馬鹿とは、
多摩美術大学映像演劇学科3年表現ⅡAコース
多摩美術大学 上野毛キャンパス 演劇スタジオ(東京都)
2016/01/31 (日) ~ 2016/02/02 (火)公演終了
未熟な作品から透かし見る
終演後に手にしたパンフをめくると演出の「言葉」が書かれてある。多摩美では間もなく廃科になるというその科で、「自分らで劇を作る」という難題に向かうに徒手空拳、己らを「馬鹿」と蔑む他術ない開き直りから、この舞台は作られている・・・その裏ストーリーを合せ含めて観るというのが、(作り手的にも)正しい見方である所の舞台作品を観た、のだと思う。
1時間20分、ストーリー自体があっちにぶつかりこちらで転けしながらどうにかこうにか、「ラスト」と呼ぶべき地点にたどり着く。 ドラマの鉄則もそこここで破られ、逆効果な差別言動や、「転向」を易々と遂げる人物たちや、観客が唯一拠り所にできる主人公の「視点」もほとほと脆弱な体たらく。それを(やむなく)踏み台として中盤以降の「劇的昂揚」を演出するも、ニアミスな選曲が続くなか俳優は場面の意味を掴み切れぬままただエネルギーを放出しながら彷徨い、こうして「劇作り」の悲壮なドキュメントが進行して終わる。
・・この全てを「映像」と捉えるなら、つまり製作着手から始まった彼らの「物語」に触れたという事なら、ある種の感慨も湧く。 物事はどう転ぶか判らないとも。 が・・ 演劇を学ぶ学生の成果発表はそれとしてきちんと受け止めたい。この地点を踏みしめこの先へ、踏み出して行って欲しい。
黒蜥蜴
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2016/01/16 (土) ~ 2016/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
三島作エンタテインメント
SPACによるこのタイトルが初めての「黒蜥蜴」観劇。昨年にも美輪明宏版が演られているが、SPACが選んだ演目として興味を開かれた。三島由紀夫のきめ細かな脚本と台詞は「文学調」との先入観を退け、昭和の東京を舞台のサスペンスとして面白い。とは言っても三島である。黒蜥蜴ののっけの長台詞に彼の美に対する思想がしっかり書き込まれているし、気の利いた台詞と構成に無駄がない。 中で黒蜥蜴は「人」として特異な存在だが、対峙する一方の探偵明智小五郎も彼女に「同期」し得るものを秘めている(それが二人の結びつきを形作る)。この点がドラマにおいて二人の(探偵と盗賊の)対立に加えて、「ある種の真実」を共有する二人と、それを理解し得ない俗社会との対立という、もう一つの軸を引き込んでおり、最後には後者が前面に浮かび上る。
江戸川乱歩の世界を思わせる闇色を基調にした舞台上で、達者な俳優が縦横に躍動する怪しさ満載のヤバい三島作エンタテインメント。
夫婦
ハイバイ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2016/01/24 (日) ~ 2016/02/04 (木)公演終了
満足度★★★★
「て」の裏ドラマ的ドラマ
胸苦しいドメスティックな(殊に父をめぐる)逸話は、数年前同じ芸劇で見た「て」に通じ、作者の体験が色濃く投影されている、とみえる(人物名からして岩井である)。トーンや作りは「て」とは全く異なるが・・。家庭の中で「躓き」を授かったクチである自分には、ど真ん中を突いて来る話なのだが他の人はどうなのだろう・・と思いつつ毎回岩井ワールドを観ている。
「夫婦」のタイトルが徐々に的確に思えてくる「母」の浮上の仕方は、「岩井」の目線が憎悪の的としての父から、彼に寄り沿った母へと移行する変化を表しており、それ自体肯定されるべき「夫婦」という所に収斂されているのを感じる。その意味では最後には温かい風の吹く芝居だが、「父も人間なり」と安直な理解をアピールする事はなく、ただ嵐の後の安堵を呼吸し、遠くに「赦し」を射程とするか、しないか・・少なくともすぐにそれは訪れない感じではある。・・というのは自分の今の心の投影かも知れないが。
子供時代の兄(平原)と妹(鄭)との三人と、父の「戦い」は凄まじい。だが子供というのは親への抵抗を「歯向かう」形では遂行できない。年を重ねたある時「岩井」は父に怒りをぶつける事で溜飲を下げているが、受け止める側の父との言葉の交換は通り一遍では行かず、「世界」の不条理は解消されぬまま心の中にしまい込まれ、時の過ぎゆく中で熟成されるのか、消化されるのか・・。余韻が背中に残る。
書く女
ニ兎社
世田谷パブリックシアター(東京都)
2016/01/21 (木) ~ 2016/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
樋口一葉が動いている。
永井愛作/二兎社公演舞台の再演。初演は未見。演劇人永井愛は「あの名演をもう一度」的再演はやらなそうな人だ。何がしかチャレンジのしどころあっての、今回は黒木華というキャスティングがそれなのか判らないが、いずれにせよ洗練された舞台だった。生ピアノの演奏/音楽のクオリティが高い。深みがあって繊細で、僅かな色彩の違い(即ち人の心理のひだ)も逃さず捉え、並走しているライブ感がある。俳優は全てうまい。こまやかな笑い、動線や転換のスムーズさなど演出の力量も十全という感じ。
自分は樋口文学は「にごりえ」を読んだか‥という程度だが、独特の筆の進め方が印象的で、誰にも真似できない樋口オリジナル、可憐で大胆、「天然」なイメージがあり、それが今回の役にもそこはかとなく窺えた。「天然」即ち己の持てるものをさらけ出して生きる人、とするなら彼女は生を燃焼させた人で、舞台上にはその赤裸裸な姿があった。
後年、文壇からの批評・批判の的となるが、ある宿敵(批評家)の挑発的な質問に堂々と答える傑物ぶり、さらにその彼を友のように対する地点に一葉は立つ。成長と変化が、黒木華の身体を通した一葉に起こって行く。母と妹とのコンビネーションが絶妙。
日清戦争へ向かう時代の世相を描写する台詞や、一葉の師匠がこぼす「朝鮮」の話など、さらりとながら、人が「時代」と無縁には生きられない証左として織り込まれているのはさすが。 とは言え‘メッセージ性’を求める向きには薄味であったかも知れない。だがどこかしら味わいある舞台だった。
タンバリン
劇団 go to
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/01/29 (金) ~ 2016/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
九州戯曲賞
四人の演技、照明音響のみで見事に「世界」が立ち上がる。50㎝ばかり上げ底の床がやや広めのリングに見える、だけが工夫と言えば工夫と言える素舞台で。何より脚本が力強い。種の欲求、美醜、欠片と全体‥といった壮大な思想から卑近な日常に潜む虚無感にも鋭く目を向けながら、多少無理のある女性4人のボクシンググループ(?)のコミカルで/テンポの良い/スポーティなお話は立派に大団円を迎えるのであった。
ファニー・ピープル
シンクロ少女
ザ・スズナリ(東京都)
2016/01/13 (水) ~ 2016/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
2ndシンクロ観劇atスズナリ
力作、という表現が正確かは置いて、この語を当てたい。 発展途上の印象は拭えず、戯曲の隙も見えるし役者の(役づくりの)力量差も見えてしまう(もう一歩という箇所が・・、台詞のモンダイも・・)。んでもって、お話のほうは毒の擦り込みが効かない内に救い上げ、ドラマ的な山を作る意図が見えたり、思うに「苦悩」の掘り下げが足らない(としたら作家としてはもう一歩‥)のであるが、なぜか「悪くない。」、肯定評価をしたいと感じる自分がいた。
だとしたらこの「不足感」は、完成形に接近しているために却って欠陥が浮き上がってしまう、あれか。
好感触の理由は、「いま出せる全て」をやった、出し切ったという作り手の気迫のせいか、単純に使われた楽曲(時宜を得ていたぞなもし)にヤラレたからか。。 「惜しい」と感じたのは事実。この「惜しい」は「応援」の意味合いが大きく、芝居は何かに迫っている、そこをもっと掘り起こしてほしいという願いがセットである。
だから「あそこも、あそこも」と色々と「難点」も挙げたくなる(それで補完しようとする)のだろう。
しかし、それでは何に引き寄せられたのか・・? 多分、<人間をつかまえようとしている>作家の視線に、だろう。
初日をみた。でもって楽日もみる、というプチ贅沢を一度やってみたいものだ。(やれないので、願望吐露)
街と飛行船
劇団昴
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2016/01/09 (土) ~ 2016/01/13 (水)公演終了
満足度★★★★
明るい別役実相談室
別役実フェスの発起人でもある鵜山仁の「初別役作品演出」舞台は目玉の一つ。 当フェスティバルで観た幾つかの舞台とは一味違うこちらは、照明ともども「明るい」「見通せる」日常感覚を基調としながら、「不条理」な事実をこの劇世界においては通用しているものとして人物らが納得している部分といない部分の境界線の引き方が、少し違っているという感じだった。
これまで観た「壊れた風景」「あの子はだあれ、だれでしょね」「うしろの正面だあれ」は、ひと回り小さな劇場で「闇」から浮かび上ったような小世界があり、比較的少人数で精緻に作られた「作品」のイメージだった。今回のは少し広めの箱で人数も多いのに加え、小室等の素直な楽曲が効いていて、「切ないけれどそれなりに大団円を迎える」健全なお話になっている。であるのに、飛行船とか架空の町の存在は不気味に影を落としている。裏の裏をかいている感じもある。
戯曲の捉え方として果たして正解かどうか・・ しかし小室等が初演かそれに近い(鵜山氏が関わった)公演に楽曲を提供しており、内一曲は初演のものらしいというのは意外だ(他は作曲者本人も忘れていて再現できなかったようだ・・ポストトークにて)。
70年代の日本の音楽界はフォークの層は厚く広く、電子音の活用もされたり、フォークと聞けばアレというイメージからは想像しもしない世界がある事を最近知ったが、この舞台での音楽も基調は分かりやすい和音とメロディを持った楽曲ながら、ある種の「濁り」もあって曰く言い難い色に芝居を染めていた。 不条理感のある音ならもっと明瞭な舞台にもなったと思うが、不思議な融合を見た気がした。 楽曲のゆえか最後は「感動」しさえする。
ヒッピー風の男女のゆったりした歌から始まり、この「飛行船の浮かぶ町」に迷い込んだ男とともに「旅」をする2時間40分。そして最後も歌で「大団円」。やはり音楽に尽きるように思う。
演劇研修所第9期生修了公演『嚙みついた娘』
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/01/08 (金) ~ 2016/01/13 (水)公演終了
満足度★★★★
噛みついていた。
1936年初演の作品という。
最近は新国立主催公演より研修所公演の方が面白いと感じる事が多い。 今回が修了公演との事で、前回の「血の婚礼」で演じた俳優たちを思い出しながら観劇。あと一回は観て送り出したかった・・などと勝手な思いを抱きつつ。 今作は、前回母役で印象に残った岡崎さつきが着物姿で女主人を演じる「冨田家」に、八幡みゆき演じる十歳の少女ステが女中として雇われた日から、「富豪」の家中の虚飾と不実の光景を目にした挙句、「噛みつく」時までを描く。 当家の父母と令息令嬢、その婚約先の両親や新聞記者、二人の女中と書生、ピアノ教師、そしてステを紹介した施設の女性が見事にキャラ分けされ、どの役作りも勘所を外さず芝居のアンサンブルは気持ち良いものがあった。 秀逸は主役ステの形象で、聞けば家は貧しく悲惨だが明るくあっけらかんとした、おぼこ娘を好演(怪演)。
舞台は大きな正方形の台上にあり、頂点を結んだ線で仕切られた一方が食堂、他方はさらに二分割して娘の居室と女中部屋。回転舞台で転換時はゆっくりと回り、ただし高さはなく背後も見通せる。大振りな仕掛けは栗山演出っぽいが、「家庭内」劇の軽妙さは損なわず、ステの無垢な歩行のイメージに当てたようなピアノ曲(古典だが曲名判らず)と相性もピッタリだ。
終盤、転換ではなく舞台がゆっくりと回って家の中の様相を見せる。この効果は昨年のペニノ「地獄谷温泉 無明の宿」に等しい。
戯曲の時代的な限界は所々感じたが、現代の上演に耐える仕上がりに持って行けたと思う。ぐっと引きつけ、身につまされる箇所もあり、何より最後まで目が離せなかった。
・・とは言いつつ、難点をネタバレに。
『かもめ』
演劇ユニットnoyR
Livingood Cafe 高円寺 (東京都杉並区高円寺北2-36-10)(東京都)
2015/12/19 (土) ~ 2015/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★
借景と飛び道具
俳優三人による変則的「かもめ」。上演70分程度。会場は高円寺駅から徒歩5分程の宅地エリアにあるカフェ(バー?)の中。路地から段差もなく地続きのフロアへ、入ると手前側に客席、椅子を借り集めたような格好で20人程度か。受付を済ませて覗くと暖色系のランプが吊るされたやや薄暗い内部、正面奥にカウンターがあり、背後にボトルの列が見える。セットではなく、店内のふだんの状態そのままらしい。ユニットnoyrは座高円寺の劇場創造アカデミーを出た3人が作り、今回は樋口ミユを演出として、小野寺ずる(□字ック)を客演に招いた。 開演前から喪服の女優がバーのママよろしく佇み、背の高いウェイター姿の男性が店員風情で掃除をしたりしている。店内がリアルに飲食店なため、二人の存在も借景の「景色」に含まれて見える。佇む女性はユニットの1人、男もアカデミー出身者のようで、残る一人が・・と上手をみると、パーテーションの隙間っぽい引っ込みに垂れた布の下から、ベージュの衣裳と素足がプラプラと揺れている。出番を待つスポーツ選手か。開演すると彼女が飛び出て「小野寺ずるのオンステージ」の様相は、noyr版(樋口ミユ版?)「かもめ」を大きく支配する。マイクを持って歌ったり、演技も持ちネタの披露といった案配で笑いを誘う。役者というより芸人である。
テキストは当然ながら大胆に構成され、チラシには「喪服のマーシャの視点」とあったが、先程の黒服のバーのママ然たる女性がマーシャで、客待ちの風情で本を読んだり、目の前で展開する人生模様をバーのママ然と眺めたりする、という舞台上の構図があって、ベージュ色の男女が「かもめ」の男女各2役(男はトレープレフとトリゴーリン、女はニーナとアルカージナ)を演じる。役の変化は男女ともかぶり物のみ。 「かもめ」は痛い話である。主な筋は、モスクワから離れたある地方の地主風情(=召使いを雇える階級)の息子トレープレフが文学に熱を上げ、近々帰郷する母アルカージナ(女優)のために自分の作品を地元のニーナという若い女性を舞台に立たせて披露しようとしている、そこへ母は、愛人のトリゴーリンを連れてやってくる、彼は売れ始めた作家で、当然トレープレフにとってはニーナを奪われかねない宿敵登場な訳だが、元々トリゴーリンの読者でもあったニーナは彼にぞっこん、モスクワ帰還の間際に自分も同行したいと申し出る。そして後半、ニーナのその後の噂などが交わされるが、実は彼女は既に帰郷しており、傷ついた彼女の訪問を受けたトレープレフは、あれこれあって最終的に自殺という結末に至る。かもめはニーナの暗喩で、始め死んだカモメが凶兆として登場するが、この作品が輝きを放っているのはこのニーナの(かもめにイメージを重ねられる)描写だろう。周囲の人物との対比で、そこが浮き上がってくる。
この対比すべき両人物を演じた小野寺ずるだが、真面目に批評するのも無粋と思われそうだが・・ その時点での役の「核」を捉えて凝縮し、カリカチュアして表現する。このカリカチュアの加速具合がレーサー並に激しく、そこが見モノとなっている。しかし役の表現そのものはギアを入れ過ぎて若干ブレが生じ、芝居を作る上では精度が落ちる部分があった。「歌」の挿入はそれ自体が芝居の上ではズレを呼び込んでいるが、そのズレた分を回収して本筋に戻る所がうまく行っていたかどうか。また、泣く場面が長く単調で、「泣く」という行為は表現としてカリカチュアしづらいものだったのか、と想像した。
「飛び道具」としての小野寺氏の活用の是非は、彼女の演技の「加速」のエンタメ性を優先し過ぎて「本体」に収まり切れなかった、「小野寺」流を使うならより微調整が必要であった、という風に思う。
テキストに戻れば、最後にマーシャが初めて「芝居」の台詞を語るが、ニーナの台詞だったように思う。最後に「観察者」であったバーのママ=マーシャ?にニーナの心を代弁させる意図だと解せば、理解できなくもないが特段そうする必要もないように思った。ただ、「かもめ」のお話の抄訳としては、判りやすく見れたし役の心情もよく伝わってきた。がやはり何かが惜しい。
暴れ馬/レモネード/コーキーと共に
ナカゴー
ムーブ町屋・ハイビジョンルーム(東京都)
2016/01/09 (土) ~ 2016/01/12 (火)公演終了
満足度★★★★
ナカゴー的。をまた観にいった。
ナカゴー独自の世界があり、これは少し癖になりかねない、とは思う。黒幕を上下に設置して出入りは上下のみ、というムーブ町屋の毎度のセッティング。五反田団の脱力芝居の妙味と、こちらは「絶叫」とか汗涙鼻水はあるが、通じるものがある。
短編3つだが、アメリカ人の役が配され、竜巻があって銃もあるからアメリカが一応舞台のようだ。奇怪な演技をする人達。台詞を食われると、つい笑っている兄貴がいた。おいおい。でもそれしきでは芝居が壊れない、「お芝居」だという事を重々、重々々々判ってお互い観て、演じている空間で、一体何を中心軸にここは回っているのだろう・・・考えてみるのも面白そうだが今はツボにはまった幾つかの役者の動きを思い出して反芻する事にする。
アマルガム手帖+
リクウズルーム
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/01/08 (金) ~ 2016/01/13 (水)公演終了
満足度★★★★
未開発な感覚(数式の事だが)
この作り手についての事前知識ゼロで観劇。このスタートの差が恐らく開演後間もなくから聞こえる客席の笑いの感覚の落差となり、私としては不親切な作りという事になるのだが、「製作の文脈」を踏まえて観たとしたら腑に落ちるものだろうか、と推察した(あくまで推察だが)。
個々の場面に書かれた台詞は面白い。 演じ手のそれぞれが持つ持ちキャラ、性質を有効活用した面が、舞台の面白さにも繋がってはいるが主体はテキスト、台詞だと感じる。
この言語が難しい、というのは特にブライアリー・ロングが繰り出す長い長い台詞の抽象性・比喩性?が高く、その中に「数式」が出て来る。彼女は母国語訛りの強い日本語なので、「何を言ってるのか」判るように、との意味もあろうが、台詞中の数式は映写される。そこで、この数式を追うことになる。 高校までに学んだ数学を、意外に懐かしく思い出し、含意を汲み取る事もできようかと、目をこらして見るが、判らなかった。数式の中に漢字の単語が入ったりもする。単語と単語を分子と分母にして、別の分数とイコールで結んだり、奇妙な世界に入って行くが、その「数式」が文学的表現として、「数・記号」を全く無視して遊んでいるのか、ある程度論理的に考えられたものなのか、判別が付かない。それで、判読するのはやめてしまった。
言語というものの「論理」の側面は、数学を含めた「法則性と解のある世界」に帰属している。しかし私は自分の言語能力の「論理」の脆弱さを痛感しており、舞台を見ながらそんな痛い気分を思い出したりという事も。
そんな事でこの舞台の「数式」の導入についての評価は、何も出来ない。
ただ、言語とそれを使う身体の「関係」(についての固定観念)が相対化される様相が、ダンサーや西尾氏ほかの起用と実演を通して感じられたので、日常言語がそれとかけ離れた代物によって相対化されている様相として、「数式」の事を受け止めた。
終盤で二人の男女が言葉を交わす場面は美しい。「言語」が、二人の身体(感情)についての情報伝達手段として、実は適さない代物にも関わらず(それしき無いので?)駆使して「心」を探り合い確かめ合う、そんな時間。
・・が実はそれは理想化された「私」で、彼女と対になっている女性(タカハシカナコ)が現実の「私」、という構図だと知ると、何やら多義的である。
優子の夢はいつ開く
パイランド
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2015/12/23 (水) ~ 2015/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
チャーミングな毒気
内田春菊の世界(自分も昔漫画を読んだ)を久々に思い出した。演劇のテキストに置き換わっても内田印の香を放っている。かつ、space雑遊で体感したどの芝居とも違う独特な空間--チラシのイメージを立体化した?--の快い肌触りに浸った。
)冒頭、突如挿入されるミュージカル風の下手ウマな独唱で主人公優子(専業主婦)の住む「小宇宙」が描写され、劇が始まる。古き米国TVホームドラマ風なパッケージがセット(お金持ちの設定)共々提示された感。 鼠の出没の疑いについての言及以後、外部(の人々)の「侵入」に対する無防備さとギリギリの防御の按配がスリリングで、「ある種の侵入(性的な)」を許してもなお主観的には防御戦の延長にあるという内田印ならでは感も一瞥しつつ、始まりは安定した「箱」に見えた家庭(夫と息子がいる)の骨組みも揺らぎ、この「揺らぎ」をも背景としながら、優子が何と対決しているのかよく分からないまま、それでもあたふたと戦う現場に引き込まれている。
最後にはオチがある(伏線もしっかりある)が、ここに収斂させるには解釈の幅が狭まり、人物の持つ存在感に委ねる余地のある演劇では(漫画等と違って)、「落ち切る」必要はない気がした(・・仄めかすだけで暴露しなくていい)。
が、そこまでの狂気じみた展開はかなりの毒気を持っているのに、そうした日常があり得る話に見え、軽やかに見れてしまう、そういう世界が出現するのを見る快感は否めない。
役者は皆が皆芝居が達者であったが、優子を演じた女優の「天然」具合のハマり方は当て書きか?と目を引くものがあった。
演出ペーター・ゲスナー氏の守備範囲の広さ(変幻自在さ?)もインパクト有り。
珈琲法要
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/12/31 (木) ~ 2016/01/06 (水)公演終了
満足度★★★★
元旦早々
大晦日公演の観劇は体力無く、断念。年明けてアゴラへ参ると、閑散としているかと思いきや意外に席は埋まっていた。
本作、この再演で初めて拝見。これまで見た青年団リンク・ホエイの舞台や劇団野の上(作者の山田百次主宰)の舞台とは一つ、趣き、というより深まり具合?の違う芝居になっていて、ほのぼの・のほほん・ほんわか といった雰囲気を思わせる題名(ひーとかほーが入ってるし・・)を引っぺ返すと軽い麦でなく(麦も美味いけど)、ずっしりとお米だった。
三人によるシンプルな芝居。だが語られる事柄の重さ・広がりが、津軽弁の飄けた会話の中から徐々に立ち上がってくる。
最後に近い場面、女の口からぽそりと投げられる台詞は、効く。
ガーデン~空の海、風の国~
オフィス3〇〇
ザ・スズナリ(東京都)
2015/12/16 (水) ~ 2015/12/29 (火)公演終了
満足度★★★★
作り続ける主体
劇団3○○/オフィス3○○はもとより、渡辺えり(子)作品の舞台じたいが初。漸く体験できた。
80年代~小劇場演劇の賑わいの一翼であったとの説明が、納得のできるスズナリ公演の千秋楽観劇、何かと趣き深いものがあだった。 前作「天使猫」を戯曲で読んだが、確信に満ちたト書き、にも関わらず複雑でよく解らず、「これは見なきゃ判らない」と思っていた所、なじみのスズナリが会場という事で、チケットを購入。
駅への道中、自転車のチェーンが外れ途方に暮れたかけたが、強引にペダルを回すとカツーン!と嵌り、開演ギリギリに駆け込める電車に駆け込んだ。
着いてみると外に人が並んでおり(当日券目当てか)、自由席の残席は下手の端の前方、鮨詰めだ。楽日、何と15分押しで開演。だが会場の空気は好意的。客層は意外に若い人が多い(周りは10代後半~20台前半風情)。「渡辺えり」ファンというのが居るんだろうな・・と推察。
舞台+客席はオーソドックスな組み方で、正面奥は目いっぱいタッパを使って二階部分の壁が見え、下部は奥から人の出入りが出来る。左右の壁も何らかの境界として機能し(それを示すようにコンクリートの隙間に生えたような植物が何箇所か植わって照明が当たっている)、三方の壁に囲まれた一つの「ガーデン」が形作られ、空間として程よく詰まった心地よさがある(箱庭的)。 夢か現か、幻か、謎めいて来た時点で、この舞台が人の想念の世界としても成立するような雰囲気が控えめながら仕込まれていると判る。(美術=伊藤雅子・・3○○とは初仕事のようだ)。
舞台の中嶋朋子は三度目、毎度堅実な演技と、謎めくと華やぐ風貌でハマり役。驚きは主宰渡辺氏自身の出張り具合、が、終演後の挨拶によれば今回は氏の還暦記念という事で出番の多いこの作品を選んだのだとか。俳優としてもやり手であった。他の俳優も「出来る」役者たちばかり。「塾生たち」として最後に(千秋楽につき)紹介されていた人達も結構いたが、舞台上で遜色なく(出番は少ないが)動いていた。
渡辺氏が戯曲や演劇について語る時の理屈の勝った印象が、舞台ではどこへやらで、この世界あっての渡辺えりなのだな・・と認識を改める。
お話はファンジー。冒頭の幻想的なシーンから、突如原始人三人組が登場するが、この三人(渡辺含む)のやり取りが秀逸で、氏がよく口にしそうな持論の片鱗も見えて「らしい」。彼らは「進化」を目指しているが、「なぜそうするのか」判らない。人間の歴史の、あるいはこの芝居の「要請」でやっているのだと半分判っている、という人格を演じ(コントに近いが)、要はメタシアター的な存在たる事を表明(狂言回し?)。この原始人らの行動が人間のゴテゴテした感情のモチベーションを持つとすれば、どこからか迷い込んだ中嶋演じる女は逆に無意識裏に何かに操られている雰囲気で存在する。シリアスな語りをここから広げ、一方ダイナミックな展開の大技を素朴で豪胆な原始人界隈が正当化する、という具合に行き来しながら舞台はヒートアップして行く。
細かな物語の進行は覚えていない(まず覚えられないと思う)。何やら事態が逼迫して来ると、何らかの「解」を得ようとあがき、想定がなされ、行動し、邪魔が入り、あれこれあって何らかの解決を見る、となるが、このかんの渡辺、中嶋の二役の転換(早替え)も見ものであるし、全体として流れるような進み方そのものが、「予定された事柄」であるかのような後味にも繋がる。技量を要求する芝居であり、主宰が舞台に当然に求めてきたこれがレベルなのだろうと思われた。
後でアフターイベントやトークのゲスト布陣を見ると、渡辺えりでなければ、という豪華さだったが、千秋楽での渡辺氏の思いの溢るる挨拶は、それをもって替えたいサービス精神の発露であったかと。
書き手・演出家としての渡辺えりは自らの方法論をとうに確立しており、これをこれからもやり続けて行くのだろう・・そんな想像をさせられるが、「現在」に機能する演劇を生み出す素地があると感じさせる溌剌さも同時にあった。
遅れ馳せであるが今後の仕事にも注目したい。
ライン(国境)の向こう【ご来場ありがとうございました!次回は秋!!】
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2015/12/17 (木) ~ 2015/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
異種混合が如実であったが成否は如何。
俳優名をみれば大いに期待される陣容、いつもの劇チョコより売れが早く、焦って先のスケジュールを予測し、予約した。個人的な話やや顰蹙を買う結果になったが、その甲斐あってほしいと期待も高まる。
チョコレートケーキ「らしさ」は題材、脚本にみられたが、舞台上の「世界」は異種のものが同居し、混じり切れない感じが残った。物語の大筋は語り切れているが、劇チョコ単独の公演で遂げられる完成度とは、やや離れてしまった。「それ」を求めていた客には不足感も残っただろうと想像される。
その一因は、脚本にもある。今回は架空の過去(第二次大戦後の日本分断)が描かれていて、やや朝鮮半島のケースが下敷きになっているが、パロディ的要素も含まれている事もあり、喜劇タッチがそこここにある。これが劇チョコらしくなく、バンダ・ラ・コンチャ的、だったのかも知れない。「リアル」の視点からすると、私としては戸田恵子の演技の質が気になった。最大の見せ場ではきっちり見せ、さすがと感心はしたものの、演技の定型を繰り出すニュアンスがあり、地味でもそこに「存在」しているという様子を感じたいところ、声のトーンで壊されてしまう。粋な農家のおばちゃん的キャラを決めてかかって、「中身」の息づかいが(席が遠かったせいも?)残念ながら感じられなかった。深刻な面は深刻に・・客が引こうが良いではないか、というか引かないよ。その程度で。何をコメディっぽく「上げて行こう!」とかやってんの?と、例によって読み過ぎかも知れないが、ちょっと気になったな~というのは否めない。
以上は「劇チョコ本公演なら・・」という期待からの評価。
「物語」はなかなか面白い。(・・と言っても私としてはやはり役者の立ち方と不可分に語れないが) 内戦の波が届かないような奥地にある、「北日本」と「南日本」の境界に近い場所。互いに農民である親戚同士の家族が、それぞれ北と南に国籍上は属しているが実質上、以前と変化なく暮らしている。行き来は自由である。そこに、外部の者が二人だけいる。南と北に属する軍人、「でもしか」兵士というのが居るとすれば彼らのような、といった様子でもある。・・だがこの平穏な村にも「分断」の事実の帰結として、変化が訪れる。対立、関係の変容、そこに兵士達も絡んで、ラストへと流れ込む。 農民たちの土地へのこだわり、素朴さ、単純な家族愛、それを疎ましがりつつ自分自身の人生を探る子供たち、軍人というものの本質、本分。語るべき要素がしっかりこめられている戯曲だ。
惜しいのは、セットがもう一つ平板で、「土」を感じたい所、板の上を歩く音が興ざめになる。それもあってか、農民たちの「百姓」らしい土っぽさがいまいち感じられず、何かもったいなさが残る。 タッパがある劇場で、高さを感じたかったが、昔のセットのように杉の木立か何かを配するとか、緑、茶、あるいは夜の空の群青とか、視覚的な美しさも、農村にはあるという所を見せてほしかった。・・私は贅沢を言いすぎだろうか。
東京裁判 pit北/区域閉館公演
パラドックス定数
pit北/区域(東京都)
2015/12/22 (火) ~ 2015/12/31 (木)公演終了
満足度★★★★
歴史エンタテインメント
完成度の高い「史実に基づく」戯曲であるが、難点も書かせて頂く。(ああ、歴史と言えばこいつの例の話・・その通り)
作者の作品には今年、青年座でやった「外交官」にて初めて触れたが、ぜひとも自劇団での舞台を見たいと思った(青年座俳優の演技の質感が書き手の想定と若干違うと思えたので)。 今回は内容も「外交官」に通じる、十五年戦争を総括する場に立ち会う日本人の会話劇で、こちらの方は史実としてよく知られた「東京裁判」、構図も判り易かった。 そして俳優のテンポの良い演技は予想通り、これでなくては、というハマリ具合に納得。
難点というのは言うまでもなく、登場人物(東京裁判に臨んだ弁護団)5人が、日本側に都合の良い主張ばかり選んで構築し、負の歴史(加害の側面)を見ず、自分を負かした相手に文句を言う事だけやっていたい日本人にとって心地よい、ガッツポーズの出る戯曲として作られている点だ。・・それを言っちゃ実もふたもないのだが、しかしエンタテインメントとしては知らなかった事実も(よく調べたものだ)知れたし、最近睡魔を覚えなかった芝居は少なく、その一つであった。
「うまい」という評価は「良い」内容とセットでなければ意味がない。上に挙げた長所は実のところほめ言葉ではない。なら良い所はなかったのかと言えばさにあらず。
(以下ネタバレで)
ドアを開ければいつも
演劇ユニット「みそじん」
atelier.TORIYOU 東京都中央区築地3-7-2 2F tel:03-3541-6004(東京都)
2015/12/24 (木) ~ 2016/01/12 (火)公演終了
満足度★★★★
通りからそのまま、お二階へどうぞ。
昇りきって右=入口で靴を脱いで廊下を行けば、すぐ受付。家屋がすでに「おうち」の雰囲気で、小さい頃親戚の家にお邪魔した時の、知った間柄でもちょっと遠慮がちに、きゅっと締まる感じがして懐かしくなる。そういう古い木造の内部だから気分はこの「場」のワールドの浸潤を受けている。廊下の行き当たりを右へ。見れば六~八畳に椅子と座椅子が置かれているが、詰め詰めでも二十人位ではないか。真に親類縁者を招いてのお芝居披露の光景で、これは贅沢というのだろうか。演劇界では著名な俳優諸氏の顔も。
四人姉妹のお話は、借景のリアリティにやや及ばないながら(・・何しろ「場」が満点はじいてるので)拮抗するだけの家族ドラマを作れていたのではないだろうか。 難点を言ってしまえば、リアリティという点で、たとえば家族同士なら互いを知りすぎている分、もっと大雑把が許されたり、悲壮な事には決してならないところ、思いを改めて言葉化したり、普段と違う反応が起きるという展開のためには、お互いの何かが掛け違うための事件や、非日常的な状況が舞い込むとかがほしい。後半、「悲壮」の土俵に乗ってからの、互い互いの反応の引き出し合い、ヒートアップの具合はよくぞやりました、と判子を捺せた。ので、そこは惜しい。
・・胸にしまい続けてきたものをついに吐き出さずに社会に出、結局はしまい続ける事になるんだろう・・それが家族という共同体を「成立」させる方途であるとわきまえていたりするし、不条理と混沌の揺籃期をどうにかこうにか経て抜け出せたからこそ、今の自分がある・・ 家族とはそういうものだと割り切っていたりするものだが、それでも人としての権利や平等、正義を求める心は「過去」に触れて叫びを上げる。これを言葉にしてout putし、心にたまった澱をそぎ落とす機会など現実にはそう訪れないことだろう。 この芝居はその意味でHappy Christmas!なドラマだ。何よりも、この「吐き出し」の儀に体当たりした役者の入魂ぶりに、感動を催すのだろう。
廊下を通って靴を履き、階段を下りて築地の通りへ。単なる「場所借り」でなく建物に入った時点から「演出」の守備範囲の中にあり、芝居ともども成功していた。
ただ贅沢を言えば、選択された「場」は時間の経過、ギャップをはらむので、完全なるハッピーエンドというのは(「場」と芝居がリンクしているなら)懐古主義にとどまる、という事に理論上なるし、実際のところ自分の感覚としてもそうだった。よいお話をパッケージとして提示した、という事にとどめない「何か」を、感じたいというのは正直な(贅沢な?)願望だ。
具体的にどこがどうとは言えず、また今回の公演が作り手の主観としてはどうなっているか、読み取りきれていないかも知れないから、ここまでとする。
『うそつき』/『ジョシ』『紙風船』
アマヤドリ
スタジオ空洞(東京都)
2015/12/21 (月) ~ 2015/12/23 (水)公演終了
不足感の理由
「紙風船」と「ジョシ」の二本立て公演は少々寂しいものだった。岸田國士作「紙風船」の演出は、夫婦の喋りの口調や発声の奇抜さ、その組合せを楽しむもので、随分以前参加したワークショップの光景(台詞を極端に感情を変化させながら言う・・とか)を思い出し、あれと本質的にどう違うのかな、、という感じだった。この作品をある解釈に基づいて演出を施したという苦労が感じられず、ただ古典と言われるものをいじって遊んでみたい以上の動機を汲み取れなかった。「遊び」は良いのだが、方法論に思想が無いか、薄い。 ただ、二人の台詞の緩急の付け方や、動きは面白く、そこに何かを読み取るとすれば「現代への置き換え」であったか。。もっとも現代のリアルな二人が居る、というアレンジではなく、先述したように「奇抜」な発声がくり返されるので「置き換え」という意義深い趣向は否定されているが‥その「部分」になり得る瞬間はあった、という事だ。
「ジョシ」は入団したての双子の女の子による、二人のために書き下ろしたような劇。一人の人生のバトンを引き継ぐ者として出現した「もう一人の自分」のような存在とのやり取りが続く。そこには有限なる命をどう意味づけるのか、納得するのか、という問いが含まれているようだが、作者の観念を台詞に起こしたようなもので、具体的な(人間)存在がぶつかり合う、その現象として書かれているとは言い難い。演劇はやはり人間がそこで出会い、そこで化学反応を起こし、つまり身体性の制約の中に実現する点に快楽がある芸術である(と私は思う)、ので、ただ他人のコトバを喋る道具としての身体を観るのでは折角の演劇が甚だ退屈なものに終わってしまう。(台詞を血肉化できていない俳優の拙さもあったが血肉化=身体を潜らせ得る言葉であったかに疑問)
番外公演だからか安く料金設定しているようだが、果たして安いのか・・・まァお金の事は追及しないにしても、出し物としてこれで良いとしているフシが気になった。
作品に戻れば、「紙風船」については、最も取り上げられる事の多い岸田作品を選んだ理由、「ジョシ」については、生身の二人が居る場面での演劇的リアリティを、掘り下げてほしかった。特に後者は戯曲として洗練の余地あり、(本当に書きたい内容だったのなら、の話だが)練り上げてほしい。
書を捨てよ町へ出よう
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/12/05 (土) ~ 2015/12/27 (日)公演終了
満足度★★
作品の中で一つの視点を貫徹する必要性の無い、という事は作り手(この場合藤田氏)にとっても必要のなかっただろう、作品。
原作はドラマでもなく元々は同タイトルの著作(論じる対象も多岐にわたる)、しかも寺山の代名詞にもなり得るタイトルだから、要は作り手が寺山の仕事から何を「自分にとっての問題」として発見し、汲み出すのか、という話になるんだろう。一つの視点に立って数多ある寺山のテキストや仕事からチョイスし構成する事で、今の自分にとっての寺山修司とは。という作品になる。が、今回の舞台で藤田氏は一体何をやろうとしたのか、やりたかったのか、果たして「やりたい」何かを本当に見つけたのか、怪しいと訝ってしまう。 もちろん作者なりの「説明」というものはあるんだろうが。。
如何に抽象的な「アート」に属する作品でも何か全体としての統一感がみられたり、オチが付けられたりという事があるが、今回のにはその「感じ」が無い。何かおいしいコンテンツ(例えば又吉のインタビュー?)を並べて、お茶を濁している、間をつないでいる。 空間構成や多分野の仕事を組み合わせたりするアイデアは色々と持っているんだろう、けれども・・・自分で探してきたものでなく提供された素材を組み立てた作品なのかな、と疑問が湧く。子供の絵みたく、それとしての味わいはあっても、だったら低予算でクレヨンと画用紙でいいじゃん。と思ってしまう。藤田氏に与える玩具、前回の「小指の思い出」で感じたが、高価すぎやしないか?と思う。「大人」達は一体彼にどんなものを期待してるんだろう・・未だよく判らない訳である。 自劇団の作品はそれなりに面白く見れた。もっと「自分」発での舞台世界の構築に専念してはどうか。
(評価の高かったらしい「cocoon」は観ていないのだが、原作を読む限り、ある人々にとっては適度な刺激=「戦争への想像力の喚起」を伴う甘口のメッセージ性を持ちそう‥との印象。その社会派的イメージと相まって過大な評価をしてしまったのではないか・・・と推測。意地悪くみているつもりも、恨みも全くないのだが。)
汚れつちまつた悲しみに…―Nへの手紙―
桜美林大学パフォーミングアーツプログラム<OPAP>
桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)
2015/12/13 (日) ~ 2015/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★
懐かしき日を、激烈に懐かしむ。
学生たちによる、文士(崩れ、或いは卵)達の魂のまるで憑依したような烈しい形象は、拙さの残る身体からどの方向へも絶えず放たれる熱によって、却ってしなやかさを帯び、それらが人物の半端なくぶつかるドラマの全体を「青春」の切なさに染め上げていた。 文学者なら、詩人なら、かくあるべし・・・、そして愛欲。 中原中也と小林秀雄、その共通の女性のエピソードから若き頃の作者が書き上げた「痛い青春」の一コマ。痛く烈しい「青春」の渦中に作者もあったと思わせる筆致の鋭さ、演劇への情熱の形もしのばれる。 水が、食い物の欠片がまき散らされ、役者に体当たりの演技をさせる場面がそこかしこに仕込まれている。それらは恐らくこれに取り組んだ学生にとって、そしてその結果、観客にとっても、「身体」なるものと向き合う時間となった。 思い出すと、血が沸き立つてくる。