旗森の観てきた!クチコミ一覧

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消しゴム山

消しゴム山

チェルフィッチュ

世田谷パブリックシアター(東京都)

2024/06/07 (金) ~ 2024/06/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

新しい世界に劇場で出会うことは稀である。「消しゴム」はコロナ以前、2019年の、初演のテキストをほとんど変えていない。というが、激動のあったここ数年を踏まえても、その中身はしっかり現代を描ききり、未来にまで目を向けている。
作品のスケールが大きい。大きなテーマを、演劇の世界に新たな形で着地させようと試みている。五年前の再演ながら、全く古びてはいず、本年随一の問題作であることは間違いない。
舞台には、さまざまな造形物がおもちゃ箱を拡げたように散っている。これが金氏徹平のものグラフィーで、一つ一つ、具体的なモノ(例えば、洗濯機とか椅子とか滑り台とか)を示してはいないが、そういう身近にある人間が作ったものを巧みに表現していて、そこにスクリーンでの表現も加え、視覚的効果を発揮している。舞台は、その道具たちを俳優六人の俳優たちが、日常われわれがモノを使うように移動させながら進行する。開演前から、コンクリートミキサーの回転音がずっと響いていてこれが音響効果になっている。音楽はない。。
二時間の舞台は三部に分かれていて。それぞれにテーマがある。要約すれば、一部はものと人間の関係、二部は拡がった社会(宇宙も含め)の中で人間が他者とどう関わるか、三部は言葉の力、とでも言ったら良いのだろうか、その周囲に現在の世界的な環境問題、移民問題なども、投影しながら現在の世界の有り様を描いていく。一部は、壊れた自宅の洗濯機を直す、と言う解りやすいストーリーがあるが、三部は現代詩の朗読みたいなところもあり、そこはダレる。終わりに近くなるとダレるというのは「ゴドー」みたいだが、前半がわかり良いだけに工夫があった方が良いと思った。つまらない決め打ちの締めよりはいいが。
いずれも岡田利基が今までにも舞台にして見せたことがあるテーマだが、「消しゴム山」では、総合的に一つの世界にしてみようと糸が見えた。世界巡演でもよく理解されたようである。
現代社会が転換期を迎えているように、演劇も又転換期を迎えているのはここ10年ほどの舞台を見ているとよく感じられる。この作品はそういう転換期を象徴する作品になり得る舞台だと思った。それをどのように受け取っていくかは、同時代人の役割である。世田パブは老若男女よい比率の観客でほぼ満席だった。




短編作品集『3℃の飯より君が好き』

短編作品集『3℃の飯より君が好き』

劇団印象-indian elephant-

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2024/06/05 (水) ~ 2024/06/09 (日)公演終了

実演鑑賞

昨年「犬と独裁者」という面白い作品を下北沢の小劇場で上演した劇団の公演なので、はじめての北区の公共劇場へ出かけた。
舞台の方は試演会みたいなもので、短編に作。1時間半ほどの公演だったが、中身以外に感じることも多い公演だった。
まず。印象という劇団はもう二十年もやっているそうで、昨年の世界劇作家裏面史は、あまり知られていない作者(ソ連のブルガーノフ。(近かじかどこかで作品上演があるというチラシを見た)の公私の生活をない交ぜにしていて、シバイになっていた。今回も期待して観にいったのである。しかし、上演は過去の作品も改変も含めて短編二本。全くつまらない、と言うわけではないが、俳優もプロではないだろう。ことに前半の半ば朗読会のような上演で初化粧する女子中学生のドラマは、高校演劇コンクールならともかく、一般公開で観客に見せるには、ブルガーノフ以上に客を狭めてしまう。そこが解っているのか?
タイトルになっている「三℃の飯より君が好き」は同棲男女二人の某日スケッチ。今の女性優勢、少子化時代の若者風俗が面白かったが、シバイ作りに無理がある。ことに氷の妊娠、勃起のくだりは前後と異質のファンタジーなのだが、出入りに全く工夫がしていない(アイデアとしてはこの場面白いところだが)ので、はぐらかされてしまう。前後のリアルに裏打ちされたところは結構うまく出来ているのに、多分、それだけだと横山もどきの掌編になってしまうと、入れたのだろうが、練りが横山に比べると、全然足りない。
公演を北とぴあという北区の地域文化センターのような場所の15階の一室で公演していて、チラシによるとこの区にも文化事業支援があって、この公演にも助成金が出ている。それでこの公演か、と納得した。しかし60席くらいのスペースで7割くらいの、主に義理の客らしい客相手にこういう公演をやることが区役所の文化行政としてどうなのか、演劇をどう考えているのか(児童向け公演など開発しているようではあるが)聞いてみたいところである。その安易な取組みが如実に表れたのが、このホールである。ホールと言うにはあまりにも便宜的な、稽古場といった場所で、天井は低く、舞台は平土間のママ、照明バトンは頭上に迫り、照明は漏れ放題、場内音声の処理のしようもない、
試演会ならこれで良い。しかし、普通の小劇場劇団の中の上の料金を取って興行としてみせるには、区役所も劇団も少し考えた方が良い。

ライカムで待っとく

ライカムで待っとく

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2024/05/24 (金) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナ禍の22年に上演され、評判は良かった(23年の岸田戯曲賞候補になっている。このときは加藤拓也)が、時節柄、横浜までは・・と見逃した。落着いたところでさっそく再演は、公共劇場とは思えないKAATらしい腰の軽さで、長塚圭史、芸術監督の役目をよく果たしている。
作者は、沖縄のまだ三十歳代の若い劇作家・兼島拓也、演出は、最近劇団でもプロダクションでも起用され、映画も監督出来る、こちらも若い田中麻衣子。キャストは小劇場の座組み。
いかにも、よくある沖縄舞台の「ヘイワ・ドラマ」の構えだが、敵役をあれこれ見つけて懲悪ドラマにするレベルを超えた優れた現代劇になっている。久し振りに若者が劇の中心でしっかり世の中を見据えて、舞台の先頭に立っている。
(物語)雑誌記者の浅野(中山祐一郎)は、上司に命じられて、60年前の沖縄で起きた米兵殺傷事件について調べることになったのだが、実はその容疑者が自分の妻の祖父・佐久本だったことを知る。事件の現場は元米軍本部のあったところで、いまは「ライカム」と呼ばれてスーパーマーケットになっているとか、住民の生活の実態とか、現地のタクシーの運転手(佐久本宝)の案内で調査を進め記事を書くうち、浅野は次第に沖縄の過去と現在が渾然となったドラマの世界にいざなわれていく。国境や地域文明の端にある辺境に生きる者が背負わざるを得ない「沖縄の物語」がそこにはある。その物語は自他がつくる「決まり」によって成立するが、時に自分自身も飲み込まれていってしまう現実がある。その場の政治や行政や、さらにはそこに住む人々の思いや、よそ者の観察だけでそれと抗うのはむつかしい。
だが、人々はそこで生きてきた。生きていく。
そこからがうまいのだが、それは、一つの地域の事情ではなく、今世界を見渡せば、どこにでもある話だ。そこで生きる勇気を持ち次の物語を作ることが希望になる。
素材は沖縄問題でよく選ばれる基地問題にまつわる物語だが、問題の捉え方が、新しく、しかも演劇的なところがこれまでの加害者・被害者のキャンペーン作品とはっきり一線を画している。本も演出も、ちょっと乱暴なところがあるのだが、あまり小さなところにこだわらず(こだわっても行き届かなかったのかも知れないが)ぐいぐい押していって若々しい。古めかしい人情ドラマでケリをつけるところからはっきり決別を宣言して、戦後長くこの国に居座っているいじけた精神を批判している。単に沖縄問題を超えて、現代日本に課せられたドラマになっていて見事である。ドラマの作りが普遍的で大きい。この若い作者、台詞が上手い。沖縄ものでなくても書けることは間違いなさそうだ。
ヒルなのに老若男女よく交ざった観客で満席。





オットーと呼ばれる日本人

オットーと呼ばれる日本人

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2024/05/17 (金) ~ 2024/05/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

木下順二の代表作である。3時間40分となれば今の民藝では夜公演は一回しか出来ない。珍しく、ほぼ満席、しかもいつもの老人ホームのお迎え待ち客ではなく、中年の客も、いつもは全くいない若い観客もいる。民藝の衰退は夜公演をあっさり諦めたところから始まったのではないか、という感じすらする。
尾崎秀実伝だ。上海で、記者として世界の鼓動を感じながら活動している尾﨑がゾルゲと交流を深める一幕。帰国して疑われながらも、先見の明で近衛内閣の内閣参与となるが次第に追われるようになる二幕、捉えられ、回心を促されるが自己の主張を貫く拘置所拘留中の三幕。
日本が列国帝国主義に遅れまいと国民を全体主義に押し込めていった軍閥時代の1930年から45年までの時代。コミュニズムにこの国の突破口を求めて、ソ連の情報機関に接触した才気ある日本人の物語である。この戯曲は62年に劇団民藝で初演、66年、2000年と再演され、その後、2008年に新国立で鵜山仁・演出で上演されている。
見ていると、思い出す台詞もあるから多分、66年あたりの公演を見たのだろう、それから五十年たっているが、ホンは実にあの手この手で、困難な時代に生きた「日本人」を「妥当な」「人間的」スタンスで活写している。全く古びていない。この長丁場をダレさせない、
これが今回公演の第一の驚きである。日本近代劇の代表作の名に恥じない名作であると改めて思った。
第二は、尾﨑を演じた神俊政の快演である。ろくに調べもしないで行ったので、最初は岡本健一が客演しているのかと思った。周囲の民藝の俳優からは浮出さねばならない役だが、その任をガラでも、演技でもその役割を見事に果たしている。
ほとんどこの二点につきる公演だが、一方では、改めて言うのは申し訳ないが、演出が古すぎる。今は同じような素材でチョコレートケーキなどが次々と新脚本で昭和を舞台の史劇の舞台を作っているのだから、時に新派風に見得を切って見せたりされると鼻白む。テキストは、まだ大きくはいじれないだろうから、これだけでも、よく整理したと思う(ほとんどいじっていないのではないか?)。しかし、現実に60年はたっているのだから、先人の舞台をコピーして伝統とすることから決別しないと観客がついていかない。リアリズムの解釈はいいとして、説明的な台詞や演技指定などは現代的に演出しないと戯曲を時代に取り残すことになってしまう。折角のラブシーンで繰り返される単調さには呆れるほどだ。生活も様式に埋もれているし、台詞にも日常性がもっと必要だ。演劇は時代とともに変わる。生身の人間がやるのだからその時代を生きた人ともにあるのはやむを得ない。いつまでも伝統と称して怠けるのは演劇への冒涜である。例えば、音楽。まるで昔の二流の松竹映画みたいな劇伴は舞台の品格を下げている。クレジットに作曲者の名を出すことも控えるような音楽は使うな!
民藝の倉庫に入れておいて、半世紀に一度虫干しするのでは勿体ない戯曲だ。是非、優秀な若い人の手で、テキストレジして、せめて3時間以内で見せきれる真の新演出による上演があることを期待している。


デカローグ5・6

デカローグ5・6

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/05/18 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★

デカローグ十話の中盤5と6の公演を見ても、最初に感じたこの企画への疑問は消えない。このシリーズの原作は旧ソ連崩壊時に、僅かに連帯を生んだポーランドのテレビのシリーズドラマである。
この中盤の二話は原作者もこのテレビシリーズの中心的作品としてきたという。テレビにとって視聴者の地域性は重要であり、この作品でも大いに意識されている。
他国のテレビ作品から感銘を受けることは、テレビを見ていれば経験するとおり、なくはないが、それはほとんどが二次的な感銘である。演劇のように、言葉も肉体も地域に生きる人間たちで作るもので、この地域を越える翻訳作業で成功することは、僅かな古典的な作品を除くと極めて少ない。演劇作品からテレビを作ることは成功することもあるが、逆は非常に難しい。
ことに非常に地域性の強いポーランドの近過去の作品をあえて多額の公金をかけて国立劇場が上演する理由か解らない。
偶然、私は80年代に、東ヨーロッパの旧社会主義衛星国家の幾つかと壁の崩壊前と直後の時期に仕事のためしばしば往復した。80年代にはそれらの地域は、社会的に崩壊の寸前であり、人々はほとんど自らの社会にいろいろな意味で絶望し投げやりになっていた。それは日々の希望があるとか、ないとかのレベル(例えば、現在の日本の困った状況などと比べものにならないレベル)を超えていた。そういう絶望社会に生きた人間たちのドラマを、どう化粧しても、現代の日本人のドラマとして表現できない。
5と6がメインテーマだという作者の言葉はそういう背景があってこそ生きる言葉で、それが我が国で現在頻発している気まぐれ殺人や、思春期に引き寄せて現代世界の共通性である、と理解するのはあまりにも浅薄、無分別だと思う。
今回の公演は、動機のない殺人劇、青春期の異性への関心、というところに絞ってまとめているが、5は、ただおどろおどろしいだけ、6は若干コミカルな味付けもして青春劇になっているがよくある思春期劇で、原作とは遠く離れた世界が描かれている。企画の発想の安易さの見るも無惨な結末である。あまり手に入りやすくはないが、観客がこの作品を翻案理解するためには、まず、映画作品を日本語字幕で見てみることが第一歩だろう。
(原作が理解されなければ、5でも6でも僅かに描かれている宗教の場面の重要な役割や、脇の人物たちの重要性(裁判官になる若い学生や、下宿のおばさん)が理解できないだろう)
ただ、いつもの主催公演は半分も入らないこの劇場の公演が、公演開始後すぐだったとは言え、今回は老人主体だが、7割近く入っていた。このような作品でもシリーズとなれば、役者に華が欲しい。


物語ほどうまくはいかない物語

物語ほどうまくはいかない物語

wag.

小劇場 楽園(東京都)

2024/05/18 (土) ~ 2024/05/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

物語作家の自虐コメディなのだが、むしろ環境から見た家族コメディになっている。
やっと編集者(森崎健康)に「かまってもらえる」ようになった三十歳ほどの女性本の作者(井上夏美)が主人公である。編集者にデビュー後初の作品を読ませなければならない時期になっていて、できあがった作品を父親(秋葉陽司)の手を借りて、完成するが読ませてみるとまるでダメ。ここから、姉や、同時出発の仲間のフーゾク体験を生かして伸びてきた作者(石川まつみ)が絡んで、あれこれと喜劇的展開になる。
父が家を出ていてが一年ほど前に戻ってきて、娘と共作するようになる、とか、父と編集者がラグビーの共通趣味があるとか、スジの展開では、編集者が最後に職場を変えることになるとか、父親ががんになって余命が少ないとか、最初にスジ売りした肝心の作家としてはどうなるんだ(生き方)という主筋を外した(うまく絡めていない)エピソードが多く、賑やかだが雑然としていてとっちらかっている。
もっと上手く転がして、最後は三十歳を迎える「今を生きる」女の哀感も面白くドラマにして欲しい。とにかくテーマを絞ることが肝心で、人物もエピソードも無駄が多い。(逆にそれがないと転がらない、としているところも見えある。そういう人の良さは演劇ではいけない)。
旧作をいじっている時期ではない。同世代では、少し上の横山拓也はこの時期を上手く乗り切って大劇場もこなせるようになった。経験は何より大事な時期だから乱作と言われてもいい、経験を積むことを期待している。新国立の「12月」やトップスのEPOCKMANの「漸近線」はなかなか良かった。ヴァンダインもなかなか素敵な冒険だった。しっかり頑張れ!


A Bright New Boise

A Bright New Boise

spacenoid

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2024/05/10 (金) ~ 2024/05/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★

アメリカは広大な国だから当然と言えば当然だが、普通アメリカ演劇と思っている、アーサー・ミラーやテネシー・ウイリアムス、さらにはオン、オフのブロードウエイとは全く色合いの違う演劇もたくさんある。時々そういう演劇も上演されるようになって多民族国家の実相も知るところとなったが、こういう世界に住んでいない日本人には掴みにくい。宗教一つをとってもそうで、欧米人と少し親しくなって宗教の話になると、途端に、宗教に対する日本人の寛容度の廣さに唖然とされたりする。
今でもアメリカは変わらないなぁ、と全くイメージの沸かないボイジーという田舎町のドラマを見た。
ところで、10年前のまだ湯気の出ている新作を見せてくれたのは良いのだが、この上演の意図がわからない。今朗読劇が流行っているからと言って、何組ものチームでやってみせるのはどういうつもりなのか、単に役者も演出も、責任逃れなのかと思う。2.5では客寄せによくこういう何チームも組んで上演する公演があるが、これは、観客に、この作品は作こういうものですと、と見せて欲しい「演劇」作品だ。
また、朗読を、態々、その本読みリハーサルで見せる、というのも訳がわからない。チームによって狙いを明らかにしてくれないと見方も定めようがない。これだけ動きも見せるのなら、ではト書きはどうなんだ、と問いただしたくなる。戯曲にどう向き合っているのか、全く解らない。翻訳も、単調で今は上手い人もたくさんいるので、こういう、ちょっと言葉は悪いが、棒訳では役者が満足しなかったのではないか。それもアメリカ演劇の姿かとも思うが、やっぱり台詞だけしか見せないのなら、アメリカ語とはいえ、もっと言葉に丁寧に取り組んで欲しい。
この企画は公共劇場(KAAT)でなければ通らないものだろう。公共だから、客は入らなくても良いだろう。しかし、何人かの出演者の親衛隊を入れても、このホールで三割も入っていないのには主宰者側の取組みにも問題がある。こういう特殊な作品を特殊な座組と演出でやるなら、その意味と解説をもっと主宰者側がやるべきだろう。配役表もない、席ビラもない。劇場側の主宰者の意図説明もなし、つまり、何にもなしで、経歴不明の新人演出家を送り出すのは無責任だろう。こういういい加減なところは新国立劇場を真似て欲しくないものだ。

リンカク

リンカク

下北澤姉妹社

ザ・スズナリ(東京都)

2024/05/15 (水) ~ 2024/05/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

スズナリお似合いの80年代懐かし小劇場の舞台である。
劇団の「下北沢姉妹」の表記のいまならシモキタだろう。主宰者は当時、青年座の一点美女の娘役であった西山水木、演出は懐かしの離風霊船(劇団名だぞ!リブレセンと読む。)の伊東由美子。舞台は当時はやった舞台なしの構成舞台スタイル。物語は唐十郎ばりの謎の母子、父子関係に日々の生計のつながるレストランの経営の師匠、弟子関係、今時はどこをとっても、畏れながらと、訴え出られそうな関係で、主人公の女性が生きていくドラマが演じられる。筋立てにはあまりこだわらず、女性ならではの視点からの印象スケッチもあり、当時はやった舞踏も取り入れられていて、いまのチェルフィッチュ風なシーンもある。あれこれ取り入れられ消化されているが、今の人たちはもうこの手は使わない。
西山も伊東もそろそろ70歳が見えてくる頃ではないか、人生でも舞台でも苦労したなぁ、という実感がしみじみと感じられる舞台である。つかとか鴻上とか如月とか、一世を風靡した人たちを支えた、時流に僅かに乗り損ね、生きそびれた人たちを優しく包むような舞台であった。1時間50分。

SHAKES2024~それは夢、だが人生という永劫の物語

SHAKES2024~それは夢、だが人生という永劫の物語

『SHAKES2024』製作委員会

俳優座劇場(東京都)

2024/05/15 (水) ~ 2024/05/19 (日)公演終了

実演鑑賞

日本でのシェクスピアの受容も幅広くなったもので、これは2.5ディメンションである。
2.5の世界も多彩になって業界内では、単一の興行主体が公演の責任を持つのではなく、映画のように持ち合いの製作委員会方式による製作もあるようだ。受付で、とは言っても責任幹事社はあるだろう?どこ?と聞いてみたが、受付はそれ以上のことは知らなかった。3D-Deluxの砲はもう十五年以上のキャリアのある2.5の演劇集団、
UNiFYの方は男性の男性ヴォーカル10名。まだキャリアは短い。いずれも初見である。
歌、踊り、アクション、驚き、笑い、涙をシェイクした舞台というのが売り文句。そこにに、今回はシェイクスピアの言葉をトーリのストーリの展開に取り入れている。欲張ったものだが、それが出来るところが2.5で、夢を持つ若者たちがシェイクスピアランドという遊園地のアトラクションの主役になり、それが、イギリスにも売れ、世界的なスターになるという大筋を売り文句通りにやってみせる。とにかく一瀉千里で役者も観客も忙しいが、段取りだけは初日なのに、ほぼ、ぼろも出さずにやりきったのは、スタフも役者もこういう舞台になれてきているということだろう。客席が若い女性客の固定客ばかりで8千円から1万1千円は、ショーの参加費という感じだ。ここから先は大変だろうが、あまり演劇に迫ろうという気もなさそうだった。ファン席は満席だったがこれで四組もチームを作って大阪、名古屋もやるという。興行としては成立しているのだろう。


ハムレットQ1

ハムレットQ1

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2024/05/11 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

何度も見ている「ハムレット」である。この公演はQ1とタイトルが打たれているように最初の刊行版による公演と言うことで、短いといわれているが、どうしてどうして、休憩20分を入れるとちゃんと3時間ある。同じ時期に埼玉芸術劇場でも柿沢直人の従来の「悲劇・ハムレット」の伝統的作りのハムレットも上演されているが、こちらは新しい現代風に趣向を凝らした意欲作という。
うーん、なるほど。テキストのあれこれは、専門家にはいろいろ議論があるかも知れないが、一般観客として客席の感想である。
まず言っておかなければならないのは、いろいろあるが、つまらなくはない。ということである。今までのハムレットを見てきた方もいわゆる見たことのある名シーンは全部ある。それに、帰宅後もパンフレットを買っていようものなら、帰宅後それで又3時間はたっぷり楽しめる問題作である。
総合的には言いにくい作品なので問題点を次々に行く。
第一は、ハムレットを吉田羊が演じるということである。以前この劇場でジュリアス・シーザーを吉田のブルータスを始め全員女性キャストで森演出でやったことがある。そのときは感じなかった違和感がある。これは吉田のよしあしでは全くなく、ハムレットの役そのものを、ある種、普遍的人間とみて、性差関係なし、としている舞台作りの違和感である。今回は旅役者が全員女性だったり、フォーティンブラスも女性である。全員女性のジュリアスシーザーとは違う性差が表面煮立ってしまう。これはさまざまなところに反映してきてこの舞台を特徴付けることになっているが、それが観客にとってどうか?ということである。
テキストが違う点では,オフェリアとガートルードはどうだろうか。ともに女性役の芯になるこの芝居の見どころになる役だが、可憐に演じられるオフェリアはこれほど「尼寺へ行け!」をハムレットに連呼される(例えば河合の新訳版では六回しか言われていないこの台詞を、数えたわけではないが、見た感じ20回くらい言われている)上演は初めてだろうし、ガートルードは女性でなければという役と思うが、母性も庶民性も芝居も上手いのに王妃という肝心の役柄の一面が薄い。実は良人殺しはやりたくなかったんだという今回の解釈はそれなりに納得できるが、それが広岡のガラに会っているかというとそこは疑問である。(広岡、健闘である)飯豊はあまり藝歴を知らないが、現代的で乾いた感じだ。とても木の上で歌を歌っていて落下して溺死するという感じではない。この役をそれでまとめるとどうなのだろう。(こちらはミレー(J/エヴァリット)の川に浮かぶオフェーリアの画が頭に入っている。それではないというこの役の解釈はいくつも見ているが、飯豊は現代的で姿は人間として美しい普遍があるが、女性がやる以上もっと、性的魅力が出ても森解釈には違わないと網がどうだろう)要は、ジェンダーばやりなので打ち込んでみたと言うことかも知れないが、その意味がよく観客に伝わっていない。
他の配役についても、理由を聞いてみたいところはある。冒頭、城を守る城兵たちが、鉄砲を持っているというのは俄に近代的だが、それが一貫しているわけではない。あらわれる亡霊は、ドラマの中に役としても存在させたママなのだから、他の俳優たちの背広にネクタイ同様、劇を落ち着かなくさせていると思う。しっくり落ちていない違和感がある。
ロゼ・ギルのコンビが完全に道化役になっているのはどうか。これでは、ハムレットの旅そのものが道化になってしまう恐れがある。(最も芝居の進行には道化の方が面白いかも知れない。Q1では原文がそうなっているのだろうか)
終り(五幕)になるとあとを急いでいる感じで、いくら現代版でも最後の圧しが足りないと思った。場内決闘の場は舞台の上の人数も少なく、(必要ないと言えばそうかも知れないが)段取りめいて、大詰めの芝居らしい詰めの盛り上がりが乏しい。)
美術は名手・堀尾で、下手に向かって荒れ地が次第に斜傾の三角に積み上げられているだけの一杯セットで全幕を通す。ここには美術家の強い意志が見えるが、舞台の上の役者たちはセットの冷徹が徹底していないので、そこここに違和感がある。
劇中、歌が多用されていて国王暗殺の旅芝居はほとんどサーカスというか、ミュージカルである。この場の美術は突然空気が変わって面白い趣向であるが、浮いた感じも残る。
場割は、二幕構成で劇中劇の前で休憩20分、前後に1時間20分づつ、結局3時間で長い。いつもの上演とほとんど変わらない。

・・・といろいろあるが、言いたくなるほど面白くはある。一番の問題は、総体的に見ると、大きく変わった現代的なハムレットなのだが、一つ一つの新しい演出がどこは収斂していくのか、戯曲が収斂していくのを求める作品であるだけに、そこがよくわからない、というより、観客に感じ取れないところが一番の問題だと思う。
先のこの劇場の「桜の園」は新しい上に、その収斂の方向ははっきり解ったのでこれはゴメンと言えたが、これはそこがよくわからない。


『雲を掴む』東京公演

『雲を掴む』東京公演

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2024/05/08 (水) ~ 2024/05/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★

キャストを見ると、燐光群と花組芝居の混成チームというちょっと意外な劇団の組合わせである。劇場の席ビラもないので、知り合いで作ったのか、その辺の小劇場独特の座組はよくわからない。チラシ宣伝ビラを見ても、なんの話しか解らなかったが、始まってみるとベテラン起用の意味はよくわかった。
話は、第二次大戦前夜にドイツとイギリスを平和的につなごうとした英独米のグループがいて、当時の国王も噛んでいる。その国王はアメリカ人のシンプソン夫人との王冠を捨てた恋で知られた事件の当事者で、結局英独協調はものにならず二次大戦につながっていく。舞台はその歴史的経緯を国王と、シンプソン夫人を軸に当時の首相、後継の国王、さらにはヒットラーも出てきて、近代史のおさらいみたいになっていく。
この実話は既に虚実取り混ぜ膨大な数の本も出ているが、舞台はとにかく複雑な現代史の一コマをまとめているだけで、格別の新説もない。個人的に気に入っている同じ背景を扱ったカズオ・イシグロの「日の名残り」のように一つの事件とか場所に焦点を合わせてドラマにしているわけでもないので、作品意図がつかめず、焦れてくる。時に思わせぶりなところもあるが、そこだけの展開である。これは平田オリザ派の悪い癖で、仲間だけは目配せして解っているつもりでも観客には伝わらない。せめて国王やシンプソン夫人、閣僚などはそれなりの重みが必要とかり出されたのが、両劇団のベテラン起用だと納得した。それにしても、男性役はヒトラーを除き、全員白のタキシードだが、対するシンプソン夫人は、ガラも芝居も衣装も、もっとキャラが強く出ていなければこの話は面白くもなんともない。ただの特権階級情話である。タイトル通り、雲を掴むような芝居だった。1時間37分。


歌舞伎町大歌舞伎

歌舞伎町大歌舞伎

松竹株式会社、Bunkamura、TST エンタテイメント

THEATER MILANO-Za(東京都)

2024/05/03 (金) ~ 2024/05/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

やはり、演目よりも、劇場と、座組や興行の新しさの方に目が行ってしまう。
こけら落としでエヴァンゲリオンを見て以来、劇場開場一周年。この間にここでは新宿の繁華街のど真ん中で客がきそうで、さらにコクーン風にとんがった出し物が次々に上演された。唐十郎、新感線、2・5に近い原作もの、渋めの人気の音楽ライブ、ショーなど、さまざまな現在のエンタメが目まぐるしく次々と掛けてきた。それだけ松竹も文化村も手探りが必要だった難しい劇場の開館だったのだろう。今回は歌舞伎である。コクーンの意外の大成功の体験もある。場所の名前からも本命の登場だろうと見物に行った。
劇場へ入ると、中は同じなのに、雰囲気が違う。数本ののぼりをロビーに立てただけでそうなったわけではないが、芝居小屋になっている。人気の勘九郎の一門で若者に人気の七之助も出ている。あとは虎之介に鶴松。
演目は歌舞伎舞踊二つに、落語種の新作歌舞伎、世話物である。人気者がそれぞれ務めるが、それほど難しいものでもないし、長くもない。演目のバランスも良くて、最初の正札付は十五分ながら古典である。あまり通でない観客にもよくわかる客鎮め、そのあとの流星は座頭の勘九郎が後半二十分ばかり独演する。うまいもので軽々とやってみせるところ、さすが働き盛りの勘九郎。あとの芝居は落語種の新作で、七之助と虎之介。播磨屋次代を担う人気花形だが、こういう世話物をやるにはまだ堅い。落語だから手練れの方が楽しめる。ちょっとだけ付き合う勘九郎が出てくるとたちまち舞台が締まって客席も大喜びになる。そういうところにも歌舞伎の伝統演劇の面白さが見える。
私の人生では見ることができなかった戦前の小芝居はこんな風だったのではないかと勝手に想像する。東京の町に十ばかりあった芝居小屋。こんな座組を市民は楽しんでいたのではないだろうか。昭和の終わり頃、梅沢富美男が兄とともに一座を組んで十条の篠原演芸場に出ていた時分の芝居小屋の楽しさ(もちろん、演劇のコンセプトは違うが)に通じる観客層の広い芝居の公演である。意外なことに、この中身に応じるように、客席が結構だった。中老年客は多いが若者もいて、ちゃんと楽しく客席でお弁当も召し上がるが、柝が入ると芝居見物の体勢になる。声をかける人はいなかった(これがあると良いなぁと思った)が、拍手も変ところでしないし、皆心得ているのだ。追い出しの前に出演者が全員並ぶのは、いまどき仕方がないが、止められれば止めた方が歌舞伎らしい。今は知らないが、昭和の頃は歌舞伎会館の喫茶に、歌舞伎座の舞台を早く上がった役者がお茶を飲んだりしていたものだ。まぁそれはいまはライブ系で流行っている風景と思うが、こうして次第に劇場が新宿の町に溶け込んでいけば、大成功だろう、客席八百ほど、上の階は四階席まで。上がってみなかったがそこまで老若の客が来るようになるまでの辛抱。入場料1万円までに抑えられ理想的なのだが。

アラビアンナイト

アラビアンナイト

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2024/05/04 (土) ~ 2024/05/18 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

子供の日の祝日企画に見えるが、どうして、どうして、大人の寓話である。おなじみのアリババやシンドバットのほか三話、二時間四十五分の大作だが全く飽きない。
感想は大きくは二つあって、コロナ以後、しきりに流行った朗読劇と称するお手抜き公演
と一線を画する舞台になっていること。究極の地味に徹した公演(そこがいわゆる朗読劇と同じ)なのに、俳優をノーセットのアトリエの中を自在に動かし、音楽(国広和毅、最近良い舞台が多い)で官能的な舞台を作っていること。ことに多様なリズム(拍手や床をたたくなど)を使って芝居をダレさせていないところが秀逸。
二つ。テキストレジの巧妙さ。テキストは20年前にすでに文学座が公演しているイギリスの現場演出家の作ったホンで、実際の舞台向きに出来ている。それをどれだけアレンジしているかは知らないが、テキストレジが巧みで三時間近い長丁場なのに、子供向きにという意識もあってか、ダレ場がない。大人向きでもある。俳優たちはあまり知名度の高い俳優は出ていないが、皆、きっかけを落とさないように懸命にやっていながら楽しそうだ。これは物語を演劇にした朗読劇の進化形である。
演出・五戸真理枝は、昨年大きな賞を連続受賞したが、今年のパルコの太宰治はニンにあっていなかったのかも知れない。文学座の女性演出家たちは。舞台の上に演劇だけの世界を作っていくのが、皆上手い。中でも五戸は、得意の領域にハマると手が込んでいて良い舞台を作る。これで恢復して、これからもいい舞台を見せてほしいものだ。

S高原から

S高原から

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/22 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アゴラ劇場での最後の青年団公演である。満席の入場待ちの人々が階下のロビーに張り出された劇場のセット図面や台本などをスマホで撮影しているいかにも送別公演らしい賑やかさである。といっても観客数は百名足らずだから十分もあれば始末できる。そこが、良くも悪くも、平田オリザという劇作家の存在理由であった。
サヨナラ公演四公演から「S高原から」を見た。見ている内に過去に見ていたことを思いだした。初演が91年暮れ。せいぜい三十年余前だが、部分は思い出すが人物のキャラやプロットはほとんど忘れている。今回の再演はほとんど手を入れていない(例えば、台詞に頻出する「風立ちぬ」の解釈論は,その後のジブリ映画のタイトルに使われて人口に膾炙したが、初演通り、それがなかった時代で上演している)。新しい現在のキャストもかつての公演をなぞっている感じがする。サヨナラ公演だからそれもアリだろう。それで解ることもある。
平田オリザは,80年代までに演劇界を席巻したエネルギッシュに新しい世界を作る新しい演劇に対抗して出てきた。当時、唐、つか、鈴木忠志、太田省吾らの先行世代,蜷川、佐藤信、野田秀樹らの続く世代、一見おとなしく見える井上ひさしや串田和美ですら、今思えば十分に破壊力があリ戦闘的だった。その疾風怒濤の中から平田オリザはこの小さな駒場の小劇場を足場に出てきた。平田オリザは当時,日常生活の台詞、演技の上にドラマを見る「静かな演劇」として、ジャーナリスチックにもてはやされる時期もあったが、致命傷は大きな観客を集められる作品に向かうことがなかったことである。青年団はこの小さなアゴラから数多くの後継劇団を生み出したが、身近な日常の生活を基板として、それに甘えて仲間褒めで満足している劇団群で、既製劇団に対抗できる力がなかった。アゴラの閉館は静かな演劇衰退による閉館ではないと明らかになっているが、時代の流れは変わっている。現在は、最近見た舞台では,た組の加藤拓也やエポックマンの小沢道成などには、平田オリザの日常の上にドラマを構築する現代劇を受け継いでいることがうかがえる。
今「S高原から」を見ると、昔の流行り物を見る哀感も感じるが、演劇はこのようにして時代を超えていくものでもある。

デカローグ1~4

デカローグ1~4

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/04/13 (土) ~ 2024/05/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前回の「デカローグA」の公演では、全体の企画への疑問を感じたが、それは、この「デカローグB]を見ても変わらない。しかし、今回の舞台の印象は大きく変わった。それはあとにして。
 前回に続く全体に関する問題では,エピソードを1と3,2と4,という組合わせで上演している。公演Bを見て、このシリーズはやはり、企画者が組んだような,どこから見ても良い、という並びの内容でもではないと言うことが解った。少なくとも、4までは、順に見るようにエピソードが並んでいる。単純なことでは主人公の年齢が成長していくように並べられている。それを無視して、演出者のくくりの都合で観客は見なければならない。確かに、演出者は資質が違うから順にすれば、お互いが損をすると言うことは解る。ならば、このような上演があることを企画の段階で解るなら、常識的には「順に見る」「演出者を二人たてるなら、までまぜこぜにして混乱するようなことはしない」というのは、制作者が、作品に対しても、観客に対しても行うべき最低の主催者の務めだと思う。
 で。舞台の方に移るが、前回、舞台が風俗的で必要な本質に迫っていないと書いたが、2、4をみると,同じアパートが舞台でそこに住む住人の日常的な物語りながら、Bの舞台は人間や時代の本質に迫ろうとしていることが解る。
例えば、前回の1のエピソードは,冬、パソコンの計算が得意な子供が大丈夫だと計算した池の氷の上で遊んで溺死する少年と家族の物語だが、舞台は単なる北国の不運に出会った家族のホームドラマの域を出ていなかった。今回の4のエピソードは父子家庭(父と娘)に残された封印されたままだった母の遺書の開封をめぐる父と娘の物語だが、その小さな一の封筒の上に、社会に巣立つ娘の不安と、父母への心情、さらに娘の男性への思い、自分が生涯の仕事にするかも知れない演劇への距離感、など微妙なところまで演じられている。Aではムード音楽かと言うような音楽(国広和樹)も、Aでもそれなりに上手いのだが,今回は弦楽器も加えて深く決まっていく。さらに分量は少ないが最近のプロジェクションマッピングを使って舞台の世界を広大な大自然の営みのなかに連れて行くあたり、観客をしびれさせる技法もあって,Aとは同じシーズとは思えない出来である。このあと、5.6は同じ上村聡史の演出だから楽しみでもある。

ネムレナイト

ネムレナイト

大人の麦茶

ザ・スズナリ(東京都)

2024/04/10 (水) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

始めて見る劇団だが、最終公演という。二十年あまり、スズナリで30回公演を打ってきたと言うが、そろそろ時分なので・・という見方によっては潔い引き方である。客席にも舞台にも悲壮感もないコメディ調のお別れ幽霊譚である。批評はやめておくが、小劇場の世界もこれからは今までのような安直な友達座組では成立しないのだろうと思う。稼ぎのために2.5まがいの営業をしなければならないとすれば、下北沢の空気も変わっていくことだろう。

デカローグ1~4

デカローグ1~4

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/04/13 (土) ~ 2024/05/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★

またも新国立劇場の意図不明の上演である。しかも超大作。見終わるには三日、観客は劇場に通わなければならない。「エンジェルス・イン・アメリカ」や「グリークス」に習ったのだろうが、このAを見ただけで、この連作ものを上演する意味が疑わしくなる。
まず、これはポーランドの庶民劇である。先の「エンジェルス・・」も庶民劇で、時代の象徴性があるではないかと言うだろうが、それは牽強付会である。このポーランドの市民集合住宅にも時代の風俗はあるが、時代のテーマがない。それを無理矢理超大作にして遠く離れた極東の国立劇場が翻案する意味がわからない。ならば、三十年前のポーランドの世界に、現代の日本を考えさせるようなドラマがあるか。
二つ、原作は映画である。監督作品と言っているからシナリオと言うより、映画であろう。あまり話題にならなかった映画だが、それなら映画を見れば十分である。映画は映像のリアリティで、内容を保証している。舞台にはそれを超えるリアリティを持たなければ態々、極東の國で翻案戯曲化する意味がない。そのための工夫が全くと言ってよいほどない。前世紀に非常に複雑な歴史体験をしたポーランドの市民劇を、多分、物珍しいだけで「エンジェルス・・」に形だけで匹敵できると考えている安直さが見えてしまう。せめて既にポーランドで戯曲化されている作品の翻訳ならまだ解るが、國を渡る難しい翻案を、まだ経験も少ない若い台本作者に課すのは酷ではないか。責められないが、翻案の意図が読めない脚本である。三つ、二人の演出者の交互演出というのも解らない。十分に冒険的な企画であるが、それなら、一人の演出者が通すべきで、歌舞伎のお披露目ではあるまいし、任期がきて変わる新旧芸術監督が連続演出するというのは、観客を愚弄しているとしか思えない。観客の方は、もう、新旧両演出家の資質がまるで違うことをよく知っているからである。
最初の二つのエピソードの公演には以上の危惧がそのまま出ている。
まだ開いて三日ほどだから、いつものように半分も入っていないという事態ではないが、こういう超大作をやる劇場の熱気がまるでない。次期芸術監督には、まずは貸し館しか客の入らない劇場に演劇の熱気を取り戻して欲しいと期待する。。

東京の恋

東京の恋

劇団道学先生

新宿シアタートップス(東京都)

2024/04/09 (火) ~ 2024/04/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★

よく狙いの解らない短編上演である。テーマは「東京の恋」で、岸田国士、別役実、現在の深井邦彦、と三人の戯曲(深井は新作)から過去東京の百年の三時代を背景に短編集としている。恋と言うが、戯曲の内容は、男女の夫婦への思いが素材になっている。岸田本は結婚以前のお見合いの若い男女、別役本は中年の再婚のお見合い、深井本は妻が亡くなった良人の慕情と、恋と言うより結婚に関する「男と女」の意識のすれ違いがドラマになっている。岸田本(「頼もしき求婚」)は昔どこかで見た記憶があるが、今となっては、こういうお見合いは、若い男女や仲人役も含めて、観客にも俳優にもリアリティのきっかけがなく、空転している。別役本(「その人ではありません」)恋の機微を突いているわけでも、男女の関係の面白さが出ているわけでもない。本の出来もあまり良いとは言えず、繰り返しが多くて退屈する。深井本は新作だが、亡くなった妻に再会したい、という主筋は前作に引きずられてか、古めかしくラストに置かれた現代の挿話が、百年の鏡にもなっていない。東京の恋と言いながら焦点が見えてこない。
俳優はよく小劇場でお目にかかるベテランもいるのに、言葉への神経が行き届いていない。ことに、岸田、別役と言えば戯曲の台詞としては(内容については別にしても)、定評がある。観客も舞台の日本語としてはいままでも聞いてきている。この台詞表現の無神経な単調さ、鼻濁音一つ、友達言葉や敬語も出来ていない東京言葉の(ほとんど)無視はどうかと思う。過去を引きずらないというなら、先週見た若い加藤拓也・演出(「カラカラ天気と五人の紳士」)のように、原戯曲の台詞のまま現代の言葉にする努力をしなければ、過去の戯曲を再演する意味がない。
先年亡くなった劇団主宰の中島敦彦の劇風をつなぐなら、人情の機微を観察して、表現していくことが、この劇団の劇界での位置取りだと思う。中島敦彦の作品を始め、前世紀末から現在にかけても、幾つかの埋没させてしまうには惜しい戯曲が発表されている。松原俊春、宮沢章夫 如月小春 山田太一(戯曲もある)などなど。そういう作品の小劇場での再演も新しい役割になると思う。

カラカラ天気と五人の紳士

カラカラ天気と五人の紳士

シス・カンパニー

シアタートラム(東京都)

2024/04/06 (土) ~ 2024/04/26 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

別役実作品に新しい演出が加わった。弱冠三十歳余の加藤拓也。若手の中でもどんな作品でも「いま」風に作ってみせる才人である。まずは、電柱一本が定番のセットが変わった。
地下鉄のホームが線路側から組まれていて、正面には改札口への階段。どういう形になるにせよ電車が来るかも知れないと思ってみていると、あっさりその期待は裏切られるが、異様なセットが何も言わないで今の不穏の社会の空気を舞台にみなぎらせる。二十年ほど前にKERAが「病気」を演出するまでは別役作品は見る方も、やっている方も解らないのが普通で、ケラの言い方に従えば「宙を見つめて独り言のように言い合う」のが普通の別役不条理劇のやり方だった。ケラは「病気」を爆笑劇にしてやって見せて別役作品は新しい顔を持つようになった。不条理も笑ってしまえば、リアルだと解る。新しい現代劇の発見である。
加藤拓也はもう一つその上を行く。
この作品派別役も老年になってからの作品(92年)で人間の生と死が取り上げられている。
幕開きに棺桶を担いだ五人の男が現われ、それが福引きの景品であるという笑劇的展開があり、それなら、そこには死体が必要だから、どうせ人間は死ぬことが決まっているのだから誰か死んでみたら・・・というような展開になる。で、人の生と死の意味や役割が展開する。極めて日常的な会話と論理展開の中で、人の生と死の笑いも残酷さもさりげなく広がっていく。後半女性二人が出てきて、生と死は一層日常化して、五人の紳士たちの建前は無力化されてしまう。
ここも加藤演出の冴えたところで、ほとんど、どの台詞も日常レベルと同じテンポで進んでいく。シリアスになることなく、昔の宙にらみとは逆の超日常化である。こうなると、別役ドラマも現代の日常ドラマになる。そこが加藤演出の新しい発見である、
棺桶と、それをおく二脚の台、落ちたら死にかねない下の方の段がない梯子など、日常のすぐ隣にある道具が、地下鉄のホームというセットと相まってこの別役ドラマから現代のホラー喜劇のような味までも引き出している。(美術・松井るみ)1時間10分。アッという間に終わる。

漸近線、重なれ

漸近線、重なれ

EPOCH MAN〈エポックマン〉

新宿シアタートップス(東京都)

2024/04/01 (月) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

みずみずしい少年愛回顧青春劇である。内容は何度も繰り返されたドラマではあるが、表現が新しく、今風の風俗・会話も取り入れ、歌やパペットを上手く使うという小技も冴えて、新宿の夜を楽しめるスタイリッシュな小劇場作品となった。1時間半。
劇団主宰の小沢道成と、ゲスト俳優の一色洋平の二人芝居。地方から出てきた「僕」を一色洋平、僕が越してきたアパートの住人たち、家主の老婆(時にパペットで登場する)、跡継ぎの長男、部屋を斡旋した不動産屋、地元を離れず、結婚を知らせてくる高校時代の親友、隣に住む売れない漫画家志望の青年。いつも二番手までのホスト、なんかというと騒ぎの下になるインド人、そういう住人たちを小沢道成が一人で演じ、家主や地下に住むという珍獣のパッペト操作も担う。パペットを使い曲者俳優たちを揃えた昨夏の「我ら宇宙の塵」もよくできていたが、今回は二人芝居にしただけ引き締まった作品になった。
ヤオヤに組んだ板張りの壁に、形の違う窓が開いている。中央の一つだけは二人が窓顔を出せる大きさで、不動産屋が僕にアパートの部屋を見せているシーンから始まる。次々に窓が開いて住人たちが登場するが、一人一人よく工夫されていて面白く見られる。前半は地方から東京に出てきた二十歳過ぎの少年の一人住まいのドラマだが、現実とファンタジーを巧みに見せる。後半は結構す結婚すると知らせてきた「僕」の高校時代の親友の結婚式にどう対処するかを通して、青春後期のほろ苦い心情ドラマになる。帰郷すべきかどうか?
ストーリーそのものは奇をてらってはいないが、子供の頃ピアノを習っていた、等の小ネタを上手く使って音楽も効果を上げる。
場面の大道具に顕わされているように非常にスタイリッシュで、それが嫌みではなく、すっきりまとまっている。欲を言えば後半の締めが緩いところだろう。さらに言えば、これだけの技量があるなら、結局心地良い世界だけでなくもう一歩踏み出してみたらどうだ。
時代をリードする演劇人は、井上ひさしと蜷川幸雄。野田秀樹とKERA。新しいリアル派ではチョコレートケーキにIAKUとしばしば対抗組となって時代を作っていくものだが、いま新進の一方の雄、加藤拓也にはカップリングできる才能が見当たらなかった。小沢道成にはその役が担えそうなところも見える。須貝英を作者に迎えているところもいい。加藤拓也に三人がかりになってしまうが相手にとって不足はない。

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