満足度★★★★
さりげない会話で、いつもの日常にちょっとしたいい予感を見せてくれる
そんな作品。
とてもオシャレな感じに仕上がったレストランのセット。
そこで、大げさなことではない、日常にある、ちょっとしたいい予感をさせ、心をほっとさせてくれるような、そんな人間関係が繰り広げられる。
ネタバレBOX
どこにでもいそうな、普通のいい人たち。
頑固な兄も、実は単に頑固というだけでなく、口下手で、人に何かを伝えるのが得意ではなく、そのことを自分も知っている。バイトの子との関係もちょっとした台詞でうまく表現していた。
弟も器用に見えて、実は不器用。
兄弟仲も悪そうに見えて、実はそうでもなく、いい距離感でいられるようだ。
仲を取り持つ妹がいる、という設定が効いている。
登場人物たちは、それぞれが今の自分を生きているという感じがよく出ている。
彼らが、出会い、すれ違い、別れていくのだが、その微妙な関係が台詞などでいい感じに伝わってくる。
「神の視線」のごとく、すでに知っていることや、登場人物と同じ視線で見て、「そうか」と思わせたり、観客の視線のコントロールがさりげなくうまい。
普通の物語に、ちょっとしたアクセントで、博士や銀行員が絡まってくる。
こういう人が絡まってくると、そこまでの全体のトーンを乱したりすることが多いのだが、これは違う。トンガリすぎないようなコントロールがいい。
特に「博士」の菅野貴夫さんは、笑いをうまい具合に引っ張ってくる役なのだが、演出と役者さんの持っているキャラの雰囲気で、違和感なく見られる。
変に声を張ったり、「ここが面白いとこですよ」感を、演技に滲ませることがないのがうまいのだ。
俳優さんでは、この菅野貴夫さんと、すっと背筋が伸びている立ち姿に現れてくる、役柄の表現がとてもいい、みのり役の黒木絵美花さん、蓮っ葉な感じに見せながらも、兄弟の仲をうまく取り持つ気遣いがうまい岡田あがささん、この舞台の中で、一人固い役所の兄・竹井亮介さんが印象に残った。
無駄な説明台詞なしでの、開店後のレストラン、さらに暗転後の5年後という設定とその後の人間関係を、やはり余計な説明台詞なしに見せる巧みさ。
その5年間に何があったのか、ということを、声高にストーリーの牽引としないところもうまいと思う。
観客の欲しい情報を見事に散りばめていく。
自分のやりたいことへの距離感とか、諦めたことへの後悔とか、これから向かう未来への期待とか、不安とか、そんなさまざまな想いを胸にしながら、やはり日常を生きていく。
しかし、その日常は、決して悲観的なものばかりではない、という予感をラストに見せてくれる。
大成功するとか、そんな大げさなものではなく、ちょっとした、例えばいい友だちができそうだ、とか、そんな程度のさりげない、いい予感だ。
タイトルの「Goodnight」は、「いい予感がしそうな明日へ」向かって、一歩を踏み出すための挨拶であった。
フライヤーの雰囲気も好きだが、イタリアンレストランのメニューを模したような当日パンフもいい雰囲気。
満足度★★★★
エスカレートしていく「闇」
地に足がつきつつ、ちょっとした人の心の闇を垣間見せるJACROWの世界観に、elePHANTMoonのフレーバーが(たぶん)ガッツリ組み合わさり、過激で、グロく、エロく。
JACROWにはなかった直接的な内容。
ネタバレBOX
うっかりして当日パンフを劇場に落としてきてしまったようで、それぞれのタイトルと役名等が不明。
ダム建設が予定されている地方都市と、川にまつわる伝説が全話の軸となっている。
時間軸は、過去に順番に遡っていくのかと思っていたら、そうではなかった。
第1話 轢き逃げの話。
この話の面白いところは、まず後輩の男に「あのクソババァ」のような汚い言葉を吐かせるところにある。それに対する先輩の対応と、轢き逃げ後の後輩の、「こいつ頭おかしいんじゃないのか」と観客に思わせる発言のエスカレートする様が、彼の冒頭からの挙動と結び付き、観客は、先輩と同様に非常に不快な思いをする。
そういう観客の気持ちの動きをうまく利用して、ラストの「あれっ」というところに落としていく、オトシ話的な面白さがあり、全4話のツカミはOKといったところだ。
それにしても、谷仲恵輔さんっていう役者さんは、普通の人(どこかにいそうなサラリーマン)を演じさせると、なんてうまいんだろうと思う。これの後に観たホチキスの『看板娘ホライゾン』でも、いかにもいそうな脱サラおじさんがよかったのだ。
第2話 チンピラが川で自分を捨てた母に会いに行く話。
これは、台詞のやり取りを楽しむ作品で、他の3本とは少々毛色が異なる。
現れたのが本当の母なのか、それとも別の誰かなのか、母だとしたら死んでいるのか、生きているのか、まったくわからないまま、2人は出会い別れていく。
この話で一番好きなのは、母らしき女性(蒻崎今日子さん)の発する最初の一言の声のトーンだ。
これにはシビれた。
この設定で、この登場、そして、このトーンはまさにベストではないかと思う。
今回の舞台内容からやや脱線するが、母らしき女性を演じた蒻崎今日子さんという女優さんは、どの役であったとしても(子どもを誘拐される社長夫人とか中国スナックのママとか、確かにそういう役が多いのだが)、腹の据わった感じがとてもカッコいいのだ。存在としての重さとか。小劇場でいそうでいないタイプなのではないだろうか。今後、年齢が増せば増すほど、彼女の持つ存在感にさらに磨きがかかり、凄くなっていくのではないかと思っている。
第3話「おみやげ」の話。
新婚の女が夫の上司と浮気関係にある、という展開も酷いのだが、それをさらに上回る展開が、内容とともに、かなりグロい。
新婚の男が徐々に常軌を逸していることがわかっていく精神の状況が気持ち悪い。
観客には、赤いモノまで見せなくても十分に、モノとしてではなく、人の気持ち悪さが伝わったのではないかと思う。
新婚の妻と上司が絡むシーンは、上司は単にひたすら触るのではなく、あまり触れずにいても、もっとねちっこくて、嫌らしい感じのほうがよかったのではないだろうか。そのほうが爛れた関係がもっと出たように思えるから。
最後のオチ的な「おみやげ」のもうひとつの意味で、ブラックなコメディ(…違うか・笑)に一転するのだが、気持ち悪さは残る。
そして、その展開から、第2話での「マフラー」のつながりに気がついて、ちょっと「おお!」となった。「みんな気がついた?」と。
第4話 犬の霊の話。
これは本当にエロくて、グロい、ドタバタコメディ。なのだが、ラストの展開での気持ち悪さと後味の悪さがなんとも言えない。
JACROWの公演だったら、ここまではやらない、という一線を越えた作品で、観客はあっけにとられたと思う。
1〜4話に行くに従い、深さというよりは、「見せること」と過激さがエスカレートしていき、構成はうまいと思ったし、各話のつながりもいい。
こういうのもたまにはいいかな、というところ。会場もサイズが手頃で、舞台の上で演じられるのを観るのではないことが、この公演の内容とマッチしていたと思う。
舞台の上だったら、「演じている」感が強すぎて、この気持ち悪さは半減しただろうと思うから。
決して後味がいい舞台ではないが、勢いがよく、気持ち良く(悪く?)騙された感じがよかった。
JACROWの別の劇団とのコラボも観たいと思う。
もちろん本公演も楽しみである。
満足度★★★★★
ホントは、キッツイ話のミュージカル
あおきりみかんって、過去の何回か観ていて、面白いと思いながらも、日程的に合わなかったこともあり、なかなか観ることができなかった。
あと、なんかビミョー感もあったりして、ムリしても行こうという…。
ま、とにかく日程合って、久々の観劇。
26回目の公演にして、初のミュージカルという。
「ミュージカル?」というキーワードがかなりグッときたこともある。
ネタバレBOX
まずは、劇場に入ってどーんと置いてある白鳥号のセットに驚く。
内容もそのセットに負けないぐらい、どどーんと、とても面白い!
歌うのは、昭和歌謡感溢れる、デュエットソングやアイドル歌謡、演歌に、フォークというよりはニューミュージックな楽曲。これは楽しい。
さらに衣装も凝っているし、小道具も多い。
フル装備の舞台。
「やればできる」けど、「やらない」という、言い訳で30歳過ぎまでやってきた男・白鳥(しらとり)の物語。
白鳥はある決意を胸に、粉代湖(こなわしろこ)の白鳥号をチャーターし、湖の中央へと急がせる。
彼は、この物語の主人公であることで、歌うことを意識しながら(メタな感じな)、自分の過去を振り返る。
彼の成功物語は、すべて妄想であり、それは「やればできる」のだが、「やらないできた」ことを正当化したものであった。
彼の前には「女」が表れ、歌うことを促す。彼女は「オデット」と名乗る。彼が「歌う」ことは、彼が気づくことでもある。
そう、『白鳥の湖』の「白鳥」なのだ。
とにかくこのオデット役の木村仁美さんが、歌が抜群にうまい。
それに比べてしまうと、特に男性陣の歌は……である。
彼女がいるからこの舞台は成り立っていると言っても過言でないだろう。
だけど、「アイドル」なときの歌の下手さが逆にリアルだったりもするのだか。
ストーリーの巧みさもある。
例えば、お芝居のお約束で、一人の人が何役もこなすというのは当然で、「ああ、別の人なんだな」と思って観ていたら、実は同じ人だった、という展開が随所にあって、面白い! と思ってしまう。
後に書く、キッツイ、テーマの盛り込み方も凄いと思う。
ラストの本水の使い方や、微妙な高さの宙乗りと、見どころも満載。
物語は、主人公・白鳥の過去の妄想を関係者たちが繰り広げていくのだが、そこに現実も少しずつ姿を重ねていく。
マルキューというスーパーで今もバイトのまま働き、舞台に立つ白鳥。
白鳥の姿は、今現在、バイトをしながら、演劇や音楽活動をしている人たちにとっては、かなりキツイ存在ではないだろうか。
すなわち、「自分には才能がある」と言い張るしかない。そうでも言わなければ、自分の存在価値が脅かされてしまうのだ。
かつて東京に出ていたものの、夢破れ(白鳥本人はそれを認めてないが)、故郷に帰り、でも演劇を続けている白鳥は、「東京に行く」という後輩に、歪んだ想いのまま、「行ってもしょうがない」と諭す。
さらに(ほぼ)同郷で、スターになった百舌鳥沢に対しては、かつて同じアイドルグループにいたという妄想の末、仮想敵として位置づけ、ラストになだれ込む。
つまり、百舌鳥沢は、成功した者の代表であり、白鳥にとっては、「自分はやれば(やり続ければ)、成功してしまう」と言い続けている惨めさをぶつける相手でもあるのだ。
彼のこの湖への航海は、まさに「後悔」のなれの果てでもあるのだが、それでも自分の妄想と現実の狭間のまま、湖の中央へ進む。
ラストは、百舌鳥沢と、白鳥が自分の側にいると思っている男たちとの歌合戦になり、白鳥は、百舌鳥沢に「負けた」と、妄想で言わせるのだが、やはり自分を偽ることはできない。
自分の側にいると考えている男たちは、すべて「自分の夢を諦めてきた男たち」なのだ。
つまり、白鳥は、実は芝居も、作詞(歌)も、何もかも、最後までやり遂げなかったということは、途中で諦めてしまった、彼らと同等であるということを知っていて、さらに、「最後までやり遂げなかった」ことは、「自分に才能がないことを知ってしまうのが恐かった」というこにも、薄々感づいているのではないだろうか。
ここまで物語が来ると、白鳥と同じような境遇で、打ち上げなどで、「才能があってもチャンスが…」なんて、酔っぱらいながら、くだ巻いている人たちは、(ひょっとしたら)舞台を正視できなかったかもしれないのでは、なんて思ったりもした。
ラストは、白鳥が、当初の予定どおり、湖の中央から、彼が小学生のときに唯一がんばってやったことのある「バタフライ」で、スーパーで働いているときに好意を寄せていた女性のもとに泳いでいく、というもので、それは、彼が原点に立ち戻り、出直すという、強い決意の表れではないかと思ったのだ。
全員で演奏ってのもよかったな。あんまり上手くはないけど、その上手くなさが逆に主人公の心情や状況にマッチしているようで。
ここで、ハタと気づくのは、最初に、公演のチラシを全員が手にして歌う「白鳥はこの舞台の主人公だ」と歌う、楽しいシーンのこと。
最初のほうに書いた、「彼が「歌う」ことは、彼が気づくことでもある」ということは、つまり、「彼が、自分がこの物語の主人公である」ということに「気づく」ということである。
すなわち、夢破れていろんなことをしている男たちだって、白鳥と同様に、すべて「自分の物語の主人公である」ということをも指しているではないのだろうか。これって深読みしすぎ…?。
つまり、このキッツイ話のミュージカルは、そういう応援歌的なミュージカルであったのではないかと思うのだ。
さらに彼がオデットに気づかされ、原点に返って、最後までやり遂げることを決意する、というのは、これを演じている「あおきりみかん」の役者たちの決意でもあるのではないかと思ったのだ。
「おおお!」と思った一瞬だった。鳥肌 は、立たないけど。
しかし、そういうストーリーが進んでいくのだか、いくつか腑に落ちない点があるのだ。
観いてるときにはまったく気にならなかったのだが、帰りながら舞台のことを反芻していくにつれて、いろいろと。
まずは、彼が思いを寄せた女性・鷺沼には、その気持ちを打ち明けることができないまま、別れてしまう。その後彼女は結婚し、子どもも授かっていて幸せのように見える。
そんな女性のもとに泳いで行っていいのか? ということだ。
もちろん、自分の道を見直す決意の象徴としての、彼女であり、実際にその女性に会うかどうかは定かではないが、それでも「変な感じ」がしてしまう。
それは、彼に自分のことを気づかせた女性、すなわち、オデットと名乗った小学生のときの同級生の女性の存在があるからだ。
白鳥は彼女がいつも見てくれていたのだ、ということに少し感動しつつも、「気がつかなかった」と言う。それに対してオデットは「興味がないから気がつかなかったのよ」と哀しい台詞を口にする。
で、「ああ、そうか、自分にはこんな人がいてくれたんだ」と彼女に存在に気づき、彼女(オデット)のもとへ行くのかと思っていたのだ。「白鳥の湖」の王女と王子のように。
ところが、彼はそんな彼女はなかったように振る舞い、すでに結婚している女性のもとへ泳いでいこうとするのだ。
これって結構イタイ話になってないだろうか。
また、主人公・白鳥は最初から最後に行うことを決意して乗船したのであって、船の上の出来事は、すべてこの日までの一連の彼の中のストーリーだとしたら、彼の友人たちや船の副館長との関係がわからなくなってしまう。すべてが白鳥の妄想だとすると、かなり恐い話だし。
そんなことを思った。
それとついでに書いてしまうと、最初に「面白いと思いながらも、ビミョー感もあったり」と書いたのだが、その「ビミョー感」の源泉がわかったような気が少しした。
それは、アフタートークで、ゆるキャラの着ぐるみ衣装は最初なかったのだが、演じる役者が作りたいと言ったのでOKしたというようなことを言っていたのだ。
つまり、これって、最初は、「ゆるキャラ」という設定で、「素」の役者のまま演じる予定だったのではないか、と思った。したがって、「着ぐるみ」を来てしまったら「素」で出てきて「ゆるキャラです」ということの面白さを消してしまっているのではないかということだ。
どうやらこの劇団はとても仲がいいらしく、いろいろなアイデアとか出てきたりして、最初のシナリオと役が変わったりしているようなのだ。
そうやって作り上げていくことには異論はないのだが、ひょっとして、そういう面白さを全部取り上げてしまうことで、全体がぼやけてしまうことになってはいないか、ということがある。
例えば、白鳥が思いを寄せていた女性は、彼の最初の妄想、次にリアルな現実、さらにスーパー時代と、3つのシーンで登場するのだが、それに合った衣装でわざわざ登場してくる。
それって、例えば、持ち物とかエプロンぐらいの違いでいいのに、わざわざ変えたりしたのは、(最初からのアイデアなのかもしれないが)やっぱりやりすぎじゃないかと思ってしまうのだ。
彼女はストーリーの中心にいるのだから、それぐらいはいいのかもしれないが、歌合戦とときに、白い服を着ているオデットが、またその上に白い服を着て、となってくると、それはどうかな、とさすがに思う。
さらに、ラストに白鳥が飛び込むにあたって、わざわざ水着に着替えるのだが、それだって、もともとそう言う目的で乗船したのだが、プールに行くときの定番のように、下に着込んでいて当然と思うのだが。
そんな個々のアイデアとか面白さを多く取り上げすぎることが、ひょっとしたら……なんて考えてしまったのだ。
確かに個々は面白いし、それを見つける楽しさもあるのだが。
あと気になったのは、登場人物全員が「白鳥」にちなんで鳥の名前かと思っていたら、そうでもないのだが、それってどうしてだろう。別にいいのだが。
そんなこんなもありながらも、結局のところは、この舞台は、もの凄く面白かった。
次回は、座・高円寺で、オイスターズとやるらしい。オイスターズも好きな劇団なので、予約するしかないでしょう、と思っている。
……しかし、このストーリーって、演じた役者の皆さんは、自分たちに振り返ってみて、どう感じたんだろう。
自分たちは才能あるから大丈夫、とか、かな?……笑。
調子に乗って長く書きすぎた。深夜のテンション失礼。
満足度★★
なんだかなー
たぶんKAATで手に入れたチラシを見たのだと思う。
パイプオルガンのコンサートで、「横浜フランス月間2012」の一環に行われ、フランスのコンテンポラリーダンスも見られると。
「オルガン、舞踏、映像による新たな表現の試み」なんていうコピーで。
ネタバレBOX
で、会場に入ってまず驚いたのは、2000人規模のホールで、観客は300〜400人程度であろうか、見ていて切なくなるほど入っていなかった。
まあ、それは脇に置いておいて、やっぱりパイプオルガンの演奏だ。
演奏者がパイプオルガンの前、つまり、かなり上のほうに後ろ向きに座り、よく見えない。地味。
演奏はと言うと、「?」と一瞬我が耳を疑ったが、ミスタッチがある。1回2回ではなかったと思う。聞き間違いかと思って、後で同行した者にも聞いてみたたが、やはりミスだったようだ。
これはツラい。
照明は、最初はあまりにも少なくやや落胆していたが、後半に従って美しくなってきたが、それもずっと同じイメージなので、どうかな、と思った。
そして、ダンスである。
普段はオーケストラが揃う舞台の上にただ一人踊る姿はカッコいいのだが、休憩入れて約100分ぐらいの中でわずか3曲のみ、しかもすべて1人だけで踊る。
最初はよかったのだが、1つのパターンのように見えてしまい残念であった。
しかもダンスが始まると、メインのオルガンは単にBGMになってしまう。
パイプオルガンのコンサートを約2時間近く聴いたのは始めて。
確かに楽器自体のインパクトは凄いと思うが、できることが限られているので、ダンスや照明がなかったら厳しいものだったかもしれない。
全体の構成を考えて「見せる」ことを、もっときちんと考えるべきではなかったのか。
単にコンサートということでないのならば、演出する人が必要ということ。
あと、器楽演奏、しかもソロでのミスタッチは辛すぎる。
満足度★★★★★
鋼鉄村松史上ナンバーワンの作品ではないかと思う(そんなに観てないけど…)
と、見終わった後、ボス村松さんに伝えたら、少し間を置いて、「ちょっと悔しい」と笑っていた。
ネタバレBOX
そして、「次回は11月なのでよろしく」とも言われた。
次回は、ボス村松さん作の番なので、ナンバーワンを更新する作品を期待したい。
で、今回の内容は、過剰で濃い内容が無駄なく詰まり、エピソードとシーンの噛み合わせ、組み合わせが巧みで、物語も面白く、笑いも交えながら、ダレることなく突き進む。
いつもの過剰さなのだが、そのラインに留まることなく、構成と役者と演出が見事にマッチし、素敵すぎる作品に仕上がっていた。
感想、短くてスミマセン。だけど、「面白い」「最高」、それぐらいしかうまく言えない。
最高だっ!
満足度★★★★
濃いキャラが特盛り状態のコメディ…ラストは…
濃く、キツイ笑いを振りまきながらも、ラストが笑いに突き抜けていかないところが、今回設定の時代背景とリンクしていく。
ネタバレBOX
ポップンマッシュルームチキン野郎を見ると、モンティパイソンを思い浮かべてしまう。毒があって、悪ふざけが過ぎた感じなどが、だ。
ただし、基本、対象に対して「情」あるいは「愛」が感じられるのがちょっと違う。
今回も、第2次世界大戦中のドイツが舞台で、いい感じに悪ふざけが過ぎた感じになっている。
ナチスの御用科学者になることを自ら選択した博士が、その罪滅ぼしとナチスへの反抗のようなもので、人体実験を繰り替えすというもの。
例えば、博士は、戦うことを拒否した兵士たちを、戦闘マシーンとして改造してほしいナチスの要求を聞かず、戦いにはまったく使えない、トンデモな身体に改造してしまう。
また、物語の中心のエマは、博士の彼女(たち)への贖罪の気持ちで、首だけで生かされてしまう。
そういう姿は、実は笑えない(笑ったけど)。
人のためによかれとしたことが、実は、良くなってはおらず、例えば、身体にプロペラを付けられたり、お湯が出たりというのは、見た目にも機能的にもいいわけがないのだ。
戦うことを拒否した兵士たちには、拒否する感性を断絶するような手術をするほうが、その時代に生きる彼らのためになるのかもしれないからだ。
特に、首だけにされてしまったエマは、一見、博士の善意のように見えるのだが、彼女が生きていくことの原動力は、恋人のことであり、彼がすでにこの世にいないことを一番知っている博士が、実はさらに彼女を辛い目に遭わせていることに、博士は気づいていないのだ。
「よかれ」「善意」として行っている行為自体が、さらに相手を過酷な状況に追い込んでいく、ということは、それを行うほうに意識されていないとなれば、さらに酷いことになっている。
そういう(実は)酷い物語が、濃いキャラたちと笑いの中で繰り広げられる。
ヒトラーの後ろに常に隠れているアンネのような、キッツイ笑いとともに。
ラストのラストまで、それは続き、博士が垣間見る、酷い目に遭わせた2人の幸せそうな姿は、酷い目に遭わせた博士が、自覚のないまま、自分が自分に対して、勝手に赦しを得た勘違いであり、美しくもなんともない、身勝手な想像にすぎないのだ。
博士は生き残り、意味もなく殺され、実験動物にされた2人は死んでいく。
そういう不合理、不条理がまかり通っていた時代だということが、この舞台の内容であり、この時代を選んだ理由でもあろう。
単なるマッドサイエンティストが、善意の人のように振る舞える狂った世界だったということなのだ。
そして、どんなに言い繕ったとしても、博士は非道なことをしたナチスの一員であり、それに手を貸したことは間違いなく、何も関係ありませんでした、私は従いませんでした、抵抗したのです、という言い訳は通用しない。
だから、あのラストには違和感を感じてしまった。いい雰囲気で、あたかもあの世で幸せになる2人の姿を、博士に見せてしまうのだ。
(単に、そのシーンの見せ方で言えば、すぐ前に星の話をしていたので、2人が星とか、星座とかになったようにしてもよかったのでは?…まあ、そうなったらそうなったで、今書いている主旨とはズレていくのだが)。
「見せてしまう」のではなく「見てしまう」博士ということで、もちろんラストに博士へ「罰」を与えろ、ということではなく、観客の気持ちに冷水を浴びせることになったとしても、博士の立場や所業について、博士自身に知らしめるものでもよかったのではないかと思うのだ。
そういう博士の立場などについては、意識していたと思うのだが、きれいにまとめるのではなく、ここでこそキツさを見せてほしかったと思う。
今回も濃いキャラが乱立していたが、ごちゃごちゃにならず、うまく整理された演出はお見事。ただ、掃除の若い女性は、ラストのあのシーンにちょっと生かされるだけで、それまでのシーンはさほど意味があったように思えず(おばさんのほうのウケとしての存在ぐらい)、もうひとつ何かほしかった。他の人とタイプの違う役者なのでもったいない気がする。ラストのあのシーンは、別の誰がやったとしても、同じぐらい面白かったと思うし。
キャラの中では、半径1メートル・テレパシー女がツボ。酷いメイク(笑)とテレパシーの表情が面白かった。
捕虜たちが入れられていた収容所(?)の将校も科学者ということならば、軍服に白衣のほうがよかったのでは? あと、軍服、もうちょっとなんとかならなかったかな、特にヒトラーとか。
満足度★★★
ぼんやりと、富士山が見えたような気がした
確かに戯曲は意欲的で、なるほどと思ったし、役者も熱演。
うまい人もいる。
いいシーンもあった。
しかし、舞台の上が熱くなればなるほど冷めるというか…。
単に、舞台のリズムが合わなかっただけなのかもしれないが。
ネタバレBOX
富士山の角度の考察なんて面白い。
だけど、それが当パンでは説明されているのだが、舞台の上ではすっきりとしてこない。リズムに乗せて、なのだが、「チーン」が可笑しくて。足踏みか台詞のリズム感のみで見せるべきだったのではないか。
舞台では「富士山」はそれぞれの登場人物たちにとって、「どのような意味があったのか」「心の中の位置づけはどうだったのか」が描かれていたようだ。
しかし、ムリして3つのストーリーにしなくてもよかったように思う。
神話の時代(岡本かのこ「富士」)、太宰(「富岳百景」)、現代、それぞれの交錯の仕方がもっと、鮮やかであればよかったのだが、そうでもない。
つまり、演劇としてもタイプの異なる3つのストーリーが、ぶつかり合い、のたうち回りながら渾然となっていくのであれば、面白かったと思うのだが、ラストは無理矢理まとめた感が否めなかったのが残念。
例えば、富士山の写真を巡る父子の「父」が、神話の時代の父娘の「父」と、そして、神話の時代の「娘」が、太宰のお見合い相手の「娘」と、イメージ的にリンクしていくような印象なのだが、実はそうでもない。
役者を同じにすればよい、ということではなく、それがダイナミックにリンクしていけば、こう、なんか、観ていてもどかしい気持ちが一掃されたに違いない。
当パンに書いてあることから言うと「最も美しい富士は、想像の中にある」のならば、形にして見せるべきではないように思えた。たとえ、扇子であったとしても。
あるいは、それぞれの手に持つ、それぞれの富士(扇子)を見せて、それぞれの富士山を感じさせてほしかった。
富士山のイメージを重ねていくというのは、お見合いのシーンなどとても効果的だとは思ったのだが、特にラストは、何もないところに、それぞれの、登場人物の数だけの富士山が見える(あるいは見せない)ほうがよかったのではないかと思うのだ。
あと、気になったのは、台本らしきものを手に熱演する男。大柄で翁と同じようにオーバーな振りなので、翁に被ってしまい、翁が消えてしまうように感じる場面が多かった。あのサイズの舞台なのだから、一歩引いて舞台後方にいてもよかったのでは。
また、冒頭のダンス的なもの、靴音がボコボコとして、カッコ悪い。音が重要なシーンも後に出てくるのだから、そこはきちんと音が出るようにコントロールすべき。冒頭のシーンであれば、裸足でもよかったのでないか。
さらに靴を履いて座敷(部屋の設定の場所)に入るのは、とても気持ちが悪い。正座までするのに。ましてや、先生と呼ぶ相手の部屋に靴のまま上がるのはないんじゃないだろうか。靴を脱ぐタイミングぐらい観客は待つし。
とは言え、月見草のシーンは好きだ。翁が娘に会うシーンもいいと思った。
全体的に「お芝居」がうまい、という印象が多い役者の中で、茶屋の娘が印象に残る。とてもよかった。
岡本かのこの「富士」を読むと、ラストの台詞が鮮やかなのだが、それが感じられなかったのも残念だな。
満足度★★★★★
人間の社会性が作り出したコミュニティ
南部高速道路の上に見えたのは、とても人間的な「コミュニティ」。
日本製のオブラートに包まれて。
ネタバレBOX
最初に人々が傘を持ち並んでいる様子は、てっきり雨の中、高速バスか何かを待っている人々なのかと思っていたが、そうではなく、傘は1台1台の車を表していた。だから、傘を床にコツコツさせるのはクラクションなのだろう。
舞台の高速道路は日本なので、つい、首都高の片側2車線や、東名などの片側3車線、あるいは4車線程度のものを想像してしまうのだが、原作にあるように、片側6車線で、この時期はパリに向けて流れるようにになるので、計12車線もあるものを想像するとよいだろう。
つまり、そう見ていないと、車が前に移動するたびに、周囲の車の位置が変わったり、ラストにバラバラになっていく様子が想像できないからだ。
単なる渋滞の一コマを描いたものかと思っていたら、数日経過し、さらに季節までも変わっていく中で、とんでもない不条理の世界に滑り込んでいたことが明らかになる。
日常と地続きだから、「不条理」。
その不条理な先に見えたのは、人間特有の社会性から生まれた、人間的な「コミュニティ」。
見ていて感じたのは、どこか三丁目の夕日的な下町世界だ。
とても日本的だと思ったのだが、元はラテンアメリカの作家による、フランスが舞台の短編小説。
しかし、小説のパーツをすべて日本的な要素にうまく入れ換えたり、追加したことで、とても身近な物語となってきた。
さらに、WSから作り上げた作品だということが、その度合いを高める。
役者たちも、日本的なパーツの中で動きやすかったのかもしれないし、観客も受け取りやすくなっていた。
だから、原作のコミュニティとは、どこか有り様が違っている。
日本人の役者の頭と身体から生まれた「コミュニティ」だからだ。
WSの意味がここにあったのだろう。
「不条理な世界」に入り込んだときに、人はどうするのだろうか。
身体を寄せ合い助け合うのだろうか。
「日本人の役者たち」にとっては、「3.11以降」にあるので、「(不条理に対して)どのように振る舞うのか」がWSで問われ、「そうすることが当然」であるという考えに帰結するのは当然なのかもしれない。
意識、する、しない、にかかわらず、そう身体が、心が動いてしまうのだろう。
「不条理」な状況からの助け合い、「戦友」的な意識が生まれ、コミュニティが出現する。
その姿を観客は、やはり3.11以降の記憶の中で観ることで、安堵するのかもしれない。
「人と人は助け合う美しい姿」を。
コミュニティの姿が美しいとするのは、美術でも表現されていた。
物語の進行とともに、真っ黒な床面から虹色の絵が描かれていく。
人々の関係が深まっていくことを、祝福しているような明るい色彩の絵だ。
しかし、ラストにそれらは、何もなかったように車の轍の下になっていく。
コミュニティで「内」をつくることは「外」も作り出してしまう。
他のコミュニティとの関係が対立的になったり、協調したり。
また、コミュニティの中の「外」も生み出してしまう。
舞台の上では、一人儲けようとした若者が、「罰」を受けるというわかりやすい形で表現されていた。コミュニティに馴染めない老人は自ら去っていく。
原作でも人と人がかかわっていく姿が見えているのだが、「自分の居場所を確保する」という意味において、近くにいる人との関係を明らかにしていきたい、という欲求が働くからではないだろうか。
社会性とでもいうか、集団の中で協調し、また、その集団の中で認められたいという欲求がなせる、人間的な業ではないか。
人間ならではの感覚。
つまり、この物語は、「人が助け合うことは美しい」とか「人々が協力して困難に立ち向かった」とか、ということを描いたのではなく、「人は社会的な生き物である」ということを描いたのではないか、と思うのだ。日本的な要素がそれをうまくオブラートに包んだとも言える。
ひょっとしたら、それは身も蓋もないことになってしまうのかもしれないが、それは、ラストに示される。
必要に迫られてつくられたコミュニティだから、それは概ね、こんなふうに生まれて、こんな風に消えていく。
必要がなくなったときに、つまり、「元の自分の居場所に帰っていくとき」には、この促成のコミュニティにおける自分の居場所は不要になるのだから。
役者はみんなうまかったなぁ。年齢・性別・性格の違いがくっきりとしてくる。「この人はどういう人なのだろう」という興味を引く。
そういや、客いじり的(と言っても(「見ませんでしたか?」とか聞く程度だけど)なのもあってちょっと楽しかった。
満足度★★★★★
ずっと笑いながら観ていられる幸せコメディ
テンションが高いところもあり、ドタバタしたイメージがあるのだが、きちんと組み上げられたコメディとして、ずっと笑っていられる幸せがある。
2時間の長さを感じない。
ネタバレBOX
コメディが好きだ。
ただし、太っているとか、足が短いとか、顔が猿に似ているとか、そんな身体的な特徴やのみに焦点を当てたり、役者のキャラ頼みなのは、コメディとは呼びたくない。
また、安易にCMやアニメのなどを持ってくるだけで、面白いと思っているような舞台は嫌いだ。
キャラ設定が、毎回同じなのも、あまり好きではない。
8割世界は、小早島モルさんという飛び道具的な役者(失礼!)を擁しつつも、彼をそういう1つのキャラに押し込めず、毎回丁寧に彼のキャラクターを作り上げている。
そうした姿勢が、作品全体にも表れており、この劇団が好きな理由にもなっている。
今回の舞台では、小早島モルさんのテンションは高かったが、それが彼のキャラではないところがいいのだ。
ある役者が、その役を演じているのではなく、その役を、ある役者が演じているとでもいうのか、そんな感じだ。
作・演出の鈴木雄太さんは本作をもって脚本の筆を折り、演出に専念するという。
こんなに面白い戯曲を書くのにもったいない、と思うのだが、同時に上記に書いたように、キャラ頼みにしない演出にこの劇団の良さがあるのだから、自分の劇団に戯曲を書くということは、当然自分の劇団員を想定しながら書くということになり、うっかりすると、悪い意味での当て書きになってしまう可能性だってあるのだ。
だから、演出に専念するという方向もアリなのかもしれない。
他人の戯曲を丁寧に読み込み、劇団員に役を割り振り、単に戯曲の上のキャラではなく、その劇団員の持ち味に合ったキャラを探っていきつつ、練習で答えを出していく、そんなスタイルが合っているのかもしれないのだ。
時々は戯曲書いてほしいのだが。
この舞台は、テンションが高いところもあり、ドタバタしたイメージがあるのだが、きちんと組み上げられたコメディとして、ずっと笑っていられる幸せがある。
2時間の長さを感じない。
内容的なことで言うと、確かにゴールはウェディングなのかもしれないが、物語(戯曲)としては、もう少し視野を広くもってほしかったと思う。
それは、結婚が、ましてや結婚式がゴールであるはずもなく、その先のことにも想いを馳せてほしかったということ。
つまり、主人公が結婚式だけに猪突猛進している様子が面白いのだが、それを結婚後のことまで、ふと気がついて…というような展開であったら、花丸ぐらいの物語になったのではないだろうか。
そしてそれは、最後まで登場しない、うんと年上の新郎に気づかされたり、あるいはなぜそんな年上の男と結婚したのか、というエピソードと絡めば言うことがなかったと思ったりもした(いや、てっきりそうなるかと…)。
それと、高宮尚貴さんと吉岡和浩さんがこの公演をもって引退するという。高宮尚貴さんは、今回は振り幅が大きく、とても面白かったし、不器用な一途さがとても好きだった。吉岡和浩さん演じる神父の「新婦」の2度もあるボケもなかなかだったし。残念。
本当に十分楽しんだ舞台だった。
次回作も楽しみだ。
満足度★★★★
武蔵でござるよ
まさかここまで史実に忠実な武蔵を、五反田団で観られるとは……
ネタバレBOX
…んなことはあるはずもなく、サムライ的な雰囲気で、いつもの、あれ的な、うだうだと、だらだらとした前田・武蔵でござった。
宮本武蔵という人は、案外こんな人だったのかな、とは思わないけど、今の世のメンタリティーのまま、斬り合ったり、殺し合ったりする世界の中にあったとすれば、武蔵という人は、あんな性格の人でも不思議はないでござるよ、と拙者は思ったのでござる。
前田・武蔵は、コミュニケーションを取るのが下手で、友だちなんていないのでござろう。
友だちできても、話が合う人は、みんな刀持ってるから、斬っちゃうんだ、なんてうそぶいているけど、やっぱり友だちできない系の人なんだろう、前田武蔵は。
時代劇なんだけど、今の人たちの感覚のまま、それをやっているというところが面白み、なのでござって、実際に面白いのでござる。
脱力感たっぷりの笑いが、ついつい起きてしまうのでござるよ。
男子学生が、なんかうだうだとしている感覚に、サムライ的なやつとか、仇討ちとか、そんな時代劇的な要素が混ざり合ったりしているのでござる。
宿屋の女主人に一方的になじられるサムライたちは、まるで近所のおばちゃんに怒られる学生のようでござったし。
ただし、いつも感じる、時空が捻れるような演劇的面白さに溢れた感覚は、感じなかったのでござった。
それは、設定自体が捻れているからであったからだろうが、もうひとつ、ぐりっとなるような感覚を味わいたかったのでござる。
そういう意味では、想定内の「前田武蔵」でござったかもしれない。
「殺すっていうのは、やっぱムリ」って言う、今の感覚の中にあって、卑怯な方法で、平気で人を殺してしまう前田武蔵は、今の世界の人だったら、発散する場がなく、相当ねじ曲がっていそうで、恐いでござる。
そういう、世の中批判的なアレがあるのかどうかはしらないけれど、五反田団側へ、武蔵という時代劇を引っ張っていく力は凄いと思うでござる。
あと、いつものような、ラストのぽかーんとした雰囲気は大好きなのでござった。
だけど、少し長いかな。
満足度★★★★★
切なさ6つ
『15 Minutes Made』も今回で11回目だという。
新しい劇団に出会えたり、知っている劇団の違った側面を垣間見られたりと、素晴らしい企画だと想う。
ただし、15分ということで、大きなハズレもないが、大当たりも期待できない、と少し思っていたのは事実だ。
しかし、今回はもの凄く面白かった。大当たりかもしれない。ツボにはまったと言っていいかもしれない。
今回のテーマは「地図」ということなのだが、どの劇団の内容にも、「切なさ」を強く感じた。
生きてるということは、切ないんだな、ということを。
ネタバレBOX
『工藤、笑って!』月刊「根本宗子」
15分なのにしっかりと人物と物語が描けている。
学生のころの、友人の鬱陶しさ、と郷愁と。
笑いもいい塩梅。
男子学生のいい加減さがツボ。必ずパンをかじりながら入ってくるとか。
4人ともうまい。
長編も観たくなった。
『lovvvvvvvv∞vvvvvvvve』宗教劇団ピャー!!
変な(と言うか、下手な)台詞の感じはラスト近くになってわかってきた。母、祖母という役にホンモノを持ってきたようだ。あえて役者を使うのではなく、ドキュメントな感じ、「血」の気配を狙ってきたのだろう。このイタイ感がこの劇団らしい。
いつものけたたましい美術に囲まれてないと、世界観を作るのが難しかったようだ。アウェイの空気が劇場を支配していた。
後半の種を繋ぐというテーマには広がりを感じ、配役の意味が浮かび上がる。
また、種を繋ぐということと、それを「女性」のみで繋いでいることと、バックの男女の姿、タイトルとの関係から見える「愛」と「生物」の関係の面白さ、皮肉さは、ほんの少しだけ感じた。しかし、それらが突き抜けていかないもどかしさもあった。
『お父さんは若年性健忘症』Mrs.fictions
確かにキレイゴトなのだが、泣けるストーリー。
テーマ的には悲惨で、哀しい話なのかもしれないが、母の前向きさが助けている。
だから、メルヘンともいえる物語に仕上がっている。
それでも、家族で、夫婦で生きていくという話。
笑いもありつつ、いい感じだった。
『散々無理して女だった、女だったのに』MCR
とにかく台詞の「間」がうまい。どこまでが脚本内なのかわからないような、台詞とそのタイミングに、ぐいぐい引き込まれていく。
ゾンビ話という、短編の題材としてはありそうなのに、その設定と落としどころにうまさを感じた。
そして、笑った。
あずきちゃんいいなぁ。
『八坂七月 諏訪さん九月』あやめ十八番
一人芝居であること、枕と、手ぬぐいを使った小道具に落語を思わせつつも、徐々に演劇になっていく。
方言の語り口から、故郷と家族を想わせる素晴らしさ。
姉の人柄がくっきりと浮かび上がり、祭りに繋げる物語に泣けてくる。
立ち位置というか、地に足がきちんと着いているというか、根っこの部分をしっかりと感じた。
ラストの踊りの身のこなしの鮮やかさはさすが。
堀越涼さんが、作・演出もこなす。素晴らしいとしかいいようがない。
『キック・オフ!!』梅棒
暑苦しいのに爽やかな青春モノ。
身体のキレが半端なく、魅せるダンス。
ありがちで単純なストーリーなのに、演出がうまくて楽しい。
特に、前のキャプテンが足を怪我してからの展開は、一瞬「?」となったのだが、大胆に内面を表現していていいのだ。
ラストに会場から「プレイボール!」というかけ声がかかったが、サッカーなのだからそれは違うだろう(笑)。せっかくタイトルにもあるのだから、ここは「キック・オフ!」だろうに。
満足度★★★
なんか、もったいない
とても評判がいいので観たいと思っていた。
しかし、見終わってみれば、なんか、もったいないな、という感想が残った。
ネタバレBOX
とにかくストーリーが一直線すぎて面白くない。
台詞を話すときにの(ほぼ)棒立ちも気になる。
そして、途中から気になったのは、誰かが話しているときに、聞き役の全員が、全身を使って、「ウンウン」と頷く演技だ。
これが揃っていたり、揃っていなかったりするのが、とても気になって、気になって。
台詞がテンション高く、早口なので、まるで餅つきで、餅をこねる合いの手のような頷きがあると、いいテンポが生まれてくるのかもしれないのだが、これにはどうも違和感がある。
また、誰かが何かを言うと、いちいち「えっ」と驚いた顔をして、一斉にそちらを向く演技にも違和感を感じてしまった。
全体的に早口で、なんかスピード感があるような感じだが、実のところ、そうでもない。
例えば、いざ試合、という直前に「実は言いたいことがある」的な場面が2人分も入ってきて、一気にスピードが削がれる。
1人ひとり自分の想いを、同じテンションで熱く語って去っていくシーンも、またしかりだ。
ストーリーで言えば、財閥の娘とかおかまとか、まあいろいろ設定しているわりにはそれはそれほど活かされるわけではなく(財閥の娘は親の援助なしでやっている、ぐらいだし)、登場人物たちの葛藤も成長もそれほど感じられない。
おかまを出せば面白いのでは、というぐらいの意識ではなかったのだろうか。実際はまったく面白くなかったが。
スポーツだからなのか、ときどき、妙に男言葉で凄むような「〜ねえんだよ」的な台詞が入るのだが、たぶんカッコいいからということなのだろうが、これにも非常に違和感を感じた。なにもそんなしゃべり方しなくても、と思ってしまう。
オリンピックという目標に向かってかんばっていく、というテーマがあり、「チーム」という設定もあるのだから、それぞれの目標や考えが違っている者たちが集まり、それがでこぼこしながらも最後に1つの目標に向かっていく、というつもりだったのだろうか。
しかし、実際は、「がんばれ」と言われれば、「はい、がんばります」と答えるだけで、そこの葛藤もなければ、がんばっていくための成長も感じられない。
怪我をしても「がんばれ」ば「オリンピックレベル」までならば、なんとかなるようだし、何より、全員が単に「強い」から「勝っていく」としか見えないのだ。
負けたのも計算のうち、というような余裕があるのも、なんかイマイチなのだ。だって、オリンピックをかけての戦いなのに。
強いだけの人たちに共感はしづらい。たとえ実力があってもいろいろあってそれがなかなか発揮できない、などがないと。
水球やレスリングなどの他の競技から、「わざわざ」リクルートしたという意味も薄いし(理由は簡単に説明されていたが、「??」だった)、彼らが、今までとまったく違うバトミントンで戸惑うことなく、あっという間にオリンピックレベルに駆け上がっていくのには、やはり違和感を感じざるを得ない。
例えば、彼ら固有の悩みや失敗があり、それを乗り越えるのが、かつてやっていた競技に関係したり、など、いくらでも展開があるのではないだろうか。
「チーム」が大切だ、という割りには、チームワークが作られていく様子も薄いし、自分が選抜メンバーに残っていくための、駆け引きや戦いだってあってもいいのではないだろうか。
今回の場合であれば、レスリングから来た井上の成長を軸にメンバーが「チーム」となっていきながら、勝利を手にするストーリーであれば、(それでもありきたりだけど)まだ面白かったような気がする。
また、細かいことだが、開演前から舞台の上でやっていた「アルソック」のCMの体操。スポンサーなら別だけど(いや、それだったらよけいに嫌か・笑)、開演前のちょっとした遊びだと思っていたら、劇中にも何回も出てきてうんざりした。これを面白いと思っている人は1人もいない、とはいわないが、私は面白くないし、「面白いでしょ」と言わんばかりの押し出しに、白けてしまった。
と、いろいろ書いてきたが、最後まで飽きずに観ることができたのは、役者の良さがあったからではないだろうか。
女優陣の、台詞回しとそのタイミングは良いと思った。
とくに零(平澤有彩さん)と祐美(関矢瞳さん)のやり取りのは「凄い」と思ったほど。呼吸ととテンポがハンパないのだ。
これがあるから、ファンというか、応援したい、と思う人がいるのも頷ける。
ただし、男優陣はそれに比べるともうひとつだった。女優陣は、舞台の上がったとたんに、スイッチがオンになり、台詞を言えるのだが、男優のほうは暖まるまで時間がかかっていたり、おかま役の人は、声を枯らしてしまっているようだったりと…。
「男が強く生きようとしねえから、女が強く生きるしかねえんだよ」を見せるために、わざとやった、とは思えないし…。
結果として、役者は力がありそうなので、脚本と演出がもう少し良かったら面白くなったのではないか、と思ったのだ。だから「もったいない」。
だけど、あともう1回ぐらいは観てみようかと思う。
それは、公演の最後に次回の予告編があり、このテンポがよかったので、期待できそうだったからだ。
ただし、予告編を観る限りでは、つかこうへいの「広島に原爆を落とす日」にかなり似ているような気がしたのが、少々気かがりではあるのだが…。
満足度★★★★★
窓ガラス1枚、犬の腹の皮1枚向こう側の「社会」
STスポットという小さなスペースで、まるで若くて新しい劇団のような姿勢。
(受付とか客入れに出演者が対応したりして)
どことなく、フレッシュさを感じた。
そして、とにかく面白い。
けど言いたいこともある。
ネタバレBOX
2009年にシアタートラムで上演された『モンキー・チョップ・ブルックナー!!』を大幅に改訂した作品。
そのときの私の感想は、「私の中では、間違いなく今年度ベストワン!!」というものだった。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=55152#divulge
なので、それの改訂作品ということで、さらにハードルが上がったと思う。
『モンキー・チョップ・ブルックナー!!』のときのPOPさは気配を消し、個人的に勝手に「ひょっとこフォーメーション」と呼んでいる群舞もかなり控え目、それによって、「ドラマ」と「テーマ」が、まるで鋭いキリで突き刺すようにピンポイントで攻めてきた。
基本となるストーリーは、前作と同じながら、前作では、監禁女性・三谷を数人の女優が演じていたのだが、今回は、1人、笠井里美さんだけが演じる。
その姿は、前回のときには、強い、いわば「押し」の守って欲しいオーラだったのが、今回は、「引き」の守って欲しいオーラとなっていた。
つまり、「押しのオーラ」のときには、それに対抗する小田も、強さがないとダメであり、前回の感想で私は小田を演じたチョウソンハさんを「小田の気持ちの動きと、それを表現する台詞と身体の動きの縦横無尽さは、まるで化け物とかモンスターのようだ。それぐらい凄い」評した。例えば、人に対するときの詰め寄り方の変化がもの凄かったのだ。
今回の「引きのオーラ」が出ている三谷に対抗する小田(松下仁さん)は、まさに「引き」に対応している演技だったのではないだろうか。徐々に変な方向にすべっていく様も、ちょっとだけ軌道が外れてしまいました、という雰囲気で、黒テープのくだりはかなりインパクトが増していた。
そして、三谷の存在が薄くなることで、小田の意味が鮮明に浮かび上がってくるのだ。
「監禁」という「束縛」の状況の逆転が前回であったとすれば、今回は、「監禁」というエッセンスは、小田の中にある「観客席に自分はいる」という気づきを与え、それは、「プレイヤーとして社会にかかわっている、ほかの人たちとは自分は違うのだ」ということを意識させた。
つまり、小田と社会の関係が明らかになってくることで、小田は安心してしまったということなのだ。
三谷はそのための触媒にしかすぎず、しかし、そばにいないことには、不安になってしまう。
小田と社会は「窓ガラス一枚」だけ(も)、「犬のお腹の皮一枚」だけ(も)隔たっている。
それを教えてくれたのが三谷である。
小田は自分の感じていた(社会との)違和感をこうして「コトバ」にすることで、「わかった」のだ。
つまり、三谷は小田にとっての「本当」で「唯一」の理解者であり、グル(導師)でもある、という勘違いから、勘違い=恋愛的な感情に結びついているようになるし、周囲からはそうとしか見えない関係になっていく。しかし、これは男女の恋愛ではない、もっと深いところでの結び付きである。
ただし、それは「小田からの一方通行」の可能性が高い。
こうした「ドラマ」と「テーマ」を満載しながらも、「笑い」をまぶし、抜群の構成と演出、展開のテンポで2時間近い舞台は息つく暇もなく進むのだ。
そして、何より役者もいい。
とても面白かった。
アマヤドリはこうしてスタートしたのだ。
ただ、ひとこと言っておきたいことがある。
前回「大爆破」とまで言っておいての、「アマヤドリ」である。
大爆破したんだから、「ひょっとこ乱舞」はないもの、として考えていた。
なのに、ひょっとこの作品の改訂版だったのは少々残念。
新作で、アマヤドリのスタートを切ってほしかった。
そういう意味では「アマヤドリ(ひょっとこ乱舞改め)」のカッコの中だって、もういらないんじゃないだろうか。
何のために劇団名は大爆破したのかはわからないが、「アマヤドリ」だけでやっていけばいいんじゃないのだろうか。
それともいつまでもいつまでも、大爆破したはずの「(ひょっとこ乱舞)」の古い殻を付けていくつもりなのだろうか。
満足度★★★★
ホントにミュージカルなんだ! (チームB)
わずか70分のミュージカル。
70分きちんと楽しんだ。
ネタバレBOX
確かに「ミュージカルプロジェクト」と銘打ってあるけど、実際に歌い出すまで、本当にミュージカルだとは思っていなかった。
しかし、小さな会場で、突然歌い出してミュージカルが始まるというのはとても愉快だ。
なんだか、愉快なので、終始ニヤついて観ていたと思う。
申し訳ないが、いかにもミュージカル風に歌って踊られると笑っちゃうのだ。
わずか70分にいろいろ盛り込んだストーリーは、正直それほど「へー!」というものではなかったのだが、いい塩梅に歌が入り、適度にバカバカしさや、笑いもあったりする。
だから、ちょっといい感じではある。
「へー!」というほどのものではなかったストーリーと酷評めいたことを書いてしまったのだが、実は細かい「小ワザ」みたいなものが効いていて、それにセンスを感じたのだ。
例えば、「いかにも付けてます」というような宇宙人の角みたいなものを、「実は」と言って取ってみせるシーンとか(もちろんそする意味はあるのだが)、役者は2役やってますということはわかっていての、スタッフというTシャツを着て入ってきて、なぜか帽子を深々と被っていることに、逆に意味があったりとか、お茶請けに「きりたんぽ」というしょーもないボケだと思っていたら、実はフリだったとか、通訳を介して宇宙人と話すという面倒なことを、段ボール箱の前で処理するとか、ライバル会社の男が歌うときに、ライトの前に立つとか、いい感じのバラードが始まりそうなのを終わらせるとか、まるで往年のミュージカル映画のように、全員がずらっと並んで、ガムを手渡しながら歌うとか、まあ、そんなものが(ハズレもありつつの)満載となっているのだ。
ミュージカルなのだが、歌の部分で「あれれ・・」という人もいるのだが、2つの旋律を被せてみたり、全員で歌うシーンがきちんと入っていたりと、ミュージカルのポイントは押さえつつ、とにかくいい感じではある。
後半のやけに声を張るシーンは、ちょっと引いてしまったが(会場はあのサイズなので、本気で声張らなくてもいいんじゃないのかな。社長とかは渋く迫ったほうがよかったように思えるし)。
役者では、ガム会社の宇宙人を演じた鈴木公太郎さんと柴田麻衣子さんが、明るくて溌剌感もあり、印象に残った。
全体的に真面目さも伝わってきたし、(たぶん)センスもあるのではないかと思う。
もちろん、(本格的な)ミュージカルという視点から観ると足りないものが多いとは思うのだが、減点的な見方をせずに、今後への期待を含めて、少々甘々な星の数にしてみた。
ミュージカルだったらもう一度観たいが、そうでない舞台だったらどうなんだろう、という不安はある。あるのだが、期待値がいまのところ大きいのだ。
なんか、応援したくなるというか、そんな感じで、なぜか好感度は高い。
そして、事実は演劇よりも奇なり。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1204/26/news108.html
満足度★★★
メタとマジとの狭間に
とても奇妙な手触りの舞台だった。
それは意図されているものと受け止めた。
ネタバレBOX
何か未知のものに冒され、ほとんど死滅してしまった村から、「何かの使命があって生きの残ったのではないのか」という思いに駆られて、長い間交流のなかった隣の村へ行く男を主人公としたストーリーだった。
予想のつかない災難と、それは自分のせいかもしれないと思う。
そして、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかという想いと、そのことは、つまり「自分には何か役割があるのではないか」ということへの帰結、そうしたものが物語の根幹をなしている。
さらに主人公のいつも聞こえる「異音」と見えてしまう「幻覚」、そして「(悪)夢」がある。
そんなストーリーの中に、モロ、今様なテーマが垣間見える。
しかし、妙に芝居がかった芝居がされている。
特に、老人たちの設定の4人が。
「おらたちが」とか「わしらが・・・じゃよ」という台詞回しに、やや腰を曲げたスタイル。
ババと呼ばれる未来が見える女の、とにかくいつも片膝立てて座る様など。
さらに、彼らが中心となって、腰が砕けるような、独特のセンスのユーモアを見せてくる。「笑ってください」という感じにはあえて作っていないようだ。
それに対するように主人公と境界線を守る女戦士とその妹たちは、やけにマジなのだ。
そして、台詞ごとのいちいちのポーズが、マジっぽくて、やや臭い。
これって、(大変失礼なたとえかもしれないが)深夜ドラマでやっていた『勇者ヨシヒコと魔王の城』の構造に似ているかもしれない、と思い当たった。
(もちろん、深夜ドラマのほうにはこの舞台で示そうとしている「テーマ」みたいなものは感じられなかったのだから、その点は大いに異なるのだが)
ゆるさとメタと。
そう気がついてからは、そういう「見方」をしようと思った。
しかし、その「メタ」的な何かを孕んだストーリーは、もうひとつ「面白さ」に転がっていかない。
それは、「お芝居をやっている」ということを強く意識させてしまう「メタ的」な部分が「面白さ」として響いてこないからではないだろうか。
音楽の使い方もなんとなく「お芝居のBGMです」的で、舞台上の感情がモロなのが、延々流れる。これも「お芝居感」をさらに煽る。
つまり、この舞台自体が「芝居」なので、その中での「お芝居」が、どこまでマジなのか、メタを意識しているのかが、観客に伝わりにくいということがあるのではないだろうか。
特に、私のようにこの劇団を初めて観る者にとっては。
先に挙げた深夜ドラマのほうは、RPGを下敷きにしてあるので、その「メタ感」は伝わりやすく、「ああ、このチープさはワザとなんだな」と認識しやすかったのだ。
しかし、こちらはそこへ観客をきちんとガイドしていないのではないのか、と思ったのだ。
つまり、そうした「意図」を見せるような演出が必要だったのではないだろうか。
もちろん「説明」ではなく、面白くして、大多数の観客に伝わるように。
そういう意味では、例えば、長老が白い付け髭や杖を持つといった小道具を使い、さらに「いかにも老人を演じてます」という様子を見せながら、それをひっくり返すような演出があれば、よかったのではと思う。
しかし、そういう構造の中に、死体の山を作り上げるというエピソードは、不気味さがなかなか効いていたと思う。
この「死体」とは何を意味しているのか、と考えればまた違った景色が見えてこよう。
しかし、そこまで考えようと思わせないのは、このエピソードの位置づけと、全体とのバランスがあまりよくないからだ。
また、女戦士と巫女が黒白の衣装で姉妹で、互いを気遣っているとか、そんな、いかにもありそうな関係も、そこはメタなのかマジなのかが判然とせず、村の若者たちの位置づけも、面白要素を加えたことで、わかりにくくなってしまっているのではないか。
特に主人公の人柄がわかりにくく、さらに「異音」との関係も、もっときちんと観客に示すべきではなかったのだろうか。
彼にしか聞こえない(のちに巫女も)異音は、彼らに何をもたらしたのかが、くっきりしてくると、全体の方向性も見えてきたのではないだろうか。
何かによって死んでいく者たちが最後に踊るようにもがく様と、異音、そして、死体の山と、主人公の「使命感」それがうまくリンクしていきつつ、それらがメタとゆるさの中にある、そんな感じで、なおかつそれが観客に伝われば面白くなったのではないか、と思ったのだ。
……と、ここまで書いてきたが、実のところ、延々とまったく的外れなことを書いているかもしれないのだけど、という危惧もあるのだ。
で、この劇団、実は今後も結構期待している。
満足度★★★
なかなか良い戯曲
MODEにとって、14年ぶり(!)の新作書き下ろしということだ。
物語の展開、台詞、そういうものに込められた内容がとても素晴らしいと思った。
思ったのだが……
ネタバレBOX
思ったのだが、楽日が近いから皆さんお疲れなのかどうかはわからないが、役者間のリレーションとか、台詞の間とか、なんかそんなのがイマイチ。
ベテラン勢は別として若手の中の何人は、「台詞を言っている」にしか聞こえず、客席で唸ってしまった(いや、本当に唸ったのではないが・笑)。
初日だったら、「固いかな」と思ってしまうところだったが、もう明日は楽である。そんなはずはないのだ。
ベテラン勢の方々は、とても自然で、物語を支えていたと思うし、もし、そういう役者さんたちばかりだったら、相当面白かったのではないかと思ってしまった。
奇才と言われた老映画監督を演じたすまけいさんは、MODEのHPによると当て書きのようで、もう演技なのか、本当にそうなのかわからないほどリアルだった。
本当に言葉(台詞)が出てこないのか、演技なのかがわからないが、まさに舞台上の設定にドンピシャで、一体撮影中の映画はどうなるのだろうと思わせる。
モノ作りに対するこだわりと親子の微妙な関係がうまい具合にミックスされ、言わなくても伝わったり伝わらなかったりするあたりや、娘の満ちるをめぐる男性たちの感じ(老監督との血縁疑惑も含め)、老監督の人間模様も垣間見える素晴らしい戯曲だった。
台詞の感じもいいのだが、どうもタイミングなどの悪さで、本来は笑いが起こるはずであろうシーンが笑えない。空回り感がある。
そこが辛い。
もう少し腰を落ち着けてやってほしかったなあ。
観劇後は相当いい感じになれるであろう内容だけに、役者たちのあの感じは残念。
開演前に『キューポラのある街』の東野英治郎演じる父親と娘の吉永小百合のやり取りの台詞は、この舞台の内容を示唆しているようで面白かった。
ただ、映画監督ということでの、映画へのこだわりが、古き時代を懐かしむ、で止まっていたようなのがもうひとつだったかな。
老監督は過去の人になっている、という悲哀なのかもしれないが。
だから「奇才」「奇才」と周囲が連呼するのは、年老いて現役ではない監督への皮肉のようにも聞こえてしまったのだ…。
セットは、舞台の前面に映画のスクリーンを模したような枠があった。
しかしそれは「舞台の上はつくりものである」と、ずっと言われているようだったし、なにより正面の席じゃなかったから、いつも視線に入り鬱陶しい。
また、映画というテーマから、暗転のときに必ず映写機の音が入るのも、「つくりものです」と宣言しているようで、これもマイナス効果ではなかっただろうか。
それと何より、セットがここの舞台のサイズに合っていないため、左右に役者が出たり入ったりするところがやけに見えすぎで、その距離が長いのでスピーディさに欠け、役者の登場が早めにわかってしまうのも、なんだかなー、ではあった。
特に下手の2階に通じる階段は、上ってから半分は黒く塗ってあるものの、下り階段になっていて、役者が2階に上がったと思ったら、下がっていくのが見えてしまうのが、(もちろん舞台のルールとして見えてないことにはしようとするのだが)イマイチ。
だから、2階から勢いよく降りてくるシーンは、役者が舞台袖から階段まで来て、ゆったくりと黒く塗ってある階段を上ってから、やおら勢いよく降りてくるという演技になるわけなのだ。それはないよな−。
これもまた「つくりものです」と言われているようで、「舞台のウソ」が見えすぎて興が冷めてしまうのだ。
単純にその部分は隠せばよかったのではないだろうか。
セットのサイズ的にはスズナリあたりだとぴったりしそう。
戯曲がよかっただけに、そういったことはなんとかならなかったのかなー、と思った次第である。役者ではなく演出の問題かな?
満足度★★★
弱い人間同士が傷ついていく
舞台としての完成度が高い作品。
ネタバレBOX
まず、演出が素晴らしく、その密度が濃い。
音楽や絶えず響く効果音も抜群だ。
そして役者がとてもいい。
後半にいくに従って、ヒリヒリする感じが、演出からも役者からもよく立ち上がってきて、舞台にのめり込んで観たのだ。
そんな内容なのにもかかわらず、笑いまであるというのは驚きだった。
犯罪者だったという負い目から来る「負のオーラ」を放ち、部屋の蛍光灯を消してランタンで暮らす主人公。
彼の世界は、檻のようなセットにうまく表現されていた。
それは、「自分の殻」に閉じこもってしまった主人公であり、部屋は「自分の殻」であり、心の象徴でもある。
そして、彼を取り巻く状況が、1人のジャーナリストの登場によって露わになるときに、その彼の部屋、つまり檻の意味も露わになってくる。
この、観客の疑問を先に延ばしていき、興味を引く演出はうまいと思う。
登場人物たちを舞台の上に上げたまま、その存在を意識させるというのは、主人公にとっての「社会の目」であろう。
それは意識すればするほど、見えてきてしまう「目」なのだ。
そして、刑期を終えて「檻」から出てきたはずなのに、「社会の目」という「檻」にまだいたという主人公の姿となっていく。
「檻」は、彼の被害妄想が作り上げたものではなく、実際の社会もそうだったというところが、ホンネでもあり、この舞台の怖いところでもある。
聞こえるはずのない声が彼の部屋に響く。
ただ、リアルに見えているようで、やはり友人たちの行動には疑問が残る。
もし、本当に主人公に対して嫌悪感を持ったならば、それを本人に告げることはないのではないだろうか。
何も言わずに去っていく。それがリアルではないかと思うのだ。
それをひとこと言うというのは、逆に「強い悪意」を感じてしまう。つまり、友人たちは主人公をそんなに好きではなかったのではないか、と思ってしまうのだ。
だから、彼と友人たちの前半の様子との齟齬を感じてしまい、イマイチぴんとこなかった。
また、人の失敗ということを軸に、主人公の犯罪の結果、周囲に悪影響を及ぼしてしまった(皆も失敗をしてしまう)という展開はわかるのだが、主人公が自殺しかけた友人をかばいながら、「僕たちは弱い人間なのです」というような台詞で、一緒にしてまうのはどうなのだろう。少々飛躍すぎやしないだろうか。また、主人公の、その状況下で、そんな他人事のように言えるのだろうか、とも思う。
「弱い人間同士」が、結局自分や相手を恐れて、自らや他人を傷つけてしまうというのはわかるのだが、姉のエピソードも取り込みつつ、その広げ方、取り込み方がスマートではないので、この舞台は「一体どちらの方向に向かっているのか」が判然としなくなってくるのだ。
ラストに主人公の幼なじみの女性がバットを持って出ていくシーンも、もうひとつピンとこない。ここにまた「負の連鎖」「失敗」が出てきたということなのだろうが、唐突すぎる気がする。主人公たちの犯罪は不可抗力であったかのような展開だっただけにだ。
ラストのジャーナリストの問い掛けは、「お前が言うな」という感じはあるのだが(笑)、弱い人間たちへ放った、悪魔か神の声のようだった。
だから、そこまでがもっと「どこに向かっているのか」「今、何を言いたいのか」「今だからこそ言うべきことは何なのか」というポイントが押さえられていたらなあと思ってしまったのだ。
犯罪歴のある者と、彼の家族や周囲の人への影響、また、それを知ってしまった周囲の人々反応というストーリーはよくあるのだが、そこから、「弱い人間」というキーワードを踏まえて、もう一歩、「人」について深掘りができたのではないだろうか。
演出も役者もとてもよかっただけに、そこが観たかったと思う。
つまり、この素晴らしさを土台にすれば、「もっと行けるんじゃないか?」という思いがあるのだ。
もっと突出していく「何かが」ありそうに感じているから。
あと、主人公を演じた伊藤毅さんは、もの凄くよかった。雰囲気やブレのなさが。
どうでもいいことだが、「劇場の照明を一切使用していない」というのは、あえて説明する必要はなかったのではないだろうか。
照明を一切使用していないのかと思っていたら、効果的に(劇場の照明ではないもの)照明器具を使っていて、その効果はなかなかだっただけに。
(クイーンが1stアルバムで「シンセ使ってません」とわざわざ書いたようなものなのか?・笑)
満足度★★★★
喉に刺さった「あれっ?」っという小骨が、あっても…
そこはピーター・ブルックだ、っていうことにしておこう。
オペラ入門編……というわけではなく
オペラ・マニア向け……というわけでもない。
オペラっていうキーワードからの接近はどうかな、と思ってしまっている。
ネタバレBOX
つまり、これってどう観たらいいんだろうか、とフト思った。
確かに『魔笛』を上手い具合に90分という時間にまとめて、ストーリーとしてはよくわかる。
何より、まったく退屈させない。
ユーモアたっぷりだし。
だけど、オペラとして観るとどうなのかなという気持ちが少しある。
いや、オペラと銘打ってはないの…かな?
「ピーター・ブルックの」とは銘打ってある。
「ピーター・ブルックの」ってのは、ミソだなぁ。
そういうのですぐに思い出すのは、「川越シェフのキムチ」とかそんな感じのものだ。
まあ、キムチは横に置いておいて、ピーター・ブルックという人については、演劇素人の私には「凄い人みたい」程度のことしか知らない。
だけど、昨年は、SPACで『WHY WHY』を観た。
それは、大昔観た『マルキ・ド・サド演出〜略〜と暗殺』という映画にビックリした想い出があるからで、その舞台は観てみたいと思ったからにほかならない。
浮き足だって、調子に乗って静岡まで出かけてしまった。
で、前置きが長すぎたのだが、「どう観るか」なのだ。
もちろん「どう観るか」なんていうのは、本来バカな話で、「観たまんま」でいいのではあるのだが。
実際観たものは、とても若々しくって、軽やか。
90分はあっという間。
客いじりっぽい演出もあり、笑いも起きて楽しいものだった。
それは間違いない。
しかし、オペラという狭い枠から覗いていると、「歌」が気になってしまうのだ。
もう少しなんとかならなかったのか、という印象だ。
さいたま芸術劇場の大ホールというのは、思っていたよりも小さく(『ハムレット』行ったけど、全体を見たのは初めて)、生の歌声が気持ちよかったのだが、オペラのもの凄さというものがなかった。
いや、もの凄くなくていい。
オーケストラじゃなくたって、ピアノだって十分ではある。
だけど、例えば、夜の女王が歌う、ソプラノを活かした高音のパートの、「あれっ?」感は、ちょっと腰が砕けてしまった。
オペラファンでもないし、ましてやマニアでもないのだが、歌声のあの感じに「あれっ?」と思った人は多かったのではないだろうか(その日だけのことかもしれないのだが、そうだとしても、それはない)。
と、書いたが、そうでもなかったようなので、多くの観客は、いわゆる「演劇」の延長としての、「歌のシーン」として観たのかもしれない。
というより、あるがままを受け入れた…とか。
オペラに比べて歌がどうこう、ということではなく、そういう視点から観ればまた違った景色が見えるのは確かだと思うからだ。
結局、とても歯切れの悪い書き方をしているのは、そこんところが、喉に刺さった小骨のようで、どうもすっきりしてこない。
オペラをカジュアルにして、自分の手中に軽く納めてしまった、ピーター・ブルックという人は凄いな、と思う半面、多くの人が知っているモーツアルトの『魔笛』だから、その歌はやっばり比べてしまうのは当然で、そこでの「あれっ?」は、やっぱり気になってしまう。
『WHY WHY』でもそうだったが、オペラまでこんなに、シンプルしてしまうのは、なんてカッコいいのだろうと思う。
自信というか、余裕を感じてしまう。
なにはともあれ、結局のところ、さいたまに行っただけの価値はあったし、なによりピーター・ブルックという、ブランドに弱くなってる私(実はよく知らないけど、前観た『WHY WHY』が面白かったし、『マルキ・ド・サド演出〜略〜と暗殺』で驚いた)としては、星は甘くならざるを得ない。「あれっ?」という小骨があったとしても…だ。
そうそう、あのラスト、本来は大団円で、めでたしめでたしのシーンがあるはずなのだけど、あえてそれを「並ぶだけ」にして見せた、演出も好きではある。
観客側の、変な間を、ひょっとしたらピーター・ブルックは、幕の後ろでほくそ笑んでいるんじゃないかと思ったりしているからだ。
あ、あともうひとつ。「魔笛」が、マギー司郎の手品ぐらいの感じで、タミーノの手の中でずっと浮いているっていうのも、おちゃめな感じでよかった。
ピーター・ブルック、また来たらまた観るだろうな。
満足度★★
醜・悲・痛
まるで役者の身体が試されているような舞台。
「コトバ」のない詩。
っていう感じで、いいな、と思ったところもあったのだが…。
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冒頭から台詞を廃した舞台に、「これはイイかも」と思ったのだが、どうも響いてこない。
何故だろうと思ったら、静から激していくパターンが、それこそワンパターンに繰り返されるからではないかと思った。
ホワイトノイズのようなものが全編に聞こえ、それが轟音になっていくのはちょっとシビれるのだが、それにほぼ合わせて舞台の上では、激してくる。
静にあって、動作を制御している役者が、徐々に気持ちを高まらせていくというのは、やっている役者にはもの凄い快感があるのではないかと思った。
それがあまりにもワンパターンでどうも不感症になってきてしまうようだ。
演出家から与えられた課題を気持ち良くこなしている感じというか。
確かに当パンに書いてあったことで作り上げられた舞台であることは、理解できた。
しかし、やっぱり何か響いてこないのだ。
混乱しつつ、さらに乱れていく舞台の上と、淡々と進む役者の身体の対比は美しくなっていくと思ったのだが、やっぱり私には響かない。
そうなると、なんとなく舞台の上にあるものが、「意味ありげ」にしか見えてこなくなってくる。
女性の叫び、特に悲痛な音に聞こえるものが多く、それが、どのシーンであっても不快にしか聞こえなかったのも残念。
「醜」や「悲」や「痛」の中に、「美」もあるはずだと思ったのだが。そんな感じにまで突き抜けて行かないもどかしさ。
もちろん、粉のシーンはよかったけれど…。
これも、役者には快感なんだろうなぁ、という他人事の感想しかわかなかったのだが。
「希望」って何だっんだろう。
「何か」が、「どうにかなると」もの凄い舞台になるような気がする。
とは言え。その「何か」が何なのか、「どうにかなる」とは何なのかは、皆目見当がつかないのだ。
こういう言い方が適切がどうかはわからないが、観る人を選ぶ舞台であったのではないだろうか。で、私は選ばれなかったということで。
平たく言ってしまえば、2時間という時間の長さはそれほど感じなかったものの、特に後半は苦痛でしかなかったという体験を久々にした舞台であった。
音響の感じはよかった。
それと地震のほうが、舞台の上よりもインパクトと、気持ちの揺さぶった、ということもあったのかも。
満足度★★★★★
舞台が物語と肉体でうねるようだ
なんとなくひょっとこには「理系(的文学系)」を感じていたが、今回は「マネジメント系(的文学系)」とか「社会学系(的文学系)」の印象。
深いところを描いたと思うと、遠いところから、気がつくとすぐ間近まで来ている。
やっぱり、「日本」なんだよな。
「日本人」だよなと感じてしまう。
ネタバレBOX
まずドラマが面白い。
そして、今回も、というか特に今回の構成力はもの凄いと思った。
物語も登場人物と役者についても。
例えば、娘が母親と約束したということを、簡単に台詞のやり取りで見せるのではなく、娘と母親と、娘の唯一の友人との関係を含めて、じっくりと見せる。
こうしたシーンは、ともすると、脇に逸れすぎて、本筋を薄めてしまうことが多いのだが、そうとはならず、きちんとそのシーンの分だけ本筋に厚みを増している。
さらに、娘を基本2人で同時に演じるというのは、ひょっとこではよくある手法なのだが、それを違和感なく見せきってしまう凄さもある。
役者の使い方がとても贅沢。
役名を忘れてしまったけど、松下仁さんと、笠井里美さんが、それぞれ演じる長台詞が中心のシーン、どちらも凄くてシビれた。
「お上」には逆らわず、「空気」を読んでそれに従うだけ。
その「空気」というのは、「民意の、なんとなくの総意」だったり、そうではなかったりする。「なんとなくの総意」だったりしても、それが微妙にズレていくところが「政治」だったりするわけで、「政治」は「組織」の「力学」がポイントなのだ。
そうした力学の働きで、「民意」や「総意」は微妙に屈折していく。
政治家は、そういう力学を使って、矛先や焦点をズラしてくる。
郵政選挙なんてまさにそれの最たるモノだったではないか。
もっとも政治家だけでなく、組織を束ねる者の多くは、そうやって矛先をかわしていくのだ。
ドラッカーがかつて「日本は外国から見られるような一枚岩ではない」「日本人が感じているのは一体感ではなく、対立、緊張、圧力だ」というようなことを言っていたような気がするのだが、まさに、日本人のそれであり、それが舞台の上にあった。
「国」としてより早い決断を下すための国策で、思いつきによる政策と、それを遂行するために、何に対してでも優先的に発動できる権限を持つ「泳ぐ魚」という組織というものは、そういう「日本的」なモノの産物である。
為政者が、あるいは国民のだれかが「お国のため」「国の利益のため」という耳障りのいい言葉で飾った国の施策だから、反対できなくなっている。
本来の目的を見失ってしまっても、それを修正する能力も意欲も欠けている国民だし。
また、「場の空気」を読むことで生きているわれわれは、「和」を乱す者を許さないし、乱さないように自らも細心の注意を払う。
一度できてしまったシステムがたとえ変であっても、そこを乱すことはできない。
「和」というのは、数学的な「和」ではなくなってくる。本来はそうであったはずなのだが、自らが読んだ「空気」がズレてくることがあるのだ。
「和」は「輪」でもあり、「輪」には中心がない。つまり、中心となる者がいない中で、互いに微妙な距離感と力関係で「輪」になって、「和」を形成していく。
中心のない和の「責任」の所在は不明。なのに、上からの命令は絶対。かつて「上官の命令は…」とやってきたこととまったく同じ。
誰かが誰かの理由で勝手に権限を行使する。本来は責任と一体のはずなのに。
そして、「絶対的な命令」に従うことは、自分で考えることを放棄しているし、同時に責任もないから居心地がいい。
つまり、組織の統率はどこに帰属するかというガバナンス問題は、先の大戦での日本軍の失敗を例に挙げるまでもなく、連綿と続いているのだ。
会社にいなくても、組織に属したことがある日本人ならば、誰もがなんとなく感じていること。
それは、「国の象徴」という、センシティブな問題とも絡んでくる(そのあたりをかすめてくる、戯曲のうまさがある)。
「泳ぐ魚」のガバナンスは国民にありそうなものなのだが、実質そこにはない。見えない「上」というところから発せられる政策があるだけで、「上」だって空であり、単なる組織や個人の力学のなせるモノでしかないのだ。
そんなこんなで、誰かが「王様は裸だ」と言えば、瓦解するシステムなので、ラストはそういう形になっていくのだが、日本では外圧以外でそうしたことに陥ったことはなかったのではないだろうか。
戦国時代とか幕末だって、単なる力関係だったわけで、国民が政府を倒したわけではない。だから、このラストは未来の日本であってもあり得ない展開ではないかと思ったのだ。
学生運動があんな形で終わってしまったことを体験した国民だから。
今回の「ひょっとこフォーメーション」と個人的に勝手に名付けている、例の集団ダンスは、この舞台では、そうした「国民」たちが、リズムに乗って、踊って(踊らされて)、同じ振り付け、同じ方向を向く、という姿に見えてくる。
本来個人の持っているリズムは違うのに。
これでひょっとこ乱舞はお終い。
次は単なるラベルの貼り替えなのか、あるいは内容も変えての再出発なのか、これは期待せざるを得ない。
と、深夜の脳みそでだらだら書いていたら、朝になっていた。