演劇研修所第9期生修了公演『嚙みついた娘』 公演情報 新国立劇場演劇研修所「演劇研修所第9期生修了公演『嚙みついた娘』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    噛みついていた。
    1936年初演の作品という。
    最近は新国立主催公演より研修所公演の方が面白いと感じる事が多い。 今回が修了公演との事で、前回の「血の婚礼」で演じた俳優たちを思い出しながら観劇。あと一回は観て送り出したかった・・などと勝手な思いを抱きつつ。 今作は、前回母役で印象に残った岡崎さつきが着物姿で女主人を演じる「冨田家」に、八幡みゆき演じる十歳の少女ステが女中として雇われた日から、「富豪」の家中の虚飾と不実の光景を目にした挙句、「噛みつく」時までを描く。 当家の父母と令息令嬢、その婚約先の両親や新聞記者、二人の女中と書生、ピアノ教師、そしてステを紹介した施設の女性が見事にキャラ分けされ、どの役作りも勘所を外さず芝居のアンサンブルは気持ち良いものがあった。 秀逸は主役ステの形象で、聞けば家は貧しく悲惨だが明るくあっけらかんとした、おぼこ娘を好演(怪演)。
     舞台は大きな正方形の台上にあり、頂点を結んだ線で仕切られた一方が食堂、他方はさらに二分割して娘の居室と女中部屋。回転舞台で転換時はゆっくりと回り、ただし高さはなく背後も見通せる。大振りな仕掛けは栗山演出っぽいが、「家庭内」劇の軽妙さは損なわず、ステの無垢な歩行のイメージに当てたようなピアノ曲(古典だが曲名判らず)と相性もピッタリだ。
     終盤、転換ではなく舞台がゆっくりと回って家の中の様相を見せる。この効果は昨年のペニノ「地獄谷温泉 無明の宿」に等しい。
     戯曲の時代的な限界は所々感じたが、現代の上演に耐える仕上がりに持って行けたと思う。ぐっと引きつけ、身につまされる箇所もあり、何より最後まで目が離せなかった。
     ・・とは言いつつ、難点をネタバレに。

    ネタバレBOX

    戯曲は「金持ちをこき下ろす」左翼的作品と見えなくもなく、むしろ「噛みつく」程度では溜飲を下げきれないものも残り、またステの暴露発言が意図的に見えたり(演技の問題か戯曲の問題か)など、これらは左翼的ドラマ=手段化された芝居、と見えてしまう弊害に繋がるが、紙一重という所もある。
     ステを連れてきた独身女性(キリスト教精神・・ある種の・・を体現)がステに諭した「正直であれ」との言葉が、ステに「暴露」をさせる伏線になっている。
     ステは東北出身の世間知らずな娘だから、大人も油断して弱点を見せてしまっている。それが最後にどんでん返しという事になるが、惜しむらくはこの「暴露」場面の運びがたどたどしい。 これは、言うだけのことを言わせたかった作者の欲の仕業に違いないが、リアルさ(自然さ)より優先させている所が恐らく戯曲としての時代的限界なのだろう。
     女主人は芝居の冒頭、ステを引取った事を自分が顧問をする施設のキリスト教精神に絡めて、美談に仕立てようと新聞記者まで呼んで記事にさせる。 その延長がラスト、一同が集う晩餐の席で「客」としてステが列席し、美談の対象たるステに言葉を引き出そうとする(そうしてまた記事を書かせようとする)、その場面となる。
     女主人はまずステに一般的な事柄についての感想を聞き出し(東京に来た印象など)、ステの答えが既に「望んだ回答」を引き出せない懸念があっておかしくない所、新聞記者の暇乞いを止めてまで、「冨田家についての感想をまだ聞いてない」と、さらにステの発言を求める。ここで、様々なスキャンダルがステの口から飛び出し、場は荒れ、婚約も破棄となる。 お金持ちたちの混乱ぶりをたっぷりと、やりたかった作者の意図が読めるが、現代ではこの金持ち連の描写は少し能天気に過ぎるようにも思われる。
     ここでキリスト教というものを金持ちの道楽とばかりに槍玉に上げているのも、「時代」かも知れない。もっとも、現在も日本のキリスト教界では多数派が保守層だし、保守性をけん引するのは「上流」=経済的地位の高い層のようである。 作品中、「キリスト教も国家も繁栄して」云々と女主人が調子よく宣う場面があり、事実その後国に身を売ったのが日本のキリスト教であった。 作家の鋭い予見性が見える部分だ。

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    2016/01/12 03:12

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