世界の秘密と田中 公演情報 ラッパ屋「世界の秘密と田中」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    期待した割には・・・
    「世界の秘密と田中」という大げさな題名と、ここでの高評価からものすごく期待して観たせいか、自分の場合は正直言って落差が大きかった。確かに大人向けの芝居と言えるし、人生の悲哀も描かれているが、常識の域を脱しないというか、自分にはグッとくるものはなかった。他の小劇場系劇団に比べれば観客の年齢層は高いし、終演後、「どう?胸に突き刺さる台詞が多かったんじゃないの?」などと仲間をつついている人も見受けられたが、彼らと同世代である自分にはなぜかそこまで迫ってくるものがなかった。この芝居の登場人物の何人かとそっくりな状況に置かれた人たちを現実の世界で見てきたせいか、現実の人々のほうが数倍もドラマチックで感慨深いため、所詮、作り物めいて見えた。
    鈴木さんは「コミュニケーションの大切さ」を一貫して訴えてきた作家だそうで、この芝居も「コミュニケーション」が描かれる。先年、放送されたNHK朝の連続テレビ小説「瞳」でも「どんな思いも言葉にしないと通じない」というキーワードが出てきたが、朝ドラは視聴率もふるわず、ドラマの感想を話し合うサイトでも不評の意見は多く、演劇を観ない層は鈴木さんのキャリアも知らず、かなり辛らつな脚本家批判や欠点への指摘も出ていた。だが、私は朝ドラという制約があるからでは、と差し引いて解釈していた。しかし、本作を観ると「瞳」と共通する点もあり、ドラマ同様の不満を感じてしまった。大きく分けて40歳と、さらに下の世代、もっと上の定年近い世代が登場し、それぞれが壁にぶち当たって悩みながらも希望を見出していく「応援歌」のような芝居だが、自分を含めて、年齢的に人生の岐路に立ち、それぞれに問題を抱えている自分の知る何人かの身近な人を思い浮かべたとき、この芝居を観て元気がもらえるかと考えると、そう単純には思えなかったのだ。私が求めているのはもっとグレードが高い芝居だったので期待はずれだった。
    舞台装置上の制約もあり、家具付きアパートの一室で間取りも同じという設定で、何人かの住人が入れ替わり立ち代り出てきて、さまざまな会話を交わして劇が進行していく。何だかロールプレイングゲームのようで、単調で退屈する場面もあった。そのためか、私の周囲ではいびきや寝息が聞こえてきて、とても気になった。「大人の観客が多い」ためか、珍しく諸注意アナウンスがなかったが、案の定と言うべきか、マナーモードの「ヴィーン」という唸り声がいびきや寝息に混じって響き、うるさいこと。とても芝居を楽しむ環境とは言いがたかった。

    ネタバレBOX

    NHK「瞳」も隣近所事情が筒抜けの長屋的な世界だったが、本作もアパートの住人や友人、家族らがみな知り合いである。地方のアパートでさえ、隣人はどんな人か知らないのがいまやあたりまえというのに、例外的なアパートがあったものだ。友人が少ないという玉村(木村靖司)さえも、アパートの住人の相談相手として信頼され、夜中でも相談者がやってくる不自然さ。普通、これだけ面倒見が良く、人恋しい性格なら友人が少ないこともなかろうに。サラリーマンで40歳独身の田中(福本伸一)は、派遣社員の恋人礼子(岩橋道子)と交際しているが、礼子のほうが忙しく、すれ違い状態。田中の母(大草理乙子)は夫が認知症になり、介護のストレスがたまっているさなか、住人の田部(おかやまはじめ)と関係を持ってしまう。「枯れていたとばかり思っていたのに、こんな情熱が残っていたなんて」と感動する田部と対照的に、関係を引きずるまいと意を強くし、滑稽なほどサバサバしている田中の母。「学生運動やってて若いころはステキだったのよ」と夫を語る場面以外、「夫婦のありよう」がほとんど語られないので、母の屈折した思いが伝わらず、安易で乾いた浮気にしか見えない。私にも夫を介護する同じ状況の友人がいるが、もっと張り詰めていてとてもこんな軽はずみな行動をとる余裕はないので、観ていてしらけてしまった。田中家の介護の問題は、田中の妹(弘中麻紀)の渡米問題もからみ、この物語の芯になるが、それにしては実に描き方が薄っぺらで状況説明に過ぎる。
    同じく住人のミッチー(三鴨絵里子)と田部の友人村田繁(俵木藤汰)の関係も、ミッチーの携帯小説のネタづくりといういい加減な結びつきかただ。田中の母もミッチーも、女性の側は単なる「浮気」気分で、田部も村田も男の側はけっこういちずで純真なのである。感動的な愛ではない。玉村のアドバイスで田中の仕事が順調になり、またも恋人とはすれ違いに。玉村に相談に行った礼子は、今度は玉村と恋仲になってしまい、結婚が決まる。
    それぞれの事情が交錯するだけで、物語に感動する要素がほとんど感じられなかった。とりあえず、コミュニケーションをとってつながってればよいということか(これも「瞳」のサイトでさんざん指摘されたことだが)。
    ミッチーと田中の妹がそろって舌足らずのしゃべりかたをするのが鬱陶しく、なぜ舌足らずでないといけないのかわからない。三鴨は往年の吉田日出子を思い出したが。
    唯一面白かったのは、田中がどうにも玉村と礼子の結婚を祝福する気になれず、めちゃくちゃな恨みの歌を考えたり、激辛カレーを作ってパーティーで食べさせようとしたり、暗黒舞踏で締めくくろうと提案したりする妄想場面だった。これをすべて実行して、別の結末があれば、芝居としても何か感じたかもしれないが、予定調和で毒もなく、無事終わるのではNHKドラマと同じである。これが「笑いとペーソスの芝居」なのか。私には説得力不足に感じた。

    0

    2010/01/18 19:30

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大