満足度★★★★
休憩挟んで2時間40分とのアナウンス。コロナ下では少人数、短時間に傾きそうな所「おーよくやるな」と思う。もっとも観客としてはディスタンス規制により座りやすく、荷物も置きやすく、2時間半超えでも乗り切れると思える。そして開幕以後はアナーキーな台詞や展開も空中分解せず、芝居はラストまで無事運行した。
以前俳優座5Fでの翻訳劇を(型どおりの外人演技の濫用で)忍耐で観た記憶があるが、今回は俳優がある微妙な線を出している。狂気や狂気に触れたリアクションを応酬しつつ正常に戻らぬまま飛行する劇の「正解」のない演技も、何かが狙われており、その結果「心の嘘」の一つのあり得る形が提示されたと見えた。演出がどんな言葉で何を俳優に要求したのか大変に興味がある(どんな舞台もだが)。
その問題のドラマ。後で調べると1985年初演とある。この劇が普遍的かという議論をすれば、「アメリカ社会と歴史」という要素を我々はカッコに入れて作品を見ており(見ることが許されており)、だから海外のものは何でも(特にアメリカ産と聞くだけで親近感を持つし)「普遍性のあるドラマ」と錯覚しそうだ。
だがこのドラマでは、人間の相互理解や関与し合う「力」が、機能不全となった悲劇が終始描かれる。悲劇は時代性と不可分である。彼らを包囲するものを告発する意志が作者の筆に宿っていると推察できるから。何に対する告発なのか、そこは分からないが。。