チック
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2017/08/13 (日) ~ 2017/08/27 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/25 (金) 19:00
ドイツの人気作品の移入という。演出は雷ストレンジャーズの小山ゆうな。主役の少年二人は演劇界の今を時めく時生(柄本)、名前から七光な篠山輝信。ヒロイン役土井ケイト。その他(少年の父母など)あめくみちこ、大鷹明良。
チック(柄本)はロシアから転校してきた異端児で、クラスのいじめられっ子マイク(篠山)の目を通して見たチックが描かれ、物語はマイクを語り部として進む。そして物語は、マイクが意識していたクラスの女の子から誕生会パーティの誘いが二人にだけ届かず、チックが誘った車の旅(当然違法)にマイクが同行した事から始まる。旅は二人に不思議で貴重な体験を重ねさせるが、それはチックやマイクを取り巻く学校での境遇(社会での境遇の縮図でもある)や、マイクに居場所を与えない家庭との対比で、実に新鮮で、淡々と描かれる事実の連なりがやがて、人も羨む勇気ある冒険に見合う豊かな収穫となり、マイクが手にしただろう事が分かる。ドラマ上それがはっきりと観る者に分かるようなアイデアがこめられているが、原作を書いた作家の眼差しを、恐らくは観客は知ることになるのであり、二人がやがて日常に戻り、闘う事となる場面で力になるだろうこの体験の本質が何であるか、についても、今や観客の知るところとなっている。
・・これを何と名づけるか。例えば「愛」と呼ぶとするなら、この物語の「大人たち」の姿を探すのに手間はかからない。自分の周囲、人物ばかりでなく疑念と監視を奨励する社会そのものに、これの欠如、排除を見出すことができる。何をもって「闘う」のか・・無力に思える自分たちの実情を思うとき、彼らの姿が脳裏に印象的に浮かび上がってくる。
ワーニャ伯父さん
シス・カンパニー
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2017/08/27 (日) ~ 2017/09/26 (火)公演終了
満足度★★★★
ケラ演出チェーホフ、舞台上の設え(美術)は「まとまり感」と奥行きがあって良い感じ。冒頭舞台ツラでの芝居と、奥を仕切るのはゆったりと天井から吊るされたレースのカーテン、それがふわりと開いて中央の楕円の大テーブルが見える。ロシアの田舎だけに土地だけは広く家屋の間取りもゆったりな、質素ながらに瀟洒な屋内は、宮沢りえを筆頭に登場人物の風格とタメをはってバランスが取れている。
従って、見た感じは良いのだが、宮沢りえ演じる夫人の「田舎暮らしの退屈」はいまいち表現できていない。退屈しなくていいんじゃない?くらいに見える。この都会志向は、近代がもたらした社会構造の問題(チェーホフの四大戯曲にはどれもこの問題が根底にある)に触れる部分で、抜かせないはず。
また、ケラ演出の特徴として、時折(こたびは時折である)そこここに笑わせ所がある。逐一は覚えていないが、ラストの別れの日、夫人が籠の中の小鳥に同意を求めるしぐさが地味にやられていて、本気で笑わせにかかっているのかいないのか、微妙な空気が「ケラ舞台・・」と感じさせる片鱗。
他は割とオーソドックス、かつ、分かり易く作られていたと思う。
『+51 アビアシオン, サンボルハ』
重力/Note
WAKABACHO WHARF(〒231-0056 神奈川県横浜市中区若葉町3-47-1(神奈川県)
2017/08/31 (木) ~ 2017/09/04 (月)公演終了
満足度★★★★
重力/Note・・チラシで名は知っていた程度で、目当ては神里雄大作の演目。昨年STスポットでの再演(岡崎藝術座版)をニアミスで逃していたので、ふいに知った公演情報にラッキーと呟き、噂の若葉町WHARFへ足を運んだ。
岡崎藝術座は過去2作を目にして、「評判」の所以がつかめずピンと来なかった。昨年の「イスラ!イスラ!イスラ!」(STスポット)は、長い一人語りを5人がリレーで続ける饒舌なテキストで、語る内容のディテイル掘り下げ具合や何かに、「応用編」的ニュアンスを嗅いだので、基礎編は「アビアシオン」だろうと踏んだというのもある。数年前観たのは抽象度の高い舞台で寡黙、コンテンツも薄いところ、ある実力派俳優の風情(居るだけで様になり何やら意味深に見える)に頼ってどうにか持った作品、正直そういう感想を持ったのだが、作演出の一貫したテーマへの一つのアプローチ、とも思われた。だがその場合はテーマを知らなければ到底解読困難、普遍性に欠けると言わざるを得ないわけで、ただアートの世界にはままありそうにも思え、「アート志向」の強いF/Tトーキョー出品作の一つにも過去名を連ねていたのを思い出して納得したような事だった。
その系統の作品からすると、「アビアシオン」といい「イスラ」といい俳優が身体を動かす間も無いほどの多量のテキストが、作者の創作意欲の大部分を占め、事実今回の舞台も、ダイアローグは皆無、一人称の「私」が喋り続ける言葉を三名の俳優が分担し、何らかの「動き」を付すことで「これはリーディングではない」と、峻別には辛うじて成功していたものの、対話でないテキストを喋る身体の「動き」は、通常の演劇での「内容に即した動き」にはなりえない。
演出はリーディング(テキストを発語する)行為とは別の行為を俳優の身体に要求していたわけだが、テキストの叙述にとっては妨害にもなりかねない前半が形作られ、後半には情景描写のテキストに寄り添った「内容に即した動き」が成り立つ部分があり、音響と動きによって「終わり」が示され、ある種の「演劇を見た」後味は残した。
一人称の語り(登場人物一人が自分の台詞を吐き続ける)は、「地の文」のみが続く小説などのリーディングに近い。従ってこの作品の力は、テキストそのものにある。フィクションではなく作者が実際に見聞きした旅行見聞記に属するこの作品の強みは「実際に見聞きした」事物と、己自身との距離感の絶妙な表現にあり、引き込むものがある。
ただ、この一人称は、本来同化しえない他者のリアルを想像させる媒体にとどまる。文学の領域に思われた。
このテキストに独特な演出をほどこした重力/Noteは、テキストと距離をおきたいのか、親和的なのか、いずれにしてもテキストをよりよく観客に届けるのに成功したのかしなかったのか、様々な試みは見られたが、この芝居の「見方」を提示するべき序盤から前半、「演出」にこだわり過ぎて逆に退屈、というか言葉が入りづらい。演出のし甲斐は無いかも知れないが、客とこのテキストに出会わせることが、このテキストを選んだ使命であって、客が知らないテキストを知らない内に解体してしまっては意味がない・・という基本的な認識に照らせば、演出権限の発動を我慢し、まず最初に丁寧な「提示」、役者という身体に馴染ませることも含めたその時間を用意しなくちゃあかんのでは・・というのが素朴な感想。試行錯誤の結果今回の形になったのだとは思うが。
小竹物語
ホエイ
アトリエ春風舎(東京都)
2017/08/24 (木) ~ 2017/09/04 (月)公演終了
満足度★★★★
ホエイの作品も「珈琲法要」は再演で観たし、割と網羅しているかも・・?という自負は評価にあまり関係ないが(毎回題材もテイストも違うし)、河村竜也と作品提供する山田百次のユニットが二人の実験場でありつつも芝居のクオリティの平均値が漸増していることを感じる。
「怪談」「くすぶるアイドル」「狭い業界」の鄙びた情景が目だった綻びなく見える中に、特に見なくて良い人間模様が目に入って来てしまう・・という気詰まり感を愉しむ(笑う)観劇の時間であった。
霊や「死」が意外に隣合せであるという事実が、オチになるというより身も蓋もなく露呈し、ガイコツ踊りが笑えるのと同じギャップで笑える。
菊池佳南の人物・素材としての安定感は好もしく、プライベートな修羅場が公然と展開する終盤では目に涙、心情は十分表現され伝わるにもかかわらず、深刻にならない天性の佇まいがあって、舞台を大いに助けている。各人、「怪談」番組の出演者としての登場とあって、個性的。また仕事を終えた後に借りた部屋の備品を原状復帰する作業はアトリエ春風舎の現場感で、「裏側」がリアルにみえるのが良い。
シアンガーデン
少年王者舘
ザ・スズナリ(東京都)
2017/08/18 (金) ~ 2017/08/22 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/21 (月) 19:30
現代の正統的なアングラ、と評したペーターゲスナーの言葉を思い起こす、(ここで言うアングラは恐らく状況劇場のそれに近い。)意表をつく、だけでなく普段気づかぬ本質的な何かに触れる、言葉遊びと奇想天外な劇的展開が、哀切のトーンの中に幻影のようにめまぐるしく、懐かしく生起し、やがて消え去る。
この劇団を初観劇とみえる若者が「すっげぇ面白かった」と、一人ならず感想をもらしていたのが妙に嬉しかった。
二輪草
metro
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2017/08/09 (水) ~ 2017/08/13 (日)公演終了
満足度★★★★
濃密な70分であり、月船さららの女優としての意気込みを感じさせる一人称語りの舞台、ではあった。
江戸川乱歩の猟奇的文学の世界は、地の文の語りによって伝わってくるし、古めかしい部屋、年のいった雇われ人の風情、畸形の造形もリアルに迫っている。
それだけに、演技的に迫り切れない部分がくっきりと見えてしまう憾みはあった。
「不幸」という言葉と、それを発する本人の自覚とのギャップが、おそらく哀れみを催させるポイントであっただろうが、どうだったか。「人と違う」ことへの気づきの「途上」のぼんやり感は表現されていたが、その悲しみ、恐らくもっと物事を知ればより絶望へと近づくであろう、心情の「まだその先がある」予感が見えていたかどうか。基本的に容姿に恵まれた者が未体験とならざるを得ない「心情」の表現に、肉薄しようとした足掻きは見えたが、抜けきれてなさも残っていたのは否めない。
転がる石に苔むさず
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2017/08/01 (火) ~ 2017/08/08 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/04 (金) 19:30
公演期間にこのページはUPされていなかったので遅れて投稿。
オイスターズでしか見ない平塚直隆ナンセンス芝居、俳優座がやるというのだからやっぱり観ておこうと足を運んだ。
俳優座には老練俳優という笑いの武器があった・・企画段階で狙いがあったか知らないが、異色の舞台になったことは確かだ。私の観た回では老俳優の筆頭、90代の中村たつが体調不良で降板、かなりイメージの異なる代役(予め準備されていたという)の方が「(干支は)たつ!」と名前にかけた台詞を台本に忠実に言ったのも寂しく、だいぶイメージが変わったのではないかと思う。
ナンセンスを掘り起こす平塚戯曲だが、「良い話」にまとまることがある。絶妙なところに収めるのが作家の腕の見せ所だとすれば、今回は良い話のラインへの「蹴散らし」がどうだったか。中村たつという女優の風貌しか知らないが天然の破壊力が絶妙なバランスをこしらえたとしたら、やはり代役ではつらい、という事になるだろう。
だがこの手の芝居=奇妙芝居とでも呼んでみる=が益々上演される演劇界でありたい。
解散
江古田のガールズ
サンモールスタジオ(東京都)
2017/08/12 (土) ~ 2017/08/20 (日)公演終了
満足度★★★★
初、江古田girls イン・サンモール。意外やまともに演劇である、という印象。勝手な予想と違ったというだけの事だが・・。
荒唐無稽さや笑いへの貪欲も、劇団員(今回は二名が中心的役で登場)のエンジン全開で自在な立ち回りが幻灯機の光源のような按配に周囲を照り映して、ある「信じられる」世界が構築され、周囲の俳優も皆、「演技」的に(主に笑いに向けて)全力で表現に勤しんでいた。表現アスリートといったところ。
俳優の技術レベルが予想外であったことと、若さ、輝き(年寄り臭いが・・)を引き出しそれをフル活用した躍動的ステージは成功と言えよう。
このステージが、江古田のガールズのスタンダードであるかどうか、そこは判らないが・・共通していそうなのは、細かな粉末のようにまぶされたチョイ毒ありの<笑>のネタで、またいつか味わってみたいと思わせた。テンション高し!
ナイゲン(2017年版)
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2017/08/11 (金) ~ 2017/08/21 (月)公演終了
満足度★★★★
評判を呼んでいるだけの事はあり、再演が重ねられたからこそ観られた「会議もの」劇の感想。
我々が直面しがちな「選択における葛藤」が、ナイゲンという会議で制限時間を使い切る迂回の仕方でフルに展開。高校生の設定ならでは、と言える子供っぽい反応な部分も含めて、「あり得る」展開のその結末は・・。
一言で言えば、結末よりは「ちゃんと会議してる」事に溜飲が下がる。皆がクラスを代表している事情もあって、エゴ、いい加減な論理、無節操、付和雷同なんでもござれだが、それでも「この結末だから」でなく、やはり「結論を出すために頑張っている」プロセスに注目させられ、「一件落着」を望みつつも、私などは会議やってるよ高校生が・・と、会議礼賛派であるこの芝居には手放しに一票である。
ルート64
ハツビロコウ
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2017/08/05 (土) ~ 2017/08/11 (金)公演終了
満足度★★★★★
「ドグラマグラ」をハツビロコウの前公演と勘違い(同じ役者もいたし)、意外なペースに驚いたが前回は三菱重工爆破事件のあれだった(タイトル失念)。それはともかく今回は配役四人という人数が絶妙に感じられる(て事は俳優が役を演じ切っている証)濃密な舞台。集団的な犯罪に手を染めた者たち、前回のに通じるが、劣らぬ緊迫感、と同時に異なる切り口を見せ、殺人組織になり果てた件の教団の事件にスポットを当てた。初演から月日が経つが古さを全く感じないのも驚き(上演台本への改稿のためだろうか)。
プレイヤー
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2017/08/04 (金) ~ 2017/08/27 (日)公演終了
満足度★★★★
イキウメ初期作品を改作、私はオリジナルを知らないが宣伝文句によればプレイヤーとは即ち身体を失った者(=死者)の言葉を再生する者(いたこ的な)であり、改作版ではオリジナルの劇が劇中劇になっているという。
前川知大=イキウメのテイストはもちろん充満しているが、ある部分で長塚色(といっても三作品ばかりしか知らないが)が顔を出す。
超常現象の介在により、「科学」の仮面をかぶった「常識」の向こう側を予感させる時、イキウメの場合は不安と希望が混在した中、不可知領域に粛然としながらも「希望」にもなり得る可能性が救いとなるが、長塚圭史の人間観は暗い。プレイヤーという人間の新たな可能性が示されても、だから何だという感覚、それによって人間はどう存在し続けているのか、という眼差しが容易には変らない。だがその眼差しをすり抜けて事態が先行する可能性、そう考え得る余地は残される。
脚本としては主要人物の最後の行動は言行不一致に結果し、動機が分からないがドラマとしては引き締まる、という流れを優先していたかに見えるチョイスは、前川氏はやりそうになく、暗いが情緒的な劇世界に傾く長塚氏のチョイスというのは外れだろうか。
この芝居、ある地方作家の遺作であり未完成の戯曲を舞台化する稽古場が舞台。稽古風景と、劇中劇の展開がやがて交錯して劇だか現実だかが不分明となる。これはむろん意図的で、宣伝文句にも謳っている様相な訳だが、甚だ心地よい。もっとも目的は心地よくするためでなく、最終的なオチの迂遠な伏線であったという風にも言えるのだろうが、思いつく結語なのにかかわらず、意外に納得させられる終幕だった。
このお話が人間の体温の流れるドラマであった事を証しし、得体の知れなさも残るという、不安と希望の混在という本来の(人間にとって望ましい?)地点に帰着した。
ハイバイ、もよおす
ハイバイ
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/07/29 (土) ~ 2017/08/12 (土)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/07/30 (日) 18:00
ハイバイ番外公演というよりはみ出し公演、というか在庫一掃セール。あるいはまた「もう一度ちゃんとやりたい」公演?
(私の記憶が正しければ)どれも新年工場見学会で披露された作品をKAAT用に仕立て直したもので、程よく作り込まれ、程よく力加減が抜けている。「もよおす」とはつい生理的にモヨオして生み出された作品集かと思えば、大スタジオに組まれたのがお祭りか縁日に境内に仮設されたような裸舞台で、どうやら夏らしくモヨオシをやるのらしい。
お馴染みの岩井氏の前説では「飴のチリチリ」は気にしない。途中携帯での撮影を奨励する場面があるので「機内モード」で結構。三演目の合間に岩井氏のMC入りというそんなユルい催しであったが、それでもこうやって正規に上演されてしまうと次回の工場見学会は・・と少し心配気にもなる公演であった。
アトリエヘリコプターでの「出し物披露会」でやったのと同じ笑いがこの劇場でも起きるのは作品のクォリティの証明でもあるだろうが、あの会で「こんだけ真剣に馬鹿やるか」とは、「立派な劇場」ではなりづらかったナ・・そんな感想は、半ば「秘め事」のように胸の中にしまっていた記憶が公式に開陳されたことの淋しさの反映か? よく判らないが、恐らく今なお「しまっておきたい」作品体験である事を、今回の上演で確認したという、自らの心理を解説すればそんな具合であったように思う。
ビリー・エリオット
TBS/ホリプロ/梅田芸術劇場/WOWOW
赤坂ACTシアター(東京都)
2017/07/19 (水) ~ 2017/10/01 (日)公演終了
満足度★★★★
「市民」の付くミュージカルには何度か巡り合ったが、「本格的」なミュージカルは初めて(映像で『Rent』を見た位)。本格的、の範疇が「ある」と考えている理由はあるのだがそれはともかく・・。音楽(歌)、踊り、芝居(演技)の三要素が拮抗し、相乗効果をなして一つのドラマが構築されるミュージカルでは、技術の鍛錬や稽古、つまり努力によって合格ラインに到達するという舞台裏のストーリーがあり、洗練された技術、芸に対する感動にはこの要素が不可分にある。
今回の「ビリー・エリオット」はリトル・ダンサーという副題(原題)通り、ダンスに目覚めた少年が困難の中、その道を進むという話。イギリスの炭鉱町が舞台だ。
この英国ミュージカルの日本版、私は全国の応募者(確か1000人位)が一年間のワークショップを経て最終的に5人が勝ち残る、との報に触れて単純に興味が湧いた。「舞台裏のストーリー」をウォッチし始め、まんまと宣伝に乗せられた訳である。
「訓練期間」を兼ねたワークショップという手法もうまい。結果的に不合格となった子供たちも一年を無駄とは思わないに違いない。その子らやその親族関係者も一定程度観客動員に見込めるという制作上の戦術もありそうだ。
舞台は「Rent」や映画の「WestsideStory」もそうだが社会性が高い。エネルギー政策の転換時期を迎えた炭鉱町でストライキだ何だと会社との「闘争」に明け暮れる町の人々。日本では1950年代だったがイギリスではサッチャー時代、80年代に今で言う新自由主義路線へ舵切りがなされて労働争議が燃え上がる。その報道映像が冒頭に流される。
少年がダンスに触れ、教室の先生に見込まれていくストーリーと、炭鉱の物語が並行し、時に少年にとって障壁として立ちはだかるが、最初に流れるドラマの基調となる音楽は「闘争」の場面で労働者が機動隊と対峙して正義を問う歌だ。このモチーフが中心に据えられ、ユーモラスで多彩な場面・歌が展開する。そして披露される少年のダンス、そして「成長した(あるいは本人の夢の)ビリー」と競演するシーンには「舞台裏」のストーリーが重なる。「本格的」ミュージカルの本領が発揮される瞬間の一つでもある。だがそれだけでは「本格的」には達しない。楽曲がよくなければならない。ドラマの創造ともう一つの柱が楽曲であり、これが世界観を作る。
ミュージカルファンは(多分)、耳が捉える抵抗しがたい甘味な音を、想定して客席に座る。演劇にも音楽が大きい役割を果たすことがあるが、それは結果論で、ミュージカルを見ようとする心は、その結果を見越しているのだ。この種の感動が、演劇の感動の一つとは言えても中心的なものだと言えるかどうか(否、と私は言うが)。
だが、これはドラマであり、ドラマ性を濃縮した表現だ。
奇想の前提
鵺的(ぬえてき)
テアトルBONBON(東京都)
2017/07/21 (金) ~ 2017/07/30 (日)公演終了
満足度★★★★
鵺的4公演目の観劇。「この世の楽園」あたりで劇団名を認知、「丘の上、ただひとつの家」で漸く初観劇、ヒューマンドラマかサイコドラマか・・「悪魔を汚せ」でサイコホラー路線を確信。これは作者の志向というより好みの問題だろう、と。また同公演から寺十吾を演出に迎え、今回も同コンビ。そして少年王者館・夕沈ほか俳優陣のユニークさが目を引いた。
装置はパノラマ島に建設された異様な建造物の内側。照明効果で闇になじむ建物を、若者三人(男一人女二人)が訪れ、二人に「ここすごく気に入った」と言わせ、一人に「耐えられない」と言わせる。その台詞が納得の舞台上の空気がまず観客を引き込み、事態の経過が見守られていく。
結論的には、脚本の粗さを、大胆にホラー色に突っ込んだ演出がフォローしたか、むしろ粗さを際立たせたか・・評価が分かれる所だろうか。
『部屋に流れる時間の旅』東京公演
チェルフィッチュ
シアタートラム(東京都)
2017/06/16 (金) ~ 2017/06/25 (日)公演終了
満足度★★★★
☆思い出し投稿☆
「現在地」を観たときに通じる、よ~く観て聴いていないと「ほわ~ん」とした時間の流れに心地よく浮かんで流されてしまう、静かな演劇。「現在地」より音楽は押さえ気味か。その分、親切でないが、言葉で広がる世界を重視したのだろう。
「現在地」は震災後の人間の「関係」と「心」に起こり得る現象を、先取るように描こうとした意欲作だったが、「恐れ」が現実から目を背けさせ、今に安住させる、ある種の自己操作を行なう人間のあり方が対話の中で顔を覗かせる。被災地にとどまる人間の心情を台詞化したようなもの、と私は感じ、「だから何だ」と思わなくもなかった。
「とどまる人々」が蔑視される現実どころか、「脱出した人々」が白眼視される現実が、すでに当時、公の部門が被害を「認めない」姿勢から必然に導かれることへの心配のほうが大きかった。
今回は、大変シンプルな、三人のみによる舞台だ。現在を生きる夫婦(恋人同士だったか)の家に、男の元妻だった女が霊として登場し、特に後半は延々と、自分の死を含むあれこれを語る。能のイメージが重なった瞬間もあった。三者は会話を錯綜させず、「現在・未来」へと向かおうとする女と男、過去の事柄を語り続ける女とその話を聴く男・・その単純な構図も、そのイメージに繋がるものがあった。
が、言葉の大半が耳に入って来ず(例によって睡魔にも襲われたが)、どの被災について言っているのか、あるいは特定していないのか、焦点はその「災害」にある事を十二分に仄めかしながら、台詞の大部分はうまくそれを回避し、十二分にじらして「それ」に触れる、というそんなテンポで進行していたように記憶する(眠っていた時間のことはいい加減に書けないが)。
このテキストの「効果」は、日常の中に「災害」の事実を、いかに忍び込ませるか、という戦術上の効果だ。そして、それ以上ではない。
マス=不特定多数を意識する(とみえる)岡田氏は、被災の事実を多くが忘れているマスの大衆の感覚に寄り添いながら、周到に、「災害は、ホラ、ここに私がいるように、あったんだよね」と、やんわりと触れ、そして「災害を思い出す」地点に軟着陸させる、という事になるのだが、この「効果」のみに照準し、それのみを言ったという、この舞台をどう捉えれば良いのか私には分からない。
ある人々に対しては、大変有効な戦術なのだ、という事になるのかも知れない。政治的・時事的な事柄を扱う芝居は、受け止め方に大きな差が生じるものだろう。が、私にはこのリマインダー公演、総じて情報量が少なく、(台詞の)目新しさもなく、ネームバリューが料金を引き上げているな、というのが今の正直な感想だ。
-平成緊縛官能奇譚-『血花血縄』
吉野翼企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/06/22 (木) ~ 2017/06/24 (土)公演終了
満足度★★★★
☆思い出し投稿☆
岸田理生フェス観劇3年目(全演目は観ないが)。吉野翼企画は見ておきたいユニット・・という記憶を拠り所に、「血の縄に花咲く」なる怪しげな題名を訝りつつ観劇に臨む。緊縛師エリアが舞台奥。それを囲むように位置取った母と娘7人が一人の男の玩具になっている。それぞれのやり方で調教された女たちが淫靡に求めよがる様は、主人公である思春期の末娘が覗きみる(あるいは思い描く)「大人の(女の)世界」の光景である。娘が大人(女)に変わる瞬間がやがて訪れる。その契機は男の玩具に見えた女たちが己の欲望のために男を利用していたという反転に重なり、その時点で男は操り手を失った人形のように頭を垂れてひざをついたまま動かなくなる。
今や、女性が欲望の行使の主体である事など常識の枠内だが、ライブで奏でるクオリティの高いギターと声が女たちの高らかな宣言(欲望に生きる告白)に随伴し、クライマックスを演出するとき、爽快さが駆け抜けた。古さを感じながら、しかし「今改めて」という気にさせたのは、同時進行で情動を突き動かす音楽=生演奏の功績だ。舞台の視覚的な美と音の融合が見事なアート作品。
中橋公館
文学座
紀伊國屋ホール(東京都)
2017/06/30 (金) ~ 2017/07/09 (日)公演終了
満足度★★★★
文学座の「劇場公演」二度目の観劇。アトリエ公演との差異に驚いた「食いしん坊万歳!」に感じたのと同様の感想、即ち「あァ新劇団なり」。
同時期のあうるすぽっとでの三好十郎「その人を知らず」とも連携した、「戦争を考える」演目の上演という事で、あうる公演に感じ入った二日後、紀伊国屋ホールの後部座席で遠目にみる舞台はいま一つ、眠気を飛ばす熱量はなく、戯曲の時代的な限界もあるように思えた(作眞船豊)。舞台は終戦直前~戦後の北京。中国奥地やモンゴルでアヘン中毒の治療に奔走して数十年を殆ど家に寄らずに過ごした齢八十を超える家長と、その「身勝手さ」に反発する長男の対立構図を軸に、家長の妻、にぎやかしい娘たちとそれぞれが抱える家庭の成員、知人らが出入りし、最後には帰国を決意した長男との離別の場面を迎える。既に日本に住む彼の息子とのことを気遣い、離れ離れになっても家族であることを切々と説く母親の「思い」に家族が静かに心を寄せ、「時代」とそれに翻弄された自分らを振り返る・・皆がひとしく先行きの見えない身であるこの時をかみ締めつつ。・・そういう閉じ繰りであったと思うが、他郷に生まれ育った家族の、別れの中に「戦争」「侵略」は影を落としているものの、人物たちの「苦労」はせいぜい、その「離別」くらいである。反戦メッセージを戯曲そのものに重ねるには、現代では無理ではないだろうか。
異郷暮らしが二世代に渡った家族の時間を描いたということでは、貴重な「記録」ではあるが、今切実に知りたい情報でもなかったりする。。他郷暮らし、と言えば「在日」の境遇が問題群としては近いものがある。
基本コミカルなタッチ、上村演出は意表をつく「歌」の活用で、舞台の停滞をかわしていて、その部分はよい味を出していた。ただ、喜劇調が生きるのは、一方に厳しい状況や出来事が横たわる場合であるが、この芝居では状況の切迫感がなく、北京での日常が「逃亡」の必要さえもぼんやりとしか感じられず進んで行くように見える。コミカルさと切迫感の共存は無理である、と私は思ったが、それは高齢の父の「らしくない」形象に典型的に表れている、ように思えた。戯曲上、戦前の家長のリアルな芯がほしい所、年齢に届かない俳優が扮装してガシガシとかくしゃく老人を演じると、家に戻れば台風のように引っ掻き回す大男のコミカルさは見えるのだが、有無を言わさぬ威圧感、存在感が薄まり、ドラマも薄まった気がする。
不埒
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2017/07/15 (土) ~ 2017/07/23 (日)公演終了
満足度★★★★
今回はキマった。カゴシマジロー、龍坐の姿を久々にTRASHで見る舞台でもあった。彼らを当て込んで厚みのある役を書き込んだかのように、芝居の進行につれ重度が増す印象は不思議な感覚である。「論」が勝つことなく、人間味溢れるドラマとして締めくくられていた。
前半は中津留節の強引さに戸惑うも、背景説明の手際の問題。徐々に見えて来る人間模様の風景と、そこから滲み出てくるテーマ性が鋭角的である。「次」を予測できず、目が離せない。
「身勝手な男」の本質とは何か・・この切り口で壮大な日本論を展開する作家の手腕に今改めて感服。「本人は真面目」で笑いを取れるカゴシマの強みが、終盤、説明的モノローグになろうと温かみを殺がれない人物の一貫性に発揮されて、溜飲を下げる。
対する龍坐の、終盤明かされる彼の「秘密」を巡ってのカゴシマとのやり取りを、星野卓誠が見ている構図も見事である。役者の勝利か、脚本の勝利か。答えは出ないだろう。(なぜなら彼らはTRASHと一体だから。)
「ドドンコ、ドドンコ、鬼が来た!」
椿組
花園神社(東京都)
2017/07/12 (水) ~ 2017/07/23 (日)公演終了
満足度★★★★
久々に椿組野外公演を観に参じた。全身汗まみれを覚悟である。
秋之桜子&松本祐子の作演出コンビ自体が初めてでその品定めも兼ねた。序盤、野外劇=祭り気分の盛り上りを先取りしたノリに、オッと躓きそうになりながら、前半駆け足で伏線を仕込んだ後の二幕は、じっくりと見せた。終わってみれば初日。屋台崩しも物語に即していて見事に決まった。役者は駈けずり回っていた。その汗と涙にもほだされた。これから酒を振舞うのだとか。夏は、そうだ祭だ。
怪談 牡丹燈籠
オフィスコットーネ
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2017/07/14 (金) ~ 2017/07/30 (日)公演終了
満足度★★★★★
扉座、桟敷童子のとは一味違う〈すみだパークスタジオ〉。奥行間口は広いが天井低く、夜の倉庫の四隅や、視界の届かぬ向こうが闇に溶け、入れ替わり立ち替わる光景が幻のようで、現のようで。ある夜の寝物語にみた夢のように判然としない、あの錯覚を瞬き一つで起こす闇を背に、虚実の結界をゆらゆらと辿るような時間であった。
演出は大手プロデュース舞台を多く手掛ける森新太郎、俳優は抜かりない演技を繰り出すが、舞台中央に据えられた縦の軸にゆっくりと回る(時に速度を増し、時に止まる)横広のくすんだ厚布との間合いや位置取りは見た目以上に難事だったのでは・・。
太田緑ロランス、松本紀保、山本亨、西尾友樹、児玉貴志、青山勝、原口健太郎、花王おさむ、松金よね子・・(主賓らしい柳下大は名も顔も初見だったが)、現代の衣裳が次第に違和感なく、むしろ役者の的確な芝居により「牡丹燈籠」を確かな手触りでこの瞬間に存在せしめた。
人間の業に絡め取られ、欲に突き動かされ、あるいは巻き込まれ修羅の場に轟然と立ち尽くす終幕の彼らは血にまみれて立つマクベスのラストの残像に通じ、破滅のカタルシスをめらめらと放射していた。美しい。その場所に立つ事はないと信じて眺め興じる己らだが、自らがそこに立って生きやう(死なう)としたのがミシマであったという事かな、などとふと思う。