実演鑑賞
満足度★★★★
俳優座劇場で何度も見たあの俳優座のブレヒトである、
市原悦子も栗原小巻も、その年の演劇界の芸術的成果の代表作としてみた。シーンごとに天井から降りてくる大きなプラカードに示される活字体の説明に従ってのその場を客観的に見る、観客は、舞台に感情移入させて見てはならぬ、とか、音楽はジンタのようなものが良いのだ、とかさまざまにブレヒト劇の見方を学習したものだが、どこか腑に落ちない。当時、映画、テレビでもおなじみだった俳優座の名優たちの演技はお見事でもあったが、落ち着いてみれば展開する物語はよくできた寓話で、そんな大げさなものでもない。
当時ポスト「新劇黄金時代」の旗手として上演されたのがブレヒト戯曲には不幸だったようで、やがて、反新劇の唐十郎から、つかこうへいの登場に至ってブレヒト神話は粉砕されてしばらくは、お茶を引くことになった。それから50年。世紀が変わる。
時代は変わって、劇場の最後の上演として「セチュアン」を見ることになろうとは!
しかもその上演は過去の上演とは全く違う。物語の主なスジは原作のものだが、一人二役の資本主義そのものの主演者のシエン・タ(森山知寬)は、女優ではなく男優になり、シーンごとにプラカードで示された場面は、ホリゾントを大きな半円で囲むすだれのカーテンの内側の丸い場面一つになった。物語も後半は大きく変えられているが、ほぼ、3時間ちょっとの長丁場を何曲か歌入りで10分の休憩だけ一気呵成につないでいく。(かつての上演よりは30分は短くなっていると思うがそれでも長い)。テキストは現代風で、昔の上演を思わせるものは何もないが、演劇は時代と共に生きる。そういうものだ。
かつて、劇団任せだった新人演劇人養成を新しく担うことになった桐朋学園とは提携していて優秀な学生は俳優座がスカウトして華々しくデビューしたものだ(多くの名優を生んだ、その功績は大きい)。ラストステージでも、今年卒業の学生たちが大挙出演している。現在の俳優座のベテランに混じって水売りの女(渡辺咲和)や神様のひとり(今野まい)のような重要な役にも出演していて、これが初々しくてなかなか良い。役の登場人物18名に俳優座のベテラン。そこに桐朋学園の学生が20名。演出は劇団の若手俳優でもあり演出家でもある田中壮太郎。さまざまなクレジットのついた大公演である。
で、どうだったのか。
観客も又変わる、舞台も変わる。こういう名作を日本初演から見ているものにとっては感無量としか言いようがない。最近ブレヒトがちょくちょく再演されるようになった。解らぬでもない。話が東映のヤクザ映画みたいに単純に面白く出来ているのだ。
戦時中をヨーロッパからアメリカへ、戦後冷戦下を東西両陣営で生き抜いたブレヒトはやはりただ者ではない。