きゃるの観てきた!クチコミ一覧

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農業少女

農業少女

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2010/03/01 (月) ~ 2010/03/31 (水)公演終了

満足度★★★★

多部未華子の好演が光る
「農業少女」という作品を初めて観たのは5年前、明治大学の学生劇団「劇団螺船」においてだった。この劇団は長年にわたり現代演劇の秀作を数多く上演しており、見逃した話題作にも出会える楽しみがあり、私のような者にとってはありがたい劇団だったが現在は活動休止中らしい。
「螺船」の公演のときは、当日パンフが「都市農業説明会」のパンフを兼ねており、入場するとすぐに「どうぞ」とウーロン茶の入った紙コップを差し出された。これが後の「健康に良いと言って飲んだ毒の入った飲料」の伏線になっているという趣向で、気のきいた演出だった。「螺船」は野田版に近い演出だったと聞く。今回は松尾スズキらしく楽しい趣向があるが、そのぶん「螺船」より筋がわかりにくく感じられ、テーマがすんなり頭に入ってこなかった。
人気公演らしく、平日の昼にもかかわらず席は完売。
雪の降った翌日でまだ冷え込みが残っているというのに、冷房が入っているかのごとく空調が寒く、途中で思わずコートを着た。
私はかねてから「農業少女」のヒロインには多部未華子が合っていると思っていたので、今回の配役が発表されたときは、わが意を得たりだった。
事実、多部は生き生きと好演している。

ネタバレBOX

開演直後、「こんにちは」とやけに明るく感じの良いスタッフが入ってきたと思ったら多部未華子本人だった。「都市農業」についての説明会チラシを上手側最前列客に配る。中央部最前列の客には主催者・都罪=ツツミ(吹越満)の秘書役の江本純子が配る。ミーハー目線で言えば、このとき間近で観た「多部ちゃん」はとにかく可愛い。
舞台上手側のTVモニターに舞台稽古の模様が映ったり、山崎一の以前の出演CMの映像が流れて本人が照れたり、蟻に扮した野田秀樹本人が映って「新作の台本も書かずにサボってる」と吹越が突っ込みを入れたり、多部が山崎を見て「石田純一?」とソックリネタを振ったりで、客を笑わせる。
家出少女(多部未華子)と列車の中で知り合った毒草の研究者を名乗る山本ヤマモト(山崎一)と少女を商売に利用する都罪との対立。
「都罪」という名前からして象徴的だが、少女は都罪の怪しげな仕事にかかわり、米の新種「農業少女」の宣伝キャラクターとなり、都会生活の中で都会の毒に染まっていく。ヒットラーを例にとったファシズムや大衆の情報操作批判などもからめ、山崎、江本、吹越が1人何役もこなしながら物語が進んでいく。
江本を観るのは実は今回が初めて。毛皮族などの扮装写真でしか見たことがなかったので、想像していたイメージと違っていたが、松尾スズキの演出の中で呼吸していたのはさすがと思う。
周囲の声が聴こえなくなった状況で、少女が実際の聾唖者のような発音をしていたことが印象的。「螺船版」ではなかった。
農業や田舎を嫌い、都会に出た少女が結局、農作物のブランド戦略に利用されてしまうが、その毒から離れて黙々と農業に向き合う皮肉。このあたりが「螺船版」では非常にわかりやすかった半面、ヤマモトと少女のかかわりかたがややわかりにくかった。
今回の公演は逆に、都会での生活描写が具体的に入ってくる分、都市農業の諷刺がややぼやけた感が残った。
「都会では野菜を英語で表現し、化粧品などに加工してからだの外に塗る」というのもなるほど痛烈な指摘だと思った。また、よく知らない人物がゲスト出演し、「あの○○界のカリスマXXさんが企画したお品物!」と絶叫する深夜のTV通販のいかがわしさも都会の毒の一種なのかもしれない。
ヤマモトも都罪も妄想に生きている男。少女は都会を夢見ながらもひたすら現実を希求する。少女と男たちの関係はいまひとつ真相がよくわからないのだが、もしかしたら、この少女の話も現実には存在せず、男たちが妄想の中で作り出した虚像なのかもしれないと思った。前回の「螺船版」ではそんなことは考えなかったのだが。
多部未華子はTVの画面の中より舞台のほうが合っている気がする。最近は不況の影響も受けてTVドラマ界が不調のせいか、舞台に進出する人が増えている。昔は映画スターが舞台に転進する例が常だったが、いまや大女優の岩下志麻のように舞台俳優の両親を持ちながらただ一度「オセロ」に出て「舞台には向かない」と自分で判断してその後一切舞台に出ないような人はむしろ珍しい。多部には舞台女優の素質もあり、今後、良い作品に巡り合うことで活躍していってもらいたいと思う。
終演後、若い男性客が「むずかしくてよくわからなかったけど、多部は超カワイイ!」と言っていた(笑)。
HAMLET!!

HAMLET!!

宝塚歌劇団

【閉館】日本青年館・大ホール(東京都)

2010/02/19 (金) ~ 2010/02/25 (木)公演終了

満足度★★★★

宝塚でなく一般作品としてもまずまず
宝塚のバウホールで上演される公演は宝塚の小劇場公演とも言え、軽快なコメディーや古典の佳作など宝塚の座付き作家兼演出家にとっても大劇場の演目と違い、いろいろな冒険ができる。そのバウ公演メンバーが上京して日本青年館で公演を行うのが通例となっているが70年代は西武劇場(現パルコ劇場)で上演されていた。
バウ公演は2番手、3番手スターなどの若手を主役にすえ、将来のトップ候補としての経験を積ませるわけで、バウ公演の主役を張るということはトップスターへの登竜門を意味するのだ。従って観客の中心は御贔屓の若手スターのトップ就任を夢見る熱心なファンであり、よほどの宝塚好きでないと足を運ばない。今回は久々、浦島太郎気分で観劇した。
ポスターを見ると、主演の龍真咲はブルーのカラーコンタクトをしているのでギョッとした。宝塚でもここまでするのは見たことがなく、あくまで撮影用らしいが、彼女の意気込みを表している。
宝塚の歴代ハムレットは春日野八千代、越路吹雪、真帆しぶきで、いずれも宝塚を代表する大スター。龍が4代目で、「ハムレット」を上演するのも40年ぶりとか。歌劇団の龍への期待の大きさを伺わせる。
日本青年館公演では経費節約のため音楽は録音というのが当たり前だったが、今回は生バンド。電飾を使った舞台美術も大劇場公演に優るとも劣らない豪華さである。
今回の公演は、宝塚という枠をはずして観てもじゅうぶん楽しめる「ハムレット」だった。昨年観た明治大学文化プロジェクトの公演と構成なども似ており、わかりやすかったが、さほど新味は感じられなかった。

ネタバレBOX

場内でまず感じたのは客席の熱気の少なさだった。よく確かめないで買ったのだが、この日は初日だったのだ。にもかかわらず、1階席の前方のみファンクラブが陣取って揃った拍手をするが空席も目立ち、私が座った2階席はガラガラで、なぜか前3列は空いている。ファンクラブの抑えた座席なのかもしれない。以前ならありえない光景だ。これが十年くらい前なら、平日昼でも2階席までぎっしり埋まっていたし、前が空いていたら、少しでも近くで観たいのでみんな黙って座っていたりしないで、前に詰めてしまっただろう。というより、ファンクラブスタッフがやってきて空席が目立たぬよう「前に詰めてください」と指示するにちがいない。料金は前でも後ろでも同じなので。青年館公演でも初日のチケットはなかなか入手できなかった往時と比べると隔世の感がある。主役の動員力はスター争いにも影響するので少し心配だ。
物語はハムレットの死後、つまり事件がすべて終わってから、亡霊たちが追憶するかたちで始まる。しかし、必ずしもこの構成に新鮮味を出しているかというとそうでもない。冒頭に亡霊たちがうじゃうじゃ出て踊る以外、物語が始まってしまうといつもの「ハムレット」だからである。ロックオペラと銘打ったが、ロック音楽を使ったこと以外、特徴はない。古典だけに宝塚では限界があるだろう。だが、亡霊を出すなら、もう少し、脚色して死後の特異性を出してほしかった。だが、長時間の戯曲を巧く2時間30分にまとめてある。劇場側の開演アナウンスがあってから風の効果音が長く続いたあと通例の公演主役の宝塚スターによる開演アナウンスがあるが、スターアナウンスまでが長すぎて疲れる。風の効果音があまりに長いのでスターのアナウンスは行わないのかと思ったほどだ。やはり、通例のようにスターのアナウンスの後に風の効果音を流すべきだったと思う。いつ始まるのかわからないではないか。ハムレットの主役、龍真咲は、ときどき声が割れる以外、演技に破綻なくまずは及第点。少々華に乏しい印象だが案じることはない。いま女優として活躍している真矢みきも意外にも下級生(宝塚歌劇団での若手と言う意味)のころは地味だったし、小劇場ファンにも知られている演技派の久世星佳も地味と言われた。かつてハムレットを演じたという越路吹雪も宝塚時代は主役より脇の3枚目としての印象が強い人だったと聞くし、その点は真矢みきも同様だった。鳳蘭や大地真央のように無名時代に端っこにいても光り輝いていたいわゆる“華のある子”は稀である。むしろ地味な生徒のほうが退団後、女優として開花する可能性が高いかもしれない。龍がトップスターになれるかどうかは知らないが、私の経験から言うと、この人は外でもいい芝居をする存在価値のある舞台女優になりそうな片鱗を感じた。
墓堀りの3人を狂言回しに使うが、マクベスの魔女役のような不気味さがあって面白い。プログラムにそれとわかる役名が出ていないので俳優がわからなかった。宝塚歌劇団の雑誌の詳しい情報を読めばわかるのだろうが、こういう脇役の生徒は初めて観る外部の人間にはわからない。プログラムに役名の後ろに「(墓堀り)」と明記してほしい。だいぶ以前、「宝塚は脇役の生徒を大切にしないからダメだ」ということを歌劇団の雑誌の誌面上で直言し、「専科」の上級生から賛同の手紙をもらったことがあるが、いっこう改まっていないようだ。
劇中劇の旅役者の場面は演出上あまり印象に残らなかったのが残念。宝塚はこういう場面が本来得意なはずなのだが。
組の最上級生が勤める「組長」の越乃リュウがクローディアス。もうそんな学年になったのかと驚く。私が知る頃は地味な役が多かったが、今回のクローディアスは眼帯を付け、宝塚で言うところの「黒っぽい役」で、越乃は2番手のスターが演じているような華もあり、カッコイイ。良い意味で主役より目立っていた。組長が準主役の2番手の役を勤めるのも、以前にはなかったこと。
オフィーリアの蘭乃はな。狂乱の場面が宝塚の娘役の枠を超え、個性的だったのが良い。うまく表現できないが、宝塚にありがちなお姫さまお姫さましていない確かな演技力があり、小劇場でやるような作品で観てみたいと思わせる。
ガートルードの五峰亜季は現在「専科」に在籍するベテラン幹部俳優だ。しかし、若手のころと変わらずみずみずしい。もともとダンスの名手で下級生の頃初のニューヨーク公演メンバーに選ばれたが、今回のガートルードは妖艶で演技力で見せる。
ハムレットのガートルードへの想いというのは多分に異性としての母への嫉妬が含まれており、母の不実をなじる場面はまるで恋人に対するように官能的なのだが、ガートルードによってこの場面が近親相姦のように見えるときと、浮気をみつかったオバサンのバツの悪さに感じられるときがある。
五峰のガートルードはこの時代らしく若くしてハムレットを生んだであろうまだじゅうぶんに色香のある恋人のように美しい母であった。いつも「ハムレット」を観て思うのは、父王への復讐と言いつつ、母への嫉妬のほうが優って見え、オフィーリアよりもガートルードを異性として愛しているように感じてしまう。
席の近くに外国人の若い女性3人組が観ていて、身を乗り出して熱心に、楽しんでいる様子だった。宝塚のシェイクスピア劇を彼女らはどのように感じたのだろうか。報道によると、宝塚の欧米公演というのは現地でも好評なのだそうだ。アゲハ嬢のマリー・アントワネット風お姫様ファッションがパリでも逆輸入で流行しているそうだから、日本人が外人の扮装をしても抵抗がないのもかもしれない。
オブンガク堂 cafe

オブンガク堂 cafe

WANDELUNG

MUSICASA(東京都)

2010/02/24 (水) ~ 2010/02/24 (水)公演終了

満足度★★★★

アイディアが良い
「オブンガク」と聞くと、「おフランス」みたいに「文学」に「お」を付けたのかと勘違いしそうだけど、
オヤツと音楽と文学をミックスしたパフォーマンスだそうで「美味しく楽しく賢くなる」がキャッチコピー。なるほどね。
代々木上原の丘の上のおしゃれな小ホール空間で、今回は夢野久作の小説『死後の恋』と『支那米の袋』の2作をもとにした朗読劇を、ロシア系のクラシック音楽のピアノ生演奏に載せて上演。
オヤツも朗読劇のイメージに合わせた創作スイーツと芳醇なコーヒー。非日常的ななかなかすてきな3時間でした。新しい試みのようなので、アンケートに「チケプレ」をお願いしておきました。
チケプレやったらけっこう「観たい!」人がいると思うのですよ(特に女性は)。今回は「観たい!」の登録は私一人だったけど。

ネタバレBOX

最初に曲の説明と簡単な物語の説明があった。
最初の曲はハチャトリアン作曲「仮面舞踏会」より「ワルツ」。「仮面舞踏会」は折りしもこの日の五輪女子フィギュアスケートで浅田真央さんが使用した曲。
次がラフマニノフ作曲「4手のピアノのための6つの小品」。
そしてドボルザーク「スラブ舞曲」第10番とチャイコフスキーの「くるみ割り人形」より「トレパーク」。
朗読劇の物語は2作交互に展開されていく。「死後の恋」はロマノフ王朝最後の姫が兵士に男装していたが銃殺され、死後、その愛により、森の奥深く戦友の兵士を誘って自分の死骸を発見させたと信じる元兵士コルニコフ。
彼は浦塩(ウラジオストック)の目抜き通、スウェツランスカヤの大通りをさまよい歩き、実は姫であった戦友リヤトニコフの死体の下半身に銃弾として埋め込まれたのは「ロマノフの宝石」で、それは自分への愛の証として抜き取ってきたと話すが、だれにも信じてもらえない。
「支那米の袋」は、同じくスウェツランスカヤの舞踏場の踊り子ワーニャが駐留米軍の司令官の息子ヤングにだまされ、支那米の袋に詰め込まれて船に乗せられるが、無残にも同じようにして乗せられた娘が十数人もいて、彼女たちは水夫たちに殴る蹴るの乱暴を受け、袋のまま海に捨てられてしまう運命にあった。ワーニャも海に捨てられたが、別の船に救助され、舞踏場の客に心中を仕掛ける。
劇が終わった後、舞台挨拶のときに俳優の自己紹介してほしかった。コルニコフを演じた劇団昴の板倉光隆とリヤトニコフ、ヤング、水夫を演じた左藤慶はそれとなくわかったが、女優の名がパンフに2人あり、ワーニャを演じるのは1人なのでどちらが、平野麻樹子で室井沙織か、わからなかった。
舞台となるウラジオストック全景とスウェツランスカヤ大通りの写真、ロシアの地図などが配布されたのは親切だと思った。
異なる作品を交互に演じるという方法は、昨年の夏、黒色綺譚カナリア派の朗読劇でも採られていたが、今回は物語の舞台が共通なのでどこかでつながるのかと勝手に連関性を連想してしまった。原作をもとに2つの話を1つに脚色してまとめる手法もあるので、そうしたほうが興味深かった気もする。
スイーツのメニューは「イチゴと赤ワインの紅茶シフォン(ロシアンティーのイメージ)」「コニャック風味の生チョコ(ロシア貴族の好む酒を使用)」「胡桃とココナッツのスノーボール(森と雪ををイメージ)」と、いずれも今回の小説の世界にちなんだもので、3種の中から1種選ぶ方式。だが、1人前の分量を少なくしても3種すべて試食できるかたちにしたほうが好ましい(実際、客が少なく、お菓子は余っていた)。女性3人で来て、お互いに分け合っている賢いグループもいたが(さすが、女性はこういう知恵を出す)。そして、いくらおしゃれな催しでも、皿やカップを置く場所がなくて、椅子の上に置いて、犬のような姿勢で食べている女性もいたのだ。これでは優雅な気分には浸れない。
せっかくテーブルを使うなら、真ん中にテーブルを出して、観客同士の会話がはずむようにしたらいかがか。「出演者も加わりますので、会話をお楽しみください」と言うが、出演者は友人と話しているだけで、交流しようという姿勢が感じられない。テーブルのある椅子席もあったが椅子と椅子に挟まれ、近くの人以外、入っていけない。配置が不平等だ。
だが、視覚、聴覚、味覚で味わう文学世界という試みは評価できる。
第五回千作千之丞の会

第五回千作千之丞の会

森崎事務所M&Oplays

国立能楽堂(東京都)

2010/02/24 (水) ~ 2010/02/25 (木)公演終了

満足度★★★★★

山本東次郎との共演が実現
現在ほど、狂言が上演されている時代はないと言ってよいほど、毎日、どこかでいろいろな狂言の会が催されている。中でも京都を本拠とする大蔵流茂山家は「お豆腐狂言」を名乗り、武家式楽の一部としての格式を取り払うかのように町衆系統の親しみやすい狂言を普及させることをめざして全国的に活動し、多分に商業主義的な側面を持つ。和泉流の野村萬斎と共演することもあり、萬斎と並び、若い女性ファンが多い。「とにかく笑ってもらおう」という近代的なサービス精神が強く、「節度と品格ある人間ドラマ」を目指す東京の大蔵流山本家とは対極にある。
私が今回、この会を観にいったのは、大蔵流山本家当主である山本東次郎が茂山千作・千之丞兄弟と共演する稀有な舞台を見届けたいからである。私はどちらかと言えば、山本家びいきなのである。茂山家は、同じ大蔵流の山本家よりも、和泉流の野村萬斎とのほうがやりやすいと言っているほどで、大蔵流両家がひとつ舞台の同じ演目で共演する機会はほとんどない。
この奇跡的とも言える機会を逃したくなかった。

ネタバレBOX

千作・千之丞兄弟は共に80歳という高齢で、長寿の目出度さを祝う意味もあってか、最初の演目は祝言物の「福の神」。参詣人(茂山七五三、茂山あきら)に「願い事を聞いてほしければ、何か貢ぐように」と要求する現金な神様(千五郎)。関西人の千五郎にはこういうちゃっかりした洒脱な役、伝統芸能用語でのいわゆる「機嫌の良い役」ははまり役と言えよう。客がくすくす笑っていた。
山本東次郎が客演したのは、素狂言「武悪」。素狂言と言うのは装束、すなわち狂言の衣裳をつけずに、紋付袴で座したまま演じる。私は素浄瑠璃、素謡は体験したことがあるが、素狂言は初めて。芸風が違いすぎることもあり、本式の狂言では共演が難しいのかもしれない。また、兄弟ともに立ち座りに後見の介添えが必要な高齢者ということもあろう。
主人(千作)が乱暴者としてもて余す家来の「武悪」(千之丞)を斬るように家来の太郎冠者(東次郎)に命じ、太郎冠者は武悪をだまし討ちにしようとするが、情が邪魔して見逃してやる。腹の虫が収まらない武悪は鳥辺山に出かけてきた主人と太郎冠者の前に幽霊に扮装して現れ、「冥界」の辛さを訴える中、あの世で主人の父親の大殿様に出会ったと嘘をついて、主人から太刀や扇を騙し取り、「あの世は広いが、息子は狭い家に住んでいるので、あの世へ連れて来い」と命じられたと主人を脅かすが最後は嘘がばれてしまう。勝手なことを言い合う大名と武悪の間で、あくまで神妙な面持ちの太郎冠者。3者とも適役で、よくぞこの組み合わせが実現したものだと思う。「笑い」に関する考え方は両家正反対で互いに一歩も譲らぬが、両者が「犬猿の仲」というのは世間の誤解で、東次郎によれば千之丞とは良い飲み友達で楽しい酒を酌み交わしているそうだ。それゆえか、武悪と太郎冠者の友情が良い感じに出ていた。
最後は「二人袴」。縁談が決まった家の舅(丸石やすし)に「婿入り」の挨拶に行く弟(茂山童司)は室町時代のこととて、まだ少年。「さきほどまで子供と遊んでいた」などと言い、無事挨拶をすませたら、弁慶の人形や子犬や饅頭を買ってほしいと兄(茂山正邦)にねだる子供である。しかし、この家は正装の長袴を1着しか持ち合わせないため、舅の前に交互に穿いて一人ずつ出ていたのだが、「2人一緒に来てくれ」と言われ、兄はもう帰ったことにしようとするが、兄の顔を舅の家臣、太郎冠者(茂山茂)が見知っていたため、ごまかせず、奪い合って2つに裂けた袴を半分ずつ身につけて舅に会いに行く。「舞い」を所望されて後ろを見せぬように舞うが、油断して後ろを見られてしまい大笑いされるという話。山本家だと、兄ではなく、父親で演じ、東次郎の父親の呆れ顔がとても可笑しい演目だ。茂山家は「えのころ」という台詞も「犬ころ」と現代的にわかりやすく発音し、長袴の穿き方がわからない弟がいろんなまちがった付け方をして大ボケぶりで客を爆笑させる。
和泉流の野村萬斎や茂山家の演じ方は、現代的にわかりやすく演じようとして説明に走るあまり、くどくなり、笑わせることに偏って演技の底が浅くなり、ただのコントみたいになることがある。すると、笑いに託した作品の人間的な奥深さが伝わらない場合があり、それが私の評価できない点である。
もっとも今回は茂山家にしては演じ方に節度があるほうだったと思う。それが証拠に終演後、「きょうのは笑うところ少なかったね」と客が言っていた(笑)。
25日は配役が一部変わり、「福の神」が七五三、参詣人が千五郎、あきら、「二人袴」の弟が茂山逸平、太郎冠者が童司、兄が茂山千三郎、舅が松本薫。


天晴スープレックス5

天晴スープレックス5

ブラボーカンパニー

小劇場 楽園(東京都)

2010/02/17 (水) ~ 2010/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

面白いのでおススメ
このコントシリーズは初体験です。ブラボー・カンパニーは固定ファンがしっかり付いていて、女性客のほうが多く、私が観た日は中年女性が最前列に陣取り、大うけだった。メンバーは男性のみだが、多くの女性スタッフが支えている劇団。今回のフライヤーはプロレスのコスチュームだったため、「プロレスがテーマなのか?」という問い合わせが何件か来て、スタッフが心配したらしい(笑)。内容はプロレスには関係ない。下北沢演劇祭に招かれ、メンバー一同張り切ってその意気込みを表したのが、このフライヤーだったのかもしれない。
メンバーの中でも私が特に好きなのは、リーダー格の佐藤正和、そして鎌倉太郎。佐藤正和は普通の芝居をやっても、演技力が安定している俳優で、温かい人柄がにじみ出ているようないい芝居をする。コントでも同様だ。
鎌倉はかの無名塾出身だから演技の基礎がきちんとできており、いまも無名塾公演に出ているが、そのときの役どころとのギャップがあるので面白い。彼が出てくるだけで笑いがもれているが、必ずおかしなことをやらかす役で、大真面目にやればやるほど、可笑しくてたまらない。
今回、作家の福田雄一がたくさん書きすぎて時間内に収まらないため、公演期間の後半、一部ネタの入れ替えをやるそうで、リピーターも楽しめるようにするそうだ。
コント公演は気軽に観にいきたいと思うが、その場合、当日3500円は少し高く感じる。もう少し料金設定を低くしてもよいと個人的には感じているが、福田が既に売れっ子作家のため、あまり安い料金にはできないということなのだろうか。

ネタバレBOX

変化-「変」をテーマにさまざまな設定のコントを展開。コントは個々に好みがあると思うが、いくつか、記憶に残ったものを挙げてみよう。
「ヤク」のアタッシェケースを奪ってきた男たち。鎌倉が麻薬の味見をするうち、意識が朦朧として幻覚が見え始め、それでも「俺がおとりになるから早く逃げろ」と仲間に言う。鎌倉の変なかつらとラリった様子が笑えた。
東大と早稲田に受かったが第一志望の京大に落ちたから自殺すると言う高校生(太田恭輔)。止めに入った刑事、佐藤正和が中卒で鎌倉太郎が大東文化大卒という設定で、高校生はコバカにして説得しても話がかみ合わない。セレブらしき母親(野村啓介)が駆けつけると、「親に頼らず自分の力で生きていく」という高校生だが、「仕送りは100万円でいい。家賃30万円のアパート、時給3万円のアルバイトで暮らす。別荘は夏と冬しか行かないから」など、まったくとんでもないボンボンだ。刑事のほうが「生きている矛盾」を感じてしまい自殺しようとする。
暴力団の抗争で殺人容疑者の留守宅に侵入した刑事が次々、証拠写真を撮ってきて提示する話。中に事件とは関係なさそうな容疑者が行きつけの居酒屋の主人の飼い犬やその友達の犬の写真まで出てくる。犬の食べ残したドッグフードを刑事が完食した写真には脱力した。写真の犬が可愛い。
地上げ屋が家主(山本泰弘)を出て行かせようと試みる嫌がらせが小学生並みの陳腐なもので、特に、山手線の駅名を言っていくゲームで家主が勝手に加わって「新橋」と言ったとたん、駅名が言えずに地上げ屋たちが立ち往生するのが可笑しい。
脱サラの屋台のラーメン屋(佐藤正和)が「枠にはまった生活や歯車の一部みたいな生き方はイヤ」と言いつつ、サラリーマンそのものの生活で、「9時5時営業」だったり、屋台で部下と市場分析の会議を始め、棒グラフのスライドを見て「うーん。塩が伸びてるなー」などとうなずく。「味噌ラーメン早く」と言われても「自分、不器用ですから作れません」などと高倉健もどきの捨て台詞を吐くのだからどうしようもない。
アメリカに負けじとジョークを考えるロシア人たち(金子伸哉、保坂聡)はコントの終わりに満足げに「ハラショー」と言うのだが、ジャッジ(鎌倉太郎)の「バツゲーム!」の一声でコサックダンスをやらされる。金子はなかなか頑張って踊っていた(笑)。「赤の広場をおまえの血で真っ赤に染めてやろうか」などロシア語の通訳アナウンス(女性)が可笑しい。
現代用語を保坂聡がボディランゲージで表現するコントは、本人も受けないとわかっている顔でやっているナンセンスぶりが可笑しい。保坂はナンセンスコントに出ているときの柄本明に共通するおかしみを醸し出している。
もしもマイクロソフト社がプロ野球球団の経営に参画するとしたらという設定で、ビル・ゲイツ(金子伸哉)の前で広告代理店がプレゼン合戦を繰り広げる話。「鹿児島サイゴウサンズ」で西郷隆盛の扮装で犬を連れたバッターが必ず犬の糞の処理をする、「ナマハゲズ」で秋田のなまはげが刃物をふりかざして野手をなぎ倒していく、「香川うどんず」が丼のヘルメットのうどんのつゆをこぼさずに走塁しなければならないのでアウトになる確率が高い、などどれもくだらないアイディアなのだが、こういうバカバカしさが私はけっこう好きだ。
コントの精度から言えば玉石混交だが、こういう世相だから、たまには「笑いでうさを晴らす」のも楽しい。
実は、観劇の前日、モダンスイマーズの公演を観たので、昨年、ブラボーカンパニーのコメディーに苦戦覚悟で挑戦したモダンスイマーズの古山憲太郎のことを思った。シリアスな芝居しか経験していない古山にとっては大冒険で緊張も出て酷評もされたが、必ずや、またブラボーカンパニーに客演してリベンジを果たすと誓っている。彼がこのユニットに客演したらどうなるか楽しみなので、ぜひまた挑戦してもらいたいと思う。
御前会議

御前会議

クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)

Heiz Ginza(東京都)

2010/02/11 (木) ~ 2010/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

会議室で「御前会議」
前回の「タクラミ」のアンケートで平田オリザ作品をとりあげてもらえないかとリクエストしたので、偶然なのかもしれないが、早くも実現したのは嬉しい。青年団やオリザファンにもクロカミショウネン18を知ってもらう機会になると思ったが、青年団ファンにとって「御前会議」は周知の作品でいまさらの感があったのか、CoRichでの反応はいまひとつのようです。
この不定期の番外企画、「クロカミショウネン18」未体験の人にはぜひお薦めしたい。いちおう、アンケートにはチケプレのお願いをしておきましたので実施していただけるとよいのですが。そうしたら、もう少し「観てきた!」が増えると思うのです。
貸し会議室を使って会議を扱った芝居を上演するアイディアが良い。
観客も会議に参加しているような気分を味わえる。
今回はバレンタインデーにちなんで観客にチョコレート菓子が配布され、劇団員による自家製ホット・チョコレートの販売も行うなど、温かい気配りが嬉しい。ホット・チョコレートには劇団名入りのハートのマシュマロが浮かんでいた。

ネタバレBOX

青年団での「御前会議」を観たことがないけれど、脚色とは書いていないので台本は原作通りなのだろう。
一般市民らしき男女が7人集まって会議をする。上座には「佐藤さん」なる新聞紙で作った身体にトレーニングウェアを着た人物が座っている。
明らかに人形にしか見えない佐藤さんに対して、人々は挨拶の声をかけたり、お茶を供したり、同意を求めたり、顔色を伺ったりする。
最初は駐輪場とか、食品の賞味期限とか、邪馬台国は何処にあったかなど緊急性のない一般的な議題について議論しているのだが、休憩から戻ってきた木下(大竹悠子)と田中(廿浦裕介)が「陸軍」や「海軍」の立場を互いに主張したりして、どうも様子が変である。
やがてまるで戦時下のように専守防衛か「先制攻撃」かについて議論が白熱していく。そして、結論が出ず、佐藤さんに「ご聖断を」と迫っている最中、佐藤さんが倒れたということで、騒然となり、人々は介抱のため佐藤さんを担ぎ出し、部屋を出て行く。
そう、まさしく「御前会議」なのである。この連中が一体何者なのかはわからないが、会議はどこか太平洋戦争時代の軍部の会議を思わせ、佐藤さんを使って人の頭をはたかせたり、彼らは明らかに人形の佐藤さんをいいように利用している。本当に戦時下という設定なのか、擬似討論なのかわからないが、何とも不気味で、「東京ノート」とも共通する平田オリザらしい戦争に対する風刺が効いている。
「専守防衛」か「先制攻撃」かということについての議論のくだりは、北朝鮮問題が注目された時期、実際にTV討論などでも似たような議論が展開され、決して絵空事ではない。戦争の影は身近なところから忍び寄っていくという平田氏の持論がよく表現された作品と言えよう。別居中の中島夫妻を演じる渡辺裕也、出水由起子が、リアルな芝居を見せ、中島の夫と不倫関係にある松岡の太田望海がとても美しく、自信に満ちた高慢な若い女を好演。
これは原作の問題だが、賞味期限を語るところで納豆を例にとるのはふさわしくない。納豆は生鮮品のため、賞味期限ではなく消費期限が決められているからだ。
「クロカミのタクラミ」と称する番外公演は今後も続けるそうなので、次はどんな作品が来るか楽しみ。
ろれつー夫婦ノ秘メ事ー

ろれつー夫婦ノ秘メ事ー

マダマダムーン

ColaboCafe(東京都)

2010/02/14 (日) ~ 2010/02/14 (日)公演終了

満足度★★★

「秘密」に難あり
このところ劇場以外のバーやギャラリー、個室などを会場にする公演の観劇が続いている。狭い空間で、間近に俳優の演技を観るのは、観る側にとっても緊張感があるし、新鮮だ。先日のピーチャム・カンパニーの公演を除けば、いずれも会場は狭くても客席はゆったりしていて、快適だった。会場が狭くても、アメニティは主催者側の工夫次第だと思う。今回の公演も、1ドリンク付きの公演で観る環境としては快適だった。
3回目の結婚記念日を迎えた男の話。ほぼ、泉陽二のひとり芝居だ。
原枝という男は行きつけのレストランで知り合った早弥子という女性と結婚するが、その前に付き合っていた瑠璃子という女性と連絡がとれなくなったころに早弥子と出会い、交際し始めたのだった。早弥子はバーのママの姪で実は瑠璃子と早弥子は姉妹だったことをあとで知り、原枝は瑠璃子の面影を早弥子に重ねるようになり、事情を知らない早弥子に対して罪の意識を感じるようになっていた。
一方、早弥子は「女神」というニックネームを持つ華やかな姉に子供のころから嫉妬していて、姉の交際相手にも興味を持ち、姉から恋人を奪ってやりたいと思っていた矢先、デートに出かける途中で姉が事故死してしまった。早弥子は原枝の名前を知っていたが、そ知らぬ顔で近づき、結婚したのだった。終盤に覆面女優Kこと菊池美里が扮する酒屋・三河屋が登場し、夫婦のメッセンジャー役兼観客への謎解き役を務める。女優は妻の役で出てくるのかと思っていたが。菊池美里は飄々として面白い女優だと思ったが、脚本上とってつけたような役に感じた。
泉が1箇所、電話のくだりでまだ知り合っていないはずの早弥子と瑠璃子の名前を取り違えてしゃべったために、このからくりが早々にわかってしまった。だいたい、「夫婦の秘密」というのはちょっと苦しい設定だと思った。バーのママが友人で妻の叔母なら結婚式にも出席するだろうし、すぐにバレそうなものだ。気の良いママが身内なのだから、言いにくければ間に立ってもらえばよさそうなものだ。それに「秘密」と言っても罪悪感を感じるようなたいしたことには思えないのだが。妹だって別に悪事をしかけて男を奪ったわけではないし、結婚前に告白すればすむ話ではないか。言えないほど気まずく思うならそのままでも別にかまわないのでは。
韓国ドラマにありそうな設定だが、こういう短編物はストーリーが優れていないとアラが出てしまい、残念だ。「夫婦の秘メ事」というからどんなたいそうなことかと思ったのだが、大ハズレだった。
泉は達者な俳優なので、話の中で1人何役も演じわけ、それを観ている分には楽しかったが。


赤鬼

赤鬼

演劇ユニット ヤコウバスニノッテ・・・

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2010/01/30 (土) ~ 2010/01/31 (日)公演終了

満足度★★★

前から観たかった作品
公演登録をしようにも、劇団形式をとっていないので、登録条件をクリアできない本公演のようなものは困ってしまう。
便宜上、公演公式サイトは、公演詳細を載せた出演者のブログのアドレスを掲載させていただいたのでご了承ください。
野田秀樹の「赤鬼」は観たいと思っていたが、チケットが入手できなかったりしてなかなかその機会が得られなかった作品。学生による今回のような上演がチャンスと思い、観にいった。それまでに読んでいた過去の劇評などを思い浮かべながら観たが、やはり、難解で、一度観ただけでは深くは理解できなかった。
今後、何度か公演を重ねて観て行きたい作品で、野田秀樹自身もそれを望んでいるそうだ。島国の住人が異文化、異質なもの、よそものに抱く偏見と残酷さが伝わってきた。

ネタバレBOX

からだ全体を波のようにうねりながら、俳優たちが客席から舞台にあがっていくところから始まった。
カットソーにバミューダ丈の短いズボンにレギンスを穿いた衣装で、漁師を表現する。
「海の向こう」に強く憧れながらも警戒するミズカネ(酒寄拓)と「あの女」(村田広美)のきょうだいで少し頭が足りないと言われているとんぴ(川名幸宏)。島にやってきた異国の言葉を話す赤鬼(港谷順)。言葉が通じないながらも、漁師たちは意思の疎通を試み、友情のようなものが芽生え始めるが、再び、海に出た彼らは長い航海の途中で、船上で息をしなくなった赤鬼の肉を食べて生き延びることになる。
助けられた女はフカヒレのスープを飲まされるが、自分の知っているフカヒレのスープの味とは違うと言う。「フカの肉」だと信じて、船上で死んだ赤鬼の肉を食べたことを知って、女は激しく動揺する。何ともやりきれない話だ。
赤鬼役にあえて外国人を起用した公演もあったようだが、確かに海外で複数の言語を使って上演するにふさわしい作品かもしれない。
「あの女」と村の長老を演じ分ける村田広美が印象に残った。
この公演では赤鬼の存在感があまり感じられなかった。
潮騒の効果音だけが響く中で、確かに「海」の魔力のようなものを感じさせる芝居だった。
アルトゥロ・ウイの興隆―それは抑えることもできる―

アルトゥロ・ウイの興隆―それは抑えることもできる―

ピーチャム・カンパニー

シアターPOO(東京都)

2010/02/05 (金) ~ 2010/02/08 (月)公演終了

満足度★★★

中身はとても良かった
合併前の大学のころから観ている劇団で、いまや半ば責任感のような気持ちをもって観続けている。
ピーチャムクラシックスという今回の企画は、新主宰の川口典成の嗜好がより濃く出ているような気がする。何しろ、脚色者の清末浩平はサーカス劇場時代、尊敬するのは唐十郎オンリーで「ブレヒトなんてくだらない」とまでブログに書いていた人なので(当時の傲慢さには呆れたが)、その彼がブレヒト作品を脚色するなんて大変意外で、興味があった。
そもそも劇団名「ピーチャム・カンパニー」のピーチャムはブレヒトの「三文オペラ」の登場人物「ピーチャム」から取ったそうで、ブレヒトは今日の日本のアングラ劇にも通ずるいかがわしさがあり、案外、清末浩平には合っているのかもしれない。
結論から言うと、両劇団のこれまでの作品と比較しても、今回の作品が一番良かったのではないかと思う。もっとも、オリジナル作品ではなくブレヒトの戯曲なので、元が良いといえばそれまでなのだが。清末は東大時代、オリジナルより脚色ものの「カリギュラ」のほうが評価が高かった人だし。本編のほうは観たことがないので、本編と比べたら、また違う感想もあるかもしれない。だが、古典をこのようなかたちで紹介するのは大賛成。演出がスピーディーで、字幕の使い方も巧く、音楽も照明も良く、大人が楽しめる作品となっていた。中身だけなら、初めて★4つ出したいと思った。
だが、「箱」との対照で言うと、残念ながら減点せざるをえない。シアターpooは今回初体験。会場は狭くてもかまわない。ただ、これだけ人数を詰め込むなら、1時間30分ものではやはり長過ぎると思った。この会場でこの作品を上演するなら、人数を20人くらいに限定して、もう少し座席をゆったりとるか、人数を詰め込むなら、1時間程度の別の作品を上演するか、この作品をなるべくおおぜいに見せたいなら、小劇場でももう少し広い会場を選ぶか、いずれかを希望する。「芝居大好きでどんな悪条件の観劇でも気にならない」と言う観劇慣れした人ならかまわないのだろうが。自分の場合、前の客が思い切り体を後ろに倒していたので、膝を前に出せず、からだを横向きにしたままの姿勢で1時間30分、身じろぎできないのはかなり辛く、帰宅してから疲れきって何もできなかった。また、「詰めてください」とスタッフに言われて席に飲み物をこぼしてしまった客もいた。私は「良い作品なら、アメニティはどうでもよい」とは考えないほうなので、あしからず。
昔、サーカス劇場時代、東大駒場の会議室を使って上演した「雪の女王」のとき、長時間、酸欠と暑さで気分が悪くなったことを思い出す。そのときは終演直後、「外、涼しーい!」と言う客が多く、今回は「腰痛かったー」と言う客が多かった。長年観ていて、ここの制作はあまりそういうことは気にしないようだが、環境は大事。環境が作品を殺すこともある。

ネタバレBOX

「仮名手本忠臣蔵」が徳川幕府に遠慮して時代設定を変えて描かれたように、ヒットラーをギャングの世界に置き換えた戯曲になっていて、面白い着想。さらにギャングの抗争劇を芝居仕立てで見せることによって、名画「スティング」で使われたブラフにも似た効果があって楽しい。
俳優は1人何役か受け持つ。観ていて女性の役はわかりやすいが、男性の場合は別人なのかどうかわかりにくい役もあった。私は見落としてしまったが、連れがこの時代に携帯電話が出るのはおかしいと言っていた。
アルトゥロ・ウィを演じる堂下勝気はいつもより若々しく見えた。このアンサンブルの中で世代的に彼はかなり年上の俳優なので、キャリアの点からも一日の長があって当然だが、この役の持つ底知れぬ狂気、野心を隠した不気味さは表現しきれておらず、存在感が薄く、平凡に見えてしまった。今回は八重柏泰士のドッグスボローがとても良かった。最初、八重柏だとすぐに気づかなかったほど、役になりきっていた。こういう老け役もできるのか、と新しい発見があった。
しかし、ヒットラーも、このアウトゥロ・ウィもそうだが、こういう勢力の暴走を抑えるのにはどうすればよいのだろうと、この劇を観て思った。
勢いがついてしまうと、逆らうことができず、民衆の力ではもう抑えきれない。そして、ファシズムの台頭を後押ししたのも民衆の熱気である。太平洋戦争でメディアのありかたをあれほど反省したはずの日本でも、先の小沢騒動では大新聞が検察側に立つ報道一辺倒の姿勢が気になった。直接的証拠がない嫌疑の段階でも「悪の権化」のようなレッテルを貼ったらヒステリックなまでに叩く一方で見事に足並みを揃え、薄気味悪ささえ感じた。
料金的には3作品セット割引5000円くらいなら良心的なのにと思った。「料金はもう少し抑えることもできる」(笑)。
この作品、ブレヒト劇を得意とする東京演劇アンサンブルで、公家義徳のアルトゥロ・ウィなら適役だし、2部構成の長尺版でぜひ観てみたい。
近年の清末は自身の作品を「アングラ」のイメージで語られることを極度に嫌っているようで、「カラス」も「イヌ物語」もアングラではないと言っている。しかし、出演者や観客がアングラだと語っているのが皮肉だ(笑)。清末としてはアングラを脱却したいとは思っているのだろうし、そのためにカラーの異なる地上3mmとも合併したのだろう。
3部作終了後、秋公演のオリジナル作品がどのようなものになるのか、見ものである。

シンクロナイズド・ガロア

シンクロナイズド・ガロア

ユニークポイント

「劇」小劇場(東京都)

2010/01/26 (火) ~ 2010/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

記憶が蘇ったあの時代のこと
2つの異なる時代の話をリンクさせるアイディアが見事。
ナビゲーターとなる女性(洪明花)を登場させたり、ガロアを主人公にした劇中劇を安田講堂内で上演しようとする設定が面白い。真面目で硬いテーマだが、重苦しさを感じさせず、芝居としてじゅうぶん楽しめた。
リアルタイムでこの時代を経験した人たちは、当時置かれた立場によって、評価もさまざまのようだ。
自分はちょうどこの時代に思春期だったが、当時、いまのJR、国鉄の駅前はどこも毎日のようにヘルメットにタオルで覆面をした学生が日常的にデモを行っていた。いまのインフルエンザ対策でのマスク姿の人たちと同じように、ごく普通の光景だった。新聞には内ゲバの事件記事も多かった。自分の高校のHRでも学生運動をテーマにした討論が行われたし、新宿駅の騒乱事件で学校が休校になったり、たまたま自分が入院中だった飯田橋の警察病院に火炎瓶闘争で負傷した機動隊員が次々運び込まれて病院の廊下が血まみれになっていたことなどが忘れられない。大学に入学した頃、すでに学生運動は沈静化していたとはいえ、学内には「タテカン」があり、民青と学内運動家の対立を目のあたりにした。特に、安田講堂事件前、渦中の東大医学部の学部長が私の仲良しのクラスメートのお父様だったこともあり、東大紛争の話は身近に感じていた。毎日のように学生との団交(実際には吊るし上げに近かったようだが)が行われたため、「きのうも学生に缶詰にされて父が帰ってこなかったわ」と級友が言っていたことを思い出す。「お父様は学生についてどんなふうに思っていらっしゃるの?」と聞くと、「いますべき肝心の勉強をしないから、先で困るのは彼たちなんだけどね、と言ってるわ。それに主張が子供じみて論理が破綻してるから運動は長続きしないだろうって。話し合っても平行線で、教授たちも内心は本気で相手にしてないそうよ。手は打ってあるみたいだし、彼等は早晩敗北するでしょう」淡々と級友は語っていた。今回の芝居を観て、「手は打ってあるから」という彼女の言葉を改めて思い浮かべた。
欲を言えば、学生の演説場面が「我々はぁ」と語尾を延ばす独特の全学連口調でなく、やはり現代の普通の演説口調になっていたり、当局との団交場面がおとなしく、学生が気炎を上げる場面もやけに明るいため、当時の殺気や熱気は再現できておらず、迫力不足だったのは否めない。
黒板に当時のキャッチフレーズが数々書き出されるが、いまの人は本の知識としては知っていても、時代の空気は想像がつかない部分だろう。当時の団交は話し合いなどという生易しい空気ではなく、物凄い殺気だったと聞く。
演技的には「幕末の刺客」みたいな気持ちで演じれば雰囲気が出せたと思うのだが。この当時のことを演じる俳優に「殺気」を体現させるのが難しいと、映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を撮った若松孝二も語っていたが。
上演時間が長すぎないところも評価できる。劇中劇があると長くなりがちだが、節度があって良かった。あと、最後のサラッとした会話での終わりかたなど、いまの映画には少ないが、昔の文芸映画のようで好感が持てた。

ネタバレBOX

「とめてくれるなおっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」という東大の駒場祭のポスターで知られるフレーズを言って、歌舞伎の六法を踏む場面など、センスを感じる。東大と言えば、やはりこのフレーズが出てこなくちゃねと思った。このポスターは当時、新聞の社会面で紹介され、仁侠映画全盛だっただけに大いに話題になった。この作者はのちにイラストレーター、作家になった橋本治で、歌舞伎研究家としても有名だが、さすが才能の片鱗があったわけだ。
演劇を作ろうとする森田(村上哲哉)の飄々としたところが面白い。森田と河合(安木一之)のやりとりで笑いも入れ、息抜きになっている。論理的な場面だけで組み立てたら、やはり退屈する。硬質な芝居をやっている他劇団にも見習ってほしいところだ。
「劇団の人、市川」役の泉陽二は、好きな俳優の一人で、彼の舞台はなるべく観るようにしているが、チケットを買ったのちに今回の出演を知ったので、楽しみにしていた。ほうぼうの舞台で活躍中だけに演技にも一日の長がある。アングラ劇団員らしいエキセントリックな部分とガロアの劇での怪しい女を巧く見せた。
大河内総長と加藤代行を宍戸香那恵が2役で演じるが、あえて女性に演じさせたところが、人形のごとくカリカチュアライズしているような効果があって面白い。
それに、新聞やニュースでよく見た加藤代行の面影が何となく感じられた。
女性の広永(宮嶋美子)に肖像画に少年の面影が濃いガロアを演じさせる。
キビキビしてなかなか面白い女優さん。今度、ピーチャム・カンパニーの「ビヂテリアン大祭」に客演するそうだが、ピーチャムの雰囲気には合っていそうなので楽しみだ。
えれがんす

えれがんす

シス・カンパニー

紀伊國屋ホール(東京都)

2010/01/29 (金) ~ 2010/02/14 (日)公演終了

満足度★★★★

渡辺えりの役者魂
この文章を書こうと思った矢先、私が購読している新聞にこの公演の劇評が載り、5点満点で★2つという低評価に驚いた。その理由については明確には書かれていなかったので、自分としては納得できなかったが、これぞ酷評なのだと思った。
このお芝居に関して言うと、自分が紀伊國屋ホールで観ている芝居の中ではまあまあ楽しめたほうだと思う。この劇場は時に役者や劇団のリトマス試験紙のように言われているだけあって、けっこう難しい劇場のようだが、今回の公演は“箱”に見合う寸法の芝居だったと思う。
特に渡辺えりの芝居には感服した。彼女には常に客を満足させて帰そうという心意気を感じる。彼女は自身のエッセーの中で演劇界の現状や役者のありかたについてかなり苦言を呈しているが、苦言を呈するだけの芝居を体現しているから偉い。戯曲自体や自分の役をきちんと理解したうえで、芝居の流れを上げ潮に持っていく。相当腕をあげないとそういう余裕は生まれない。本来、客を満足させなければ金をとれないはずだが、昨今は自己満足に傾き、お客よりもまず自分ありきという作・演出家、役者をしばしば見かける。かつて名女優・山田五十鈴の秘蔵っ子でホープと期待されていた若き日の三林京子が、ある公演でその演技が絶賛されたとき、その公演の座長であった浜木綿子に、終演後、「あんた、きょうぐらいの芝居じゃ、入場料をお客さんに返さなあかんね」と言われていきなり冷や水を浴びた気分になったという。プロの厳しさがわかるエピソードだが、そんなふうに直言できる先輩も少なくなったと思う。しかし、仲間同士、褒めあっていても成長はしないだろう。
「金のとれる役者」とはどういうものか、それをまざまざと見せつけてくれた渡辺えりを観るだけでも、この芝居は値打ちがあると思った。

ネタバレBOX

板付きで、オリンピック選手団のユニフォームを思わせる赤のブレザーに白のズボン姿の渡辺えりと木野花の漫才から始まるという、意外な幕開き。この漫才がなかなか面白かった。
フィギュアスケートのコーチ鶴岡真紀子(渡辺えり)とシンクロナイズドスイミングのコーチ川上あい子(木野花)はともにオリンピックの舞台を経験したが、引退後、あい子の妹れい子(梅沢昌代)のマネージメントのもと、タレント活動をしていた時期があったがいまは別々の道に進んでいる。冒頭の漫才はその回想場面である。
川上姉妹には7年前に病死した弟がいたが、弟のコーチで元恋人だったのが真紀子である。と、真紀子は信じていた(笑)。
あい子がスイミンズスクールの経営に失敗し、1時間後に立ち退きが迫ったところに、真紀子が訪ねてきて、思い出話を始める。そこに、あい子の弟の取材をしてきたノンフィクションライターの宮(八嶋智人)が現れる。宮が伴っている青年こそ、あい子の弟の忘れ形見、原悦太郎(中村倫也)だった。
弟にうり二つの悦太郎を見て、真紀子とあい子は動揺する。弟に子供がいたことを知らなかったからである。悦太郎を前にして、弟への想いが錯綜する2人だが、身振り手振りで大いに興奮し、ドサクサに紛れて悦太郎を恋人に見立てる渡辺の錯綜ぶりがおかしい。
宮に呼ばれてれい子もやってくるが、姉妹間のわだかまりや真紀子の過去の恋心が浮き彫りになる中、それまで無口でマイペースだったアルバイトのイ・スミン(コ・スヒ)が割って入り、饒舌にみんなを諭し、仕切りはじめる展開が面白い。「私には日本語が通じないと思ってそれなりにしか話しかけなかった先入観がまちがい」とスミンは主張し、「みんな自分の正直な気持ちを打ち明けましょう」と促す。
互いの愛憎を認め合った中で、宮のしかけたある行動によって和解が生まれる。ラストは少々平凡だが、芸達者を揃えたキャスティングが成功している。いつも脇役として光る梅沢の出番が少ないのは少し残念だった。八嶋はこういう、腹に一物あるがずるくなりきれないという役ははまり役だと思う。中村は若手ながら演技力が認められてTVドラマでも活躍しているだけに、生真面目で爽やかな青年を好演。悦太郎が会話の中で父ととり違えられて
「僕は悦太郎なんですけど」と困惑する場面が面白かった。渡辺えりが、フィギュアスケーティングの演技プログラムをざっと流して再現する場面は、笑いを誘いながらもそれらしく見えたのはさすが。コ・スヒはとても間がいい。
表題の「えれがんす」は宮が次に書きたいと思っている川上家のきょうだいのノンフィクションの題名ということになっているが、なぜ「えれがんす」なのかは私には理解できなかった。


桜の森の満開の下

桜の森の満開の下

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2010/01/29 (金) ~ 2010/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

贅沢で凄絶な美しさ
坂口安吾の「桜の森の満開の下」を初演したのは東京演劇アンサンブルだそうである。
豪華な舞台美術と衣裳。俳優たちの確かな演技力。わずか1時間のうちに、歌舞伎、能、アングラ劇、モダンバレエの要素がすべて入ったような贅沢で凄絶、濃密な芝居。それでも、短さや物足りなさはまったく感じない。海外公演でも高い評価を受けているのがうなずける完成度の高い芝居だった。
ここの劇団の芝居では、まだはずれた経験がない。
東京演劇アンサンブルについて説明すると、ミュージカルに特化していなかったころの劇団四季と文学座をミックスしたような雰囲気の劇団である。
いわゆる新劇の劇団とは少し毛色が違う。久保栄のような演劇史上に残る劇作家でありながら、あまり上演の機会が少ない作品を上演するかと思えば、
珍しい作家の翻訳劇や、今回のようなアヴァンギャルドな芝居もやる。
また、若手たちによる学校演劇の巡回公演も行っているのでCoRichのユーザーの中には観ている人もいるだろう。いつぞや、「学校演劇で巡回してくる劇団の演技はひどいものだ」という意見を聞いたことがあるが、この劇団に当たった学校は幸運かもしれない。研究生制度によって俳優を育成しているので、俳優の演技力レベルは高く、新人公演などでも堂々としたものである。
CoRichユーザーの間ではまだ認知度が低いようなので、劇団のアンケートで何度かCoRich舞台芸術の説明を書き、チケプレにご協力いただけないかとお願いしたが、まだお返事はいただけていない。
思うに、熱心な固定ファンが多く、毎公演盛況で、全国にサポーター会員がいるため、あまり一般への宣伝広報の必要を感じていないらしい。しかし、観客の8割が中高年で、2割が若者という比率を見れば、将来的には新しい観客を開拓する必要はあろうかと思う。もし、公演を観ていただければ、きっとこの劇団のファンになるであろうコメンテーターのかたが私には何人か思い浮かぶだけに、チケプレが実現できないのは残念な気もする。チケプレなしでも観ていただければ嬉しいが、私などが言っても説得力がないかもしれない(笑)。本格派の演劇がお好きな方はお試しください。
秋にはゴーリキーの日本初上演戯曲の公演もあるそうです。

ネタバレBOX

動物の毛皮が床に敷き詰められた舞台を3方から客席が囲む。横山大観の日本画を思わせる桜を描いた壮麗な六曲屏風を突き破って山賊(公家義徳)と美女(原口久美子)が登場する。山賊は墨染め桜の着物を片袖脱ぎにし、女は総花模様の紫の総振袖姿で髪も紫色のロングのカーリーヘアだ。
まず、冒頭から意表を突かれた。まるで歌舞伎のようだった。「あんな豪華な屏風を破ってしまうなんて!」。ということは、公演の回数だけ、屏風の真ん中の絵も必要なわけだ。何と凝った舞台美術だろう。登場のしかたは歌舞伎のようだが、次に展開するレイプのシーンの格闘は映画のようにリアルで迫力がある。
いつもは身ぐるみ剥いで放り出すところ、女に魅せられた山賊は女の夫を斬り殺したが、女を犯してさらってしまう。女は山賊の家に着くと、そこにいる7人の女房たちを殺してくれと頼み、山賊は女の言うままに女房を次々に斬り殺していく。女は最後の1人だけは召使として生かしておくと言う。女房たちはみな美しい長襦袢姿で、大きく結い上げた髪型に、魔物のような青黒い化粧、花や果物の首飾りを付けている。そして、殺されるときに、血しぶきが色とりどりの紙テープで表現され、何とも美しい。
女が振袖の上から羽織る豪華な打掛も場面によって4度も変わるので、視覚的にもとても楽しめる。
山賊がどんなに女に尽くしても、女は都を恋しがるばかり。やむなく、山賊は女を都に連れて行く。しかし、そこで女が要求したことは毎晩のように大納言や姫君の生首を取ってくることなのだった。都で、女が生首を使って「恋愛談義」をする場面は白塗りの女と黒塗りの男のモダンバレエで表現される。
モーリス・ベジャールの「ザ・カブキ」を思わせる場面で面白い。文楽のようだと言う人もいた。ここの劇団員はバレエも踊れるのが特徴だ。山賊は生首の注文に嫌気が差し、一人で山に帰ると言うと、女は急にしおらしくなり、一人残るのは耐えられないから一緒に山に帰って尽くすと哀願する。
そして、山賊は女をおぶり、満開の桜の下を通りかかると、女は鬼に豹変して男を襲う。鬼を殺したと思った男の手には、美しい打掛だけが残り、女の姿は忽然と消えていた。女が鬼に変身する場面は能のようで迫力がある。女の霊力を表現するため、山越えでは、フライングで宙乗りもある。重厚な会話劇を得意とする劇団がこんな得意演目も持っていたとは驚きである。
原口久美子の女は小柳ルミ子風の容貌で、声も容姿も美しく、熱演だった。公家はさすがに看板俳優らしく、山賊の述懐の台詞がいい。海外でも絶賛されてきた理由がよくわかる好演だ。ただ、激しい立ち回り以降、息遣いが苦しそうで、年齢的にはそろそろ、動きの激しいこの役は限界かもしれない。
昨年も怪我のため、公演中止になったということだし。
ふんだんに桜吹雪が舞うが、もう少し降らす量をセーブしてもよいのではと思う場面もあった。一般劇団でいつも感じるのは、雪や花を降らす場面がある場合、往々にして分量が多すぎることがある。本家の歌舞伎の舞台を観て参考にしてほしい。歌舞伎では節度ある降らせ方をしているので。また、花吹雪の風を起こすモーター音が物凄く大きく、止まると極端に静かになるため、とても気になってしまった。また、行灯は白熱灯の黄色い灯りを使ってほしかった。蛍光灯の色だったのは残念。
観る前は1時間ものにしては観劇料金が高い気がしたが、観てみると、これだけの芝居なら納得できた。
虫喰いだらけで、アナーキー。

虫喰いだらけで、アナーキー。

オッセルズ

CAFE&BAR BE-WAVE(新宿)(東京都)

2010/01/22 (金) ~ 2010/01/24 (日)公演終了

満足度★★★★

エチュード的な面白さ
平たく言えば、コントライブ。といっても、ちゃんと芝居仕立てにはなっている。劇団のエチュード的な要素もあって観ていて楽しめた。タイトルの意味がよくわからなかったが、観終わって納得。なるほど、うまいタイトルだ。
作・演出の河野真子さんは役者としてしか観た事がないが、とてもインパクトのある女優さんだったことを憶えている。
コントでも、漫才でも、日本の演芸作家はもともと、男性の世界。夫婦漫才でもネタはたいては夫のほうが考えている。最近は放送作家もコントを書くが、女性の放送作家の場合、ユーモアのセンスがある人でも、町山広美さんや山田美保子さんのようにバラエティー番組の構成作家になる人が多い。
だから、女性の作ったお笑いネタは、女性の漫才やコントでしか観られないのが現状。そのなかで河野さんは異色と言えるかも知れない。オッセルズの過去の公演のDVDを観てみると、女性特有の・・・という印象はなく、両性具有のような人とお見受けした。友近のやっているような女性らしいチマチマしたお笑いネタではなく、リアルで思い切りが良いカラッとした男性的なネタで、思い出し笑いができるほど面白い。別の機会に本公演をぜひ観に行きたい。
公演のあとに希望者のみの宴会参加というケースは知っているが、最初から歓談タイムが組み込まれている公演は初めて。自然と、来る客は演劇関係者や友人、知人が多くなるが、自分のような部外者でも話を聴けるのでこういう企画も悪くない。
バーなので喫煙OKはいたしかたないが、地下で空調が悪く、気管支の弱い当方には少々辛かった。せめて、テーブルを喫煙・非喫煙席に分けてもらえると有難かった。案内された席がたまたま喫煙者ばかり固まっていたのだが、あとで見回すと、たまたまなのか、まったく吸っていない客ばかりのテーブルもあったので分煙は可能だったのでは。

ネタバレBOX

ビルの地下への階段を降り、店に入って入場料を払うと、出演者がバーの従業員のごとくドリンクの注文を取りに来る。
どんな感じで芝居を始めるのかなと思っていると、出演者3人がバーのオーナーと従業員という設定で会話を始めた。つまり、このバー自体がすでに「舞台」になっていたわけだ。
バーは不景気のためか最近客が少なく、オーナーの女(川崎桜)は、毎晩、店に顔を出して飲みに来ているらしい。いまは2月という設定で、「ニッパチって何のこと?」と世間話を始める。
オーナーは従業員の男2人(小笠原佳秀、武子太郎)に、「何か面白いことやって、私をもてなしてよ」と注文する。最初は「エアートランプ」などやるが、オーナーのわがままなゲーム展開にシラケてしまう。
オーナーが高校の演劇部にいたという話から「即興芝居」を始めることになる。ここでもオーナーが芯になる。
男女3人組で宝籤売り場を襲って宝籤を奪おうということになり、3人はいろんな役を演じていく。耳の遠い女店員の対応に戸惑ったり、「バラと連番の割合」に迷ったり、バッグを狭い窓口にどうやって入れるか苦慮したり、警察に取り囲まれ、犯人の母親役の小笠原の説得の秋田弁が聞き取れなかったりする。捕まって取調べが始まると、「かつ丼をとってやるのはなし」と取調べ官役の武子に言われたことに犯人役の小笠原が拗ねて芝居が中断する。男2人は服役し、事件から3年。事件の見張り役だった女だけが逃げおおせ、宝籤でも当てたのか、店を持ってママになっているという噂に訪ねて行き、女を詰問すると、女は当時、小笠原の子を身ごもっており、捕り物の最中に陣痛が始まって病院に運ばれたため、2人を逃がせなかったことを打ち明ける。「子供」と聞いて、2人の視線から、自分が子供役を演じなければならないと察するときの武子の表情がなんともおかしい。子供がいたという事実によって、3人が感きわまった芝居をし、本気で号泣する。せっかく入ってきた客(河野真子)が3人の様子を見て、引いてしまい、客を逃すというところで芝居は終わる。
ただ、私がひっかかったのは、当時、臨月ならば、男たちが気づかないのはおかしいという点だ。よって、女に子供がいたということを出所して知るのはありえない。また、宝籤の場合、番号があるので、どの店にどの番号が割り当てられたか、警察が調べれば把握できるのではないだろうか。当選しても、換金にくれば逮捕できるのではないか。細かいようでもそういう不自然な設定のコントはいただけない。そういうことをクリアして終わっても良かった。つまり、女が臨月ではなかった設定にするか、臨月であるにしても、客が帰ったあと、臨月だったのはおかしいと男がつっこむとか。宝籤番号の件は、盗んだ宝籤以外の宝籤を買っていて、そちらが当たったことにするとか。
終演後、河野に矛盾点をただすと「そうですよね。口からでまかせを言ってるお芝居なもんで」と笑っていた。「虫食いだらけで、アナーキー」。なるほど、タイトルはそうなのだ。そういう矛盾も即興のお遊びのひとつと解釈すべきなのか。だが、私は芝居の辻褄にこだわるほうなので、気になってしまった。
川崎は大人の女の色気があって、芝居が達者だ。私事で余談になるが、川崎は私の高校の同級生で演劇部の部長をやっていた子に容姿、雰囲気も話し方もそっくりなのだ。うちの母校は演劇部だけでなく、クラス別、学年別、全校と、一年中、いろんな座組で演劇をやっていた学校だったため、彼女と古典の芝居で組んだことはあったものの、ほかのチームの芝居への自分の出演と重なってしまい、演劇部での彼女の現代劇芝居は一度しか観られなかった。当時、彼女の芝居を観た劇団四季の浅利慶太が幹部と共に女優になるよう口説いたほどの逸材だったが、彼女は「平凡に生きたい」と芸能界には進まなかった。が、彼女が指導した後輩で、いま劇作家になって大劇場で活躍している人もいる。私も彼女の勧めで古典芸能を勉強することができた。
川崎の芝居を観ていると、彼女の演技を髣髴とさせ、とても懐かしい気持ちになった。今後も観たい女優さんだ。
武子は存在感があって、芝居の流れをしっかり作っていく。小笠原はナチュラルだが印象に残る芝居をする人で、わざとらしくない演技で笑わせることができる人。
この3人のキャスティングが心憎い。


人形演劇”銀河鉄道の夜”

人形演劇”銀河鉄道の夜”

せんがわ劇場

調布市せんがわ劇場(東京都)

2010/01/21 (木) ~ 2010/01/24 (日)公演終了

満足度★★★

『銀河鉄道の夜』の夢
本作は『銀河鉄道の夜』を熟知していることを前提に作られた芝居だそうで、原作を知らない人には物語の流れがわかりにくいかもしれない。ということを書いた注意書きのような紙がパンフレットに挟まっていたので、それはそれで親切だなと思いました。私も決して『銀河鉄道の夜』について熟知しているとは言えず、ストーリーを思い出しつつ、「あてはめながら観る」という感じでした。
劇化されたものを数多く観ている人にとっては、原作をなぞるかたちの上演では新鮮味がないと判断されたのでしょうか。
ひとことで感想を表現すれば、私は『銀河鉄道の夜』の内容が出てきた“夢”を見ているような気分で、観劇前に想像していた内容とはだいぶ違ったものでした。
『銀河鉄道の夜』の世界を人形演劇としていかに表現するかということよりも、人形の遣い手にもスポットを当てたいという日頃の黒谷さんの想いがまさっているような印象でした。詳しくはネタバレで。

ネタバレBOX

原作を熟知した人にとっては「宝探しの楽しみがあります」と注意書きにありました。冒頭の赤い果実の皮が破れ、人が出てくる場面。なかなか面白かったのですが、最初、ほおずきかなーと思い、原作に出てくる果実は林檎とくるみの実なので「じゃあ、これはどっち?」なんて考えてしまって(笑)。また、必ずしも原作通りの時系列で描かれていないため、場面ごとに「?」がいっぱいになってしまうのが困りました。汽車ひとつとっても、ミニチュアの汽車のほか、手筒状の汽車の中に人形を入れて動かしたり、人間で汽車の動きを表現するなど、多様です。黒谷さんの考えでは、ジョバンニとカムパネルラの人形は単なる「人形」ではなく、俳優として演技をするとのことでしたが、観た限り、俳優にはなりえていないように思えました。だからといって、人形の遣い手が分身としてうまく機能しているとも言いがたく、人形のジョバンニとカムパネルラよりも、人間のパフォーマーたちの動きに気をとられてしまいがちでした。主役2人の人形が造形的にも素晴らしく、魅力的なので、使い方が中途半端に思えたのは残念でした。シーンがぶつ切りのようになっているため、最後、ジョバンニが駆け出していく原作では感動的なシーンも何か唐突に見え、いかにも人間が人形をカタカタ動かしているように見えてしまいました。『銀河鉄道の夜』は、彼らと共に旅をしているかのような一体感が魅力なのですが、それが体感できませんでした。そして、ジョバンニとカムパネルラの友情や、ザネリの事件がはっきりと描かれないため、肝心のテーマがぼやけてしまった気がします。エピソードが浮遊する中で、2人の人形も浮遊しているという感じでした。原作ではジョバンニが心の中で感じる「鳥を捕る人」と「野原の菓子屋」の二面性を、実際に俳優と俳優が使う「小道具としての人形」で表現した場面は面白かったです。しかし、これも原作を知らない人が見たら、よく意味がわからなかったと思います。
この芝居を観たあとに、かねてよりほしかったアート作家清川あさみさんの絵本『銀河鉄道の夜』(リトルモア)を本屋で購入しました。ビーズ、刺繍、紙、布などを使って原作の世界を表現した美しい絵本ですが、清川さんが紙や布で作ったジョバンニとカムパネルラのほうが、この人形よりよほど「人間」らしく見え、宝物のように感じました。新聞の書評でも最近取り上げられているので、興味のある原作ファンはぜひ一度手にとってごらんになることをお勧めします。
黒谷さんは、日本の人形劇における「出遣い」への不満を感じて、人形遣いと人形を同等に扱う演劇を作ろうと努力されていることがせんがわ劇場の広報でも紹介されています。このあたりの事情は、日本の人形演劇の文化の特徴でもあり、代表的な「文楽(人形浄瑠璃)」では、いまだに主遣いの人形遣いが黒子でなく顔を出す「出遣い」について異を唱え、名指しで非難する評論家がいることでもわかります。しかし、これは、人形浄瑠璃が本来、義太夫の語りと三味線が主で、人形は従であり、序列も人形遣いが三番目ということが原因とも言えます。最近は文楽人形の美しさに注目が集まり、人形の動きを観る客が主流になりましたが、本来は人形は脇役でした。ですから、中には「きょうびの人形遣いには、三味線は頭(かしら。人形のこと)に合わせてくれとか言う勘違いもおって、困ります。人形が合わせるのが筋でっせ」と苦言を呈する太夫さんもおられるほどです。
ともあれ、文楽においては、たとえ、主遣いが黒子ではなく、紋付や裃を着て出遣いをしても、人形の演技はあくまでも俳優として立派に成立しています。それに比べ、今回のお芝居では、人形を遣う人も俳優の演技とは程遠く、人形もあくまで人形にしか見えなかったのは私だけでしょうか?
「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」という今回のコピー。ジョバンニとカムパネルラにおいて、このテーマが伝わってきませんでしたが、黒谷さんは、このテーマで「人形と人形遣いが2人で1人」ということも表したかったようです。ただし、それも成功したようには見えませんでした。人形の演技を主にして、人間は生きた背景のように使う方法もあったかに思われますが、それでは黒谷さんは不満で、あくまで人間と人形を等分に扱いたい
というお考えのようです。
その場合、人間が今回のようにたくさん動き回るのであれば、もう少し人形のサイズを大きくしないと難しいのではと思います。
音楽劇「雨を乞わぬ人」

音楽劇「雨を乞わぬ人」

黒色綺譚カナリア派

ザ・ポケット(東京都)

2010/01/20 (水) ~ 2010/01/24 (日)公演終了

満足度★★★

人間描写に不満が
「巫女が泣けば大雨が降り、村が滅びる」という言い伝えが信じられる村の話で、何やら横溝正史の世界のようなおどろおどろしい話。「こういう場面にしたい」という演出家の意図は要所要所でわかるが、点がうまく線につながっていないというか、趣向倒れという感があった。

ネタバレBOX

「村の奇習」というのは題材にしやすいのかもしれない。ずいぶん前に、世田谷パブリックシアターで「怪しき村の人々」という劇が市原悦子主演で上演され、歌や踊りも織り込まれ、麿赤児率いる暗黒舞踏まで登場した一種の音楽劇で、なかなか面白かったことを覚えている。部外者と村人、主人公の人生観や人間関係がくっきりと描かれていたからで、そういう秀作と比べると、本作が見劣りしてしまうのは否めない。
シャーマン信仰と性、親子の愛憎、友情などが描かれているが、設定の特異性の割に人間の描き方が表面的で不満が残った。また、音楽劇というほどの印象ではなかった。宴の歌もどこかで聴いたようなありきたりのメロディだ。赤澤ムックは歌が巧いんだなーということはわかった(笑)。ふだん、シンガーとしても活動してるだけに、中里順子の歌はミュージカルっぽく声に伸びがあり、なかなか聴かせる。しかし、甘雨(桑原勝行)と瑞雨(佐藤みゆき)の歌はマイクに頼り、がなりたてているだけで、人前で歌うにはちょっと・・・という出来だった。役柄の人格がはちゃめちゃであっても、歌はきちんと歌うべきで、音程がはずれっぱなしでもいいということはないはず。わざとはずして歌ったのではないと思うが、ハモりようもない二重唱に思わず下を向いてしまった。先代の巫女(赤澤ムック)が冒頭でペニスを食いちぎってしまうなどインパクトの強い場面があるが、次代の巫女となる女児を産むため、性欲だけで生かされている巫女(牛水里美)と彼女を取り巻く村の男女たちという特異な設定ならば、後半はもう少しドラマチックなことが起こらないと、予想通り、妊娠して孤独になった巫女が号泣して雨が降るというだけでは物足りない。異文化としての都会の女子大生元子(中里順子)が都会ずれしていない、慎ましく牧歌的な女性のせいか、巫女(牛水里美)のテンションの高さに太刀打ちできないように感じてしまい、2人の女の共感と対立が演出上、際立ってこない。元子の恋人の和夫(芝原弘)の描写も村に入ってからはおざなりに見え、いったいどういうつもりで村に彼女を連れてきたのか理解できない。
クライマックスで豪雨のシーンに「本水」を使うなど演出に凝ったつもりだろうが、自分にはいまひとつドラマとしての感動が薄かった。村人の中でも蔵での狂宴を「見ているだけ」という傍観者の立場をとる村娘の狐(升ノゾミ)の人間的背景もまったく描かれないので役が生きてこない。金田一耕助を思わせる民俗学者臼井(堀池直毅)の描き方も中途半端でもう少し元子との接点がほしかった。早口という設定だが、滑舌が良くないせいか、学術的説明が何を言っているかわからず、学者らしい説得力がない。村を出た元子が東京に帰り着き、サバサバした様子で余韻もないのも不自然だった。キャスト表に書かれている人物の簡単な説明紹介以上のことが舞台で描かれず、「この人はこういう人です。あとは観客のご想像にお任せします」というのでは、何をかいわんやである。要は「巫女」の特殊な身の上を一番書きたいらしくて、あとは補足程度になってしまったという感じ。観終わったあと、頭でっかちになるくらい髪を飾り立てたちっちゃな巫女さんが思い切り暴れまくったという印象しか残らなかった。昨年、『イヌ物語』で人間なのに飼い犬扱いされる役を赤澤ムックが演じたが、この作品では元子が巫女の飼い猫扱いされ、最後は「猫畜生!」とまで罵倒されてしまう。『イヌ物語』で人間を飼い犬扱いするのは引きこもりの女性で、理由は違うが、この巫女も蔵で引きこもり生活を送っているので、偶然なのか、影響を受けたのか、共通点を感じた。
料金的にはもう少し安くてもよいと思った。
細かいことでは開場と開演が10分遅れだったが、交通機関の遅延とか特別な理由があったのなら説明してほしかった。住宅地なので、外に客がいると近隣の迷惑になるようだが、「ここに広がらないでください」と言うだけで誘導のしかたもまずい。冬場に開場が10分遅れたら、人の群れが固まってもやむえない。
美しいヒポリタ

美しいヒポリタ

世田谷シルク

小劇場 楽園(東京都)

2010/01/13 (水) ~ 2010/01/17 (日)公演終了

満足度★★★★

シェイクスピアに見せたい
「夏の夜の夢」の世界がこんなふうにアレンジされるのかと興味深かった。アイディアが秀逸で、俳優陣も良く、楽しめました。泉下のシェイクスピアに見せたかったですねぇ。

ネタバレBOX


単に登場人物がキャラクター化されているというのではなく、シェイクスピアの劇中の台詞もきちんと聞かせ、「夏の夜の夢」の惚れ薬の効果が、携帯電話コンテンツ中の仮想世界に置き換えられるのが面白い。パスワードとニックネームを取り違えて入力したために起こる混乱や、出会い系サイトの現実など、面白く描かれていた。目立たない感じの社長の妻がタイテーニアとして傲慢に大胆に振舞う場面は出会い系サイトでの仮想人格を表現しているのだろうか。性別など実像がわからない中で、手探りでコミュニケーションをとり、タイテーニアがロバ男をステキな男性と思い込むように、相談に乗ってくれた男性と思い込んでいたのが夫の会社のOLだったとは。妻が夫の会社に手伝いに来て紹介される際、さりげなく夫の肩のゴミをとる仕草で、夫への思いが感じられる。妻は夫を愛しているが、たぶん、IT企業で仕事が忙しく、あまり妻をかまっていないのだろう。この妻はたぶん、それとなく、夫の浮気も感づいているのかもしれない。つい出会い系サイトにはまってしまったものの、家庭を壊そうという気はないのだ。夫の社長はカップルを作るのが趣味というか偶然というか・・・となっているが、自分の不倫相手の仲人を意図的に何組もやってのけるという上司が世の中にはいるというから、この社長も案外、そのくちかもしれない。「君だって結婚するんだろう」と柊(緑茶麻悠)に言う最後の台詞に男のずるさが出ている。堀川炎と岩田裕耳が演じる社長夫妻(タイテーニアとオーベロン)のリアルさがとても良く、「お互いを大切に、幸せになってくださいよ」と願わずにはいられなかった(笑)。岩田のキャスティングは堀川のたっての希望で実現したそうだ。作家には、脚本至上主義で俳優にはあまり興味を示さない人もいるが、ふだんから他劇団の俳優をしっかりチェックしてオファーを出す作・演出家を私は評価したい。
原作では主役級で女優が演じることも多い妖精のパックが、生真面目なSEの上杉になぞらえたのも面白い。塚越健一の秋葉(ライサンダー)も原作のイメージとは異なり、これはこれで面白いし、俳優としての演技も良いのでこの劇では違和感がない。ただ、ライサンダーとディミートリアスはいずれも甲乙つけがたい美青年であるがゆえに、惚れ薬のいたずらでハーミアがライサンダーにすげなくされ、ヘレナが両手に花状態になる皮肉や絵面の美しさもまた、「夏の夜の夢」という芝居の魅力であることを再認識した。ブスではない青木(ヘレナ)がイケメンでもないオジサン風の秋葉(ディミートリアス)にブス呼ばわりされるのはちょっと抵抗があった(笑)。
世界の秘密と田中

世界の秘密と田中

ラッパ屋

紀伊國屋ホール(東京都)

2010/01/09 (土) ~ 2010/01/17 (日)公演終了

満足度★★★

期待した割には・・・
「世界の秘密と田中」という大げさな題名と、ここでの高評価からものすごく期待して観たせいか、自分の場合は正直言って落差が大きかった。確かに大人向けの芝居と言えるし、人生の悲哀も描かれているが、常識の域を脱しないというか、自分にはグッとくるものはなかった。他の小劇場系劇団に比べれば観客の年齢層は高いし、終演後、「どう?胸に突き刺さる台詞が多かったんじゃないの?」などと仲間をつついている人も見受けられたが、彼らと同世代である自分にはなぜかそこまで迫ってくるものがなかった。この芝居の登場人物の何人かとそっくりな状況に置かれた人たちを現実の世界で見てきたせいか、現実の人々のほうが数倍もドラマチックで感慨深いため、所詮、作り物めいて見えた。
鈴木さんは「コミュニケーションの大切さ」を一貫して訴えてきた作家だそうで、この芝居も「コミュニケーション」が描かれる。先年、放送されたNHK朝の連続テレビ小説「瞳」でも「どんな思いも言葉にしないと通じない」というキーワードが出てきたが、朝ドラは視聴率もふるわず、ドラマの感想を話し合うサイトでも不評の意見は多く、演劇を観ない層は鈴木さんのキャリアも知らず、かなり辛らつな脚本家批判や欠点への指摘も出ていた。だが、私は朝ドラという制約があるからでは、と差し引いて解釈していた。しかし、本作を観ると「瞳」と共通する点もあり、ドラマ同様の不満を感じてしまった。大きく分けて40歳と、さらに下の世代、もっと上の定年近い世代が登場し、それぞれが壁にぶち当たって悩みながらも希望を見出していく「応援歌」のような芝居だが、自分を含めて、年齢的に人生の岐路に立ち、それぞれに問題を抱えている自分の知る何人かの身近な人を思い浮かべたとき、この芝居を観て元気がもらえるかと考えると、そう単純には思えなかったのだ。私が求めているのはもっとグレードが高い芝居だったので期待はずれだった。
舞台装置上の制約もあり、家具付きアパートの一室で間取りも同じという設定で、何人かの住人が入れ替わり立ち代り出てきて、さまざまな会話を交わして劇が進行していく。何だかロールプレイングゲームのようで、単調で退屈する場面もあった。そのためか、私の周囲ではいびきや寝息が聞こえてきて、とても気になった。「大人の観客が多い」ためか、珍しく諸注意アナウンスがなかったが、案の定と言うべきか、マナーモードの「ヴィーン」という唸り声がいびきや寝息に混じって響き、うるさいこと。とても芝居を楽しむ環境とは言いがたかった。

ネタバレBOX

NHK「瞳」も隣近所事情が筒抜けの長屋的な世界だったが、本作もアパートの住人や友人、家族らがみな知り合いである。地方のアパートでさえ、隣人はどんな人か知らないのがいまやあたりまえというのに、例外的なアパートがあったものだ。友人が少ないという玉村(木村靖司)さえも、アパートの住人の相談相手として信頼され、夜中でも相談者がやってくる不自然さ。普通、これだけ面倒見が良く、人恋しい性格なら友人が少ないこともなかろうに。サラリーマンで40歳独身の田中(福本伸一)は、派遣社員の恋人礼子(岩橋道子)と交際しているが、礼子のほうが忙しく、すれ違い状態。田中の母(大草理乙子)は夫が認知症になり、介護のストレスがたまっているさなか、住人の田部(おかやまはじめ)と関係を持ってしまう。「枯れていたとばかり思っていたのに、こんな情熱が残っていたなんて」と感動する田部と対照的に、関係を引きずるまいと意を強くし、滑稽なほどサバサバしている田中の母。「学生運動やってて若いころはステキだったのよ」と夫を語る場面以外、「夫婦のありよう」がほとんど語られないので、母の屈折した思いが伝わらず、安易で乾いた浮気にしか見えない。私にも夫を介護する同じ状況の友人がいるが、もっと張り詰めていてとてもこんな軽はずみな行動をとる余裕はないので、観ていてしらけてしまった。田中家の介護の問題は、田中の妹(弘中麻紀)の渡米問題もからみ、この物語の芯になるが、それにしては実に描き方が薄っぺらで状況説明に過ぎる。
同じく住人のミッチー(三鴨絵里子)と田部の友人村田繁(俵木藤汰)の関係も、ミッチーの携帯小説のネタづくりといういい加減な結びつきかただ。田中の母もミッチーも、女性の側は単なる「浮気」気分で、田部も村田も男の側はけっこういちずで純真なのである。感動的な愛ではない。玉村のアドバイスで田中の仕事が順調になり、またも恋人とはすれ違いに。玉村に相談に行った礼子は、今度は玉村と恋仲になってしまい、結婚が決まる。
それぞれの事情が交錯するだけで、物語に感動する要素がほとんど感じられなかった。とりあえず、コミュニケーションをとってつながってればよいということか(これも「瞳」のサイトでさんざん指摘されたことだが)。
ミッチーと田中の妹がそろって舌足らずのしゃべりかたをするのが鬱陶しく、なぜ舌足らずでないといけないのかわからない。三鴨は往年の吉田日出子を思い出したが。
唯一面白かったのは、田中がどうにも玉村と礼子の結婚を祝福する気になれず、めちゃくちゃな恨みの歌を考えたり、激辛カレーを作ってパーティーで食べさせようとしたり、暗黒舞踏で締めくくろうと提案したりする妄想場面だった。これをすべて実行して、別の結末があれば、芝居としても何か感じたかもしれないが、予定調和で毒もなく、無事終わるのではNHKドラマと同じである。これが「笑いとペーソスの芝居」なのか。私には説得力不足に感じた。
僕らの声の届かない場所

僕らの声の届かない場所

ろばの葉文庫

The Art Complex Center of Tokyo(東京都)

2010/01/12 (火) ~ 2010/01/17 (日)公演終了

満足度★★★★

小説を読み終えたような気分に
ギャラリーの一室を借りての公演。観終わって外に出ても、建物のエントランスの雰囲気がとてもよく、素敵な会場を選んだなーと感心しました。
純文学に登場しそうな内容のお芝居で、本当に文庫本を1冊読み終えたような満足感がありました。「ろばの葉文庫」としては初めての公演だそうで、これからの企画も楽しみです。

ネタバレBOX

暗闇を描いたような黒い絵を描き続ける青年画家・名村(北川義彦)と視力を失っていく少女茜(ハマカワフミエ)が出会う。名村の絵は、心の奥底の叫びそのものでもあり、誰にも本当に理解できないと彼は思っている。絵と向き合えば向き合うほど、苦悩が増し、描けない。これは単に完璧主義者であるとか、思うような絵が描けないという表現者としての苦悩とは違うようだ。生きている限り、いつまでたっても絵が完成することはないというジレンマがあり、誰に対しても心を閉ざしている。展覧会で絶賛されても、「完成していない」と主張して絵を持ち去ってしまう。しかし、茜は彼の絵の中にいろいろなものが見えると言い、一見闇に包まれたような彼の絵の中に一条の光を見出すことができると言うのだ。心の光を失った青年の絵を真に理解できるのは光を失っていく少女という皮肉。この設定と構成が見事だ。名村の心象のなかに登場し、名村の分身とも言える夜虫(皆木正純)の存在など、巧い見せ方だと思う。現在、私自身が失明の危機に直面しているだけに、感慨深い内容だった。暗転のたびに目を閉じ、闇を感じてみたりした。
会場に入ってすぐ、床に散りばめた落葉が目に入ったせいか、貸しアトリエのオーナーの名が朽葉というのがいかにもぴったりに感じた。朽葉役をフライングステージの関根信一が演じたのも、舞台が引き締まって良かった。こういう役は若い女優より、彼のような俳優が演じたほうが物語らしくなって良いと思う。ラトゥールやフェルメールを引き合いに出しながら、桜坂と児島が会話する場面が自然な感じで引き込まれた。児島を演じる佐藤幾優の「間」が良い。桜坂の三原一夫の軽快な芝居のトーンが物語の重苦しさを和らげていたように思う。モデルを務めるみどりの清水穂奈美も台詞が自分のものになっていて良かった。こういう狭い空間では、台詞のリズムが重要になる。みどりが児島に「私は色で言うと何色?」と聞いて、「山吹色」と答える。何の屈託もなく、具体的に色を言葉に出す児島と、「黒い」絵の具だが「黒」ではない色を塗り続けている名村の対比が出ている。みどりのデッサンの場面などは、児島と桜坂のカンバスに抽象的でもよいから線描らしきものや絵の具が塗られていても良いかと思った。自分の座った位置からはカンバスが見えるので、「エアな」芝居がちょっと気になった。
少女、茜役のハマカワフミエの演技が、頑張っているのは伝わってくるのだが、学生演劇でよく見かける力演型に思え、ちょっと残念だった。いつも思うのだが、芝居の少女役というのは本当に難しい。青春コメディのような芝居なら、等身大でもよいが、内面的なことが要求されるこういう芝居における少女役はやはり作って見せないといけないので若さだけでは足らず、説得力が必要になってくるからだ。美術評論家を演じた佐々木なふみが魅力的だった。余談だが、 小説やドラマに登場する美術評論家というは、作家にとって思い入れやイメージあるのか、そのほうがはスパイスとして面白くなるためか、わりとひとくせありそうなタイプか俗物かどちらかで描く場合が多い。旧来の伝統画壇ではそういう人もいるのかもしれず、自分もそういうイメージで美術評論家を見ていたが、現代美術界の場合は、実際接してみると、意外にも普通の感じの人が多かった。特に女性の場合は才色兼備の人が多いのは事実だが、思わせぶりなことを言ったり、偉そうな態度の人はいなかった。そういう点で、しずかという評論家は独特な雰囲気でいかにも虚構の世界の人という感じがして面白かった。
アフタートークは、よくある一般的な対談ではなく、ひとつの作品をつくるにあたって、作家と演出家が話し合ってきたことの一端を紹介するかたちに詩森ろばが持って行ってくれたのが嬉しかった。ほさかようが「稽古の過程で女優さんがみるみるうちにきれいになっていくのには驚いた」と語り、詩森ろばが「やりかたがあるんですよ。それは企業秘密」と笑っていたのが印象的だった。個人的に鑑賞する立場では、ギャラリー公演の場合はあと10~15分くらい短縮したほうがちょうどとよいかと思える。濃密な芝居を至近距離で1時間30分というのは少々疲れた。
PerformenⅣ~Inferno~

PerformenⅣ~Inferno~

電動夏子安置システム

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2009/05/07 (木) ~ 2009/05/12 (火)公演終了

満足度★★★★★

初めて体験する演劇でした
アワードを決めるにあたり、レビューを書いたとばかり思っていたのに
参加前で書いていませんでした。どうしてもベスト10には入れたかったので、さかのぼって書かせていただきました。すみません。
観たのはブント編のほうで、チケットをいただいたのが千秋楽だったもので
2バージョンあるというのも当日、知った次第。「ロジック・コメディ」という自分にとってはまったくなじみのないジャンルですが、こんな面白い芝居があったんだなーと目からウロコという感じで。
後輩劇団の「多少婦人」の渡辺裕之作品とも共通性があります。
と思っていたら、渡辺さんも過去に本シリーズに出演経験があり、片桐はづきさんと父子役を演じたとか。
解説を読むと難しそうなのですが、コントをうまく挿入し、退屈させずに見せるのはさすがだと思いました。
俳優陣は片桐はづき、小笠原佳秀、岩田裕耳、なしお成、じょん、蒻崎さんたちが印象に残りました。

『カガクするココロ』『北限の猿』

『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/12/26 (土) ~ 2010/01/26 (火)公演終了

満足度★★★★

「北限の猿」-役に違和感も
「カガクするココロ」の次に「北限の猿」を観ました。
「カガクするココロ」と同じ役名が出てくる。
基本的には同じ人物だが、厳密な推移ではなく
人格的な連続性がほとんどないという設定。
2つの作品それぞれに作者が描きたかったことがあり、
あえて同一俳優を当てなかったようだ。
いちおうその意図は理解して観たが、1作だけ観る分
にはまったく影響なくても、続けて観た場合、
同じ俳優が出ていることもあって、少し違和感がありました。
特に個性的な俳優の場合は、やはり気になるものです。

ネタバレBOX

配役で気になったのは、「カガクするココロ」で源、本作で
木元敏子を演じる工藤倫子。長身で目立つ上、まったく違う印象
の役作りではないため、続けて観ると同一人物に見えてしまう。
違う人物にする必然性をあまり感じなかった。だからといって、
「カガク」の木元とは関連性を感じない。
「カガクするココロ」でセールスマン高木を好演した二反田幸平は
印象が強烈なので、同じ役で出ても良かった気がする。
小島を演じた河村竜也がこちらでは久保役。だが、こちらも女性を
妊娠させてしまう役なので、これはこれで面白かったが。
小林亮子が2作とも妹役だったり。
「研究室の中に進化したサルがいる」という噂をもとに、それはだれか
とホワイトボードにノミネートで書いていく場面が可笑しかった。
研究員ではない高木(安倍健太郎)にどんどん正の字が増やされていき、
部屋を出るときに高木が黙って消していくところなど。
事務員の平山(山本裕子)が印象に残った。
「ブリキの自発団」にいた若いころの片桐はいりがこういう役どころを演じて
巧かったのを思わせる。何となくよくわからない女性(笑)。
妊娠している吉川(中村真生)が椅子を飛び移ろうとするところはハラハラ
したが、そこへ清水(佐山和泉)が入ってくる。
このとき、2人がとる胸を叩く動きはゴリラが互いに「仲間だ」ということを
示す行為と同じボディランゲージである。ゴリラは示威行動の場合も胸を叩く。その場合、先に胸を叩くほうが「先輩」(自分のほうが上)であることを主張するそうだ。
そういう前提で観るとコミュニケーションとして興味深い場面である。
「カガク」より研究員一人一人の人物描写は薄い気がした。
終わり方も物足りない。
訳知り顔でサルたちの行動を分析している人間たちが、実は自分たちのことはあまりわかっていない。科学が進歩したとしても、人間の営みはそう変わらず、愚かな過ちも犯しているというメッセージは2作ともに伝わってきたが。


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