表」に近い。
その欧州型劇場システムといえども、衆目の一致するところ、菅沢晃は 花形トップだろう。

彼はドストエフスキー原作『白痴』に おいて、伯爵ムイシキンを「彼しか不可能な演技」に基づき演じた。これは、味噌汁にワカメが漂っていなければならない説得力である。
その巨編に比べるなら、菅沢が『白墨の輪』で演じる泥酔裁判官・アツラクは代役が効く。
ただ、彼は『白痴』 同様に花形トップであり、前半から◯が孤独のなか築き上げてきた『白墨の輪』の「権威」を ぶっ壊す。いわば舞台全体を乗っとり占有するハンマーだった。


菅沢は 志村けん「バカ殿様」である。マジックペンを口の周辺に滑らせ、真っ赤な紅化粧を頬に…。

アツラクの唄には「貧乏人が大臣になり、大臣が貧乏人になる」といった趣旨の歌詞があるが、たしかに政変期には「平時なら下っ端だった人物がトップに就く」ものだ。自身も村役場書記に過ぎぬ人物であった。
そのシンボルたるアツラクは 経済学者・ドラッカーのいう社会構造の「不安定性」であろう。


「人情裁判官」アツラクは、混迷する(あるいは硬直化する)日本社会において明確な「希望のミラー」であり、そこにアニシモフ氏の演出意図を私は感じた。
深読みすれば、それは官僚化(安定性)へのアンチテーゼかもしれない。
浮世(うつつ)けもん

浮世(うつつ)けもん

劇団禄盟漢

高田馬場ラビネスト(東京都)

2014/05/03 (土) ~ 2014/05/05 (月)公演終了

「出会い頭」は不自然だが、相当おもしろいっ
幕末の新風が、高田馬場に舞う!

舞台セットは、江戸城下に軒を連ねる貧乏長屋と茶屋、畳三畳ほどの「一間」である。随所に白玉、緑玉、紅玉を串刺す団子が町民の頬に含まれ、劇場を出ると「どら焼き」を購入する観客もいるほど!


まるで「時代劇」かのようにワン・シーンが軽やかに移り、「起承転結」は常に一定のスピードであった。
伊吹文明氏は 日本の身分制について、「日本人は『士農工商』でうまくやってきた」と述べ、一部容認する姿勢が報じられている。
この封建制度が、『浮世けもん』の メイン・テーマであった。


タイトルどおりの“うつけ”はるを好演したのは大山京子だ。元々「捨て子」で、拾われた長屋住民のセリフを反芻するだけであるが、彼女には「◯術の才」があり、蘭学を独学する次郎(星野 良明)の運命を大きく変える。



緻密なシナリオは役者陣の力になったはずである。
実は『浮世けもん』を観劇する1時間前、伝統芸能「浄瑠璃」「日舞」「かっぽれ」を目の当たりにしていた。60代〜80代の女性が演じるショーは、300年前から継続する「元禄文化」花盛りの冷凍保存だったのかもしれない。しかし、それは愛知万博に出展された冷凍マンモスと同じ「異質さ」だった。つまり、時代劇においても指摘できるポイント“形式美に こだわりすぎると現代人は退屈”である。

例えば、伝統芸能「歌舞伎」は世界遺産に登録されているが、少なくとも、明治期以前は その上演時間が半日であったらしい。神社で午前中に歌舞伎演目が始まり、日没とともに終了する。そうしたナチュラル・タイム・ロスは一分、一秒に振り回されるこのない、江戸町民ならではのライフスタイルが説明する。
『浮世けもん』は、新派より呪縛化した“形式美”も保ちつつ、「時代劇」のカット割を緻密なシナリオに導入していたから、映画『武士の家計簿』などを鑑賞した女性客も 没頭できるパッケージだった。

ネタバレBOX

星野も端正の整ったイケメンだし、清水穂奈美(お鈴)の 強かさ と 弱さを内存する演技は、いつか鑑賞した黒澤作品をリバースしていた。
それにしても、中堅武士・朝霧成吉役の川田翔也は格別だった。「町人だから 出島は難しい」と身分制を盾に次郎を突き放しておきながら、算術試験を面談する あたり「論理思考」だと思った。
派手なリアクションをせず「悶絶」する その姿形は、マスコミにスキャンダル・ソースを流す霞ヶ関幹部の半歩前だろう。
すなわち、『水戸黄門』の勧善懲悪ではない、リアリストである。
オレンジ新撰組 リターンズ

オレンジ新撰組 リターンズ

劇団6番シード

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2014/05/02 (金) ~ 2014/05/11 (日)公演終了

高校球児より 汗臭い、まっすぐ友達想いの痛快時代劇


「オレンジ」は太陽の色だ。

日本語を紐解くと、「蜜柑色」なる単語が 同じ色を指す。
では、太陽を浴びず、日陰で生育した蜜柑は「オレンジ」たりえるだろうか。その物体は黄色と緑に覆われた苦い「果実」である。


さて、『劇団6番シード』は、幕末浪人が徳川護衛を目的に結成した「新撰組」法被をオレンジに塗ってしまったようだ。その名も『オレンジ新撰組リターンズ』。 (再演)まるで「太陽」と「青空」を一緒の缶詰に保管するネーミングだ。


時代劇というフォーマットではある。しかし、異性と接することにビクビクする「草食系男子」、合コンにおいて嗅覚の鋭い「肉食系女子」、いわゆる二次元住民の「アキバ系オタク」など、非公式な現代を巧みにコンプリートしている。

ネタバレBOX


前半を仕切ったキャストは椎名亜音(亀 役)。
女子衆=肉食系女子(陽田 奈緒)(鶴田 葵)(長友 和美)(栗生 みな)がぶりっ子をするなら、「全身が痒いんですけど」と「独り言」をいい、キャストとの関係性よりも、「コメンテーター」にちなむ笑いを“吸引”する。
「喜劇」からすれば そうヒットを飛ばす舞台ではなかったが、彼女は 明らかに「統一球」の役であった。
「ちょっと笑いのハードル下げすぎじゃないの?」である。
マジハウス

マジハウス

style office

テアトルBONBON(東京都)

2014/04/30 (水) ~ 2014/05/05 (月)公演終了

「君はジャーナリストだよ」






イケメン劇団といえば、演技ではなく、「いかにファンを喜ばせるか?」が最大のポテンシャルである。


『ミュージカル・テニスの王子様』を手掛けたプロデューサーも、「女性は未発達のカラダに弱いんですよ」「アンケートによれば99%女性です」を認めている。こうしたミュージカル戦略が、後に映画『愛と誠』(2012年)などの作品において絶大な人気を博した斎藤工のメイン・キャスト起用であった。

キャスト生写真をベッドルームに飾りたいがため、何十回もリピート観劇する女性客がいる、イケメン劇団特有の「現象」をご存知だろうか。


私が観劇した『マジハウス』が、いわゆる そうしたマーケットに基づく舞台であったことは間違いない。「スタイリッシュ・ボーイズ」なる名称から、爽やかで、長身で、美男子が脚や腕を早送りに踊る舞台をイメージできるはずだ。


だが、チラシに謳うような「歌」や「踊り」は控えめであり、「青春劇」のフィールドで勝負をしてきた そのアプローチには好感が持てた。


私は なぜかキャスト・ファンが陣取る「プレミアム・シート」の座席であった。これは美男子を「テーブルの向かい側」程度により観察できる「距離」だ。
そうした「距離」は、伊藤 孝太郎、花沢 将人、中口 翔 等の透き通った、フレッシュであり、ほのかな甘酸っぱさまで感じさせる「美男子」の香りを配達する。




あらすじ は こうである。シェアハウスに住む若い世代は家賃を滞納していた。それに対するコミットが、友人や仕事仲間を集め、大家・笹原 静香(鳳 恵称)へ その売上金を支払う「イベント企画」であった。

「劇中劇」というか、旗揚げ公演につきものの「あるある」だろう。


ただ、この造り方は疑問である。
終盤に至るまで、鯖井戸 守(伊藤)のアイデンティティを巡る内的な確執、明日見(花沢)との 友情、エルヴィス・プレスリー(ウチクリ内倉)が果たすメッセージの包括が、『マジハウス』の「青春劇」を汗の結晶に精製したのにもかかわらず、「劇中劇」の後者は それを妨害してしまったのだ。



要するに、サッカー・パフォーマンスなどの「一発勝負」は、温かい集中力を奪うアドレナリンであった。



ネタバレに追記あり

ミュージカル「ホンク!」

ミュージカル「ホンク!」

PureMarry

博品館劇場(東京都)

2014/04/16 (水) ~ 2014/04/27 (日)公演終了

これが英国ミュージカリズム

英国ミュージカルは日本人向け である。

ジョージ・スタイルスの楽曲はポプュラーだったといったら、華美であり、単純化されたミュージカルに思えてくるだろう。


しかし、どの楽曲も、この『ホンク!』のために生誕した、唯一無二の健気なアヒルである。


劇団四季を退団後初主演というキムスンラもさることながら、伊藤咲子の、情愛をハーモラスに包み込む歌唱力は、 それこそ“七面鳥”だった。
さすが歌手である。


私が魅惑されたキャラクターは、卵を割り、世の中に出てきたばかりのアヒル4兄弟であった。その5羽目にあたる“末っ子”が実は白鳥ホンクである。

♂二羽、♀二羽ずつの分類だが、キャスト陣の背丈が 食パンのように均一であった(!)
どうやら目を凝らすと、10代少女がイエローのエアな衣装をまとい、 生新に 4匹のアヒルを演じているようである。

それは「健康な少年少女」であった。
愛らしい。


もう一度 指摘しよう。
『ホンク』はブロードウェイ級のダンスではない。何せミュージカル俳優による本格派舞台とは称せないキャスト陣だ。
ただ、伊藤咲子の歌唱力は、英国ミュージカルを私にとって決定的なものとしたのであった。


Y

Y

Project ONE&ONLY

小劇場B1(東京都)

2014/04/18 (金) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

それは、一時代の空気を呼び戻す“泡”です



「人間が想像できることは、必ず実現できる」この名言を遺したのが、SF小説家・ジュール・ヴェルヌであった。ペンの一滴一滴が、地底に拡がる 文明社会を建設し、20年後の子供たち に研究所の制服をプレゼントする。本田技研「アシモ」の研究者がテレビアニメ『鉄腕アトム』の画面に釘付けであったことは、ヴェルヌを名言のまま葬り去らない例だろう。/


小説家は、文字数に匹敵する名言を遺す。海外にもファンが多い村上春樹も、次のような名言が記憶されている。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望がないようにね。」ヴェルヌの名言に警告を与えるイエローカードだろう。「完璧な想像など存在しない」のだから/

Project ONE&ONLYが、下北沢の新しい劇場で公演を行った。タイトルは『Y』。二次元方程式に欠かせぬ記号であり、『X』とは数学における兄弟仲だ。小説家の妻役◯が妖艶な女らしさを清純に導きだす演技は、1970年代のノスタルジアな空間を 切り取っていた。/


文章がメタだとすれば、対話もメタであろう。現代はTwitterやLINE、FacebookといったSNSこそメタの最終的役割を担っているが、むしろ 「証言」「物的証拠」が重宝され、日記という文章の脆弱ぶりを 同時に浮き彫りにする。『Y』は何だったのか…。解決するだけがミステリーサスペンスではなかった/





















推定容疑者

推定容疑者

Cooch

テアトルBONBON(東京都)

2014/04/16 (水) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

心の隙間を埋めた相棒



「推定容疑者」は、それ自体、仮説である。

「平均顔プログラム」が作成され、輪郭や 目鼻立ちが近しい市民を「推定容疑者」なるレッテルに指定すれば、暮らしに支障がでる。


市民ではなく、政治家の「平均顔」を作成し、訴えている政策を政治グループごとにジャンル化できないか、この研究を進める機関がある以上、「空想」の域を超越したテーマだろう。


その「ひらめき」を、自転車のハブのように多岐にわたりディテールする集団が、まさしく この劇団である。

演劇のみならず、電子小説化、電子漫画化、ネット配信の映像化、音楽配信を 順次、公開する予定らしい。

このメディア戦略は、上記の「推定容疑者」なる「ひらめき」に依存しており、実はハブの全部品が錆び付いていたため、1メートルも走行できなかったということに なりかねない。

「推定容疑者」という単語が、魅惑が、リアリティが、観客の心を掴めるか。それがキーである。


追記あり


海猫街・改訂版

海猫街・改訂版

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2014/04/21 (月) ~ 2014/05/03 (土)公演終了

土着夢幻想劇は3.11を海猫の鳴き声とともに鎮魂する

沖縄旅行するよりも、カルチャーに富み、時代を浴び、その日々を透明にする方法がある。
それが、劇団桟敷童子の舞台空間だった。


2年ほど前だろうか。日活撮影所の存在した調布市・公益財団法人調布市文化・コミュニティ振興財団主催〈調布シネサロン 日活100年への軌跡 銀幕のパールライン日活女優特集〉『絶唱』をフィルム上映のまま、鑑賞した。

作品紹介『絶唱』(1958年)


【山陰地方では、園田家と云えば、山園田と云われるほど名の通った、広大な森林と山を持つ大地主だった。その一人息子・順吉は山番の娘・小雪を愛していた。京都の大学の休暇で帰省したとき、そのことで父惣兵衛と激しく口論した。父は町の実業家の令嬢・美保子との結婚を強いるのだ。順吉には山園田のすべての富よりも小雪一人の方がかけがえなかった。彼には味方がいた。小学校教員の大谷や銀行員のマサなど彼のやっている読書会の連中である。彼が京都に帰ると、惣兵衛の命で、小雪は因果をふくめられ、他国の親戚にあずけられた。順吉が小雪にあいに帰って来、そのことを知った。彼は家出した。宍道湖のほとりの経師屋の二階が、彼らの愛の巣になった。順吉は肥くみ作業員、材木運びなどをして働いたのだ。が、二人は幸せだった。しかし、外の世界では戦争が進み順吉にも召集令状が来た。〜】(映画.COM 作品解説より)


「差別の構造」は、恋愛というドリルが壊すものだという固定概念が どこか私たちにはある。
しかし、劇団桟敷童子『海猫街・改訂版』は 郷土愛とか、仲間とか、家族とか、全く〈情〉に無関係の ドリルを教唆してくれる。それは〈使命感〉に近い。



劇場に入り驚愕してしまった。なぜなら、木材が入り乱れ、『海猫街』のカラーでもあるブルー・ライトを照らす、幻想的なジャングルであったからだ。


さあ、1920年代の日露戦争後、玄海地方に位置する漁村の物語であるが、改めて「昭和の身売り」時代を再確認したい。税金は上がり、物価は上がり、働き手が減った集落というのは、「近代化の孤児」であった。
それは そうだ。
敗戦後、GHQが調査したデータによると、地方は栄養失調が慢性化しており、舗装されていない路には牛車が活躍中だった。


こうした時代背景とは別に、漁村からミクロネシアの文化範囲をマターする民族性も描いている。それは海上に住宅を建設し、強固なコミュニティを形成する漁民だった。



『海猫街』は海賊の末裔、その奴隷が住む集落として描かれているから、元は「倭寇」であろう。いつしか安住の地を発見した。旧奴隷地区の村民は「白いクジラ」にまつわる土着宗教を信仰する。

この「土着起源説」は 海に面した島国の先住民族にも共通する神秘だ。ニュージーランド先住民族はマオリ族であるが、彼らは 次のような起源説を語り継いでいる。


マオリの神話と伝説

【マオリには豊かな神話と伝説があります。ニュージーランドが創られた様子は英雄マウイの伝説の中で次のように語られています。超人的な能力を持つ半神半人のマウイが、4人の兄弟とともに釣りに出かけたところ、特別な釣り針に巨大な魚がかかりました。あまりの大きさに、マウイは自分のもてるすべての力と兄弟の力を借りて、引き上げることに成功しました。この魚が北島になったと言い伝えられています。北島の形は、尾が北に、頭が南にあるように見えます。現在も、北島はマオリ語でテ・イカ・ア・マウイ(マウイの魚の意)として知られています。南島は、マウイの乗っていたワカ(カヌー)、スチュアート島(ラキウラ)はプンガ(錨)だとされています。形が似ているかどうか、ニュージーランドの地図を見てみましょう。】(ニュージーランド政府観光局 HPより)



いよいよ『劇団桟敷童子』の文明論を観劇できた。誤解を恐れず明言すれば、ディズニーを日本において専門的に扱う劇団四季のような擬人化である。もちろん、彼は鳥を登場させるわけでも、カエルを登場せるわけでもないのだが、何だか漫画であった。

ネタバレBOX


まず、第一に日露戦争後、この国の軍国化と地方の疲弊を時系列で
伝えるギャップである。
ロシアバロチック艦隊とも戦闘したのだろう獄崎部集落自警団長・獄崎軍次(桑原勝行)が午前中から酒を飲み、夫人・瑞枝(川原 洋子)に暴力を振るう姿は、平和ミュージカルであれば候補にさえあがらないシーンだった。

政府御用達『玄海憂鯨社』が石炭採取の工場予定地視察したわけだが、海に眠る石炭を、集落の住民は「火つく石」と形容し、「知識」のギャップを強烈に印象付けた。つまり、「軍国化」は そのギャップを利用した思惑があった。内なる植民地主義である。

『玄海憂鯨社』会長・堂園千草(板垣 桃子)が斬られる直前、艦船の空砲を「日本国や〜」と形容したが、国権忠誠心が あるからといって、村民に石炭採取場の計画表を提示せず、海女に石炭を取りに潜らせたビジネスは、そうした「時代の空気」の気迫により説明がつくものでもないと 思った。


第二は、海賊と奴隷の子孫が、集落再興への想い、『玄海憂鯨社』への反対運動が、「差別の構造」を ぶっ壊した点にある。
Sharo LIVE vol.3 ~Jump~

Sharo LIVE vol.3 ~Jump~

Sharo LIVE

赤坂BLITZ(東京都)

2014/04/22 (火) ~ 2014/04/22 (火)公演終了

ミュージカルを、Sharoの手で
これは松田聖子の再来というインパクトである。
よりスタイリッシュに、よりセクシーに、よりカジュアリーになって、それは
まるで雑誌『anan』専属モデルが、最高の歌唱力をもった姿だろう。

彼女は目を覆いたくる極小下着を身につけるが、男性目線というよりかは、20代~30代 女性を強く意識したスタイルだ。

外臀部が しなやかな膨らみである。開脚のポージングをしなければならないダンス振付であっても、決して「媚びず」に女性の自立性を主張するのだ。

「強い女」は真夜中のチータだ。そのオープニングにおける登場を熱烈に迎えたのは女性客であった。(男性客も魅力した)


一部では都会の高級クラブにふさわしいエンターテイメントを繰り広げた。しかし、真夜中のチータはマエストロのごとく、子どもから老人まで鑑賞したことのあるポピュラー・ソングも同時に歌い上げ、LIVE空間としての親和を演出した。

ネタバレBOX

なかでも、ディズニー映画『The Little Mermaid』〈Part of your world〉は、ミュージカル・ショーの挿入生歌としてもオファーか殺到するのではないかと感心する音域の安定だった。深海をモチーフとした、柔らかい生地の衣装を羽織るダンサー二名の中央で、Sharoが英語歌詞を語りかけるように歌い、派手な演出がない分、よりオリジナル版をリスペクトする姿勢だった。もちろん、その他のソングも彼女は常に中央に位置し、時に「ボーカル」になり、時に「ダンサー」となったわけだが、ずっと統率者だった。
ダンサーは真夜中のチータに従う動物たち であった。


二部では「名作ミュージカル」を、さらなる観客との意思疎通のもとに披露した。実際に客へ話すSharoは フレンドリーで、容姿どおりの、第一部パフォーマンスとは離脱した、『anan』専属モデルのような女性だった。だが、彼女は東宝ミュージカルアカデミー ・一期生を代表する、俳優としての側面も見逃せない。すなわち技巧だ。

『ブロードウェイミュージカル』特集をプログラムに入れたのは、ダンス、歌、パフォーマンスを包括的に駆使するエンターテナーの
誇りだろう。マリリンモンローの名曲を屈することなく、エロチシズムを拡張してみせたSharoは 、間違いなく変幻自在のエンターテナーだ。


「海外目線」が際立つ彼女のLIVEを、ミュージカル・ファンこそ鑑賞する必要がある。立見ではないため、ゆっくりエンターテイメントの世界に浸れる。
床ずれと耳かき

床ずれと耳かき

明治大学演劇研究部

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2014/04/18 (金) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

一人称 大帝が 求めた「耳かき」
太ももに身を委ね、「耳かき」をしてもらう行為は「至福の幸せTOP10」にランクインする。

膝枕は建前上 「必要」だからである。対面式は固定ができず、繊細な内耳を傷つけてしまう。


さて、明治大学演劇研究会による公演は何度も観劇しているが、役者のスローテンポな台詞は「遊び心」だ。
おそらく塚田圭太あたりは今後の演劇界を背負う人物だと思う。男子大学生の「可愛さ」なるものを客席との一対一で伝え、小説における一人称の支配を確立してしまった。

この「可愛さ」はアドリブではない。時間消化をもたついたようにも解釈できるが、脳内電子計算機を活用した上の演技である。



自宅の敷布団で、「耳かき」の出張サービスを待機する男子大学生・竹内(塚田 )は、「退屈」を身体性から感じ取ることが可能だった。彼は開場中30分間、ずっと その布団で眠りにつくわけだが、「金縛り」に伴う影響があったとはいえ、疲れ、ぎこちない肉体は魂の欲求不満である。

そういえば、「耳かき」という好奇心も それは肉体的欲望なんかじゃなかった。「退屈」な日常生活からの崖を、インターネットに委ねたのだ。まるで膝枕に身を委ねるように。


推測だが、脚本・演出 川越太郎は「共同生活」への好奇心が強いのではないか。一人暮らしをする男子大学生が 外部の人間と衣食住をともにする。これは「耳かき」や「宇宙人飛来」と同程度の「好奇心」だったのかもしれない。

ネタバレBOX

「宇宙人対策センター」が偽物か、本物かはメッセージ性に深くかかわるコンセプトである。イデオロジストの男子大学生・竹内が自ら その「好奇心」を味わい、「退屈」から抜け出したかった、そう解釈できる終幕だったからだ。もはや妄想を実現する駒である。



脚本を とやかく述べる以前に、キャスト陣が魅力溢れ、役者的好感度を抱いてしまった自分がいた。(脚本は さすが である)
藤崎景 (役_金目鯛)の「空気を読めない」をディフォルト化する演技も、卓球玉のように舞台局所に命中する力があった。

松平陽子(役_橋原)は、幅広い役柄をこなす役者だと思った。今度はバブリーな色気である。雑誌記者役は明らかに空間を補完し、「こっち側の住民」論争をコメディへと深化させた。


スローテンポな台詞は「遊び心」である。しかし、これは「哲学」を兼ねており、表現手段が「ゆとり」を持ち始めたことが その「遊び心」を形成したのではないか。
パイロキネシス

パイロキネシス

モリンチュ

明石スタジオ(東京都)

2014/04/17 (木) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

満足度★★★★

笑顔だけは、ホンモノだ

女子レスラーの宿命は大相撲でいうところの同部屋対決である。

新人レスラーなら、場外バトルから観客を守る誘導員になるし、ゴングの汚れを取る清掃員にもなる。
つまり、ロープを行き来し怪我を負った後、さらなる仕事が待っているのだ。この「残業」を思えば判定待ちまで体力を消耗する選択はない。



ジャガー横田選手が「アイドル・レスラー」だった過去を覚えているファンも少数だろう。どんなに身体に怪我を負っても、女性であることを忘れ、観客が応援する限りラリーアタックする姿は羨望の眼差しである。
もちろん、それは、半身不随に陥るリスクと向き合う職業だ。新宿FACEで女子プロレスを観戦すると、前列には車椅子の元女子レスラーがぼーっと虚脱感を放出していた。会話すらままならない身体状況であった。


『パイロキネシス』は、「プロレス妄想癖」が特技のアイドルみるく・るみ(野崎万葉)の物語だ。
芸能界やインターネットの「当たり前」を暴く脚本と攻撃的な転換には かなり惹かれた。

ネタバレBOX


「アンチ商業演劇」を小劇場で実行する その意味は どこにあったのだろうか。
小塚建(舩木 勇佑)を主演に、草間(矢守忠彦)演出のもと開催された商業ストリート 舞台(劇中劇)は、どうも赤坂ACTシアターを暗示していた。松山ケンイチや堀北真希などのテレビドラマに活動の本拠地を置く俳優が、「舞台初挑戦!」なるキャッチフレーズで主演へ就任してしまうパターンがある。
このビジネスを「話題性」と呼ぶ。

本作『パイロキネシス』は、イケメン・アイドル俳優である小塚建や アイドルみるく・るみ を出演させ、第一段階において「話題性」を皮肉る。これこそ痛烈な商業演劇批判である。


ところが、第二段階においては小塚を「勉強させて下さい!」と演出家へ土下座させることにより、小劇場が「下克上」を達成するオチなのだ。あのシーンは「白昼夢」の処理方法であったが、本質的に そうした「救い」だと思う。



「炎上ビジネス」についても考察させられた。
「インターネットの脅威」は劇作家・鴻上氏らが「俺は世間から 求められている」とアピールしているが、矢守氏は その100m先をゆく最先端だった。
「炎上ビジネス」を芸能界と出版社の「持ちつ持たれつ」から指摘する見方は斬新である。
現状は「ネットユーザー」が主導者だとされる。にもかかわらず、仮に黒幕が操った「話題性」だとすれば、彼らは消費者のごとく小さな、単なる「受容者」に過ぎないということになってしまうではないか!
踊らされているのは君たちの方である。

『パイロキネシス』はフィクションではある。しかし、ゴーストライター騒動級の現実を告発している。
路地裏物語

路地裏物語

劇団暴創族

笹塚ファクトリー(東京都)

2014/04/16 (水) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

語り継がれるランチは「人情」です
「街の中華屋さん 」が懐かしい。

それは、住宅街の一角を占め、店内はうす暗い照明であり、ブラウン管がラジオのような役割を果たしていた空間だ。
老夫婦が 汚れだらけの制服を着用していた。たしかに、醤油の跡こそ付着済みだが、無条件に清潔な、毎日漂白洗剤を使用するのだろう「純白」であった。


私は、こうした「街の中華屋さん」が営業中であると軒先をくぐってしまいたくなる。8割は地元住民の集う「いつもの お願い」かもしれない。
老夫婦は 別に、ラーメンのプロでも、チャーハンのプロでも、ハンバーグ定食のプロではない。
その「何でも屋さん」は、まるで地域の総合商社だ。
しかも、家庭の主婦と変わらない手料理。粗がある。油がある。

私は錆びれた「街の中華屋さん」に一体何を求めて 来店するのだろうか。



「路地裏」というのは再開発のターゲットになりえる土地だろう。
戦後、各都市にあった闇市が消滅した理由と似ている。


『路地裏物語』は まず、その美術セットがテレビ・ドラマを超えた精巧さ だったから、そこに役者が走り回ったり、座ったりしていることが 既に「シチュエーション」である。
こんな洋食屋が存在すれば、珈琲を嗜まない一週間は ない。

ネタバレBOX

キャスト陣のW主演は はらみか と 緒方有里沙。Bランチだと はらみかは妊婦役(飯館みち)を演じており、義理の父親に低姿勢を貫く「昔の女」であるが、これは「できちゃった婚」が稀有だった1980年代を意識した演技だろう。
ただ、その「不貞さ」は解釈できなかった。
「できちゃった婚」。しかも それが問題のある妊娠だった。告白時から 飯館みちが登場するシーンを遡っても、金太郎飴のごとく やはり「昔の女」だったのである。


また、もう一方のW主演・緒方の演技にも言及しておく。
彼女はBランチだと反抗的というか、周囲から一歩距離を置く気の強い娘役(矢吹 栄子)である。
特に爽やかだった演技は宇都宮 英恵 演じるアルバイト(浅川 美奈子)との一幕だ。
私はコメディエンヌ・宇都宮が変顔ポーズを強調しても、「見届け人」の緒方が格別な演技をしなければ、その勢いが暴発してしまった可能性があったと考える。
とても 爽やか だったため、横山 陽紀 演じる少年(富岡 正志)の落ち着いた演技と癒しの対比になる構成。それが感情のコントロールを容易にさせた。


そのスプーンに夢を。
その箸に家族を。

『路地裏物語』は 私と同じ目的意識をもち、「街の中華屋さん」の軒先をくぐる人間を倍増させる「懐かしさ」である。
こんこんと、

こんこんと、

green flowers

シアター711(東京都)

2014/04/16 (水) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

ブーケから最も近く、最も遠い従業員
結婚披露宴は人生のいちばん華やかなステージだろう。
たかだか「一般人」にフラッシュが焚かれ、専属の司会者がつく事態など、この日以外は想像できない。


私が出席させて頂いた ある結婚披露宴だと、ハプニング連発で礼服すらびしょ濡れになった式があった。火災予防目的に設置されたスプリンクラーが誤作動し、大理石の床が 3センチ程度、浸水してしまったのである。
私は「最前列」を逃れたが、真下の参加者はゲリラ豪雨に遭遇したようだった。
きっと帰宅する夜空に映ったのは虹のアーチだろう。それがハート型ならコーディネーターが贈呈したお詫びである。



さて、結婚披露宴の舞台は、晴れの日を祝す式場と その感動をモチーフにするエンターテイメントだと決まっている。
ところが、本舞台は むしろ都会の雑踏のごとく、日常生活を観察していた印象であった。エンターテイメントが「一日、一時間」に特化した現象だとすれば、間違いなく、人の人生数十年を丸飲みにした舞台だった。



パンフレットを読む。これは観客による自由であるが、「役紹介」を掲載する場合、観客サイドによる捉え方、心情を束縛してしまう可能性も考えたい。
本舞台について、私は その「役紹介」を放棄したうえ観劇したわけだが、戯曲的ともいえるしっかりした会話が、「家族」「仕事」「他人」の関係性を浮き彫りにし、それを推理する楽しみがあったと思う。
終演時から30分近く経過した頃、ようやくパンフレット「役紹介」を読むカップルもいた。この人たちは放棄派だろう。そういえば、『少女マンガ』の目をしていた。

ネタバレBOX

出演者陣は 現代ニッポンのノリ(その代表格は居酒屋店員アルバイト)である。繰り返しになるが、会話において戯曲的な、乾味なテンポかつ、「日常生活」を意識した演技をしていた。おそらく、役者が どうこうではない。その統一された演出が結婚披露宴のインテリアを担った張本人のはずである。



披露宴コーディネーター木村(伊藤 彩)と沼田(松本 舞)の私語はリアリズムだった。
演出家がサービス業に従事した過去があるか、「業界」そのものを取材したとしか思えない。終身雇用制度の崩壊を「標準点」にする演出家と、今までの延長線上で「若い世代」と向き合う演出家がいるが、それは「ノリ」で即わかる。


ラスト・シーンは、観客総勢を泣かせる感動的フィナーレを用意せず、事故で幕が落下してしまったかのように終演した。
「ある」と思っていた私は入場制限がかかることを知らずにディズニーランドのアトラクションへ並ぶ入園者だった。

もちろん、反予想型ともいうべき作品からすれば、落胆した笹塚(小泉 康介)は 風靡である。だが、結婚披露宴で もう一回、感情をぶつけ合うシーンを期待中だった。それでこそ、シャンパンを片手にしたくなる舞台である。


新郎新婦の姿も観たかった。

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