赫い月 公演情報 エムキチビート「赫い月」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    エムキチ2度目。ブレスを抜く「イケメン芝居」的喋りに冒頭から鼻白んだが、まァ「物語」を見てやろうと姿勢を整えた。

    ネタバレBOX

    車椅子の老人と孫(若い女性)。この老人の回想というのが、敗戦間際(1945)天皇直属部隊の隊員として目にした「劇的」エピソードだ。
    「現代」には老人と孫のみ登場、孫は婚前鬱というモンダイを抱えているらしく(後々仄めかされる)、最後には老人から勇気をもらって感動のエンディング。その間に「シュッとした軍服」のイケる男らの「二枚目」演技による忠義と青春の物語が展開する恰好だ。
    笑いもあるが「イケてる」前提でのボケは徹底せず(変顔禁止されたアイドルかっ)、そこでも鼻白むが、それは置くとして・・
    舞台美術は座高円寺1をしっかり埋め、傾いた床面がメインの演技空間で、その四隅から白い布が絡まって上方へ吊り上っている。正面奥の壁面には凹凸で何かの文様を刻んだ四角い大きな板がはめ込まれ、「帝国の中枢」という雰囲気を醸す。荘重な美術と照明等スタッフの仕事は前回と同様確かなものだった。
    過去場面は青春群像物語だが、ファシズムに通じる性質を感じてしまう理由は何か・・。閉じた環境の中でだけ、そのアレンジでの青春は可能になる。制服の着こなし、着て悦に入る様子も然りだが、男の世界という事が大きい。軍隊はいずれも男社会だが、そこに居心地の良さを覚え、友情や敬意、忠誠と守護の(上下)関係等の徳目を実践していると内発的に信じる様が、その中身である。悪いことは何も無い?・・いやいや。
    「いま目の前に居ないが確かに存在する敵」を軸に成り立つ甘味な徳目付きの集団は、フィクションを共有するカルト集団にもどこか似ている。その世界の主役である間は、青春は甘味である。今そこが本物の戦場になれば、あんな事言ってられまい・・という。
    終盤、敗戦を知らせる玉音放送を葬ろうと奔走する主人公と、本土決戦への「決起」を呼びかける隊員たちの行動がクライマックスを作る。だが所詮「戦場」とは遠く離れた場所での戯れ事に見える。半沢直樹風に言えば「タブレット上の空論」に振り回された愚かな姿である。だが作者は彼らを「間抜けで哀れな」存在として描いていない。英雄に近い。もちろん「老人」にとっての、というカッコ付きではあるが。
    しかし老人にとっても、あの時代は何だったのか。作者はこの特殊な、内向きにのみ可能だった「群像」の美にノスタルジーを抱いているようにみえる。
    主人公であるトウゴは最も若い(あるいは日の浅い)後輩として皆に可愛がられ、その「与えられる事」の甘味さとともに先輩らの「生き様」を記憶の海から呼び戻すのだが、よく見ていると先輩らの存在は彼自身の青春を「彩る」背景程度にしか重要でない。ただ居心地よく、格好よくみえる先輩に囲まれ、その中で認知され、可愛がられた成長期の甘酸っぱさを、懐古の対象として思い出している「像」に過ぎない。実際に過ごしたその「時間」に戻れば、あんなものではなかっただろう。老人の出来すぎた夢が、しかし舞台上で生身の人間によって展開され、「夢」オチとして相対化されるのでもなく、一応は現実にあった事としてリアルの次元で演じられる。マジなのだ。
    そんな中、内親王何がしという皇室の女性がトウゴの前に現われる(天皇直属の近衛部隊だけに)。彼女は最初からその目的であったかのようにトウゴに声をかけ、「したい話」をする相手として選ばれる。そこで未来の話、月の話、宇宙飛行士の話をする。この「選ばれし者」は、先言った男集団での徳目ゆえに救われるのでなくこの女性との遭遇によって救済される。彼女に存在を認められ、恐らくは愛情を抱く。ただしそれが「皇道」の実践なのか、異性への純粋な恋慕なのか、庇護者を求める心を埋める存在だったのか、は判らない。
    敗戦の日の朝、トウゴが玉音放送の音源を見つけられず憔悴していたところ、(都合良く)内親王と行き当たる。彼女は前言の種明かしをするように「戦争は終わったのだ」と彼に告げ、無意味な行ないをやめて前を向くよう促す。
    男らもまたトウゴには「お前は生きろ」と、なぜか判らぬが言う。男らは決起を快しとしない上官を殺し、討ち死にし、また自決する。ここでも「夢」機能が働き、今生きている私たち人間は、死者から生きるよう託された存在なのだ、というメッセージ(前作にもあった)を示唆しているのかも知れぬ。トウゴは「生き残った者」を表象している、という。
    だが実在した死者の思いを勝手に(生者に都合よく)解釈するのは江原啓之だけでいい。トウゴは「なぜ彼らは自分にだけ生きろと言ったのか」、その問いの答えを知ったのだろうか(これはこの戯曲から生じる、解くべき「謎」だと思う)。
    トウゴは男らの「像」としての美しさを舞台上に再現して我々に紹介する。「やせ我慢」の美学がそこにある。彼らの行動が「美しく」みえるのは、「美しくあろう」と彼らが振る舞っているゆえだ。相手を思いやり、楽観論を語り、ユーモアをまじえる余裕を演じてみせる。事実彼らは近衛兵として衣食に困ることはなかっただろうし、旧制大学の教養主義の風吹くキャンパスに似た「特権と気付かずに謳歌する」青春の青さは、「下々」を見ていない点で思想的にはうぶな代物だ。これを模したような「青春」の薄っぺらさがイヤな自分には、感情移入できる一片もこの芝居に見出せなかったが、三島由紀夫がお墨付きを与えそうな集団の描写には、トーンとしての一貫性はあったと言える。
    ところで、内親王とのエピソードでは、最後に思い出される彼女とのエピソードのキーワードを序盤に与えられる。即ち「宇宙飛行士」。それを具現させた「宇宙服姿」の男が、開演前から受付周辺~会場をゆっくりと歩き、上演中も客席の間や周囲、ステージ前を延々と歩き続ける、という一風変った演出がある。やや突飛な「宇宙飛行士」という話題を、こういう形で組み込み、伏線の緩やかな回収としたようだ。
    「現代」の孫が終幕に相応しい前向きな心境になるのは、老人が若い頃から自覚していた「痛みが判ってしまう」感受力を、孫に対し使うことによってだ。隊友や内親王との間でも彼は「痛みが判る」事で次にどうする訳でもないがその気付きを言葉にして相手に伝える。それで相手が癒される、という二つの伏線を、孫に援用する事で終幕に彩りを添える。
    その前か後か、冒頭を飾る2人の隊員の何気ない会話が、最後に再現され、時間を戻したか、「今も彼らの魂は時空を超え、在りし日の青春の場面を再現し続けている」的な隠喩か、いずれにせよ劇の終盤の気分を演出する。一つ気になったのは序盤の男同士の話の中で「聖書を読んだことがあるか」と一方が他方に話す箇所がある。「敵性思想や芸術に通じる事をも許す、自由な気風」がアピールされ、「青春群像」を構成する一要素になるが、その後のくだりは『ゴドーを待ちながら』に出て来る箇所そのままだ(確かそうだったと思う)。イエスの十字架の場面に登場する死刑囚の描写が4福音書それぞれに異なり、一つだけに書かれたエピソードを人は何故信じるのか・・という問いであった。結局男はその答えを知らず、どこかで聞いた話題を(他の話題と同様に)語るだけであるが、このくだりを何故ここでの会話に用いたのか、今ひとつ連想できなかった。
    総じて「リアル」には遠い物語が、何を伝えたくて紡がれたのか。そこにはやはり疑問が残る。

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    2017/01/22 03:31

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