サミュエル・ベケット「芝居」フェスティバル
die pratze
d-倉庫(東京都)
2016/04/27 (水) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★
見巧者向けの公演か...
サミュエル・ベケットの作品を東京、名古屋、台湾の8団体が、それぞれ演出する趣向である。自分は、名古屋の双身機関、台湾のTAL(Theatre Actors Lab)の上演を観た(上演順)。
同じ脚本であっても、演出の違いで印象も異なる。改めて演劇という創作の幅広さと奥深さを感じるもの。
一方、観ること...そこには演出という手法と同時に、それを理解する上で大事な要素があることも痛感した。
ネタバレBOX
脚本...真っ暗な舞台に3つの巨大な壺があり、そこから3人の人物の首が出ている3人(男、女1・女2)は、スポットライトが当たるたびに、3人の間で起こった色恋沙汰を語っていく。そこに「真実」があるかどうかは誰も分からず、ただひたすらに、終わることなく3人は喋りつづける。そぅ、各人は対話をするというより勝手に自分の主張を言い張る。
●名古屋の双身機関
双身機関は、脚本にほぼ忠実に演じる。壺は、円柱のように縦長く布を垂らすことでイメージさせ、下の方を紗幕(レース)にして足が透けて見えるようにしている。もちろん足を演じる役者は足だけを演じている。
●TAL
壺その物を使っていない。各々がスーツケースを持って登場し、その中に自らの着ている衣装を脱いで収める。次いで役者が舞台を回り始め、さながら轆轤で壺を作り上げるようだ。まさに身体・動作で壺をイメージさせる。その後、各々は立ち止まるり、片足立ちを続ける。長い時間のため浮かしていた足が床に着くが、そこに壺の歪みと人間臭さが表れる。
当日は、アフタートークがあり難度の高い作品に挑戦していることと、仮面について話があった。この作品を観て、壺という外形は一種の仮面のようでもある。人間..肉体と意思を持つ人と、それを取り巻く世界の境界にあるのが仮面であり、その具象したのが壺のようでもある。だから物語の登場人物は壺(仮面)に隠れ、、それぞれが思いのたけを話ことで、自分と仮面(=他者)という両方の力を併せ持つ存在になろうとする。そこに、肉体・精神、自己と他者という二重に意味で「人間」が存在するのではないだろうか。
さて台湾・TALは、母国語で表現する。演じる内容はイメージ的に理解可能であるが、やはり言語(台詞)による理解は必要である。演劇は、五感の総合芸術であることを改めて認識した。
そこには日本語で理解した日本語でのものの見方と、外国語で理解した外国語でのものの見方では、同じ概念を示すはずの言葉が、言語によって意味が異なり世界の捉え方が異なる可能性があるから…。難しい!
次回、このような企画を楽しみにしております。
ガイラスと6人の死人
メガバックスコレクション
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2016/04/29 (金) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
面白い、楽しめた~!
タイトルから内容が分りそう…そんなストレートさが、物語の展開とテンポの良さにも現れている。その観せ方は、コメディではよく見かける手法であり、その演出に新鮮さは感じられない。逆に見慣れている分、そこにシャープさがなければ、数多ある公演の中に埋没してしまうだろう。
さて、メガバックスコレクションは、この時期4作品を同時上演しているが、阿佐ヶ谷アルシェという小空間に、しっかり物語を外形付けるセットを作り込んでいる。それは、どの公演も同じであるがスタッフ、キャストの手作りである。このセットの建築的なところから、この公演で気になるところを連想したが…。
ネタバレBOX
「ガイラスと6人の死人」であるから、登場している役者のうち、6人は死人。生きているのは、ガイラス(三村慎サン)とその殺人犯を逮捕したいと追っているレディ(鈴木ゆんサン)。この生きている人の会話に、死人達の台詞は直接繋がらない。しかし、そこはコメディ、何気に会話が成り立つさまが面白い。声なき声のシンクロ、生きる者と死者の異空間というか異次元における会話の共鳴が、タイミングよく成り立つ。
梗概は、アメリカの某州の山間にある館。 そこに連続殺人鬼ガイラスが住んでいる。 彼の周りには6人の死人(しびと) がまとわり憑いている。死人はガイラスによって殺された被害者である。 「心配するな、お前の分まで俺が人生を楽しんでやる」 そんな言葉を真に受けて、ガイラスに纏わり館(部屋)に居座る。ガイラスだけにその姿が見えることから、先に記した不思議な出来事が楽しく観られる。会話は他愛無い、卑小な欲望が平然と繋げられる。艶笑譚と云(逝)ったところであろう。
気になるのは、建築用語として用いられる動線…視覚を敢えて遮断する。ガイラスにしか死者(6人)が見えないということは、その死者の姿を意識せず演技をすること(見えないという前提で動線をしっかり体得して、自然な演技ほどレベルの高さを感じる)。しかし、見えているような動き(歩く直先を避けるなど)、意識した行動のようで不自然さが残る。生きている者と死者にある異空間、そこから醸し出される独特な雰囲気(部分的なリアリティという不均衡)と何気なく合致する会話の妙味、この両方があると良かった。
一方、死者は死して自由奔放に振舞う。それゆえ演技も大らかであるが、その分噛みが連鎖するようだが…。
そして、狭い空間にもかかわらず、舞台中央に集まって演じるシーンがある。前後に立ったり座ったりした場合、後ろの役者の顔・姿が見えない。奥行きを逆手にした縦並びで笑いを取っていた。演技では、横展開した立ちのほうが重なり合わず、しっかり観てとれる(例えば、レディが下手の壁に寄りかかるほど空間利用している)。
次回公演を楽しみにしております。
Hit or Miss
メガバックスコレクション
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2016/04/29 (金) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
脚本・演出は良かった…
4月は入学シーズン...小学校の新1年生の心細さ、親に引かれた手を離して他人の中に入っていく幼子も試練をくぐり、親も手を差し伸べるところをグッとこらえる覚悟が必要。その親子の距離は永遠の難問であるが、その距離こそが自立の証と思えば心強い。
この公演では、その親子(父・娘)、というよりは自立した人間同士の魂の咆哮のようである。
冒頭は、古典的なフィルム・ノワール(退廃的な犯罪画)のように、善・悪という鮮明な対立軸で描かれるような感じであったが、そんな単純な捉え方ではなく根底には人の幸福...特に経済的な貧富の知覚が絡むもの。描き方は、表面をなぞる空っぽな表現から段々と訴えたい本質に迫る、その展開が実にシャープにしてスリリングである。そして最後まで観客(自分)に予想をさせない、むしろ予定調和ではなく予想外な展開に驚いた。怒涛のラストシーンには高揚し鳥肌が立った。
ネタバレBOX
誘拐というシチュエーションであるが、今まで観たメガバックスコレクションの緊密した状況・空間は感じられない。どちらかと言えば、社会的な問題の提起のようだ。しかし、そこはこの劇団の特長…日本の問題として、直截的に描くのではなく、一定距離を置くような客観的な観せ方にしている。
物語は、アメリカ大企業の社長と幹部社員2人(男女)が誘拐されて監禁されているところから始まる。そしてあっさりと犯行グループ「ボス」の正体が明らかになる。それは何と社長の実の娘だった。
その要求は、誘拐の実行犯となっている2人(男女)の①祖国における幹線道路計画の撤回。②病院と学校の建設。③それに係る重機の提供と資金援助の3項目である。
娘はその国に2年間留学し国情を把握しているという。乱開発による貧富の助長など、問題の深部を説明する。
一方、父親は娘の要求を受け入れるが、一度富という蜜を味わうことによって、欲望という原動力が国の発展を促すこと。それは知らないという無知覚からの脱皮が大切である。この父・娘の会話(応酬)が心魂揺さぶるほど見事である。
話の展開には途上国の発展という名目で希少資源の採掘、幹部社員の裏切りなども盛り込まれるが、そこは話の魅力を豊富化するようなもの。
日本の経済援助(ODAのようなもの、本公演は私企業である)も感じられる。物質的な援助が中心であったが、その後の人材育成などのソフト面の充実が言われている。自分たちで考え行動する姿勢が大切であると...。なお、舞台の設定をアメリカにしているところに妙がある。なにしろ、アメリカは日本の援助形態より幅広いこと、距離を置いて客観的になれるのだから。
夢と現実の間の軋轢は、やがて深い哀切を漂わせる。そして、鎮魂の思いへ偏重していく見事な内容であった。
さて、気になるのが役者の力量差(端的に言えば、キリマンジャロ伊藤サンと他の役者)が大きいこと。脚本の論理性と現実とのギャップを見事に突く。それを芝居という仮社会の中で表現させる素晴らしさ。しかし、それをしっかり体現しきれないところが残念である。
次回公演も楽しみにしております。
BAR アルマ
劇団光希
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2016/04/28 (木) ~ 2016/05/01 (日)公演終了
満足度★★★★
古き良き時代を彷彿とさせる
Barアルマのマスターとその娘、そこに集う人達によるヒューマンドラマ...しかし、その物語の展開がストレート過ぎるような気がした。
舞台セットは、Bar店内を思わせる作りで、この話の重要な位置付を担っている。(上演時間125分)
ネタバレBOX
セットは、上手に少し高い段差のあるBox席、下手はカウンター席、中央は客席側を空けた囲み席。もちろん、多重空間を演出するため、客席前のスペースを店外の道に見立てること、店内の段差あるBox席は外の公園か広場のベンチ、または料理教室先生・森宮香苗(森下知香サン)の家(室内)をイメージさせる。そのシーンの雰囲気は照明の切り替えという演出の巧みさ。
Barアルマはスペイン語で「魂または心という意」であることは、ラストのナレーションで紹介される。その言葉を彷彿とさせるような物語であるが、説明文にあるマスターの件ついては、すぐ解る。
主人公は店の20歳の娘・内川たまき(村松幸サン)、みんなから好かれる娘に育っている。この父親、体は男であるが、心は女という性同一性障害。母親は主人公が2歳の時に浮気をして家を出たままという設定である。表層的に捉えれば、設定の特異性と家出した母(実は森宮香苗)との対面に至るストレートな感動物語(予定調和であるが、それがこの劇団の特長で心温まる秀作を創り出している)。それを際立たせる常連客の恋愛騒動という彩り。この彩りの小話が本筋を霞ませるほど色濃い。
この店に集う常連客が、自分の思い思いのスタイルで飲んでいる。大人の隠れ家的存在が、このBarである。しかし近いうちに再開発で取り壊しになるという時限要素を取り込むことで、話にテンポを持たせる。
さて、観念的であるが、「母」であることより「女」の道を選び、自分(たまき)を置いて家出した母に対して簡単に心が氷解して行くのか。それほど会いたい気持が強かったのか。そして店にさり気なく通ってくる、それを知った時、心境は相当複雑で堪えられないように思えるのだが...。この娘の寛容さに違和感を覚えたというのが正直なところ。
筆を進めて、フッと父”性”の妙味が効いているのかも...そんな気もする。
毎日と言っていいほど、アメリカ大統領選に関する報道がされている。その候補者の一人であるヒラリー・クリントン候補は、米国東海岸にあるセブン・シスターズと呼ばれる名門女子大一つ、ウェールズリー大学(マサチューセッツ州)卒である。最近、この女子大学群のうち2校は共学化し、心と体の性が一致しないトランジェスターの受け入れを決めた。それほど社会的認知と寛容さが広がってきたということ。このBarマスターにして父の存在が受容の伏線であったとすれば、随分と思慮深い作品である。そして、この店が母そのもの…その内に父、兄姉のような常連客に支えられて“いい子”に育ったのだろう。店こそが人の「魂」なのだから。
最後に、自分が観た回は噛みが多いような…。舞台という板の下は、地獄かもしれない。それ故、そこは踏ん張って欲しい。
次回公演も楽しみにしております。
Collected Stories
Art-Loving
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2016/04/27 (水) ~ 2016/04/29 (金)公演終了
満足度★★★★
女性作家2人の人間ドラマ
女性二人の6年間にわたる共同生活...そこには文学という共通する芸術が介在する。その関係性は、ベテラン作家の発表する予定のない「自伝的小説」を巡り歪になる。いつの間にか同居の新進作家が謎の女に変貌を遂げて出現する感じである。虚実綯い交ぜにしたような芸術論、人生観が濃密な会話として紡がれるようだ。
(2時間15分 休憩15分)
ネタバレBOX
思い出は、人の数だけある。その”想い“は個人(所有)のようにも考えられるが、文学(表現)が過去(思い出)をより鮮明にし、それを読む人にも己自身の「人生の一部」として共感させる。文学はそのために存在しており、表現者が無上の歓びを与えているのかもしれない。しかし、常に残酷な代償をも要求する。若いリサ・モリスン(北澤小枝子サン)にはその力がまだないことを自覚させられ、老いたルース・スタイナー(鳥越さやかサン)はそれがもうないことを思い知らされたように...。
この舞台セットは部屋に一室...上手、下手にテーブルと椅子があるのみ。なお、下手のテーブルの前には一人用のマットレスのような物が置かれている。その僅かなスペースで2人の距離感・立場が現されている。そして、その距離を示す小物が無くなった時から対等のような...芸術家として、人間としての思いが溢れるようで観応えがあった。
梗概...登場人物は女性二人。ニューヨーク・グリニッジヴィレッジに住む、小説を書きながら、大学で創作を教えている女流作家ルースの下へ、大学の学生でその作家を敬愛する作家志望のリサが訪れる。
二人の最初の出会いは、教師と生徒という関係であった。憧れの作家ルースのアパートでの個人レッスンをきっかけに、彼女のアシスタントとなり、2人の二人三脚の生活が始まる。やがてリサが作家として初めての批評が新聞に掲載、そして夢の出版へと話が進み、時の流れと共に、2人の関係性も大きく変化していく。その後、リサが、ルースから聞いた恋愛の話をもとに小説を書いたとき、二人の関係に亀裂が走る。
あなたは、私の貴重な思い出を盗んだのか。従順であったモリスンは切り返す。あなたは作家、自分の体験を口にすべきではない、話すことは書く欲望を弱める。作家はその欲望を常に自分のものにしておくために孤独に耐えなければならない。あなたがそれに耐えられず、過去の恋愛体験を私に話したというのは、書くことを私に譲ったに等しい...。
派手な動きもなく、台詞のやり取りだけがドラマを支えている。この芝居は、女優二人の演技力にかかる。自分が観た回はいくつか噛みがあり少し残念。なお、演技を支える舞台技術(音響・照明)は印象深く、余韻が...。
本当に素晴らしい公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
慙愧
643ノゲッツー
OFF OFFシアター(東京都)
2016/04/26 (火) ~ 2016/05/02 (月)公演終了
満足度★★★★
表層に潜む怖い話
慙愧(ざんき)という言葉は、日常生活ではあまり聞かない。国語辞典によれば「恥じ入ること」という意味らしい。公演の説明には、その場面のことが書かれていたが、そのシーンは芝居の脇筋のようであった。
この公演はコメディの様相であるが、底流には現代社会における怖い面も垣間見える。「三人成虎」...三人が虎がいると言えば、本当に虎がいるような噂になる。公演でも根拠が明確でないにも関わらず、その場の状況・雰囲気であらぬ疑いが…。
ネタバレBOX
舞台セットは、今は使用していない教会内。両サイドに長椅子が並べられ、同じようにステンド-グラスの窓。中央に赤絨毯、その奥に両開きの扉がある。
梗概は、人気ドラマの愛視聴者(男・女三人の計6人)が集まって、そのお気に入りのシーンを演じて楽しんでいる。そこに強盗犯(40歳男・独身、親の介護のため不定期なバイト生活)が入り込み、この人達との会話を通じて心を通わせて行く。いつの間にかこの闖入(者)が契機になり、段々とこのメンバーの素顔・素性が明らかになっていく過程が面白い。この人達が集まるキッカケは、インターネット(Facebook、Twitterなど)を通じて知り合う。誰が発信元か、その詮索・犯人探しが始まる。
本名や職業などは自己紹介(申告)したままである。そこに多少の顕示欲や虚栄心が生まれ、一方その虚実を暴こうと眈々と窺い、真(生身)の姿が露呈していく。
表層は、劇画化した漫画のようで気楽に観ることが出来るが、その奥底は不確定で不安定で心もとないバーチャルな世界。その浮遊した感じがインターネットの怖さを柔らかく包み込む。
さて脇筋、闖入者が下着泥棒と間違えられるが、この挿話はこの人気ドラマの失踪した主人公(恋人同士、しかし実際には登場しない)の痴話喧嘩の結果であることに繋がる。少し強引のような気がするが...。
舞台技術(照明や音響)による余韻、メリハリが感じられなく、演技(役者陣はキャラクターを立ち上げ、バランスも良かった)に頼った公演という印象になったのが残念。
次回公演を楽しみにしております。
燕のいる駅
劇団ARGO
こった創作空間(東京都)
2016/04/22 (金) ~ 2016/04/23 (土)公演終了
満足度★★
脚本の面白さに演技が追いつかない
初見、知人の紹介で観劇した。前日に劇場までの案内メール、当日は要所に関係者が立ち道案内をしており丁寧な対応であった。さて、公演は、物語のテーマ性、主張すべきことは鮮明であるが、それを観せる演出と話を体現する役者が脚本に追いついていないのが残念。
説明文から明らかなように、核、放射能を描いた物語であるが、その時代背景は不鮮明である。この曖昧な時代設定がいつの時代でも共通しているという問題提起のようだ。舞台はユートピア入り口にある日本村4番駅である。しかし、ユートピアどころか逆のディストピアの様相である。また、この駅名から連想できる人種差別の描き。
日本人は天災と復興を繰り返す歴史を持つ。東日本大震災 では天災から原発問題...震災直後こそ脱原発依存の風潮であったが...。人の生活状況、条件はさまざまで一律的な発想は難しいかもしれない。それでも震災を契機に何が禍福なのか考えることも必要。
なおタイトル…燕(の巣)は、人間の有り様への比喩。
ネタバレBOX
この芝居では駅員の休憩所と思しきところが舞台。そのセットは、中央にテーブルとL字にベンチ椅子。上手に給湯室、下手が駅ホームへ通じる出入り口。その横にラック。正面壁は時刻表と勤務表が吊るされている。この駅は乗車のアナウンスがされるが、電車は走らない。
そもそもこの街に人が居なくなっており、この場に居るのは駅員の2人、売店の女性とその友達、電車に乗り遅れた漫才コンビと謎の女性の計7名である。この駅員は幼馴染で一人は日本人の名を持つが、本当は日本人以 外の国籍。その証は襟に赤ピンバッジを付けている。小さな区別であるが、その意味するところは人の心内で大きな障壁になっている。
ところで、何故二人の駅員は残っているのか?売店の女性の理由は明らかなのに…。人物造形や背景が描けていない。
窓の外には不気味な雲が空を覆い始めている。不安と恐怖がジワジワと伝わる空間であるが、台詞だけの説明で巧く表現しきれない。上演時間が2時間30分(途中休憩5分)という長い物語であるが、その中には漫才を取り込む。そもそもこのコンビの会話、そこには苛立ち、憤りという物語の雰囲気を醸し出す要素があったが、漫才という客席から笑いもない冗長な演出は不要である。また演技全体が緩慢のようで、もう少しテンポよく魅せてほしい。その魅力が今を生きている希望のようにも思える。
また舞台技術も単調、特に照明は空気や時間の流れが感じられない。もう少し時間の経過がわかるようなメリハリがほしいところ。脚本にはチェルノブイリをイメージさせる表現もあった。例えば孤島に動物を3匹(犬、猫、象)のうち1匹(頭)を連れて行くとしたら...象は原発事故の象徴であろう。
この公演の特長は、その時代を特定させない、その曖昧さに普遍性を感じさせる。そして観客に問題提起を投げ掛け、その考えを委ねるようだ。しかし、この脚本・土田英生 氏の立場は、はっきりしている。
役者陣の頑張りを期待している。
シュベスタ―の祈り
私立ルドビコ女学院
サンモールスタジオ(東京都)
2016/04/16 (土) ~ 2016/04/24 (日)公演終了
満足度★★★
現代的な観せ方、楽しく元気ある演技
春、4月は入学・入社シーズンである。新しい環境で新たな出会いがある。自分もずいぶん前であるが、社会人になって上司・先輩から仕事や遊びを教わった。しかし、なんと言っても年齢が近い先輩の影響は大きかった。多くの学校、職場で新たな先輩・後輩の関係を築いていくと思うが、自社では新人を年次の近い先輩によるマン・ツー・マン教育をしているが、業界他社でも同様だと聞いている。その関係を兄弟、姉妹(シスター制)に準えて呼ぶところがある。他の会社の教育も似たようなものではないだろうか。本公演もそんな少女の某所における先輩・後輩の契りが見所になっている。もちろん、タイトルにある「シュベスター」はドイツ語で姉妹のこと。
私立ルドビコ女学院の公演は、その開校前(2014年1月 @上野ストアハウス)から数回拝見しているが、今回は「アサルトリリィ」との合同公演である。その構成スタイルは1部・2部、その間に特別授業と称して作・演出の桜木さやかサンの公開駄目だしが行われる。
ネタバレBOX
今作はSFであるが、その演出は現代的というか、流行そのものを取り入れたようで面白く観させてもらった。
梗概は、近未来の地球、人類はヒュージと呼ばれる謎の巨大生物の出現で破滅の危機にあった。 全世界がヒュージに対して団結し、科学と魔法の力を結集した「CHARM」と呼ばれる特殊兵装の開発に成功する。 CHARMを扱う女性は「リリィ」と呼ばれ英雄扱いされるようになる。 世界各地にリリィの養成機関であるガーデンが設立されヒュージ戦の拠点として、人々を守り導く存在。 この舞台はガーデンで立派なリリィを目指して戦う少女たちの物語。そのリリィ養成は1対1の先輩・後輩の関係性で成り立つ。自分の憧れの先輩と契り(ペンダントの交換)を交わせるか。そしてヒュージとの戦いは...。
舞台セットは廃墟のような造作。変形階段が何箇所かあり、その上・下に駆ける姿に躍動感・力強さが漲る。そしてヒュージは、キャストとしては登場しない。プロジェクター・マッピングで、舞台壁面(アイボリー色)に投影する。少女戦士は武器(CHARM)を手に戦うのは、投影された敵である。いわばゲーム感覚で、少女の武器(CHARM)はコントローラーのようだ。
内容的には、政治・経済、社会という世相、または心魂を揺るがす「人間」ドラマとは違う。どちらかと言えば、アイドルまたはそれを目指す”若い女性=10代が良い”がバーチャルアドベンチャーに挑戦しているようだ。ストライクゾーンの広い自分は、若さ溢れる演技・ダンス(群舞)から元気がもらえたようだ。
次回公演「最凶ガール」も楽しみにしております。
パピヨン
パピヨン
新宿眼科画廊(東京都)
2016/04/15 (金) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
満足度★★★★
もう少し重厚さがあれば素晴らしい
孤島にある刑務所監獄内が舞台。新宿眼科画廊という小空間はその演出にピッタリである。タイトル…パピヨンはこの芝居を象徴する。さて、同じように「パピヨン」(1974年 日本公開)という映画があったが、その内容は異なる。この監獄内で交わされる会話は、自制または内省するような感じである。
この公演(監獄内)の入場券は番号(自分は1144)が記載されたシールであり、役者が着ている囚人服にも同じ桁の番号が縫い付けられている。もちろん観客も囚人となり俯瞰していることになる。挟み客席で、舞台中央にテーブル、椅子が置かれている。床にはジクソーパズルのピースが散乱している。灰色の汚れた壁、その一角に鉄格子の窓。全体的にモノトーンな照明。時折、窓照明の明暗で時間経過が分かる。音響は始終波の音と海鳥の泣き声が...。それら全体が孤島の雰囲気を表している。効果音以外は独り言、会話(他者を寄せ付けないような毒(独)舌)である。
この公演は、限られた人間関係に中に大きな世界観と心魂が表現されていたようだ。
ネタバレBOX
基本の登場人物は3人(女2人、男1人)...うち2人(男・女)は死刑囚である。女囚(2310号)は革命家で、国家反逆ということらしい。男囚(1620号)は殺人鬼という。そして唯一囚人でないのが、18歳の少女である。少女の母親が凶悪犯で収監後、彼女を産んで直ぐ亡くなった。その凶悪犯の娘ということで引き取り先がなく、この刑務所で暮らしている。この設定に疑問が無い訳ではないが、彼女の外界(世間)を知らない問いかけが会話の重要な部分を占める。
多くは革命家の女囚と少女の会話。女囚・活動家は、国家との対峙によって形成された自己と、その意思の貫徹(国家があるから自由がない、自由を欲っすれば国家の滅亡へ)が人生そのものである。その結果、世に背を向け人を信用せず、また寄せ付けず、あくまで自分の世界に身を置く。「人」という漢字は、お互いに背を向けているが、その関係は支えあっているように見えるのだが…。
一方、少女は世間を知らないゆえの純真な心を持っているようだ。この環境でどのようにしてその人格形成が出来たか疑問であるが、いづれにしても女囚とのやり取りが人間の心根を炙り出すようであった。人の別れ(刑執行)に対する感情の高ぶり、冷徹な態度の女囚に対する訝りがしっかり描かれる。実に普通の人間感覚である。そしてついに女囚の刑執行が...。
この物語は囚人の刑執行に伴い、最終的には少女一人になる。その孤独に対する救いのようなものが、「パピヨン」である。鉄格子から蛹(さなぎ)が見えるが、それが孵化して蝶(アサギマダラ)になる。この蝶は飛翔距離が長く、この孤島から大陸まで飛ぶことができるのでは、そんな希望を感じさせる。もちろん、その蝶の意味するところは言わずもがな。
脚本は面白い。演出は大きな特徴がある訳ではないが、逆に何もない監獄内を描き出すのは難しい。そして3人の役者の演技が良く、特に女囚役(いいぐち みほサン)の演技は圧巻であった。
最後に、ラストの暗転後のシーンは追憶か回想したのだろうか。それは絶望の淵に落とし込まないことか、その意味するところが判然としない。
監獄内だけに緊張感と嫌悪感のような重厚な雰囲気が醸し出せたら、もう少し環境・状況に共感できたと思う。その点が普通の小空間での会話劇の域を出ていないような気がして勿体無かった。
次回公演を楽しみにしております。
―ハムレット― 愛、解れて絡まり殺しあう
剣舞プロジェクト
恵比寿・エコー劇場(東京都)
2016/04/14 (木) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
満足度★★★
悲劇か?
ハムレットの有名な「To be,or not to be, the question」という台詞はあまりに有名。もっとも邦訳について、どう訳すべきか、それが問題だ...というように翻訳家で違う。例えば「生か、死か、それが疑問だ。」「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。」「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」などがある。
この公演は男性バージョン、女性バージョンがあり、自分では「男を観るか女を観るか、それが問題であった。」が、結局、女性バージョンを観た。そもそもこの世に男性・女性(マイノリティーも尊重するが)という性が存在するのに、あえて分かれて演じるという。そのチラシは男女一緒であるが、主役ハムレットの男装(川上茜サン)は宝塚歌劇団のように感じられた。そのイメージで観たのであるが...。
冒頭は、この芝居の全体(ハイライトシーンをイメージ)させるストップモーション・ダンスで俯瞰させているようだ。
ネタバレBOX
舞台セットは、神殿をイメージする建屋。人が主役になるのは人生において3回、生まれた時、結婚する時、そして死んだ時である。どれが一番望みか、という問いに、それは観客が決めること。自由があるのは観客なのだ。その自由な心持で観た時、今まで観たハムレットとは違う雰囲気で、多少違和感があったが、嫌いではない。
ハムレットの有名な台詞は先に記したが、これは父の亡霊に復讐を命じられたハムレットが「本当に父の亡霊か、神に代わって叔父を制裁するほどの正義が自分にあるのか?」と躊躇して復讐できない苦悩がある。そのハムレットが何か一つの目標を目指す。その余裕のない限定された世界観が二者択一の「あれか、これか」の悲劇を表す。
もっとも、本公演は悲劇なのか?喜劇のように「あれもあり、これもあり」という何でもありの矛盾した世界にも見えた。ハムレットは、男装して男になっている。そもそもの前提は女性だけの世界...国政に男は参画しない。また子孫を残すだけの交わりという説明であった。
芝居では男装したハムレットがオフィーリアを愛するという禁断の世界ではないか。観ているうちに、本当にハムレットが王子に変じていた。矛盾が矛盾のまま混在する雑多な世界。その意味で先の台詞を借りれば、この公演は「悲劇か、喜劇か、それが疑問だ」ということ。
本来の劇「ハムレット」としては難点と思われるシーン(父の亡霊との邂逅に感慨も苦悩もない)があるが、苦悩に満ちた悲劇とは違うが、心に感じることが重要...ハムレットも「父が心の目に見える」という。その意味や価値は主観的に定められる。自分には、宝塚歌劇とはいかないまでも十分楽しめた。なにしろ”華”があった。
次回公演を楽しみにしております。
根
PANCETTA
小劇場 楽園(東京都)
2016/04/12 (火) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
観せる工夫も必要では...
「根」という視点から見たオムニバス7話。この公演のタイトルとチラシ、さらに説明文にあるアリストテレスという名前から深い、それこそ哲学的な物語を想起させる。が、その要素がまったくないとは言わないが、その主張(描きたいテーマなり)が観客に十分伝えることが出来るか。自分のスタンスも重要であるが、観客に観せることも大切ではないだろうか。
ネタバレBOX
昨今、断捨離という言葉が流行ったが、この公演にある小作品についても、整理し各々の話に深みを持たせ、もう少し関連性が見えると面白と思った。また演出はテーマ性を重視するためであろうか、衣装は全員がつなぎ服という同じ格好である。その色は白であり、照明によっていろいろな色に変化する。
素舞台の中で「根」というものが抽象的、比喩的に描かれ直截するような観せ方にしていない。そこには観客と一緒に考えるという投げかけというスタイルのように感じた。その意味で理解し難いところもあり、観客によって好みが分かれそうである。自分としては嫌いではないが...。しかし、先にも記したように観せる工夫も必要であろう。
7話のタイトルは次の通り。
①大きな根
②根も葉もない食堂
③球根の求婚
④Let’s根クササイズ
⑤いい根
⑥根見
⑦抜いてくれ
どれも日常(暮らし)にある事象を切り取ったもの。文章で言えばその描写・情景は行間から読み取れということであろうが、芝居では役者の表現力にかかる。それは顔の表情や体の動き、そして”間”であろう。この人間の持つ根っこ...こちらは”心魂”に置き換わるかもしれないが、その演出に爽快か不快かは別にして緊張感のようなものが感じられない。その高揚感のようなものが観客(自分)に伝われば「値」が上がったかもしれない。
次回公演を楽しみにしております。
ボーイズ オン ファイヤー
HYP39
ART THEATER かもめ座(東京都)
2016/04/13 (水) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
満足度★★★★
笑った~
当日パンフは、銭湯のタイル(絵)画の富士山が噴火しているもの。入場券は銭湯入浴券という洒落たもの。その日、熊本地震の報道とあわせて、阿蘇山の噴火の記事(その関連性は定かではない)が出ていた。一方、阿佐ヶ谷のひつじ座では男祭りと称して火花が散る。そのクライマックスは江戸三大娯楽...歌舞伎、吉原遊郭、そして...。
(上演時間約2時間)
ネタバレBOX
冒頭、銭湯(玉の湯)の脱衣所シーン。暗幕の裏にセットがあることは分かるが、観客席に近いところで女性2人がキャミソール姿、短パン姿(男の半裸姿との統一感、芝居的な親和性の演出か。厭らしい表現で恐縮)で風呂上りの会話を楽しむ。暗転後、舞台は檜のサウナが出現する。本当のサウナのようで見事な作りである。
地方にある温泉場、そのサウナで繰り広げられる男のエロ話。まずはエロ言葉の尻とりから、いつの間にか人間の本能である性欲へ展開していく。そのきっかけは女性の下着が落ちていたこと。そして都会と地方の意識の違いから偏見・誤解・思い込みなど、会話にいろいろな嫌・摩擦が生じてくる。
その蟠りを解消させるため、温泉場の番頭が仕切り、相撲をすることになる。男性キャストは、この番頭以外はバスタオルを腰に巻いた裸同然の姿。舞台も半円形柄の敷物があることから想像はついたが...。男ならではの妄想、見栄、虚勢など、その相手に思っていることを体のぶつかり合いで解決できるか。吐露する時の表情、それまでに見え隠れしている人物のキャラクターが、この相撲の取り組みを通じてより鮮明になる。
モヤモヤの気持ち、そこは風呂の湯気のように立ち上り霧消するかのようだ。ここに登場する男(人物)は、人物造形としては誰でも持っている嫉みのような感情を典型化した上で、さらにデフォルメして親近感を得る、そのような魅力を出している。
その典型した先に自分の気持を当てはめることで、(男性)観客は同化して楽しむことができる。一方、女性は男って子供だ、馬鹿だ、愛らしいと醒めた目で見ることも...。いずれにしても共感でき、そして考える面白い公演であった。
役者は、皆さん個性豊かに演じており、見事なチームワーク。その役者紹介は、暗幕に名前を投影(映写)するが、その画面が揺れ暗いことから読み難い。この手法を使うのであれば工夫が必要だ。
次回公演を楽しみにしております
華蝶WHO月
朱猫
テアトルBONBON(東京都)
2016/04/13 (水) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
満足度★★★★
キャバレーというよりは...
花鳥風月をもじった「華蝶WHO月」というキャバレーの企業再生をかけた物語。水商売という舞台設定であるから、少し下品になるが、”女”を前面に出した演出であった。もっともキャバレーであるが、客としてのキャストは出演しない。あくまで店内での客寄せ企画に腐心する姿が中心である。その努力...ミニスカート、セイラー服、カクテルドレスなどで、”花鳥風月”などという風流なものではなく、愛情を込めて表現するば「歌唱振尻(かしょうふるけつ)」または「後ろ姿のWHO尻」という生身の女性が観られる。本当に楽しそうに歌い踊る。そこには夜の仕事に就きながら必死に生きていく強かな女性が垣間見える。上演時間1時間45分(ちなみに、当日パンフの表紙はこのキャバレーの料金表…1セット120分 3,500円 ご指名料・無料。上演後 、舞台上でキャストと一緒に写真OK)。
ネタバレBOX
舞台セットは、下手にカウンターとボトル棚、上手にBOX席という設定。両側に大理石イメージの柱が立つ。天井には「華蝶WHO月」の看板が吊るされている。もっとも店内の雰囲気はキャバレーではなく、スナックに近いような気がする。
梗概は、「キャバレー華蝶風月」は、全盛期の盛り上がりもなくなり、今ではお店もボロボロで従業員も数人となっている。その店の経営を立て直すべく、本社から女性社員が派遣される。 個性豊かな従業員とともに、アイデアを出し合い店を盛り上げようとする。
この派遣されてきた女性の奮闘と店にいる従業員(キャバ嬢、ホールスタッフなど)との衝突がコミカルに描かれる。この登場人物の一人ひとりのキャラクターと生い立ちが何気に分かる。そのさり気ない紹介が雰囲気を損なわず展開するところが見事。
気になるのが、主人公・熊切さやか(小林夏菜サン)が本当にキャバレーを経営する会社から派遣されてきたのか。その最初(説明)の件が、歯切れ悪く別の意図があるような感じを受けた。
先にキャバレーに来る客のキャストはいないと記したが、あえて言えば観客が店客に見立てられているかも...。前説で劇中で踊るダンスの振り付けを一緒に行ってほしいという。そのプチ練習までして劇場内全体として盛り上げる。その一体感こそが観て楽しいと思わせる(逆に迷惑と思う観客もいるだろう)。
この舞台の魅力は何と言っても”華”と”楽しさ”の両輪であろう。この両輪は脚本と演出であるが、それを操縦(体現)する役者の演技も良かった。個性豊かなキャラクターと主人公の大人しいアンバランス...そのチグハグ珍妙なバランスが面白いところだと思う。
次回公演も楽しみにしております。
「幕末!天命、投げ売りのクマさん」「ニコニコさんが泣いた日」
演劇企画ハッピー圏外
TACCS1179(東京都)
2016/04/01 (金) ~ 2016/04/14 (木)公演終了
満足度★★★★
史実..【ニコニコさんが泣いた日】
メッセージ性を意識した公演...この物語は有名な史実であり、戦争という最悪な悲劇にして究極の不条理を端的に表現する。人間の愚かな行為は動物をはじめ他の生命体の存在を脅かす。その演出は、戦時中における軍国主張を援用し、その理不尽な環境下では弱い立場にある動物たちへの慟哭が見て取れる。しかし、そこは単にお涙頂だいではなく、演劇企画ハッピー圏外という劇団の特長である面白く、そして優しい眼差しで見守るようだ。動物を擬人化して愛らしく、その結末は...。
ネタバレBOX
舞台は、前・後(客席側と奥)に区分し、奥は2段差あるだけの素舞台。客席側が動物園のオリの中、奥は柵ごしに見物する。この空間によって動物園に飼われている動物と人間を区分し、オリ外は戦時状況を現す。その時代環境であろうか、全面がダーク色で暗澹たる雰囲気を醸し出す。
梗概は、第二次世界大戦中の東京・上野動物園...戦争の激化により、餌の調達や空襲時に逃げ出したら危険ということで、動物たちを殺処分する戦時猛獣処分の命令が出された。ライオンや熊(公演ではワニ)が殺され、次は象のジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにする。象たちは餌をもらうために必死に芸(野球)をしたりするが、ジョン、トンキー、花子は終に餓死していく。
動物園の職員達は反対したが、食糧事情の悪化などもあり、他の動物園への移送に奔走する姿に感動する。とにかく走る走る、その熱量と動物たちの愛らしさと無念さが涙を誘う。
人間の勝手な行為によって多くの動物が死んだ。その足蹴にした人間、今、動物園にいる動物から癒しや元気、そして楽しみをもらう。悲惨な戦争から71年、人の噂も75日というが、その痛みをあと4年(戦後75年にして東京オリンピック開催年)で忘れてはならない。それ以降も同様に...。その意味で戦火が直接描かれる訳ではないが、その主張は鮮明である。
役者陣は擬人化した動物、立場がしっかりした人物造形。そしてバランスの取れた演技力は観応えがあった。素舞台であるだけに、個々の役者の演技力が目につくが、とても魅力的(ピンクレディの衣装と歌など)に演じていた。舞台技術、特に照明は動物たちの生まれ故郷をイメージする森林の描写が美しい。
そういえば、象を数える時、「○匹」という数え方でしたっけ。
次回公演を楽しみにしております。
レドモン
カムヰヤッセン
吉祥寺シアター(東京都)
2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★
表層的には地球人と地球外生命体(=レドモン)の共存共栄が成り立つのか、そんな投げ掛けがされているようだ。この投げ掛けは異文化との関わりであり、卑近な例をとれば移民・難民問題を提示していると思う。
さて移民などの問題に関して、自分は、正義と秩序の守護神とされるギリシャ神話の女神・テーミスのように公平無私になれない。さしずめフーコーの振り子のようにその考えが定まらない。もっとも国レベルの政策から個人レベルの思いまで、各段階でもその捉え方は様々かもしれない。
本公演は、対象となる者(地球外生命体として)と距離を置くことで客観的に物事を捉えている。その核心について考える材料を提示し、観客の思いに委ねている。
なお、作品自体がSF風であることから、世界観を重視し物語(筋)における多少の違和感は卑小なこととして楽しんだ。
ネタバレBOX
舞台セットは、鉄骨(金属パイプで足場組み)という無機質な物で外形を作り、その内に人や地球外生命体という者の活動が見える。また上手側の主舞台から数段下に張り出したスペースを作り、酒場カウンターを設える。酒場という憩いの場が、この公演では思念の確認場のように思えた。
核心と思える場面が、子供たちの学校での議論である。子供の無意識に発せられる本音、そのやり取りに思わず頷いてしまう。
社会が異文化を前向きに受け入れること、その反面、差別や緊張感も併せ持つことも分かってくる。子供の物怖じしない”文化の違い”の言い合いは、無邪気ゆえに本質を突く。その中に、大人(両親など)の会話の受け売りが雑じり”公平無私”ならぬ”工兵無視”という怖い側面が見えてくる。その大人の立場が、新聞記者・行政(厚生労働省)さらには警視庁刑事という、一見良識と思えるような職業の視点で描くところが興味深い。
レドモン=移民・難民の問題をユーモアと諧謔(かいぎゃく)でオブラートに包みながら、巧みに物事の本質に迫ろうとする。作・演出の北川大輔氏の人に対する鋭い洞察力をもって描き上げた作品を観客(自分)がどう受け止めるか?その思いは既に記したように曖昧だ。
物語に潜ませた事は、時を越えても色褪せない普遍的なテーマのように思う。理性とユーモアを交え、思索を重ねて捻り出した結晶のような作品…秀作である。
次回公演を楽しみにしております。
車窓(まど)の外は星の海
風凛華斬
シアターシャイン(東京都)
2016/04/08 (金) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★
演出、演技に魅力がほしい
物語の構成は面白い。タイトル「銀河鉄道の夜をモチーフに、この春、風凛華斬が送る心温まるファンタジー 『車窓(まど)外は星の海』 命の最後に訪れる選択…あなたならどちらを選びますか?」 からファンタジーをイメージしたが、その内容は真逆かも...。上演時間2時間弱で面白い物語であるが、その内容を体現する役者の演技に魅力が...。そういう意味では勿体無い。
素舞台であるから演技力がなければ、その物語は動かない。人の思い遣り、愛憎が交錯するという人間ドラマは、その心理描写・情景描写がしっかり描ければ面白いものだったと思う。個人的には好きな展開であるが...。
ネタバレBOX
梗概は、説明引用し「事故で命を落とした明日香は、魂だけの存在となり「銀河ステーション」に辿り着く。 そこは、転生のために乗り天上へと旅立つ「白い列車」と 今のまま永遠に銀河を彷徨い続ける「黒い列車」のどちらかを選び乗り込むための場所だった。 「黒い列車」には生きた人間を連れて乗れるという。 憎い相手に永遠の苦しみを与える事も、 愛しい者を永遠に自分のものにする事も可能だという。 たった一人の肉親である兄、タクトと別れ、安らかな転生を選ぶか それともタクトと共に永遠の旅を選ぶのか」と...。その死…なぜ死んだのか、その原因は何か、実は殺害された。では、どうして殺されなければならないのか。兄妹を中心に周りの知人が絡んだ推理。そして犯人は…。
作風は、サスペンス・ミステリーというイメージである。物語としては面白いと思うが、その観せる力が弱い。
例えばストーリー展開において、その人物造形がないと、行為の動機・原因が鮮明にならない。また結末に向けての展開が強引のようである。ミステリー仕立てであるので、その事件の全貌を明らかにする過程において、伏線をめぐらせておくなどの工夫が必要。恋焦がれている素振り、兄・妹に対する嫌悪感などがある。そして自分の死を簡単に受け入れてしまう疑問。死(後)という感情の重みが伝わらない。またステーションの担当案内人がその世界のルールを無視してでも助けようとする理由などは、カーテンコール後に明らかになる。それらは全て台詞で説明し、その状況や雰囲気から察することが出来ない。それを体現する役者の演技力(表情含む)に情感がないため、感情移入が出来ない。観客(自分)は演技を眺めているだけ。
脚本は面白いと思えるだけに勿体ない。白列車、黒列車の選択についてその緊迫感がない。それだけこの世界に時間という概念がないのかも知れないが、明後日とか明日という台詞もある。その期限に対する切迫感もない。また小物(ナイフ)は、お粗末なもの。次回予告の説明時に使用する太刀...その刀身は美しい。それだけにナイフも緊張できる物を使用して欲しかった。
もう少し丁寧に描くために、演出に工夫と役者の表現力があれば...。重ねて脚本は面白いと思えるだけに勿体なく残念である。
次回公演を楽しみにしております。
手のひらを太陽に
コルバタ
戸野廣浩司記念劇場(東京都)
2016/04/07 (木) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★
日本の原風景を見るような
この劇場(戸野廣浩司記念劇場)の舞台セット、見事な伊藤煎餅店がそこにある。黒く艶のある柱や梁、趣のある3畳和室、煎餅を入れる容器など、人の暮らしがうかがい知れ、その人たちの息づかいがしっかり聞こえる。そしてチラシにもある店の暖簾には伊藤家(氏)の代表的な家紋(庵木爪)を使用するこだわり。
この舞台は、或る商店街にある伊藤煎餅店の家族を中心に物語は進展するが、実に心温まるもの。そぅレトロな感じもするが、いつの時代も家族関係はドラマになる。この舞台では「お父さん」と呼ぶことが許されない事情があるようだが...。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
梗概は、説明文から抜粋...或る町のとある商店街にある煎餅屋「いとうせんべい」は頑固な父親としっかり者の娘で切り盛りしていた。 普通の生活をしている二人だったが、この頑固親父には1つ変わった事があった。 それは「お父さん」と呼ぶ事を許さないこと。 そんなある日娘が彼氏を連れてきた事で物語が動き出す。 色んな家族の絆が交錯するドタバタコメディー
主人公・元太(天晴一之丞サン)、若い時の元太(廣司侑也サン)は、孤児院施設の仲間だった夫婦(妻は子を産んですぐ、夫は子が3歳の時に病死)の子供を親代わりに育てており、子・岬(折原陽子サン)もそのことは知っている。お父さんと呼ばせることで、実親のことを忘れてしまうことを恐れている。お互いを思いやる気持ちがチグハグ。この父娘の関係を中心にして、近所のラーメン屋夫婦、離婚以来、娘と会っていない父親のふためき、実娘と里子の娘という少し複雑な家庭の父親など...家族の数だけドラマがあるようだ。
この家族・血縁という”個”という側面と、商店街という地域の繋がりを、温かい視点で見つめる。家族の中でケンカできることを羨ましいと思う里子・とうこ(マツダヒロエさん)の言葉が、家族の距離感を表す。クールで優等生的な態度には、実親でないことに対する客観的で距離を保つ姿が感じられる。その血縁のなさを超えた枠に家族を形成する。
そこに街の存在が関わる。時代とともに移ろい変わる街であるが、どこか郷愁が残る。地域商店街は日本の原風景であり、馴染み深いものであり、見守りの原点でもあった。古きよき時代の一面を詳らかにしつつ、市井の人々の人情をしっかり絡める巧みな芝居であった。
役者陣は個性豊かで、その役柄キャラクターを立ち上げていた。そのアドリブとも思えるような笑い。本当の家族、地域の人たちの関わりを観るようであった。
なお、劇団猿芝居の特長である「人情劇の王道」が観てとれ満足だが、コルバタとしては、これで良かったのだろうか。
次回公演を楽しみにしております。
Zebra On Zebra ゼブラ・オン・ゼブラ
劇団Turbo
駅前劇場(東京都)
2016/04/07 (木) ~ 2016/04/11 (月)公演終了
満足度★★★★
頑張れ!地域商店街の物語
物語は架空の桜中町商店街が舞台...この公演「ゼブラ・オン・ゼブラ」は、英語で横断歩道のことをゼブラゾーンと言い、横断歩道上のシマ馬という意味らしい。そのシマ馬、なぜ縞模様なのか、その理由に有力説がなく謎になっている。アフリカサバンナではシマは目立ち猛獣からの標的になりやすいのに...。一方シマ馬が数頭いると全体的に巨大な縞模様になり、猛獣への威嚇にもなっているという。一頭では弱いが、群れをなせば強くなる。
商店街によってはシャッター商店街と揶揄されるほど衰退している所があると聞く。大手のスーパーマーケットなど大手資本の進出が地域商店街を圧迫する。商店も1店1店では経営が厳しいかもしれないが、そこは地域活性化を模索し...その試みが商店街ラジオFM局の放送である。
そこには地域の人情がしっかり描かれ、温かい気持にさせるが…。
ネタバレBOX
舞台セットは、ラジオ局内の放送ブース。上手には音響機器をイメージさせる机。下手には局のマスコットガールが...。物語は地域の人々の繋がりや商店街の出来事などが挿話するが、本筋はこの試行のラジオ放送が終了することに対する寂しさから自殺を仄めかす投書が寄せられる。この人物を助けるため、投書主を探し出すドタバタがコミカルに描かれる。
地域に密着したニュースの提供...その話題や人の繋がりが断片的に説明されるが、物語の本筋とうまく連携していなかったように思う。自殺を仄めかした人物にたどり着く過程もあまり伝わらない。もともとコメディタッチであるが、それでも時間的制約をつけた緊迫感・臨場感が観えると街中の情景も動いたと思う。あくまでラジオ局(ブース)内という狭い空間世界しかイメージ出来なかったのが残念である。
投書主はマスコットガールで、このラジオ番組への愛着と存在の重要さを示すというオチである。
演技も役者間に力量差が見えるようで、人間的魅力を体現出来ている、出来ていないというアンバランス。商店街の人に応じた個々の喜怒哀楽の総和が地域の雰囲気であり風景であろう。
ちなみに、認知症のおばあさんは見つかったのでしょうか?迷ったシマ馬は早く探し出して保護しなければ…”ラジオの力“の見せどころであろう。
次回公演を楽しみにしております。
紙風船
libido:
新宿眼科画廊(東京都)
2016/04/01 (金) ~ 2016/04/06 (水)公演終了
満足度★★★
微妙になった夫婦関係は…
夫婦とは不思議な存在かも...。生まれ育ちも違う男女が基本的には生活を共にする。この紙風船が描かれた時期は、今から90年ほど前であるから、生活様式は少し違うかもしれない。
さて、本公演での夫婦関係はその衣装や考え方が現代のような感じである。その描く情景も現代のような気がするが、映像テロップ、映写風景が大正から昭和初期のようである。例えば、1925年、目白文化村(めじろぶんかむら)の第三期分譲の案内など、当時の広告または新聞と思われる写真が投影されるが、その意味するところはなにか?
説明にある、庭に面した座敷での夫と妻の会話。 夫が縁側の藤椅子に座り、新聞を読んでいる。 妻はすぐ近くで編物している。 夫婦の話はその性格・人柄が如実に表れるもの。
その内容とは...。
ネタバレBOX
梗概は、平凡な若夫婦の日曜日。退屈をもてあまし、妻がどこかに出掛けようと提案している。夫は出掛けるにはもう遅いと、相手にしない。そこで2人は思いきりぜいたくな旅行の空想の遊戯にふける。その空想する旅先が湘南方面で、実に楽しそうである。しかし、何気に現実を意識するとき、互いに心の空白を感じないではいられない。妻の夫にかまってほしい、一方の夫は自分の世界に浸り妻にじゃまをしてほしくない。その2人の心のすれ違い、不安は、隣の家から舞い込んできた紙風船を突き合うことによって和むような…。
舞台セットは、新宿眼科画廊スペース0という小空間…そこは白を基調にしながら、色彩豊かな旅先名所のイラストが描かれている。中央にはテーブルと椅子。テーブルの上には絵筆などの画材が乱雑に置かれている。客席正面の壁の一角はスペースになっており、そこに画用紙を貼り、夫婦で絵を描き出す。その身体的動きが、空想する旅先をイメージするもの。この空想から現実に立ち返った時、手持ち無沙汰になった”間(無言)”がずいぶんと長く感じられる。確かに会話が途切れているが、芝居という観る者がいることを意識すれば、例えば「茶を飲む」「縁側に指文字を書く」などの無言動作で心情表現する工夫があってもよいと思う。完全な二人芝居で逃げ場は ない。それだけに平凡な夫婦における、ありきたりな会話の中に危機感を滲ませるのは難しい。それゆえ、繊細な男女の心理を描くだけではなく、独自の演劇空間を作る必要があると思うのだが。
この公演は、現代と大正・昭和初期という書かれた時代の並列描写なのか。そのあたりが分かり難い。
先日、新聞に「夫婦生活を充実させるための習慣」という記事が掲載されており、それによると第1位は「相手を尊重する・思いやる」ということ。逆にあまり幸福と感じていない人のトップ3は、「お互いに干渉しない」「相手を束縛しない」「適度な距離感を保つ」で夫婦間の距離を感じさせるもの。時代を経ても夫婦の有り様は難しい。ちなみに新聞記事のアンケートは、50~60歳代が対象。この芝居は結婚1年という設定からすればなお更その思いを強くする。
舞台美術は現代風…アトリエという設定で描きながらの空想旅行も斬新だ。演技も悪くはないが、やはり夫婦という感じが醸し出せていないため、違和感が…。
次回公演を楽しみにしております。
十手ガール捕物帳
劇団 EASTONES
駅前劇場(東京都)
2016/03/30 (水) ~ 2016/04/04 (月)公演終了
満足度★★★
もう少し演出を大切に...勿体無い
場内では、時代劇らしく着物姿の女性が案内していた。髪も日本髪を結い雰囲気は和である。そして舞台はほぼ素舞台で、周りの壁(屏風のようでもある)は桜模様もしくは桜吹雪をイメージする絵柄、その淡いピンク色が春を思わせる。
だた、この案内をしていた女性の役どころや演出方法を始め、いくつか勿体無いところがあり、物語の面白さに影が...。
ネタバレBOX
梗概は、名うての岡っ引きだった父・平蔵が何者かに殺された。奉行所の計らいで娘のさくら(西山美海サン)は、父の十手を持って捜査に乗り出した。オヤジの子分をひきつれて、江戸の町を舞台に繰り広げる捕物帳である。下手人らしい人物が推理されるが、今一つ決め手がない。サスペンス推理の定めは意外な人物が下手人と相場が決まっている。
さて、この主人公の捕り物推理に直接絡まず、独自の探索を始める遊び人・ひとでの長助が雇う”闇の三人娘(楓・柊・いろはもみじ)”。この三人娘は闇で働くという設定であることから、その艶やかな着物姿は薄暗い場面で登場する。その“華”を摘んでいるような演出で勿体無いと思う。
また、さくらの後見人のような立場の丸山徳兵衛(石田武サン=殺陣・演出担当)の笑いネタが煩く感じる。もう少しストーリー本位の演出にしたほうが楽しめる。
それぞれの場面…「甘味処かねや」「観音組」の人情味や父・平蔵のライバルだった蝙蝠の銀次との対決シーンは観応えがあった。もちろん、ラストの下手人との決闘(殺陣)シーンも素晴らしい。この感情・緊迫と笑い洒落の弛緩した落差を意識した演出かもしれない。しかし、コンセプトが初のサスペンス物?と謳っていることから、その路線で観せてほしかった。
舞台技術の音楽は、TVの現代サスペンスを想起させるもの。また照明の桜屏風のような見せ方は実に印象的、余韻の残るもの。
次回公演を楽しみにしております。