窓
ハイリンド
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2016/08/23 (火) ~ 2016/08/31 (水)公演終了
満足度★★★★
早船+ハイリンド 1シチュエーション=職場。
女優枝元萌をしばしば目にしているので一度は観た気でいてhylindだが、初だった。舞台を見ると「固有名詞」としての劇団の個性があり、枝元の持ちキャラ全開はホームグラウンドの証か・・とみえた。
作者・早船氏の劇団サスペンデッズは、戯曲と俳優のレベルの高い劇団を見出す喜びをくれた一つだ。演劇界の裾野へと劇団渉猟を始めた、数年前の事。
今回は一つの場(あるスポーツ用品の会社の中で狭い)で展開する登場人物5人によるストレートプレイで、時系列にドラマが進行し、歌とか踊りや回想もなく、全て会話で話が展開する。今時珍しいかも知れない・・とふと思ったが、その意味で素朴な、というか普通の、役者による、役者のための芝居。
達者な役者揃いだったが、hylindの2名が終盤、人物の本音に触るやりとりを畳みかけて芝居を「深み」に誘う、この力技が目を引いた。
終わってみればウェルメイドなコメディテイストの芝居だったが、役者が役を気持ちよく演じる姿は気持ちがいい。
(1h30m)
KYOKAI 心の38度線
劇団 東京芸術座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2016/08/18 (木) ~ 2016/08/22 (月)公演終了
満足度★★★★
境界、教会、そして、、
自身なら「巨魁」と言ったかも・・ このドラマのモデルとなった崔昌華という在日一世(故人)は、その足跡や彼に関する証言をみるに、シンプルで力強い権利意識、凡人の五歩先を行く背中、が思い浮かぶ。彼に前を横切られた者は、風に頬を打たれ、その風に「君はどう?」と言われたように思うのではないか。
氏の娘であるピアニスト崔善愛が音楽監修、生演奏もあり。初日挨拶では、この舞台作品を自分のものとして愛しているようであった。
氏の「運動」に捧げる人生の発端として、寸又峡の旅館に立てこもった金喜老事件が取り上げられ、これが前半の軸。その後の指紋押捺拒否や、娘の再入国不許可事件などは芝居では端折られていた。
後半の軸である訴訟(NHK相手の名前裁判)では明快な主張を展開する。しかし史実としてはこの裁判は敗訴した。
山谷典子の本は、少々台詞が硬かったり、逆に柔らかでなくて良いと感じる部分もあり、実際に俳優が本読みを始めた段階でも稽古に参加し、推敲し直すという作業を一工程設けても良かったのではないか。ただし以前酷評した本に比べ、一本筋の通った戯曲になっていると感じた。
舞台装置は「考え」の跡が見えたがもう一つでなかったか・・。リアルでなく象徴的装置だが、にしては具象に見えてしまう階段三つ、想像力の働く余地の面、また機能面でも、違う形を考えたい・・という欲求にかられた。(もっとも専門外なのでこの戯曲にこの装置あり、やも知れないが・・)
俳優が一番大変そうで、細部に宿る神をないがしろにしてしまった・・と見える場面も幾つか。
いずれも初日を見ての感想。「作り」の面では1ステージごと、には無理でも楽日にはどうなっているか、観たいが観れない。
この作品を数ステージで終えるのは惜しい。題材に鑑み、より熟成させ再演を希望である。
7 -2016 ver.-
studio salt
神奈川県立青少年センター(神奈川県)
2016/08/17 (水) ~ 2016/08/21 (日)公演終了
満足度★★★
ストレートプレイ+α
芝居塾、主に若者の参加で成る「参加型」の企画では、「完成」が形として見えるダンスや歌が中心にあるのが熱が入りやすい。今回はストレートプレイで「演技」の課題に若者らは挑戦した格好だが、「音楽」としては彼らはオープニングと芝居の途中、そしてラストにストンプ風の「演奏」をやる。掃除道具などの物を集団で鳴らす「音」は、この芝居が犬猫の殺処分を行う保健所(今は別の呼称だろうけど)を舞台に、(対動物に限らず)人間のエゴ、身勝手さを声を荒げず描出する内容なのに呼応して、言葉にならない心情を「音」に乗せ、力強かった。
問題の、若者たちだが、拙さは当然見え隠れするが、巧まず滲み出るキャラや表現がその分をカバーして余りある、かどうかは別にして、このストレートプレイに貢献していた。
80分。
イヌの日
ゴーチ・ブラザーズ
ザ・スズナリ(東京都)
2016/08/10 (水) ~ 2016/08/21 (日)公演終了
満足度★★★★
穴ぐらで見る夢
やっぱしスズナリだな・・。三つの場面の大部分を占める薄暗い地下空間として見せる舞台空間の、猥雑で、陰影が深く奥行き感のある美術の出来は、スズナリならではと思う。
風変わりな設定(をもたらしている奇異なるストーリー)、変人揃いの登場人物。
リアルに想像すれば身震いしそうな「じめじめ」な場所での、あっけらかんと突き抜けた(というかネジが一本抜けた)奴らと、外で地べたに近い生活をしている世俗代表が衝突し、事の成り行きがぐにゃり・・と変調を来す感触が良い。
空間と言い、人物の造形(役作り)と言い、濃厚でうまい味に仕上がった芝居と感じた。
長塚圭史の作品は、ストレートプレイでは初。
庚申待の夜に
風雷紡
小劇場 楽園(東京都)
2016/08/10 (水) ~ 2016/08/14 (日)公演終了
満足度★★★★
谷中村の夜は更けて
初見の劇団で若手らしい様子だが、谷中村とは・・。
芝居は「楽園」の狭い空間にフィットする、細かな伏線が役者のしぐさに手際よく放たれる、目立ての利いた芝居だった。田中正造の没後間もなく、立ち退きに応じざるを得なくなった村人が、離散の前夜、古くからの風習「庚申待ち」で夜を徹するその一夜の物語。「村」社会らしいどろどろした内輪騒ぎが終盤に加速して暴露合戦の様相だが、その背後には「鉱毒」があり、それゆえの差別があり貧困がある、その八方塞がりの様は「とどまるも地獄、出るも地獄」の、放射能毒におかされた福島の現状に重なった。
ただ、史実を扱った、テーマ性のある芝居をやるならもっと田中正造の実際の足跡にも言及され、「今」と地続きの「歴史」をそこに感じたかった。もっともそうなるとこの芝居の面白みは半減するのかも知れないが。
暗鬱な雰囲気、「楽園」の使い方もうまく、大柱も生かした演出を施していた。里芋の煮っ転がしが皿に一個ずつ割り当てられ、お茶で食す場面がよい。貧しさの中の祝祭感が活写されていた。
いま、ここにある武器
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2016/08/13 (土) ~ 2016/08/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
風姿花伝プロデュース第三弾、プレビュー公演を観劇。
休憩を挟み、後半長めの4人芝居。2幕目は尻の痛みを覚悟して臨んだが、尻を気にする余裕もなく、芝居に飲み込まれた。
千葉哲也演出・出演。最初はなじみづらい「翻訳劇」の劇世界と感じたが、最終的には頷かされた。
小川絵梨子の翻訳について、評価する素養はないが「翻訳調」ではなかったし、こなれた日本語の台詞になっていたと思う。
心理的圧力=拷問・・・ 言葉が相手に与えるダメージ、に関する研究が行き着く先とは。。人間心理を研究し実践し尽くした者の前で崩れ落ちる生身の人間を見ながら、イラク戦争時に使用されたグロテスクな最新兵器を思い出した。それらの前に、人間は当然ながら脆弱な存在だが、「武器」をつぶさに眺めると、その武器が人をどういう風に殺す武器なのか、作る者の「思想」と言えば大袈裟だが、それがあるように思える。本編のテーマとはズレるが、そんな事を考えた。考える余白をしっかり残す作品。深い。
ビニールの城
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2016/08/06 (土) ~ 2016/08/29 (月)公演終了
満足度★★★★
みた。
蜷川死去がなければこれほどラッシュにならなかったのでは。森田剛主演というのも効いたらしいがよくは知らない。わが梁山泊の金守珍が演出と聴いて俄然、観劇候補上位に。演目も第七病棟への書き下ろし戯曲という事で気になっていた。
と、うかうかしている内にチケットは今思えば恐らく即完売だったろう・・というのも立見席発売日、開始後1時間位(だったと思う)に電話してみれば既に売止めのアナウンス。当日キャンセル待ちは厳しいだろうと止む無く二次市場に手を出し、比較的価格の低い立見席を見つけ観劇をきめこんだ。
そんなメジャーな舞台、俳優陣の内、森田剛はさすがに念頭にあったが荒川良々、六平直政、金守珍は登場と同時に判別できた。が、宮沢りえが判らず。つい2ヶ月前に観た芝居とはうって変わった役柄、七変化の女優魂に観劇後、感服した。他に女優は江口のり子のみ。(コロス的役として梁山泊の三浦・渡会は出ていたが) 宮沢がこの戯曲の情感を支える際どい女性の役でもって舞台を背負っていた。
森田剛の役どころ、自称人形使い、己が捨てたゆうちゃんという名の人形を探している。人形との双方向コミュニケーションで完結する青年、精神的引き籠り(外出はする)の前に宮沢演じる女性が立ちはだかり、三つ巴で連なるコミュニケーションの形を提案する・・というより露骨に言い寄る。ただしそこは唐十郎、単なる横恋慕でなく、彼女の背後に何かあると仄めかす。唐十郎の芝居はどれを取っても男が、女が(こちらが多いかも)、相手に言い寄る話が多いが、言い寄り方が独特だ。自分の物語の土俵に相手を引き込もうとする、その必然性を自分は強く強く感じているのだ、なぜなら・・・と説得し続けるのだ。「ビニールの城」でも男はゆうちゃんを探す理由である所の自分の物語を語り、女は女でその男に言い寄る理由である所の物語を、こちらは小出しに、語る。それだけに神秘性は増して観客はこの女の正体の謎解きを待ちわび始める。
唐十郎の劇世界が、小劇場orテント芝居の新宿梁山泊流を大舞台に適用したという体で立ち上っていたが、小劇場規模に収まらず、しかし小劇場的に濃密な「アトモスフィア」を作り出してもいた、と思う。
唐戯曲特有の台詞の連想ゲーム、つまりコトバ頼みのドラマ展開が、「おちゃらけ」に堕さず、主人公の「憂い」の目線に観客をしっかり繋ぎとめて進み、終盤に向けて見せ場を連打した末のラストは、イメージの高みに観客を押し上げる。 唐といえばラストの「仕掛け」を否が応にも期待させ、実際その通りであったが、もう一押し、「荒らしてほしかった」・・とは無理な願望か。
演出金守珍が一息つくごとに繰り出す趣向は今回の舞台にも随所に見られた。 映画「夜を賭けて」に十分才能を見いだせる演出家・金守珍の仕事のさらなる発展形を将来、どんな形で目にする事ができるか・・・楽しみになる舞台ではあった。
虚構の劇団 第12回公演「天使は瞳を閉じて」
虚構の劇団
座・高円寺1(東京都)
2016/08/05 (金) ~ 2016/08/14 (日)公演終了
満足度★★★★
虚構の劇団2度目。若い。
前回は鐘下辰男脚本・千葉哲也演出という番外編?だったから実質今回が初の虚構・本公演観劇(自主企画公演は二度ばかり観た)だ。
ノリの若さ、撥ね方が少し前時代風に感じるのは、己のひねた人格のせいか。 正面向いて面白さ(役者の魅力=観客への浸透力)アピール!な場面満載で、俳優アピール公演か・・とふと思う。
冒頭は、原発事故で放射能に汚染された被災地を訪れた人たちが「実験台」となる。透明な壁で囲われた(おそらく天井も、なのでSFだ)シェルターと化したこの区域は、その後外界で起こった悲惨な顛末によって、世界で唯一人間の住む場所となった。そうとも知らず、エリアからの脱出をあきらめた彼らは「街を作ろう」と、目標を一転、その「街」での物語が芝居の大半、展開する。
「作られた街」での出来事だから、奇妙な設定も、登場人物らが特殊な職業(テレビプロデューサーとか)に就いててもさほど違和感なく、その彼が「らしからぬ」言動をとっても、大丈夫。中心的な夫婦を取り巻く人脈たちの人間模様が、時にシリアスに描かれるかと思えばすぐそれは「はいカット!どこからがドラマでどこからがドキュメントか判らないまったく新しい形態のドラマ」とか説明をつけ、その後も同じパターンが何度か。終盤、「ドラマ収録」に戻らない夫婦の深刻な局面を迎えたりするが、この「街」での劇じたいがどこから真実でどこから虚構だか判らない作りになっているので、厳密に物語を追う必要性を感じさせず、そもそもよく判らない。
一定間隔で挿入される笑える場面(ショータイムなどの番組)で観劇者をラストまで引っ張る戦法だ。
この戯曲が、比較的愛されて再演を6度重ねてきたという、その大元が私にはよく判らなかった。時代が何を求めていたのか、その残り香がこの舞台にはあって、それを味わいに客はきっと観にくるのだろうと考えた。その核心部分が、興味の対象ではある。
ラストのナレーションによるシリアス落ちが、劇中のドラマとどうリンクするのか・・・私にはここにも相当飛躍が感じられる。
想像するに・・、深刻な問題をそれとして語ることや、語る態度じたいが忌避すべきもので、忌避する事の正当性が80年代、90年代当時にはあった、のだろう。この「アンチ」がある種軽薄なノリに「芯」を与え、確信をもって馬鹿をやる役者を動かし、「虚構」の中に少しだけ真実味をまぶすのがせいぜいな「劇的」の形を作らせているのだ、と解釈してみた。
冒頭のくだりで、俳優の演技にもっと深みを求めたくなったが、全体に対する不足感の原因は、そのあたりか。
今年劇作家協会会長となった鴻上尚史氏の「劇作」、以前読んだものはシリアスな問題をエンタメに置換した「楽しめる」戯曲だったが、今回のは少し高度だったのではないか。
美的に一定レベル以上の役者による、今回の芝居。役者としての「出世」を夢見ることのある程度許される層が、そうした観客の応援も想定しながら大衆演劇よろしく披露している(鴻上氏自身がそうした業界と出入りしている関係で)公演で、でもそれだけじゃないよ、それなりにしっかり演劇やってますよ、そう胸を張れる部分もある、その両サイドの境界を歩んでいる劇団の公演、と理解すれば一番よいのかも知れない(そういう位置づけkの劇団は他にもありそう)。
・・ほとんど酷評、になっているかも知れないが、特に嫌な印象を持ったわけではない。ただ演劇の質として私の期待を下回った理由について、(浅いかもしれない)考察をしてみた。
他の気に入らない部分が原因かも。音響の「こけ脅し」効果は嫌いである。ショータイムなどの場面転換で、音がガッ!と鳴る。若者にはライブ感覚で効果ありかも知れないが・・だが基本ライブのノリの芝居じゃない、と思う。
ストレートプレイの誇りをもって、脅しで勝負しないでほしい・・などと心で呟いていた。許される最大音量を出し、台詞直前でグッと落とす、この落とすのは音響のセオリーだが、「落差」を最大化することで悦に入ってるだけなんじゃない?と、オペ(だけを責めるのは酷かもしれないが)の姿を思い浮かべたり。申し訳ないが、万事こういう若さ勝負な感性に「忌避」感情が発してしまったかも知れない。
最後は自省となった。
夏に死す
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2016/08/02 (火) ~ 2016/08/14 (日)公演終了
満足度★★★★
動き軋む桟敷童子
桟敷童子の芝居は作者本人がいつか漏らした如く、幾つかのパターンのローテーション、そう言われて否定できない「似たり寄ったり」感はある。これを楽しみにお客もやって来る。だがまったく同じ舞台では無く、新作には何らかの新趣向が必ず盛り込まれている。ようは、「予測の裏切り度」が勝負なのは事実だ。
その点、劇団歴のどの時点から見始めたかで観客にとっての新鮮度は異なるだろうし、神話的なのが好みか、リアルな方が好みか、などもあるだろう。
しかし同じ事を繰り返して行くだけ・・という作者(東氏)の謙遜な述懐とは別に、決して「同じ事」は(再演を除いて)やらない創作の作業は、新たな舞台世界を志向することを宿命づけられている訳で、「体夢」「エトランゼ」そして「夏に死す」と続く桟敷童子の<試み>は劇団の「形」をこねなおし、軋ませるものに(結果的に)なっている、と思う。
今作の試みに、拍手を送りたい。現在を舞台にしたストレートプレイが役者に要求する「リアル」は、従来の、一定のテンションと同質な思いを共有し、集団で作る台詞のリズムが快感でもあった芝居とは少し違う風を舞台に吹かせる。言わば役者を裸にする。その分、役者本人の輪郭が、特徴が、そして魅力も見えてくる。そういう面がある。
集団芝居でも重要な役を担い、繊細な演技が光っていた池下氏の退団はそれだけに惜しいが、、とは言いつつも、桟敷童子の風合いがそぎ落とされた訳ではなく、ストレートプレイだけれど桟敷童子風味がしっかり残る、そのバランスの具合は過渡的なのか、一つのモデルになるのか、微妙だ。
人情にほだされる感動をしっかり作り出し、観客の共感をもぎ取る力は、定型的だが発揮されている。 問題は今作の場合、基本リアルな現代劇であり、オチの部分でありきたりな「定型」では物足りなくなるという点だ(これは以前の芝居にも感じていた事だが)。
父は戻って行く。そして、死は宿命として訪れる。 一夏の出来事(波乱)の後、人の世の「定型」に戻って行く、というオチは、この夏の「出来事」じたいが持つ問題の困難さ、複雑さゆえに、どうもふさわしくないのだ。
「現在」というこの時間、つまり現実の世界に、解決しないものとして存在している問題群は、非日常が日常を取り戻す事で解決した、という型にはまりにくい。
これというのも「現在」のリアルに深く繋がる芝居になったからこそ、結末での「扱い」に不満が残ったという事であり、問題を「撫でた」程度の(人情物語に終始した他の)芝居とははっきり一線を画するものだった、と私は感じている。従って落とし所に難しさはあったが全体としてこの仕事に、拍手を送りたいと、強く思う。
麦とクシャミ
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/08/06 (土) ~ 2016/08/14 (日)公演終了
満足度★★★★
火山と戦争
断続的に溶岩が噴き出し流れるような噴火騒ぎが、大東亜戦争末期に起きていたんだと。
「兵隊さんの士気にかかわるので(噴火の事は)口外せぬよう」、などと、よく聞くようで聞かなかったコトバに、我が鼓膜も新鮮がっていた。
北海道で起きた実話だと、パンフで知ったが、実話ではなくても芝居は示唆的で趣き深いものだった。
方言が醸す庶民のおとぼけぶり、純朴ぶり、透けて見える打算もまた愛らしい脱力な風合いは、百姓が持つ「大らかさ」という名の粘り強さ。そこに時折、床下に隠した刀甲冑の鈍い硬質の光も見せる。そんな芝居。
アゴラ劇場という劇場は、さほど使い勝手のよい劇場ではないと思う。ホエイはアゴラの空間をがっちり味方につけ、劇世界と一体化していた。
史実の「重さ」を強調せず、脱力味を基調に、ある時代のある場所の一こまを(芝居としての)風景画に収め得た作品。 『珈琲法要』に通じる味わい。 演出上も脱力味を際立たせた、工夫というか何というか、予算上の都合で・・とでも説明されそうな場面あり。
山田百次戯曲の今後も楽しみになる。
アイ ワズ ライト
エムキチビート
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2016/08/03 (水) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★★
初、M吉BヰT
名を知ってより2年、いや3年か・・ようやく観劇。お値段がそこそこ良い(高値)。て事は、信者を沢山囲ってるな・・と詮索。きっと正しい。
・・・品の良い端麗な奏楽者3人(ピアノと弦2名)が下手舞台下に照明でほのかに浮かぶ。暗闇。破壊的な地震音。声。背後の出入り口から、助けに来た誰か。声の主は相手を知った風。「やっぱり・・助けに来てくれた・・」、戸惑いつつ返事をする(人違いだが合わせてしまう)その男。この後、幾つかの会話。そして壮麗なオープニング楽曲が奏でられ、マッピングのような映像が目くらましに震える中、「物語」の舞台となる、白亜っぽい装置が入って来る。スタイリッシュ。憂いを帯びた楽曲が、余韻を残すリフレインでは和音の複雑さが深化、「物語世界」は暗く沈下・・のイメージも。そうして始まった芝居はピーターパンやフック船長の登場する空想世界と、「うんと過去」の現実世界(半ば幻想が侵食していなくもない)、現在に繋がる「少し過去」の現実世界、そして「現在」の四つを行き来する。そうして各「世界」の関係性が次第に明らかになる。
震災のイメージと、放射能ゆえに「自殺名所」ともなっているらしいある施設、いじめ・・・暗示するものは暗いが、その対極にある空想世界は闊達でエネルギッシュな冒険譚の世界、この対照がバランスとなっている。というか最初は明るい一色なのが徐々に「暗さ」が侵食して来る。その変移の仕方は悪くなかった。
自殺名所の施設は「少し過去」の舞台で、実は障害者(作者は精神病院ともイメージを重ねているらしい)の収容施設で、今は廃墟。その施設だった当時にも遡ったり、場面の時間は「物語の説明」に即して、自由に移り変わる。
時系列でなく、時間を行き来しながら少しずつ真相をバラして行く「謎解き」に付き合うタイプの芝居では、時系列に並べてみて一本筋の通った物語であるかどうか、私にとっては大事だが、芝居は(推理)小説のように読み返したりできない。ノリも重要である。一つ、一つと謎解きが進められ、また空想世界でも新たな進展がある。現実からの侵食を受けてダークな様相を呈するのだ。
ピーターパン症候群、と「症候群」が付いた方のピーターパンのイメージが、彼自身の空想の産物である世界で急速に影のように広がる様も、墨汁が黒色を一気呵成に浸透させるかのようでハッとする。
すっきりしない部分が残るのは、(後で考えると分かるが)観客は主人公マシロを盲目の被害者と見ていたが、じつは被害者の死を認められず、その人格を借りて自分が演じるようになったハイバ(元親友、加害者・・というよりサバイバルギルティ)だと分かる。そして、ハイバを名乗っていた者は元「いじめグループ」の一員で、彼もまた事件に苦しみ、より激しく苦しんでいるハイバを見守り続けている人、だと分かる。
さてマシロは盲目ゆえに突け込まれていじめにあい、かつ、盲目だという事で障害者施設に入れられる(母親から見放される)。
ところが施設に入れられるのは学校を卒業した後で、マシロはいじめ自殺を学校時代に果たしてしまったので、「その後のマシロ」は実は存在しないはずなのだが、「時」を横断して構成された戯曲は、その事を問題にしなかった、あるいは後に引けなかった、らしい。
これは意外と重要だと考える向きと、さほどでないと考える向きとあるだろう。私の好きな大人計画「キレイ」は、時を縦横自在に飛び回るが、話は矛盾しまくっている。
物語、と仮に言えるとする「構造」を借りて、言わばそれを幹として、咲かせる花が美しいものであれば、文句は無いわけである。
私としては震災の事実と「いじめ」・・福島の現実は日本国からのネグレクト、いじめに他ならない・・、復興や解決には程遠い現実が、芝居に流れる暗いトーンに合致し、私はそこに真摯な姿勢を感じた。自らの持つ「影響力」をどう使うか・・という問題について、考えた観劇であった。
ハイバ(になりきる)役をやった末原拓馬が最後列近くから見ても手足長の痩身小顔、優声の、言わば少女漫画から出てきたような素材。彼でなければ自省しながら泣く男は様にならなかったかも知れない。
照明、音響、音楽とスタッフの貢献度も高い。
「ある盗聴」 /「復讐と美味しい料理は後を引く」
劇団競泳水着
スタジオ空洞(東京都)
2016/07/28 (木) ~ 2016/08/09 (火)公演終了
満足度★★★★
リーディングのための戯曲
・・として書いたものだという。ラジオドラマというジャンルがあり、聴き手の想像力を当てにすれば無理な設定も可能になる。例えば人物の容姿の設定も、読み手の容姿とリンクさせる必要はない、どころか、少しリンクしていたりすると笑いがもらえたりする。良い事ずくめかと言えば、やはり「読む」行為に終始する役者を見るのでは物足りない、という向きもあるだろう。
今回観た2作は、簡潔にして、飽きさせない展開で観客を引きつけた。展開が命だ。
「復讐・・」は美女三人が三様の魅力を発揮し、読了して礼を終えた立ち姿も美的に様になっており、リーディングの演出の一環かと思われる麗しさ(恐らく三人の組み合わせと、作品中でのキャラの振り分けが良い)。 中学時代の酷薄ないじめの対象となった主人公と、それを主導した張本人が、社会に出て共通の「親友」となったもう一人の結婚話によって再会する事になる。復讐心の行方は・・・。それはともかく、三人の関係のキーとなっており、かつ「復讐」のストーリーを潤色する背景(無自覚の内に)となっているその女性との関係の内実が、最後に一瞬垣間見える。媒介でしかなかった存在が、二人の関係(怨恨であれそこには濃い関係性がある)を相対化するものとして、初めて見え、でもってドラマは終わる。こういう急展開のオチも、リーディングならではと言える。
「ある盗聴」は主人公の女性が夫の死の現場に居る、という非日常の状況から始まり、以降もつづく「非日常的時間」の終息までの物語。「盗聴器」と郵便によるコミュニケーションを受け入れた女は、秘密を共有されてしまったその「相手」を信頼し、そこにある関係が育って行く。その途上で夫の弟との関係もあるがそれも「盗聴」ありき。女は「相手」の指示されるままに弟と関係する、というあたりで相当な異常領域に踏み込んだ事になるが、観客はその状況も受け入れ、さらにその先へと誘導される。
謎解きは、「相手」の物語が語られる段で遂げられるが、ただ受動的にみえた女が実は「相手」に変化をもたらしていた顛末がそこにはあって、関係の可能性のようなメッセージが、「オチ」となっている。
リーディングの演出も様々あるが、二つの作品は「読むだけ」の形式にふさわしい、またそのために書かれたと分かる作品。
夢叶えるとか恥ずかし過ぎる
歪[ibitsu]
梅ヶ丘BOX(東京都)
2016/08/05 (金) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★★
等身大
三女優への「聞き取り」を土台に土田英生が書き下ろした作品の、改訂版という。
単純に面白かった。毎年オファーを受ける長野のとある公共施設のイベントに乗り込んだが、他者である男性二人(マネージャーと、オファー側のセクハラ担当者)との関係も影響し、新曲披露を控えた割りに行き詰まり感、反りの合わなさ感が開幕からダダ漏れ。
やや露悪的な(関係の険悪さを露骨に見せる)会話ながら、役と役者のギャップの無さゆえ、つまりリアルさゆえ「その先」をつい追っている。
何と言っても、二十七、八まで「アイドル」の夢を諦めず続けてきたという、濃い年輪が、役者自身の風情とも重なって滲む。
彼女らの「過去」へ思いを及ばせたなら、感動は約束である。
梅が丘BOXの幅の狭いステージ・・芝居中でも理由をつけて椅子やテーブルを動かしたりする・・が、舞台袖に作られた仮楽屋の不便さをそのまま表現して秀逸だった。
ユニットとして「次回作」をどのように打ち出すのか知らないが、続けて欲しい。(同アイドルグループ・シリーズとか・・安易だろうか)
狙撃兵
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2016/07/23 (土) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★★
ブラックコメディらしい。戯曲のうまさ。料理の難しさ。
こういう戯曲なのだな、と最後には分かる。その結果から逆算して、俳優の演技、演出はどういう形が良かったのか・・という反芻を始めている自分がいた。
俳優は、ベテランに軍配である。若手は芝居を「わかりにくく」した面が、どうしてもあった。父役は、政治家に文句を垂れるおいしい役柄でもあったが、イギリスのとある教会堂で、教会員への辛辣な皮肉をこめた演説をぶつ場面、溜飲を下げた。
あちらの芝居(アメリカとか、イギリスとか。)となると、何となくこんなイメージという刷り込みが恐らく海外ドラマ(セックスインザシティとか?)の影響であるのだろう、台詞に妙な節ができる。子供ができた事でいったん離婚したのにヨリを戻した妻が、次第にぶっ飛んだ行動へ走り、最後にはまともな感じになったりする、振れ幅の大きな役だったが、厳しいものがあった。
「狙撃」の手腕ゆえに、失業者から多くのオファーをもらう身になった夫をより多く稼がせるため、たまたま互いを殺したいと依頼してきた双方に、「相手はもっと出すと言ってる」と価格競争をさせる、そしていざ、狙撃の場に立ち会うことになった最後には、「私たち、何をやってるんだろう・・」といきなり自省モードになる。でもって、シリアスドラマ=反戦・反暴力メッセージをにじませるという無理無理な(そう処理してしまえばいかにもチープな)流れがある。
この「ブラック」をどう演出、処理するかは難しい課題だった、と思う。戯曲の面白さは伝わるし、途中も面白いので、大きな不満は残さないかもしれないが。。
この妻の取る、間もなく子を産もうとしている母(予定)としての行動が、反省する対象になるのか、なるとすればなぜか、何を想起させることで成立するのか・・そのあたりが整理され、女優は表現すべきだったのだろう。
一方若い夫のほうは、復員兵で仕事を半年探しても見つからず、就職相談所を訪れて相談員と会話をする、それが芝居の冒頭だが、軍隊では狙撃の腕に覚えがあり、相談員は妻(政治家・選挙前)の事務所での仕事をあっせんするが、やがて「戦地」での高報酬な仕事を紹介され、お払い箱になる。と同時に、彼の「腕」を見込まれて「狙撃」の仕事が舞い込んで来る。
本来戦争でしか活用できない「狙撃術」を、「殺し屋」という平時でもやれる仕事で活用する、という展開は「ブラック」だが、ブラック度をもっと効果的に印象付けられなかったか。仕事が見つからない問題は深刻だが、あっけらかんとした性格を冒頭で発揮して客から笑いをとってもいる。あれは「狙撃術」という自信から来ているものとも解釈でき、就職難の犠牲者とはイメージ的になりにくくなった。
父は脳腫瘍を患い、健忘がひどくなり、息子の狙撃術を見込んで自分を殺してくれ、と真剣に依頼されたりする。「死期」を選ぶ権利についての議論は、イギリスでは保守的な教会勢力が意識されているのかどうか分らないが、「狙撃術」が人の欲望に基づく需要に応える仕事、というネガティブな側面から、肯定的な側面が垣間見えてくる、という奇妙な瞬間も、演出によってはあり得たかも知れないが、この芝居ではそこには手が届かなかった。
息子を再び戦地に赴かせるあっ旋をした政治家に、父は談判しに行く。ここでの火花散るやり取りも、教会での演説に並んで、痛快だ。このあたりが作家の本領なのだろう。
夫と妻、相談員とその妻(政治家)、父とその妻、3組の夫婦がそれぞれの世代の典型的なモデルを体現させてもいるようで、人物の数も間違えようなく分かりやすい。・・日本の世情に即して書かれた、こういう作品を見たい欲求がもたげる。
insider
風琴工房
Half Moon Hall(東京都)
2016/07/21 (木) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
秀作。
前作(今回が続編である所の第一作)「Hedge(ヘッジ)」では、「説明」の段が分りよいとは言えず、ドラマとしては企業再生の物語、皆が良い人、win-win的お話に収まったことがやや不満だった。(そうならない原因は構造的な問題にあると考えられるので、そこにしっかり言及してほしい、と思った。ないものねだりながら)
今作は非常に分かりやすく、査察を受ける側とやる側の駆け引き、対立構図を描きながら、経済の動きや、役所的態度(これも構造の一端)への理解を、一歩、二歩進める材料をイイ感じで提供していたと感じた。
見事に流れるような台本と、硬派色で染まったドラマとはいえ、微妙なニュアンスを表現した俳優にも感服。主役級の者がカーテンコールの最後に挨拶をする、その者が誰か、という人選がこの芝居では微妙なところだが、その者が挨拶をしたことで、作者の思いも知った気がした。
新自由主義がいかにケッタイな代物か・・ 企業のモチベーションは金儲けでなく何を作るか、どんなサービスを提供するかにあるべき(ひいては投資家というものは如何に儲かるかでなく、どんな産業、事業を育てるのかにモチベーションを置くべきだ)という、当たり前な姿を、思い起こさせるドラマになっている。
査察官4人と、一人ずつ呼ばれる企業側各人との火花散るようなやり取りも、うまい。
ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2016/07/07 (木) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
「キレイ」を彷彿。
日本が3つに分断され、恒常的に戦争状態・・・そんな設定を観客に否応なく、美味しくも奇想な常識をもって飲ませた「キレイ」(2000年)に匹敵する、飛躍した設定が今回も見事に一つの世界を作っていた。ゴーゴーボーイズに入る者はまず「ケツに注入」の儀式を経ねばならない・・「大豆兵の手を食う」を想起させる。ドライな夫婦関係も、知的を通り越したフェティッシュなこだわりを介して迷走する様も傑作であった。
時事芸能ネタの小刻みな挿入もやり方がうまいので「戯曲」に堅実に組み込まれている印象で、これはよく書かれた戯曲なのかそうでないのか・・といった評価はどうでもよくなる。いきなり吐かれる詩的な台詞が通ってしまうのに、人物のリアルな影は見えているという、不思議なモードは、冒頭の「ケツの注入」が観客の感覚にも作用したせいだろうか?
舞台上段のオケピ?に黒和服が並び、和楽を演奏する。これも悪くなかった。
結局全体の印象は・・完成度は高い、と感じた。が、松尾スズキの振れ幅の大きい飛躍した「示唆」を期待した者には、もっと鋭くていい・・というのが正直な感想。
「声」だけ聞き覚えのある俳優が二名、岩井秀人と、吹越満の演技は、判った上で見たかった(相変わらずノーチェックで観てしまった)。
特に岩井氏の「俳優力」はハイバイで暗黙の事実だったりしたが、他流試合では「俳優」だけをやっているわけなので。。
朗読劇「ひめゆり」
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/08/04 (木) ~ 2016/08/06 (土)公演終了
満足度★★★★
力強い「朗読」の劇
研修生公演にしては(?)盛況だった。沖縄の女子挺身隊いわゆる「ひめゆり」、言ってみれば手垢のついたような題材(映画化は少なくとも3本以上)を、今、どうやるのか・・逆に気になって観に行った。「cocoon」の舞台は未見だが、現代の感覚をそのまま当時に生きさせた原作は、悲惨の度を薄めることで受け入れられたのかも・・などと思ったりする。若い研修生たちが初々しい花の「師範学校」生徒を演じ、それが瞬く間に暗雲垂れこめ、最後には阿鼻叫喚の世界を、「国のため」いわば使命感という支えを頼りに生き抜く。そして、死んで行く。
日本人の「被害」中心の戦争観を補強するものとして機能しがちだが、実態は皇国史観と日本軍によって「死」に至らしめられた沖縄人の実話物語であり、米軍が上陸して陣取った土地は、そのまま一度も住民の手に戻ることなく基地として使われ続けている、というおまけも忘れる訳に行かないお話なのであった。
半円に置かれた木製の学校椅子が、「朗読者」の帰る位置だが、「語り」でない劇中劇は中央で演じられ、台本を読む、という体勢は常に変らず、無理な格好をしながらも台本を見ながら喋る。朗読者の心情が通常の舞台仕様に迫っており、これほどアクティブな朗読はない。照明はめまぐるしく変化し、薄暗くなっても台本は見ながら語る。
語る者たちの感情は決して途切れない。途切れてはならないという決意が見える。地の文がありありと場面を想像させ、台詞では激情が迸る。簡素な舞台装置と照明、音響とともに一気に駆け抜けた1時間50分。ベテランでない、彼らがやってこその舞台だったかも知れない。
ストリッパー物語
昭和芸能舎
赤坂RED/THEATER(東京都)
2016/08/02 (火) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★★
昭和とつかとキャンディーズ
音曲の割と中心だったキャンディーズが「昭和」だからなのか、つかの時代という事なのか、台本指定なのかは知らねど、平成も30に届こうという今では伝説化も自然なことだ。経済成長、無垢な平和感覚、日本という国の「性善説」的幻想が昭和という描写の中にありそうだ。 実はそれは多くのまやかしの上に建った城で、今や無残に瓦解した日本という姿を私たちは見ているという事なのだろう・・。
つかの描く「生」はその情熱の対象として学生運動も恋愛も変わりない、というビジョンに貫かれている、と感じた。(つか作品観劇はまだ3度目。)
本劇団の特色というものはあろうけれど「つか」色なのか劇団色なのかが、判別できない。雨に唄えばのタップ・ダンスは劇団色だろうし、役の掘り下げより「ノリ」優先、と見えるのも劇団の色合いに違いないが今回はBグループ鑑賞、主要配役が変っているAグループも見て確かめたくなるが、今回は見合わせ、Bで判断するしかない。
・・まぁそんな事で「つか」の世界を垣間見に足を運んだのだったが、彼以前のアングラが時代の生み落とした「現象」であったように、つか的なもの、そしてそれを観客が熱狂して迎えた「演劇」状況も、「時代」が生んだものだろう・・。それは何だったのか、と。。
学生運動は所謂「一般社会=世間」と断絶して(ちょうど現在の反原発などと同様なのかな・・)、「歯向かう側」は息が苦しくなる。それと並行して彼らに同調的だった者も、自分らを「勝利」へと導いてくれなかった恨みと反動から、背を向ける。運動が先鋭化し、「正論」を吐くしか行き場がなくなってやせ細る「運動」の者たちを、その正論ゆえに忌避するようになる。なぜならその正論はもはや「負けた」のであり、しかし倫理的には正しく、その矛盾の間で苛立ちが生じるからだ。
つかは「前世代」つまり運動に情熱を傾けた世代の感覚を、相対化し、芝居の中でそれにも「言及」しながら、それを全く別の文脈で語るということをやった(スルーするのでなく、当世について語るという演劇としては自然な作業をやっている訳だ)。
時代は巡って、「運動」の需要のほうが高まっている。が、弱体である。「つか」的なアプローチが、当時のような形で劇的に迎えられるには、時代が違いすぎる・・というのが正直な感想だ。・・という事が言いたかった訳だ。
しかし・・人物に純粋な愛を語らせ、それを茶化しながら、それを切望する自分自身を発見し、告白する・・ 台詞の力を認めない訳には行かない。 人を愛することと、自分が何ものでもない、ちっぽけな人間である事が、同時に成り立つのは、その事を己が知っていること、そして言葉を惜しまず愛を伝えるという「行動」こそ、愛の内実について内省することより重要で価値あることだと、つかこうへいはやや出来すぎたドラマ設定を借りつつ檄を飛ばす。
私には少し甘口に感じられる世界だが・・ 妙な、否、しかるべき説得力のあるドラマ世界だった。
「俳優」への印象がさほど残らなかったが、戯曲世界、台詞の力に密かに衝撃を受けた。
月・こうこう, 風・そうそう
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/07/13 (水) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★
むむ・・別役実フェス。最後を飾れたか
冒頭を逃した。(原因を思い出すに腹立たしい・・が関係ないので省く)だが、別役作品は「上手から吹く風」の中、人物が第一声をどんな風情で出すのか、が重要なのだ・・・という頭があったので(一層腹立たしいが本題を進めよう・・)、その部分を想像しながら、4、5分後のその場面から芝居を見始めた。
竹を天から降ったように見事にしつらえ、竹林の地面を照明で見事に表現した、「かぐや姫」の時代の老翁と老婆の会話。 きっとおとぼけなやり取りが、あったのだろう・・しかし、その始まりは最早推測できなかった(痛)。
大方の芝居は見逃した場面があっても他の場面で成立する、ライブならではの性質があり、あるいは見ていれば察しがつく、という事もある。しかし、今回は観始めた所からの話も、よく分からなかった。・・そうなると、冒頭を逃したかどうかの問題ではなくなるのかも。
「分からない」とは、俳優の「つもり」がその場で的確でない、よって表現も的確でない、従って「物語の叙述」の機能が十全でない、分からない、という事だ。でもって、面白くない、となる。・・説明が省かれた「分からなさ」は、推測の余地があるが、上の場合は、不要なもの、異質な、当たっていない表現が同居しているために意味が不明になっている、という事だろう。言葉(戯曲)の問題というよりは、演技の問題になって来る。
はて、これが別役実の劇世界か?・・・ 「小劇場」とは言いながら世の平均では大劇場に当たる劇場で、迫力ある大型な舞台にしたくなる「欲求」が、無意識に演出者の中にもたげており、その枠を外す考えに行き当たらなかった、という事ではないか・・と考える(勝手な想像だが)。
若い男役をやった俳優、謎の笛吹きの竹下景子、本気っぽい台詞をただ本気っぽく言う。この演技は違うのではないか・・こういう発声が出てくるような芝居を、別役さんは書くだろうか・・・(あまり想像ができない)
宮田演出は俳優にあまり要求をしない印象がある。スタッフの仕事は一流だし、好きにやらせてもそれはそれで良いだろうが、何といっても俳優の演技の構築の仕方は、そこに繋げる事のできる形での、芝居の世界観の提示が演出から俳優たちになければならないと思う。今回はいったいどういう事を要求したのだろう。 大上段な、ドラマチックだよ~と迫るような世界が、この戯曲に相応しかったとは思えない。 うまく言えないが、卑屈にへりくだった存在が(例えば三谷昇のイメージ)、時に鋭くえぐるような言葉を吐く。人間の不完全さというものが基盤にあり、愚かで、説明できない言動を繰り返す人間なのだが、その背後に何か人間についての洞察が垣間見える、そういう描き方をする別役実は劇作家だと思う。 竹林の中の支配構造や力関係がどう働いているか、というリアリティは追及しなくてよく、登場する背景も謎な人物たちがどう面白く、ユニークに、それによって魅力的に登場できるか、という事で良かったのではないか。「ミカド」なんていってるが裸の王さまみたいなもんで良かったのではないか。笑いのない別役実の芝居があり得るのか・・?大いに疑問の残る出し物だった。
リーディング公演「ロッコ・ダーソウ」
東京ドイツ文化センター(ゲーテ・インスティトゥート)
ドイツ文化会館ホール(OAGホール)(東京都)
2016/07/30 (土) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
いやぁ面白かった・・リーディングなのに。否リーディングだからこそ。
黒一点の古舘寛治と紅三名の取り合わせが、戯曲上(演出上?)性を俳優自身と一致させていない事も効いて、4者の個性がくっきりと見えながら融和したり溶け合う様が見える。台詞の半端ない「謎かけ度」に4名ともが同等なラインに立って挑むしかなく、見事な緊張と、リラックス感が流れていて、手練な俳優たちだな・・と。内一名はこの戯曲を紹介し訳・演出したドイツで活動中の原サチコだが、緩急自在、基本リラックスで台詞を出す。この奇妙な世界を成り立たせている秘密は、2014年にこの戯曲も新作として上演されたルネ・ポレシュ自身の方法=すなわち「始めに台本ありき」でなく俳優と議論したりしながら作り上げて行く、「言いたくない台詞は言わなくていい」というのが口癖とか。
その作業を今回、3日間でやった結果の、リラックス感というかナチュラル感。しかも、客席を普通に見渡したりする俳優個人と、「役」の人物との境界が、こちらから見えない、その事が心地よかったりする、この奇妙な痛快さが、このリーディングの、そして作品の価値だろうと思う。 ただし誰しもが「あのように」は出来まい、とも思う。 ・・安藤玉恵は滲み出るキャラで台詞に息を吹きこみ、古館は徹底して「今この時に生じた、湧き出てきた言葉」と信じさせる引き寄せ方の圧巻。木内みどりはオーソドックスながら彼女自身の人間としての隠し味的なものを持ち込んで(いるように見え)「境界」が分からない世界に観客をどっぷり漬からせるのに貢献していた。 原サチコは全てを了解し、本国ではパフォーマーでもあるのだろう、特徴的な声で意外と強引に(といっても柔和でなければ相手を引き寄せられない)舞台の行方を仕切っている。
「ロッコ・ダーソウのリーディング公演」の会場、その舞台装置についてのエピソードを何度となく語っているが、そんな具象を描く段から、何やら詩的である。詩の透明さが奇妙な世界に醜悪さでなく、天然色の潤いを与え、照り返された俳優を生かしめている・・のかも。。とも見えてくる。
難解ではあるが、マンネリと感じさせる瞬間は1秒もない(と言えば嘘になり、一瞬あったにはあったが、そこが気になるくらい完成度は高い)。
ではこの戯曲中、彼らは何について語っていたか・・ 主には「愛」について。というか、「愛してる」という発語がもたらす「関係性」への影響、その原初的な感覚、あり方、そしてその根底に人間の本質なるものが・・恐らく一つの回答として囁かれている。
それは救済に繋がっている。