うれしい悲鳴 公演情報 アマヤドリ「うれしい悲鳴」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    舞台が物語と肉体でうねるようだ
    なんとなくひょっとこには「理系(的文学系)」を感じていたが、今回は「マネジメント系(的文学系)」とか「社会学系(的文学系)」の印象。

    深いところを描いたと思うと、遠いところから、気がつくとすぐ間近まで来ている。

    やっぱり、「日本」なんだよな。
    「日本人」だよなと感じてしまう。

    ネタバレBOX

    まずドラマが面白い。
    そして、今回も、というか特に今回の構成力はもの凄いと思った。
    物語も登場人物と役者についても。
    例えば、娘が母親と約束したということを、簡単に台詞のやり取りで見せるのではなく、娘と母親と、娘の唯一の友人との関係を含めて、じっくりと見せる。
    こうしたシーンは、ともすると、脇に逸れすぎて、本筋を薄めてしまうことが多いのだが、そうとはならず、きちんとそのシーンの分だけ本筋に厚みを増している。
    さらに、娘を基本2人で同時に演じるというのは、ひょっとこではよくある手法なのだが、それを違和感なく見せきってしまう凄さもある。
    役者の使い方がとても贅沢。

    役名を忘れてしまったけど、松下仁さんと、笠井里美さんが、それぞれ演じる長台詞が中心のシーン、どちらも凄くてシビれた。


    「お上」には逆らわず、「空気」を読んでそれに従うだけ。
    その「空気」というのは、「民意の、なんとなくの総意」だったり、そうではなかったりする。「なんとなくの総意」だったりしても、それが微妙にズレていくところが「政治」だったりするわけで、「政治」は「組織」の「力学」がポイントなのだ。
    そうした力学の働きで、「民意」や「総意」は微妙に屈折していく。

    政治家は、そういう力学を使って、矛先や焦点をズラしてくる。
    郵政選挙なんてまさにそれの最たるモノだったではないか。
    もっとも政治家だけでなく、組織を束ねる者の多くは、そうやって矛先をかわしていくのだ。

    ドラッカーがかつて「日本は外国から見られるような一枚岩ではない」「日本人が感じているのは一体感ではなく、対立、緊張、圧力だ」というようなことを言っていたような気がするのだが、まさに、日本人のそれであり、それが舞台の上にあった。

    「国」としてより早い決断を下すための国策で、思いつきによる政策と、それを遂行するために、何に対してでも優先的に発動できる権限を持つ「泳ぐ魚」という組織というものは、そういう「日本的」なモノの産物である。

    為政者が、あるいは国民のだれかが「お国のため」「国の利益のため」という耳障りのいい言葉で飾った国の施策だから、反対できなくなっている。
    本来の目的を見失ってしまっても、それを修正する能力も意欲も欠けている国民だし。

    また、「場の空気」を読むことで生きているわれわれは、「和」を乱す者を許さないし、乱さないように自らも細心の注意を払う。
    一度できてしまったシステムがたとえ変であっても、そこを乱すことはできない。

    「和」というのは、数学的な「和」ではなくなってくる。本来はそうであったはずなのだが、自らが読んだ「空気」がズレてくることがあるのだ。
    「和」は「輪」でもあり、「輪」には中心がない。つまり、中心となる者がいない中で、互いに微妙な距離感と力関係で「輪」になって、「和」を形成していく。
    中心のない和の「責任」の所在は不明。なのに、上からの命令は絶対。かつて「上官の命令は…」とやってきたこととまったく同じ。
    誰かが誰かの理由で勝手に権限を行使する。本来は責任と一体のはずなのに。

    そして、「絶対的な命令」に従うことは、自分で考えることを放棄しているし、同時に責任もないから居心地がいい。

    つまり、組織の統率はどこに帰属するかというガバナンス問題は、先の大戦での日本軍の失敗を例に挙げるまでもなく、連綿と続いているのだ。
    会社にいなくても、組織に属したことがある日本人ならば、誰もがなんとなく感じていること。

    それは、「国の象徴」という、センシティブな問題とも絡んでくる(そのあたりをかすめてくる、戯曲のうまさがある)。
    「泳ぐ魚」のガバナンスは国民にありそうなものなのだが、実質そこにはない。見えない「上」というところから発せられる政策があるだけで、「上」だって空であり、単なる組織や個人の力学のなせるモノでしかないのだ。

    そんなこんなで、誰かが「王様は裸だ」と言えば、瓦解するシステムなので、ラストはそういう形になっていくのだが、日本では外圧以外でそうしたことに陥ったことはなかったのではないだろうか。
    戦国時代とか幕末だって、単なる力関係だったわけで、国民が政府を倒したわけではない。だから、このラストは未来の日本であってもあり得ない展開ではないかと思ったのだ。
    学生運動があんな形で終わってしまったことを体験した国民だから。


    今回の「ひょっとこフォーメーション」と個人的に勝手に名付けている、例の集団ダンスは、この舞台では、そうした「国民」たちが、リズムに乗って、踊って(踊らされて)、同じ振り付け、同じ方向を向く、という姿に見えてくる。
    本来個人の持っているリズムは違うのに。


    これでひょっとこ乱舞はお終い。
    次は単なるラベルの貼り替えなのか、あるいは内容も変えての再出発なのか、これは期待せざるを得ない。

    と、深夜の脳みそでだらだら書いていたら、朝になっていた。

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    2012/03/08 07:28

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