東京裁判 pit北/区域閉館公演 公演情報 パラドックス定数「東京裁判 pit北/区域閉館公演」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    歴史エンタテインメント
    完成度の高い「史実に基づく」戯曲であるが、難点も書かせて頂く。(ああ、歴史と言えばこいつの例の話・・その通り)
     作者の作品には今年、青年座でやった「外交官」にて初めて触れたが、ぜひとも自劇団での舞台を見たいと思った(青年座俳優の演技の質感が書き手の想定と若干違うと思えたので)。 今回は内容も「外交官」に通じる、十五年戦争を総括する場に立ち会う日本人の会話劇で、こちらの方は史実としてよく知られた「東京裁判」、構図も判り易かった。 そして俳優のテンポの良い演技は予想通り、これでなくては、というハマリ具合に納得。
     難点というのは言うまでもなく、登場人物(東京裁判に臨んだ弁護団)5人が、日本側に都合の良い主張ばかり選んで構築し、負の歴史(加害の側面)を見ず、自分を負かした相手に文句を言う事だけやっていたい日本人にとって心地よい、ガッツポーズの出る戯曲として作られている点だ。・・それを言っちゃ実もふたもないのだが、しかしエンタテインメントとしては知らなかった事実も(よく調べたものだ)知れたし、最近睡魔を覚えなかった芝居は少なく、その一つであった。
     「うまい」という評価は「良い」内容とセットでなければ意味がない。上に挙げた長所は実のところほめ言葉ではない。なら良い所はなかったのかと言えばさにあらず。
     (以下ネタバレで)

    ネタバレBOX

    日本の「戦後」を嘆く向きに一理あるとすれば、それはアイデンティティの問題だ。一度日本人として徹底して自らに負わせられた不当さに抗い、弁明する、それだけの誇りと責任を「自国」に対して持とうとする態度は、正常だと思う。 確かに自国民意識は戦後、希薄だった。実はそれは米国への信頼(実は従属)とともにあり、在日米軍に撤退していただく好機であった冷戦終結後も自ら望むかのように米国追従を正当とする言説にすがり続けているのは、憂うべき現状だ。そうなっている理由は、日本人が何か大事なものを抜かれてしまったからに他ならない、と考えるのも正常だと思う。だから、正常さを取り戻すために敢えて、東京裁判にみられる欺瞞を的としつつ、自らの正当性を主張するのは通過点として「有り」かも、と思う。
     もっとも小林正樹は批判的な視点で既に映画を撮っているし、この種の主張は右からも左からも言われてきた特段新しくもない代物だ。ただ、右からは戦前回帰を望むかのようないささか幼稚な主張、左からは原水爆禁止の視点と米国追従批判という風に、パターン化と言ってはナンだが、ありきたりのスローガンに耳が馴れてしまった感すらあったのではないか。
     そういうものを知らない世代には、改めて史実に触れる機会になっただろう。
     だが、年寄りくさい事を言えば、日本の国内だけで通用する従軍慰安婦否定論や南京大虐殺についての言説が、「相手国批判」とセットでしか発されない事に表われているように、冷静な歴史論議とは別物である。と同じく、東京裁判の不当性に対する憤怒からの言動も、対欧州イシュー(満州へのリットン調査団、国連脱退~対米戦争)が深刻化する以前の事実(アジア侵略・収奪)に一切触れないことに特徴がある。
     戦争で行われた殺人は通常、殺人罪には問われない・・、とは言っても、南京事件の起きた対中国進出を日本では「事変」と呼び、宣戦布告を伴わない不当な戦争、との非難をかわしていた、にもかかわらず実際には「民間人」を死なせている。
     劇中、東京裁判の弁護人の主張でパリ不戦条約の規定(=民間人殺害は戦争犯罪)にも言及されていたし、それは米国の原爆投下が焦点化した所で出されているのだが、日本軍は原爆よりうんと以前に民間人を殺しまくっていた。(「まくっていた」、という表現が事実に近い・・と私は知り得た事実から判断している。)
     そんな事で、今回の芝居の「東京裁判」が描いた史実とその視点をそのまま受け入れてしまっては困る、という思いはある、ものの、実に面白く見れる作品であることは確かで、これだけの筆力があれば、日本にとって今は「不都合な真実」とされている事実も織り込んで、骨太な作品が書けるのではないか・・ 主義主張の違い?と言われれば黙るしかないが、正直な所である。

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    2015/12/31 04:36

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