満足度★★★★
好企画!
この企画3年ぶりとか。
そんなに期間が空いていた印象はなかった。
いろんな劇団や団体が短編を上演する企画は結構あるからかもしれない。
しかし、この企画はそういった中にあっても、レベルの高い好企画であると思う。
ネタバレBOX
全部見終わって思ったのは、「本気度が高い」ということがある。
15分だと一発ネタで笑わせておしまいというのが多そうだが、そうではない。
どの劇団も、この企画を軽く考えていないし、戦闘モードにあるな、と受け止めた。
それぞれの感想を以下に書く。
■Mrsfictions『ミセスフィクションズの祭りの準備』★★★★★
幼稚園で行われるお祭りの日に、かつてのいじめられっ子といじめっ子が、ダイナマイトを手に襲撃し自爆しようとするキツイ設定のストーリー。
当日パンフを後から見ると、それぞれの役名は実名を使っているのかと思っていたら、忌村、犯野となっていた。音で聞いたらわからないやつだった。
犯野を演じた岡野康弘さんは、ヒゲを含めてその風貌が地元のセンパイ風で、ナイス!
しかし、実は…という展開がいい。
今村圭佑さんの、ちょっと捻れたキャラも面白い。
大口開けて笑うというより、ヒリヒリするような笑いが支配する舞台だ。
オバQ音頭のタイミングもいい。2人の関係とそれぞれの境遇に音頭が響き、哀愁さえある。
ラストは、そういう感じになるんですよね、と、まあ落ち着くところに落ち着いた印象。
2人の掛け合いのテンポがいい。さすがに主催団体だけあって、手慣れた語り口。
コタツがとても悲しい。
■20歳の国『消えないで、ミラーボール』★★★★★
前の団体からの転換から、うまく本編につなげた。
後ろを向いた座席の選択が上手い。
他の役者の顔が見えない分、それぞれの回想シーンに集中できる。
ミラーボールは輝いていたであろう、彼らのその時代の象徴にも見えた。
彼らが再び集まる理由は一体何か、と少しのドキドキがあった。
絶妙な感覚で、微妙な感情を表現していた。
特にラストの、あの感じは素晴らしい。
数人いる部員の中で、「実は…」の告白合戦の中で、てっきり「笑い」担当かと思っていたら、しっかりと伏線になっていて、彼がラストに浮かんでくるのだ。
この劇団は、まだ観たことがないが、この作品を観て、是非観たいと思わせた。
■MU『HNG』★★★★★
他の団体が、15分という枠の中で、限られた人数で作品をつくっていたのに対して、MUは総力戦の印象だ。
最初に登場した人数でストーリーが繰り広げられるのかと思ったら、あとから3人も出てきた。
後から出てきた3人のうちの、2人のおじさん(安東信介さん、森久憲生さん)のキャラが卑怯だ(笑)。
いかにも、な感じしかしない。
すき家での「カラミ」シーンは爆笑モノだ。イヤらしいのに笑えてしまう。
また、もう1人のおじさん・加藤隆浩さんの、一見真面目そうな風貌が効いている。
ラスト、ドビッシーのアレが顔に掛かったのならば、普通拭き取るだろう。しかし彼は真顔でそのままでいる。
「ああ、これはみんなに見てほしかったのだ」と思ってしまった。結局変態なのである(笑)。
「すき家」の設定は、イヒヒと笑ってしまった。ハセガワさんらしい、上手いところ突いてきた。
ネタとしては少々古いのに、それを古く見せないのは、前面にしないからだろう。そういうところがMUらしくていい。
ラストに2人がトイレに行くシーンは、「一体どうなるのか?」と観客を思わせてハードルを上げすぎたか、少し軽かった。確かに、ねじ曲がった性癖たちの中で、ストレートな恋愛を見せてくれていたのだが。
わずか15分とは思えない、詰め込み方と展開に、MUの短編力の強さを感じた。
■The end of company ジエン社『私たちの考えた墓に入る日の前日のこと』★★★★
15分なのにしっかりとジエン社だった。
台詞の重ね方。特にシンクロが鮮やか。
「死んでるさん」という死んでる人が、墓に入る前に、うろうろしながら、自分となんらかの関係があったらしい人たちと話をする。
この作品では、ジエン社お得意の同時多発的な台詞が、内容的にもマッチしていた。
つまり、今までの作品では、時間と空間は演出によってねじ曲げられていて、(虚構も含め)重なり合っていたが、今回は違う。
「死んでるさん」は、死んでるらしいから、時間も場所も(たぶん)関係ないのだろう。
「死んでるさん」にかかわる3人同士は直接会話をすることはない。「死んでるさん」を軸に会話と物語が回る。
「死んでるさん」の話(聞き取り)は、まったく捗っているように思えず、彼の目指す先もわからない。
動かない自転車がそれを象徴するようだ。
自転車は置き去りにされて、「死んでるさん」は去る。
そして3人は「死んでるさん」のいた場所に集う。
「死んでるさん」にとっては、それが悼むことになるのではないか、と思うのだ。自転車が墓碑銘となる。
「死んでるさん」役の伊神忠聡さんの、ダウナーな感じで、彼が黒っぽい中心となって舞台の上にあるようでよかった。
■第27班『夏の灯り』★★★
好きな男と初めてデートができるようになったにもかかわらず、前髪を切りすぎたから会えないと言い出す女の子に対して、好意も持っている男が励まし、なだめる。それと併行して、彼女を夜店の屋台をハシゴして待つ男がいる、というストーリ。
とにかく、めんどくさい女だな、と思って観ていたら、ラストに一転する。
そういう隠されていた真実が、笑いの方向ではないほうへ、すべてを覆してしまうような感じはあまり好きではない。特に難病モノ的なものは。途中に挟まれる屋台のシーンとのトーンもちぐはぐに感じてしまった。
しかし、男の女の子との関係を強調する、(冒頭と)ラストに字幕で、切なくなるストーリーとなる。
■シンクロ少女『性的人間 あるいは(鞭がもたらす予期せぬ奇跡)』★★★
なんらかのオチがあると思っていたので、てっきり「妻の浮気は、小説家の旦那に小説を書かせるための嘘だった」とかいう感じになるのかと思っていたら、違っていた。
小説家の旦那が、1人空回りしていく様が、ヒステリックな感じにヒートアップしていく。
もう、事実がどうでもいい感覚で、妻と黒田が本当にいるのかどうかさえ、どうでもよくなっていく感じがとてもいい。
だったら、もっとスラップスティック度を増して、さらにヒートアップして、狂っていくところまで持っていってほしかった。
妻役の坊薗初菜さんの、落ち着いた感じが小説家のヒートアップと対照的で、とてもマッチしていた。
さて、6作品を観て帰りながら、「自分だったらラストはどうしたか」と考えてしまった。
……と、以下に団体ごとに書いたのだが、今読んだら深夜のラブレター的に、バカみたいなので(笑)、削除しました。
悪しからず。
満足度★★★★
プログラム A 『十二月八日』(原作・太宰治) 『野ばら』(原作・小川未明)
リーディング公演2本立て。
入口に猫が横たわっていた。
よく出来た置物かと思ったら、ぱっと顔を上げてお出迎えしてくれた。
ネタバレBOX
目白にある「ゆうど」というギャラリーは、いつくかの劇団の公演で訪れたことがある。
使い方はさまざまだ。
青☆組の公演にはマッチするだろうな、と思っていたら、やはりぴったりだった。
Aプログラムは、『十二月八日』(原作・太宰治)と『野ばら』(原作・小川未明)の2本立てで60分のリーディング公演。
座って観て、聞くにはちょうどいい時間。
両作品ともに共通するテーマは「戦争」。
サブタイトルにある「文月の“祈り”」が響く。
『野ばら』
男性俳優2人のリーディング。
国境で対峙する2人の男が、次第に心を通わせるのだが、戦争によってその関係が引き裂かれるという小川未明の作品。
国家の思惑は、あまり国民個々人の感情とは関係ないところにある、ということを強く感じた。
戦争に限らず、2国間の揉め事の大半はそうではないか。
タイトルの「野ばら」が、2人の男を結びつけ、若い男の死を連想させるラストまで、象徴的に言葉となって発せられる。
女性の俳優さんたちは、下手奥に固まって座り、シューベルトの『野ばら』をハミングする。
時には、鳥のさえずりのような「野ばら」の口笛となる。
さすがに上手い演出だと思った。
しかし、彼女たちの気配が強すぎるような気がする。観客の目の前に実際にいるので。
国境にポツリと2人だけがいるという設定なのだから、女性たちは本当に「気配」だけでよかったのではないだろうか。
つまり、舞台袖の見えないところにいて、ハミングする、ということだ。
それにより、2人の男たちを待つ「家族」のことが、より鮮明に観客に刻まれたのではないか。
このときの「歌」は、暖かい「家族」の象徴となる。
2人の兵士は、2人だけだったから、関係が築けたと理解しやすいのではないかと思うのだ。
2人の兵士の距離が近づくときの表現として、並べられたイスの両側に座った2人の距離を実際に近づけていく、というのはわかりやすい。
しかし、老人の兵士のほうから歩み寄って、距離が近くなったということに意味を感じた。
また、これは原作どおりだと思うが、死ぬのは若い兵士で、老人は生き残る。
さらに勝つのは大きい国、というのもとても、考えさせられる。
『十二月八日』
太宰治の作品を吉田小夏さんが翻案したもの。
原作には登場しない、主人公の夫である小説家の妹が登場する。
妹の出現により、小説家を訪ねてくる学生と妹の関係が、すっと浮かび上がったりする。
桜桃のような、美しいあめ玉が観客の脳裏に現れる。
そこには「人」の「営み」が見えてくるのだ。
リンゴを持っていく家庭のエピソードも、彼らの台詞が入ることで、ささやかで美しい「人々の生活(営み)」が見えてくるようになる。
妹が見上げる、空から降る雪のエピソード(シーン)は、本当に美しく愛らしい。見事だ。
そうした作品への書き込みが、太平洋戦争が始まったその日から、彼らのささやかで美しく愛らしい「営み」が徐々に壊れていくであろうということの、予感をさせる。
ラストに主人公の妻が、夜道を歩くシーンがあるのだが、それとこれらのエピソードが繋がっていく。
そういう意味においては、太宰治の作品というよりは、そこから発展したものと考えてもいいのではないかとも思う。
吉田小夏さんは、短いセンテンスとやり取りで、そうした「情」(情景)を表現するが上手い。
リーディング公演であっても、役者の一挙手一投足に、本当に神経を使っていることがわかる。
軍歌『敵は幾萬』の2番(?)から始まり、軍歌がいくつか劇中で歌われる。
軍歌の暴力性を感じたのは初めてかもしれない。
美しく愛らしい「人の営み」を、強い力でねじ伏せるような響きさえ感じた。
屍(かばね)ばかり出てくる、『海ゆかば』が象徴的に重なる。
このような「歌」の使い方は、先の「野ばら」とは対照的だ。
ここにも演出の巧みさを感じる。
「歌う」ことで、一方では「家族」の温かさを感じさせ、もう一方では「家族」を破壊する暴力を感じさせるのだ。
たぶん、「小説」にも「演劇」にもそうした2つの力があるのだろうな、とぼんやり思ったり。
個人的な感覚なのだが、小説家が「日出ずる国」「東亜」と、「西太平洋」のことで怒るシーンがあるのだが、ここはそんなに強い口調で怒る必要があったのだろうか。
怒ってみせる、ぐらいのほうが、全体のトーンとしても合っていたように思う。
「戦争は始まった」という、理不尽さと不安感への、やり場のない怒りのような感情が、「西・東」のことに託けて少し怒ってしまう、というところもあろうが、地理に暗い小説家が、妻に言われたことに対して、(怒ってみせるという)軽いユーモアで返すシーンであり、小説家のことがわかるよう場面だと思うからだ。小説家は本気で怒っているわけではないと思うのだ。
私は、原作のこの部分をそう読んだ。
2つの作品に通ずるのは、先にも書いたが、「国家の思惑は、常に国民の感情とは関係ないところにある」というものだ。
敵・味方と対立する者たちにとっても、戦争が行われる国で生活する者たちにとっても、個人的な感情はお構いなしに状況は進んでしまう。
「だからどうするのか」の先は、観客が考えるしかない。
残念ながらBプログラムは、夜の回がないので行けない。
満足度★★★
研修生の公演なので、オペラを軽く楽しむにはいい
いずれもロッシーニの1幕モノのオペラで、『結婚手形』と『なりゆき泥棒』の2本立て。
各全1幕/イタリア語上演/字幕付
ネタバレBOX
新国立劇場研修生の公演。
朗々たる大作もいいが、こんな感じの1幕モノのオペラも楽しい。
『結婚手形』
カナダの裕福な商人から、イギリスの商人へ花嫁の注文が入る。
イギリスの商人は、自分の娘を彼の相手にと考える。
しかし、娘には恋人がいる。
それを知ってしまったカナダ人は一計を案じるのだった。
そんなストーリー。
一言、二言の台詞で済むことを、延々語り歌う。
もちろん、オペラとはそういうものなのだが、それを感じさせる単調さがある。
表現力の問題かもしれない、と言ってしまうと身も蓋もないのだが。
内容的に、笑いを取りたいためか、コメディっぽくするための細かい演出がされるのだが、それが逆効果になってしまった印象だ。
元のオペラの部分がもうひとつな、だけに。
『なりゆき泥棒』
花婿としてナポリに向かう青年が、旅館で偶然出会った青年パルメニオーネと、カバンを取り違えてしまう。
パルメニオーネは、花嫁の肖像画を見て一目惚れしてしまい、花婿になりすましてナポリに向かう。
一方、ナポリにいる花嫁は、花婿に会ったことはなく、花婿の真意を知るために、侍女と衣装を取り替え、侍女を花嫁と偽り、花婿を迎える。
どちらが本当の花婿なのか、ということを主張し合い、なんとなくオチのところが見えていたのだが、歌舞伎などではありがちな、「えーっ」(笑)という展開が先に待っていた。「実は・・・」と、いう「伏線なし」の展開(笑)。
なかなかテンポが良くて、舞台の上も活き活きとしている。
花婿役の小堀勇介さんの声の伸びが良く、花嫁役の清野友香莉さんも良かった。
満足度★
・・・・・。
結構期待したんですよね−。この企画。
もし、来年も同じ企画が催されたらどうする?
……たぶん行くと思う。
ただし、「面白そうだから行く」ということでは絶対ない。
なんだかちょっと気になるのだ。
ネタバレBOX
北海道を拠点としている(?)「札幌ハムプロジェクト」という劇団(団体)が主催する演劇祭。
団体を選定するときに審査があったのかな、と思う。
例えば、上演の経験とか、ね。
「ふざけた演劇祭があってもいい!!」という主旨でやっている演劇祭らしいのだが、それにしても……。
びっくりするほどレベルが低い。
文化祭か! というよりクラスのお楽しみ会とかのレベルだったりする。
この企画のチラシは、会場に行くまで見たことがなかった。
A3二つ折りでなかなか立派なものだ。
しかし、出演する団体の情報が皆無。
団体名しかわからない。
当日パンフもないので、出演者の情報も何もない。
それでいいのかな? 次につながらないのでは。
さらに、8団体出ていて団体のHPがあるのが1つ、ブログがあるのが1つという、今どき信じられない体制で運営している。
どうやって集客したり予約させたりしているのだろうか不思議だ。
8つもあるのに、1つとして目にしたことがない団体ばかり。
この企画自体、本当に集客する気があるのか? と思ってしまう。
私は、小劇場界で有名な演劇おじさん(笑)のつぶやきで偶然知ったのだが、それがなければ、まったく情報は入ってこなかった。
ちなみに年間もの凄い数の公演を観ているその方も、知っている団体は1つもなかったという。
果たして、劇場内は以上の通りで、観客数は出演者たちよりも確実に少ない。
2日間行ったのだが、私が行った1日目は、客席は10数席ぐらい埋まっていて、どう見ても何割かはこの企画に出演する関係者で、残りのほとんどが知り合いっぽい。
2日目は、観客数はもう少し多くなっていて20名を超えるぐらいだったが、やはり関係者と知り合いがほとんど(単なる個人的な印象だけど。帰り際のあいさつとか、そんなところで)というのは同じだ。
参加団体にはチケットノルマがあるようだが……。
この企画には、観客に点数を付けてもらい、それを集計して賞を与えるというものもある。
団体ごとの投票用紙に書いてある絵を(5点満点だったか?)、点数の数だけ塗りつぶして出すという方式。
さて、全8団体が上演するのだが、香川県から来ている1団体は、11日間の公演の前半しか公演をやらない。
時間が合わなかったので、この団体だけ観ることができず、7団体を観た。
以下、その感想である。
劇団盲点ガロン『苫小牧01Girls』−☆(マイナス1)
もの凄く緊張した女の子が登場し、客席に向かってモノローグ。
「なんか文化祭というよりは、クラスのお楽しみ会ぐらいの印象だな」と感じた。
ただし「何コレ?」というよりは、少し微笑ましい気分だった。
しかし、「え、まさかこれで、終わり??」の10分間。
登場人物2人、どう見ても(演技という意味で)天才科学者には見えない女の子が、何か言っているのだ。
しかし、発声が悪すぎ。こんなに小さな劇場なのにきちんと聞こえない。
ストーリーは、自分たちの中だけで納得した様子のもの。
まさかこれで「劇団」をやってるの?? 驚いた。
正直、これの何が面白いのか、もし見た人がいたのならば、教えてほしい。
面白ポイントがわからない。
ピグマリオンズ『ジュリ、うちゅうをみる』★★
35分ぐらいの作品。
ロボットのチープ感は結構いい。
登場人物が3人なのだがよくやったと思う。ドタバタしてたけど。
しかし、ラストがあまりにもさえない。
というかありきたり。
新しい生命体の誕生なのかね、なぐらい。
あかいかえる『ノーコール』★★
35分ぐらい。
タイムトラベラーもので、恋愛を絡めたストーリー。
しかし、ストーリーのためのストーリーであって、そこに魅力はない。
しかも、びっくりするぐらいテンポが悪い。35分なのに!
例えば、主人公が会社で働くシーンで、パントマイムのようにノートパソコンを開いて何か打つ仕草を無言のままするのだが、何でそんなことをわざわざ無言で見せるのか、まったく意味がわからない。そこで何も起こらないのだから、仕事をしているシーンは省いて、仕事終わりのシーンから初めても何の問題もないのでは。
しかも、会社の中にいるようにも見えないし、仕事をしている風にも見えない。ただ無音で無意味な時間が過ぎていく。
主人公が驚くほど無表情で、台詞も固すぎる。なので、同僚の演技が(さらに)オーバーアクトに見えてしまう。
主人公は会社で電話の問い合わせを受ける仕事をしているのだが、「間違い電話が多い」という設定をわざわざしているのに、この短編にそれがまったく活かされてないのは不思議だ。なぜそんな設定にしたのか?
ブーメランメカ『週刊小三チャンプ』
★★★
つなぎを着た男女が監禁される話。
唯一、「面白そうだな」と冒頭から思った。
シンプルだし、謎がいい具合にあるし、テンポも役者もほかの団体に比べてかなりいい。
しかし、大切なマイムマイムの替え歌の歌詞が、うまく聞き取れない。
そこがポイントだろうに。
全員が怒鳴って歌っていたので聞き取り辛いのだ。
そこは、怒鳴っているっていう「演技」でいいのでは? 本当に怒鳴らなくても。
ヘリウムスリー『スイングバイ!』
ぷちタルト。『魚フラスコ』
この2本は、申し訳ないがまったく覚えていない。
ほかの5本は内容やシーンの様子も覚えているのに。
せめて、当日パンフがあれば、役者の顔がわかったりして、ストーリーぐらいは思い出せるのだが。
なので感想は書けない。申し訳ない。
ということで、時間もお金も(全部の団体を観ても2500円というのは、一見安いのだか)無駄にした感が強い。
あとでわかったが、mixiなどで招待も出していたようだ。
有料観客って何人いたんだろう。知り合いを入れたとしても。
そして、忘れた頃に、賞が発表になった(twitterで見た)。
SF大賞は、唯一観てない「株式劇団マエカブ」が取った。
先に書いた通り、11日間の公演期間中、前半しか公演をやってない団体が受賞したのだ。
観客に投票させたのにもかかわらず、その結果は公表されない。
賞は、「皆様の投票と、“実行委員会の勝手な基準での審査の結果”」(笑)って書いてあった。
“実行委員会の勝手な基準での審査の結果”とはすなわち、賞には賞金(3万円)があるので、香川県から出てきた団体に、持ち出し分の補填したのかな、と勘ぐってしまった(笑)。
来年もこの企画やるのだろうか。
やるとするならば、たぶん観に行くと思う。
「時間とお金を無駄にした」と思ったのだが、なんだか気になる。
呑気に観劇するのも悪くはない。
ただし、次回は、きちんと審査をして、もっと魅力的な団体を入れてほしい。
満足度★★★
川は流れていく。しかし、川には記憶が残る
広島の原爆投下を中心にその前後を見せていく。
ネタバレBOX
タイトル通りに、「太田川」が主人公の物語。
原爆投下を物語の中心に据え、その前後を太田川が見せていく。
舞台の上には、原爆ドームを思わせる骨組みがある。
開演前には、川のせせらぎのSEが聞こえる。
太田川を中心とした物語ではあるが、原爆投下の意思決定をしたホワイトハウスとB29の発進基地でもあったテニアンも描かれる。
広島では、姉と弟の物語が太田川を挟んで語られる。
8月6日に交わる、太田川と姉と弟。
短いが、苦しいほど、切ないエピソードだ。
彼らのそれまでの暮らしが丹念に描かれているわれではないが、それを思い起こさせるようなエピソードだった。
そのとき、太田川がどうなったのかは考えたこともなかった。
一瞬にして熱湯となり、そして蒸発していく。
海の向こうでのエピソードは、ホワイトハウスで大統領と科学顧問のやり取りがある。
ルーズベルト大統領は、使用を躊躇する。
しかし、とにかく、開発して、それを使ってみたい科学顧問とのやり取り。
科学顧問は、政治的なことは……と言いながらも、大統領が提案した無人島での使用することで日本に対してアピールすることには、反対する。「街」に、「人」に使ってみたいのだろう。
そして、ルーズベルトの後のトルーマンが使用を決定する。
しかし、これとテニアンのエピソードは本当に必要だったのだろうか。疑問に思う。
なんとなくこのシーンは、歯切れが悪い。
「躊躇した大統領」ということを伝えたかったのか、「戦争を終わらせるため」という言い訳的な、政治との関係を入れたかったのかはわからないが。
太田川が主人公であるのだから、そこに集中すべきではなかったのか。
優雅に流れていく太田川が、その瞬間に熱により蒸発し、そして、元の川に戻っていく。
川は流れていく。しかし、川には記憶が残る。
本作は、ジャン・ポール・アレーグルの作品で、翻訳と演出は、岡田正子さん。
岡田正子さんは、「1948年文化学院卒」とあるから、お幾つなのだろうか。
ロビーにいらした。
太田川の表現にはダンスを加え、シーンのつながりもきれいだ。
若々しさを感じる演出だった。
原爆は、悪いものである、という気持ちは伝わったか、使ってしまったことへの、言及がない。
淡々としているような感じさえする。
つまり、「太田川」という人ではないものが主人公であることから、出来事を俯瞰しているような、外から見ているような感覚がするのだ。
それは戯曲の狙いなのだろうが、もっと揺さぶってほしかったというのが本音だ。
太田川に焦点を絞って。
ルーズベルト役だった西本裕行さんが、公演の直前にお亡くなりになった。
「ムーミン」でスナフキンの声をしていた方だ。
代役を立てずに、ルーズベルトの座る車椅子だけが舞台の上にあった。
ご冥福をお祈りします。
満足度★★★★
さいたまネクスト・シアターに外れなし
蜷川さん、やっぱり凄い。
ある程度ワンパターンなところもある(特にタレントさんを使う、ホールの舞台だと)。
しかし、どんなに歳をとっても、それに負けないだけの底力がある。
ネタバレBOX
興行的には、有名なタレントさんや俳優さんたちを並べたほうがいいのだろうが、こうやって、若い俳優を丁寧に育てていくことに集中してくれると、観客の1人としてはうれしい。
すでに名もあり、イメージも固定している俳優さんたちよりは、伸びしろも多いし、引き出すモノも未知数なのだから。
彼らの良さを最大限に引き出してくれる。
客席は、さいたまネクスト・シアターではお馴染みのコの字型配列。
中央に舞台の中心があり、奥のほうは暗闇の中、とても奥行きがある。
舞台は、シックで華やかな、黒の留め袖や黒いドレスの女性たちと、燕尾服(タキシード?)姿や紋付き袴の男性たちが舞台奥から登場して幕開けする。ゴールドシアターの方々は、皆、車椅子。
蜷川さんらしい、和風テイストの外連味溢れるオープニングだ。
シェイクスピアの『リチャード二世』であるということは、観客はわかっているので、こういう和風テイストから、「何が起こるのか?」と期待させる。
さすがに「つかみ」がうまい。
さいたまでは、おなじみの、シャンデリアが下りてくる。
そして、全員でタンゴを踊る。
これも意表を突いた。
黒が基調で、カラフルな衣装ではないのに、舞台の上は一気に華やかになる。
そして、観客は物語へいざなわれる。
リチャード二世が電動車椅子に乗って登場する。
身体が不自由ではないのか、と思えるほどの華奢な肉体を持った内田健司さんが頭に王冠、手に笏を持つ。
彼の玉座が、電動車椅子であることも相まって、王の孤独と苦悩が見えてくるようだ。
電動なので一見、誰も手も借りず自らの意のままに自由に動けそうであっても、やはり車椅子なのだから動ける範囲は自ずと制限されてしまう姿に、王の苦悩がうかがえるのだ。
内田健司さんは、やっぱり裸になる。
蜷川さんは、内田健司さんの身体に語らせたいようだ。
『カリギュラ』でも、藤原竜也主演の『ハムレット』のフォーティンブラスでも半裸だった。
リチャード二世の悪業が、具体的に語られるわけではないので、内田健司さんのそうしたの印象から、周囲に裏切られた感が強くなる。
リチャード二世役の内田健司さんの声を張らない台詞が効果的。
声を張らなくてもきちんと耳に届く。
コの字型の客席配列ということもあろう。
静かなのに、染みる台詞。
海岸でのリチャードの独自は、観客に単調さを感じさせないためなのか、海の演出がうまい。海の波間に1人、波に翻弄されているという演出はさすが。
ヨーク公役の松田慎也さんもいい。
最初は彼がリチャードだったようだが、ヨーク公となったらしい。それが正解だったと思わせる。
リチャード二世と従兄弟たちとの、親戚以上の関係感。タンゴで表される友だち以上、肉親未満の関係。
その、ねっとり感がいい。
そういう解釈なのだ。
タンゴが効いている。
今回もお得意の和洋折中、旗印に梵字&御幣などもあり、和風味多めに仕上がっていた。
ネクストシアターとゴールドシアターが一緒に舞台に立つことも増えてきた。
そういう融合はとてもいい。
舞台の上に幅が出る。
若さで表現できるものと、年齢で表現できるものとがある、ということがよくわかる。
さいたまネクスト・シアターは、今後も見続けようと思う。
満足度★★★★★
ストレートプレイを堪能
サスペンデッズ主宰の早船聡さんの戯曲を青年団のベテラン俳優たちが演じる。
老舗劇団の実力を味わう。
ネタバレBOX
昔、キューポラの煙が火事のようにたなびいていた町が、今や、マンションの建ち並ぶところとなった。
かつて、親友だった鋳物職人は、ひとりは不動産プローカー(今西康平)に、もうひとり(水沼鉄三)はその町を離れ、別のところで息子と鋳物工場を続けていた。
「キューポラ」という喫茶店で彼らをめぐる物語。
訓練と経験を積んだ俳優が、時間をかけて準備し、演じるストレートプレイは、絶品である。
こういう言い方は、なんだけど、多くの若い小劇場系劇団では出せない味がある(どちらがいい、というわけではない)。
先月見た文学座でもそれを感じた。
早船作品は何回か観ているが、青年座のこの作品は、どっしりと腰が据わっている。
もともと戯曲が持っている資質なのだろうが、それが経験と訓練を積んだ俳優たちによって、十二分に活かされている。
不動産プローカー・今西康平役の山路和弘さんが、フル稼動。
本当に気持ちがいいほど、最初から最後までの、熱量が変わらない。
途中の昔のシーンが差し挟まれ、山路和弘さんが素早く切り替わり、おばさん役を演じるところがある。
おちゃらけているようでも、本編を乱さない強度がある。
こういう味、強度は若手の俳優ではなかなか出ないだろう。
単なるおふざけに見えてしまうから。
そして、山路和弘さんに対する腕のいい鋳物職人・水沼鉄三役の山本龍二さんの佇まいがいい。
黙って立っているだけで見える、対比が見事。
離婚により家族から離れて1人の男と、息子に期待をかけすぎて、宝であるその息子を失ってしまった男が、表面上ではぶつかっているようで、実は、わかっているということが、後半に見えてくるという戯曲がうまい。しかも、それを広げて見せないところに美学さえあると感じた。
互いに息子にどう接していいのかわからなかったのだ。
その息子役の2役には驚いた。
石母田史朗さんが、まったく違う2人の息子をくっきりと演じ分けていた。
同じ俳優が演じることで、一見違う息子と父親の関係が、根っこは同じではないのか、とも感じさせてくれるのだ。
彼ら2人や、彼らを取り巻く人々の仕事への誇りも感じさせる。
さらに、今日的な、ヘイトスピーチ、失業者、ニート、在日、ネット、そんな背景が裏に見え隠れするところもうまい。
やたらカッコ良すぎるシーンもあるが、状況説明の小芝居が面白すぎる。
面白すぎるのだけど、くだらないとか、ベタとか感じないのは、基本の確かさがあるからだろう。
工場と喫茶店を兼ねたようなセットもいい。
キューポラから流れでるように見える湯(溶けた鉄)の感じとか。
この作品を、7人の俳優で演じ切ったのは驚きだ。
満足度★★★★★
見終わってすぐに頭に浮かんだのは、マリー・ローランサンの詩
正確には高田渡さんが歌った『鎮静剤』の歌詞。
失った者の悲しさ、露わになる人間関係。
上手い!
ネタバレBOX
山小屋の主人を演じる、でんでんさんが、普通に台詞を言っているだけで何かが起こりそうだ。
なんかヒリヒリした緊張感がある。恐い。
しかも、彼が演じる山小屋の主人は娘を亡くしていて、この日がその命日だという。
これで何も起こらないはずはないだろうと思った。
登場人物たちのそれぞれの状況と、本音らしきものが見えていく展開は、上手いと思うし、やっぱり面白い。
山小屋の主人は、何かじっと耐えているように感じてしまう。
その場をなんとかうまくしようと、無理をしているような感覚だ。
ラストの彼の一言が効いている。
そして、タイトルのうまさに舌を巻いた。
高田渡が歌っていた、『鎮静剤』(マリー・ローランサンの詩)の歌詞はこんな風である。
退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です
かなしい女より もっと哀れなのは 不幸な女です
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です
捨てられた女よりもっと哀れなのは よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
最後の一行がこの作品を語っていると思ったのだ。
高田渡『鎮静剤』
https://www.youtube.com/watch?v=E_12lISYgSA
満足度★★★★★
東京ヴォードヴィルショー、やっぱり面白いね
東京ヴォードヴィルショーの良さが溢れた楽しい作品。
多作だけど、このところややアレな感じだった、三谷幸喜さんの作品の中では、出色の出来、面白さであった。
ある年齢層を対象とせず、あらゆる年代が笑うことのできる作品で、こういうコメディを提供してくれる劇団って、ありそうでそれほど数はない。
ネタバレBOX
どこかにある「えぶり村」という過疎の村で、前村長が怪我をしたことから、村長を辞めると言い出したことで、村長選が行われることになった。
今まで、前村長が圧倒的に強く、無選挙で何期も村長を務めてきたが、その村長が辞めることで、村にとって初と言っていい選挙が行われることになったのだ。
舞台の上は、立ち会い演説会のようなセット。
セットと言っても、候補者の折りたたみイスと候補者名を書いた垂れ幕がそれぞれ下がり、中央には候補者が話すためのスタンドマイク、下手には司会者の壇があるだけの、シンプルなものである。
つまり、劇場の観客がえぶり村の有権者のような設定なのだ。
そして、立ち会い演説会だけの1幕モノ。時間も舞台の上と客席が同じに進む。
この設定は面白い。
シンプルなだけに、戯曲と役者の魅力で見せるしかない舞台だ。
そして、それは達成されたと思う。
このところ多作な三谷幸喜さんの作品の中では、出色の出来、面白さであった。
正直、三谷さんご本人が演出しなくてよかった、と思ったが……(失礼・笑)。
ゲストを含め、東京ヴォードヴィルショーの役者さんたちの、いい感じに前に出る出方、アクの強いキャラの立て方など、見事に発揮されていた。もちろん、笑いのツボもしっかりと押さえていて。
シーンの転換ごとに歌が入る。
そして、選挙の問題やエネルギー問題など、少しだけ風刺も効いている。
それはなんとなく、井上作品を、ほんの少しだけ彷彿させる。意識したかな。
立候補者は、全員「田茂神」家の関係者である。司会者も田茂神。
妻や、弟、息子、娘婿など、前村長の関係者が立候補しているからだ。
なのでタイトルが「田茂神家の一族」。なるほど(笑)。
選挙コンサルタントなる人が、ある候補者の参謀として登場して、票読みをしていく。
どこの地区は誰が強いか、女性票どうかは、年齢層どうなっているのか、と。
駆け引きをしながら、候補者同士が連携したり、いがみ合ったりしながら演説会は続く。
候補者の子どもたちも絡んだりしながら、見えたり見えなかったりしていた、田茂神家の関係が見えてくる。
その都度、票読みの数も変化していく趣向。それに一喜一憂する登場人物たち。
また、引退するはずの前村長も登場することで、さらにストーリーに面白みが増していく。
東京ヴォードヴィルショーの、キャラの濃い役者さんたちなので、濃くてギトギト感はある。それでもそれを力押ししてくるのだが、やっぱり笑ってしまう。
ラストは、「結局誰が村長になるのか?」という点で、ほとんどの観客が徐々にわかっていたと思うが(ストーリーに集中していたら、見落としていた人もいるかもしれないが、うまく気配を消していたと思う)、こういったコメディにはあるパターンの結果となる。
佐藤B作さんはフル回転。エネルギッシュ。
一見一番まともに見える、角野卓造さんが中盤から、「バイオマスエネルギー」のトンデモさなど、定石の展開ながら、馬脚を現してくるのがなかなかいい。
元町長の伊東四朗さんの押さえも効いている。
ある年齢層を対象とせず、あらゆる年代が笑うことのできる作品で、こういうコメディを提供してくれる劇団って、ありそうでそれほど数はない。
まだまだ、東京ヴォードヴィルショーの作品にはこれからも期待できる。
シンプルで面白いから、『アパッチ砦の攻防』のように、再演、再演ってなるんだろうなあ。
そのときには、また観たいと思わせる。
しかし、今回、創立40周年記念興行第5弾、一体何段までやるつもりなんだろう(笑)。
満足度★★★
『テンペスト』への新たな扉がコメディで開いた?
こんなに闇黒で、湿った『テンペスト』は初めて。
しかも、「コメディ」な側面から観てしまった。
そういう見方は、劇団側にすれば不本意だろうが。
ネタバレBOX
プロスペローの娘・ミランダが、メガネのおばさん(失礼)だとわかったとき「これはコメディではないか」と思った。
純情なイメージのミランダが、濃厚なのである。
肉を感じさせる動きが、『テンペスト』に新たな物語が始まるところを見せているようだ。
彼女の、いわば、純真、純情から来る情熱(愛情)が、別のもの(肉欲的なもの)に置き換えられたときに見えてくるのは、父・プロスペローとの関係だ。ついつい勘ぐってしまう。
こんな解釈の『テンペスト』は初めて観た。
暴力的、それは愛情表情までが暴力的である。それで押して来る。
ミランダが王子に対する行為もそうである。
ミランダを中心に、欲望が剥き出しになっているように見える。
逆境にあっても、おのれの欲望を剥き出しにする。
王子までも、ふと、「王に」などと言い出してしまう。
もともとあった欲望が、より黒く、露わになってくる感じなのだ。
女王とかプロスペローの弟だけにあったように見えていた黒い欲望が、登場人物全員がまとっている感じだ。
舞台への集中が少し途切れ、作品の中で見ていたはずの視線を、「コメディ」という、少し引いた位置で見ることになると、面白み、おかしみが見えてきた。
おおげさすぎる台詞回しと表情、なぜかそれらはすべて中腰で発せられたりする。
コメディ的な方向性から観ることは劇団側では決して望んでいないだろう。
ここにあるコメディ的な笑いとは、明るく乾いたものではなく、淫靡で湿った黒い笑いなのだ。
衣装と舞台装置がすべて黒いというわけではないが、全体を覆うのは、ダークだ。
黒子ではなく、奇妙な動物のような、気配もある。
ダークの中にあって、さらにダークな存在は、舞台の上手に縛り付けられて、奇声を発する半裸の男だ。
彼は、あまりにもアングラ、アングラしすぎていて、私の中では、コメディの領域に完全に入ってしまった。ついニタニタしてしまう。
しかし、それが意味するところは結構深い。
「縛り付けられていた」男は、実は自分の意思でそうしていることがわかる。
あっさり、縛(いまし)めを解き、自ら立ってしまうのだ。
「縛っているのは自分」ということなのだ。
復讐に燃えるプロスペローにしても、実のところ「縛っているのは自分」であるということが、示されているのではないか。
もちろん、プロスペローに縛られているはずのキャリバンもそうだ。
コメディと書いたが、舞台への求心力はすさまじく、観客の目と心をとらえて離さない。
ミランダ役の倉品淳子さんの黒いねっとりした濃厚さは凄い。
キャリバン役の岩淵吉能さんの、醜悪で卑屈な様も見事。
満足度★
これ、再演ですよね?
なんでこうなったんだろうか。
音楽も石橋英子さんとジム・オルークさんたちが生演奏するということで、結構期待してたのだが……。
ネタバレBOX
ファスビンダー2本立て公演のうちの1本。
これが面白かったらもう一本の『猫の首に血』も見ようと思っていたのだが、その気はまったく起きなかった。
「まるで月のように荒廃した」ドイツのどこかの街が舞台。
緒川たまきさんが、DVが酷いヒモ男に貢ぐ娼婦を演じる。そこへ若松武史さん演じるユダヤ人の金持ちなどが絡んでいく。
正直言って、緒川たまきさんは輝いている。
オーラもある。
台詞回しも悪くない。
しかし、作品全体の印象は悪すぎる。
いくつか気になった点がある。
まずは「戦争の影」がまだあちこちに残っているはずの街にその匂いが感じられない。
(ユダヤ人に酷いことをしたという父親がいるのだから、戦争はそう遠くないはず)
なんとなく、近未来的なプラスチックな印象を受ける。
それが廃墟のようだったらまた受け止め方は違っていたはずなのだが。
そして、途中から「寒い」「凍える」という台詞が出てくるのだが、その感じが一切ない。
少なくとも演技と、あるいは照明の助けも必要だったのだはないか。
劇中に何度も出てくる、たぶんダンスのようなものが、みっともない。
上手くないのはダンサーでないからしょうがないにしても、中には照れているような表情を浮かべている役者もいたりして、それだけで腹が立つ(結構前のほうで見たから、表情丸見えなんですよね)。
もっと必死に踊れよ、と思ってしまう。
それが何度も何度も出てくるので、内容が薄まったようにしか感じられない。
リズムに乗っていない人がいるというは致命的だが、せめて、曲げるところはきちっと曲げて、伸ばすところはきちっと伸ばせよ、と言いたくなった。必死にダンスに取り組む姿があれば、それなりに受け止めることはできるのだから。
ドイツの軍歌的なもので行進するような男たちぐらいは、それなりにしゃきっとしろよ! と思った。
そして、歌。
渚ようこさんの歌はいい。
上手い。
歌が説明になっていたのに途中から気づいた。
しかし、男性2人の歌は酷い。
下手なりになんとかしてほしかった。
「口パク」で歌う(?)シーンは本当に酷い。
もちろん「口パク」であることは見ればわかるのだが、どうしてそうしたのかが不明だ。
別に音楽を流して、その前で演技しても同じだっただろうと思う。
口パクが下手だというのもある。堂々と合っていない。意図があって下手にしているわけもないし、時間だけが無駄に費やされていく。
演出したい雰囲気が醸し出されていない、と感じた。
先に「緒川たまきさんは輝いている」と書いたが、確かに輝いているのだが、それが役としてはどうなのか、と思ってしまう。
つまり、「お茶をひいている」娼婦には見えないのだ。
最初からひっきりなしに咳き込んでいれば、何か良くないなあ、ぐらいは感じられるのだが、その設定が出てくるのは先のほうであるし、咳き込むのも、それが必要なタイミングのときだけ。
これでどうして「お茶引きの娼婦」に見えるのか。
また、ラストは死にたくなってくるのだが、それへの動機が彼女を見ていても浮かび上がってこない。
それは「台詞の中だけにある」ものなのだ。
DVなヒモ男に貢いでいて悲惨な状況から一転してユダヤ人の金持ちのパトロンが出来てから、そして死にたくなったと言い出すまでの間の演技が、一定にしか見えないのだ。衣装ぐらいはもっと効果的にしてほしかった。
もし、それが一定に見せることが演出ならば、底辺のレベルの気持ちで一定にしてほしかった。
たぶんこの作品に足りないのは、「荒廃」感、「退廃」感。
キャバレーのようなシーンがあるが、女装した主人公の父が歌うような場所なので、もっと退廃的なシーンにしたほうが良かったのではないか。
ヴィスコンティの映画『地獄に堕ちた勇者ども』の乱痴気騒ぎシーンのレベルは無理にしても。
生演奏も生演奏であることの効果が薄く(口パクのところなど、音楽を流しているところもあったりするだけに)、せっかくのミュージシャンが生きていないと感じてしまった。
結局、演出が悪い。
私の好きな俳優、若松武史さんもまったく光らなかったし。
もっと演出的に突き詰めるべきことが多かったのではないかと思う。
再演だから気を抜いたとは思いたくないが。
以上のことを感じながら観劇したのだが、いろんなファンもいるし、好印象を持つ観客もいるんだろうなあ、と思っていたら、終演後の拍手の熱のなさには驚いた。
全然してない人も近くにいたりして、こういうスケールの劇場でこんな拍手の熱のなさは初めてだった。
すぐに止んでしまったし。
当然、ダブルコールはない。
満足度★★★★
安定した面白さ
40代〜50代ぐらいへのエール(特におじさんへの)。
それだけでなく、すべての世代に対して優しいし、寛容である。
説教じみていないし。
中年(初老?笑)世代と若者世代との対立的なギャップではない構図を見せてくれるのは、この劇団の持つ「優しさ」だったと思う。
ネタバレBOX
大学の探検部のOBが久しぶりに大学に集まっての、一夜の話。
現役の大学生と、その中間にいる微妙な人々も。
「人生は探検だ」というフレーズが一番このストーリーにしっくりくるように作られている。
「いろいろあるけど、これからも頑張っていくぞ」的なラストは予定通りだが、ストーリーが単線ではなく、いくつかの人生を微妙にブレンドしてあるので、だれかの、そして、どこかのエピソードに「あるある」を感じることができるのではないか。
笑いもいい感じだし、役者同士の絡みも安定していて、無理なく楽しめる。
初のオーディションによる若者たちも、なかなか頑張っていたと思う。
やや気負いすぎなのか、元気が良すぎる気もしないではないが(笑)。
清美と雅子を演じた、岩橋道子さんと三鴨絵里子さんのやり取りが、テンポがよく、見ていて楽しい。
2人とも、それ以外のシーンでもいい間で入ってくるなあ、と。
ストーリーの後半に登場する村松武さんは、うまく笑わせてくれた。
「何が面白いのかわからない」というギャグで笑わせるのだが、実際その設定で笑わせるというのは、結構ハードルが高いのではないか。
しかし、すべて笑った。
もちろん、台本の台詞の言葉選びがいいのは確かだが、それ以上に村松さんの技量と、それを受ける別の役者のタイミングがモノを言ったのではないかと思う。
それをいとも簡単に見せ、笑うシーンにできるのは、役者たちの全体のレベルが高いからだろう。
ただ、なんなく全体的に長すぎる感はある。
それは、セットに問題があるように思える。
部室のある屋上というのが、視覚的に地味だし、そこにいろいろな人が出入りするというのには、少々無理がある。
台詞を言うために、理由を付けてそこに登場させているような苦しさを感じてしまった。
40代〜50代へのエールなのだが、現役大学生とのコントラストや、彼らの中間にいるような、学生でもなく社会人といっても…な人々という設定も面白い。
単なる世代間のギャップではなく、世代が続いていくような感覚がする。
こういう設定であれば、ともすれば世代間ギャップによる対立の構造が描かれることが多いと思うのだが(もちろんそうしたぶつかり合いも少しはあるのだが)、どの世代にも互いを受容するような心が根底にあるので、対立には見えないのだ。甘いのかもしれないが、同じ大学のサークルだ、という土壌もあり、すんなりと受け入れることができたし、見ていて嫌な印象はない。
すべての世代に対して優しいし、寛容である。
説教じみていない。
そこに、この劇団の持つ、優しさが見えたように思う。
ラストに人生の探検への再出発を、登場人物の1人が行うのだが、その華々しい門出を全員が最初から最後まで拍手で送り出すものかと思っていたら、途中のちょっとした出来事で集中が途切れるというのも、ベテラン劇団のうまさではないかと思った。
それは、「照れ」のようなものではなかったのか。
作・演出はもちろん出演者たち自身にもタブってくるからか。
世代によって異なるお揃いの「探検帽」というのは、少し面白い。
満足度★★★★★
弱いのだよ、男は
みんなダメ男だな、思っていたら、それは自分のことだった。
くすくす笑いしながら観た。
玉田さんと野田さんのシーンが素晴らしくって、久々にいいものを見た。
ネタバレBOX
仕事をクビになった山田、引き籠もっていたらしいその弟、山田家に転がり込んでいるバイトのダメ男・井上、元犯罪者だったらしい教会から来た男、井上のバイト仲間でオレオレ詐欺をしていた田中、そしてホームレスらしい男が、男性の登場人物のすべて。
どの男も非常に不安定な立ち位置にいる。
もちろんそれらは、すべて彼ら自身の「身から出たサビ」。
そして、何かにすがろうとしている。
セミナーだったり、宗教だったり、元カノだったり、疑似母だったり。
ただし、単に「不安定だからすがる」ではない次元に物語は向かっていくように思う。
あくまでも個人的な感覚なのだが、それは「男だから」「すがってしまう」ということではないか。
弱いのだよ、男は。弱すぎるのだ。
冒頭から自分の都合のいい妄想で彼女との会話が続く。
ダメ男らしい、いい感じの妄想だ。
身に覚えがある人も多いだろう(男性限定ね)。
何かに触れて、守られてないと不安なのだ。
女性の登場人物たちは違う。
現実の世界に生きている。
井上の元カノは、井上の気持ちを察して制するし、山田の彼女は、まるで当然のことのように山田兄弟たちのセミナーへの想いを全否定する。
ラストは教会から来た男以外の男性全員が、「母」に、いだかれることを最上の喜びと感じる。
(教会から来た男も、最初はある宗教を信じ、今は別の宗教を信じているのだから、誘われれば「タカシ」になったのは間違いない)
「母」なる女性は、田中のオレオレ詐欺の被害者で、田中の声を聞いて自分の息子だと言う。そして彼女は目が見えないと言うのだ。
しかし、どう考えても彼女は「目が見える」し、田中「たち」を息子だとは思っていないだろう。
彼女の動きがまそうであるし、「息子たち」という台詞もあったような気もするし。
もちろん「タカシたち」はそんなことはどうだっていいのだけど。
彼女の本当の狙いはわからないが、「タカシたち」にとっては、「母」だ。
彼らは胎内回帰することを望んでいるのだ。
田中の家にある階下への階段は何なのだろうか。母の胎内なのだろう。
「母」はラストに純白のドレスで現れて、ウエストから出た帯のようなものが階下につながっている。
まさに「へその緒」を彷彿とさせる。
「タカシたち」は熱に浮かされたように、階下へ歩みを進める。
1つに溶け合って。
彼女がいる山田も、あっさりとそれに従う。
「彼女」よりも「母」をとったのだ。
男はすべてマザコンだとよく言われるが、まさにそんなシーンである。
山田の彼女も「母」に誘われ、少しだけ興味を示すが、捨て台詞でそこを去る。
井上のように後を引いていつまでもウジウジしているのが男ならば、山田の彼女ように、「バカじゃないの」という捨て台詞を吐いて、山田をすっぱりと切り捨てるのが、女性なのではないかと思うのだ。
恋愛で言えば、男はみんなそうな風に感じることが多いんじゃないのかな、とも思う。
正確には、「“ダメ”な“男”はみんな」なのだろうけど。
「なんだ、みんなダメ男ばっかりだなあ」って見ていたけれども、結局のところ、自分もその中にいることに気づかされるわけなのだ。
男は母の胎内から抜け出ることができず、女は彼らを胎内にとどめる。
そんな哀れな男たちの姿が舞台の上にあったように思えた。
「バッカじゃないの」の捨て台詞は、世界中の男に向けられた、女性の声なのだろう。
「えっ、終わりなの?と」という、そのラストに唖然としつつも、「バカだけどしょうがないんだよなー」と思う自分がいる。
非常にあっさりした印象の作品だったが、その根底には「男と女」の違い、「男の弱さ」があったように思えた。
ただ、作品自体が「物語の序章」のような印象も拭えなかったのだが。
冒頭の井上を演じた野田慈伸さんの演技は、いかにも小劇場の口語演劇でごさいな反応と身のこなしだったのだが、登場人物が入れ替わっていくことで、とても良くなっているように感じた。相手との相性なのか。
特に田中役の玉田真也さんとの絡みは、見事だった。
テンポや間が抜群。
玉田さんの、野田慈伸さんの台詞に挟む間合いが素晴らしいのだ。
玉田さんも、ほかの人と絡むときよりも、野田さんとの絡みがいいので、2人の演技の相性が見事にマッチしたのではないだろうか。
教会から来た男を演じた近藤強さんは、本当に恐い。静かな張り詰めた恐さがうまい。
この人から「本もらってくれ」と言われたら、「はい」と2つ返事で受け取ってしまうだろう。
「金貸してくれ」と言われたら、すぐに財布を差し出すかもしれない(笑)。
山田の彼女を演じた黒木絵美花さんの、上からのすっぱりした感じが、1つの女性像を見せてくれた。
母の兵藤公美さんもさすが。
男たちの衣装の、なんだかなぁ、感がいい。
満足度★★★
なぜ、コメディ要素の強い味付けにしたのか
「重くシリアスなテーマを扱いながらもウィットとユーモアに富んだ会話劇として」と、作品の紹介に書いてあったが、その「ユーモア」の部分を拡大解釈してしまったのではないか。
その結果、この作品のテーマが薄らいでしまったように感じた。
ネタバレBOX
「重くシリアスなテーマを扱いながらもウィットとユーモアに富んだ会話劇として」の「ユーモア」を拡大解釈して、より「笑わせたい」と思ったのだろうか。
必要以上にドタバタして、コメディ的な味付けをしているが、タイミング悪くどれも不発だった。
いや、そもそもそんなに「笑い」が必要だったのだろうか。
この物語は、海軍士官学校で学んでいた息子が、5シリング盗んだとして、退学になってしまう。
しかし、家族への風当たりが強い中、息子の無実を信じた家族が父を中心に、息子の名誉を回復するまでの戦いを描いたものであり、そのシリアスなストーリーの中に、ふと、ユーモアが顔を出す、といった作品のはずではなかったのか。
戯曲を書いたテレンス・ラティガンは、喜劇で有名な方らしい。
したがって、随所に喜劇的な味付けはされている。
戯曲を読んで、面白いところを拡大してしまったのだろうか。
しかしそれは、やはり「日常の中」にあるちょっとしたウイットであって、大笑いさせるものではないはず。
大笑いして、ホロッとさせるというような人情喜劇でもないし。
あくまでも「日常」が土台にあり、そこが面白くなったり、ある出来事でぐらっと揺らいでしまう恐さがあったりで、それに立ち向かう家族の姿があるのでは。
困難だけではつらいから。そこが、喜劇を得意とする作者の見せ所であるのだろう。
「コメディ」が作品の土台にあるのではなく、「日常」が、だ。
例えば、こんなシーンがある。
娘に求婚しにボーイフレンドがやって来る。母と娘は別の間にして、対応するのは父の役割。
ボーイフレンドと大切な会話が済んだところで、父は杖で床を叩き、別の間で控える母と娘に部屋に入ってくることを伝えるのだ。
しかし、コメディの常套として、ボーイフレンドとの会話で気持ちを高ぶらせた父は、つい杖で床を叩いてしまう。
観客は、その展開にほくそ笑むのだが、母と娘はなぜやって来ない。
そして、ボーイフレンドとの会話が終わって、本当に杖で床を叩いても彼女たちはやって来ない。
実は、2人は会話に夢中になっていて、杖の音が聞こえなかったのだった。
という展開なのだが、そのときの父親の反応が、コメディのそれなのである。
父は小林隆さんが演じているから、そうした反応がうまい。
間違えて杖で床を叩いてしまったことに気が付き、別の間を見る、という反応をする。
本当に杖で床を叩いたのにもかかわらず、2人が入ってこないことへの反応の表情がある。
そうした反応は、コメディのそれであり、作品全体が「笑い」中心ならば、爆笑になった可能性があった。
しかし、この作品はそうではない。
無理に笑いを取る方向に持っていくのではなく、そこは抑えたほうが、軽いウィットやユーモアになったのではないだろうか。
そうすることで、物語に集中できたように思える。
「笑い」を意識しすぎて、観客はとても中途半端な気持ちに追いやられたように思う。
また、息子と女記者が必要以上にうるさい。
作品全体のトーンとマッチしていないように感じた。
ドタバタの中心にはこの2人とメイドがいた。
メイドも、コメディ的な要素が多すぎて、いかにも「笑うところ」です、な見せ方をしすぎではないか。
メイドの設定は、少し野暮な感じで、全体的に重くなりがちなストーリーの、息抜き、あるいは救いになる要素となっているとは思う。
しかし、全体的な変に笑いを意識しすぎているために、そうしたメイドの役割を削いでしまっているように感じた。
とても大切なポジションのはずなのに。
そんな感じで、前半は結構つらかった。
やっと、前半の幕切れに、弁護士が登場することで締まってほっとした。
前半がこんな感じのままだったら、後半を見ようかどうしようか迷ったほどだ。
ストーリーの展開により、登場したときと役の印象が変わっていくことがお約束とはいえ、とてもいい感じではあった。
中村まことさん、良かった。
満足度★★★★★
笑いながら凍り付く
多くの血が流れても乾ききった荒野が、笑いの下に広がる。
ネタバレBOX
シリアルキラー川島の母が登場する冒頭のシーン。
これはかなりキツいぞ、と思いつつも「MCRだしね、こんぐらいは」と観ていたが、伊達香苗さん演じる母がスカートをたくし上げ、息子の川島にそれを見せつけ、叫ぶシーンでは笑顔が凍り付いた。
伊達香苗さんが、ダメなほうの人になり切っているのだ。
その母性溢れる容姿とは別のベクトルへくっきりと切り替わっていた。
この母から育てられた川島が、そうなっていくのには理解できる母とのシーンだ。
しかし、母がそうだったからと言って、彼がそうなったのは母の責任とは言えない。
彼の性格を形作っているのは、母からの影響が大きいとしても、それだけでは語ることはできない。
実のところ、本当の理由がまったくわからないのが、彼の行動なのではないか。
川島は「人を殺すことに快楽を感じているのか」と、問い掛けてみる。
彼の相棒となった奥田は、明らかにキチガイの殺人者である。
酷い方法で、人を殺すことに快楽を覚えている。
しかし、川島はそうには見えない。
彼の佇まいには、荒野が見える。
何もない荒野が広がっているのだ。
わずかに、彼を「お父さん」と呼び、彼が「天使」と言う奥田の妹・飛鳥と、川島が殺すことのではない男・堀が、彼の荒野に生えている貧弱な植物である。
川島の荒野は、乾ききっている。
彼は、血によってそれを潤すのだが、荒野は広すぎて、何十人殺しても潤うことはなく、乾き切ったままだ。
彼は、それでも血を欲しがり、命を奪う。
これは快楽ではないだろう。
川島自身が命果てるまで、癒えることのない、虚しい行為だ。
そういう虚しさを感じることは、誰にでもあるかもしれない。
川島ほどその「渇き」が酷くないにせよ。
もちろん殺人へ結び付くことはないにせよ。
つまり、川島の荒野までの距離は果てしなく遠いようで、すぐ裏手にあるのかもしれない。
そうした恐さをも描いているのではないか。
この作品の面白さは、シリアルキラー川島のことを夢に見ている有川という男がいる点だ。
有川は、クズらしい。
クズの有川と川島の距離感が、私たち観客と川島という存在の距離感に等しいのではないかとも思った。
この設定が、「なんか酷い殺人鬼いるねー」の話から、少しだけこちらに近づいてきた感があるのだ。
それは、「夢」のようだけど、「リアル」である。
自分にそれが近づいている感覚がある。
クズであっても、人は殺さないという確信めいたものが有川にはある。
しかし、夢が近づいてくることで、その境目が曖昧になってくる恐さがあるのだ。
有川はクズなりにそれをヒシヒシと感じているから、恐いのだ。
自分の内なる荒野がそこにあるのに気が付いているからだ。
いつものごとく、全体的に笑いが多く散りばめながらも、今回は特にゾクゾクするような気持ち悪さがあった。
MCR、さすが。
作・演の櫻井智也さんさすが(本人の、あの台詞回しも好きなんだよね)。
川島を演じた川島潤哉さんが、何かが抜けきったような佇まいが荒野を感じさせた。
そこをやりすぎると、単なる演技になってしまうから。
母を演じた伊達香苗さんは、本当に恐い。見事な醜悪ぶりだ。
ただ、叫ぶ台詞が聞き取り辛いのが難点。
川島の相棒・奥田を演じた奥田洋平さんは、川島と明らかに違う狂った男を演じていた。
川島の天使・飛鳥を演じた後藤飛鳥さんは、インノセントな感じで、宗教をも感じさせ、静かにどこか狂っているような佇まいがいい。
どの舞台でも、抜群の突っ込みを見せる堀さんは、突っ込みはもちろんあるが、川島への苛立ちが感情的にほとばしることで、川島との対比を見せ、さらに堀さんが持つ人間的な世界が、川島の唯一のこちら側との窓に見せてくれた。
有川を演じた有川マコトさんには、あまり多くを語らせないが、さぞクズな人なんだな、と思わせる。
施設の人たちの気持ち悪さも、いい。
満足度★★★
罪と真実とは
ミステリー仕立てで、問い掛けた(はず)。
この作品は、フェルディナント・フォン・シーラッハの最新長編作の初舞台化らしい。
彼の作品は、読んだことないけど。
ネタバレBOX
気鋭の写真家(真田佑馬さん)が、女性を連れ去り殺害したのではないかと疑われ逮捕されてしまう。
彼は取り調べで自供してしまうのだが、その自供は不当な強要によるものであることがわかってしまう。さらに、連れ去られたのが誰かがわからず、死体も見つからない。
青年の指名により弁護を引き受けるのが、橋爪功さん演じる弁護士であった。
彼は事件の真相を語ろうとはせず、弁護士に指示を出すのみ。
事件の謎を探っていく、ミステリー仕立ての作品。
橋爪功さんが、狂言回しの役割も務め、軽やかに弁護士を演じているので、物語の進行はとてもスムーズである。
なんとなく、テレビの2時間ミステリーモノを観ているような感覚さえある。
「彼は本当に犯人なのか」「弁護士は真実をどう暴いていくのか」にストーリーの焦点があるものと思っていたら、ラストでそうでないことが明らかになる。
弁護士が青年と交わすやり取りの、冒頭のシーンがラストに繰り返される。
ある画家の話だ。その画家は90歳をすぎての死ぬ間際に、やっとわかったと語る。彼が描いていたのは自画像だ。
それがこの作品の核となる。
法律によって裁かれる「罪」とは何か。そしてそれは「真実なのか」ということに対して、この青年は、まるで自画像を描くように、妹の手助けを借り、「女性の誘拐・殺害事件」という、自分の生活や人生までも塗り込めた作品を仕上げた。
その作品には、裁判が必要であり、被告人となった自分を弁護する弁護士が必要不可欠である。
そこで、「真実と現実」を意識している、弁護士をこの作品に加えることで、作品を完成させようとする。
いわば、時間と空間を使ったインスタレーションのようなもので、自分と妹による準備、逮捕、弁護、裁判を経ることで作品が完成する。
法廷は、無実の者へ「罪」が被せられたり、あるいは犯罪を犯した者が「無罪」になったりという「罪」を生み出すこともある。不法な取り調べもさることながら、法律に則った弁護でも、法律を使うことでそれは行われる。
つまり、彼の作品のテーマは、「法律で裁く」ということへの「タブー」を炙り出すことではなかったか。
舞台の弁護士も、何も語らない青年の弁護をするのだから、真実でるあるかどうかは問わないのだ。
日本語訳の「禁忌」には、道徳的な意味合いがある。
つまり、触れてはならない「タブー」というよりは、もっと内面的な「タブー」について触れている作品ではないか。
シーラッハも弁護士らしい。
被告人となった写真家の青年は、彼の作品(つまり、事件とその顛末のこと)を通して、そのテーマを描こうとしたのだろう。
一番それが響くのが彼を弁護した弁護士であるはずだ。
弁護士は、青年の指示通りに動き、真相に迫っていくのだが、それは自分自身の精神を追い詰めていくことになるはずではないのか。
舞台の上では、ミステリーのごとく進行しながら、そうしたラストへつながっていくわけなのであるが、芸術(写真)家である青年の深みが見えてこないので、有名人が人騒がせなことをした人にしか見えてこない。
彼の審美的な感覚が、この作品(事件)を作らせたのだと思いたい。そして、追い詰められていくはずの弁護士の姿がそれに重なっていくはずなのだ。
例えば、「裸のマハ」のエピソードなど、いろいろ散りばめられたエレメントは、たぶん彼が企てた創作の伏線になっているはずなのだが、残念ながらそこが見えてこない。
開演前の舞台で行われていたことで、ストーリーの全貌を語っていた。
そこには、まるでテレビか何かのスタジオのような動きがあった。
蛍光灯の設定や、衣装が吊されたハンガーが左右に動き、舞台上にはテレビのカラーバーなどが投影されていた。
まるでこれから始まる舞台が、「つくりもの」であるかのような印象を与えるのだ。
確かに、舞台の上がそうした「虚構である」という大カッコにくくられていることで、舞台で語られる事件についてはわかるのかもしれないが、「虚構」ではなく、芸術家の彼にとっては切実とも言える作品ではなかったのか。「虚構」「真実」「現実」という狭間がポイントであるだけに、この演出は、余計なことだったと思う。
舞台では、映像が多様化されることでストーリーへの理解が高まり、スピーディな展開を可能としていた。
ただ、やや多すぎる感はある。
気になったのは、「文字が色で見える」ような特殊な感覚を持った青年の設定は特に活かされるわけでもないところだ。そういう感覚が彼の行動にどのように影響したのかが、原作ではどう描かれているのかは知らないが、演劇という限られた枠の中で語られるならば、彼の性格や行動への影響を匂わせてほしかったと思う。
また、彼の作品である「裁判まで」が完結した後に、冒頭のシーンが繰り返され、「罪とは」の問い掛けに対して弁護士はきちんとした答えが出せないのだが、出せないということが非常に大切なことではないのか。
そこをどう描くかが、この作品のキーではなかったと思うのだが、その扱いが軽く感じられた。
橋爪功さん、大空祐飛さんはさすがだった。
会場に行く前に、上演時間等の確認で、オフィシャルサイトを確認したら、「真田佑馬さんへのプレゼントは受け付けません」というようなアナウンスがあった。
どうやら彼は、ジャニーズの人らしい。
会場は、若かったり、それなりだったりの女性が多く、終演後も出待ちの人数も多かった。
彼もよくやっていたとは思うが、とらえどころがない青年が、後半に行くに従って、観客の前で変貌していく姿までを見せてくれれば、この作品がもっと心に響くものがあったのではないかと思う。
そこが非常に残念だ。もちろん、そこには演出の問題でもあろう。
満足度★★★★★
ボスの脳髄から染み出た汁
演劇のクオリティという面だけから見れば、少々アレかもしれないが、ひょっとしたら、結構凄い作品なのかもしれない。
ボスさんの持つナイーヴさが、不器用に語られていたのではないか。
観ながら考えるようなこういう作品は好きだし、ボス村松さんの不器用な話法も好きだ。
しかし、一般的な、評判としては今一歩かも……。
ネタバレBOX
鋼鉄村松は、バンドで言えば、ツインボーカル的なやつで、演劇界のクリスタルキングと呼ばれているとかいないとか。
つまり、作・演がボス村松さんとバブルムラマツさんの、2人いる変わった劇団である。
それぞれが戯曲を書き、自らが演出する。
そんなことをしているのにもかかわらず、1つの劇団としてきちんと成り立っている不思議な劇団なのだ。
2人の作・演出家のテイストは似ているようで、異なっている。
今回の作・演のボスさんが、うっかりなのかDVDを売らんがためなのかは知らないが、「最高傑作と言われている前作『ロケット・マン』(作・演:バブルムラマツさん)のDVD売ってます」と、終演後に叫んでいた。
前作で、「少し負けているかも」という意識があるのかもしれない。
それが、下手すると焦りにつながり、空回りになり得る可能性だってある。
しかし、「空回り」こそが、ボスさんのいいところではないか。
頭に浮かんだモノをいざ書こうとすると、手が追い付かない、ということを経験したことはないだろうか。
まさに、ボスさんの作品を観ていると、それを感じる。
ボスさんの頭の回転に作品が追い付いていかないのだ。
しかし、頭がフル回転の極地に達したときに、もの凄いパワーが出てくることがある。
そのときには、ボスさんの脳髄から染み出してきた、というか溢れ出す汁が舞台の上に飛び散るのだ。
それはキレイなはずもなく、濁った汁なのかもしれないが、その中に「(ボスさんの)美(学)」が、常に潜んでいる。本人は「乙女心」と呼んでいるようだが。
それを見つけられるかどうかが、ボスさんの作品を楽しめるかどうかではないだろうか。
見つけ方はそれぞれであるし、見つかるモノも人それぞれだろう。
今回の作品は、冒頭から垢抜けない演出である。
展開やシーンの入れ替わりが早い割に、ドタバタしていて、スマートさは微塵もない。
セットもバックに変な風に布が垂れ下がっていたりする。
しかし、その話法の不器用さが、たまらなく面白くなってくる。
もちろん、「素」の面白さとは違う次元のものである。
こんな不器用さがボスさんの持ち味ではないだろうか。
この作品は、当日パンフの2行目から4行目までに書いてあるとおりのストーリーだ。
エピソード1は、岬を出るといつも時化に遭う兄弟の漁師と、演歌『兄弟船』の因縁話であり、ストーリーの展開とテンポを楽しむものである。
しかし、エピソード2で、突然、観客を異次元に連れ去る。
観客は少し混乱し、意味が飲み込めないまま、エピソード3へつなげていく。
エピソード3がやってくることで、エピソード2の位置づけが明確になり、エピソード1との関係も明らかになってくる。
ここで、ぐっと深みと広がりが出てくるのだ。
しかし、「ここですよ」というアピールはない。
先に書いたとおり、よく言えば実直すぎる、悪く言えば垢抜けない演出なので、1つひとつのエピソードがつながっていることは観客の多くは理解できるとは思うのだが、その先、つまり、3つのエピソードは、3つの連作短編ではなく、1つの作品であることがわかってくれば、頭がぐるりと回転するような感覚を覚える。
1つの作品であることがわかったときに、鳥羽一郎の『兄弟船』の冒頭「♪波の谷間に命の花が、2つ並んで咲いている」が、ぐっと響いてくるのだ。
必ず時化に遭う兄弟漁師の、2つの命が波間に咲いているエピソード1から、母なる海から、母から生まれてくる命の花につながってくるのだ。
確かに強引ではあるし、不器用な語り口ではある。
しかし、「♪波の谷間に命の花が、2つ並んで咲いている」が響くのだ。
いつものことながら、ためらいなくするりと口をついて出てくる台詞が、結構いい。
「後ろを振り返るオルフェウス」のような、必要ある? という台詞の膨らみには、思わず笑ってしまうのだが、その過剰さが好きなのだ。
今回は、迷走とも思えるようなストーリー展開となる。
毎回、そのジャンプ率(ストーリーが飛んでいく率)が高いボス作品ではあるが、今回はさらにそれを増してしまったようだ。
つまり、ボスさんの頭の回転に作品が追い付いていかない感覚だ。
しかも、今回は、主演男優ベス村松さんが抜け、鋼鉄村松の大切なバイプレーヤー、村松ママンスキーさんたちもいない公演であるので、その分の全体の動きがボスさんの気持ちにうまく付いていけたのかどうかは、辛いところではある。
迷走してるようで、実はつながり意味を持ってくるのだ。
その感覚がとても面白い。
観ているほうも、頭をフル回転させなければならない。
そして、自分なりに考える。
その一瞬一瞬がボス村松作品の醍醐味ではないか。
いや、もう1人の作・演のバブルムラマツ作品でもそこは同じなのだ。
それが「鋼鉄村松」ではないか。
過剰な情報から、コアにあるテーマ(のようなもの)を見つけ出す楽しさだ。
ただ、エピソード2の「王女アンジェリカ」のエピソードは、ガラスの仮面を知っていてもいなくても、観客を迷路に置き去りにしてしまう。
あとで回収するにしても、そのことがわかりにくいのは、回収していくためのヒントがないからではないか。
エピソード2の後半で、やっとエピソード1の兄弟が絡んでくるのだが、「王女アンジェリカ」にはそれがない。
一人芝居の面白さを壊さない程度に、エピソード1とのつながりを感じさせるような仕掛けはできないものか。
例えば、黒子役の人がいるのだが、それを(衣装を黒子に変えた)兄弟に演じさせるとか。
無理か。
今回、急に3.11以降のフクシマが触れられていく。「完全にコントロール」とかタイムリーじゃないだけに古くさく、それはちょっと「なんだかなあ」と思っていたが、あくまでもわかりやすい例の1つであって、それを通して「未来」が語られていたのではないか。
つまり、生まれてくる者の未来への不安の(今一番)わかりやすい形であろう(結構ヒヤヒヤなことを言っていたけど・笑)。
そして、この作品では、頭の薄くなったオジサン(赤いスーツを着てたなあ)が、不器用ながら「大丈夫だよ」と、語りかけてくれるのだ。
このナイーヴさがボス松村である。
兄弟役の2人は、とてもよかった。特に弟役の加藤ひろたかさんは、ノビノビとした弟感がいい。すっと前に出る感じがいいのだ。
岸本を演じたNPO法人さんも、リラックスしているような、自然さがあった。
そして、キタジマを演じた後藤のどかさんは、結構な時間の一人芝居であったが、それを弛ませずによく見せたと思う。拍手だ。
漁労長を演じた千頭和直輝さんは、ゴジラになってからの哀愁感がいい(ガリガリの身体のせいもあるが)。
父を演じたバブルムラマツさんは、とにかく楽しそうだった。
漁師たちの衣装は、もっと漁師アピールがあってもいいのでは。
そして、ゴジラには尻尾と背びぐらいは欲しいところである。
2時間超の作品だが、それは感じなかった。
作品とは関係ないが、3人組の男性が、ずっとゴソゴソしたり喋っていたのには、怒りが湧いた。
そこまで行って、「集中しろ!」と、頭をハタいてやりたかった。
満足度★★★★★
黄色い煉瓦道
「5年後、10年後……」の未来は、黄色い煉瓦道の遠い先にある、はず。
煉瓦道の先は、まだ何も見えていない、はず。
ネタバレBOX
舞台は、真ん中に窓のようなハシゴを横にしたようなセットが組まれており、その前後と中を役者さんたちが通り過ぎる。
特徴的なのは、「舞台の上」が「ここからここまで」とはっきりしていることだ。
ハシゴ状のセットの脇を通るときや、待機しているときは、「役」になっていない。
脚を引きずるように歩く役者も、そこでは普通に歩く。
「素」の役者を「あえて」見せている。
それによって、舞台の上の「虚構性」を強くさせているはずなのに、そう感じさせない何かがある。
主人公たちは、高校生? いや、中学生なのか、と徐々にわかってくる。
彼女たちや彼たちが「5年後、10年後、15年後……」と言う、そんな未来から見に来ている私としては、その頃ってどうだったんだろうか、と手探りのような感覚で、観ていた。
しかし、自分が彼らのような年齢だったときには、1年後のことすら考えてなかったから、5年後、10年後……という台詞は「彼らのなれの果ての、未来から発せられた」の言葉のように聞こえた。
つまり、そういうことなのではないだろうか。
彼女たちや彼たちにその台詞を「言わせている」のであって、中学生にとってはそんな先は実感はないし、そういう想像ができない。それが「中学生」ではないか。
実感はないけど、やっぱり明日は来るし、時間は経つし、これからのことを考えろ、と親や先生は言う。
実感ができないから、おぼろげの中での不安がある。
「不安」という言葉にすらなっていない「何か」である。
実感ができれば、彼は死を選ぶことはなかったように思える。
彼を圧迫する「今」の状況が、5年後、10年後と続くと思ってしまうのだろうが、実感が伴えば、15年後、20年後と続いていくと思うだろうか、ということだ。
とは言え、中盤までは、いち観客である自分のノスタルジーもそこそこの感じで、今はすでに中学生ではない私にとって、もうひとつ実感のないまま、舞台を上を観ていた。
ところが、突如として、主人公の少女が、ギターの練習でそのメロディを口ずさむのだ。
その曲は、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』。
エルトン・ジョンの曲だ。
これには、個人的な秘孔を突かれた。
まったくの個人的なことなのだが、この曲は、生まれて2番目に買った洋楽のレコードなのだ。
2番目という中途半端な位置づけにあるものの、そう多くのレコードを買えない中学生にとっては、大切なレコードであって、聞き込んでいた。
『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』は、中学生時代、土曜の昼過ぎにFENで「アメリカントップ40」を聞き、その夜に日本語版の同じ番組を聞いていた(番組内で訳詞の朗読もある)私が、いいなと思い買ったシングルレコードなのだ。
「イエロー・ブリック・ロード」とは、『オズの魔法使い』の中に出てくる、「エメラルドの都」へ向かう道である。
その先には、ドロシーと仲間たちを待ち受けているものがある。
イエロー・ブリック・ロードの上を、歌いながら歩くシーンは、とても昂揚感があり、希望に満ちている。「未来」が確実に待ち受けている。
エルトン・ジョンは、それに「グッパイ」と言った。
この曲の最後は、イエロー・ブリック・ロードに別れを告げて、「田舎に帰る」みたいな内容だったと思う。
『オズの魔法使い』のドロシーも「やっぱりお家が一番」的な呪文で、家に帰るのだ。
だから、『ヒダリメノヒダ』で、この選曲。
「5年後、10年後、15年後……」という台詞と、彼らの「未来」、そして、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』。
後半では、きちんと曲が流れ、さらに彼女がギターで歌う。
「思い描いた未来にさよなら」と言うには、彼女(たち)は若すぎる。
しかし、「その時間にいる」彼女たちにとっては、「若い」ということはない。
「若い」は「後の時間から振り返った感覚」であるからだ。
彼女にとって、彼の死をきっかけとして、何かが終わったのだ。
「未来」を「見る」はずの、目(ヒダリの目)は、よく見えない。
それは、彼女が、それを無意識の中で拒んでいるのかもしれない。
「ヒダリメノヒダ」という呪文を唱えることで、さらにそれに拍車を、自分自身でかけていく。
彼にはそれが効かなかった。
彼には、年単位の途方もない先の未来よりも、少し先の未来の恐怖のほうが多くて、「見ない」という拒否方法が使えなかったので、自分自身を消してしまったのだろう。
エルトン・ジョンの『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』が流れ、彼女の歌が聞こえたときに、相当、ぐっと来た。
つまり、舞台の上で行われていることと、直接的な結び付きはないものの、極々個人的な中学時代の思い出、というより、「あの感覚」が、身体を包み込んでしまった。
呑気でバカだったけど、3年生ぐらいになったときの、途方もない未来への不安。
「不安」というような「名前」すらついていない、ぼんやりとした、その感覚が、蘇るのだ。
それは、そう、彼女がヒダリノメで見たようなぼんやりとしたものだ。
彼女がラストに発する「ああ、いやんなっちゃう」という台詞は、相当、響いた。
オープニングとつながる、煙突からの煙についての台詞が、オープニングとは違う感覚で受け止められることにもグッときてしまう。
最初に書いたが、舞台の袖をはっきり見せることで、虚構性を感じさせる作品なのだが、「つくりもの」感は不思議とない。
中学生たち、特に少女たちの、瑞々しいとも言えるような演技に引き込まれた。
この感じが出せるのが、藤田貴大さんの演出の特徴でもある。
なんでこんなに舞台の上で「生きて」いるんだろうと思う。
物語を追いたい者としては、彼女たちの家族や、そのほかのバックボーンが細かく描かれていないことに不満は多少あるが、舞台セットでもわかるように、「その時」「その一瞬」を「切り取って見せている」という感覚で、彼女たちの背景まで、見る者の感覚と記憶によって膨らませることができるのかもしれない。
1人の男子中学生が自らの命を絶つのだが、もちろん物語としては必要だったのかもしれないが、彼には死んでほしくなかったと、強く思った。
死なないことで、何かが変わるほうが素敵だからだ。
「何かあったら言えよ」という台詞は、結構重い。
彼らの関係が辛い。
川崎の事件につながって見えてしまう。
女子中学生を演じた、吉田聡子さんと川崎ゆり子さんが良かった。
特に吉田聡子さんの存在というか、1つひとつの言葉や仕草が愛おしい。
それは自分自身の「時代」への愛おしさも、勝手に重ねているのかもしれない。
音楽が印象的であり、舞台の空気を伝えてくれた。
満足度★★★★★
自分の世界と外の世界
MUは、2009年にルデコで『JUMON/便所の落書き屋さん』の2本立てから観ている。
しかし、評判の良かった前作は見逃しているのだが、「MUの最高傑作登場」と言ってしまおう。
日常をうまく構築し、台詞のセンスがいい。
21名もの役者それぞれのキャラがきちんと立っていて、それぞれの「物語」での「役割」と「設定」が抜群。
「上演時間は140分」というアナウンスを聞いて、心の中で「えーっ」っ思ったが、その「えー」は、回収して持って帰るべきだった。
前のめりで楽しんだ。
……ネタバレボックスへの書き込み、調子に乗って長くなりすぎた。
ネタバレBOX
MUの面白さは、「軽み」ではないか。
このときの、「軽み」は「軽さ」とはニュアンスが違う。
芭蕉が到達したと言われる俳諧の理念の「軽み」であり、「軽い」わけではない。
goo辞書を引用すれば、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡にさらりと表現する姿」である。
まさにMUの世界と一致する。
表層にある日常の世界を描いているようで、実はその中にはずっしりと重量感があったりする。それを「美」と言ってもいいし、「テーマ」と言ってもいいだろう。
(表層の)日常の面白さだけを見たとしても、MUの作品は楽しめる。
気の効いた台詞の応酬がいいからだ。
今回はの作品は、140分もの長編である。
MUは短・中編という印象が強いが、ずっしりとした長編。
3部連作と説明をしているが、3幕モノの長編と言ってもいいだろう。
というか、そう見たほうがいいように思える。
さて、この作品は、小沢道成さん演じる光雄が、主人公である。
彼の世界に近いところにいる高校生たちが、江口ハウスと呼ばれる彼の家に集まり、ゆるく世界を作る。
「世界」という表現をしたが、これがこの作品の1つのポイントではないだろうか。
思春期ぐらいから、「自分の世界」について考え始めることがあると思う。
その「世界」をどうとらえるかによって、あとの「世界」が大きく変わる。
まず最初に「自分の世界」があるというこを発見する。
それが他者との違いを理解することになるのだ。
そして、その「自分の世界」がどうなのかを、「外の世界」と比較し、小さかったり、薄汚れていたりと感じるのが思春期であろう。また、逆もある。「外の世界」が、薄汚れていると感じるのも思春期特有の考え方だ。
「自分の世界」と「外の世界」が「切り離された」ときに、「どう感じるか」が、次のポイントとなる。
そこで、「光雄(たち)の世界観」が出てくる。
彼(ら)は、外の世界と自分の世界が切り離れていると感じたときに、それを受動的に受け止め、「孤立した」と感じてしまう。
事故でサッカーできなくなってしまった明石健や、演劇部活でハブられていると主張する大岡山誠、かつていじめられっ子だった福田栄人、ロック好きなモヨコなどがまさに、それぞれが「自分の世界」と「外の世界」の「関係」をそう見て(受動的に受け止め)、「孤立感」を感じている。福田とモヨコがつきあい始めるのは、「自分の世界の拡張」にすぎない。
だから群れる。
しかし、そうでない感じ方をする人もいる。
それが、光雄の従兄弟・晴臣である。
彼(ら)は、外の世界と自分の世界が切り離れていると感じたときに、それを能動的に受け止め、「独立した」と感じるのだ。
「孤立した」と感じる派にとって、「銃」は「お守り」である。つまり受動的なのだ。しかし、「独立した」と感じる派にとっては、「銃」は「ツール」や「スキル」であり、能動的なかかわり方をする。
作品ではそこのところがきちんと描かれていた。
この作品の「軽み」とは、こういったことなのである。
ともすれば、こういった作品は、被害者意識の強い光雄たちの「自分の世界」と、「外の世界」の代表である、大人、つまり、「親」や「先生」との対比、あるいは対立という図式になりがちである。
しかし、別の視点、つまり、「晴臣の、自分の世界」を持ってくることで、より物語に深みを増していくことになったのだ。
晴臣は、光雄にとっての理想像なのかもしれない。つい反発してしまうのは、近すぎるからだろう。
晴臣が光雄に言う台詞がある。「簡単に人の輪に入っていく自分が羨ましいのだろう」(正確ではないけどそんな意味)と晴臣が言うのは、まさに光雄にとって正鵠を射った言葉だったのだと思う。
そんな2人の関係は、チェーホフの作品ではわからないが(笑)、シェイクスピアの『ハムレット』ならば、光雄がハムレットで、晴臣がフォーティンブラスというところか(笑)。違うか。
横道にそれてしまった。
そのように、たとえ分岐点までは同じであったとしても、少しのずれで大きく進路が変わってしまった、2つの「切り離された世界」の「とらえ方」で、気づきを呼び起こす。
なので、後半に向けて光雄の成長が理解しやすくなるのだ。
それは「対立」という図式にあったのでは到達しにくい方向ではないだろうか。
ラスト近くで光雄は、小川恵美というガールフレンドに別れを告げる。
「自分の世界」は「孤独である」と感じていた者であれば、そういう選択はあり得なかったと思う。
すなわち、「彼女は自分の世界の人じゃなかった」という失望感の中での「別れ」ではないからだ。
彼女の「自分の世界」を認めたことによる別れであり、光雄の視点がぐるりと転換したことによるのではないだろうか。
それはつまり、彼自身が言っていたように、「彼女を救う」のは「自分を救うこと」だったということに気が付いたということでもある。
「銃」を仲間に貸したのは、明らかに「実験的」な意味合いが強く、それは「彼女を救う」ということが根底にあったとしても、「彼女との関係」を「進行させたい」という欲求もモロ出しのようであり、彼のそういう心は、実は外からは丸見えであったりしたわけなのだが。
光雄は、「一方向の視野」しか持たなかったのが、「いくつかの方向の視野」を得たということだ。
光雄を含めて、江口ハウスに集まる人たちは、自分のことを客観視しているようで、実は「自分の世界の中」からしか、客観視できていなかったのが、「外の世界」から見ることができたということではないか。
したがって、彼は江口ハウスに集まってくる高校生たちとも別れることになるような気がする。少なくとも精神的には。
光雄にとっての、ひとつの軸、あるいは規範でもあり得た、晴臣は、その時点で光雄にとって、(酷い言葉ではあるが)必要がなくなった。だから、物語の中で消えていく。
作・演のハセガワさんは、このステップを踏んできたのではないかな、と思わせる。
こちらが勝手に思っていることなのだか、ハセガワさんは、ただ群れることに嫌悪感を抱いているのではないかと思うからだ。だから、光雄であり、晴臣でもあり得るのではないか、なんて。
大人たちの姿もいろいろある。
光雄たちのそう言った時代を過ぎてしまったであろう校長や浮いている教師の青山は、何かのきっかけでその時代を抜け出すことができた。
言葉であったり、何かであったわけだ。
それをいまだにうまく抜け出していないのが、体育教師の野崎だろう。他人の世界が見えていないまま、大人になって教師になってしまった。
その最右翼が、光雄の父だ。
江口ハウスという、魅力的な「自分の世界」の「王(パパ)」であり、リアルな家族の一員としては欠落したままだ。
なので、子どもたちは、コンプレックスを持ったままなのだ。
ラストに光雄に「ありがとう」の声が柔らかく降り注ぐ、これは光雄の中の声であり、まあ、言ってしまえば、例のロボット的なアニメのラストで主人公に掛けられる「おめでとう」に相当するのではないかな、とか思ったり。……根本的には違うけど。
そして、MUの作品のほうが納得度が高い。
光雄役の小沢道成さんが、もの凄くいい。繊細でナイーヴながらも人と接しようとする様子がいいのだ。後半にかけて、彼が成長していく様の見せ方もうまい。
そして、斉藤マッチュさんである。マッチュじゃなくて、マッチョかと思っていたのは秘密として(笑)、力の抜き方と入り方がとてもうまい。瞬間的に身体が変わる。
光雄の父を演じた成川知也さんが、うざくていい。光雄たち、子どもの気持ちを乱す「大人」の象徴としての描き方が見事で、演技もそれを支えていた。
体育教師を演じた山﨑カズユキさんも、さらにうざい男である。教師らしい上から目線と本当にバカである、という演技がうますぎて、むかついた(笑)。
大岡山を演じた岡山誠さんと、福田を演じた友松栄さんが出てきたときには、「マジかよ」「高校生か?」と思ってしまったが、これがいいのだ。あんな姿形なのに(失礼・笑)、本当にナイーヴで、乙女のような高校生なのだ。大人になってもずっと引きずっていきそうだと思ってしまう。
21名もの役者それぞれのキャラがきちんと立っていて、それぞれの「物語」での「役割」と「設定」がいい。
無駄なくきれいに動いているのだ。
しかし、「江口ハウス」の設定には笑った。
いいとこ、突いてきたな、と思う。
さすがうまい。
MUは、「ぶっ壊れた学園劇」のようなキャッチフレーズを使っているが、個人的にはそれはもういらないのではないかと思う。
キャッチーなコピーとして機能していたのかもしれないが、「ぶっ壊れた」が、そもそも似合わないし、似合わなくなってきているのではないだろうか。
そういう破壊的な印象ではなく、もっとセンシティブな印象を受けるからだ。
「センシティブな学園劇」ってのは違うけど(笑)。
あと、笑いがあるのがいい。
日常の描写の中で、うまく笑わせてくれる。
九四式拳銃のプロップが意外と良かった。こういものをおざなりにしてしまうと、物語が冷めてしまうから。また、壁を床までかっちりと作り込まないセットもうまい。そうしてしまうと、窓外に倒れた2人が見えなくなってしまうし、余計な閉塞感が漂ってしまうからだ。
『マイリトルガン』はどうやらマキシっぽい。
正解(のようなもの)として、この曲はラストに流してほしかった。
光雄がレコードかけるのがベストだったかな。
どうでもいいことだけど、オートマチックの拳銃は、最初の弾を手動で装填しなくてはならないので、晴臣はそうしていたことになる。劇中でも言っていたけど、この銃の場合、携行の際に暴発の危険性が高いのと、撃つ気はなさそうだったのに、装填していたのはどうかな、なんてことも思った。
満足度★★★★★
水面に垂らしたコーヒーのように異物の陰が広がる
幸福な家族に、招かざる客が……そんな設定の作品は今までも何本もあった。
さて、この作品では。
ネタバレBOX
幸福そうな家族に、招かざる異物(客)が混入することで、波紋が波乱となる、そういう設定の作品は今までも何本もあった。
この作品もそうである。
弁護士一家の豪邸に招かざる客・佐山が登場することで、ほころびが広がり、壊れていく。
それをどう見せ、何を示すのかがポイントである。
冒頭の、少しとぼけたと感じ、と思わせる雰囲気がいい。
朝、この家の妻(市毛良枝さん)が起きてくると知らない人物・佐山(若松武史さん)がソファーに寝ている。
妻と夫(小林勝也さん)、そして知らない人物とのやり取りが笑える。
しかし、ここに仕掛けがあった。
「なぜ、その不審者は帰ろうとしないのか」
「なぜ、夫は、不審者がいることをあまり問題にしないのか」
ということだ。
佐山を演じる若松武史さんという俳優から目が離せない。というか好きだ。
大げさに言えば、いつも陰があり、いつも不気味な存在である。
顔の角度や声の調子から、それを常に醸し出している。
ように感じてしまう。
この作品でも、単に酔っぱらって、家の娘に無理矢理に連れてこられてきてしまい、つい、うっかり言ってはいけないことを口走ってしまったようにしているが、「そうじゃないだろ?」「わざとだろ?」と思ってしまう。
若松さんが、言い訳せずにすぐに謝り、さらにすぐにフォローしたりするところなどが、特に怪しいのだ。
そういう見方をしていたが、実はどうであったのかが、徐々にだが、先に進みながら、うっすらと見え、ラストに明らかになる。
彼は、写真家であり、「顔」を撮っていると言う。
彼のシャッターの押すタイミングは独特であり、その場で感じていることを被写体に質問して、そのリアクションを撮るというものだ。
この家の妻にも「大丈夫ですか」と質問し、シャッターを押す。
これは、実はその場で感じて発した質問ではなく、「用意していた質問」であることが後々見えてくる。
もちろん、ここからは想像なのだが、佐山は、パーティでこの家の娘に出会い、そこで酔っぱらって、娘の実家に連れてこられたということになっている。
しかし、そうではなかったのではないか。
佐山は、「顔」つまり「表情」を撮りたいと思っていて、そういう表情を探していたのだろう。そこで、娘・美加と出会い、いろいろリサーチしたのだ。(たぶん)美加を酔っぱらわせて、しかも、本人がしゃべってしまった、と思い込ませないように巧みに、根掘り葉掘り聞き出したのだろう。
だから、この家の秘密(母親が息子の結婚した相手を知らない・知ったら反対するということ)を知り得て、ピンときたのではないか。しかも、翌日は、母が息子の子ども(つまり母の孫)の出産に立ち会うための出発の日なのだから。本当はこの家へ押し掛けたのだろうが、それも「娘・美加から無理矢理に誘った」という感じにしてある。
佐山が、この家ではタブーなことに、タマネギの皮を剥くように、慎重に近づいていく。
最後の表情を撮るために、妻に「大丈夫ですか」という不安の種を蒔いてからというのも、用意周到だ。
「大丈夫」の単語がうまい。
要所要所で発せられることで、妻だけがやすりで削られるように、反応する。
どこかに訪れるであろうシャッターチャンスを舌なめずりしながら、佐山は待っている。
だから、理由をつけて帰ろうとしないし、わざと「なぜここにいるかわからない」としたのも、彼の暗い計画を隠すためのものだったとわかるのだ。
弁護士の夫が不審者である佐山に、ある意味寛大なのは、そんなことに構っていられないからだろう。
つまり、何も知らずに息子のところへ行く妻へ、どのタイミングで話すか、あるいは行かせないか、ということのほうが大切だからだ。
ただ、少し不安定になった妻の言動はあまりにも不審すぎる。
たぶん、夫や娘、そして息子たちからの距離感は、薄々感じていたのだろう。
だから、とても不安定な足場の上にいて、「大丈夫」の一押しで、ぐらついてしまったのはわかる。
しかし、やはり、ぐらつきが大きくはないか。
大雨で家そのものが危ないとしても。
妻の「家」の象徴は「家」そのものであった。
家が象徴するものが、実は近所にもいい印象を与えていなかった、ということと、家族の関係は似ている。
水害に晒されている、今の「家」そのものが、今の家族を示している。
ラストに、佐山が待ち望んだシャッターチャンスが訪れる。
信じていた「家族」の存在が「崩壊」していたことに気が付いた、妻の顔の一瞬一瞬だ。
この瞬間のためだけに、家族の「虚構」が「崩壊した」ではなく、「白日の下に晒された」のだ。
佐山の巧みさは、今回初めて発揮されたのではないだろう。
つまり、こういうことを、彼はずっと繰り返し行ってきたのではないか。
ということは、「こういう家族は結構いる」ということなのだろう。
他人から見れば、ぐらぐらした足場に立ち、一押しで簡単に崩れてしまうような家族が、だ。
しかし、この家族の「崩壊」(白日の下に晒された)は、いずれ起こったであろう。
つまり、息子の嫁の話を家族が誰も自分に話してくれなかったということに、数時間の間に気が付き、同じような崩壊感を味わったのではないかとも思える。
妻役の市毛良枝さんの、なかなか崩れないままの、崩壊ぶりは見事で恐い。
夫役の小林勝也さんの、佇まいもいい。
町内会長役の谷川昭一朗さんの、ラストに向けての剥き出しの敵意がとてもいい。
そして、佐山役の若松武史さんは、その場所に常に陰が差していて、彼の存在が水面に落としたコーヒーのように(そう、夫が水浸しの床にこぼしたコーヒーのように)、家族にも陰を広げていった。そういう演技が素晴らしい。
この流れでいけばい、ラストは「本水」だろうと思っていたが、最前列席にはカッパの用意もないので、どうするのかと思っていた。
しかし、「なるほど」ということで、窓から溢れてくる水があった。
「雨に唱えば」の鼻歌は、あまりにもフィットしすぎではあったが。
ラストで、抱き合う3人の家族の姿で、「雨降って地固まる」的なものなのかと思えば、そうではなかった。
そういう甘いラストではなく、「家族」という「虚構」の「鎖」で繋がっていた妻は、そんな鎖はなかったということに気が付き、心が「漂泊」していくのであろうということを感じさせるラストでもあった。
これを乗り越えていくことができるのか、ということはわからない。
少なくとも、ご近所づきあいは、表面上のものはなくなり、厳しくなっていくのだろうとは思うのだが。
蓬莱竜太さんの戯曲は、毒の感じがいい。
そして、田村孝裕さんの演出もかっちりしていて見やすかった。