アマルガム手帖+ 公演情報 リクウズルーム「アマルガム手帖+」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    未開発な感覚(数式の事だが)
    この作り手についての事前知識ゼロで観劇。このスタートの差が恐らく開演後間もなくから聞こえる客席の笑いの感覚の落差となり、私としては不親切な作りという事になるのだが、「製作の文脈」を踏まえて観たとしたら腑に落ちるものだろうか、と推察した(あくまで推察だが)。
     個々の場面に書かれた台詞は面白い。 演じ手のそれぞれが持つ持ちキャラ、性質を有効活用した面が、舞台の面白さにも繋がってはいるが主体はテキスト、台詞だと感じる。
     この言語が難しい、というのは特にブライアリー・ロングが繰り出す長い長い台詞の抽象性・比喩性?が高く、その中に「数式」が出て来る。彼女は母国語訛りの強い日本語なので、「何を言ってるのか」判るように、との意味もあろうが、台詞中の数式は映写される。そこで、この数式を追うことになる。 高校までに学んだ数学を、意外に懐かしく思い出し、含意を汲み取る事もできようかと、目をこらして見るが、判らなかった。数式の中に漢字の単語が入ったりもする。単語と単語を分子と分母にして、別の分数とイコールで結んだり、奇妙な世界に入って行くが、その「数式」が文学的表現として、「数・記号」を全く無視して遊んでいるのか、ある程度論理的に考えられたものなのか、判別が付かない。それで、判読するのはやめてしまった。
     言語というものの「論理」の側面は、数学を含めた「法則性と解のある世界」に帰属している。しかし私は自分の言語能力の「論理」の脆弱さを痛感しており、舞台を見ながらそんな痛い気分を思い出したりという事も。
     そんな事でこの舞台の「数式」の導入についての評価は、何も出来ない。
     ただ、言語とそれを使う身体の「関係」(についての固定観念)が相対化される様相が、ダンサーや西尾氏ほかの起用と実演を通して感じられたので、日常言語がそれとかけ離れた代物によって相対化されている様相として、「数式」の事を受け止めた。
     終盤で二人の男女が言葉を交わす場面は美しい。「言語」が、二人の身体(感情)についての情報伝達手段として、実は適さない代物にも関わらず(それしき無いので?)駆使して「心」を探り合い確かめ合う、そんな時間。
     ・・が実はそれは理想化された「私」で、彼女と対になっている女性(タカハシカナコ)が現実の「私」、という構図だと知ると、何やら多義的である。

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    2016/01/09 23:52

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