蟻の女王 公演情報 タッタタ探検組合「蟻の女王」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「空想する力」を狂演とともにテーゼする小さな役者たち
    「蟻」の生態系を、政治劇だったり、恋愛劇であったり、コメディであったり、純粋な観察記であったり、ミュージカルであったり、実に豊富なバリエーションで舞台化してくれる一大テーマパークだった。



    私はタッタタ探検組合が『蟻の女王』上演する その情報から、「こんな感じかな…」という予測があった。
    セットは洞窟のような、薄暗い黄土色で、蟻のコスチュームを着用したおじさん、おばさん達が4本の脚を動かすのだろうなと。映画作品でいえば『センター・オブ・ジ・アース』(ディズニー・ピクチャー)のミニチュア版である。



    実際どうだったか。
    黄土色のカラーは そのままだったが、立体的に、重層的に「巣窟」をイメージする舞台・美術セットであった。


    感想を要約しておこう。それは一言「 やられました!」である。

    ネタバレBOX

    第一に、「ちびっこウェルカム・ステージ」は、交尾といった大人向けシーンがある以上、小学生の昆虫収集家には早すぎる内容だったと思う。このR指定問題は 演劇における「擬人化」は どこまで可能か、というリアリズムの行方に絡む。



    第二に、政治劇における進め方である。「蟻を介したらこそ現代社会に還元しえる」脚本。

    私が 心に残ったのは、次の台詞である。(ニュアンス)


    「たぶん、若いあなた たちのためにこの国を…いや、今は止めておきましょう」/ソルト大佐(あおき けいこ)

    「世の中の不条理は、みなが己が大義だと信じていることだ」/ソルト大佐(あおき けいこ)



    社会派コメディ集団『チャリT企画』の室田渓人客演がデモンストレーションか。徴兵制復活まで議論される この現代社会。「若い働き蟻」が飢え、それを犠牲につつ、絶対権力者である「バルサミコ女王」が地域覇権を画策する 構造は、一種のリアル・メッセージだった。
    フリー・ジャーナリスト・池上彰が、NHKの大学生向け講演会で、「歴史を学ぶことは、未来を予知することです」と語っていた。舞台における独裁政権が崩壊するメカニズムは 「ある国の例」であろう。


    「バルサミコ女王」が失脚するハイライトは、「ブース!ブース!」を連呼した、演説中の抗議行動にある。「蟻の国民」の信任を全面的に失った原因も国営放送局によるラジオ中継だ。
    最近の国際政治でいえば それはイギリス首相・ブラウンが2010年総選挙活動中に労働党支持者の女性宅を訪問後、公用車内で「ブスだ」と、その容姿を中傷していた事実が「ピンマイク」に拾われていた出来事だろう。
    この失言ニュースを受け、労働党は惨敗をきし、「政権交代」が起こった。


    つまり、これは私の指す「ある国の例」ではないが、マス・コミュニケーションの実践例を「蟻の国」に置き換えた、とてつもなく高度な政治劇である、という評価なのだ。
    現職海上自衛官が軍隊所作指導に関与している点も注目に値する。



    第三に、「擬人化の極限」である。
    人間が他の動植物、昆虫、細菌と異なる習性は「宗教」だろう。



    敵国の潜伏者が病床にひれ伏すシーン。


    「捕虜の扱いを定めたアリス条約によれば…」/ホップ医師(柴田O介)

    「何をいうか!女王を毒殺しようとした 者なのだぞ。捕虜ではない!」/兵隊アリ幹部


    直後、潜伏者は死亡した。


    その「蟻」の表情は、安らかであり、アニメ『フランダースの犬』最終回を印象付ける、まさしく「天に召された」亡骸だった。(照明、音響の演出効果はない。メインのシーンでもない)
    ここで仮説を提示したい。
    つまり、脚本段階に「ト書き」で そう指示されていたわけではなく、演出が「安らかな」その表情をアクセントしたのではないか。


    働きアリ「あの、一つだけ、お願いがあります。お墓に入れてやってもいいですか?」


    兵隊アリ幹部「別に構わんが」


    働きアリ「同じ〈種〉には違わないので…」


    「お墓」は「宗教」だ。結局のところそれが「擬人化の極限」を強調したシーンである。このことは「交尾におけるリアリズム」の問題に深く関与し、タッタタ探検組合からすれば かなり踏み込んだ演出だったのではないか、と思う。




    第四に、「バルサミコ女王」を狂演した斎藤 啓子を評価したい。

    女独裁者の威圧、妖艶、存在をウェーブするハスキー・ボイスは、観客における「引く」というリアクションを逆利用していたように思える。
    『蟻の女王』を 小柄な巨体のおばさんが演じたわけだが、「女としての幸せ」を語るあたり、そこに人間らしい、少女のような「儚さ」を読み解く。タマゴの産卵シーンに関しても、その苦悩は「母親らしさ」である。
    「恋愛」にしろ、「産卵」にしろ、「蟻」の雌が有する生物学的本能だろう。
    これは第三の「擬人化の極限」と密接であるが、観客が「女性らしいな」「卵は大切なんだな」という人間的感覚に陥ったパーソンこそ斎藤 啓子であった。





    2013年秋コレクションには こう記している。

    【オジさん、オバさんが 負けない点も存在する。それは、3人掛かりで持ち上げるアクション•シーンだった。この時、スローモーション効果を多用していた〜】


    2014年春コレクション『蟻の女王』は、序盤のミュージカル・テイストから上記のアクション・シーンへ至るフローである。
    「蟻」のコスチュームが「衣装」や「黒子」に変身。何度も書くが一大テーマパークであった。

    しかし、もし、タッタタ探検組合ならではの「スロー」と、ミュージカル・テイストが華やかに融合すれば、さらなる「アトラクション」が開業できたはず。

    「蟻」のコスチュームも、触覚はいいのだが、キャストの顔面を覆い過ぎ。誰が誰だか分からなくなる、感情移入の妨害だろう。



    今、「空想する力」は、子どもたちに最も要求されるべき能力だ。

    この舞台を観劇したならば、公園で「蟻」を踏んだり、「巣」に オシッコを流入する子どもは消える。なぜなら、そこにソルト大佐が、タラゴンが、ニゲラが生活しているかもしれない。
    特に、第三の「擬人化の極限」からいうと、「蟻」に死生観を与える教育効果がある。


    そうした「空想する力」は演劇専売のイリュージョンである。

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    2014/05/17 23:58

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  • monzansiさま

    観に来て頂きありがとうございました!
    深く読み解いて頂きありがとうございます。
    斎藤のがんばりを「狂演」と評価頂き、非常にうれしいです。
    一同精進致しますので、
    今後とも何卒よろしくお願い致します。

    タッタタ探検組合あおき

    2014/05/19 14:43

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