tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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隅田川/娘道成寺

隅田川/娘道成寺

木ノ下歌舞伎

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/01/13 (金) ~ 2017/01/22 (日)公演終了

満足度★★★★

木ノ下歌舞伎は「三人吉三」以来久々の観劇。杉原氏と白神氏が演出に加わり、女性二人のソロ舞踊二演目という趣向だ。
どちらも女の哀れな物語という知識のみで観劇に臨んだ。
ガッツリと舞踊を堪能したが、両者それぞれの特色をバランスよく味わったと行きたい所、「隅田川」に物足りなさを覚えた。壁際からの観賞だったせいか白神ももこの踊りのパッションが「動き」から今一つ伝わって来なかった。単純な話が動きが凡庸で緩急が少ない。踊りを支えるべき激しい情動が表面に表れて来ず、その理由を色々と考えてしまった。
黒子を使っての隅田川観光案内の導入は面白いが、歌唱ショーを経て唐突に本編に入る。歌詞の「梅若丸と」で何度も止まり、ついに立ち尽くす母の姿から、本格的に「踊り」による「隅田川」が始まるが、上部を削った円錐形の台を塚などに見立てながらの踊りが、まずストーリーに対応させた動きとしては説明不足で、内面の抽象的表現とすれば情動が足りない、という感じ。
芝居の振付やワークショップに活用される「素人でもやれる」動きを追求しているがために「プロのやる表現」への衝動に自制がかかっているのではないか、あるいは今日は体調が良くないのではないか、と勘繰る程に体を鍛えている人と思えない簡単な動き、予想の範囲内の動きしか(私から見ると)繰り出されない。それ自体が自立したパフォーマンスとして成立しておらず、ストーリーを知る者がそれをなぞって見るには十分かも知れないがそうでない者には物足りない、私には不満の残る時間だった。
一方のきたまりによる「娘道成寺」は三味線と唄に乗せての正統な舞踊で、ただし古典でなく独自な、切れのある多彩な表情を見せる踊りだった。最初床に敷かれた布が奥に吊られたり、釣り鐘に姿を消すラスト(確か金田一耕助シリーズの映画で見た)を幕で表現したり、赤い衣装が剥がれて光沢のある銀白の衣装に変わったりの演出と、次第に狂気じみていく動きは見事だった。圧巻は、ギリシャ風の銀の衣裳と、黒髪を雑に結った上げ髪の「和」の取り合わせ。ゾッとするギャップを作って狂気そのものだった。
終演後にまた考えてしまったのは、「踊り」の手数は多くないとは言え、白神氏の動きときたまりの動きの共通点。演出の白神氏はきたまりの完成された踊りを念頭に、これと並べる出し物のバランスに最後まで悩んだのではないか・・勝手な推測もここまで来れば戯わ言の類かも知れぬが。

磁場

磁場

直人と倉持の会

藤沢市湘南台文化センター・市民シアター(神奈川県)

2017/01/21 (土) ~ 2017/01/21 (土)公演終了

満足度★★★★

「挽歌」に続き湘南台文化センターでの観劇。コロシアム式の客席のわりと端の方で、ステージの間口の外側に位置する席だったが、前にせり出したステージの比較的手前の方で演じられる場面が多く、殆ど支障なく観られた。
倉持作品は(作演出とも)二度目で一度目は随分前、自劇団(pppp)を観劇。今回その実力の程を垣間見た気がした。本は「リアル」ベースで書かれ、題材も「創作の現場」。シナリオライター(演劇出身)が監督とプロデューサー、そして出資者の狭間で苦悩するという物語自体はシンプルな作品だ。脚本執筆という仕事、引いては芸術に取り組む上での根本的な問題を抉り出していて、深く頷かずにいられなかった。
何か大きな事件が起きる訳ではない。出資者(竹中)の介入の仕方には独特なものがあるが、常識を著しく逸脱した態度を見せる訳ではない(最終的には出資者という立場が持ち得る力を巧妙に発揮する事になるのだが・・)。まだ形を成していない作品、つまり「未来」への投資を、「実質」化する任を担った人間が、味わうべくして味わう辛酸がそこにある、と言って良いかも知れない(映画『バートンフィンク』を思い出す)。本来スポンサーとは先行投資者なのであり、会社における株主も同様、「お金」を持つ者が未来への投資を行うのは、新たな時代、局面を切り開く名誉に与るためであるはずであって「確実に儲けが出る約束」の下になされるものではない。
この作品では、出資者の関心は「儲け」ではなく書かれる脚本の中身にある点が、逆に抗えない桎梏となって脚本家を苦しめる。それは出資者のやむに已まれぬ情熱のなせる所だからだ。
劇の終局近くは悩める主人公の心理劇の様相を呈して、一見夢オチと見まごう展開があるが、現実である事も仄めかし、恐ろしい。元々ある力関係の構造も要因の一つながら、この劇の出資者という人物の奥行が、それに輪をかけている。財を成すに至るまでに恐らく存分に行使しただろう「他者を操る術」がそこかしこに垣間見える。主人公(脚本家)にとっての「恐ろしさ」はこの人物に照準されるが、作者が巧妙であるのは、出資者自身も「出資者」としての「やむに已まれぬ何か」に突き動かされてその言動を形成していると見せている点だ。脚本執筆という作業が構造的に持つ危うさへと、観客の理解は促される。

赫い月

赫い月

エムキチビート

座・高円寺1(東京都)

2017/01/18 (水) ~ 2017/01/22 (日)公演終了

満足度★★★

エムキチ2度目。ブレスを抜く「イケメン芝居」的喋りに冒頭から鼻白んだが、まァ「物語」を見てやろうと姿勢を整えた。

ネタバレBOX

車椅子の老人と孫(若い女性)。この老人の回想というのが、敗戦間際(1945)天皇直属部隊の隊員として目にした「劇的」エピソードだ。
「現代」には老人と孫のみ登場、孫は婚前鬱というモンダイを抱えているらしく(後々仄めかされる)、最後には老人から勇気をもらって感動のエンディング。その間に「シュッとした軍服」のイケる男らの「二枚目」演技による忠義と青春の物語が展開する恰好だ。
笑いもあるが「イケてる」前提でのボケは徹底せず(変顔禁止されたアイドルかっ)、そこでも鼻白むが、それは置くとして・・
舞台美術は座高円寺1をしっかり埋め、傾いた床面がメインの演技空間で、その四隅から白い布が絡まって上方へ吊り上っている。正面奥の壁面には凹凸で何かの文様を刻んだ四角い大きな板がはめ込まれ、「帝国の中枢」という雰囲気を醸す。荘重な美術と照明等スタッフの仕事は前回と同様確かなものだった。
過去場面は青春群像物語だが、ファシズムに通じる性質を感じてしまう理由は何か・・。閉じた環境の中でだけ、そのアレンジでの青春は可能になる。制服の着こなし、着て悦に入る様子も然りだが、男の世界という事が大きい。軍隊はいずれも男社会だが、そこに居心地の良さを覚え、友情や敬意、忠誠と守護の(上下)関係等の徳目を実践していると内発的に信じる様が、その中身である。悪いことは何も無い?・・いやいや。
「いま目の前に居ないが確かに存在する敵」を軸に成り立つ甘味な徳目付きの集団は、フィクションを共有するカルト集団にもどこか似ている。その世界の主役である間は、青春は甘味である。今そこが本物の戦場になれば、あんな事言ってられまい・・という。
終盤、敗戦を知らせる玉音放送を葬ろうと奔走する主人公と、本土決戦への「決起」を呼びかける隊員たちの行動がクライマックスを作る。だが所詮「戦場」とは遠く離れた場所での戯れ事に見える。半沢直樹風に言えば「タブレット上の空論」に振り回された愚かな姿である。だが作者は彼らを「間抜けで哀れな」存在として描いていない。英雄に近い。もちろん「老人」にとっての、というカッコ付きではあるが。
しかし老人にとっても、あの時代は何だったのか。作者はこの特殊な、内向きにのみ可能だった「群像」の美にノスタルジーを抱いているようにみえる。
主人公であるトウゴは最も若い(あるいは日の浅い)後輩として皆に可愛がられ、その「与えられる事」の甘味さとともに先輩らの「生き様」を記憶の海から呼び戻すのだが、よく見ていると先輩らの存在は彼自身の青春を「彩る」背景程度にしか重要でない。ただ居心地よく、格好よくみえる先輩に囲まれ、その中で認知され、可愛がられた成長期の甘酸っぱさを、懐古の対象として思い出している「像」に過ぎない。実際に過ごしたその「時間」に戻れば、あんなものではなかっただろう。老人の出来すぎた夢が、しかし舞台上で生身の人間によって展開され、「夢」オチとして相対化されるのでもなく、一応は現実にあった事としてリアルの次元で演じられる。マジなのだ。
そんな中、内親王何がしという皇室の女性がトウゴの前に現われる(天皇直属の近衛部隊だけに)。彼女は最初からその目的であったかのようにトウゴに声をかけ、「したい話」をする相手として選ばれる。そこで未来の話、月の話、宇宙飛行士の話をする。この「選ばれし者」は、先言った男集団での徳目ゆえに救われるのでなくこの女性との遭遇によって救済される。彼女に存在を認められ、恐らくは愛情を抱く。ただしそれが「皇道」の実践なのか、異性への純粋な恋慕なのか、庇護者を求める心を埋める存在だったのか、は判らない。
敗戦の日の朝、トウゴが玉音放送の音源を見つけられず憔悴していたところ、(都合良く)内親王と行き当たる。彼女は前言の種明かしをするように「戦争は終わったのだ」と彼に告げ、無意味な行ないをやめて前を向くよう促す。
男らもまたトウゴには「お前は生きろ」と、なぜか判らぬが言う。男らは決起を快しとしない上官を殺し、討ち死にし、また自決する。ここでも「夢」機能が働き、今生きている私たち人間は、死者から生きるよう託された存在なのだ、というメッセージ(前作にもあった)を示唆しているのかも知れぬ。トウゴは「生き残った者」を表象している、という。
だが実在した死者の思いを勝手に(生者に都合よく)解釈するのは江原啓之だけでいい。トウゴは「なぜ彼らは自分にだけ生きろと言ったのか」、その問いの答えを知ったのだろうか(これはこの戯曲から生じる、解くべき「謎」だと思う)。
トウゴは男らの「像」としての美しさを舞台上に再現して我々に紹介する。「やせ我慢」の美学がそこにある。彼らの行動が「美しく」みえるのは、「美しくあろう」と彼らが振る舞っているゆえだ。相手を思いやり、楽観論を語り、ユーモアをまじえる余裕を演じてみせる。事実彼らは近衛兵として衣食に困ることはなかっただろうし、旧制大学の教養主義の風吹くキャンパスに似た「特権と気付かずに謳歌する」青春の青さは、「下々」を見ていない点で思想的にはうぶな代物だ。これを模したような「青春」の薄っぺらさがイヤな自分には、感情移入できる一片もこの芝居に見出せなかったが、三島由紀夫がお墨付きを与えそうな集団の描写には、トーンとしての一貫性はあったと言える。
ところで、内親王とのエピソードでは、最後に思い出される彼女とのエピソードのキーワードを序盤に与えられる。即ち「宇宙飛行士」。それを具現させた「宇宙服姿」の男が、開演前から受付周辺~会場をゆっくりと歩き、上演中も客席の間や周囲、ステージ前を延々と歩き続ける、という一風変った演出がある。やや突飛な「宇宙飛行士」という話題を、こういう形で組み込み、伏線の緩やかな回収としたようだ。
「現代」の孫が終幕に相応しい前向きな心境になるのは、老人が若い頃から自覚していた「痛みが判ってしまう」感受力を、孫に対し使うことによってだ。隊友や内親王との間でも彼は「痛みが判る」事で次にどうする訳でもないがその気付きを言葉にして相手に伝える。それで相手が癒される、という二つの伏線を、孫に援用する事で終幕に彩りを添える。
その前か後か、冒頭を飾る2人の隊員の何気ない会話が、最後に再現され、時間を戻したか、「今も彼らの魂は時空を超え、在りし日の青春の場面を再現し続けている」的な隠喩か、いずれにせよ劇の終盤の気分を演出する。一つ気になったのは序盤の男同士の話の中で「聖書を読んだことがあるか」と一方が他方に話す箇所がある。「敵性思想や芸術に通じる事をも許す、自由な気風」がアピールされ、「青春群像」を構成する一要素になるが、その後のくだりは『ゴドーを待ちながら』に出て来る箇所そのままだ(確かそうだったと思う)。イエスの十字架の場面に登場する死刑囚の描写が4福音書それぞれに異なり、一つだけに書かれたエピソードを人は何故信じるのか・・という問いであった。結局男はその答えを知らず、どこかで聞いた話題を(他の話題と同様に)語るだけであるが、このくだりを何故ここでの会話に用いたのか、今ひとつ連想できなかった。
総じて「リアル」には遠い物語が、何を伝えたくて紡がれたのか。そこにはやはり疑問が残る。
メロン農家の罠

メロン農家の罠

桃尻犬

OFF OFFシアター(東京都)

2017/01/12 (木) ~ 2017/01/18 (水)公演終了

満足度★★★★

初・桃尻犬。襖と木柱、畳、隅っこに「メロン盗むな」の文字が書かれた板(の一部)。取っつきにくいと想像した「農家」の話に冒頭から入り込んだ。いがぐり頭の実直な長男の(戯画的なまでの)一本気(=歳の離れた妹の親代わりを自負する生き様)、「地方」の物質的時間的条件を生きる人物たちの生活感が、「農」を茶化すのでない笑いを生み出していた。
地方の感覚を「脳天気さ」「ゆったりのんびり感」だとするならば、漫才にたとえればボケの一つのタイプと言え、「都市感覚」をもつ観客に突っ込ませるボケ的言動が舞台上で展開する格好であるが、地方=あちら様に括りながらそれらは人間が等しく持つ要素。「見たくない」己の一部を他者に仮託して笑うのが「笑い」であって、話が身につまされるに従い、「笑」ってる場合でなくなる。
だが、総じて言えば「笑い飛ばす」べく綴られた、人間共の物語。

ネタバレBOX

程よい省略を効かせてスムーズに話を展開させているのが良い。
セックス依存症、浮気、万引き、「飛び出す」罠など、剣呑な話が「日常」の中にどう収まるのか、微妙な所もあった。メロン、中国人(技能研修生)、嫁不足、集団お見合い、出戻りなど、農業主軸の地方のアイテムを活用した、秀逸なストレートプレイはある意味目から鱗であった。
最後の「ベトナム人」オチは考え無しに用いられていると見えた。事実よく見られる光景なのだとしても、穏やかでないし、事実を差し置いてのベトナム人設定なら尚更穏やかでない。これを作者による「敢えての差別言動」としたかったのか?否、軽快な音楽に乗せたエンディングに「その彼ら」も混じえたかったのかも知れないが、そう見えない。「天晴れベトナム人」と行くには、泥棒に比する「背に腹は換えられぬ」所行に、登場人物らも手を染めていなければ、同等にはならず、笑えない訳である。もう一つ気の利いたオチはなかったものか・・そこを残念に思いながら劇場を後にした。
夜組

夜組

The end of company ジエン社

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2017/01/13 (金) ~ 2017/01/23 (月)公演終了

満足度★★★★

ジエン社初観劇。劇の構成(縦及び横)から来る晦渋さと、ある「気分」が全編を貫く事から来る蠱惑的な芳香。
一貫した「何か」は、劇のルールを解読せねば見えない俯瞰図が結局は解き切れないにも関わらずこの芝居にある彩りを与え、意味深長による「惹き付け」には恐らく失敗しているが、魅力を保たせていた。

ネタバレBOX

踏まえられている「何か」は実は昨年の「15Minutes Made」(Mrs.Fictions) で披露された短編だとの事。
劇では死者が登場し、その姿が見える生者と見えない生者がいて、しかも誰がそうで誰がそうでないと必ずしも確定している訳でないようである。従って同じ場面で2組以上の者同士の会話が同時進行するという事が平然と起きる。下手に去った人に言葉を投げていた者が言葉を次いだ時、それはその直後下手から登場した別の人に掛けた言葉だった事が判る、といった具合。
対話は短めに切り上げられ、関係が見える前に邪魔が入る。
一人の人物に対し、親密な相手が二人おり、恐らくは死者と生者のどちらかであり、どちらかが過去でもう一方が現在だ、と見えて来た時には劇は終盤に差し掛かっていた。
しかし・・前作の関連作という点は脇に置くとして、異次元の会話が複数同居する場面が、ある特殊な効果を狙ってでなく「常態」である形はあまり見ない。相当高度な演劇的リテラシーを当てにしている(事になっている)のは確かである。この形態に「慣れた」観客が増えて行く事を考えると興味深い。
高校演劇サミット2016

高校演劇サミット2016

高校演劇サミット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/09 (月)公演終了

満足度★★★★

駒場高校作品を観劇。演劇部のない高校に通った身では高校演劇部の(校内での)立場的なものは想像を逞しくするのみだが、見た所女子はエンゲキやるに支障なく、男子の存在が気になる。だがどう見てもコミュ力は平均以下ではないだろう。
この感想が芝居全体に言え、表現のメーター振り切り具合と転換の素早さは劇を自らのものにしきっている証。
台本は(たぶん)オリジナルで、出演者への当て書きかも知れない。
自在な場面の配列で彼らの「事情」と「関係性」の全体図を徐々に見せて行く所、「現代日本の劇」の風が高校演劇にも吹いている事実に気付かせる。ラストへの畳み掛けにはアングラから小劇場へ継承された「若さ」の発露たる激情、スピード、ダイナミックな場面転換を伴うクライマックスが確固と形作られ、彼ら自身の心情を塗り込んだ「彼らが作り出した劇」として、観客に差し出されていた。感情の波に洗われ思わず突き上げるものがあった。

フォトジェニック

フォトジェニック

鵺的(ぬえてき)

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2017/01/10 (火) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★

冒頭数分の映像を見逃しての観劇では、(他のレビューにみられる)ラストの不足感などなく、それまでの推移に見合ったラストだった。見逃した映像では男の「所行」がその「手法」と共に示されていたと思われ、映像数分のもたらす情報量と、伏線としての「強さ」をただ想像するばかり。
・・「生来の悪」を抱えた人間(サイコパス?)を一人称として語ろうとする試みが、前作に重なる。私たち凡人の「日常」とかけ離れたフィクションの愉しみと、「現代」を考えさせるテーマ性の一石二鳥。とは言え「私たち」の「今」に何かしら通低するものを見出ださねば「日常離脱」の快楽のみに傾きそう。今後も「悪」のリアルを探り出して見せて欲しい。

ブリッジ~モツ宇宙へのいざない~

ブリッジ~モツ宇宙へのいざない~

サンプル

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2017/01/11 (水) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★

サンプル的フィクションの性向がとりわけ先日のKAAT公演「ルーツ」との共通項で、見えて来た、気がした。両者芝居のタイプは全く違うけれども。「閉じた世界」の中で人間はどこまで反理性、否、理性の下で、異常になれるのか。もしくは私たちの間で通常語られる範囲の人間像は果たして、その本質を捉えているのか。
昔、知らずに体験したカルト的な集団や演劇系のとあるワークショップを思い出し、あるある満載、ツボであった。

ネタバレBOX

観客を参加者に見立てた集会形式で、ステージに向かって右側に透明ビニルの幕、それを隔てた裏側(即ちステージ上手)にノートPCに向かう音響担当がいて、役者の指示で音出し=集会の演出のために=をする。ビニルを透かして音響係の向こうにこの施設の廊下が見え、時折(公演関係者でない)人が通る。
では、これは何の集会か・・。それ即ち芝居の中身である。「モツ宇宙」観の普及を目指す「団体」の集会=ワークショップ?は、団体メンバー6人がこの会場に入場しステージ上の椅子に円弧に並んで座り、一人が司会に立ってから始まる。さあどんなやり取りが展開するのか。
程よく「異常」と「正常」が交互に訪れながら次第に「モツ宇宙」へと「誘われ」るが、「異常」がフォローの許容範囲を超えて放射能漏れを検知するも、ドラマ的にはまだ「こういう団体があってもいい」範囲内を推移し、最後は駄々漏れ状態に至る。
ドラマとしては、団体の様相が個々の抱える「痛い」事情が見える事で(興味深く眺めつつも)「教義」じたいの信憑性は色褪せ、最後に至ってカルト的な集団の成立ちを批判的に描写した芝居とも見える。
が、むろん単純な科学主義からの宗教批判ではなく、「ある団体」を事例に展開した人間学のケーススタディの態で、人間の内面に潜む欲求や性向を人物に露呈させている。この各人の「露呈ぶり」がサンプルの「変態性」の所以でありこの芝居の目玉と言える。役者のキャラクター共々、ツボに嵌まったまま終幕へ連れて行かれた。
豚小屋 ~ある私的な寓話~

豚小屋 ~ある私的な寓話~

地人会新社

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

地人会じたい初めて。一昨年だったか芸能花伝舎で観た『島 island』と同じ作家(南ア出身)の作であった。うまい戯曲だ、との感想が変わらず(どちらも二人芝居だった)。一場面を除いて同じ場、二人の会話から「状況」の若干の変化は垣間見えるが、ダイナミックなストーリー展開がある訳でなく、この場所での二人の言葉による、関係の露呈のプロセスが、この芝居の柱と言える。台詞の背後の心の動きが、確固とくっきりと見えて来るのには瞠目した。隙間を埋めるといった瞬間が一秒も見えない(と、見えた)北村有起哉の演技は、「今その瞬間にあるべき状態」にしっかり身を置き、人物に一貫性があり、まるで裸体をさらけ出すように人物が見えて来る。田畑智子の女性は受けの場面が多いが、出すところでの押し出しがあり、感情表現の振れ幅、柔軟さが心地良く、妻として夫との関係が成立する距離を取れていた。ぐっと接近し、親密ゆえに突き放す「自由」。
台詞の端々が鮮烈に光り、それをフックに次第次第に劇に引き込まれた。
一人の小さな人間の「心理の軌跡」が、(己の欠落を補うべき)高邁な何かを求め続ける「魂」の存在を浮き上らせる。
演じる人物をどこまでも裏切らなかった両氏(特に北村)の姿には好感、否、尊敬の二文字も過剰表現でない。と思う。

peeeeep〜踊る小説2〜

peeeeep〜踊る小説2〜

CHAiroiPLIN

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/08 (日)公演終了

満足度★★★★

世田谷でのtamagoPLIN公演以来、スズキ拓朗主宰ユニットは2度目。「汚れ」を持ち込まない印象を裏切って(原作「屋根裏の散歩者」に相応しく)、隠微な部分には隠微さの隠喩となる動きを配し、意表を突いたシーン展開でストーリーが刻々と積み上がり、大詰め、結末を迎える。やりきった役者たちに惜しみない拍手。
ただ諸々の舞台効果については、この劇場の大きさでは後部客席との距離、天井の高さ等で、「客観的な視線」に寄ってしまう面があり、「もっと見たいが見えない」部分と「見なくていいが見えてしまう」部分が生じていたという感じ。もう一回り狭い劇場なら開幕から最後まで全編高ぶり通しだったんではないか、と想像した。

ネタバレBOX

照明と装置の二律背反。舞台美術はもう少しシュッとしたいと思った。
・・が予算の関係かも。
作品自身は「暗め」ではあるが、ライトはもっと照らして、役者、衣裳、装置を見せて欲しかった。
が、そう思う反面、装置については美的にこだわるなら薄い照明が相応しかった。
つまり、強力な照明を当てれば粗が目立つ。。作りがチープに見えたのは狙いかも知れないが・・
シアターイーストだと、シュッとしてスマートで小奇麗なのが似合う。下北沢の劇場ならあの手作り感がうんと合致したかも知れない。
メゾンの泡

メゾンの泡

無隣館若手自主企画vol.15 柳生企画

アトリエ春風舎(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/11 (水)公演終了

満足度★★★★

色白の棲息者たち
憂鬱な顔をした近未来の姿というものは「予見する」=今見えていないものを見る=ことの価値を、云々する以前にそこに現前させて溜飲が下がる。「今見えていないもの」への憧憬が辛うじて、現在の生を生かしめている、そういう所が(とりわけ現代には)ある。と思う。『ブレードランナー』『惑星ソラリス』(この二つは「遠未来」だが)『ストーカー』等の映画には、環境の大変化した場所で人間が美しくも病的な漂白された姿を見せる。「現在」に居る我々には、未来の彼らが(過去として我々の現在を知る者ゆえ?)神々しく映り、静謐の中に無尽蔵な情報の存在を予感させる。彼ら自身は多くを忘却しているにも関わらず。
この芝居では、小さな自室の内部で胎内回帰していくように女性が無言・無動作でたたずむ時間がある。太陽に背を向け地下に「引きこもる」生を選んだ人間はモヤシやカイワレを連想させる。イキウメの『太陽』はパンデミックの末に生まれた人間の亜種が世界を(一時的に)支配する社会の一コマを描いていた。今作は「想定」のつじつまに関して突っ込みどころはあるが「近未来」の提示に相応しい作法が貫かれていた。憂いを帯びた表面の向こうにある「何か」を探り出そうと思わず手を伸ばし、思考を巡らす楽しみ(憂いを帯びた)があった。下へ行く程上位に位置する完全階級社会の設定は、上位の階級がもてる力をより積極的能動的に行使するイメージとは異なり、「引きこもり」「眠った状態」のイメージを重ねた。だがある見方をするなら、小金を持つ分だけ守勢にシフトするその延長には、貪欲を通り越した「眠り」に等しい生の姿を見出せるのかも・・等等の連想も愉し。

ゴドーを待ちながら

ゴドーを待ちながら

劇団東京乾電池

ザ・スズナリ(東京都)

2017/01/05 (木) ~ 2017/01/10 (火)公演終了

満足度★★★★

初日を観劇。が、スズナリは満席、予約者にも立ち見が出、恐縮してか払戻しをしていた。ウラジーミルとエストラゴンには柄本祐と時生兄弟という事で、東京乾電池ならではの配役と言える。ポッツォとラッキーも確か知った俳優が出るはずと思いきや、ベンガル氏体調不良で急遽の代役。
祐・時生コンビ(どっちが兄だっけ)の掛け合い、案配は中々躍動感あり、飽きない。動きは演出の妙で、秀逸。客席の笑いの沸点低いのが気になった。
ずっと以前観た父・柄本明のゴドーに通じる、素の笑いが今回も出る。何に対して笑ったかは知らねど、密度の高い「現在進行形」掛け合い演技のある瞬間にこれをやられると思わず釣られて笑ってしまう。祐の通る声と感情起伏の自在な正統派演技に対し、時生のスルメの味を出す天性の?キャラという取り合わせが(兄弟だからか)気持ちよく、やりとりの滑らかな流れを促す動線ミザンス指定の演出が相まって何やら賑やかに楽しい、間抜けで愛すべき人間どもの競演(饗宴)。
ただ、二幕は一転シリアス、または人生の寂寥を詠う色彩となり、こちらのトーンは際立った趣向もなく淡々と進み、前半とは逆の真情が見えたかったが、二人にはまだ「老人」役のリアリティは荷が重かったか。

4センチメートル

4センチメートル

風琴工房

ザ・スズナリ(東京都)

2016/12/21 (水) ~ 2016/12/29 (木)公演終了

満足度★★★★★

役者によるガヤガヤ転換がうるさく感じない風琴工房が。その所以は音楽劇。曲の使い方とクオリティ(歌唱の、と言いたいがさにあらず)は、ミュージカルと言って良い。冒頭の車椅子キッズのママ事情のディテイルに意表を突かれて引き込まれた。詩森氏の得意とするらしいプロジェクトX路線だと知れた時点で、心の距離を取ったものの、畳み掛ける感動の仕掛け(歌と出来すぎたシーンの波状攻撃)に抗えず落涙。このかん数本観た限りの風琴の舞台からは思い及ばぬタイプで、テーマに適したアプローチに挑む柔軟さに大変好感が持て、年末に相応しい率直なメッセージを受け止めた。

虚仮威

虚仮威

柿喰う客

本多劇場(東京都)

2016/12/28 (水) ~ 2017/01/09 (月)公演終了

満足度★★★★

女体Sシリーズは第1作のみ、漢字三文字シリーズは「世迷言」以来。久々に柿喰う客の「現在形」を目にする事ができた。(大晦日夜の部の時間帯のお陰。)
中屋敷氏のテキストのノリ、役者の発語のノリ、一つの癖になりつつあるか。昔ばなし的な「語り」の台詞はそれ自体は意味内容が簡易なものゆえ、色々とアクションを沿えたり物言いを「型」に嵌め込んだりしている、という風に見える。(つまり、中身が薄いから勢いやノリで箔をつけねばと思っているらしく見える。)
ただ、息の合った動きや台詞のリレーの「型」、リズムが(好みか否かは別にして)密度の濃い流れを作っていて、そのリズムを壊す(ずっと流れているバック音楽もそこで途切れる)ことで、場面の変化が際立つという事がある。この「際立たせる」手法は、目くらまし的だが作者の「物語」世界には有効な文体でもあろうかと今回見ながら思った。
伏線がそれと知れずに潜伏し、ラスト近く浮上して解消される、という仕掛けが今回もあったが、荒唐無稽でもそれなりに楽しめた(伏線回収の快感があった)のは、サンタクロースという存在を日本の明治維新後の「欧化」された場面に登場させず、地主小作関係がなお残る農村に、欧米的なそれを換骨奪胎して存在させた点にあると思う。伝承物語の翻案の域を出ない本作も荒唐無稽さを目一杯盛り込もうという意志は感じ取れ、そこを応援したくなった。
が、どこか綺麗に「まとめ」ようとする底意も見えて、そうしなくとも成立する劇であって欲しかったのも本心。最後の礼まで「操られた動き」に仕立てていた。「作り事」である事など断らずとも、判ってると言うに・・。

が、村人C~∞や、座敷童役などの「周辺組」による息抜き場面の面白さはやはり「型」の作りとの兼ね合い。ストーリー語りにはさほど重要ではないが、芝居にとってはこの「茶々」が大事なアトラクション。
で、「型」に埋没したかに見えていた俳優らがいつしか心情をリアルに見せ始める後半。「型」で武装して「感情表現下手」を糊塗していたのでなく、俳優には「型」をこなしながら心情もスピーディに表現する高いハードルを課している、が真相かと推察し始めた頃には芝居は終盤。

本心を言えば、今ある力みを3割程度でいい、抜くことで「動き」や「変な物言い」につぎ込んでいるエネルギーを感情表現つまり存在の信憑性(演技論になって来るが)にシフトし、それで成立する芝居を書き、また演じてほしい。

本当の本当の気分を言えば、柿喰う客(あるいは中屋敷法仁)が本当に言いたい事をまだ言えずにいて、周辺をなぞってるか、「まだ本気を出していない」レベルの芝居を「ごめん、今回は書けんかった、今度絶対書くけん」と謝りつつ忙しく駆けずっている姿、を見せられている気分は拭えない。(結局褒めてない。)

コーラないんですけど

コーラないんですけど

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/12/30 (金) ~ 2017/01/02 (月)公演終了

満足度★★★★

高校演劇の流れからか、ナベ源の舞台は装置が簡素で無対象(小道具を使わず「有る」体でやる)演技も多い。その「約束事」を逆手に取り?演技がカリカチュアライズな、コミカルな質感を伴い、「これはお芝居です」の範疇に止まる感が冒頭から既にある。にも関わらず舞台上の役者は笑っておらず真剣そのもの、題材もシビアでやがて観客も笑えなくなる、というパターン多し。
今回の舞台も例に漏れず、クスリと笑える場面満載だが全体にはシリアスのトーンが支配し、順当に、話はシリアスの線をなぞるべくなぞって行く。
「貧困」を描いてはいないが母子家庭をモデルにした時点でその要素あり、案の定、でもないが、「戦争」が身近に存在する未来へと話は直行する。ていの良い徴兵制(誘導型)が如何にも無垢なマスコットガールに誘導される形で実質化している様も、「マイラッキーナンバー」などという歯の浮くネーミングも、無さそうでいて将来「有る」状況が想像された。あの青年のように八方塞がりな状況では、歯の浮く綺麗な言葉に、見せかけの笑顔に、乗ってしまうだろう。なぜなら、そこの他には彼の「立つ瀬」などどこにも無かったからである。
タブレットのゲームに興じる彼のルーティンな動作、時々相手を倒す瞬間に連打する力の入れよう、相手が倒れた時の瞬間的な爽快・安堵感、それらは彼がゲームに向かえば必ず得られる安定したサイクル(+ちょっとした臨場感)であり、「何もしない」怖ろしい時間を回避するため、彼はそれをし続ける(か食べるか寝る)しかない。その事がありありと滲んだ、半分ふてくされた表情。怠惰と浪費と罪悪感から抜け出せない地獄を、膠着した表情の向こうに見る思いがした。
三上氏と工藤氏による母子の劇は淡々と進み、級友や店員やマスコットキャラ等の音喜多氏と、日替わり助っ人が脇で笑わせるが、基本的には静寂のある劇で、説明的でない。音楽は限定使用、転換他の間は埋めず、声も張らない。だからぼんやり見ていると単純素朴な芝居だ。が、実はそこかしこに、ドラマを立体的に浮上させる鍵となる場面や台詞が仕込まれ、ラストにはしっかりと実を結ぶ。
一介の小さな「家族」であった二人が世界の中に取り残されたような最後、母の口から小さな「後悔」の声を聴いた時、私達は彼らを包み込むもの(毛布、的なものだろうか)を、無対象に持ちながら手をこまねいている自分を発見する。

モグラ…月夜跡隠し伝…

モグラ…月夜跡隠し伝…

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2016/12/15 (木) ~ 2016/12/27 (火)公演終了

満足度★★★★

歴史の暗部をメルヘンや冒険譚の題材に取り込んで装置と見事なアンサンブルで魅せる劇団桟敷童子(とまとめて良いのか自信はないが)。メッセージは、悲しくつらい事、人の醜さ、生きる空しさ・・それでも前を向いて行こう。
が劇団も「体夢」あたりから、新たな物語世界への「挑戦?」の姿勢を何となく感じさせ、今回もその一つの形と見えた。そして私的には十分に満足である。
松本紀保は声が裏返り、どうにか千穐楽を乗り切ったという印象。元々(桟敷童子団員のように)線の太い声の持ち主でない。がその声を駆使して芝居の昂揚に貢献し、満身創痍ながら役目を果たした、と言うような風情も、大いに貢献したのに違いない。
今回の作品、「大陸へ行く」という表現があるから時代は大正か昭和か、不詳だが現代よりは古い。舞台は前時代な生活のある山奥。「今より昔」か、「今より昔」な時代の風が吹く場所、である事が重要。数奇なエピソードや人智を超えた現象、能力が登場する。その一方で、山で採れる植物の効能等の蘊蓄が詳しく語られ、聴く・観る者の目を架空の物語世界へと誘い、惹きつける。時に「素」になる笑いまで挿入して「客」を逃がさぬよう「語る」伝奇小説ならぬ伝奇芝居は、唐十郎のそれに「テンション」においては似ており、純粋娯楽に徹した物語には潔さを感じた。
時間単位での情報量も恐らく普段の桟敷童子の芝居より多く、伏線など関係なく次から次と繰り出される、その密度の高さ。これぞ伝奇譚風冒険活劇たる所以。

愛のおわり

愛のおわり

こまばアゴラ劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/12/22 (木) ~ 2016/12/28 (水)公演終了

満足度★★★★

初演を観ていたが、それを今回の再演と見比べる「贅沢」を味わいたくアゴラへ。
台詞の殆どは覚えていないが幾つかの要素を思い出しつつ、しかし芝居は初演に比べ詰まっている・・台詞を繰り出す役割を担う者、止まりでなく、そこに存在する者として観ることができた。よくある男女の別れ、それが互いに熟年にずれ込んでいる事により、多弁はむしろ嘘の上塗りとなる(何も言わなければ・・ただ「別れよう」とだけ告げていたなら、そこで終り、芝居にはならないが頭の良い男ならそうしただろう)。
 もっとも台詞にもある通り、二人は全てを曖昧にせず対話してきた関係ゆえ、男は何かを語らねばならなかった。が、その本音を語るに色々と修飾を施さずにはおれず、裏切った側の疚しさを認めては意思(離縁の)を貫徹できないそうにないから「正しい態度」は取れず、その「不適切さ」を女は見事に掬い上げて指摘し、男に突きつけ認めさせたという寸法だ。
平田オリザによる改稿は、明らかにそれと判った部分もあり、どの程度変えたのか知りたくもあるが、いずれにせよ良い具合に台詞は流れていた(一箇所だけ語尾が気になる箇所があり「おや、オリザっぽい」と思ったがどこだったか・・)。
初演と劇場が異なり、今回は二人の表情を近くから見る事ができた。私の目にはっきり認められたのは女の苦しむ表情。男に反駁する姿は痛快だが、その根底には二人の間で言葉を曖昧に(都合良く)使わせないという意志がある。即ち二人の間にいかがわしい言葉を通用させたくない、かつて存在した愛が偽物だった結論には決してしないという意志である。
この女性の態度・・・好悪で人が離別する事はあっても尚言葉を交わし合う関係は続くのだ、と暗に告げる態度は、男に対する女の愛(=代替不能な関係)の告白でありながら、人間として向き合う(尊重し合う)関係を育もうとする意志・願望の表われでもある。それは言い換えれば希望だ。二人のドメスティックな事情を超えて、そう感じ取れるものがある。
 男女の関係である以上、恋愛である以上、好悪が事の次第を決めるに過ぎない。女はただ未練があるのだ、と一蹴することも可だ。男の心はとうに彼女から離れている。男はただ「そうなってしまった」己を恥ずかしく思っているようであり、その疚しさあってこそ、滔々と前半の1時間喋り続けた。が、男を手放す以上、どこまでも女が惨めなのであり、しかし一個の人間として、愛を知った人間として立ち続けようとする「意志」はやはり彼女自身に発するものだ。
女の男に対する舌鋒が束の間溜飲を下げる一方、足場を失ったような脆さは女の孤独を示す。そして「攻撃」でない語りを語り始める女は、「愛」が確かに愛であった証を示し、「気分」などによっては容易に無に帰せられないと、信じようとする、だけでなく相手に向かって断じる。現在と未来を変えようとするのでなく、過去についての認識、共有し得るものについての議論。いかにも虚しい議論にも思えるが、女は「過去」を現在形に引き戻しそこに「愛」が存在した事を確認しようとする。その「過去」は過去ゆえに虚しいものだ、という考えを彼女は意志によって選択しない。
 現実には時間は流れ、やがて状況も変化するだろうが、その瞬間には「終わった」と感じたとしてそれも一つの真実である。希望というものは強い意志を持って、血の滲む思いで引き寄せるものだ、という事だろうか。否、そうせざるを得なかった彼女が居たに過ぎない・・・主客論争(運命論)の滝に流れ込みそうだから引き返す。が、「感動」の理由は間違いなく「意志」にある。

途中に挟まれる絶妙なハプニングといい、憎い芝居である。

妄想の祭り

妄想の祭り

劇団森キリン

アトリエ春風舎(東京都)

2016/12/23 (金) ~ 2016/12/28 (水)公演終了

満足度★★★

随所で不覚にもうとうとしてしまったためかラストがラストと判らず、台本を購入。妄想する人物と妄想との関係は判りやすいが、関連し合うエピソードの「謎解き」性が弱く、「妄想」をめぐる思索の結論として、作者の真の動機が滲み出るようなものを期待したが今一つ「そうか」と思わせるドキッとさせる瞬間もなく、部分部分面白さはあるのに深め足りない感が残った。際どいテーマに触れる予感もあるが、「焚き付け方」がうまくないのか熱して行かず、勿体ない。凡そ人間の営みは「幻想」「妄想」の介在無しに為しえない・・人間の本来的使命に属するものでさえも(例えば恋愛・生殖・仕事)。・・そんな自己理解を現代人は既に獲得しており、一般的な形で妄想を語られても「そうかもね」で終わってしまうのではないだろうか。この芝居のエピソードの具体性、リアルさを「一般論」の俎上に戻すのでなく具体性を掘り下げる方へ持って行けばどうだったか・・・そんな感想。(いや、そうしたつもりだと反論されると、そうかも知れないなと思うが。具体から出発すると「妄想」というテーマも確定ではなくなる、という意味。それはさすがに・・だろうか。)

ジュラシックな夜

ジュラシックな夜

円盤ライダー

山野美容学院マイタワー27階(東京都)

2016/12/20 (火) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★

初・円盤ライダー。チラシでの認知2回目にして観劇は早い。劇団来歴も役者も知らぬが何となく気になり、村井雄(劇団ペナントレース)作・演出とあるのも後押しして(年頭の主宰劇団公演はインパクト有り)、開演日時も都合よく観劇に至る。此度は会場を山野美容専門学校27階ラウンジ。未知との遭遇に期待、して遭遇叶った事に気をよくして帰路についた。
芝居の方は力の入った、ナンセンスギャグのノリにして実態は男ばかりの体育会系ハイテンション会話劇。奇妙な間合い、テンション、動線も、余韻を引き摺っておかしみを残す。「脱線が成り立つ」スタンダードが提示・維持されていたという事だ。
 バーに既に居る客と、新たに訪れる客。ご都合主義でなく関係が結ばれて行く様が楽しい。他愛ない会話もいい。

ネタバレBOX

ラウンジのバーカウンターの方向をステージに、客席が並べられている。他の三方は高い天井まで届く展望窓から都内の景色を映じており、芝居に入る前段の儀式はこれに巨大なブラインドを引くことである。これが夜なら夜景、晴れた昼なら陰影の趣きと、芝居とは別に副次的な効果があった事だろうがこの日は曇天。始まりも終りも似たくすんだ都内の外貌であった。
合い言葉は「恐竜」。なぜ恐竜なのかは良く判らない。この判らなさが良い。
ローザ

ローザ

時間堂

十色庵(東京都)

2016/12/21 (水) ~ 2016/12/30 (金)公演終了

満足度★★★★

時間堂を2度目にして最終。十色庵は今回が初めてだった。
1度目は一昨年、短くて抽象的な作品だったと記憶。それに比べて、という訳でないが、今作は長編、ローザ・ルクセンブルクを「証言」で浮かび上らせる黒澤世莉氏の作。十分に作家だ。戯曲のメタシアトリカルな構造が演出的にも深められ、演出の放縦な?要求に女優三人+男優一人はしっかり応えていた。柔軟なモードチェンジが後半になる程加速するのに遅れず、(意外にも)手練れであった。意外、とは単に劇の開始時の印象との差だが。そしてこれも自分の中に出来ていた勝手な基準との比較で、最大の「意外」は、硬質な中にソフトな要素をまぶして間違いない作り、つまりレベルの高い舞台だった事だ。作演出家の意図が明快かつ舞台に行き渡っていた。
時間堂という劇団への、これも勝手な印象(HP等での)であるが、様々な試みがそれなりの質で達成されるが、その軸足が「作品」自体にあるのか「演劇的実験」にあるのか、演劇の「是」を広める事にあるのか・・それぞれ「演劇」というものにとって重要な要素ではあるが、どのあたりを「主として」担う主体たろうとするかはあまり気にしていないように見える。「注目される」事を一つの道標とイメージすると、一つ分野でのこだわりと模索が個性を浮上させ、人にそれを伝えるのではないか。・・んな事をこの度湧いた親しみと共に思い巡らした。

ネタバレBOX

登場人物はそれぞれローザと関わりのあった人物で、彼女の死後、ローザを持ち回りで演じながら死んだ彼女に対するそれぞれの解釈・心情・願望を吐露して行く。「演じる」者は赤のレースをまとうルールになっており、「演じ方」のうまさを評したり、観客に自分の印象を告げたり、「何の話だかね・・」と政治論議に茶々を入れたりする。この「茶々」の挿入が私には絶妙で、ローザの時代の「熱さ」と言葉の説得力の一方で、現代の日本の「空気」というものも同等に対置している。そこに作者のある種の強い意志が感じられ、好感を持てた。

アフタートークでのやり取りも興味深かったが、またいつか。

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