アキラの観てきた!クチコミ一覧

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Do!太宰

Do!太宰

ブルドッキングヘッドロック

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2010/05/14 (金) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

細かいエピソードがうねり、大きな物語を作り上げた
様々なエピソードは、物語の縦糸や横糸で、ちょっとだけ視線を離すと、そこには俳優たちや舞台装置などがきらきら輝く、大きなタペストリーが出来上がっていた。
そんな舞台だった。

大人数の出演者がいて、さらに彼らが何役も、役名のある登場人物を演じる。
そして、ダイナミックで奥行きのある舞台装置と、その転換、さらに物語の構成と演出は素晴らしい。

息の飲んで見入ってしまった。
激しい台詞のやり取りはない。むしろ、柔軟さのようなものを感じた。
ユーモアもあるし。

そして、この舞台は、10周年を迎えた、劇団、というより、そこにうごめく個々人の「表現者」としての宣言でもあったように思えた

ネタバレBOX

女の間を行き来し、それを題材として、最後には自らの命を絶つ男。派遣会社の御曹司で、脚本家、小説家として名前が売れてきた男。売れない役者の男。小説を書くと言っては挫折し、映画を撮ると言っては挫折し、舞台の台本を書くと言っては挫折する男。路上ライブをする売れない男。そんな男たちのエピソードが、太宰の作品からの引用と、ブルドッキングヘッドロック自体の過去の作品の引用を散りばめながら進んで行く。

その根幹にある太い幹は、「表現者」だ。
「表現すること」とは、食べて排泄することと同じであり、極めて自然なことであり、やめることもできない。
食べるのは自分の人生であったり、自分とかかわってきた者たちの人生でもある。そして、排泄される表現物は、強い臭いを放ち、ときには自らも傷つける。

「なぜやるのか」との問いに対しては「やりたいから」というシンプルな答えしかなく、それはストレートな真実である。それ以上のものは存在しない。

彼ら表現者たちの苦悩は、「表現することの苦悩」と言ってしまえば、それまでである。
しかし、その「苦悩」は、彼らの「夢」でもある。夢の中に苦悩があり、苦悩と夢は一体でもある。その夢と苦悩の中で、永遠にもがくのだ。

表現することは、その排泄物が残るにせよ、残らないにせよ、無間地獄でもある。どこにも到達できる安住の地はない。
だから、結局何も「表現物」として、生み出す(というより排泄する)ことがなかったとしても、排泄することに苦悩する限り「表現者」である。


表現者としてのレベルはどんな者も同じだ。苦悩の意味が違っていても。
それは例えば、「それをやっていても食えない」ということでも「ネタがない」ということでも「自分の思い通りにならない」ということでも同じだ。
単に、現時点での社会の評価が違うだけだ。


その点、舞台に現れる女たちは違う。
とても魅力的に見えてくる。どの女性も魅力的だ。
女性は強い。そして、優しい。根を大地に張っている。
包み込むような慈愛がある。

男たちは、その女性に求め、女性はそれに応えてくれる。
応え方は、いろいろだ。
従順に従うだけでなく、責めたり、なじったりもする。しかし、それは愛でもある。

どうも、男女間の関係や、その「役割」のようなものに、作者の気持ちが表れているようにしか思えない。「夢を追うのは男」で、それを「見守るのが女」というような。それは、願望なのか、夢なのか、希望なのか。

ラストに戦争が起こり、自分以外の表現者たちが死んでしまえばいいのに、と思う醜い心もさらけ出す。これはある意味本音だろう。でも現実ではない。それももちろん理解している。
テストの前の日に、学校が火事になってしまえばいいのに、と思ったとしても現実にはそんなことが起こらないようにだ。

自分の夢を諦めず進んで行く姿は美しくはないかもしれない。そして、彼らを励ます舞台ではないかもしれない。
ただし、「今、そのまっただ中にある」自分たちの10年とこれから先の「表現者」としての未来を見据え、それでも、だからこそ「排泄するように」そして、「やりたいからやる」という自然で、当然な行為を、終わりのない(死んでからも終わりのない)無間地獄の中で、続けていくという宣言が込められているのだろうと受け取った。

1つだけ注文をつけるとしたら、ブルドッキングヘッドロックの過去の作品に関するエピソードの紹介についてである。
これは、劇団と一緒に歴史を歩んできたファンにとっては、とても面白いものだっただろうと思う。
私のように歴史の浅い者にとっては、さほどの感動も感傷もなく、ただ見ただけ。
10周年ということで、是非ともそんなことも盛り込みたかったという、自己満足、自己愛(劇団LOVE)は理解できるが、引用は太宰だけで十分だったのではないだろうか。そんな気がした。
「ユー・アー・マイン」

「ユー・アー・マイン」

クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)

駅前劇場(東京都)

2010/05/12 (水) ~ 2010/05/16 (日)公演終了

満足度★★★★

This is シチュエーションコメディ!
ウソと勘違い、思い込みに開き直り、人の出入り、等々、それらをグッとミックスし、とにかく、パズルのように良く組み立てられている。
これぞシチュエーションコメディという舞台。うまい。

とてもいい感じに笑えた。
上演時間も手頃だし。

ネタバレBOX

冒頭、エンジンのかかり具合がイマイチだったのか、観ていて「あれ? これ笑えるのかな」と、やや不安になったのだか、徐々にエンジンも暖まり、いい感じに笑いが場内に起きていくのと同時に、私も笑っていた。

2つの場所で起こり、2つの問題(2組のカップルの話)が絡み合うというストーリーは、なかなかできるものではない。
とにかく、その脚本と、細かい演出には、感心するばかりだ。
ウソにウソを重ね、シチュエーションに別のシチュエーションが重なっていき、この物語は、一体どこに行き着くのだろうかと思わせるところがうまい。
さらに、まったく関係ない第三者がそこに加わって、というのもいい感じだ。
しかも、きちんと台詞と設定で笑わせてくれるところもいい。

登場人物のキャラクターがいいし、演じるどの役者もとてもいい味を出していた。

観ている側としては、その場所にいる、危機に陥っている登場人物に、常に感情移入をしてしまいがちであり、「何て言ってここは切り抜けようか」なんてことを一緒に考えてしまう。
そういうシチュエーションコメディの王道を行くような、見せ方がうまいと思う。観客がやきもきしなければ、笑いは起きないのだから。

ただし、この物語の大本となる、マンションの現地ギャラリーで両家の親子が顔合わせをする(しかも2組とも)ことと、タイミングよく知り合いのカップルが似たような境遇にあるという点は、無理がありすぎるように思える。
もう少し無理ないノーマルな設定からスタートすれば、もっと面白くなったのではないだろうか
そこから始まり、ちょっとしたウソのために(例えば、このマンションが自分のものである、とか)少しずつ混乱していくなんていうふうな感じだ。

つまり、スタート地点が、まっとうであればあるほど、物語がヒートアップしていく中で、登場人物たちが、常軌を逸した行動に出ざるを得なくなっていくという設定にして、それがさらに倍増していく、なんていうほうが、笑いももっと大きくなったのではないだろうか。

また、A棟とB棟のセットは、花と絵の違いで表していたが、観客にまったく別のところであるとわからせるためには、もっとはっきりした大きなものを使って変えたほうがよかったと思う。
そうすれば、AとBを行き来する登場人物に対して、自分がどちらにいるのかわからなくなる、あるいは勘違いをさせる、なんていう笑いも作れたように思えるのだ(さらに複雑になるけど)。今回、2つの場所にする必要性があまり感じられなかったし。

いずれにしても、いい劇団に出会えたと思う。
次回も楽しみにしたい。
北と東の狭間

北と東の狭間

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2010/05/07 (金) ~ 2010/05/16 (日)公演終了

満足度★★★★

【外伝】そして、もうひとつの愛
やはり、とてもよくできていた。

1人当たり、5分程度の出演なのに、登場したときから、登場人物たちの空気を醸し出していた。
スイッチが入った状態にすでにあるという感じだ。

ただ、こちらの期待値のレベルが高かったのか、全体的には、本編を掘り下げるような深さまでには達しなかったように思える。
ただ一点、ある登場人物の感情の静かな露呈を除き。

ネタバレBOX

前作と同様に本編の登場人物たちが、1人5分程度の1人芝居を行う。本編で語られる物語の前後などを演じる。

どうしても前作と比べてしまうのだが、今回の「外伝」は、「本編」との合わせ技で、確かに素晴らしいものだったと思うのだが、本編をさらに膨らませ、見ている者の感情をさらに高めるようなところまでには達していなかったように思える。

本編にはそれほど謎が残っているわけでもないためか(あの後どうなったのだろう、という興味ぐらい)、それぞれの登場人物の、この一連の物語における、バックボーンのようなものを描いていた。

例えば、本編でその様子が垣間見ることができた刑事の、必要以上にチカに興味を持っている本心や(カントリーマムを食べてからの指の舐め方は見事・笑)、バーテンダーの気持ち、レイのウソ(さらりと明かされる)などがさらによくわかるようになっていた。

一方、今回の外伝で「うまい」と感じるところは、「笑い」が起こったことではないだろうか。ヤクザの加藤が実家住まいであることあたりは、本当に笑えた。

そして、最大の収穫は、ラストだった。
それは、浮気相手としかチカを見ていないと思っていた社長の本心というものが、無言の中で、とても見事に表現されていたと思う。
無言でチカの骸を見つめ、触る社長(根津茂尚)の姿が心を打った。
それは、あえてチカの幻影を見せなくてもよかったのではないかと思うほど。

ただ、逆に少し残念に感じたのは、チカと遠藤の2人の末路が見せられてしまったことだ。本編では、確かに炎に包まれてしまうのだろうということを予感させてるのだが、具体的には、ひょっとしたら・・なんていうことも入る余地が少しだけ残っているような、うまい幕切れだっただけに、結果がわかってしまうのは少しもったいないと思ったのだ。

もちろん、悲劇的な先行きしかない2人であり、また、今回のラストで、社長の意外ともいえるような、ある意味、彼なりの「愛」の姿が見られたということもあるのだが、このあたりは難しい選択だったかもしれない。

外伝を見なければ、社長の心の底にある気持ちが、わからないままだったかもしれないのだ。
だから、1本の物語で、チカが遠藤に見つけ、遠藤もチカに見つけた「愛」と、社長の「愛」の、その両方を同じレベルで取り込むことは、無理に近いことなので、これはこれでアリだし、うまいなと言わざるを得ない。

今回はPPTがあり、それを聞いて驚いたのだが、昨日見てグッときたラストの2人の動きは、演出を綿密に付けたわけではないらしい。ということは、2人(清水那保と橋本恵一郎)が役にそれだけ入り込んでいたということだ。本当に素晴らしいと思う。

本編でもフェイ・ウォンの「夢中人」が使われていたが、細かいことを言うと、使われていた曲は広東語なので、北京出身のチカが好んで聴くのならば、北京語版にすれば完璧だったと思う。
PPTでも語っていたが、広東語と北京語は方言というより別の言語だという。そこまでわかっていたのなら北京語版だろうと思った。北京語版は、タイトルも歌詞も違って、別れの歌だったりするので、意味深だったするし。
北と東の狭間

北と東の狭間

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2010/05/07 (金) ~ 2010/05/16 (日)公演終了

満足度★★★★

今回も期待を裏切らない
時代設定もうまく、どのキャラクターも一癖二癖あり、それを演じる役者の空気感がいい。
演出も無駄がなく、セットの設定もとてもいい。

冒頭の歌から、タイトルを見せるあたりの展開と、タイトルが現れる瞬間は、特にシビれた!

これはもう『外伝』も観るしかない、とその瞬間に思ってしまった

ネタバレBOX

前作『明けない夜』では、重苦しい物語をラストにさらにやるせなくしていたが、今回もまさにそのとおりの物語が展開していた。

「北と東の狭間」とは、「北京」と「東京」という2つの都市(国)の狭間に生きる女性たちと、それを取り巻く男たちの物語であった。

語られる物語は、少々紋切り型であり、日本で働く中国の女性たちのビザの問題から、偽装結婚、薬物、さらにそれを餌に彼女たちから金を毟り取る闇金業者や、逆に彼女たちに取り込まれてしまう男たちが中国人クラブ「牡丹」にうごめく。どちらも隙あらば相手ののど元に噛み付こうかというような状態で、持ちつ持たれつの関係でもある。
金と女の世界。

前回は昭和の世界だからこその物語であったが、今回も平成7年という、バブル崩壊真っ盛りの頃で、大手金融機関の破綻や就職氷河期だったりという時代背景が、物語に活きてくる(大会社らしき会社の倒産による借金で首が回らなくなった男やそれを食い物にする闇金、羽振りのいいポケベルショップの社長など)。この時代設定が必然性を帯びてきているのが、うまいと思う。

また、そういうすでにある程度こなれてきている時代設定でもあるから、物語が組み立てやすいということもあるのだろう。

国や生活や夫婦、それぞれの狭間にあるタイトロープの上をなんとか歩いている状態の登場人物ばかりである。彼らは、「道」なんてものはすでに踏み外しているのだ。そして、不安定なロープの上にいる。

今回もとにかく登場人物のキャラクターがいい。やや、定型的なキャラクターかもしれないが、とにかくわかりやすい。
そして、彼らの醸し出す空気は、イヤになるほどのねっとり感を漂わせる。

中国人女性役の3名(蒻崎今日子・清水那保・柳井洋子)がとにかくいい。たどたどしい日本語に早口の中国語でまくしたて、日本人の男性を虜にしてしまう不気味さもある。
あひるなんちゃらからの客演である根津茂尚さんは、例えば、あひるの『ジェネラルテープレコーダー』では、めんどくさい人を通り越して、不気味な人にまでなっていたが、まさに今回の社長役は、冷静なのだが、何を考えているのかが外に見えず、ときどき牙を剥くといった役がぴたりときていた。
やはり客演の仗桐安さんは、台詞を発する前からはまり役だった(笑)。あの格好で新宿駅まで歩いて帰ったら絶対に絡まれそうなほど。

ラスト前の惨劇は、彼らにとって普通のことであろうことが伺えるような展開であり、ブラックな展開もありつつ、ラストは想像内であっても、一番優しいものを選んだようだ。これは唯一の救いだ。

ラストの中国人女性のチカ(清水那保)と、借金を抱えて偽装結婚することになった遠藤(橋本恵一郎)との気持ちの高まり合いと、互いに禁を犯すことのためらいが、実にうまく表現されており、役者の身のこなしにすべてを語らせている演出と演技のうまさに唸った。
観ていてかなりグッときた。

そして、すべてが灰になることを予感させる炎。

こうなると、『外伝』も観ずにはいられない。すぐに予約を入れた。
さらに何が明かされるのかが、楽しみである。

前回のときにも書いたのだが、やはり、本編+外伝で、休憩入れて2部構成にはならないものだろうかと思ったり。
もっとも、今回、平日の夜間は20時開始なのはありがたいから2部構成は難しいかもしれない。

ちなみに観た回の友情出演は、いしだ壱成さんで、ワンポイントの出演があった。
アメリカン家族

アメリカン家族

ゴジゲン

吉祥寺シアター(東京都)

2010/04/29 (木) ~ 2010/05/02 (日)公演終了

満足度★★★★

散漫、ブラックできつい、笑いもたいして多くない、だけど好き
前作の「ハッピーエンドクラッシャー」の「観てきた」に書いたことをもう一度書こう。
それは、
「単に笑わせるのではなく、人の哀しさみたいなものを、笑いの中に見せてくれる劇団になっているのかもしれない。さらに「笑い」は、中心ではなく、芝居の一要素になっていくのかもしれない」
というもの。

それがさらに強まっていたような舞台だった。

そして、根底にあるのは「家族愛」なんだなあ。

ネタバレBOX

「家族」というテーマは、どうやったって、自分がさらけ出されてしまう。
自分の家族のこと、自分と家族の関係、距離など。

この舞台では、一見壊れてしまっているような状況にある個人が、集まって家族を形作っている。外から見ると、家族という形も壊れてしまっているように見える。

だけど、それは違う。これが家族なのだ。
松居さんの家族なのだ。
そして、私の家族でもある。

声を荒げたり、涙や、ときには血を流しても、というより、声を荒げたり、涙や、ときには血を流すから、家族なのだ。
傷つけ合っているように見えても、結局は離れることはできないのが家族。

松居さんは、「家族」というものに希望を持っているのではないのだろうか。「愛」と言ってもいい。「幻想」と言い換えても同じかもしれない。
これだけ破壊して、壊れていても成立している家族の姿を見ると、そう思わずににはいられない。
だから、観ていて、イヤな気持ちが起こらなかったのだと思う。
舞台の上の出来事は素直に受け入れられた。

静かな気持ちで観ることができた。
そして、考えたりもした。

ラスト前の、壁を破ったり、演劇としての決まりごとである、天井や廊下の壁や、セットの隙間などを取り込んで、その意味を壊していく様は見事としか言いようがなかった。
震えるほど。これは凄い。

その上で、ラスト台詞のためだけに、翌朝のシーンを付けたのは蛇足ではなかっただろうか。きれいに終わらせたい気持ちはわかる。家族の話だから。だけどそんなありきたりの方法じゃなくても、それはできたんじゃないかと思うと、やっぱり蛇足に思えてしまった。

今回、吉祥寺シアターという大きな劇場での公演であったが、どう観ても、もっと小さな劇場用のセットと演出を単に大きくしたようにしか見えなかったのは、初だったからだろうか。それが散漫な印象を与えていた。

役者のかみ合わなさも感じた。
ずれているというか。初日だったからというわけではないと思う。

ただし、その無駄な空間が、「母がいない」つまり、「家族が欠けいてる」という、この家族の心の隙間を表現していたように思えてしまった。さらに、ずれが不思議な感覚を呼び起こしていたようにも思える。ちょっと甘い見方かもしれないけど。

なんだか、気になったことはいろいろあるけど、もう別にいいやと思えてしまう。
つまり、なんだか、うまくまとまっていないような感じだったのだが、終わってみれば「面白かった」と言ってしまう。
単にゴジゲンが好きだからということだけではないように思える。

そして、この劇団は、いつかもう一皮剥けていくような気がする。

外人だのモンちゃんだのという、普通じゃない人を演じると俄然輝く目次さんが、やはり光っていた。もちろん、島田曜蔵さんあっての「家族」だったし、土佐さんの浮いてる感じもなかなか良かった。化けの皮がはがれた後の津村知与支さんも。
ムネリンピック

ムネリンピック

神保町花月

神保町花月(東京都)

2010/04/28 (水) ~ 2010/05/03 (月)公演終了

満足度★★★★

やりたい放題! そしてグダグタ、グダグダ・・・。
メタなのか? そうなのか?
っていうより、やりたい放題。

でも2時間近いのに飽きなかった。
お客さんが笑いに来ているということもあって、笑いは終始起きていた。

私も確かに笑った。

ネタバレBOX

ヨーロッパ企画の永野宗典さん演じる会長が、「ムネリンピック」なるグタグタな競技会を主催している。
それは、突然始まり、突然巻き込まれるものだ。

「虚」の旗印とともに。
舞台の横に「虚」の文字が置いてある。
「虚構」の「虚」であり、「虚しい」の「虚」でもある。
これがまさにテーマだった。

「ムネリンピック」とは、例えば、「しゃくれんぼう」は、ガストで突然始まる。隠れている会長を捜すという一見かくれんぼうに似た競技なのだが、見つけるのはアゴがしゃくれているときの会長でなければならないというもので、単に会長のさじ加減ひとつで勝敗が決まるというものだ。
または、勝手に人の家に上がり込み、冷蔵庫の残り物で料理を作るというものもある。一体何を作るのか? というクイズなのだが、結果は途中で飽きて何も作らない、だったりする。
映像なども使われながら、無意味な競技やイベントが次々に繰り広げられる。

そんなグダグタで内容のないイベントに巻き込まれた人は、なぜか怒ることもしない。そのイベントを偶然見かけた記者が、ムネリンピックに関係した人を集め、取材をするのだ。

ところが、そこで急に大地震が起こり、さらになぜか会長が首を吊るという展開になり、その上、これは、神保町花月で行われている演劇であると、会長は告げる。
「演劇は死んだ!」と。

ムネリンピックを続けながら、敗者の役としてのプロフイールを消していくことで、役と演じている者の境が曖昧になっていく。
さらに、この舞台(ムネリンピック)の打ち合わせのときに取材した個人的な内容を、舞台で暴露することで、役者たちを芸人でも役でもない個人に戻し、さらにその自分を自分で演じさせようと強いる。

たぶん、このあらすじを読んでいて何のことかわからないと思う。
そんな、どこに行くのかまったくわからず、意味不明で、めちゃめちゃな展開が、テレビのバラエティのような姿をしつつ(出演者の秘密をばらす的な)、メタな空気を漂わせながら、とにかくグダグダと進んでいくのだ。

地震とか、ムネリンピックとかが「虚」に変わり、役者たちも「虚」になっていく。
「一番演劇にとらわれているのは、永野さんだ」という台詞で自分自身も切っていき、脚本を舞台の上で書き換えることで、自分自身の「虚」をさらけ出す。

とはいえ、これは、単に、永野さんがやりたかったことを(ヨーロッパ企画ではやれないことを)、吉本というバックを手にして、やりたい放題やってみました、という内容だろう。
それなりにウケていて、客席も一杯だったから気持ちが良かったのではないか、とも思う。

カリカなどの芸人さんたちがいるから成り立っていたとも言える。そうじゃないと、持たない場面もあったと思うし、たとえ、脚本どおりの展開としても、芸人さんたちのアドリブ的とも言える、空気の読み方とタイミングでかろうじて成立していたと思えるような危うさもあった。

それでいいのだろう。
それは初めから織り込み済みの脚本であり、演出なのだろう。
役者じゃ持たなかったかもしれない。

なんだか、いちおう芝居のラスト的なものは付けてあるが、それにはあまり意味がないように思えた。形だけというか。
これだけグダクダならば、ラストも収集がつかないほど散らかしたままで終えてもよかったように思える。

ヨーロッパ企画は、何本も映画になったり、去年はジャニーズともコラボして、今回は吉本とである。じんわりとブレイクしているんだろうなぁ。勢いあるから、こんなのもアリなんだろう思う。

あ、グダグタと何回も書いたが、これは「イイ意味」でのグダグタであったことを付け加えておきたい。

ただ、誰にでもお勧めとは言えない。笑えるけど。

そして、どうでもいいことだが、この会場ではお客さん全員にオロナミンCの自販機用のコインが配られていて、帰りにみんな飲んでいた。私は好きじゃないので、飲まなかったけど。
夢の裂け目

夢の裂け目

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2010/04/08 (木) ~ 2010/04/28 (水)公演終了

満足度★★★★★

楽しい! 素晴らしい!
休憩含めて約3時間だけど、舞台に集中して観ることができた。
脚本も役者もすべて素晴らしい。

ネタバレBOX

笑いも随所にちりばめられており、人は、つまり普通の人は、時代や立場や諸々のことによって、どう考え変わっていくのかを細かく丁寧に見せていた。
それに一喜一憂するのが普通の人であり、特に戦争は、戦場に行かなくても命までも失うことさえある。流れに乗っても、流れに逆らっても。
だけど・・・というところがこの物語のテーマでもある。

転身するということは、生きていくために必要なことでありつつも、何も言えずに波にのまれていった多くの普通の人々はどうだったのか。

「普通の人」にとっての「戦争」は「被害者」でもあり、「加害者」でもあるという視点と、東京裁判のカラクリのようなものを炙り出す物語は見事。

とはいえ、それを声高にせず、普通の人として幕を閉めていく様子もしみじみ。

ここから何かを感じることもできるし、やっぱり普通の人だから、と言うこともできる。私は・・私だったら・・と考えてしまうことにもなる。
何かを大きく変えようということを、メッセージとして伝えているのではなく、例えば、学問をして世界の骨組みを知ることが、まず大切なのだということを伝えていたように思える。そんな深さがきちんとある舞台だった。

そして、音楽劇は本当に楽しい。
生演奏はわずか4名なのに、豊かでもあった。
劇場のサイズもよかった。

三部作の残り2本も楽しみだ。
更地3

更地3

produce unit 大森そして故林

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2010/04/22 (木) ~ 2010/04/25 (日)公演終了

満足度★★★★

何も考えずに、あははのは
90分に13本のコント集。
どれも楽しく笑って観ることができた。
そこには温かさがある。

ネタバレBOX

全体のテンポがよく、するすると進んでいった。
深く考える必要もなく、あっという間の90分。

ただ、一部のコントでは、緩急とか、なんというか「間」みたいなものがあれば、もっと笑えたのでは、と思ってしまったものもあったのだが。
それと、ニュースネタとSPネタは、どこかで観たことありそうな感じではあった。しかし、それでも強引に笑いを取っていく様は、とてもいい。

「伝説のボケ役者、坂本あきら降臨」とHPにあったが、まさにその通り!
台詞のトチリのようなものがあったが、それをさらに大きな笑いに結びつけていた。したたかで面白い。さすが。
もちろん、坂本あきらさんの行動に気がつき、どうやら途中からやや方向を修正した大森ヒロシさんの突っ込みがあるからこそ、うまく成立していたということもあろう。

坂本あきらさん、大森ヒロシさんをはじめ皆さんがとても良く、安心して観ていられて、笑わせてくれる。

中でも、「電動夏子安置システム」のなしお成さんの一人芝居の「バーゲン娘」はとてもよかった。うまい人だなあと。また、「だったら告白させないで」での安藤彩華さんの殺陣のキレはなかなかのものだった。

週末にこんな舞台で一息つくのもいいなあ。
厠の兵隊

厠の兵隊

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2010/04/16 (金) ~ 2010/04/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

やっぱり桟敷童子はいい!!!
あいかわらずセットが素晴らしいし、物語も桟敷童子らしい内容と展開、そして役者もすべていい。
熱量があって、1時間40分が濃厚で、とても豊かな時間になる。

ネタバレBOX

夫を亡くし、頼るところもない月子と透の親子が、その夫の実家である村を訪れる。
村には、厠の神を祭る風習があった。
そして、村には丁度、来るはずのない、くみ取り屋がやって来ていた。

夫は村を捨てたのだが、村は月子親子を迎えてくれる。身体が不自由であり、まだ独り者の与市(月子の夫の弟)と再婚してほしいと考えているのだ。

女癖の悪い夫の父親は、嫁にあたる月子に目をつけ、手を出してしまう。
また、村の山には、組の金に手を付けて心中しに来たカップルがいる。
その男も月子に気持ちが動く。

月子には、そんな男たちを引きつける何かがあるのかもしれない。

ある日、月子に言い寄った父親とやくざのカップルが次々といなくなる。
月子は、その理由にうすうす感づいているのだ。

そして・・・。

あいかわらずの九州にあるであろうと思わせる、古いしきたりが残る村と、都会からやってきた親子という対比で、伝奇的・幻想的な物語を見せてくれる。

父を亡くし、より強く母を想う息子・透を中心に、暗く、切ない物語が展開していく。

息子・透は、あまり話をしない。いつも紙製のトランシーバーで誰かと話している。彼は、常に戦いの中にあり、彼の兵隊たちと連絡を取り合っているのだ。

透の兵隊好きは、男の子だからというよりは、父親が自衛隊員だったというところから来ているのではないだろうか。
兵隊ごっこを通じて、父親の影を確認しているのだろう。
また、「母を守る」ということも兵隊としての姿に結びつくのであろう。
そして、彼は、彼の兵隊たちとずっと戦ってきたのだ。

透の兵隊ごっこは、厠を大切にする村に訪れたときに変容を始める。
誰が教えたわけでもなく、村の「地場」のようなものに触れて、透の兵隊たちは、
くみ取り屋たちと一体になっていく。
バキュームカーが黄土色の戦車になり、くみ取り屋たちが兵士に変わる。

この展開は、わかりやすい。
月子は、夫を亡くしてから苦労が絶えなかったのだろう。そのため自分たちは「排泄物のような存在だ」と口癖のように言う。
透は、母のその言葉を聞いて育っていたために、排泄物に対しての親近感のような、なんとも言えないものがあったのだろう。

そこに、厠を大切にする村が現れたのだ。
だから、透にとっては、排泄物=自分たちを守ってくれる場所だと直感的に感じたのではないだろうか。
しかも、都会にはないくみ取り式の厠だから、排泄物は身近にあるし、なによりもそれが素晴らしい肥料になるということだから、透にとっては、素晴らしい場所に違いない。
だから、透は素晴らしい肥料を作るため、せっせと厠からくみ取り、大きな肥だめに持っていく。
透にとって、それはとても意味があることで、知らず知らずにうちに自分の境遇を重ね合わせているのだ。

そして、問題は、母に近づく男たちである。
透は、それらと戦ってきた。
つまり、透は、彼らを自らの手で排除していく。
母もそれにはうすうす感づいている。
息子から離れられない母としては、そこには深く立ち入ることができない。

ラストがあまりにも切ない。
月子に与市の子ども、つまり透に弟ができたことで、透は、自分の子ども時代の終焉を悟る。
そして、さらに彼の中にあった「正義」が揺らいでいくのだ。
与市は、命を取り止め、透は彼の兵隊とともに母のもとを去る。
それしか道はない。

母は透をつなぎ留めるために「大きくなったらお母さんと結婚するんじゃなかったの」と問いかけるが、透は「そんな子どもっぽいこと」と言い放つ。
子どもは大人になり、母のもとから旅立つのだ。

彼の周りにはまだ「敵」はいる。
彼の中の「正義」の落としどころを求めて、透は彼の兵隊とともにそれと戦いに行くのだ。


舞台は、隅から隅まで神経が行き渡り、隙はまったくない。
役者の顔がいい、目がいい。
そういう熱量が、観客を舞台に引きつける。

くみ取り屋の頭、山嵐を演じた椎名りおさんが、とても活き活きしていた。前に広がるような台詞回しがよく、とても存在が大きく見えた。また、死に場所を探しているやくざを演じた深津紀暁さんも、ちょっと臭いぐらいの演技だったが、印象に残った。透役の鳥山茜さんも切なさ満開で、物語を見事に見せてくれた。

もちろん、他の役者も言うことなし。
「便所ニ兵隊サンガ、ムッチャオルトヤデェ」とフライヤーにある台詞を2回も言った外山博美さんは、その台詞が気持ちよかったんではないかなぁ、なんて思ったりもした。

劇中歌も好きだ。冒頭の歌で、まだ物語がまったくわからないのに、じんわり来てしまった。

桟敷童子は大好きだ。早くも次回の公演が楽しみになってきた。

あ、そうそう、いつも客入れのときにこれから公演に登場する役者さんたちが揃ってお出迎えしてくれるのも、観客としてとてもうれしい。
PerformenⅤ~Purgatorio~

PerformenⅤ~Purgatorio~

電動夏子安置システム

ザ・ポケット(東京都)

2010/04/21 (水) ~ 2010/04/25 (日)公演終了

満足度★★★★

【F】ひじょーに濃厚で構成が見事
構成が巧みで出演者たちの複雑な動きと、複雑に絡む台詞がある舞台を見事に見せていた。
完成度の高い舞台。
練習相当積んでるんだろうな、と感じた。

ネタバレBOX

説明にある、妙に理屈ぽい本編とも言える、背骨にあたるストーリーを、いくつかのエピソードにより、肉付けしていくという構成。
この説明の濃さは、舞台の濃さにつながっていると感じた。

とにかく、役者たちのフォーメーションが素晴らしい。出入りや立ち位置などはもちろん、台詞のタイミングや速度、ニュアンスなども見事にコントロールされており、エピソードごとに違う役を演じなければならないという非常に高度で複雑な要求をどの役者も見事にこなしていた。

しかも、登場人物も役者の数も相当なものなのに、である。
これは凄いとしかいいようがない。

各エピソードもなかなか面白く、笑いがよく起こっていた。
全編笑いのあるエピソードで、きちんと笑いをとるというところも素晴らしい。しかも本題のテーマにきちんと沿っている上に、本題をきちんと肉付けしているのだから。これはなかなかできるものではないだろう。

本編のストーリーは、各エピソードとのギャップがあったので、演じるほうとしては大変だったのではないかと思う。
ただし、そのストーリーは大仰な割には意外に普通で、人間、神、運命、操り人形と、キーワードを書いてつなげればなんとなく見えてくる。

ひょっとしたら、この大仰さこそ、実は各エピソードよりも、大きなギャグではなかったのだろうかと思ったりもした。
だって、本編の登場人物の名前は横文字のカタカナ名で、錬金術師なんていう人が出てくるのに、各エピソードはすべて日本の話で、会社なんかが出てきたりするのだから
いや、ギャグじゃなくて、本気なのかな? うーん。

本編の主人公は、名前を名乗らない少年かと思えば、途中から娘が出てきて、どちらなのかと微妙な力関係になっていた。
本編の実際の時間はそれほどないのだから、それはどちらかにうまく集約させるか、2者をきちんと対比させてほしかった。
娘が「個人」ならば、少年は「人間」とか、陰と陽とか。

とにかく本編も各エピソードも濃厚な内容で、いささかくどすぎると感じてしまったこともあり、「長いな〜」というのが感想でもある。
しかし、飽きてしまった、などということはなかった。
テンポよく見せてくれたし、面白かったので。

ホチキスからの客演の小玉さんが、あまり濃く見えず、しっくりとはまっていたのが、ここの劇団の濃さを物語っていた(笑)ように思える。
白い病気

白い病気

劇団テアトル・エコー

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2010/04/14 (水) ~ 2010/04/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

さすがテアトル・エコー! 面白い!
チェコのカレル・チャペックの戯曲を、見事に音楽劇として上演した。

冒頭から笑みがこぼれてしまうような、とにかく楽しさ溢れる舞台だ。

ネタバレBOX

物語は、独裁者が治める国が舞台。
全世界には、全身を腐らせ、わずか6週間で確実に死に至らしめる恐ろしい「白疫病」が蔓延している。
その病は、中年以上でないと罹患しない。さらに、治療の方法が見つからない。人々はどんどん倒れていく。
ある日、国立病院にガレーンという町医者が現れ、治療薬を開発したと告げる。院長は半信半疑であったが、実際に試してみると病気は治癒していく。
これで患者が救えると思ったのだが、ガレーンはその薬の中身を教える代わりの条件を提示する。
それは、なんと、戦争を放棄し平和を選ぶ国には治療をするが、そうでない国にはしないというものだった。

一方、兵器産業に勤めていて、今回の白疫病で同期がすべて亡くなったことで父親が出世をした一家がある。2人の子どもは職についていない。長男はもう少し待てば、白疫病にかかった老人たちがいなくなるので就職できるのではないかと思っていたりする。ところが、その家の母親が白疫病にかかってしまう。
治療のためにガレーン医師のもとに訪れるのだが、彼は「その仕事(兵器産業)を辞めなければ治療しない」と言う。父親はせっかく昇進したばかりなのでガレーンの条件をのむことができず病院を去っていく。

また、独裁者の元帥は、各国が平和条約を結ぼうとしている今こそが好機であるとして、防衛の名の下に隣国に攻め込むことを決定した。
そのため、独裁者の唯一の友人でもある兵器産業の社長に武器の増産を依頼する。

白疫病はさらに猛威をふるうのだが、ガレーン医師の薬が手に入らないことから、病気にかかった者は収容所に送られることになった。

ところが、兵器産業の社長もついに病にかかってしまう。
どんなにお金を積んでもガレーンは兵器を作ることをやめなければ治療をしないと言う。落胆した社長は自らの命を絶ってしまう。

ついに隣国の陰謀をでっち上げ、戦争を起こす。
民衆はそれを熱狂的に支持する。
それは、白疫病は年寄りだけがかかる病気なので、若者たちは関心が薄く、老人たちの「平和、平和」と叫ぶ声には逆に反発を覚えてしまったからだ。

そして・・・。
というストーリー。

チャペックはこの物語を1937年に書き上げたという。翌年の1938年には、ドイツはオーストリアを併合し、チェコのズデーデン地方を獲得した時期であり、劇中の独裁者はヒトラーをイメージしたことは容易に想像がつく。
「平和」「戦争のない世界」への希求は切実なものであっただろう。

ただし、そんな歴史的事実に裏打ちされながらも、まったく古びて見えない。
「今、この時代だから」なんてことをあえて言うまでもない。
古びて見えないのは、テーマだけでなく、脚色のうまさであり、この戯曲を音楽劇に仕立て上げたセンスの良さでもある。
音楽劇に仕立ててあったのだが、この舞台そのものを、ある劇団が演じている、というもうひとつの設定もある。

とてもブラックなコメディであり、ビターなラストがやってくるのだが、それを刺々しくしないために、音楽劇にし、さらに劇団が演じる物語という設定にしたのであろう。

役者が演奏をするという形式で、とにかく歌が楽しい。
それも単に楽しいだけではなく、「平和、平和」と民衆が歌うメロディと「戦争、戦争」と歌うメロディが一緒のようなピリッとした批評が込められていたりする。

また、冒頭に舞台の上には大砲と注射器が置かれているのだが、それがこの物語を象徴しており、そうしたセットも、衣装も素晴らしい。
平均年齢を高くしている、役者の方々の演技がいい。83歳(!)の熊倉一雄さんの声も張りがあり、健在だ。
パンフレットは処方箋薬局で渡される薬袋を模してあり、これもまたとても面白い。

サービス精神旺盛で、豊かで本当に楽しい舞台であった。さすが、テアトル・エコーと言いたい。

夏にも本公演があり、秋には「日本人のへそ」の上演も企画されている。井上さんの訃報を聞き、また観たいと思っていた方も多いのではないだろうか。偶然そうなったようだ。どちらも期待せずにはいられない。
武蔵小金井四谷怪談

武蔵小金井四谷怪談

青年団リンク 口語で古典

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/04/17 (土) ~ 2010/04/29 (木)公演終了

満足度★★★★★

面白い!
「武蔵小金井四谷怪談」「落語 男の旅 大阪編」の2本立て。
何も考えずにアハアハと笑った。

演劇的な、演劇でしかあり得ないような演出の面白さもある。
それをうまく盛り込んでも、観客に意識させないセンスの良さのようなものも感じた。

上演時間も手頃。

ネタバレBOX

「武蔵小金井四谷怪談」は、四谷怪談をどのように口語劇にするのか、という興味で観に行ったわけだが、そのストーリーというより、その内容を伝言ゲームのように伝えていった先に残った程度のあらすじを骨組みとして残して、あとは現代的とも、古典とも思えないような奇妙なストーリーに仕立てていた。

つまり、「四谷怪談」をやったわけではなく、あくまでも「武蔵小金井四谷怪談」なのである。
古典の「四谷怪談」という(文字の)アイコンのようなもを観客の脳裏にいったん置いての、巧妙な書き換えではないかと思う。
まあ、「四谷怪談にインスパイアされました」的な、というか、そんな感じ。
武蔵小金井というタイトルも東八道路という地名がちょっとだけ出てくるだけであまり関係ない。
これも単なるイメージのひとつであり、観客の頭へ放り込んでみただけのものであろう。

だから、舞台の後ろには、四谷怪談のあらすじが投影されるのだが、その文章を読みながらの答え合わせのような進行になると思っていたら、どんどんはぐらかされていく変な感覚の面白さがあった。
この人が伊右衛門で・・・なんて読み解いていくことが意味をなさなくなる。

また、おかしな動きや台詞があるのだが、それが実はということで、後半部分での見事な伏線となっており、丁寧に拾われていく様は愉快である

それがわかってくると、観客は、前半の台詞が繰り返されるのがわかっているだけに、そのオチとも言える台詞が待ち遠しくなってしまうのだ。じらし上手というか、待ちきれずに先に笑ってしまったりする観客もいたりする。


続く「落語 男の旅 大阪編」は、まず、「作・演出の岩井です」と名乗って山内健司さんが登場する。それが台詞であり、台詞の中の岩井さんと本人の山内さんが、山内さんの身体を借りて現れるというちょっとした面白さがある。

本作の成り立ちについての解説で、このまま漫談のように進行するのかと思えば、するりと芝居の中に入り込んでいく。
その様は、落語のマクラから本題に入るような巧みさがある。

登場人物が徐々に増えたりしながら、役者も増えていく。ところが、その役者の役が一定ではなく、あえて1人で何人かを演じ分けたり、あるいは逆に1人を2人で同時に演じたりするのだ。
男女の役者が出てくるのだが、男女の役をそれぞれが演じるわけでもなく、どちらもがどちらもを演じる。
また、年齢についても役者の年齢と登場人物の年齢は一致しない。
それがぐるぐる目まぐるしく入れ替わったりする。
そこに面白さが生まれる。

落語的でもあり、演劇的でもある。

それには特に意味はなさそうだが、役者がうまいので、面白さだけが醸し出されてくる。
テンポもいい。

ストーリーは、岩井さんの実話をもとに、大阪にある飛田新地という風俗街にでかけるという話なのだが、語り口の軽妙さだけで見せてしまう。
落語にありがちな、すぱっとしたオチがあるわけではないのだが、なんとも言えぬ、切なさが残る終わり方がなかなか面白い。
落語の良さをふんわりと漂わせながらの舞台であった。
「落語」という言葉を冠した意味はあった。

この「落語」という言葉をあえて入れたことで、「武蔵小金井四谷怪談」の「四谷怪談」と同様に、観客のイメージを方向付けたのだ。

そういう意味では、全体にかかっている「口語で古典」の「古典」というイメージも、多くの観客がそれを望んでやってくることを逆手にとっていて、そのギャップを演出して楽しませてくれたのだろう。
そのあたりはたぶん確信犯的であり、そこからが演劇の始まりということなのだろう。

ズレの面白さだ。「武蔵小金井・・」では古典の物語とのズレ、「落語・・」では、役者と登場人物とのズレ、そういう一見実験的でありながら、確実に「笑い」をとっていく見せ方にうまくはまってしまったわけだ。

普通に観れば、誰が誰なのかわからなくなったりするはずの、違和感だらけの内容なのだが、それを感じさせず、まるで単なる面白い話として見せてしまう演出の巧みさと、役者のうまさが結実した作品であったと思う。
博覧會

博覧會

パルコ・プロデュース

東京グローブ座(東京都)

2010/04/08 (木) ~ 2010/04/21 (水)公演終了

満足度★★★

芸達者たちが繰り広げる人情劇
とにかく役者がすべてうまい。
きちんとしていて、わかりやすい。

ただし、物語にやや盛り上がりが欠けていた。

ネタバレBOX

戦中の台湾が舞台。

踊り子と役者の子どもとして生まれ、今は質屋の後添えとなった娘(星野真里)が、父(篠井英介)のいる台湾へやって来る。

父の劇団は一時解散の憂き目を見たが、台湾で開催される博覧会で中国人や台湾人ともに舞台を行うというプロジェクトで、少人数の劇団員とともに台湾に留まっている。
しかし、その計画はなかなか前に進まない。

劇団員たちは焦り、座長である父親は、女形なので、台湾の役人たちのお座敷に出てプロジェクトの進行を促すために毎日を送っている。

台湾にやってきた娘は、実は嫁ぎ先からお金を持って飛び出してきたのだ。
劇団にいる若い役者(荒川良々)とかつて恋仲にあり、彼を慕ってやってきたのだった。

そんなストーリーだ。

ベタな人情劇であり、とにかく役者がすべてうまい。
うまいと言っても、激しく火花を散らした対決姿勢ということではなく、組み合わせというか、絡み方が絶妙なのだ。
篠井英介さんの女形の所作も美しいし、他の役者が演じる劇中劇の動きも巧み。

そして、演出も細やかで、隙も無駄もまったくなく、よく練られているなあという感想だ。

ただし、ストーリーが弱い。
盛り上がりにやや欠ける。

もちろん大げさな話を望んでいるわけではないのだが、もっと感情を揺さぶられたかったというのが本音だ。

また、戦中の台湾がどんな様子だったのかはわからないが、それがうかがえるようなものもほしかった。説明台詞にはあったのだが、物語との関係などでもそれを見せてほしかった。

荒川良々さんが演じる若い役者が、物語の中心なのだが、そこが立ち上がってこなかったというのが、もうひとつ盛りあがらなかった原因ではなかったのだろうか。
『ハチクロニクル』 (公演終了)

『ハチクロニクル』 (公演終了)

劇団鋼鉄村松

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2010/04/16 (金) ~ 2010/04/18 (日)公演終了

満足度★★★★

凄いよ、これ!
と、大声ではまだ言えないけど。

冒頭では笑うつもりで観客として待機していたのに、笑うというより驚いた。
ただ、驚いた。笑いはそれほどではなかったけど。
見終わってからちょっと興奮した。

初めて観る劇団だけど、こんな内容だとは思ってもみなかった。
ひょっとしたら凄い金脈に当たったのかもとか思ったりして。

だけど、観客をもっと楽しませてくれよ、とも思ったのだ。

ネタバレBOX

数学者ダン池田は、自分の分身でもある犬と猫と対話をしながら暮らしていた。ある日、彼は1年ぶりに窓の外を見ると観覧車が回っていたことに気づく。そしてノスタルジー。
観覧車から「ハチクロ」(マンガ「ハチミツとクローバー)に想いが巡る。

ダン池田は犬との対話から、ハチクロが紀元前から存在していたという仮説を立てる。観覧車を発明したダビンチもハチクロを読んでいたなどという仮説が積み重なる中で、世界史の教諭である友人の吉村が現れる。
池田も吉村もハチクロに対する想いはとても強い。

ダン池田は、すでに自身で発見した具体的な事象に関する数式から、ハチクロを表せる数式を考えることになっていく。

そこにいろいろな分野の学者たちや11浪中のバグちゃんが絡んでくる、というストーリー。

かつて少女漫画にあこがれていた少女たちのように、池田と吉村は、ハチクロに理想を見ている。それは、「片思い」という体の良いカタチをした彼らの逃げ道でもあったのだ。

自分たちでさえ解けない自分たちの状態をハチクロの本質を数式で求めることで、なんとかつかもうとしているのだろう。

それは、現代というのは、ニュートンが万有引力を発見したように、つまり、1つの事象をシンプルに1つの理論で論じたような世界は、すでにない時代であり、それは、例えば、現代の科学がいにしえの基本理論がたどる道筋の中の「闇」の部分をクローズアップしていくようにしか、とらえることができないということに近しい時代ということなのだ。

ハチクロに「解答」があると思っている池田たちは、つまり、そうした「闇」に何かを見いだそうとしているのだ。というより、見いだすことしかできないでいる。

それは、11浪中のバグちゃんも同じだ。彼女は「解答が多すぎる」と嘆いている。

数学と恋愛と物事の真理のようなことを、オフビートなドタバタでつないでいく。

なんというか、その中を理系の台詞が詩のように流れていく。
細かい部分でかなり気が利いているし、言葉の中の仕掛けも、そこここにある。ブービートラップのようにある。
饒舌な台詞の数々。センスがいい。
舞台が始まってから、一言も聞き逃さないと身構えた。
・・・あまりにも情報量が多すぎて、入ってきてもボロボロとこぼれ落ちるばかりだったけど。

主人公のダン池田役のムラマツベスさんが凄い。犬役の村松かずおさんの間がいい。他の出演者もなかなか。
全編オフビートなのに疾走感すら感じてしまう。
歌っても踊ってもオフビート。

無意味で悪夢な展開も素晴らしい。

特に説明らしき説明もないまま、ダン池田の部屋だかどこかだかで繰り広げられ、入り乱れる人々。
相当集中して観ていた。1時間50分ぐらいの上映時間は気にならなかった。
・・・が、やっぱり長い。情報量が多すぎだから疲れる。けど、いい。

ただ、演じることで一杯一杯なのか、あるいは内容が盛りだくさんすぎるのか、観客に対するサービス的なものが今一歩足りないような気がした。
つまり、「もっと観客を楽しませてくれよ」ということだ。
ここが面白いというところをうまくクローズアップしてほしかった。
それは山場ともいうし、盛り上がりともいう。
意外と平板に進行しているような気もしたから。

劇団内で閉じられてしまっている感覚。
それは、今回の舞台の内容とリンクしていると言えば、そうとも言えるのだが、それを意図しているとは思えないからだ。

たぶん、ハチクロを読んだことのある人は、その閉じた空間を突破するためのカギを手に入れていたのだと思うが、そうでない観客にもそのカギのありかぐらいは示してほしいと思うのだ。

今回の舞台は、この劇団の本来の姿なのだろうか。どうもフライヤーのイメージとちょっと異なっている。前回のフライヤーも見たが、そちらはヒーローものなのかと思ったりしたり、今回は、ファンタジー的なものかと思ったりした。なんか、そこに鋼鉄のような質感がありーの、で。

21世紀型の不条理劇?
洗濯機と天動説のあたりや過去への邂逅などのスムーズな展開に、演劇的なセンスを感じた。
ラモーンズのように、メンバーが村松(ムラマツ)を名乗っているのも好ましい。

なんていうか、スコップで掘っていたら、金脈にぶつかった感触がしたというか、そんな感じ。ただし、感触がしただけで、金脈自体はまだこの目で確認したわけではない状態なので、実は、大声で「これ凄い」とは言えないのだ。

だから、次回も都合さえ合えば見に行きたいと思った。演劇的な金脈が発見できるかもしれないから。


でも、ハチクロ読んでないんだけどね。
紙風船、芋虫、かみふうせん❤

紙風船、芋虫、かみふうせん❤

オクムラ宅

TARA(東京都)

2010/04/10 (土) ~ 2010/04/18 (日)公演終了

満足度★★★

とても良くできた愛すべき小品たち
ちょっと大げさに言えば、演出の奥村さんが持つ世界観や生き方のようなものが、ギュッと込められていたようで、そこに好感が持てた。

そして、今回の会場のサイズが、いい効果を生んでいた。

ただ、それぞれの作品については、気になるところがあり、それがひっかかってしまった。

ネタバレBOX

「紙風船」
夫婦の日常の会話から、夫婦の姿が浮かび、それが「紙風船」へと収斂されていく物語はあまりにも美しいと感じた。さすが岸田國士! と思わずにはいられなかった。
演ずる2人の俳優も、それぞれの内面にある気持ちを覆い隠しながら、制御された演技はなかなかだと思ったが、新婚1年目、日曜の午後の空気感までは漂わせるところまではいかなかったと感じた。
それがあれば、完璧だったと思う。
それがうまく表せなかったのはなぜだろうと思ったら、ラストの1本「かみふうせん」を観て、「あ、これか」と思い当たった。
このラストに控えている1本のテンションが、俳優の中に待機していたのではなかったのだろうか。深読みすぎかもしれないが。

「芋虫」
江戸川乱歩の「芋虫」は、とても辛い作品だ。それにインスパイアされたこの奥村さんの「芋虫」は、戦争によって変わり果ててしまった夫とその妻という関係性と、妻の心の闇という要素を踏襲して作り上げられていた。
この作品では、戦場で手足を失い「芋虫」のようになった乱歩の作品とは異なり、「着ぐるみの熊」という姿になってしまった夫が戦場から戻ってくる。
「芋虫」と表現される姿に比べて「着ぐるみの熊」は、一見楽しげだが、実は辛い。
くりくり目玉とほほえんでい熊の顔を見ていると最初は、笑みがこぼれるのだが、段々笑えなくなってくる。
ちょっと大げさな着ぐるみの動き見せれば見せるだけ哀しいのだ。
この設定のうまさにき舌を巻いた。
乱歩は、妻の闇を夫への虐待で描いたが、奥村さんは、妻が自らの心の中に閉じ込めていったようだ。
夫も自らに閉じていく。
ただ、この作品の中に、あえて放り込んだコメディ的な要素が気になってしまった。それは、酒屋のサブと下着のくだり、それに食事のときの醤油だ。ちょっとした笑いが起きるのだが、これは不要だったのではないだろうか。
淡々とする世界に、着ぐるみの違和感だけで成立したと思うので、この箇所が喉に刺さった小骨のように気になってしまった。

・・・観客にツボにはまったのか笑いが止まらない人がいた。人それぞれだが、そこまで笑うか? と思ってしまった。小さい会場だったのでいやでも見えてしまうのだ。

「かみふうせん」
驚いた。最初の1本とまったく台詞は変えず、現代の若夫婦の会話として演出されていた。
見事だ。
演じる2人も活き活きしていた。
「紙風船」の妻の気持ちを、ストレートに表現していたように感じたし、夫婦の本来の関係も露わになったように思えた。
途中の段ボールを使った演出も見事で、この緩急が素晴らしいと思った。
が、ラストがいただけない。

なぜこんな幕切れにしたのだろうか。
この作品のテンション的な納め方の方法として、あるいは、ちよっと衝撃のあるオチにしたかったのだろうか。どうもこの展開だけは信じられない。残念な気持ちで一杯になった。
そこまでの空気でこうなるのか? と思わざるを得ないのだ。
この夫婦の関係は、会話から観ても結婚前からこうであっただろうに。
これさえなければ、何も言うことはなかったのだが。

3つの作品を通して語られるのは、夫婦の関係だ。阿吽の呼吸を大切にしたいという様は、実に日本人的とも言えるし、結局のところ、昔も今も夫婦は他人であって、結婚したときから家族になることで、言葉にしなくても通じ合えるという幻想を抱いていることが根底にある。

3本ともに「きちんとした会話」(コミュニケーション)が、そこにあったのならば、何事も起こらない話だったと思う。

そして、言葉のやりとりがあり、一見通じ合っているように見える「ディス・コミュケーション」の姿が奥村さんの考える夫婦の姿なのだろう。自らの心の中を広げて見せたような感じさえある。

実際は言葉による対話もほとんどないのが、新婚とは呼べなくなった「できあがった夫婦」(笑)の姿なのだか(それも幻想かもしれないが)。

細かいことだが、作品の根幹をなすものだと思ったので、評価は厳しいものになったと思う。
ただし、奥村さんの作り上げる世界には共感が持てたので、今後どのような世界を見せてもらえるのかは興味がわいた。
今後も注目したいと思うのだ。
無頼の女房

無頼の女房

劇団東京ヴォードヴィルショー

紀伊國屋ホール(東京都)

2010/04/03 (土) ~ 2010/04/11 (日)公演終了

満足度★★★

熱い舞台だが・・・。
坂口安吾をモチーフにしたらしき無頼派作家の塚口圭吾(佐藤B作)とその妻(あめくみちこ)の物語。
なのだが、周辺のエピソードが盛りだくさんで、タイトルにある「無頼の女房」にはフォーカスが絞り切れていなかったように感じた。

ただし、舞台の上の熱演は観客席にも伝わってきて、約2時間の上演時間であったが、集中して観ることができた。

ネタバレBOX

無頼派の作家、塚口圭吾は、睡眠薬と覚醒剤、さらに飲酒で身体を壊しつつある。
彼の自宅には常に編集者がたむろし、原稿を待っている。
彼は、その編集者を伴って飲み歩いたり、2階から飛び降りるという奇行を繰り返している。
彼には、妻と呼べる女がいる。彼女は塚口の作家としての能力に惚れている。

塚口の友人である作家の谷、お手伝いとその夫、太宰治を模したであろう豊臣治(やはり無頼派の織田の名前にかけたネーミングか?)という、塚口と同じ無頼派の作家、塚口の恋人の妹などが彼の周りで様々な騒動を引き起こす。

そんな中で、塚口は妻が妊娠したことを告げられる。

浮き足立つような、舞台全体を覆うテンションの高さがあった。それは塚口圭吾の常に躁状態のようなテンションが全体を引っ張っているようだった。
それには悪い印象はないが、やや一本調子に感じてしまうのも否めない。

熱い舞台であったが、これを東京ヴォードヴィルショーの舞台として観たときに、私としては、もっと「人」への深みがほしいと感じた。さらに「笑い」ももっとほしいと感じたのだ。
ユーモアの中の人間の哀しさとか、暖かさみたいなものを、東京ヴォードヴィルショーには期待しているからだ。
道学先生ではどのように上演されたのだろうか。

大勢の登場人物がいて、キャラクターの明確さで、それぞれのアウトラインがくっきりしていたが、中心となる登場人物の内面までは、あまり掘り下げられることはなかったように思えた。

みんな味があって、いいんだけどね。

例えば、塚口の遠い親戚である大橋は、物語の本筋にはあまり絡んでこないのだが、彼の内面には何か陰があるように感じた(兵隊に行かなかったエピソードが噂として語られるのだが)。ラストで塚口のもとを去るということが唐突に告げられるのみなので、観ている側としては消化不良である。

また、塚口本人にしても、奇行で無頼派の体面を無理して保っているように見えるのだが、その内面にもあまり踏み込んでいかないのだ。

一番気になるのは、タイトルにもなっている『無頼の女房』である、その無頼の女房、塚口の妻の、心の動きのようなものがつかみきれないのだ。
中盤のいろいろなエピソードのときに、妻はとくに役割を果たさないので、その間がないこともあろう。
この描き方によって、中盤からラストにかけては、もっとぐっときたりしたのではなかったのだろうか。

さらにラストだが、唐突にくる破滅はいいのだが、やはり、このストーリー展開ではこれしか締め方がなかったのだろう。
そういう意味では、それを裏切るようなラストがほしかったと思う。

妻と塚口の関係を鮮やかに見せていなかっただけに、単なる子煩悩となった塚口の印象を残しただけのラストへの引き際にしか見えなかったのは残念であった。
感情の緩急が後半にはややあるものの、全体的にあまりうまく醸し出されてなかったということだろうか。

とはいうものの、登場人物たちのテンションの高さに嫌悪感はなく、逆に役者たちの熱さで、面白く観ることができたのは確かだ。

☆は、大好きな東京ヴォードヴィルショーに期待したものとのギャップがあったので、やや辛めになった。
GENJI

GENJI

名取事務所

あうるすぽっと(東京都)

2010/04/06 (火) ~ 2010/04/07 (水)公演終了

満足度★★★

様々な分野からの融合は実験的
能からは津村禮次郎氏、コンポラリーダンスからは近藤良平氏、日本舞踊からは坂東扇菊氏、音楽では、能管のと松田弘之氏、チェロの四家卯大氏に、天台声明の海老原廣伸氏ほか4名という、様々な分野からの一流どころを集めての、源氏物語「葵の上」だった。

この想像もつかない組み合わせから、どのような化学反応が起こるのか興味津々ではあったが、残念ながら、実験の域を出ず、というところであったように感じた

ネタバレBOX

舞台はシンプル。幕開きと同時に舞台にある2本のろうそくに火が点される。上手に能管、下手にチェロを配し、やや下手後方には幕があるのみ。
この装置の位置関係は、なんだかバランスが悪く感じた。
このバランスの悪さは、声明を唱う僧侶5名の登場で、払拭されるのだが、それまでも簡単な装置だけなので、それを動かすなどをして、常に良いバランスにしておいたほうがよかったのではないかと思った。

内容は、能楽師の方がいらっしゃるので、能の「葵の上」と同じ進行ではないかと思っていたが、冒頭に葵の上らしき女性の登場で、そうではないことがわかる。

ダンスと能と舞踊が同じに同じ舞台で繰り広げられるのだが、これについてはさほど違和感はない。ややコンテンポラリーダンスからの歩み寄りがあったように見受けられたが。台詞は一切ない。
さすがにどの方の動きもキレがあり、見事だった。中でも能の津村氏の動きは、とても美しいものであった。

能管とチェロの演奏も違和感がなく、さらに声明を唱う5名の僧侶の登場で、舞台はふくよかになっていく印象がある。
音が重なるところに美しさがあった。

しかし、ストーリーを追っていくと、光源氏と葵の上の関係、六条御息所の登場と退散、葵の上が亡くなるというあらすじだけが示され、例えば、六条御息所の生き霊がどのように退散するのかなどのエピソードがまったくなかったように思えた。

したがって、1時間という短い上演時間だったのだが、同じことが延々と行われているように見えてしまい、やや薄まった「葵の上」という印象を受けてしまった。

そこがとても残念だった。

また、近藤氏には、もっとダイナミックさがほしかったように思う。
もちろん、能や日本舞踊とのバランスもあったのだろうが。

不思議だったのは、この組み合わせということで、六条御息所が声明の中で退散すると思っていたのだが、声明と一緒に現れたことだ。楽曲であっても経文を読んでいると思うので、生き霊とは相容れないのではないかと思ったからだ。

六条御息所が退散した後に、面が舞台後方に吊されるのだが、すべてが終わったはずなのに、それだけがずっとそこにあるのは、ちょっとしたホラーのような印象もあった。
モグラの性態

モグラの性態

ぬいぐるみハンター

参宮橋TRANCE MISSION(東京都)

2010/03/25 (木) ~ 2010/03/31 (水)公演終了

満足度★★★★

お下品で、中身はないけど、面白い
お行儀が悪そうだけど、意外(失礼!)と会話劇としての成立具合は、なかなかのものだと思った。
残念ながら、その会話が示す内容(物語)はほとんどないのだが、会話のやりとりだけでもそれなりに面白いのだ。笑いはしないれけど。

若くっていいじゃん、という感じもある。
なんかみんな、キューティクルがきれいで、髪の毛が光ってるなあ、と思いながら観てたりして(笑)。

ネタバレBOX

オープニングにはちょっと驚いたが、お下品さはあるものの、「お」が付く程度の下品さで、それに関してはキツクはなかった。
ま、適度というところか。

それにしても、やっぱり若い男子が集まるとドーテーものになっちゃうのかな。言い訳じみたドーテーというのも、今までもずいぶん観てきたので、新鮮みはない。新しい見せ方をしてくれるわけでもないし。作者からすれば、たぶんリアルなんだろうけど。

それはそうとして、物語の中心となる4人組の会話のテンポとぐだぐだ感が素敵だ。ウマイ、驚いた。しかも、14時の回で役者が1人病気(怪我?)で離脱して、急遽、作演の池亀三太さんが加わったと聞いてさらに驚いた。欠けてしまったピースに見事にはまっていた。
他の役者さんたちも、それぞれに存在感をしっかり示していて、絡みもうまいなぁと。
ちょっと引くぐらいの存在感を示していたボス役の立木雄一郎さんと、鮫島役の橋本仁さんの圧力の強さは両者ともに捨てがたいものがあった。そんな彼ら2人の直接対決がなかったのは、うまい演出だったのかもしれない。また、モグラ等を演じていた神戸アキコさんの独特の立ち位置というか、オーラは捨てがたい。さらに、濃い登場人物の中にあって、1人違う姿を終始見せていた清水役の藤吉みわさんは、逆に印象に残った。

ただ、物語としては、特に何もない。
お話のためのお話というところで、深みがあるわけでもないし、スピード感みたいなものがあるわけではない(ロックな音楽でスピード感を煽っていたが)。

どうやらスピード感や勢いで見せるというより、台詞のやりとりで見せる舞台がここの持ち味のようだ。

だから、内容はないけど、台詞が結構面白い。
言葉をうまく操っていると思う。
それが、トゥマッチなところもあるのだが、観るほうが若かったり、体力があったり、体調が良かったりすれば大丈夫だ。
90分だし。

どーでもいいような細かい設定や、台詞の中には、面白いところもあるのだけれど、「笑い(声を立てて笑う)」には結びつかないので、もし、笑わせる気持ちがあるのならば、笑わせるための間とか、なんかそんな要素が必要なのだろうから、それを手にしてほしいと思うのだ。

4人の男子が中心に据えられているのだが、実質的な主人公が不在というのが、全体をぼんやりさせているのではないのだろうか。
最初は、モグラと交流したり、清水さんとの衝撃シーンがあったりというこで、フラワーが主人公かと思えば、徐々にその存在が薄れていってしまうのだ。
やはり、誰かが軸になっていかないと、観客が物語に入るための入り口を見失ってしまうのではないだろろうか。

また、新型エイズという設定はいかがなものか、と思った。そこに毒が込められているわけではなく、リアル感を求めているわけでもなさそう。あまり深く考えての設定とは思えず、だったら、未知の病気でもよかった気がする。

そういえば、モグラは、奇妙で面白いのだが、意味がイマイチわからない。主人公たち4人の男子の生態を示しているのだろうけど(モグラはメスだけど)。

しかし、登場人物がすべて一見濃そうなのだが、実はそうでもなく、それぞれの集団ごとに軸となる濃いキャラがいて、それが中心になっている設定にしているのは、なかなかなものだと思った。

どーでもいいようなところの盛り込み具合とか、いいところがたくさんありそうな雰囲気なので、何か具体的な武器を手にしたら、たぶんもっともっと面白くなっていきそうな予感がする劇団だ。
なんか頭の中だけで考えたような内容なので、できれば、その閉じられた発想の殻を破るようなはじけ方なんかを手にしてほしいものだ。
演出のドタバタ感はあるものの、全体的には、何かセンスのようなものも感じたし。
POPさの片鱗のようなものも垣間見られたような気がしたし。

とういうことで、私は結構気に入った。
なんで、☆はおまけだな、おまけ。

そうそう、モグラ生態ならぬ性態なんだな。
で、次回も『お肉体関係』なんていうタイトルからして「お下品」そうで期待が持てる・・・かもしれないし、持てないかもしれない(笑)。
罪~ある温泉旅館の一夜~【作・演出 蓬莱竜太】

罪~ある温泉旅館の一夜~【作・演出 蓬莱竜太】

アル☆カンパニー

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2010/03/26 (金) ~ 2010/03/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

「家族だから」
いったん舞台が始まると目を奪われ、意識までも吸い込まれていきそうなぐらい。

台詞と間が、あまりにも巧み。すべの役者がうまい(あたりまえだけど)。
そして、演出にも無駄がまったくない。

わずか75分なのに濃厚。

ネタバレBOX

温泉旅館の一室が舞台。
定年を控える夫婦と成人した男女2人子どもの、1組の家族が訪れる。

長男は、子どもの頃、高熱のために脳にハンディを背負ってしまっている。長女は結婚を控えている。
家族旅行には慣れておらず、子ども2人も成人となっているので、どことなく収まりが悪くぎこちない。
長女は仕事だと言い、携帯を手放さない。
父親はせっかくの温泉なんだからと、みんなで楽しく過ごしたい。

そんな中、長女が結婚しないと言い出す。
そこから家族の姿が徐々に露わになっていく。胸にある言葉が、幻のような土砂降りの音の中で吐き出されていく。

当日もらった二つ折りパンフには、家族の記念写真の上に、大きく「罪」と書いてある文字が、牢獄の鉄格子のように重ねてあるが、この舞台の内容を的確に表している。
舞台を見終わった後にじっくり見ると、家族の笑顔と罪の文字が重さを増す。

長男がハンディを背負ってしまったこと、そして彼を支えてきたこと、さらにこれからの支えていかなければならないことが、それぞれの「重荷」になっているのだが、彼らは「幸せな家族」なので、口に出すことができなかった。

慣れない温泉旅行という場所で、日常から気分が解き放たれたことにより、ホンネが顔を覗かせるのだ。
家族の胸の中で一杯一杯になっている気持ちが、娘の一言で、堤防が決壊するように溢れ出してくる。

長男の感情の起伏の激しさや過剰な反応、逆に周囲の様子を感じない鼻歌や振る舞いが、家族の気持ちに強くぶつかっていく様がなんともキツイ。

長男のハンディは、母親にあるのだと、本当は思っている父。しかし、母親のせいではないと口では言う。
母親は、自分のせいではないと思っていてもそれを長い時間をかけて乗り越えなくてはならなかった。しかし、本音では父親にもその責任はあると思っている。というより、そう思うことで、自分が乗り越えなければならないモノを軽くしたいという気持ちもあるのだ。
ところが、父親はそのことにはまったく責任を感じていない。無頓着というより、目をつぶってきたのかもしれない。
表面的には「いい家族」だったのに、実は心の中では相手に「罪」があると思っていたのだ。

娘は、自分が嫁いでいくことに不安がある。それは家族のことがあるからだ。両親は、娘が家族に不安をいつも投げかけていたのだと本音を語る。娘は、それがあるから家族が家族でいられたのだと主張する。この台詞はとてもよかった。
息子は自分のせいで、妹が結婚をあきらめたと思っている。家族は、彼を守ることで「家族」を危ういながらも成立させていた。

この家族の状況は、誰に原因があるのかが、家族の中で「黒い影」を落とす。
長男が高熱を出した日は、土砂降りだった。
それと同じような土砂降りが、温泉旅館を包むときに、家族の本音が語られる。当事者以外にはなぜか聞こえない。

この家族には、ハンディを抱えた息子がいるという状況があるのだが、どの家族にも同様に、家族だからこそのドロドロした感情や、家族だから逆に本音が言えないようなもどかしさもあるだろう。「家族だから」ですべて言い尽くされてしまう、あるいは覆い隠されてしまう(覆い隠してしまう)ような、曖昧さや広さや深さだ。

人間が人間同士つながるところには、必ずそうした「陰」が存在するのだけど、それから逃れる方法はある。例えば、会社の人間関係だったら会社を辞めればいい。
しかし、家族は、距離的に離れたとしても、たとえ死が介在したとしても絶対に逃れられない。それは「家族だから」だ。
だから、問題が起き、それが深く奥に潜り込んでいくのだ。

作者の蓬莱さんは、普遍的なそうした「陰」の部分にあえて光を当てて、観客に見せたのだろう。蓬莱さんの「家族」というものに対するネガティヴな想いが強く出ているように感じてしまった。

それは、一部共感できるが、全面的には共感できない。当然のことながら、家族の数だけ家族の形があり、人の数だけ家族の姿があるのだから。

もちろん、観客の誰にでも、「家族」という言葉によって覆い隠してきたような、思い当たるフシはあるだろう。
見終わってみると、その見たくもない陰の部分を探っている自分がいる。そういう意味ではキツイ舞台だったと思う。

ただ、ちょっと意地悪く言うと、単にマリッジブルーの娘の言葉に、家族を守ろうという意識が強い父親が、強く反応してしまったという図式の物語ともとれるのだが。

ハンディのある長男が、長女の結婚断念の言葉に反応して、「働きたい」と言うのだが、両親はそれを認めたくない。彼を庇いたいというよりは、両親のエゴが露呈したのかもしれない。労働によって得られる自尊心や愛のようなものがあるはずなのに。それをこの両親に伝えたい気持ちもわいてきた。

物語は、父親の「ごめんなさい」が「ありがとう」に変わるところから、ちょっとした兆しが見えてくる。

そして、象徴的な「黒い城」というパズル。
「黒が多いから難しい」そして「そこが面白い」という台詞が重なり、家族4人がパズルを囲んでそれぞれがピースを握り、作っていく様子で舞台は終わる。
「黒」(陰)の部分があるから家族は難しいけど、面白いというベタな比喩ととらえたが、吐き出した後は、すっきりしたという状態と、この家族のこれからがそこに込められていて、後味は悪くないと思った。

ときどき出てくる「温泉なのに(温泉に来たのに)」という台詞と、父親が言う「この旅行の目的は、お父さんお疲れ様でした、だ」という台詞には、緊張感のある舞台の中にあって、ふっと笑いが出た。

次回は、前田さんの作・演出である。これもいまから楽しみになった。
止まらずの国

止まらずの国

ガレキの太鼓

サンモールスタジオ(東京都)

2010/03/25 (木) ~ 2010/03/30 (火)公演終了

満足度★★★★★

会話もいいし物語も面白い、素晴らしい舞台
まず舞台にライトが点き、セットを目にして、とてもわくわくした。
サンモールスタジオで、これだけの本格的なセットは見たことなかったような気がする。

そして、そのセットで、わくわく感をまったく裏切らない物語と役者さんたちの演技と演出で、とても素晴らしい舞台が繰り広げられたのだ。

わずか100分なのに、この満足感。

ネタバレBOX

セットを見たときから、青年団の『冒険王』を彷彿とさせたのだが、その影かちらついたのは、ほんの最初のところだけだった。
あちらが、あるラインを越えてしまった人(大人というか)たちの普通の話であるとすれば、こちらは、ごくごく普通の人たちの話だ。

つまり、この物語に登場する旅人としての軸足が、なんとなく故郷の日本にある(正確には1人の日本人を除いて)ような、ふらつきのあるような、普通の人たちなのだ。迷いがあり、それが出てしまうところが普通なのだ。共感できるというか。
もちろんあちらの話の登場人物にも、心のふらつきはあるのだが。

あちらには達観したような、あきらめにも似た様子が、「うらやましさ」さえ醸し出していたが、こちらにはそれがない。もし自分がそういう旅に出たら、こっちの人たちのようになるのだろうなぁという共感がある。私はこんな旅に出ない人間なのだというような、とでも言うか、そんな共感。
ま、2つを比べてもしょうがないけど、ほら、設定が似てるから。

この物語は、どこかイスラム圏にある王国の安宿が舞台。
この安宿を出て学校に寝泊まりする女のために、最近旅を始めた男がお別れパーティをしようと考えている。
同じ部屋には、旅慣れた2人の男がいる。1人は、もはや日本を帰る場所とは思わない、旅行者の間で伝説となっている、すべてを達観したような男で、もう1人は、籍は入れてないものの、かつて旅行仲間だった女性が日本に出産のため帰国していて、そこへ自分も帰ろうとしている。

そんな中に、男女が案内されて来る。女は韓国人で、男は日本人。ふたりはカップルなのだが、男は、旅行に出たものの、自分には最後まで合わず、自分だけで何かを成し遂げられなかったことを悔やみ、結婚式に出席するという理由で帰国しようとしていて、もう旅には出ないだろうと思っている。
さらに、初めての海外旅行に来て、お金をだまし取られてしまい、困って安宿に転がり込んできた女がそこに加わる。

彼らの会話から、それぞれの状況が明らかになっていく。
そんな中、外の様子が急変する。戦車や兵士が現れ、宿の持ち主たちや2階の旅行者の姿が見えなくなる。さらに銃声、爆発音らしき音が聞こえ始め、それが近づいてくるのだ。彼らの不安と焦りが高まっていく・・・。

とにかく、物語の展開と、その語り口が巧妙だ、旅行初心者が2人というところがうまい。初心者という設定は、ともすると観客に舞台上の設定を説明するためだけの役割を与えられるのだが、その役割もありつつの、設定の違う男女2人なので、切り口が異なるのだ。
さらに彼らの呑気さと、不安が見事に他の登場人物を揺さぶっていく。

また、各登場人物の設定も巧みで、確かにちょっとできすぎのメンバー構成だけど、うまいと思う。そけぞれが物語を内包していて、それが会話でうまく表現されていく様もうまいと思うのだ。

驚いたのは、現地の男女の登場や韓国人の女性の登場だ。
カタコトの英語という設定もあるし、なにより、物語に広がりを与えていたような気がする。
彼らとの民族や国籍の違いによるギャップまで表現できていれば、最高だったのだが、そこまで盛り込むと逆に全体がぼけてしまったのかもしれない。

とにかく、どの登場人物のキャラクターがくっきりしていてわかりやすい。
しかも、どの役者もそのキャラクターをぶれずにきちんと表現していて、その人になりきっているように感じた。

特に、かおさん(鈴木智香子)の醸し出すベテランぶりのうまさには絶品であったし、見ているこちらがイライラしてしまうような、海外旅行が初めてのともか(通地優子)の存在は見事だと思った。
鈴木智香子さんはほかの舞台でも拝見したことがあったが、うま人だなあと改めて思った。

セットも小道具も凝っていて、言うことないし、スムーズに役者が動き(出入りし)、舞台を広く使い、奥行きや幅までも想像させるような演出も巧みだと思った。
さらに、物語が急展開していく中で、全員が一気に不安に陥るのではなく、それが徐々に伝播していき、その度合いの違いが表現されていく様は素晴らしい。

一体どうなるのか、と興味を引っ張っていく物語の展開と、それが行き着く先のラストもよかった。
・・・ちよっとした矛盾というかご都合主義はあるのだが、それには目をつぶろう(笑)。

本当に素晴らしい舞台だったと思う。
「ガレキの太鼓」は、私にとって、これから要チェックの劇団になった。




ちなみに私の『冒険王』の「観てきた」です。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=30362

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