会社の人事
一般社団法人横浜若葉町計画
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2020/01/12 (日) ~ 2020/01/20 (月)公演終了
満足度★★★★
通りに面し時折エンジン音が間近に通過する会場だが、「演劇」の魅力的な発生地である事をまた一つ実証したと満悦至極(単なる好みという話も..)。昨今痛感する事は、演劇も芸術もゼロベースで、白紙の心で鑑賞してこそ深く飲み込めるもので、期待(想定)に応える力量を持った出し物も良いが、芸術の価値という事を考えるに、観る者を裏切ってナンボでないか、と。若葉町ウォーフで観たパフォーマンスは既に多分10を数えるが全て、鑑賞前にゼロ地点に観客を連れて行く空気がある、と感じる。
さてお芝居。ユニークな作品だ。30年前に書かれた戯曲だという。ただし「平成の30年」という台詞もあり、今回のために書き改めたらしい。三人の会社員が物語の主たる構成員で、皆おっさん。他の三人は、超越的存在もしくはおっさんらを近未来から眺める存在(皆若者)。「会社」で起きている具体的な事象はうまく掴めなかったが、不思議な味のある台詞が劇空間に浮遊して心地よいものがある。
30年前すなわち1989年ベルリンの壁崩壊から雪崩打っての1990年冷戦終結。言及される地下鉄サリンと阪神淡路大震災は、その5年後だ(今回の加筆という事になるが隔世の感が半端ない)。
歴史を俯瞰した心象風景を刻み付けようとする言葉は根源的な「何故」の問いであり、人を共通の土俵に立たせる。私の好みである。予め答えが決まった問いが純粋な問いとして発せられる道理はない。利害を離れた問いの多くは人を解(真理)に向かわせ、競いつつも協力していく光景を生み出す。学生の頃は見慣れていたはずなのに、人生でそういう瞬間にあと何度巡り合える事だろうか。
つかの間の道
青年団若手自主企画 宮﨑企画
アトリエ春風舎(東京都)
2020/01/08 (水) ~ 2020/01/13 (月)公演終了
満足度★★★★
若い書き手が無隣館を経て青年団若手自主企画として打ち出した舞台。ラストに登場していた役者だけが礼をして去る(カーテンコール無し)という青年団の習わし等、現代口語演劇のフォーマットを踏襲していたが、世界観と筆致は独自に確立されつつあるものがあり、三つのエピソードに共通する主題「自他の別のあやふやさ」が切なく響きあっていた。混沌のこども時代から「他者ならぬ自己」へ脱するプロセスを系譜学的に回想すると、集合から個がはがされた近代というものがぼんやり重なって見えた。
十二人の怒れる男 -Twelve Angry Men-
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2020/01/10 (金) ~ 2020/01/20 (月)公演終了
満足度★★★★
密室討論劇の古典(始原と呼ぶのが適切かも)に若い俳優らが挑んだ舞台。半強制的に集められた雑多な出自と背景を持つ者の集団が、一つの結論を導き出す目的のために言葉を闘わす。「ナイゲン」や「桜の花の・・」でも、作り手は真剣であったのだろう、そう思わせるfeblaboの真摯な芝居作りが見えた。演出的作為の跡は勿論あるが役者はその演出的「枷」を逃げ道とせず、即ち役の貫徹に傾注しており、戯曲の懐の深さを改めて感じる観劇でもあった。古い海外戯曲の制約を、どうクリアしたのか、テキレジをやったのかどうか判らなかったが、会話の距離感やニュアンスに現代性を込滲ませつつ、原典が求める微妙で重要な役どころ(偏見に凝り固まった男、個人的感情を持ち込む厄介者など)も押えていた。
利害を離れた「為にしない議論」があり得るという事、言葉に頼むしかない議論こそ民主主義の要である事、といった教科書に載せても良い位の啓蒙的作品だが、この古典作品のメッセージが身近に立ち上って来るのは現代日本人キャラの造形に依る所もあのだろうが、それが骨太に成立しているのは意外であった。
ハツカネズミと人間
Triglav
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2020/01/10 (金) ~ 2020/01/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
2018年末大森の地下スペースで『ピローマン』の見事な上演をやったTriglav。今回は神奈川の青少年センターHIKARIスタジオで前作とは随分異なる舞台風景だったが、期待を裏切らずクオリティの高い舞台であった。ほぼ真四角の舞台を三方客席(二段若しくは三段)でゆったり囲み、平台箱足を組み合わせて全四場四通りの装置を組む。
同演目は10年以上前に東京芸術座の渋いアトリエ公演で観て印象深い舞台だったが、終盤の強烈な展開は忘れようもなく、にも関わらずその時点に至る場面場面が新鮮に立ち上がっていた。
以前の多目的室を改良して「小劇場」に生まれ変わったHIKARIスタジオの劇場としての可能性を展望させる舞台でもあった。
放送禁止演劇人寄席
劇団東京ミルクホール
ザ・スズナリ(東京都)
2020/01/08 (水) ~ 2020/01/08 (水)公演終了
満足度★★★★
お笑い寄りの演劇人との印象を裏打ちした。過去にも行なったタイトルだが今回は初の試み、公演参加枠を広げ他流試合の一回切り公演。しかもスズナリという事で気合の入った企画であったらしい。
前方席で見た。準備が足りなかったか噛みまくりの出演者も含めて、堂々たるもので「笑い」がしっかり提供され、ネタも役者のタイプも多種多様、被る事なくどれも旨い中華コースを味わった気分。
別レビューで(時局に触れるネタでの)「笑い」の難しさについてこぼしたが、どの演目も十分に毒があり、予定調和的な笑い(ストーリーが快調に進んだり期待感を高めた時におふざけをやるタイプの、演劇でよく使われる)とは一線を画する。「放送禁止」のタイトルがどう影響したか判らないが、偽証と証拠隠滅と情報の糞詰まりが常態である「臭い物にフタ」の現社会では、放送に乗らない方に理があり、今後状況が腐れば腐るだけ優良情報・表現は地下化し、容量は膨らむ事だろう。先日すごした寄席での2時間と同じくお値段も手頃だが、中身の濃さはこちらが勝ったというのが率直な感想。
新年工場見学会2020
五反田団
アトリエヘリコプター(東京都)
2020/01/02 (木) ~ 2020/01/05 (日)公演終了
満足度★★★★
今年は初日の工場見学。昨年までは思いもしなかったが幅狭の椅子に3時間の長丁場を嫌って「ザ・ぷー」の出ない初日を選んだ。周りを見れば、以前は散見したご高齢のお人は今回一人も見当たらず(私の目には)、せいぜい自分より年下だろう年増の類が数える程。若者率の高い劇団は他にもあるがここは少し雰囲気が違う...と話し出せば長くなりそうなので割愛。
黒田大輔不在の為、「なあ大輔洋介・・」と二人に声掛ける前田司郎という図が見られず、それを気にしたネタ、というより本音トークを最後までやっていた。
演劇の方は二つとも基本パロディだが、五反田団はネタとして入れ込む感じ、ハイバイの方は劇全体でパロってる感じなのが、毎年変わらぬ両者の棲み分けで今回もそれは見事。芝居も中々であった。
五反田団は「こんか~つ、こんか~つ」(ちりりん)という売り声で自分を嫁として売り歩いてるシーンに始まり、日本を代表する男女を集めたという(笑)「婚活パーティ」を舞台に陰謀が交錯し、毎度の血しぶき(紙)舞う活劇。初代伝説の婚活荒し(的な名称、忘れた)に内田慈、彼女とまぶダチの二代目に西田麻耶。主人公である二代目が小泉進次郎+滝川主催の婚活パーティで他の女性らを先導しながらヘナチョコ男性ら(と一蹴する感じでもない微妙な線がいい)を物色するシーンのリアルなコメントが笑える。けなすばかりが能でない、フォローしつつの己もチャンスに掛ける部分あり、という気合の漲り方が、虚実(舞台と現実)の境界を行く。それが(それが特徴とも言える?)五反田団の醍醐味か。
一方岩井秀人作は年末までやってた出演舞台を終えた僅かな時間で作ったという、ガチンコファイトクラブという番組のパロディ。「伝説の俳優」(冒頭マイクを持ったナレーション役が、ハイバイ初期の公演で「7~80人」の観客を沸かせたというエピソードと共に紹介、演じる役者がその本人かは不明)が集った荒くれ者の一人から食らう「お前誰だ」の一言から始まる。番組そのものを笑っている訳でもあり、垣間見える人間性を視聴者目線で笑っている訳でもあるが、大げさで作り物っぽくても真実らしさがあり、それをまともに食らった衝撃を緩和するために笑うのでもある、あの番組の美味しい所を舞台でリアルに再現という趣向であった。これを見たさに最終日も行こうかと迷った。(初日は若干粗かったので)
合間には「トラディショナル」な獅子舞現代アレンジの出し物、休憩時はこれも毎度のホットワイン。という事で雑煮で腹一杯の正月時間であった。
R.U.R.
東京娯楽特区
調布市せんがわ劇場(東京都)
2020/01/05 (日) ~ 2020/01/06 (月)公演終了
満足度★★★
今回3公演目という若手、初であったが演目にひかれて観劇。1年前のハツビロコウ公演はやや圧縮版(1時間半強)であったが今回のは2時間。結論的に言えば結構厳しい観劇であった。台詞をもっと大事にしてでも休憩を挟んで2時間20分、やるという判断も有り得たと思った。もっともラストの台詞までの時間をどう按配するか、という観点ではスピード優先が正しい判断かも知れぬが。。
ロボットの支配に下った人類が「奴隷」であるはずの(自らが作った)ロボットと対峙する状況のリアル感覚の度合いが、登場人物らにどう共有されているか、その上でどういうやり取りになるか、この劇の高揚は何から来るのか、役者の「思い」の向けどころという点で相当厳しいものがあった。拙いながらの役のリレーはどうにかゴールまで完走はした、とは思う(その間の多くの台詞を勿体無い扱いにしているのは否めないが)。
せんがわ劇場には5年前、重厚に作られた風煉ダンスの舞台以来で、今回ステージ床面と袖、歩くと木の音がする普通のステージの様子を初めて見たが、この小屋の使えこなし方についても考えてしまった。空想物語であれば尚、その工夫は考えられて良い気がした。
だから、せめてもの、愛。
TAAC
「劇」小劇場(東京都)
2019/12/25 (水) ~ 2019/12/30 (月)公演終了
満足度★★★★
俳優陣をみて観劇。年末押し詰り、人通りもまばらな夜の下北沢にて。
丁寧に作られた舞台。飾り込みの得意な稲田美智子の美術、厳選された?俳優、私としては音楽。言葉不足までを補い、作者の伝えたい境域へと観客の心を誘っていた感がある。
ドラマの軸は恐らく兄弟特に血縁でない長男と、父との家族的繋がりについて、であると思われるが、途中眠気で台詞を飛ばしたせいか(恐らく長男絡みの場面)、終幕で感動にまで至らず。謎解き=状況の全容が次第に明らかになるテンポが、スローである印象。ディテイルに疑問符が浮かぶと残念感が広がるが、幾つか複数に及んでしまい、その分減点になった、だけでなく父の存在がバシッと明瞭に見えてこなかったのが惜しい。
高校演劇サミット2019
高校演劇サミット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/12/27 (金) ~ 2019/12/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
今回は一ステージのみ、駒場高「てくてく」オーラスの回を観劇。終演後、生徒たちのやり切った涙を見るだけでもう胸が。。通常高校演劇は大会で落ちればそこ止まり、全国まで行けば都合3回程度上演する事になるのだろうか。しかし毎回一回勝負で臨む訳で、今回のように所謂公演として3日間3ステージをやり切るという事は学齢期である彼ら彼女らにとって特別な、大きい事なのだろう。
高校演劇に触れて感じる思「強み」は何と言ってもナチュラル演技。「今」が匂い立つ。社会を操縦しているのは(老齢にして)パッパラパーの権力者たちだが、最も「今」を感知しているのは若者であり良くも悪くも「今」を鋭く「今」たらしめている。オリジナル脚本を書いた人は(多分)大人であろうが、彼らの生活圏と接していなければ書けまい。
彼らを「包囲」している社会という建造物が、壁が、彼らを圧迫し、自分や他者をめぐって苦悶する姿は、客席をほぼ埋めていた中高年男性(に限らずだが)の姿と何ら変わらないと思う。
舞台は美術室。(憂さを逃れて)訪れる生徒らがいつしか増え、常連になった7~8人が不可避に接触していく中で個の抱えるものが顕れ変化も遂げる話であるが、それぞれ「居そうな」人物で秀逸である中、最後に爆弾級=ミュージカル女優を目指すかなりうざい(痛い)生徒を投入。一方「ここで部活やろうか」という話題が進む中でも個性がぶつかる。そこへ「自殺クラブ」なる案が浮上。そこから修羅場、そして終盤アップビートのMをバックに彼らが「演劇」という手段で己らの暗面を表現し始めた場面であるかのような、台詞連射の抽象的・詩的なシーンとなる。
美術室へ逃れて来る彼らは同質性を持たず、傷の舐め合い感が皆無。価値観を異にし反目さえする様相は教室の縮図にも見える。特殊な生徒たちのエピソードに括らせないが、一人ひとりの個性を明確に描き分ける事で群像を立ち上がらせていた。
無論「助け合い」「共感」「連帯」などとはこのドラマは無縁、というより意図的にそこに落ち込む事を避けているかのよう。むしろ相手を突き放す(普段は本音を出せず仲良しを演じるという気遣いに疲れ果てている、その反動のように)。本音が零れ出る場所となった美術室とはユートピアであり、ここで起こった事こそ生徒らの人生にとって真に貴重な学びだ、と芝居が言っている訳ではないが、根源的な問題と向き合う場面と時間をこの演劇は高校生たちに、教師たちに提供したかったに違いないと思えて来る。いずれにしても生徒(役者)自身と役との距離(の近さ)は、この舞台にとっての強みである事は言うまでもない。
貧乏が顔に出る。
MCR
OFF OFFシアター(東京都)
2019/12/26 (木) ~ 2019/12/30 (月)公演終了
満足度★★★★
2度目のMCR、凡そ2年振りか。その時のスズナリでの多場面の劇より、OFFOFFに合う萎びた部屋での場所変らずの作劇が良かった。再々演と知っていたが、新作の新鮮さで目に入ってきた。
青い鳥
世田谷シルク
シアタートラム(東京都)
2019/12/25 (水) ~ 2019/12/28 (土)公演終了
満足度★★★★
先日のアゴラに続き、三茶はシアタートラムにて世田谷シルクの「青い鳥」を鑑賞(シアターXの円公演は断念)。主宰・堀川女史は無隣館での修行?を経て、「赤い鳥の居る風景」(座高円寺、2014年)以来の大型舞台で演出的存在感を示していた。原作(戯曲)の持つ幻想的で物憂げな雰囲気をよく再現し、貧しい家の子供・チルチルとミチルが訪れる先の世界もカットせず2時間10分たっぷり。総勢30名程が様々な衣裳で出入りし、固定役を担う数人以外は一人が4~6役を担う。
堀川女史らしい趣向は随所にある。目立った所では対面しあう客の視界を遮るように中央に引かれたレースの幕。照明の具合で透けて見えるが、カーテンを移動・開閉しながらチルチル・ミチルの居る世界と裏側の世界の関係を示したり、病室のカーテンにしたりと場面によって便利に使い分け、時に吊ったバトンごと上に飛ぶ。
今回の大きな翻案はチルチルを病室の老人、ミチルを介助者(病院スタッフでなく身内か、より親身に病人を気遣う人)に変えた事だ。
老人役を青組の藤川氏が演じ(客演は知っていたがチルチルとは予期せず)、大半は旅に同行するメンバーの反目やら、訪問先の世界の描写になるが、やがて旅から戻った(気づいたら寝ていた)現実の場面で、この翻案の着眼が生きる。原作では貧しい小さな兄妹が様々な世界で人物と出会い、現実の世界を支えているもの、即ち自分たちとの関係(約めれば孤独ではない事)を体感し、ついでに隣家の女性が解決されるというおまけ付きの大団円なのだが、今作はもう十分に生き死を待つのみの老人に「今この時」を生きる喜びを全身で語らせる。そして原作どおり、隣の娘との対面へ接続される。この一連の「現実」場面は伏線を回収しながら作者の思いを台詞に無理なく、がっつり書き込んだ戯曲の教科書的な躍動する場面だが、「症状のバロメータ」としか老人の言葉を解しない殺伐とした病院の「現実」にその場面を作った。藤川氏に当てたかと思える嵌まり方で、年輪を重ねた人間の口から零れ出た言葉が堀川氏の翻案意図を結晶させていた。
ガリバー旅行記
三条会
ザ・スズナリ(東京都)
2019/12/26 (木) ~ 2019/12/29 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年面白く観た『ひかりごけ・男子バージョン』(確か)に出ていた夏目慎也とG.K.Masayukiの名も見えたのでほぼ全幅の信頼と期待をもって観劇日を待った。スズナリへ到着すると客席の埋まり具合は程々(お陰でゆったり座れる。制作的には何だが)、ステージを見るとこれがまた一風変った仕掛け。鈍く光る(金属製に見える)半円形の台が壁面から出ており、外周に沿ってレールっぽい溝があってその両端、即ち左右のどん詰まりは開口し、のれんの目隠しが垂れている。要は空港の荷物受け取り場にあるベルトコンベアの形だ。冒頭その半円の外周に沿って俳優らが順次立ち、奇妙な挨拶を始める。
客席は程々と書いたが、演出関氏の「芝居の面白がり方」=作風が通好み?客を選ぶ?のだろうか。本作もけったいな演出であったが、確かにガリバー旅行記であった。
方向性は好みである。ただ、漫才で言うボケのアイデアは潤沢なのだが、ツッコミと言うか拾い方が難しい所、切れ味がもう一つ欲しい箇所もある。夏目+立崎真紀子のコンビをしつこく登場させてサラリーマン風ガリバー男にツッコミやらせる反復ボケなど、ボケる事でガリバーから何を遠ざけているか(それによって困らせているか)が、もう少し判りたかった。
奇態なアイデア勝負に見えるが一朝一夕思い付きで出来上がる代物でなく、様々な試行錯誤により時間をかけて細部が作られた感触があった。何つっても犬が登場って・・客に対するボケも極まり、客はどうツッコんで良いか判らないが、いずれ受け方を見つけるのやも知れぬ。
ゴン太のクリスマス
さんらん
ギャラリーしあん(東京都)
2019/12/21 (土) ~ 2019/12/25 (水)公演終了
満足度★★★★
ギャラリーしあんを好んで使うさんらんの、この場所に相応しいオリジナル戯曲の2度目の観劇。小品なれどユーモラスで中々気の利いた劇。自然光で役者の素肌も見える間近な狭いスペースで異界が立ち上がるという面白さ。この芝居に集った演者も個性バラバラながら好演して愛らしい。久々のさんらんであったが着実に仕事を重ね劇団の地歩を築きつつある事が窺える公演でもあった。
終演後、お年を召したお隣様が「本当にいいものを見たねえ」と言いたげな晴れ晴れとした笑みをくれたので、「そうですね」と会釈で返答。この極小サイズで上演される芝居は目撃者も極僅かである事を(勿体ない意味で)つい考えるが、そんな狭量を霧散させる。
子供の世界を見ながら、ふと人生を思った。ゴン太は健気だが我が儘を言う。それが本心なのか、血の繋がらない親への気遣いという名の愛なのかは判らないが。ただ与えられる事、それに感謝する事(擬音はうっしっしでもいい)、そんなシンプルな人生の時間が、許されていいという事について、長らく忘れていた気がする。
トウキョウノート
青年団若手自主企画 堀企画
アトリエ春風舎(東京都)
2019/12/24 (火) ~ 2019/12/29 (日)公演終了
満足度★★★★
自分が「東京ノート」を知らなかった事に観ていて気づいた。以前観たのは矢内原美邦による舞台で個々の台詞も粗筋もよく分からないバージョン(「東京ノート」を知る人が演出を楽しむ作品)が唯一だったようで。
非常に繊細な、演出の志向がよく伝わって来る舞台。作品は75分という時間が示すように(タイトル表記も変えてある)原作の「物語」を辿るというより、場面や台詞をコラージュし絵画的に提示したものと思われた(粗筋を知らないのでそう見えただけかも?)。
闇に親しみ静寂が際立つ演出で、主人公に据えているらしい坊薗女史の(悲劇の裏返しのような)晴れがましい笑みを湛えた様子と、その他の人間たちとの質的な差が、一方を死者もしくは生者と見せたり、その逆に見えたり、場面が原作モチーフである絵画に見えたり、ミザンスと照明に非常にこだわった演出である。特徴的な演出だが、それが技巧としてでなく情感そのものとして(粗筋は判らなくとも)じんわり伝えてくるのが心地よく、作り手へのある種の信頼を獲得していたと思う。今後が楽しみ。
libido:青い鳥
libido:
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/12/19 (木) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
利賀演劇人コンクールで2017年の優秀賞を取った3名(いずれも「青い鳥」演出で/最優秀賞無し)の内、二席(二等)の受賞者・岩澤哲野氏による作品。但し利賀では60分、本作は15分ばかり長いバージョン、さすが「演出」コンペ受賞作とあって演出で魅せていた。
利賀での他の受賞者は一席・松村翔子(モメラス)、三席・Ash(カワサキアリス)。「青い鳥」3バージョンを是非セットで観たいと思ったものだが、上の二名の「青い鳥」(一つは受賞作そのものではないが)は目にしたのでこれでピースが揃った事になる。Ash氏のは「利賀では端折ってしまった箇所」(「青い鳥」後半、誕生を待つ魂の世界)をモチーフにした独特な二人芝居で中々興味深かったが、松村氏のはほぼ利賀上演版でSTスポットという狭い場所で観た。コンペが「テキストvs演出」のバトルを見るものとすれば、前者はオリジナル・テキストのため考察できないが、後者及び今回のは確かに演出的側面の色濃い舞台。松村演出は(細部は忘れたが)空間を四角く縁取り、窓を思わせる木枠を使い回して細やかに場面を転回する俳優の動きが印象的だった。今回のはチルチルとミチルを男女の性別通り特定の二名を配し、他は黒っぽい被り物的羽織をまとい、コロス的に立ち回る。二人の演技がナチュラルであるのが(この場合)特徴と言えるだろうか。今回アゴラの通常の入口側をステージとしたが、その理由がラストに判る。寝ている兄をそのままにして、妹が扉を開けると、現実の光が差し込む。自然光の雄弁さが際立った(これは時間帯を選ぶが、会場に合わせた演出なら今回だけの特典という事に)。
キレイ -神様と待ち合わせした女-
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2019/12/04 (水) ~ 2019/12/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
「観たい!」投稿をしようとした何ヶ月前はこのページは無かった。その時点では既に完売、立見席発売日も開始30分後には売り切れ。キャストの影響と思われるが、前日の当日券予約電話、しかもワンチャンスで通じるとは思わなかった。劇場には座席確保時間内ギリギリに到着し、「最後に残った」二階立見席で観た。不思議と全く立ちが苦にならず、打ち寄せる情動の波に委ねた3時間40分であった。
初演、再演を映像で見、5年前の再々演ではやや失望の感があった(期待値も高かった)が、前回はキャスティング変更程度であったが今回はあらゆる点で刷新、改良が図られていた。
キャスティング面では著名人多数である事もそうだが、歌唱面がぐっと上り、決定的なのは各俳優が役のキャラクターの掘り下げ、新解釈と言って良い人物像の提示があった。これが実に合っており、新たな側面を見せ、さらに楽曲変更あり、新たな歌場面追加もあり、また荒唐無稽を潔しとした元の脚本に意外にもリアルの補強があり、付け焼刃でなく自然な流れを作っており、また恐らく松尾スズキ自身がキャストで登場していた前回までは松尾トーンで舞台も回っていた、その構図を変え、ピースとしての人物らに自立した存在感を持たせていた。
期待半々で赴いたが大きく上回った。松尾氏はコクーンの新芸術監督となるという。力の程を示したと言える。
舞台美術は、基本構成は変わらないものの今回はアジアン・エスニックな雰囲気。全くの抽象から、ある地域を想起させるプランへの変更の理由は判らないが、そぐわしく感じた。
とにかく「キレイ」好きには贅沢な時間。
モジョ ミキボー
イマシバシノアヤウサ
シアタートラム(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/21 (土)公演終了
満足度★★★★
秋に同ユニットがOFFOFFで上演した『アイランド』(アゾル・フガード作の著名な二人芝居)を見逃したが、再演を重ねた(2010/2013)ネタを広いトラムで持ち込んでの公演に予約無しで観劇した。後で確認した所、あの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(2015)もこの三人組(鵜山演出を入れて)の上演であった(その時は上演主体は誰なのかチラシを幾ら眺めても判然としなかったが今年漸くイマシバシノアヤウサと名を付けたという)。
大の大人が渋みのある声で、実は子どもを演じていると程なく気づき、大の大人の奮戦を一つ眺めてやろうぞ、と構えて舞台に対した。一面に散らした手描き絵の小道具、というかミニ書割を縫って、二人は妙に活発に歩く。子どもだからだ。だが体力が子どもと違うので疲れるとぞんざいになる。その居直り方も含め、愛らしく思えてくる。
英国のとある街が舞台。学校では異端の類である二人は、町で互いの相棒を見出したのだった。そして二人の冒険の日々が一日一日と重なる。何と言っても二人のテンションを高めているのは、町の映画館で見た『明日に向って撃て!』(1970。原題は「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」ブッチはポール・ニューマン、サンダンスがロバート・レッドフォード)。映画の休憩時間、二人はどっちがブッチでどっちがサンダンスかを決め、後半の続きを見る。正面を向いて映画を見る二人の背後に映像が流れるが、よく見れば出演俳優二人が映画になりきって撮った映像である。有名な♪「雨にぬれても」のキャサリン・ロスとポールとの自転車二人乗りの場面は、ウィッグを付けた浅野とペダルを漕ぐ石橋。
自分が20代前半に心酔したアメリカン・ニューシネマの代表作であるので、「これを使うとはズルイ」と呟きながらも2人のはしゃぐ気持ちは我が事の如くで、衝撃的なラストの実際の音が流れ、画面をじっと見詰める二人に自分はただ共感するのみ。
二人の蜜月は終りを迎え、やがて大人になったモジョ(浅野雅博)が町を訪れ、建物の陰にかつての相棒ミキボー(石橋徹郎)を見つけるが、芝居の冒頭はそのシーンであった事が分る。ここで交わされる台詞は作家の最も力が入る所だろう。過ぎた時間の振り返りをしない事を二人に瞬時に合意させた部分に、作家の願望を見る。子ども時代の二人を決別させる事になった「事件」、即ち「大人の事情」の惨い結末は、それでも二人を決定的断絶に導くものではなかった、という願いである。作家の思いを体現するべく二人はブッチとサンダンスの最後をやって見せるが、ラストシーンというのが皮肉で屈折した余韻を残す。佳品である。
THE CHILDREN'S HOUR 子供の時間
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)
2019/12/12 (木) ~ 2019/12/24 (火)公演終了
満足度★★★★
以前俳小の上演を観た時は随分寝たと記憶していたが、観ている内に筋を思い出した。独特な戯曲で、二人の女性が苦労して設立した寄宿舎付の教育施設を舞台とし、前半は善悪の彼岸にある子供達の混沌・殺伐とした世界を垣間見せ、後半は問題児の「嘘」が引き起こした出来事とその後の哀しい顛末が描かれる。独特であるのは、前半と後半とで物語の色合いが変わって来るところ。
前半は善悪が不分明な、否「大人を騙す」事に命をかけているかのような「問題児」(劇中ではその語で呼ばれる)とそれに翻弄される生徒たちの世界が、現代の私たちが直面する「なぜ人を殺してはならないのか」「なぜ嘘をついてはならないのか」といった根源的問いやイジメという問題範疇へいざなう。対して後半では「嘘」がもたらした悲惨な結果を告発するトーンがあり、それと並行して、ここが本作の頂点というか、どんでん返しでもあるのだが、その事件によって「嘘」であったはずの誹謗中傷が、真実であった可能性について当事者の一方が内省の結果確信し始めるという、「告発」の訴状を無化する話がもたげてくる。その当事者はもう一方の当事者に語りかけて行くに従い、相手を前にそれを確信し、信頼する相手に告白するのだが、あたかも誹謗を受け止め是認したかのように自分への制裁を行なってしまう。
この戯曲で(恐らくたまたま)扱われているジェンダー問題は、書かれた前世紀前半という時代では未だ「権利」の問題としては認識されておらず、ただこの戯曲はその存在を、辿らせた運命は厳しくとも、優しく存在させている、という点で特異な作品だと思う。
さて男性一人、その他全て女性という芝居。配役2チームあり、主要な役もダブルとしていた。
「子供の世界」は秀逸に描かれていた。一方大人の方は戯曲の問題(時代のギャップ)もあって硬質で演じづらい面がありそうであった。前半ラスト、嘘の張本人である生徒を追い詰め、嘘である事を暴こうとする場面で、その追及の甘さが気になってしまう。「そう訊いてしまったら言い逃れできちゃうじゃん」とか。一度他の大人を信じこませてしまった証言を、逐一反証する困難はあるが、しかし都合の良い時に泣き、被害者的態度を昂然として(まるで全身で闘いを挑むよう)とって来るその女生徒が、証言の矛盾をつかれてその証言が自分ではない別の女生徒からの伝聞であったと証言を翻したのに、教師ら大人はそのもう一人の生徒を呼び出して「それを本当に見たのか」と訊いてしまう。証言の信憑性が疑われたはずの問題児の、追及逃れに等しい証言を、疑うのでなく「真実である可能性」を求めるかのように訊き質してしまうのだ。もっと高飛車に「あなたは何を(問題児に)伝えたのか」と、訊かねばならない。もっともそう訊いたとて、転嫁した相手の女生徒の「弱み」を握っている問題児は、証言を引き出してみせただろうが。
戯曲にある、問題児が女生徒の(嘘の)証言を引き出すためにこれみよがしに「弱み」を連想させる単語を口にする、その不自然さに違和感を持たない大人というのも、演じにくいと言えばその通りだろう。
現代の比較的言語力・反駁力のある風情が出てしまうと、問題をスルーしてしまう事が腹立たしくなる。虚偽証言で貶められた大人は、無残に子供に敗北を喫したが、果たして反証を展開して真実を実証できるのか、という所に注目する動機付けが強く刻印される。しかし話はその「闘い」の経過を端折り、名誉毀損を訴えた法廷で敗訴した結果、人が寄り付かなくなった学校に設立者の女性二人が暗鬱に佇む場面になっている。問題児とやり合ってすんでの所で追及しきれなかった、という後味は、真実追及問題を未消化で残してしまう。難しい所だが、子供との対決では大人は子どもに及びもしなかった、という後味が相応しかったのではないか。
その要素として、流されたデマの「内容」が当時の社会(キリスト教国である米国のとある地方)では生理的な拒絶とでも言うべき反応を引き起こすもので、いささか理性的でないやり取りが不可避に生じてしまう背景を、確信させる何か時代考証的な要素が(大変難しい課題ではあるが)欲しかったかも知れない。
以上は戯曲上後半場面への接続を考えれば、の話である。これを現代の上演として見れば、前半の子ども達(特に問題児)の行動線はイジメの構図を仄めかして秀逸ではあった。
ただ最後(注文を続ければ)、問題の諸々が膿を吐き出すようによくも悪くも滞留を解かれて一つの区切りを迎えた時。神経を衰弱させていた主要人物である教師の片割れが、ようやく「外」の空気を吸う勇気を得て、そっと木枠の窓を開ける終幕の図がある。光注ぐ月を彼女が見詰める時間であるが、これが少々長かった。あの尺を取るなら役者は何でもいい心の変化を見せてほしい、という、まあ小さな事と言えば小さな事だが、そういう部分を生かさない所には勿体無さを感じる。照明のアウトが単に遅れただけかも知れないが...。
この小さな部分に自分が引っ掛かる理由は、一応ある。役者が提示すべき事はしっかりと提示されており、後は観客の想像に委ねられる領域となる・・という説明は可能だろう。だが、親切すぎない提示の仕方である方が良い場合と、真実であると信じさせる演技がもっと掘り下げられて良い場合があるとすれば、終幕に月を眺める主人公は、後者であると思う。恐らく解答は無数にあり、もしかするとふと頭に過ぎったパートナーとの楽しい思い出に小さく笑みが浮かぶかも知れない。あるいは教育を目指した若い頃、学問の神秘に向って大きく見開かれた目を、今また宇宙に向かって開いているかも知れない。あるいはただ少し寒さを覚えて身を震わせたが、それでも彼女のある強い意志が視線をいよいよ強くしていくかも知れない。涙を浮かべても良いのだと思う。そこに人間が居る、という事を確信できる事以上に観客が得られる演劇の快感は、無いのではないかと思うこの頃である。
狂人教育
池の下
d-倉庫(東京都)
2019/12/13 (金) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★
数年前、確か北区pit/区域にて二階席(1階=ステージにあたる四角いエリアを吹き抜けの桟敷から覗き込む格好であった)で一度観た切であった池の下の今作は、寺山修司作の中でも印象深い演目。
前観たの池の下は「エレベーターの鍵」だったらしい。端正、隠微、形式美といった寺山修司風な仕上がりに「へえ」と思った記憶。今作は正に「人形」が登場するのでどハマりな演目だろうとぼんやり予想しながらd倉庫へ入場。前とは収容数も膨らんだが客席は中々の埋まりよう。舞台側では開演前から人形メイクと衣裳の俳優が4人、背中合わせにぐるり椅子に座り、天井近くの糸繰りから伸びた紐に腕をくくられ、操られている(そのように動いている)。
1時間にコンパクトにまとまった「狂人教育」であったが、作り手の関心は「操られた存在」=人間も然り、という点にあり(パンフに演出談)、それを反映して人形世界の芝居がメイン、即ち操られた人形の仕草が強調された演技。
一方、医師が残したという「この家族の中に一人狂人がいる」との言葉から犯人探しが始まり、皆が己を「異端」とされる事を恐れ、主人公の小児麻痺の女の子以外の家族は皆揃って同じ行動をするようになり、最終的にその彼女は処刑されるという排除の論理、全体主義のテーマについては、後退の感があった。つまり集団化の過程には人間らしさが濃厚に表れるはずなのだが人形の知能の度合いというか、思考力や認識力が「良くできた人形の仕草」によって低く見えてしまうので、私たち人間に起き得る話という風には(頭で連想を働かせないと)見えて来ない。
冒頭の唄に乗っての猫(紙製)の首切り(ハサミでチョン)、劇終盤の女の子の首切りと、手際よく処理していたが、さらっとやってしまうので余韻がない。さらっとやる所に残酷さを感じたいのだが私の感受性は追い付かなかった
私たちは何も知らない
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2019/11/29 (金) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
平塚らいてうをはっきり主役に据えた作劇、そしてキャスティングで、凡そ想像していたビジュアル(雰囲気も)を全く裏切って、歴史劇(フィクション性は抑制され史実をなぞる劇)でありながら、演出的工夫により現代翻案に等しい舞台となっていた。