壊れた風景
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2015/07/29 (水) ~ 2015/08/02 (日)公演終了
満足度★★★★★
「別役節」の発見--シニカルの水面にコミカルの氷がプカプカ浮かんでカプカプ笑ってら。
「壊れた風景」、良い響きだ。それを裏切らない芝居だった。演劇を演劇と呼びたくなる時と、舞台と呼びたくなる時、芝居と呼びたくなる時がある。芝居と呼べる感じの時は、良い。(と勝手に思ってる)
設定の謎かけに対する謎解き(オチ)は用意されてあるが、その間に展開されるナンセンスな場面群が良い。そのナンセンスを日本人は地で行っているというやんわりだか直裁だかの突きつけも、心地良いほどのうまい対話のリズムがあり、別役節にうなりながら笑った1時間半だった。
別役作品は俳優を選ぶかもしれない、との印象も。良い出来。微妙な間や、理性の一部を封印した精神のありようも「ありそう」で笑え、実のところ自分たちの事を笑っているのだがそれも許せる空間に、ハマりきった。
鏡花×劇 草迷宮
遊戯空間
梅若能楽堂学院会館(東京都)
2015/07/25 (土) ~ 2015/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★
質実でもって剛健じゃった。
「仮名手本忠臣蔵」通し読みを浅草木馬館で拝見して以来の遊戯空間「草迷宮」は、岸田理生脚本のそれでなく泉鏡花の原作(原文?)に即した忠実な舞台化(動的なーディング)で、都心の幹線道路から一歩だけ入った梅若能楽学院という古びた外装の内側に磨かれて光る能舞台を「借景」に、堂々と展開されていた。
原作に当たっていないが、小説の「読み」か、もしくはそれを下敷きにした作りになっていて、「地の文」も登場人物が台詞として発している。(コロスも居て、冒頭には導入の儀を行ない、以後は場の内外で場面を象徴する動きをする。)
話はなるほど能に近かった。ある土地を訪れた旅の僧が、まだ日の浅い殺人事件とその現場となった邸の事を知らされ、赴き、あれこれあってどうしたという話である(細かくは把握できなかったのでご勘弁)。
小説の文のテンポで展開するため、朗読の雰囲気は堅固に残り、中々つらい(眠気との闘いの)時間も正直あった。 しかし原典のリーディングという土台を据えた上で、台本を手から離して全力の演技でそれを行なうという路線は、ありそうで無かったかも知れぬ。エンタメ効用の低い割には難儀な作業を、力のある役者がこなしており、正に「質実剛健」と呼びたくなる舞台だった。
演技の面だけをとれば、質素(簡素)から醸される幽玄とはかけ離れた、温度の高い、声を張り上げる演技で(特に女性の役)、能舞台を生かせたかどうかに若干の疑問。
あとは俳優の位置取りなど構図にこだわっていたようで、正面客席から観たかった。
「贋作幕末太陽傳」
椿組
花園神社(東京都)
2015/07/10 (金) ~ 2015/07/21 (火)公演終了
満足度★★★★
夏だ祭だ花園だ!
映画『幕末太陽伝』に嵌まった一人ゆえ、話のベースになっている落語「品川心中」「居残り佐平次」、特に佐平次キャラが活躍する忠実なる<贋作幕末‥>を楽しみにしていたが‥そこは裏切られ、映画製作現場を舞台とする話であった。監督役の風情が川島雄三をなぞっておらず、訝しく眺めていると、「あの名作のリメイク」とのセリフが中盤で。そういう事かと納得した。
鄭義信らしい、多彩なユーモアが舞台を丸く包み込んで、今笑える事の幸せに浸らせてくれる。撮影現場の人間模様と、ある寂れた映画館の人間模様の二つが交互に展開する。二つの世界に直接の関連はないが、どこかで繋がっている、という事になっている。似たような構造が鄭義信の梁山泊時代の戯曲『青き美しきアジア』にもあった。
撮影現場では、煮詰まって爆発手前の監督がすぐに撮影を投げ出し、彼にたかる女優たちと外へ繰り出す。撮影場面がいつしか往年の日本映画をパロッたセットになっていたりする(ビルマの竪琴など)。それらが「一つの映画」の現場なのか、別個の現場なのか判らなくなるが、おそらく監督の脳内混乱のエスカレート状況を表現していて、フェリーニの『8 1/2』を思い出させる。
各撮影シーンは、にぎやかしの三年増、お高くとまった主役級俳優、高鼻を付けさせられた外人役、「主役」と聞いて来たんだがせめて名前のある役をくれと言う役者、スタッフ連などなどが笑いを取るためのサイクルを提供する形にもなっている。
実は「同時代」の二つのシーンの他に、もう一つの場面も並行して展開される。次第に判ってくるのはそれが「私」の過去の話であること。まるで映画の中のシーンのようにノスタルジックでありがちな悲劇へと転がり堕ちる。これを少年時代の「私」が見ている構図が判る事により、ドラマ性が俄然高まるという仕掛けは鄭義信の手腕と言えるだろう。
最後は川島雄三の決まり文句「さよならだけが人生だ」を誰かが唱え、背後の幕が落とされると、仕掛け花火が燃え、それ越しに新宿の夜空を見やる。祭の終わりの時である。椿組の「夏祭り」にふさわしい舞台であった。
フォルケフィエンデ ー人民の敵ー
雷ストレンジャーズ
サンモールスタジオ(東京都)
2015/07/23 (木) ~ 2015/07/29 (水)公演終了
満足度★★★★
130年前の洞察力・筆力に唖然とする。
ありそうな話である。温泉を売りにしている村全体の利害が、ある事実の発見と、その事が約束するはずの「公への貢献」という発見者の栄光を、奪い去る。安全でないものを安全と言い募って原発の危険と被爆の実態を覆い隠している日本と、ほとんど違わない構図に恐ろしくなる。裸にされるようだ。主人公の医師が直面する現実を、観客は追体験する。彼の家族、地元の新聞記者と出版社、村長といった人物たちの立場、その変節が、利害に裏付けられていてリアルである。
医師の辿る道は、ユダヤの律法学者の欺瞞を鋭く指摘したがために磔刑となったキリスト・イエスの足跡に重なり、恐らくは欧州ではドラマ構造の下敷きとして当然に踏まえられていると想像される。主人公の妻が、それまでは反対であった態度を、周囲が寝返ったのを機に夫の味方に転じるという展開にも、そうした背景を思わせる。日本ではそんな事が起こり得るだろうか‥。物語の終盤、住民を集めた集会で医師が「新たに発見した真実」として叩き付けるのは、多数は間違っており、正しいのは少数である。この世界の圧倒多数を占めている愚者に、なぜ少数の正しい者が従わねばならぬのか。‥ほとんど吐きつけるように語る医師。
観客は彼とともに、自身が少数側である苦痛を追体験する。 さらに劇場を出ると、そこでも「少数者」の孤独が待っている。だがこのドラマは医師に語ることをやめさせず、最後の最後、医師に快哉を叫ばせている。そして暗転。イプセンの筆の力に屈服する瞬間である。
そこのみにて光輝く
タキオンジャパン
笹塚ファクトリー(東京都)
2015/07/15 (水) ~ 2015/07/20 (月)公演終了
満足度★★★
シンプルで繊細。佐藤泰志の世界に浸る
映画『海炭市叙景』の原作者として多くの目にとまった(私もその一人)亡き作家の舞台化は初ではないだろうか‥。本作は昨年映画公開された作品なので映画の影響もありそうだが、私は見ていない。映像で見たいと思った。佐藤泰志の描く名もなき人々の孤独で荒涼として、微かに温かい人間模様が、滲みいる。主人公は何かに挫折したらしい寡黙な青年。ある日たまたまパチンコ屋で知り合った男の家で、その男の姉と出会う。男と女、二人の心の流れ合いの帰趨が静かに描かれて行く。この静かさは映像向きだ。また擦れ切った女の心のさざ波のような動揺を表現するのも難しそうだ。だが、舞台は作品世界を誠実に伝えてくれていた。
二人の間に位置するヤクザまがいの弟の存在がユニークで(真の主人公は彼と言えなくもない)、障害として存在する弟の兄貴分や、主人公の妹(遠方から手紙をよこしてくる)が介入しながら、一見砂漠に水を撒くような無意味にもみえる男女の関係に、血が通って見え始めるのだ。否、そういう事もあり得ない事ではない、という希望が見えるに過ぎないのだが‥作者はそこに小さな光を差し込ませようとしたに違いない。この小さな投げかけが、受け止める者の中で、強い確信になって行く。佐藤泰志の背中が、また少し見えた気がした。
明日、戦場に行く
非戦を選ぶ演劇人の会
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2015/07/15 (水) ~ 2015/07/16 (木)公演終了
満足度★★★★
考え抜き、語り切る言葉の力。
’03年対イラク戦争を契機に結成された非戦を選ぶ演劇人の会がしぶとく続けている<オリジナル>テキストのリーディング。昨年に続いて観劇した。夏には「平和」をテーマにした公演やリーディング企画が多くみられるが、それらと一線を画するのは毎年新作が出されている点だ。その時どきの喫緊の問題を取り上げた脚本が提供されてきたという事だろう。
俳優の力量の総和、台本こそ持っていてもアクティブで、本を持つ手がもどかしいというように、感情優位に演じていた。笑い所もあってよく出来た本だった。
恋 其之参
テラ・アーツ・ファクトリー
パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)
2015/07/08 (水) ~ 2015/07/12 (日)公演終了
満足度★★★
主婦たち、それぞれの夫、一人の女。
開演。俳優の立ち方、言葉の発し方、踊り。それら全てが「古い」と感じる。意図的であるのか、どうかが不明。技量と考え合わせ、意図的ではないだろう、という印象に傾く。だが、この戯曲が書かれた時代の、パフォーマンスの再現と理解し直すと、少し違う印象にもなる。それはそれで貴重に思える。戯曲が描いている時代はさらに遡るようである。否、時代の交錯するエアポケットがそこに生じたような、話であった。
「其之弐」同様、女性目線で書かれた洲崎を舞台にしたドラマは、7人の主婦とその夫、強姦され死に至った(と思しい)女性、その同類ないしは同根である花街に働く女性が登場するが、主婦と夫の7バリエーションの組合せで、男の場面も女の場面も常に順番に喋り、相似形をなす。大多数の人間、大衆である。多数の暴力に相対するのは、犯罪の犠牲となった一人の女性だが、この存在が大衆たる家庭に動揺をもたらし、最終的には定型的な収まり方に収まるという結論。
終盤、相楽ゆみの舞踏が秀逸で、一連のパフォーマンスの中にあって舞台を引き締めていた。
青い目の男
KARAS
シアターX(東京都)
2015/07/08 (水) ~ 2015/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
久々の勅使河原
数年前初めて、ダンス公演なるものを見たのが勅使河原三郎。動きの心地良さ。その一方、「持ちネタ」の動きのバリエーションであるため、次第に単調に思えて中盤以降はつい眠ってしまう。公演としてどう成立させるのか、に関心がある。
ブルーノ・シュルツの原作は(当然?)知らない。とにかく冒頭は圧巻。勅使河原、佐藤利穂子+1が入れ替わり立ち替わりに踊る。照明が機敏に変わる。恐らくソフトにプログラムが入力されているのだろう。音楽に合わせるから可能なはずだ。音と出所が違うとすれば、時間差が生じるので音きっかけでポイントは手動でオペをしてるのかも知れぬ。オケの音その他をサンプリングして打楽器的に構成した楽曲が刺激的で、要は格好良い。これに拮抗する動きを踊り手は繰り出す。
だがその後、スローで静かなクラシックなピアノ曲が流れ、以後の意外な展開を期待させず、踊る佐藤の動きもこれに応じてごく緩めである。何らかのストーリーが読み取れないことには(先刻の刺激的な時間との関連性が見えなければ)、休憩(睡眠)時間にひとしい。もっとも今回は睡眠は免れたが‥。
とは言え、スタイリッシュなダンス公演としてのまとまりは実現されており、非常に高度なパフォーマンスをやっている印象は脳に刻まれた。 冒頭からの度肝を抜く楽曲と踊りの組合せは、それまで見た事のない風景で、言葉による説明を拒否し続けている。
玉子物語
Q
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/07/08 (水) ~ 2015/07/15 (水)公演終了
満足度★★★
卵物語
子宮の奥の「卵」が暗喩されている事が開演後まもなく判り、以後はキャラによって特徴ある発語と動きとエピソードが割り振られ、性と妊娠にまつわるケーススタディの様相。「お相手」の男子も脚本上のゆきがかりでお付合い。発語と動き、振りなどパフォーマンス面、舞台処理に秀でた印象があり、作者の脳みその中の思索や着想が、渾沌のままに舞台上で造形され得るとしたら、才能とは有り難きものだ。「女」の独白のような作品だったが、いつか私の琴線にも触れる舞台に出会えるか、どうか。
草枕
シス・カンパニー
シアタートラム(東京都)
2015/06/05 (金) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
段田漱石、小泉妖女に遭遇す、の巻。
一昨年末「グッドバイ」に続く、日本文学舞台化シリーズ(北村想作/寺十吾演出)。松井るみの美術が壮観。紙に鉛筆で描いたイラストを巨大に拡げたような書き割りは、前回を踏襲。前回は路地で、今回は山中である。原作の冒頭から始まる「智に働けば角が立つ。情に棹させば‥」のくだりを呟きながら登っているらしい山道が、語り手のどこか飄々とした様子に合致する。こんもりと大きな山が左右にそびえ、この間に尾根道が渡され、背後には遠くの山の書き割り。舞台手前には三間四方ほどの板床があって色々な場面に変わる。
語りに語る段田。浅野が役の七変化の芸を見せ、小泉は妖艶な姿をさらす。ストーリーの全ては、漱石がこの女性と遭遇するという事で語り尽くせるが、それがその女に似たある女性との出会いの過去が重ね合わせられ、置き忘れた宿題に取り組むように思索を始める。恐らくはたぎるような「異性への情」との折合いを、沈着な思索の言葉に落とし込む作業によって付けるために。
段田が脚本の趣旨を理解した的確な動きをみせ、一方小泉は慣れない舞台でどうにかこうにか奮闘、という感じであった。一度台詞を噛み、一度つまずいた所を段田に突っ込まれていた。寺十演出は笑える場面を細かく仕込んでいたが正直、女優のほうは付いて行けてない。近年の舞台は虚構を立ち上げる正統な演技と「素になる」演技(笑いを取るのに多用される)の自在な行き来を要求され、ヘタするとこれに頼って弛緩した舞台になりがちだが、ぎゅっと締めてこれをやるのは実は高度な技。メタシアターの構造は、演劇への現代の捉え方そのものでもあって、そうした小ギャグは、「お芝居に過ぎない」という作り手のわきまえを効果的に示す事で観客の共感を手にする、必須アイテムでもあったりする。
いずれにしても、この不思議な舞台への、貢献度は置くとして、存在じたいに威力のあるこの女優には、舞台に馴染み、舞台を回すことの快感を知る舞台女優にぜひなってほしい。‥帰り道を歩きながら、そんな事を考えた。
墓場、女子高生
ベッド&メイキングス
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/07/17 (金) ~ 2015/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★
祝祭的演劇の魅力・威力を信じて進むベッド&メイキング達
「南の島に雪が降る」・・これは加東大介著の奇跡的従軍ドキュメント(本当に本当の話なのかと今も訝っている)の吸引力で、お台場の粗末な(失礼)野外劇場へ出かけたものだ。健全な「芝居心」にほだされた、というのが正直な感想。出来すぎた結末に身を委ねるのは嫌いである。が、身を委ねて良いと感じさせた肝は何か・・ 答えの出ぬまま、前作、そして今作を拝見し、今作はあの「南の島・・」を思い出させた。野外劇ならでは、の好感度要因だけでなかったという発見だ。
物語世界の統一感だろうか。俳優の良さだろうか。脚本上の工夫は「墓場」にたむろしたり出入りする人々の背後の「物語」が一つずつ、謎解きされて行くというプロセスに見られる(原作がそういうプロセスを辿るのかは不知)。しかし大凡の構図が見えた時、「幽霊もの」の王道のパターンに収まりそうになりながら、簡単にはハマらず、収まり所の知れない緊張感が維持される。
フィナーレで全体像を現わす「絵」が想像もしなかった「現代」の図として見えて来る見事さ(これはかなり主観的印象かも知れないが)に、静かに心をつかまれた。
恋 其之弐
吉野翼企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/07/01 (水) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
満足度★★★★
岸田理生『恋』三部作の弐
寺山修司との共作戯曲があるから寺山の弟子くらいに思っていたが、未だ謎である。今回は「吉野翼企画」への興味が第一で観劇した。昨年のリオフェスで服部吉次をキャスティングしていた(「眠る男」)。今年は服部さんは出ていないが‥ちょっと面白そうである。音楽、舞踊その他を融合させた「総合げーじつ」を構成し得る人が、今は<勝ち>ではないかと最近感ずる所であるが、今回アゴラ劇場でのパフォーマンスはその事を実感した。開演前から立つ能面を付けた8人の女。体のラインも出てないし顔も見えないのに何故か引きつける、その理由を考えたりする。ひな壇式の客席だが段差が小さく、足が辛い人も居ただろう。髪の毛で若さが悟れる。それなりのスリムさが手の先で判る。目を引く理由はあるのだなと一応納得。垂直に立った棒と戯れる女(ポールダンサーだった)の太腿が白いのは、よく見ればラバーか何かで、なるほど「棒」を挟むためか。「男はいらんかえ。男のない人おらんかえ」と、やはり開演前に売り声を上げる狂言回しを演じる男の、この言葉が「女」に向けられた言葉である事を噛みしめる。女目線。作家も女性だが、これは女が語る「恋」の話。当時はそれだけで斬新だったのかも知れぬ。この芝居での恋は、生きる事にひとしい。生きる意味を求める女の、恋に敗れ、恋のカラクリに裏切られ、なお恋を求めて行く女の、話であった。
音楽はギター弾きが上手奥で終始音を奏で、心地良い。舞台は黒色を基調に紅が浮かぶ(血の色)。衣裳との統一感があり、俳優も幻想奇譚のような世界に貢献していた。
『太平洋食堂』
メメントC+『太平洋食堂』を上演する会
座・高円寺1(東京都)
2015/07/01 (水) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
満足度★★★★
再演をみてよかった。
初演を観、今回も観たかった。「あの感動をもう一度」という訳でない。着想と言い、描き出される人物像の幅と言い、時間経過による人物たちの変化の描写と言い、一言一言の台詞の含蓄と言い、大作である。
ただ初演では、ストーリー説明のラインを追うので精一杯だった。それには多分、俳優の人物理解、台詞の咀嚼度が影響している、と再演をみて確信した。芝居の進行を追ううちに、朧げに話が立ち上がって来たが、前はこういうニュアンスではなかった、と感じるやり取りがあちらこちらにあり、確実に良い方へシフトしていた。特に後半はこの劇世界の完成へ、台詞も、事態の展開も饒舌に滑らかに流れて行く。
ただ、初演も今回も、最後に唱われる主人公大星を悼み称える(慈しむ)唄が、とても良い曲なのだが唐突な感が否めない。しかし今回は初演で感じた程の浮いた感じはなかった。
大星役のみ、良くも悪くも初演と印象は変わらずだった。理想を描き、世の風に流れず自分の風を吹かす、発想と行動の人のイメージだが、変節とみえる瞬間がある。革命より家族を取った。ここは、人間=大星の側面を見せたかったのかどうか。結社をたたむ宣言に至るまでの大星は、「何が本当なのか判らない」即ち何も本気でやってない(貴族の道楽‥貴族ではないが)、根無し人の正体がうっすら見え始める、、という風に見えた。それは作家の狙いだったのかどうか‥。
家族の安心をとり、結社を解散した時も、妻へのリップサービスをついやってしまった風にも見える。もし「根っこ無し」が暴露されたら、妻は(自分も)崩壊してしまうんではないか‥、そういう危機を感じたのだと、観客には見えた、そんな演技だった。
これと「歌」とがそぐわないのであるが、そこは別枠に括るとして‥‥今回は初演時に否めなかった「大星礼賛」の印象は退き、太平洋食堂を訪れた様々な階層の人々の「食す」光景が、ラストに想起されてくる。大逆事件の無法に一瞥しながらも、人間として生き得たことの「勝利」---ある意味観念的な---を噛みしめる、最後であったかも知れない。
『リア王』他一編、…公演は無事終了いたしました。お越しの皆様、ありがとうございました。
楽園王
pit北/区域(東京都)
2015/06/26 (金) ~ 2015/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
ほぼ初楽園王
楽園王という名前がイッちゃってるので手脚の長い極彩色の俳優が客を恫喝しながら動くライブのような雰囲気を勝手に想像していた(どんな芝居だと言われると困るが)。先刻『出口なし』企画での小編を目にして随分印象を違えた。古典(既成)作品を翻案した舞台が主体のようで、「演劇」という楽園に咲き乱れる花々を摘みとっては料理する王様な自身を自嘲(あるいはそのまま?)表現した名か・・とこれまた勝手な想像。
「火宅」「リア王」とも端正な作りで無駄が少なく、各俳優のニュートラルな身体がみせる、細やかな表情や動きの変化に、目が向く。これをごく間近で体験できるpit北/区域の「利点」を味わう公演でもあった。
あられもない貴婦人
アトリエ・センターフォワード
シアター風姿花伝(東京都)
2015/06/27 (土) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
満足度★★★★
役者たちの美味なるを堪能。
「サロン貴婦人」のダンサー兼女給‥女優冥利に尽きる(演じ甲斐有る)役どころではなかろうか。彼女達の生き生きとした演技が、1950年という時代の一場面を舞台に立ち上げていた。「民主主義」を標榜する日本と、下辺の現実。朝鮮動乱、ヒロポン。‥ドラマに登場するアイテムがうまく絡み、解消されて行くうまい戯曲だった。現在的な問題も各所に忍ばせてある。作家の気合いが感じられる本。その土台の上で役者らが躍り演じ走っていた。
『ゴミ、都市そして死』 『猫の首に血』
SWANNY
世田谷パブリックシアター(東京都)
2015/06/25 (木) ~ 2015/06/28 (日)公演終了
満足度★★
残念な舞台とはこの事か・・う〜む残念。
踊りのある舞台で世田谷パブリックの3階席は、ハズレ。横に向かってアピールする振りが、シラっと覗けてしまう角度だ。だが、そうした事ばかりでもなさそうだ。これほど拍手が乏しく、呼び出しもなかった舞台は初めてである。再演とあって期待した『ゴミ、都市そして死』の方を観劇したが、色んな難点があった。初演データをみると、俳優は若干陣容が変わり、根拠はないが初演が優位にみえる(横町慶子、羽鳥名美子、宮崎吐夢の名がある。例えば宮崎吐夢の食った風情がこの芝居に合いそうである)。あと振付のスズキ拓朗はこの2年で評価を高め、再演チラシには大文字で出ていた。しかし劇中に出て来る踊りも今ひとつ洗練されておらず、それ以前に、踊りが出てくる意味が判然としない。歌も然り。度々、俳優が歌うが、伊藤ヨタロウや渚ようこ等「歌える人」以外の役もオンステージをやる。ドイツ語の古い歌のようで、「歌い上げる」のだがどうやら口パク。それと判るように見せたいのか、「歌っている様子」として見せたいのか、そもそも芝居全体の演出の方向性が見えない中では位置づけようがない、というのが正直な所。上手い下手の問題ではない(折角うまい歌声が響き渡っても、妙に虚しい空気が流れる)。緒川たまき以外の娼婦が「その他大勢」に見えてしまうのも悔しい。こういうのは嫌だ。
また、皆なぜか口跡・抑揚に問題あり、噛みはしないが、意味を伝える正しい抑揚で台詞が稽古されていない感じ。それでなくても抽象度の高い戯曲である。意味が入って来ない事がえらく多い。また肝心な言葉(語尾など)をつるっと言ってしまう(良い滑舌を見せて挽回したい?)。もう何なんだよ、と思ってしまう。
劇の作りの細かな部分が雑、投げやりに思える。その最たるものが、ラストだ。いくらか判り易く意味が頭に入ってくる会話の最後の言葉で、ストンと照明が落ちる。それまでの雑然とした流れを、せめて反芻する時間、闇を作ってくれるかと言えば、全く。さっさと照明が入り、既に一列に並んだ俳優(並ぶ動きがうっすら見えるので終演だと判る)。他の俳優も袖から登場するが、並んで礼をするまで拍手が起きない。拍手を惜しむ観客も観客だと感じたが、不消化感は確かに大いに残った。何しろラストさえ観客を突き放すのでは、作り手が真正面に向き合おうとしていないと、見えても仕方ない。
この歪な作りは、舞台美術が加藤ちかである事も意外だったが、せめて空間に美を追求してほしい所、これがシュール。背後に月面の円弧がドカンと置かれ、その前に安っぽい箱(娼婦の部屋などになる)があり、下手の外階段から箱の天井に上がれるがさほど活用されず、そこに昇って歌ったりする意味も不明。袖は左右三段、黒の替わりにレースが吊られ、クリスマスツリーにかけるような電飾が一本、アーチ状に渡してある。場面として出て来る(高級?)クラブを連想させ(歌もそこで歌っている態で挿入されるようだ)、またそこで展開する事がいかにも作り事な「お芝居」という演出意図もあるかも知れない。
とにかく全体に美的でなく、床も汚ない。「汚れた床」を示すなら、もっと収まりの良い色があったのでは・・ただ汚ない。でもやはりそれらを一つの統合された表現とするための、俳優によって作られるべき世界が、もう一つ作れていなかった事が敗因だろう。
ファスビンダーの戯曲は隠喩的で、書かれた当時の現実が踏まえられているのは確かだと思える。この芝居には娼婦たち、客引き(娼婦の一人の恋人=ヒモでもある)、金持ちのユダヤ人、ゲイたち、ナチスの残党らしき者などが出て来る(かの国の良識人にはカンに触る人物ばかり?)。特にナチス残党については、これを語る事じたいがスキャンダルな事であったと想像される。ドイツの病理=ホロコーストを生んだ=を象徴するナチスが現存して虐殺を悪びれず正当化する姿が、ドイツ人にどういう感覚を呼び起こさせたか‥翻って、日本はどうか、という感覚が舞台に何一つ流れていない(私は感じ取れなかった)。また、世間ズレした同業者の中で、独自な感覚を保っている娼婦(緒川たまき)の恋人は、彼女を客に売っていながら「やつの一物は大きかったのか」等と詰め寄り、彼女が「20㎝くらい」「ビール瓶の太さ」と答えると、「売女」と罵って殴る場面がある。サディスティックな感情を爆発させる瞬間とは、もっと自分の内奥に快楽が迸っているはずだし、冷酷で鋭利な姿に観客をハッとさせるものがあるはずだ(女も敢えて「でかい」を誇張し、挑発している感がある=屈折・頽廃)。ここは作り手としてはイメージしやすい場面だと思うが、いまいち迫れていない。
音楽(歌以外の)がまた奇妙で、心地良くない。中でもラストの音楽が最も安っぽく、観客の「共感」を拒否する。「観客を裏切る」的な演出は、伝えるべき事が伝わった上で効果を為すのであって‥。とにかく残念。
ただ、ファスビンダーのテキストに触れる機会とはなった。
付言:初演の紀伊國屋ホールと世田谷ではだいぶ劇場の趣きが違う。いかにもプロセミアムの枠の中で展開する「お芝居」を横から観る、という雰囲気の紀伊國屋には、あの舞台美術は有りだったかも知れない。
二都物語
新宿梁山泊
花園神社(東京都)
2015/06/20 (土) ~ 2015/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
梁山泊テントの中興の今
鄭義信作品と唐十郎作品の両輪で、テント主体で活動していた梁山泊が、劇場公演そして芝居砦へ拠点をシフト、その後韓国との交流や金守珍の映画製作もあったりする中、勢いのあるテント公演も維持、劇場公演では劇団1980との共同、そしてあの趙博の参入‥と様々な場面があった。そうした新宿梁山泊の幾つかのエポックの、また一つを数えたのが昨年のテントへの大鶴義丹の登場だ。これには過分に懐古趣味も入っている。先日逝去された扇田昭彦氏の著作に、私は当てられた一人。見てもいない60〜70年代のアングラ演劇を観た気になり、憧憬した。唐十郎作品を「飲み込む」のに歳月を要した自分だが「本家」の唐組に昨年初めて足を向けた。横国教授時代の氏の姿を一度目にした時とは変わり果て、杖をついて歩く姿に、涙した。その2ヶ月前梁山泊『ジャガーの眼』にて、大鶴は主役として舞台を走っていた。うまい(舞台)役者ではないと予想していたが、予想に違わず。にもかかわらず(親の七光でなく)遺伝子というものは何か不思議な働きをするものか、大鶴義丹というコナレない体に父の魂が乗り移りまるで操られ、そして本人は必死に付いて行こうともがく姿が見えた。理屈抜きとはこの事で、そう見えてしまう自分に客観的な評価は無理である。 ただ、そこには「受け継いでほしい」と思わせるものがある、という事は言えるだろう。何をか。‥唐十郎の戯曲にある、底辺からの声、祈りのようなもの?人間の根本に温かく寄り添い、永遠の正義としてあろうとする精神、とでも言おうか。(格好よすぎか..)
そして今年。大鶴義丹はそこに居た。韓国公演に向けて作った40年以上前の作品の再演という事で、話の通りがシンプルである分、「飛躍しまくり度」は影を潜めた感じがした。それと、玄界灘を渡って‥‥朝鮮から日本へ、日本から朝鮮へ‥‥数多の涙を飲み込んだ歴史の海に、思いを馳せるところへ観客を導くのには、結構高いハードルがあったと思う。だがもう一点、「理屈抜き」の快楽がテント公演にはつきもの、今回も幻惑されたがこれは実際にその場で体感するしか。
テント芝居を本気で作り込み公演を打つ事は、無駄を憚る世情ではきっと疎まれて来るに違いない。梁山泊のテントが未だ健在である時代を、来年もまたその先も噛みしめたいものだ。
『冒険王』『新・冒険王』
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2015/06/12 (金) ~ 2015/06/29 (月)公演終了
満足度★★★★
古き良きイスタンブールのあの安宿で
『冒険王』は純正<平田オリザ>タッチの現代口語演劇、『新・・』はソン・ギウンとの共同脚本・演出、と気づかなかった程『冒険王』の延長の態だが、韓国人観光客役を演ずる韓国人俳優が半数近く参入する事による変化はあった。韓国人の居る現代口語演劇、という実態を指しているに過ぎないかも知れないが。「純正」と書いたが、日本人だけが登場する「現代口語」芝居が辿ってしまうある種のパターンが、見られると途端に眠くなってしまい、前半の多くのエピソードをすっ飛ばしてしまった。もっとも後半の重要エピソードを成立させる伏線は、後半だけ見ていても判る。『冒険王』は平田オリザの実体験に基づく事から、その時代の断面をイスタンブールのバックパッカーたちという切り口から見せてもらってる(歴史を覗き見してる)感覚があり、平田の個人史と世界史の重なり合いを、また平田氏が味わっただろう感覚を、追体験するものとなっていた。<果てしなく続くと思われる現状は、たやすく変化する>。。
一方『新・冒険王』は、そこに登場する韓国人たちのリアルが、劇の行方を追いかける観客の関心を牽引し続ける。韓国語、英語、日本語を介して行なわれるコミュニケーションの様々なパターンが、克明に描かれていた所は唸った(海外経験の多い平田氏にとってはそれらは「日常」の範囲内であるかも知れないが)。日本人(側)の中には一人の在日が居り、韓国語は少し習っていて判る。見学にやって来るアルメニア系アメリカ人の女性は日本語、韓国語、中国語もある程度話すという。韓国人青年のガールフレンドになった日本人女性は日常会話程度は板について一緒にサッカーの応援をしている。個々が抱える問題も劇中に語られ、各様の人生模様があり、その中に国籍・民族を違えたゆえの関係の模様がある。民族問題が決して前に押し出されていない所が「リアル」である。
戯曲としての完成度は『冒険王』の方にありそうだが、外国人俳優の参入で民族的カオス状態がそのままリアルに再現されている事じたいが幸福だと感じてしまう。イスタンブルの良き時代へのノスタルジーをくすぐられた(行った事がないにも関わらず‥)。
三人吉三
木ノ下歌舞伎
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2015/06/13 (土) ~ 2015/06/21 (日)公演終了
満足度★★★★
真正面から「演劇」する。
木ノ下歌舞伎弐度目。休憩弐回の五時間コースは歌舞伎公演並みだがこれが贅沢。歌舞伎版三人吉三を観た事はなく、粗筋も知らないが、「思いがけなく手に入る百両」の七五調のくだりは有名、でもって三人の「吉三」(お嬢と後二人の)の話とだけは知っていた。河竹黙阿弥は面白い話を書いたものだし、上演すれば楽し。その特徴、歌舞伎ではキメとなる長台詞や二人(あるいは三人)合わせて言う台詞などでは原典どおり語り、他は現代語に翻訳してある。衣裳も現代の衣服に「役」を示す符牒のような飾りや羽織などを付加してある。でもって音楽はデスメタル系? 融合のし具合が絶妙だが、その演出が「実験」のためでなく、きっちり芝居を見せる目的で施されており、しかも成功しているのはそう目にしないように思う。5時間がこれほど苦痛でないとは‥。
廃墟
劇団東演
東演パラータ(東京都)
2015/06/12 (金) ~ 2015/06/23 (火)公演終了
満足度★★★★
「戦後日本」の根っこを掘り出す執念の戯曲
戦前・戦後と新劇界の第一線に居た劇作家三好十郎の、敗戦直後の作品だという。雑誌に掲載されたこの戯曲に三好は魂をつぎ込んだ。その事がダイレクトに感じられる終盤の対話、というより口論、否、議論。それぞれの背景から絞り出すように吐かれる言葉。そこには戦後の「政治の季節」の巷で交わされた典型的な議論、物言いが凝縮されて書き出されている、と同時に、現在進行形で新たな時を刻んでいるかのように固唾を飲んで見させる(身につまされる)切迫感を持っていた。
書かれた当時は物資不足の混乱の下、作品の登場人物らも食糧に欠乏し苦吟する姿が、真実らしい肌合いで彫刻のように浮かび上がる。爆撃にやられて既に廃墟にひとしいこの家には、労働運動に勤しむ病弱の長男と、特攻帰りのぐれた次男、顔半分が焼けただれているが健気に皆に食事を工面する妹、自らの意思で教壇を離れた大学教授の父、世慣れた風情だが今は身を寄せるその弟、男女関係の話の中心となる女中、次男が連れてきたパンパン風の女、家賃を取り立てに来た女、父の教え子といった者らが出入りする。時代の矛盾をそれぞれに体現する彼らは、貧乏ゆえに「助け合う」、といったヒューマニズムの段階をとうに通り越して、過去を引きずりながら手のひらを返したような民主平和の日本とどう折合いを付けるかに苦しみ、時に食糧や収入よりも優先する「生きる根拠」としての思想の切実さがほとばしる。彼らは当時の日本人の根底にあったものをそれぞれの立場から言葉化し、背後に居る多くを代弁しつつ激論を戦わせる。そこには悲哀があり、敗北主義も横切るが、最後まで己の言い分を言い切った(三好に言わせられた)彼らは作品の中で昇華した。物語的に解消したのでなく、彼らをどこかで見ている人達(即ち我々)の前で言葉を(中空に架空の石板でもあるなら)刻印した、という事において昇華した。 戦争にまつわる自分たちの責任、また責任の無さについての議論は、この時から今に続き、今なお燻っている。