BIRTHDAY
本多劇場グループ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/07/24 (水) ~ 2024/07/30 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
見どころのある小劇場エンタテイメントである。
まずは本の選択。ちょっとした未来の話である。男性も妊娠できるようになって、妻が出産できない夫婦では、夫が代わりを務めることができるようになった。保険も効く。第一子を生んだ後、二子が生めなくなった妻に代わって出産を引き受けた夫がいよいよ出産の日を病院で迎えようとしている。すでに経験済みの妻(この辺の設定がうまい)は落ち着いたものだが、夫は初めての経験におろおろする。ここで妊娠についての男女認識の差がネタになって結構笑えるが」が、加えて、制度は良く出来ているが実質が伴わないイギリスの病院の対応はわが国にも通じるところもある。新しいシステムや技術が生むいかにもありそうなナンセンスも笑える。良く出来た世相風刺コメディなのだ。
作者は日本では初訳なのかもしれない。結構実績はある作家なので、ロンドンでは(多分NYでも)こういう本がごろごろしているのだろう。この本は2011年ロンドン初演。忘れられかけている本を日本では行けると拾った製作者の眼力。
次は配役。四人の出演者は小劇場ではおなじみでベテランばかりである。夫を演じる阿岐之将一 が一番若い。しっかり舞台が務まる人を輩出している新国立の養成所出身で、難しい作品で目立つ脇役を何作も見ているが、ここでは。阿岐之は主役だから大張り切りで、出産する夫を演じる。対する妻が宮菜穂子。現実年齢では親子でも務まる夫婦だが、さすがのキャリアで、結構勝手なのに夫をなだめすかして出産させてしまう「良妻ぶり」を演じる。過不足なく満点の出来である。病院側で、勤務時間と体制ばかりが仕事の軸になっている南ア出身の看護師が山崎静代、緊急事態になって登場する研修医が石山蓮華、山崎は舞台でもテレビ映画でもこういう現代型職業人役はやりつけている。石山が初々しさまで出していたのはここもさすがのキャリアである。演出(大沢遊)もよかったか、四人ともに実に役に対するセンスがいい。小劇場界の成熟してこういうエンタテイメントも十分できることを実証した。
最後は劇場である。新宿のど真ん中、絶好の場所柄なのだが、上演作品を選ぶのは難しい。しかし、小屋にピッタリ、という出し物はあるもので、これはまだ周囲に空席はあったが、うまくはまっていると思う。楽しめた1時間45分だった。物価高騰の折、なんとか五千円以内でこういう作品を楽しみたいというのが観客の願いでもある。
らんぼうものめ
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2024/07/20 (土) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
子供のための演劇というのは難しいものだ。まず、劇場という特殊な場所で見せるという非日常世界へ連れ込むことが難しい。子供はすぐ大人のたくらみを見破る。我が家でも、何度か学齢前後の子供たち姉弟を劇場に連れて行ったことがあるが、子供たちのお眼鏡にかなって、成人してからも記憶に残ったのは円が西新宿の倉庫で上演した「お化けリンゴ」だけだった。四十年位前の話だ。今でも時々だが劇場に行くらしいので、親としてはそれで十分成功だったと思うが、今、随所にある公立劇場で連休に子供演劇祭りなどと称して、いかにも安易な取り組みで児童劇をやっているのを見ると、この道、厳しいぞ、といいたくなる。
「らんぼうものめ」は今、旬の加藤拓也の児童劇で、さすがに、日生の劇団四季の子供劇とは違う。若いだけにまだ子供のころの自分の劇場体験をなぞるように作ってあって、劇場の前半分に入っている子供たちもちゃんと芝居を見ていた。つくりも、時代を反映していて新しい。「千と千尋の神隠し」のような作りで、引っ越し(は宮沢賢治以来の王道ネタだ)で母を見失った男の子(鞘師里保)が母を探すうちに様々な神様に会っていく話だが、神様の姿のつくりや父母との関係、教訓のつくり方などには今風の工夫があった。
全力投球とはいかないだろうが、こういう企画で公立劇場で若いクリエイターや劇場運営者が子供と接する機会があることは、演劇の社会的環境を広げる意味のあることだと思う。
親子で八割の入りは成功だろう。
エンドゲーム
ルサンチカ
アトリエ春風舎(東京都)
2024/07/19 (金) ~ 2024/07/27 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ゴドー(1952)の後、ベケットはこういうものを書いた(1957)のか、ゴドーに何とかケリをつけたいと思ったのか。つまらない義理立てをしたものである。あまりやらない作品だが、それでも別のタイトルではよく上演されている。新劇系で見たことがあるような気もするが数十年も昔だ。
大きな白い安楽椅子から動けない館の盲目の主人(川本三吉?配役表が配られないないから知らない俳優にあてずっぽうだが)と片足が不自由なその従者(伊藤拓?)が最後の日を迎えようとしている。部屋の奥の部屋(見えない部屋で顔だけ出す)には主人の父(瀧腰教寛?)も寝ている。
天井に横に四列、縦に五行の白色蛍光管の照明が並んでいる殺風景な部屋で外に向かって(客席に向かって)二つの窓がある設定。そのカーテンを従者が足を引きずりながら開けるところが幕開きである。原作が書かれた50年代から60年代にかけて終末ものが流行った時期の作品だが、秀作ゴドーは今見ても奥が深いのに、こちらはよくある終末SFみたいで、今見ると話がつまらない。演出も原作に沿って古い本を読んでいるようで味気ない。俳優たちも登場人物の相互関係だけで演技していて設定が生きていない。状況順応の空元気かと思うがそういうわけでもなさそうだ。
まもなく世界がなくなるという時期を背景として、こういう芝居つくりはリアリティを欠く。原作そのものが平板ということもあるが、今はAIの時代である。上演するからには、それでも現代人に伝わるように何とか工夫しなければ。そういう劇場の外を無視して閉鎖的なのが(アゴラ系劇団共通の)退屈の元だろうと思う。1時間50分。
余談では、この演出家、秋にロンドンのチャリングクロス劇場で谷崎の「刺青」をこちらも新進の兼島拓也の本で上演するという(大阪の梅田芸術劇場の仕込みらしい)。9月にこの劇場で日本プレビューのあと10月に二週間公演する。加藤拓也作品と二本立てだというから、ジブリ効果で日本演劇も注目されるところがあるのだろう。チャリングクロスと言えば日本演劇ではおなじみのサドラーウエルとは違うし、バービカンでもない。ホントの本場である。浮足立たないでいい仕事になることを祈っている。
ふくすけ2024-歌舞伎町黙示録-
Bunkamura
THEATER MILANO-Za(東京都)
2024/07/09 (火) ~ 2024/08/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
独自の作風で、いつの間にか居場所が決まってきた不思議な作家がもう、30年も手掛けている「ふくすけ」(1991年悪人会議で初演)の2024年版。世にある暗い現実、親殺し、子捨て、階級差別、障碍者差別、地域差別、性犯罪。それが生み出す差別用語や暴力が飛び交う不穏なダークな舞台なのに、大きな商業劇場で堂々と一月公演ができ、しかもそこから人気俳優も生まれる。満席の観客は笑いながら楽しむ。なんだか劇場が丸ごと異常者の収容所になった趣なのに、別の視点から見れば、まぎれもなく今そこにある社会とそこに生きる人間のドラマである。キワの話を取り込むという点では終わって一月もたたない都知事選も登場する。ユニークな現代劇なのである。なんだか「刺さる」芝居なのだ。
主演は阿部サダヲ。今の時代が歩いている俳優である。大人計画のガラと演技の微妙な味でふつうの芝居には登場しないキャラクターが次々と登場する。今回は俳優もそろった。
新宿の新しい東急の小屋はこけら落としからほぼ一年半。あまり型にはまらず、既成の名作再演に頼ることもなく、次々にいろいろな趣向のステージを見せてくれた。
「ふくすけ」もチケットは売れていないと言われてきたが来てみれば上の方の階は見えないが1,2階はほぼ満席ではないか。それに観客層の幅は広く厚い。「ふくすけ」は新宿らしい行儀の悪さと活力があってこの劇場の出し物の中央に来るものかもしれない。
芝居としては多彩な俳優たちもよく生かされているし、御簾内張りに邦楽の生音楽が入っていたり、仕込みがかかっているだけのことはある(12,00円も納得するが)。
細かいことだが、字幕が読む間もなく消えてしまうのは、どうかと思う。
流れんな
iaku
ザ・スズナリ(東京都)
2024/07/11 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇壇創設の二年目・十年前に初演した作品を、舞台を広島に変え、小劇場で実績のある俳優たちを迎えた横山拓也・作品の再演である。横山は、昨年、「モモンバのくくり罠」で鶴屋南北賞も受け、今や若手劇作家の一方のリーダーとみなされるるようになった。これからはさまざまな要望にあわせての戯曲提供も、商業演劇や大劇場の要請に応じた売れる作品も書かなくてはならない位置にいる。この際🅼ステップを上げた座組で過去作品を自分の劇団の主宰で再演してみるのはいかにも横山らしい。観客にとっても興味深い。
横山の初期の作品では,現代社会の中で、気が付かれてはいるのだけれど、なかなか表立っては一方的に解決できない問題を、それにまつわる人間たちの実生活の姿から描いた作品が多い。いわく、母子家庭の青春問題、障碍者の性処理問題、少年時の事故の後遺症、自然保護、障碍者保護の矛盾。予想できない職場の事故などなど。すべては解決できないけど、それでも人はそこでそれぞれ生きていく。教条的でも教訓的でもないドラマは、非常に新鮮だった。
現代に生きる人々の出発点はまずそこにある生活を見ることだ、という主張は、当時、衰退、硬直して自己中心的な世界に閉じこもっていた小劇団群を一掃する力があった。
関西から出た劇団だが、東京の小劇場界でもたちまち、脚光を浴びた。
「流れんな」もその時期の作品だが、当時は見ていない。ここでも、「貝毒」の処理の問題が、地方の地域活性化の問題と絡んで扱われている。今なら作者もこうは作らないであろうという点も見えるが、初々しさがあって、面白く見た。今回は俳優がずいぶんグレードアップされていて、この俳優たちの芝居でドラマとして弱いところはずいぶんカバーされている。異儀田、近藤の達者なベテランにくわえて、iakuに踵を接して出てきた小松台東の今村、あはひの松尾も健闘、最近見るようになった宮地綾もなかなか良かった。この点でも再演の意味はあった。
横山は次はPARCOのファンタジーの一月公演を書くという。なれない座組だが、挑戦の成功を祈っている。うまくいっても行かなくても、これを糧にしてすねたり、小理屈に走ったりしない(これが大事)作家精神の太さを買って期待している。
オーランド
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2024/07/05 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
今年の屈指の舞台である。。
昨年から今年、作品を見ることが少なかった栗山民也の準備万端、全く隙のない気合の入った演出に宮沢りえが見事にこたえ、それを取り巻くスタッフ、キャストもそれぞれ力量を発揮して、近代から現代へ時空を飛ぶオーランドという一人の人間を通して世界を見ることができた。
終演後、劇場を出て、諸国民の観光で雑踏するスペイン坂を抜けて。渋谷の街に降りていく。雨もよいの十字路に立ってみると、そこが観客にとっては芝居の幕が降りる時であることに気づく。実に稀な「演劇的」一夜になった。
かなかぬち
椿組
新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)
2024/07/10 (水) ~ 2024/07/23 (火)公演終了
実演鑑賞
外波山文明が主宰する椿組恒例の夏の花園神社の野外劇も、今年39回で幕を下ろすという。はっきりとは言っていないが、たぶん地域の中でこのような興行に風当たりが強くなったからだろう。一方では、地域イベントが求められているのに、外波山としては残念なことだろうと思う。短躯の脇役俳優のどこにこの興行にこだわった原点があったか、小劇場らしい理由はいろいろ伝えられているが知らないほうがいいような気もする。
最終公演は中上健次の知られていない戯曲を青木豪が演出した2時間。雨が降って、緩めの満席だったが、例年通り、最後にはテントを開け、土の舞台では俳優と観客が飲むイベントも盛り上がったことであろう。当日パンフには過去の上演リストがあって、この本は和田喜夫演出で13年に初演している。39年間の個々の演目では、小劇場のスターたち(例えば、唐、寺山、野田)を外して、独自路線でテントで大衆観客とのつながり(言ってみれば新宿三丁目路線とでもいおうか)を求めようとしてきた。俳優も椿組の俳優だけでなく、飛び入りも歓迎らしく種々雑多な小劇場・新劇のの俳優・演出者が参加してきた。。
今回も、当日パンフに顔写真がある役者だけで四十数名、主演に松本紀保と山本亨を迎えて、南北朝時代の吉野の山中の異郷の住人かなかぬちを軸に権力からこぼれた庶民劇が展開する。歌あり、殺陣あり、メロドラマあり、白毛の巨大な獅子が登場するスぺクタルあり、の賑やかな祝祭劇的なシーンが次々と展開する.青木豪はよくまとめた。
助成金は出ているが、次に立ち上げるのは容易ではない独特の演劇界の夏祭りのフィナーレである。
アウト・オブ・オーダー
劇団NLT
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2024/07/10 (水) ~ 2024/07/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イギリスの笑劇王といわれているレイ・クーニーの取り違え喜劇。とにかく一つのウソが次とんでもない結果を生み、それを正そうと、次の取り違えがまた混乱を大きく広げていく。
、日本の笑劇だと人情がらみのウエットな局面もあるが、レイクーニーの場合は取り違えの混乱の笑いだけで持っていくドライな芝居一直線。次から次と変わるシチュエーションにも、機関銃のように飛び交うセリフにもスピーディに的確に対応しなければ場が持たない。セリフにも、動きにもかなりの技術がいる。この舞台はNLTだけでなく、加藤健一事務所でも、確かどこか大きな劇団でも上演していた記憶がある。訓練がいるし、難しい笑劇なのだ。
NLTはこういう芝居ではさすが老舗でこの舞台にもスキがない。みなうまい。新人の若い人たちが舞台のスピードに怯えながらも懸命にチャレンジしているところも、こういう特殊な領域に生きてきた劇団らしい。NLTやエコーは喜劇を柱にもう長い歴史を持っていて特定のファンもいる。若い俳優も、観客も着実にいるところが頼もしい。初日満席。
今回は、珍しく(私が見ていないだけかもしれないが)ベテラン・海宝弘之が軸で、この俳優のガラも生きて快演。息子の海宝直人は東宝ミュージカルでメインの脇役を務め、時には主役の相手役までに成長した。やはり早いテンポの芝居がうまい。親子で小さな劇場でショー形式の舞台なども見たいものだ。
デカローグ7~10
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
三月にわたった公演も後半になって後二話。このブロックDはともに上村聡史の演出である。出演者にも疲れが見えるが、観客の方も疲れてきた。今回は客席もやっと半分としか見えない入りで気勢が上がらないことおびただしい。
7は高校生妊娠で出産した子を母親が子として育てる。若気の至りだが、父親は別の町で暮らしている。実の母も成人して、子とともにカナダへ出国しようとする。出国を企てる一日の80年代後半のワルシャワの集合住宅を舞台にした一話55分。実子のつもりで育ててきた母親(津田真澄)の喪失感。母親が守ろうとしてきた娘(吉田美月喜)が孫を攫って去っていこうとすることへの思い。娘の子(娘・この子役のさらりとしたうまさでずいぶん救われている)、への思い。世上混乱期の話なので、なんだが戦後の大映映画の母ものみたいな設定で、津田真澄が現代版の三益愛子をうまく演じる。父親の元若い教師(章平)にとってはすでに過去の話だ。しかし、ぬいぐるみの製造を仕事にしている父親のところに娘が転がり込んで、気まずい親たちをよそに娘が作業場の片隅に寝てしまうところなぞ、大映映画調設定が生きて洋を問わず、人心は変わらないと思いはするが、そんなことなら七十年前から見ている話である。
8話は女性大学教授(高田聖子)のもとにそのポーランド語の本を英語に翻訳した英語圏の女性(岡本玲)が訪ねt来る。翻訳を立て前にしているが、実は訪ねてきた女性は、戦時中のナチのホロコーストをのがれた経歴があり・・・というあたりからは、日本では伺いにくいナチのユダヤ人虐殺の現代に残ろ来ず傷跡の話になっていくが、これは、日本が原爆投下されたからと言って同一に解釈するわけにはいくまい。さすがに製作者側もケーススタディのドラマ進行だが、それだけに今度はこちらには伝わりにくい。
8話を分かったつもりになるよりは7話のほうが面白く見られた。しかしここまで、このポーランドのテレビ連続ドラマの舞台版を見てきたが、一話一話は良く出来た短編集みたいで面白く見られるものもあったが、この8話のように深いところは描き切れてもいない。そこがテレビと演劇の大いに違うところで、そこを、日本の演劇作者は甘く見て簡単に取り組んだとしか思えない。亀田佳明が演じる十話通しの無名の登場人物、などただただいい役者をもったいないことをするものだという印象しか残らない。異国で演劇化するなら、そこをこの演劇上演の核としてしっかり立つように考えておかなければ、30年前のほとんど知らない異国のドラマを上演する意味がない。
ナイロン100℃ 49th SESSION 「江戸時代の思い出」
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ナイロンの49回目の公演。30周年の記念公園でもある。90年代から、独立独歩。一貫して自分の世界を追求して、ぶれることなく、官の栄誉を求めることなく、多くのファンも集めて日本の演劇史上独自の作品を作り続けた。たいしたものである。
タイトルからして、平易なようだが、このとぼけたような思い出の中にはKERAの世界が詰まっている。
ナイロン初の時代劇というとおり、幕が開くと江戸時代らしき小山の上の街道筋の峠の茶屋。道具は一杯だけだがそこで二幕3時間20分(休憩15分)の舞台が始まる。記念公演だから、ナイロンの歴史を紡いできたおなじみの俳優たちが総出演で、一言でいえば、不条理劇のナンセンスコメディ調現代劇が展開する。
軸となる登場人物は峠の茶屋を守る「お肉」「お魚」「お野菜」と名付けられた三人娘。(犬山イヌコ、松永玲子、奥菜恵)、訪れる旅人は浪人・武士之介(三宅弘城)と大名行列からはぐれた家来・人吉(大倉孝二)。丘の下の村では祭りが行われているが、実は飢饉が進んでいて、三人娘はお互いを食いかねない状況だ。物語は大名行列から外れた人吉が、武士之介に呼び止められ、武士之介の思い出話を無理やり聞かされるところから始まる。
二幕の舞台は4っつのエピソードに分かれていて、一応、エピソードとして完結しスクリーンで「○○話・莞」とも出るが、緩やかな連作形式である。
思い出話は最初は武士之介のもののようだが、物語の展開で、誰の思い出かも、話される話の時代設定もよくわからなくなる。物語の担い手も、丘の上に小学校の時に将来の夢を埋めた考古学研究会のメンバーが掘り起こしにやってきた思い出話、とか茶屋にやってきた殿様一行と祭りの時の瓦版売りの思い出、とか、何かの記憶を軸として思い出話がナイロンの名優たちによって奔放に展開する。客席も使った観客や本多劇場の管理人まで登場するバレネタもある。
ナンセンスな物語が、ナンセンスな枠取りの上に展開するのだから、客席からは笑いが絶えない。笑っているうちにお開きになるのだが、ドラマの核には現代劇のテーマが見事隠れている。残酷非情の現実は笑って過ごすしかない。思い出話はその時には、力があるかもしれないし、また残酷に無力かもしれない、だが、そこで行列を作って生きていくしかない。
まずは、観客は野田と並んで二人の優れた劇作家と時代を共有できたことを喜こびたい。
ひと月の半ばにかかろうとしているところ、若い成人客層を軸に多彩な客席満席。
二十一時、宝来館
On7
オメガ東京(東京都)
2024/06/26 (水) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
地方の女性の後期青春劇スケッチである。時折、新劇団の作者としても名を見るようになった作者なので見物に行った。
高知県の片田舎の地方のつぶれそうになった宴会ホテルで三十代後半の高校クラス会が開かれている。たばこも据える休憩室が舞台だが、いまはたばこ受難期だから、もちろんタバコは吸えない。使えなくなったたばこの灰皿が一人の登場人物で、あとは三人の同級生。いつまでも高校気分のままなんとなく都会と行き来している女、地元で子持ちになった女。達観している地元のクリーニング屋になった情報通の女。灰皿が擬人化しているところがミソでコメディタッチである。1時間。
まずまずの出来だが、大きな発見もなく器用にまとまっている感じで、まだこの作家よくわからない。筆者は舞台となった高知の片田舎は若いころの仕事の関係で、ちょっと知っている。六十年前は、もっと奔放な人物がたくさんいて仰天したものだが、今は、都会も地方もあまり変わらないな、とちょっと寂しい気分でもあった
疎開中に獅子文六がこの地と山一つ越えたところを舞台に書いた南国滑稽譚とか大番の世界は、そのころは現実だったのだから。
余談で言うと、この新しい小劇場、折りたたみいすは仕方がないとはいえ、あまりにも小さすぎる。中学校の生徒までのようなイスでは、夏場隣席の人の肌にも触れてトラブルが起きないか、と思ってしまう。
地の塩、海の根
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2024/06/21 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了
実演鑑賞
身近な社会問題を早速取り上げて、芝居で現実を考える、あるいは現実が芝居を変える、と言う作品を発表してきた坂手洋二の新作は、湯気の出るホットナ戦争がテーマである。
舞台は地政学的には遠い南ロシアのウクライナ。日本人には日常、実感がない国が舞台だが、相手のロシアは、明治以降さまざまな国際関係がある。劇中、ロスケと言っても年齢が上の我々には、その蔑称の意味も、感じも、今の流行りの言葉でいえば共有できるところがあるが、ウクライナの方は、ふつうは、どこ?である。さらに、ウクライナとロシアの中世以来のくんずほずれつの関係となると、劇中、随分かみ砕いて説明されるがニュアンスまではベテランの名手・坂手の手を借りてもほとんど伝わらない。作者は、地の塩という現地作家のロシア語の本を翻訳するという話を軸に、本に書かれた鉄道の踏切警手の庶民の生涯と、現地の演劇祭に招かれた日本の劇団員が話を聞くというメタシアターのかたちをとっているが、その複雑さは想像できても実感のとっかかりがない。一番は国境の国土の争いが、長年の民族、宗教と絡んでいることで、日本ではせいぜい韓国・漢民族との海という明確な国境があっての上での軋轢があるくらいだが、中東に近いスラブ民族圏では争いの基の要因についてもよくわからない。
今上演するには時節をえた狙いとはと言えるが、日本的に解釈しても仕方のない話なので、難しい素材だったなぁ、という感じしか残らない。
そこで結構つまずくので、芝居の中身を味あう余裕がなかった。2時間半。
雨とベンツと国道と私
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/06/08 (土) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
モダンスイマーズ25周年作品。コロナでしばらく劇団作品は見ていなかったが(ここ五年の間に二作だという)「現代新劇」とでも名付けたくなる作風は健在である。
「デンキ島」はあまり素材になってこなかった沿岸離島の青春期から成人期の若者を描いて新鮮だったし、バブル崩壊後の若者を中心に地方の家族を舞台にした庶民劇「まほろば」は、現代新劇の路線でよかった。最近は、劇団外の大手興行会社からの注文で得意とは見えないファンタジー系もある。どれもそつなくこなしているうちに、いまや女優との噂がスポーツ新聞の記事になる中堅の地位を固めている。周囲に同じような作風の劇作家がいそうで、いない。そこが重宝される由縁だ。無理をしないで、期待に応えている。
今回の舞台は、地方(群馬)で撮影される地元の自主映画の撮影現場である。パワハラで仕事がなくなって、やっと地方の自主映画を名前を変えて監督することになった監督(小椋毅)が慣れないニコヤカ・ムードで仕事を進めている。
自主映画は、地元出身のそろそろ30歳代も終わりかけの元女優(小林さやか)が良人を亡くし、その思い出を映画にしたい、と見つけてきた監督以下の映画の制作陣で撮影が進んでいる。撮影現場でのお手伝いにと、かつて東京で女優志願時代の同年代の友人(山中志歩)を呼ぶ。舞台はグレイの単色のノーセットで、物語はナレーションも芝居と並行しながらこの部外者の視点で語られていく。テンポよく次々に過去・現在のシーンが展開する。
表向きのテーマは映画製作の場でのパワハラになっている。
撮影現場のトラブルはよくある話のレベルだが、東京でだらだらと生きてきた女優志願時代の友人が現場に入ってきて、ドラマは面白く動き出す。友人は監督がかつて一緒の撮影現場で出会ったパワハラ監督だと見破る。監督が乗っている古いベンツに見覚えがあったのだ。この友人の沈滞の20年そのもののような(名前も五味栞、愛称ゴミチャンである。つまらないようだがこういうところ上手いのである)視点も面白いが、それにもまして、外れていることに本人が気づかずに集団に平然とついていく現代人の多くの滑稽さを演技でも体現しているゴミを演じた山中志歩はこの公演随一の殊勲者だろう。パワハラの話はそれなりに出来てはいるが、話よりも、作者はそれを担う人物たち、パワハラを捨てきれない監督やカメラマン、地方の市民ミュージカル出演を誇りに俳優気取りの地方人(古川憲太郎)成り行き任せの若い助監督、などなどの人々を巧みに描いている。沈滞の20年はナニも経済や政治の沈滞だけでなく誰もが安易に手にした無気力無責任で生きられる生活が生んだのではないか、と言っている。ラストは映画の撮影で、相手役の若い男優が雨の中の空漠とした国道を走り出すところで終わっている。ここでダメ押しの台詞をつけていないところにもこの作者の年輪を感じる。
この劇団はいつも男性の俳優しかいなかったが、25年の間にほとんど顔ぶれも変わっていない。そういう人付き合いの濃いところが作風にも出てきたように思う。今回は小品だが、いつも面白く見せてしまう劇作家というのは数少ない。1時間50分。自由席3千円で満席。
地の面
JACROW
新宿シアタートップス(東京都)
2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナの間この劇団を見る機会がなかったが、その間に作者は随分上手くなった。
経済社会や政治社会を直接舞台にとってそこでドラマを作るのは、現代人を描くには良い着想だと思っていたが、経済構造や政治構造がドラマとしてリアルに描区のは難しい。つい、なじみのある人情話に落としてしまいがちだった。
今回は、不動産業界を舞台にした土地売買詐欺事件を素材に、不動産会社の人間模様である。
そういえば、アメリカの芝居で「グレン・ガレイ・グレン・ロス」という不動産業界舞台の犯罪がらみの芝居があった、と思いだした。舞台の米日の国情の差も面白い。あちらはセールスマン同士の個人の業績競争、こちらは不動産会社の中の出世競争のグループの話になっている。「グレン・ガレイ」はリアルな舞台展開だが、「地の面」は、かなり様式的で、ダンスも取り入れ、ステージングも抽象的で、詐欺事件の話をテンポよく織り込んでいる。会長社長以下の会社組織は従業員何千人という会社としては戯画的になっているし、詐欺師たちを、その場にいながら姿を見せない存在としているのも、事件の子供だましみたいなところと似合って成功している。荒技のところもあるが、面白く展開できたのは、作者が腕を上げたから、である。
出演者は中年の男ばかり9人。小劇場で知られた顔が多いが、今回は名古屋小劇場の重鎮が二人参加している。休憩なしの二時間。ほぼ満席、珍しく若い三十代以下の男性客が多く
こういう実社会エンタメの作品の路線はこの小屋の売り物になるかも知れない。男性客が多いと言うことをまず、買わなくては。
白き山
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久し振りの「新作」と銘打ったチョコレートケーキの公演。高い世評の上に歌人の頂点に立っていた歌人・斎藤茂吉(緖方晋)の敗戦後半年の疎開生活を素材にした力作である。
戦時中、戦争賛美の歌を作って戦争協力したとして、立場が反転した茂吉の日々が、焼け出されて同居していた長男(浅井伸治)、のちに北杜夫となる次男(西尾友樹)、アララギ派の門弟で秘書役を務めていた山口茂吉(岡本篤)、身の回りの世話をしていた現地の農婦夫の守谷みや(柿丸美智恵)との生活を通して描かれていく。
国家が非常時にあるときの芸術家(個人)のあり方というのはチョコレートケーキが何度もテーマにしてきた問題で、今回も主筋はこのテーマに沿って芸術作品と作者の関係が描かれているが、そのテーマの周囲に、渦中にある芸術家の葛藤や、芸術家の家族のドラマ、
父子の関係とか、人が生きていく上で「故郷」が果たす役割、とか人間が生活の中で出会う大小さまざまなドラマを張り巡らせて、単なる歴史秘話ではなく、価値転換の今の時代に必要な現代劇となっている。
フィクションと断ってはあるが、登場人物たちのキャラクターを見せるそれぞれの日々の生活のエピソードの拾い方が非常に上手い。よくある頑固親父もののパターンも生かしながら、生き生きしたリアリテイを失わない。娯楽劇にもなっている。
主演の斎藤茂吉を演じる緖方晋が、一月前に急遽登場することになった代役とは思えない熱演でドラマを引っ張っていく。関西の小劇場の俳優だが、三年前のペニノの「笑顔の砦」の初老の漁船の船長が。斎藤茂吉とは対照的な第一次産業に生きる男を演じて絶品だった。代役で賞というのはあまりないが、それに値する出来である。チョコレートケーキの中軸の三人。それぞれのドラマの中での役割を演じきって快演だ。よく客演する農婦の柿丸美智恵は、若い頃は都会に女中奉公に出て短歌を知っていた、という面白い役柄を、型にはまらない柔らかな表現で演じてよかった。
疎開先の部屋を囲んでホリゾントには山頂に白い雪の連なる故郷の山が描かれている。最後にその美術が生きることになるが、それは見てのお楽しみにしておこう。本も役者も揃った今年の収穫に挙げられる舞台である。早い機会に、池袋の東芸の地下とか、トラムなどで再演をみたいものだ。補助席も出て満席。
野がも
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2024/06/07 (金) ~ 2024/06/21 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ドロドロの昼メロのような話である。イプセンの作品が書かれた1880年代で、その時代にはまだ世間のスキャンダルが演劇の素材にはなっていなかった。離婚、妻の家出、妻の不倫、婚外子、相続問題などなど、(まだ上流階級が主だったとは言え)一般市民のトラブルを素材にして舞台の上の人間の真実を描いて「近代劇の父」と言われている。
今回の俳優座の上演は「築地小劇場百周年記念上演と角書きれているように、日本でも新劇が始まった頃から数多く上演されている。随分昔に見た記憶では、暗い室内会話劇で人生の真実の発見と言うよりは、暴露ものという感じだった。五幕の舞台は殆ど主人公の家の中、「野鴨」というのは家で飼っていた家鴨である。長いという記憶もあったが、今回は、全体を二幕にまとめて、時間経過を音響効果の音と、並行してシーンを進めるという処理で、複雑な人間関係のドラマがどんどん進む。このテキストレジの旨さが第一だろう。
俳優たちが上手い。俳優座でいつも感じるのだが、端役まで、なぜそこにいるかが解る。ドラマの世界を支配する財産家(加藤佳男)のお手伝い(清水直子)で、お手つきとなって、かつての共同経営者の息子(斉藤淳)に下げ渡しになって、今は一人娘(釜木美穂・新人)をもうけ、財産家が与えてくれる捨て金で写真の店を妻がやりくって暮らし、本人は発明の夢にすがって生きている。親に反発して山の中の鉱山で労働者の待遇改善に努めている財産家の息子(塩山誠司)が戻ってきて、かつて親しい友人であった息子同士がそのパーテイ出会うところから舞台は開く。
このパーティのウラの近代社会の生んだ歪んだ人間模様が次々と暴かれていくドラマである。筋はよくわかる。俳優も的確に演じていて、清水直子など、まぁ、むちゃくちゃに上手い、よく客演で呼ばれるのも頷ける。再婚をもくろんでいる財産家の妻となる女(安藤みどり)も、カモを飼っている一人娘も、ベテランから新人まで、揃って上手い。しかし、いまは市井では見つけにくくなった日陰の身で暮らす子供たちを巡る葛藤にリアリティを出す演技はかなり難しく(コミカルな選を狙ったのは冒険だった)苦労しているが上滑りしてしまうのは時節柄やむを得ない。この俳優たちの大健闘が第二。
イプセン劇をいま、その原作に忠実に生かすとしたら、良い出来だった、と言うことになるだろう。しかし、巧妙に組まれた物語は終わってみれば古めかしいし、俳優たちの旨さも、一昔前に、役者の揃った時代の新派の舞台を見るようである。
そこをいささか知っているものには現代新派も悪くないと楽しめるが、結局は日活映画を支えた新劇団黄金期の俳優たちとおなじ役割を果たすだけになってしまうのではないか、とも思う。築地百年、劇場消滅の時期である。そうなると、これはまさにリアルな俳優座が支えた新劇そのもののドラマと言うことになってしまう。時代の転換点を感じさせる舞台でも会った。zそれはどうなんだろう。15分の休憩を挟んで1時間25分と1時間の二幕。稽古場劇場は老人客で満席。
消しゴム山
チェルフィッチュ
世田谷パブリックシアター(東京都)
2024/06/07 (金) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
新しい世界に劇場で出会うことは稀である。「消しゴム」はコロナ以前、2019年の、初演のテキストをほとんど変えていない。というが、激動のあったここ数年を踏まえても、その中身はしっかり現代を描ききり、未来にまで目を向けている。
作品のスケールが大きい。大きなテーマを、演劇の世界に新たな形で着地させようと試みている。五年前の再演ながら、全く古びてはいず、本年随一の問題作であることは間違いない。
舞台には、さまざまな造形物がおもちゃ箱を拡げたように散っている。これが金氏徹平のものグラフィーで、一つ一つ、具体的なモノ(例えば、洗濯機とか椅子とか滑り台とか)を示してはいないが、そういう身近にある人間が作ったものを巧みに表現していて、そこにスクリーンでの表現も加え、視覚的効果を発揮している。舞台は、その道具たちを俳優六人の俳優たちが、日常われわれがモノを使うように移動させながら進行する。開演前から、コンクリートミキサーの回転音がずっと響いていてこれが音響効果になっている。音楽はない。。
二時間の舞台は三部に分かれていて。それぞれにテーマがある。要約すれば、一部はものと人間の関係、二部は拡がった社会(宇宙も含め)の中で人間が他者とどう関わるか、三部は言葉の力、とでも言ったら良いのだろうか、その周囲に現在の世界的な環境問題、移民問題なども、投影しながら現在の世界の有り様を描いていく。一部は、壊れた自宅の洗濯機を直す、と言う解りやすいストーリーがあるが、三部は現代詩の朗読みたいなところもあり、そこはダレる。終わりに近くなるとダレるというのは「ゴドー」みたいだが、前半がわかり良いだけに工夫があった方が良いと思った。つまらない決め打ちの締めよりはいいが。
いずれも岡田利基が今までにも舞台にして見せたことがあるテーマだが、「消しゴム山」では、総合的に一つの世界にしてみようと糸が見えた。世界巡演でもよく理解されたようである。
現代社会が転換期を迎えているように、演劇も又転換期を迎えているのはここ10年ほどの舞台を見ているとよく感じられる。この作品はそういう転換期を象徴する作品になり得る舞台だと思った。それをどのように受け取っていくかは、同時代人の役割である。世田パブは老若男女よい比率の観客でほぼ満席だった。
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短編作品集『3℃の飯より君が好き』
劇団印象-indian elephant-
北とぴあ ペガサスホール(東京都)
2024/06/05 (水) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
昨年「犬と独裁者」という面白い作品を下北沢の小劇場で上演した劇団の公演なので、はじめての北区の公共劇場へ出かけた。
舞台の方は試演会みたいなもので、短編に作。1時間半ほどの公演だったが、中身以外に感じることも多い公演だった。
まず。印象という劇団はもう二十年もやっているそうで、昨年の世界劇作家裏面史は、あまり知られていない作者(ソ連のブルガーノフ。(近かじかどこかで作品上演があるというチラシを見た)の公私の生活をない交ぜにしていて、シバイになっていた。今回も期待して観にいったのである。しかし、上演は過去の作品も改変も含めて短編二本。全くつまらない、と言うわけではないが、俳優もプロではないだろう。ことに前半の半ば朗読会のような上演で初化粧する女子中学生のドラマは、高校演劇コンクールならともかく、一般公開で観客に見せるには、ブルガーノフ以上に客を狭めてしまう。そこが解っているのか?
タイトルになっている「三℃の飯より君が好き」は同棲男女二人の某日スケッチ。今の女性優勢、少子化時代の若者風俗が面白かったが、シバイ作りに無理がある。ことに氷の妊娠、勃起のくだりは前後と異質のファンタジーなのだが、出入りに全く工夫がしていない(アイデアとしてはこの場面白いところだが)ので、はぐらかされてしまう。前後のリアルに裏打ちされたところは結構うまく出来ているのに、多分、それだけだと横山もどきの掌編になってしまうと、入れたのだろうが、練りが横山に比べると、全然足りない。
公演を北とぴあという北区の地域文化センターのような場所の15階の一室で公演していて、チラシによるとこの区にも文化事業支援があって、この公演にも助成金が出ている。それでこの公演か、と納得した。しかし60席くらいのスペースで7割くらいの、主に義理の客らしい客相手にこういう公演をやることが区役所の文化行政としてどうなのか、演劇をどう考えているのか(児童向け公演など開発しているようではあるが)聞いてみたいところである。その安易な取組みが如実に表れたのが、このホールである。ホールと言うにはあまりにも便宜的な、稽古場といった場所で、天井は低く、舞台は平土間のママ、照明バトンは頭上に迫り、照明は漏れ放題、場内音声の処理のしようもない、
試演会ならこれで良い。しかし、普通の小劇場劇団の中の上の料金を取って興行としてみせるには、区役所も劇団も少し考えた方が良い。
ライカムで待っとく
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2024/05/24 (金) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ禍の22年に上演され、評判は良かった(23年の岸田戯曲賞候補になっている。このときは加藤拓也)が、時節柄、横浜までは・・と見逃した。落着いたところでさっそく再演は、公共劇場とは思えないKAATらしい腰の軽さで、長塚圭史、芸術監督の役目をよく果たしている。
作者は、沖縄のまだ三十歳代の若い劇作家・兼島拓也、演出は、最近劇団でもプロダクションでも起用され、映画も監督出来る、こちらも若い田中麻衣子。キャストは小劇場の座組み。
いかにも、よくある沖縄舞台の「ヘイワ・ドラマ」の構えだが、敵役をあれこれ見つけて懲悪ドラマにするレベルを超えた優れた現代劇になっている。久し振りに若者が劇の中心でしっかり世の中を見据えて、舞台の先頭に立っている。
(物語)雑誌記者の浅野(中山祐一郎)は、上司に命じられて、60年前の沖縄で起きた米兵殺傷事件について調べることになったのだが、実はその容疑者が自分の妻の祖父・佐久本だったことを知る。事件の現場は元米軍本部のあったところで、いまは「ライカム」と呼ばれてスーパーマーケットになっているとか、住民の生活の実態とか、現地のタクシーの運転手(佐久本宝)の案内で調査を進め記事を書くうち、浅野は次第に沖縄の過去と現在が渾然となったドラマの世界にいざなわれていく。国境や地域文明の端にある辺境に生きる者が背負わざるを得ない「沖縄の物語」がそこにはある。その物語は自他がつくる「決まり」によって成立するが、時に自分自身も飲み込まれていってしまう現実がある。その場の政治や行政や、さらにはそこに住む人々の思いや、よそ者の観察だけでそれと抗うのはむつかしい。
だが、人々はそこで生きてきた。生きていく。
そこからがうまいのだが、それは、一つの地域の事情ではなく、今世界を見渡せば、どこにでもある話だ。そこで生きる勇気を持ち次の物語を作ることが希望になる。
素材は沖縄問題でよく選ばれる基地問題にまつわる物語だが、問題の捉え方が、新しく、しかも演劇的なところがこれまでの加害者・被害者のキャンペーン作品とはっきり一線を画している。本も演出も、ちょっと乱暴なところがあるのだが、あまり小さなところにこだわらず(こだわっても行き届かなかったのかも知れないが)ぐいぐい押していって若々しい。古めかしい人情ドラマでケリをつけるところからはっきり決別を宣言して、戦後長くこの国に居座っているいじけた精神を批判している。単に沖縄問題を超えて、現代日本に課せられたドラマになっていて見事である。ドラマの作りが普遍的で大きい。この若い作者、台詞が上手い。沖縄ものでなくても書けることは間違いなさそうだ。
ヒルなのに老若男女よく交ざった観客で満席。
オットーと呼ばれる日本人
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2024/05/17 (金) ~ 2024/05/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
木下順二の代表作である。3時間40分となれば今の民藝では夜公演は一回しか出来ない。珍しく、ほぼ満席、しかもいつもの老人ホームのお迎え待ち客ではなく、中年の客も、いつもは全くいない若い観客もいる。民藝の衰退は夜公演をあっさり諦めたところから始まったのではないか、という感じすらする。
尾崎秀実伝だ。上海で、記者として世界の鼓動を感じながら活動している尾﨑がゾルゲと交流を深める一幕。帰国して疑われながらも、先見の明で近衛内閣の内閣参与となるが次第に追われるようになる二幕、捉えられ、回心を促されるが自己の主張を貫く拘置所拘留中の三幕。
日本が列国帝国主義に遅れまいと国民を全体主義に押し込めていった軍閥時代の1930年から45年までの時代。コミュニズムにこの国の突破口を求めて、ソ連の情報機関に接触した才気ある日本人の物語である。この戯曲は62年に劇団民藝で初演、66年、2000年と再演され、その後、2008年に新国立で鵜山仁・演出で上演されている。
見ていると、思い出す台詞もあるから多分、66年あたりの公演を見たのだろう、それから五十年たっているが、ホンは実にあの手この手で、困難な時代に生きた「日本人」を「妥当な」「人間的」スタンスで活写している。全く古びていない。この長丁場をダレさせない、
これが今回公演の第一の驚きである。日本近代劇の代表作の名に恥じない名作であると改めて思った。
第二は、尾﨑を演じた神俊政の快演である。ろくに調べもしないで行ったので、最初は岡本健一が客演しているのかと思った。周囲の民藝の俳優からは浮出さねばならない役だが、その任をガラでも、演技でもその役割を見事に果たしている。
ほとんどこの二点につきる公演だが、一方では、改めて言うのは申し訳ないが、演出が古すぎる。今は同じような素材でチョコレートケーキなどが次々と新脚本で昭和を舞台の史劇の舞台を作っているのだから、時に新派風に見得を切って見せたりされると鼻白む。テキストは、まだ大きくはいじれないだろうから、これだけでも、よく整理したと思う(ほとんどいじっていないのではないか?)。しかし、現実に60年はたっているのだから、先人の舞台をコピーして伝統とすることから決別しないと観客がついていかない。リアリズムの解釈はいいとして、説明的な台詞や演技指定などは現代的に演出しないと戯曲を時代に取り残すことになってしまう。折角のラブシーンで繰り返される単調さには呆れるほどだ。生活も様式に埋もれているし、台詞にも日常性がもっと必要だ。演劇は時代とともに変わる。生身の人間がやるのだからその時代を生きた人ともにあるのはやむを得ない。いつまでも伝統と称して怠けるのは演劇への冒涜である。例えば、音楽。まるで昔の二流の松竹映画みたいな劇伴は舞台の品格を下げている。クレジットに作曲者の名を出すことも控えるような音楽は使うな!
民藝の倉庫に入れておいて、半世紀に一度虫干しするのでは勿体ない戯曲だ。是非、優秀な若い人の手で、テキストレジして、せめて3時間以内で見せきれる真の新演出による上演があることを期待している。