ちょっと、まってください
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2017/11/10 (金) ~ 2017/12/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
特別なものを見たた気分になる芝居である。芝居の内容がいい、とか、役者がうまい、というのではない。舞台の上と一緒に観客が芝居を楽しめる公演なのだ。
ケラの久しぶりのナイロン公演。今回は別役トリビュートである。
確かに、配られたチラシにもあるように、舞台面は別役色満開、登場人物にも、せりふにも、美術にも、ア、ここは象だな、マッチ売りだな、とさまざまな別役作品引用が出てくるが、それがつまらない薀蓄になる前に、ケラのせりふと演出が次々にこの作品独自の笑いにしてつないでいく。その間合いがうまい。ケラの別役への先人に対する敬意も感じられて快い。それが、ズルズルになっていないところがさらにいい。事実、観客はどのように引用されたかは全く知る必要がない。
同じ話を繰り返すしかすることのない金持ち一家が刺激に惹かれて柄にない事を始める。それに金持ちと同じような家族構成の乞食一家が巻き込まれる、と言うのが芝居の大筋だ。夫婦とか家族の持ついかがわしさを、狂言回しのペテン師があらわにしていく。ペテンと詐欺は違う、というあたりに作者が嫌うテーマ性もあるのだが、ここは作者に従って、そこはどうでもいいことにしよう。いかにも今どきの人間らしい主張をくりひろげるかみ合わない家族の笑劇である。
一幕、家族の間には別役的な食い違いの笑いが続く。いつもは話が転がりすぎて笑いも無理強いになりかねないケラの舞台だが、今回は別役を意識してか、実にいい塩梅のところで収まっている。ここが面白いのは、長年のナイロンのメンバーが勢ぞろいした上に客演のマギーや水野美紀がうまくハマっているからだろう。四半世紀掛けて、自分の劇世界を表現できるグループを作り上げたのもケラの凄いところだ。
別役になかったものには映像と音楽がある。今回も、セットに崩れいく線画の映像を重ねて幕間を楽しめる時間にしているし、音楽もきまっている。デモ隊の合唱なんかいい選曲だ。
今回のホンも別役をよく「研究」しているというのではない、「勘所」を押さえるのがうまいのである。それは才能だ。孤立して群れないし後継の作者もいない。だが、本多で30公演打て、見た回は補助席一杯の大入りだった。観客層の年齢バランスも理想的だ。ほかの演劇人からは嫉妬されるだろうが、面白いからやっているんだと、居直って、これからも面白い舞台を見せてほしい。どのような最期を迎えても本望だろう。今こういう覚悟のある演劇人は少なくなった。
休憩入れて3時間十五分。長いがだれた感じはない。
骨と肉
JACROW
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2017/11/15 (水) ~ 2017/11/20 (月)公演終了
満足度★★★★
小劇場と言うと、甘えた自分探しや体験告白が多かったのにここ数年、社会実話派が多くなった。中では、トラッシュマスターズやチョコレートケーキなどが、素材的にもその切り口も従来の社会派演劇を超える作品を生み出してきた。それに次ぐ、というjacrowの新作は、大塚家具の父娘の社長争いである。タイトルも「骨と肉」何のことかと思っていたが、何のことはない只骨肉の争いと言うだけのことで芸がない。舞台も週刊誌で知っているような一族の相克と株主総会の経緯で、先の劇団がやり遂げたような事件の中から時代の生々しい人間像が立ち上がってくるということもない。俳優も父娘はともかく周りの大人たちはかなり苦しい。
しかし、小劇場が自分たちの身近の世界にいない人間たちに取り組むのは後日必ず役に立つ。一族の俳優たちが精彩がないのは、日常的な経験に頼っているからで、社外重役たちには経験がないだけに工夫の跡が見られる。見ているだけなら週刊誌をたちあげたような気楽な再現ドラマ的面白さだった。
取引
オフィスコットーネ
シアター711(東京都)
2017/11/10 (金) ~ 2017/11/20 (月)公演終了
満足度★★★★
j時宜を得た、と言うのにふさわしい芝居だ。森友問題や、加計問題が、話題になっている今まさに、政治家の裏金問題を正面から描いた舞台だ。江戸時代なら、お奉行からお咎め、小屋主は、いやいや、これは異国の話でございますから、などと言い訳しながら大当たり、だったかもしれない。
FBIの潜入捜査官が田舎の州知事の汚職問題で点数を挙げようと二人の捜査官を送り込む。まず、うぶな政治家から始め、次第に大物へと捜査を進めていく、海千山千物語だ。時宜も得ているから、東西どこも同じだろうな、などと思いながら見ているとアクションドラマ並の進行で面白く見られる。
アメリカの20年ほど前の戯曲だそうだが、ほとんど知られていない作家の作品をよく見つけてきたもんだ、と感心するが、では、出来がいいかと言うと、舞台面は十分面白いが、登場人物に、役割以上の色が薄く、数多い台詞をこなした田中壮太郎、小須田康人、福井貴一の主要三役はご苦労様ではあるが、ここから、社会の暗闇はあまり感じられない。それは翻訳劇と言う背景の違いではなくて、多分、戯曲がかけひきの面白さに引きずられたからだろう。そうするには汚職に手を染める側が安いと思う。
しかし、この小屋で補助席がいっぱい出る大入り。それだけの面白さはあるのだが、日本でこの芝居が組めるかと言うと、森友、加計の現状を見ると、複雑怪奇で結末はしりぬけ、とてもドラマとしては成立させられそうにない。
風紋 ~青のはて2017~
てがみ座
赤坂RED/THEATER(東京都)
2017/11/09 (木) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
宮澤賢治もの、である。没後そろそろ百年にもなるというのに、この作家は衰えぬ人気がある。生前に恵まれなかったと言う事もあろうが、同じ啄木と違って純なところが万人向けなのだ。それだけに扱うのもむつかしく、下手にいじると世論の反撃を食うので、いつも、賢治は不遇の神格化、作品は永遠のファンタジーと言う作りが多かった。
数えきれないくらいの賢治ものが書かれている中で、今生きている劇作は井上ひさしの作品が最も親しいものだが、それも、作者も作品も大団円にうまくまとめたという感じだ。
その中であえて、平成の新進作家の挑戦はいかに?と見物に出かけたが、これが今までの賢治ものにないなかなかの出来なのである。
赤坂の小劇場一杯に組まれたのは遠野市と釜石の間の仙人峠の鉄道未通区間に置かれた駅舎兼旅籠。あらしで不通になったところで、賢治などの旅客が過ごす3日間の物語である。賢治は死の直前の36歳。ロシア革命の年で世界情勢はこの峠まで及んでいる。宿の客は5人、パタン化した役振りなのだがその臭さがない。宿の亭主と亡くなった息子の嫁が切り回す峠の宿もよくある劇的設定なのだが、いつもは型どおりになったりする亭主役の佐藤誓と嫁の石村みかが、役柄をよく抑えて快演(どこかで演技賞でもとりそうなできである)、それにつられて他の俳優陣もよく大正時代の空気を無理なく出している。売られる農村の娘役の神保有輝実も湿っぽくないところがいい。この芝居の成功は殆どそういう時代の中でやむなく生きている都市化し始めた農村社会の人々を,性急に台詞で声高に「社会化」していないところにある。そのために、こういう人たちの中で、賢治のありようが、神格化もファンタジー化もされないで素直にひとつの時代の作家として描かれることになっている。
戦前から続く日本の新劇の伝統の上に立った作品ながら、今の時代にも通じるように書かれている快作で、もうこういう作品を書く人は出てこないだろうと思っていたので大いに感心した。新劇の伝統と言うと古めかしい正邪宣伝の社会劇を連想するが、新劇でも今でも面白く出来る作品はあるし、基盤としたリアリズムはやはり現代劇の基礎となるものだ。
演出は奇をてらわずオーソドックスだが、うまくまとめている。
心中天の網島-2017リクリエーション版-
ロームシアター京都
横浜にぎわい座・のげシャーレ(神奈川県)
2017/11/06 (月) ~ 2017/11/18 (土)公演終了
満足度★★★★
横浜の野毛シャーレと言う新しい劇場での公演。劇場案内図を見ると桜木町からとなっているのだが、これが旧東横線の終点と勘違いした当方の時代遅れ。今の桜木町は殆ど日ノ出町。黒沢の「天国と地獄」に出てくる細民街だ。今はすっかりおしゃれになっているが、どことなく前の時代の暗さもある。そういえばこの辺の運河の河舟で遠藤琢郎の「マハバラータ」を観たっけ。心中天網島にはうってつけの場所でもある。
だが、せっかくここまで来たのだから、東京でもやって欲しかった。これから、さいたま芸術は苦戦すると思うがそれは一に交通の便である。SPAC(静岡)ももっと楽に東京で見たい。観客の怠惰、贅沢と思うかもしれないが、東京を抜け出すだけでも大変で、さらに駅から近い観客ばかりではないから、帰りの夜道も気になる。
さて、中身。木下歌舞伎の十周年大歌舞伎の最後の作品である。タイミングよく(と言っては語弊があるが)現実に自殺願望からの殺人事件が起きて、つい舞台と重なってしまう。こういうところが演劇の怖いところでもある。今回は演出が糸井幸之助。作曲もやり、歌入りの紙屋治兵衛、おさんと小春である。冒頭、小春が、舞台の穴から身を乗り出し、元気いっぱい「小春でーす」とあらわれ、治兵衛も「紙屋の治兵衛です」と応じる。ここから物語は歌も歌える三人の男とバイオリンも演じる一人の女性が、歌も演技も受け持って、ほぼ歌舞伎通りに進むのだが、四人の歌があり、めまぐるしく舞台転換があり、かなりめまぐるしい。演出は細かく行き届いていて、隙がない。一幕、河庄で最初に自殺の話が出るところのセリフの積み方等うまいもので、以後、二人の恋の進行は小劇場離れの手際の良さで、タイミングのいい歌と台詞で陽気にどんどん進む。後半は時雨の炬燵。ここで幼時の回想など(歌舞伎にあったかしらん?)織り交ぜながら(ここが唯一だれると感じた)おさんが軸になっていく。時に入る浄瑠璃の原詞の使い方、歌舞伎からの台詞の引き方もうまいものだ。三味線の代わりにヴァイオリンが勤めるところがあるがこういう効果があるとは。
いつも通り、意欲的でなおかつ面白く古典を現代風に砕いた木下歌舞伎なのである。
だが・・・一つの舞台作品としてはこれで十分楽しめるのだが、これが心中天網島の現代版と言われるといささか首をかしげる。この原作の面白さ、テーマと言おうか、は、どうにも切れない男女の縁の不思議な深さで、今回のように陽気に整理が行き届くと、人間の性の不思議さが消えてしまう。
オセロー
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2017/11/03 (金) ~ 2017/11/05 (日)公演終了
満足度★★★★
米英の本場ヒット作品を日本語字幕でそのまま見ることなんかできないのだから、ありがたい企画である。シェイクスピアの「オセロ―」オランダの演出家の引っ越し公演である。海外演出家だけが来た前の日本キャストの「リチャード三世」も面白かったので期待して見に行った。しかし今回は英語でもなくオランダ語?で、字幕を読むのに忙しくそれ程舞台に没入できなかった。
「オセロ―」は舞台も人も現代あるいは無時代で上演することはよくあって、既に二三度、国内でもシェイクスピア時代劇を離れて上演されたのを見たことがある。話が男の嫉妬と、軍の出世競争の話なので時代色はそれほど必要ないのかもしれない。今回もほとんどノーセットで、無時代の人間模様を見ることになる。オセロ―はイタリア南部のベニス軍の地方駐屯地の司令官と言う立場がつよく出ていて、都へ上がりたいという周囲の従者たちと、都でめとったデスデモーナとの関係に苦労する田舎の律義者である。この芝居、「天井桟敷の人々」でピエール・ブラッスールが演じた如く、英雄的な黒人であることや、嫉妬にもだえ苦しむくだりをそれらしく天を仰いで「熱演」することが通例だが、こちらは、従者との関係も妻との関係もクール説明していく。ここが今回の舞台の新しい工夫だ。ハンカチに疑惑が集まるところまでの一幕は、ほとんど台詞が途切れることなく進む。オセローはかなり辺地の支店長だと言う事がよくわかる。それを失脚させようとするイヤーゴのたくらみが具体化していく二幕、裸舞台に硝子箱の部屋(最近流行のセットだ)が運び込まれて、デスデモーナ殺しの場へ。ここまでどちらかと言うと淡々と進んできた芝居は一転、すべての人間間のドラマを集約して盛り上がる。なるほど、トニー賞、ローレンスオリビエ賞を受賞した演出家の、溜めてきて一気に出す腕の冴えと感心した。絞って使ってきた音響効果もうまい。
俳優は主演のケスティングはまるでゲルマン系白人だが、この芝居のオセロ―をうまく把握して、どこか煮え切れない人物として今の時代に通じるように表現している。全裸で大活躍のデスデモーナ役のデヴィスは可もなし不可もなしと言ったところか。何かと言うと裸になるのは、この芝居はコスチュームプレイではないよ、という主張か(冗談だ)。役者になじみがないと役をつかみにくいのは、海外演劇を見る難しいところだ。言葉が解らないから、耳で聞く台詞の圧力が伝わってきていないな、と感じることが多いのも演劇の母国外公演難しいところだ。
一幕80分、二幕65分、休憩20分、オセロ―としては長い方かもしれないが、演出家の意図のはっきりした舞台だった。リチャード三世に続く、結構刺激的で面白い公演だった。
「表に出ろいっ!」English version”One Green Bottle”
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2017/10/29 (日) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
i人それぞれが勝手放題の今の世界をパッチワークした喜劇。本人も出ているので野田調全開、ハチャメチャなまま舞台はどんどん進んでいく。そうだよな、とは思いながらも、最後に野田節の祝詞があるかと思えば今回はなし。それでも1時間20分だから走り切ってしまう。いろいろな仕掛けがあるのはいつも通りだから、劇場からの帰り道で、アァあそこはそういうギャグだったのかと思い当たる楽しみもある。英語なので、それに気づくのに時間がかかったわけだ。これは新しい手だ(笑)
これはこれでいいのだが、世界の現状はこのように笑っていられる自縄自縛のレベルを越えてしまっているようである。われわれは死児を抱く犬か??
散歩する侵略者
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2017/10/27 (金) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
何度も再演された作品で、その度に作品はかなり変わる。作る方の意識以上に、見る側の状況が影響する。再演をかさねられるのは、戯曲が優れている証拠でもあるが、再演は演劇の面白さと難しさを感じさせる修羅場でもある。
宇宙人が三人やってきて地球人の意識を盗む、今後の地球侵略に備えての予備活動だというのである。「人間の意識」で、人間社会が成立しているのだから、この盗難で様々な人間関係のドラマが生まれる。それが現代社会の諸問題に触れていくのが秀抜だ
初演の2005年のサンモールは見ていないが、2007年の青山円形は見た。イキウメを見るのも初めてで、新しい演劇世界を作れる若い新進作家が現れたと大いに興奮した。現代社会の不可解と危険を巧みにSFの約束事の中で転がしてミステリアスな空気もある不条理劇だった。現代の不気味さ、奇怪さを、若い演技者たちが演じているのが妙に生々しかった。
それから10年。イキウメは評価され、今回の公演はトラムながら東京で26公演、昨日の段階で3公演の追加が決まっている。そのあと関西公演もある。映画にもなった。稀に見る大ヒットの「散歩する侵略者」の現状を見た。
舞台の空気は変わった。再演を重ねて、あやふやなところがなくなって、今回は幕あきからカーテンコールまで2時間余一気呵成に話が進む。SF活劇の趣もあって日本版ブレードランナーである。宇宙人の地球侵略とその攻防がはっきり表に出ていて、海に近い小さな基地の町に住む住民の生活感や人間性は後退している。かつては「意識を盗む」と言うSFならではの設定でじわじわと小さな町(政府から遠い)に迫る恐怖だったが、今回は敵がはっきりしている。今のご時世、北朝鮮をはじめ、正体の明確なものから不明確なものまで、さまざまな宇宙人的なものが身近になっているだけ、切実感は高くなった。かつては軽い笑いがあったが、それは影をひそめて怖い笑いである。
以前からの女優が出ていないが、男優陣は多くは初演のキャストで、みな、当たり前のことだが、やたらにうまくなった。気がつけば映画やテレビで見る顔も増えた。
確かに「散歩する侵略者」と言う芝居をどう生かすか、と言うのは、とても難しい話なのだ。事実、映画では、最初の方の宇宙人と接触するあたりまではさすが黒沢清、と言う出来で不気味さも迫ってくるのだが、後半の具体的なドンパチになるともういけない。話の折角の仕掛けが嘘丸見えになってしまう。映画の映像の具体性がこういうソフィストケイトされた世界を許さないのだ。
その点ではこの作品は芝居ならではのもので、舞台の上でこそ、作品が生きてくる。芝居である以上、今回のようなわかりのいい大当たり向け作りは必要だし、それは成功しているのだが、、意識を盗まれたものの不条理を軸に初々しかった青山円形の初演も懐かしい。それがいま成立するか? やってみなければわからないところが芝居の最前線なのである。
作者を探す六人の登場人物
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2017/10/26 (木) ~ 2017/11/05 (日)公演終了
満足度★★★★
「現代劇」の古典、と言う作品だが、今見てもとても百年前の作品とは思えない。日本にも戦時中に紹介されていて(イタリアは枢軸側ですからね)おなじみで、見ていると、ア、別役はここを読んだな、とか、野田もここはいいと思ったな、とか唐はここだな、と気づくところが随所にあって、戦後の新しい演劇に大きな影響があったことがわかる。もちろんそんな裏読みをしなくても十分楽しめる面白い下世話な筋立ての戯曲なのだ。
不条理劇とか、メタシアターの元祖のように言われているが、人情劇としてもこなれている。今回は長塚圭史演出で、テキストは台詞を整理しているが、はしょってはいない。劇場の枠組みを何度も見せて、メタシアターであることを意識させながらも、メタシアターのわかりにくさは回避されている。今見る芝居として時勢に合わせて作られているのだ。
KAAT製作の舞台は、意外な配役があって面白いが、今回も山崎一を登場人物の父親に、岡部たかしを現実の劇団の座長に、草刈民代を登場人物の母親役にと言う異色キャスト。少ししか出てこないが売春宿の女主人に平田敦子が怪演している。キャストを見ると、俳優のガラで、現実と舞台の上の非現実の対比をしようと言う意図があったのかもしれないが、そこまではいけていない。そういう意図はなく全体を劇構造とみて作ったのかもしれないが。
長塚圭史の演出は戯曲に沿った作りで、阿佐ヶ谷スパイダースの独走の頃から見れば随分過去の演劇の成果も取り入れたものになっている。二幕、池のほとりで少年が木陰から覗くところ、台詞も何もないのだが妙に印象に残って、元戯曲を読み返してみたらちゃんとト書きに「出演者が驚くほどうまく覗く」と指定してある。丁寧に戯曲も読んでいることがわかる。
珍しく6時開演は児童が出ているためだろうが、やはりこの芝居は7時からのものだ。虐待をしているわけでもないのだから、演劇への杓子定規は困ったものだ。
オーランドー
KAAT 神奈川芸術劇場 / PARCO
新国立劇場 中劇場(東京都)
2017/10/26 (木) ~ 2017/10/29 (日)公演終了
満足度★★★★
ユニークな舞台である。作がヴァージニア・ウルフ。詩的表現を舞台に立ち上げた作品だ。
オーランドー(多部未華子)と言う美しい若者が16世紀から21世紀までの時代を駆け抜ける。16世紀は女王に使える美青年の小姓。17世紀はトルコにわたって女性となり18世紀には植民地インドにわたり、19世紀には結婚・・と、オーランド―のお相手にはトルコの若者(小芝風花)、女王ほかの役には小日向文世が男女を交えて、いずれの時代もお相手となる。
テキストに筋はあってないようなもので、乱暴に言えば、人生の様々なトピックをいささかは演劇的に組んだ箴言集と言った趣である。
そうなれば、あとは舞台をどれだけ心地よく見せきるかと言う事が肝心になるわけで、そこは演出の白井晃は手慣れたものでうまいのだ。上記の三人に、脇役三人のキャストを加えた6人の俳優と3人の演奏者でかなり広いKAATの舞台を埋めてしまう。多部未華子は舞台は初めてか、ガラは少年と少女を行き来する若者役にはいいのだが、やはり台詞が後半になると辛くなってくる。いずれの俳優も多くの役をこなさなければならないわけで、そこは小劇場出身の俳優はうまく処理する。池田鉄洋などが神妙に付き合っていて六人でやったとは思えない広がりがある。ホリゾントには西洋絵画を大きな動画で見せ時代を移していく。衣裳の伊藤佐智子が大奮闘で、多部をはじめ時代ごとに見栄えのする衣装で場を引き締める。音楽の演奏も過不足なく、それぞれの場面が綺麗にまとまってよく出来ている二幕・2時間のステージなのだ。
さて、この舞台で感動するか? うーん。面白かったか? うーん。精巧なからくり覗き箱を見たような印象なのだ。それで贔屓の役者が生で観られればいい、と言う観客には満点で、ステージショーとしても出来はいいのだが、演劇としてはどうなんだろう。こういうのもたまにはいい、と軽く言うにはご、苦労さまの舞台であった。
リチャード三世
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2017/10/17 (火) ~ 2017/10/30 (月)公演終了
満足度★★★★
力作である。休憩を入れて2時間半。リチャード三世は悪党が主人公の難しい芝居で、その在り方をどう描くかで勝負が決まる。中年を迎えた大型主演役者(言えば、仲代達矢タイプ)が役者の大きさで観客を納得させるという形が多いのだが、今回は佐々木蔵之助、演出はシルヴィル・ブルカレーテ。新しいリチャード三世を見せてくれた。
周辺から行くと、まず舞台装置がいい。中間色を混ぜ合わせたような壁に四角に囲まれた空間が舞台になる。ことにグリーン系の色が日本にはない色遣いで入っていて魅力的だ。その空間の出入りにこれもあまり日本の道具にはないドアが使ってある。もちろん照明との息もあってつい舞台に見ほれてしまう。
衣裳も、これは演出者側のスタッフでイギリスの階級社会をうまう表現している(しかし、イギリスでは歴史的に有名な話で登場人物にもなじみがあるだろうが、これだけで解れ、と言われると日本の観客には辛い。)
音楽と音響効果。ナマ音、生音楽、録音音源をミックスしているのだが、この塩梅がいい。歌うシーンや踊るシーンもあるのだがそれがだれず、舞台の進行内容とあって舞台を引き締めている。ふりつけは素晴らしい。ことに幕開きはオオッツと思わせる。
だが、これらの舞台効果が非常にうまくいったために,2時間半、観客はテンションの高い舞台から目を離せない。空間が閉鎖的であることもあってかなり疲れる。
肝心の中身だ。リチャードをどう演じるか。今までに何千ものリチャード像が演じられてきたが、乱暴に分類すると、大悪党で行くか、小悪党で行くか、と言うことになろう。デモーニッシュな悪を基本に据えるか、市民的なリアリズムで理解できる悪か。どちらも上演の時の世間に合わせていくつも名演があるが、今回はどちらでもないところで勝負している。そこが新しい。佐々木蔵之助の年齢と柄を考えると小劇場系リアリズムだが、今回は違う。演出家は人間性から考え直す、と言う方向で抽象的な善悪の倫理や現実性を前提に置かず、役を作り直している。その結果、今まで日本になかった生々しいリチャードが出来た。佐々木蔵之介もよく頑張った。好演である。
キャストはオールメールキャストで、女性をやらせればうまい植本潤(どういうわけか純米と言う芸名になっている、よせばいいのに)や手塚とおるが女性の役をやる。衣裳が白を基調にした同じ衣裳にちょっとしたアクセントや小道具で役を表現することになっているので、どの役かつかみにくいところがある。ことに一幕は、当時のイギリスの貴族の力関係、それぞれの家の家族関係がなかなか頭に入りにくい。
しかし、二幕になって、リチャードが政権を奪取してからは、芝居も締まってきて面白い。唯一、女優ではベテラン渡辺美佐子が出ているが、これが男の役。役そのものも解りにくく、このキャスティングは疑問。もったいない。
この東欧の演出家はかつて、「ルル」を自国の劇団で持ってきたときに見て面白かった。世界的にも評判がいい(大衆性もある)新しい演出家と言う事はこの公演でもよくわかった。向こうの蜷川幸雄、と言った感じではないだろうか、古典を現代に生かすいい舞台だった。
出てこようとしてるトロンプルイユ
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2017/10/20 (金) ~ 2017/10/29 (日)公演終了
満足度★★★★
毎年この劇団が関西からやってくるのが楽しみだ。関西系劇団がその「関西ぶり」が売り物なのに、この劇団は泥臭さがない。今年、座付作者の上田誠が岸田戯曲賞を受けたが、遅すぎる。東京なら十年も前に受賞しているだろう。しかし、そんなことには恬淡として(いるかどうかは内部でないからわからないが)独特の舞台を作り続けてきた。ちょっと生活感を外し、知的でもあり、遊戯的でもあり、しかも時代の動きも抜け目なく入っている良質のエンタテイメントだ。今回も二十世紀とおぼしきパリの画学生の集まるアパルトマンと言う舞台設定で、亡くなった画家の残しただまし絵を処理しているうちに平面のだまし絵の世界が三次元の世界に現れる、と言う突飛なSF趣向で、絵画の芸術論から、デジタル社会の問題まで、さまざまなギャグが飛びかう。
これでもか、と言うほど同じシチュエーションを繰り返すのは、作者と観客の力相撲だ。俳優たちもまるでフランス人に見えないのに、臆することなく作中人物を演じる。中年なのに、学生芝居の良さが残っている。NHKのレギュらーの児童番組を持っているが、NHKもいいところに目を付けたものだ。
過去の作品でもすべては成功してはいないが、ワンアイデアを長く引き伸ばしてだれない、と言うのはこの作者の特技だ。だまし絵で行くと決めた今回の結果は、まずまずと言ったところだろう。べたなところのない乾いた笑いだが、満席の観客は笑いに沸く。同時代に出発した小劇場が息切れしたり、方向転換を余儀なくされたりする中で、ヨーロッパ企画は東京での公演数も多くなり劇場も大きくなった。客もついている。今後も楽しみに上京公演を楽しみに待っている。
奈落のシャイロック
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2017/10/13 (金) ~ 2017/10/22 (日)公演終了
満足度★★★★
明治新劇史では、名高い左団次帰国後の明治座初演を素材にしたバックステージもの。
作者・堤春恵はかねて明治演劇はお得意で、かつて見た鹿鳴館異聞」は面白かったし、評判も良かった、確か小劇場ながら演劇賞も受けた。日米の幾つもの大学で日本の伝統劇を学び、サントリー社長の息女と言う出自のよさがそのままのお行儀のいい作風で、下北沢の小劇場には似合わない。今回は、翻訳劇の日本初演とともに劇場改革を企んだ左団次と松居松葉の「ベニスの商人」上演が、劇場茶屋や下座の反感で頓挫するという史実を劇化している。前段の左団次帰国と時代背景の説明部分はわかり良く、またその性急な改革が頓挫する舞台を混乱の起きた明治座の奈落のシーンにまとめるというアイデアはいいのだが、そこで起きる事件が平板で盛り上がりに欠ける。混乱の原因が、演劇の中身ではなくて劇場システムの問題なので、演劇改革、新劇の誕生、女優の出現、伝統演劇との相克(日本では歌舞伎が強く、なかなか近代劇だ受け入れられなかった)など、人間的な表現が膨らむはずの本質的な演劇テーマが上滑りしてしまう。小芝居の添え物で女優をやってきた新井純(好演)の登場など面白いのだが生かし切れていない。期待されながら、また舞台ではいつも好演ながら、なぜかいい舞台に恵まれない森尾舞も、あい変わらず度胸のいい芝居なのだが、歌舞伎名優の娘が新劇に挑戦するという葛藤が弱い。女優陣の健闘に比べると肝心の男優陣が心もとない。脚本も後半は話が堂々巡りをしてふっきれない。
面白い小芝居を出す名取事務所も、今回はすこし凝りすぎたか。しかし今日は満席で何よりだった。
何をしてたの五十年
劇団NLT
博品館劇場(東京都)
2017/10/11 (水) ~ 2017/10/15 (日)公演終了
満足度★★★★
フランスのブルヴァル喜劇は戦後しばらくは「しゃれた演劇」として演劇界でも世間でも人気があった。だから、NLTもテアトルエコーも喜劇を標榜して新劇界の一端に加えられた。事実、日本にはない独特の男女関係、家族関係、のモラルが基盤になっていて、アチラではそう生きるんだと、ヨーロッパのモラルのあり方を学んだものだ。それから50年(以上)…・・・世はすっかり変わって、今見ると、この舞台の物語はおとぎ話だ。古めかしい人物設定とすれ違いの笑いのドラマでは今の客には苦しい。だからと言って、まるでつまらないわけではないが、50年以上やっているNLTの俳優が台詞の多いこの芝居を懸命に勤めているのを見ると、その歳月が胸に迫る。木村有里も川端慎二も川島一平もみな役年齢を越えて、70歳を超えている年齢だ。二時間に足りない芝居が休憩入りだ。
劇場は博品館。ここでは「上海バンスキング」が大入り満員で長期公演をやった時の湧き立つような熱気が懐かしい。あのころは銀座にシャレた若者劇場ができるかと期待したものだ。いまならシブゲキか。この劇場でいまの時代の若者も、壮年層も楽しめる芝居・・・・それはやはり、ルッサンではなく、新しい喜劇だろう。NLTにそういうことを言うのは酷かもしれないが、芝居が今のものである限りその残酷は避けられない。
オーランドー
KAAT 神奈川芸術劇場 / PARCO
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2017/09/23 (土) ~ 2017/10/09 (月)公演終了
満足度★★★★
ユニークな舞台である。作がヴァージニア・ウルフ。詩的表現を舞台に立ち上げた作品だ。
オーランドー(多部未華子)と言う美しい若者が16世紀から21世紀までの時代を駆け抜ける。16世紀は女王に使える美青年の小姓。17世紀はトルコにわたって女性となり18世紀には植民地インドにわたり、19世紀には結婚・・と、オーランド―のお相手にはトルコの若者(小芝風花)、女王ほかの役には小日向文世が男女を交えて、いずれの時代もお相手となる。
テキストに筋はあってないようなもので、乱暴に言えば、人生の様々なトピックをいささかは演劇的に組んだ箴言集と言った趣である。
そうなれば、あとは舞台をどれだけ心地よく見せきるかと言う事が肝心になるわけで、そこは演出の白井晃は手慣れたものでうまいのだ。上記の三人に、脇役三人のキャストを加えた6人の俳優と3人の演奏者でかなり広いKAATの舞台を埋めてしまう。多部未華子は舞台は初めてか、ガラは少年と少女を行き来する若者役にはいいのだが、やはり台詞が後半になると辛くなってくる。いずれの俳優も多くの役をこなさなければならないわけで、そこは小劇場出身の俳優はうまく処理する。池田鉄洋などが神妙に付き合っていて六人でやったとは思えない広がりがある。ホリゾントには西洋絵画を大きな動画で見せ時代を移していく。衣裳の伊藤佐智子が大奮闘で、多部をはじめ時代ごとに見栄えのする衣装で場を引き締める。音楽の演奏も過不足なく、それぞれの場面が綺麗にまとまってよく出来ている二幕・2時間のステージなのだ。
さて、この舞台で感動するか? うーん。面白かったか? うーん。精巧なからくり覗き箱を見たような印象なのだ。それで贔屓の役者が生で観られればいい、と言う観客には満点で、ステージショーとしても出来はいいのだが、演劇としてはどうなんだろう。こういうのもたまにはいい、と軽く言うにはご、苦労さまの舞台であった。
33の変奏曲
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2017/09/27 (水) ~ 2017/10/08 (日)公演終了
満足度★★★★
芸術作品の謎を解くミステリだ。物語は、なぜベートーベンが、楽譜業者から提示されたつまらない主題から33もの変奏曲を書いたか、という謎だ。この謎を物語の軸に、老いやさけがたい病、人生を賭ける使命喉を織り込んだ芸術作品裏話ものである。このジャンルの芝居には名作も多く、並行して上演中の「アマデウス」や先に公演された「謎の変奏曲」は、芝居としてもよく出来ていて再演を重ねている。この「33の変奏曲」も再演だが、先行上演は黒柳徹子のコメディ・シリーズだ。改めて新劇団の老舗でもある劇団民芸が後追い再演をするからには演劇的な面白さの新しい発見があるかと思うと、それが案外薄い。看板女優?の樫山文枝が謎を解く現代の音楽研究者、西川明が過去のベートーベンを演じ、難病に苦しみながらも家族に支えられこの謎に挑む現代の研究者の苦闘と、楽譜業者や意に染まぬ秘書に囲まれて老いの中で聴力を失うベートーベンの自らの音楽追求が交錯して描かれる。なぜこの変奏曲が成立したかと言う解説としてはよくわかるが、芸術にかけた老作曲者の情熱や、難病と闘いながら遂にその情熱に行きついた研究者の足跡から、永遠に残る芸術作品の輝きやそこに賭ける人間が見えてくるかと言うと、そこは型通りだ。この戯曲もとはジェーン・フォンダの最後のブロードウエイ復帰で上演された作品(09年)だそうで、もともとスター・ショーの戯曲なのだ。脇役も、生真面目にやるよりは芸人風の方が面白いのかもしれない。民芸の俳優も、演技の度合いを測りかねて活気がない。
結局、一番舞台で目立つのは中央の紗幕の中で、全33曲の曲をピアノ生演奏するピアニストと言うことになってしまう。この音楽が気持ちがいいのか長年の民芸ファンらしき隣の席の老夫人はほとんど眠っていた。
エフェメラル・エレメンツ
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2017/09/22 (金) ~ 2017/10/03 (火)公演終了
満足度★★★★
川村毅のスマッシュヒットである。80年代から鍛えられた小劇場魂。今だ老いず。
素材は使い古されたディック以来のアンドロイド物なのだが、この時期に見ると今の迫力がある。そこが演劇の怖ろしいところだ。
美術はクレジットがないから川村本人か。いつも川村の舞台は整理が行き届いていて、見ていて気持ちがいいが、今回も二百人足らずの小劇場の舞台に、廃炉の中から宇宙まで巧みな転換で見せていく。照明はベテランの原田保。音響が藤平美穂子で、いいスタッフを駆使するところなど、最近の若手の小劇場の及ぶところではない。さすが!!
堅い椅子で休憩はあるものの3時間は辛いが、飽きずに見てしまう。俳優も客演はあるものの、ベテラン新進でそれぞれの力を出している。
第三エロチカの80年代から、独自の演劇の世界にこだわってきた演劇人の作品に接すると、ある種の感動がある。MODEのカフカや、松本雄吉のジャンジャンオペラなど、唐や蜷川の大きな成功のもとに隠れた小さな宝石の輝きに触れたような懐かしさである。
謎の変奏曲
テレビ朝日
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/09/14 (木) ~ 2017/09/24 (日)公演終了
満足度★★★★
二転三転、舞台の謎が次々と変わる。たった二人の出演者で2時間半、だれることなく観客を引っ張っていく。超絶技巧の見事な戯曲だ。
エニグマと言う曲が謎を象徴する音楽になっているが、音楽そのものは象徴的意味しかない。象徴するのは「愛」だ。北極を望む北欧の寒村に住むノーベル賞受賞の老作家(橋爪功)を訪ねてくる、いわくありげな新聞記者を名乗る30歳過ぎの男(井上芳雄)の二人芝居。ただの取材と思っていると、二人の関係は刻刻と変わっていく。一幕の終わりで、二人の関係が容易ならぬ愛の葛藤を含んでいることがわかる。そこからの二幕の展開がうまい。
幻の国
劇団昴
Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)
2017/09/12 (火) ~ 2017/09/24 (日)公演終了
満足度★★★★
古川健と言う作者が芝居を心得たうまい劇作家だということは、俳優座系、文学座系の二劇団の稽古場公演を、同じネタで(いい度胸だ)面白く見せてくれたことでよくわかった。ドイツを鏡にして、現代日本の状況を反面教師で見せるという趣向である。青年座の方は大衆扇動、こちら昴の方は市民社会の中の密告が主な素材で、要するにいろいろ大きな理想を掲げるが、全体主義の手法に騙されるな、と言う社会劇である。昭和前期の世代には、身に沁みた話ですぐに「大本営発表」と「隣組」が連想されるが、若い世代には目新しいだろう。こういう話を問題劇として面白くみせるのはいい企画だ。(だがここまでで充分だ)
ほめる人は多いだろうから、気が付いたところ。外国の話だから人物のパタン化は避けられないにしても、事件の方もパタン化している。観客との接点に乏しい。青年座の時と同じ感想だが、次は日本を舞台に書いてほしい。幕切れ、何かに感じが似ていると思ったら、「女の一生」の幕切れと同じではないか。カリドールを踊る代わりに、花火が上がる。こういうところは日本情緒で締めているわけだが、その辺をもう一つこの才能豊かな作者には工夫して欲しいところだ。
俳優はさすがに新劇系で、台詞は無難だが、ドイツの話と言うこともあってか、うごきに鮮やかさがない。舘田が目立つようではね。
老人の観客が多いせいか、トイレの時間が予定の休憩時間では間に合わず、間が抜けたのは、大当たりのご愛嬌と言ったところか(笑)
百鬼オペラ 羅生門
ホリプロ
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2017/09/08 (金) ~ 2017/09/25 (月)公演終了
満足度★★
劇場へ入って、今どき珍しい寓話風のプロセニアムアーチに布幕が引いてあるところで、??と黄信号がともったが、幕が開くと、もう「百鬼」といえば、コレと言うお化けの森のセットが現れ、ダンサー登場、型通りの鳥バタバタの群舞が始まって、赤信号。
「百鬼オペラ」とは何事かと見に行ったが、興業元は宣伝のキャッチフレーズに困って言って見ただけなのだ。1時間づつの2幕、何のことはないあまりうまくない名作歌入りショーなのだった。
ストーリーは芥川の中学生で必ず習う芥川の「蜘蛛の糸」、「藪の中」、羅生門、「鼻」を長田育恵が藪の中を軸に脚本にしたもので、構成台本としてはまずまずだが、せっかくの大冒険、イスラエルから演出・振り付けを呼んできても、途中で、歌謡曲まがいのの歌、急に暗黒舞踏まがいのダンスを、宙乗りと提灯の薄っぺらな日本画風セットでみせるのに忙しく、結局これが、愛の破綻、あるいは過剰の物語なのだと言われても、日本人にとっては、新しい発見とは言えず、一方かなり無理もあった。彼らと芥川作品との切実な接点が見えず、かといって娯楽に徹しましたと言うには程遠く、みる方も気合が入らない。何でイスラエルなんだろう、また、何をこの物語に乗せたかったのか、遂にわからずじまいだった。
大きな劇場でほとんどの席が一万円以上だ。せめて、俳優には「鼻」と「花」のアクセントの違い、読経は「ドキョー」で「ドクキョウ」ではない、と言うことくらいは日本人のスタッフが教えてやるべきだろう。せめてそれくらいはやってくれなければ、この席料には見合わない。