少年は銃を抱く(満員御礼で終了しました。御感想お待ちしています) 公演情報 MU「少年は銃を抱く(満員御礼で終了しました。御感想お待ちしています)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    自分の世界と外の世界
    MUは、2009年にルデコで『JUMON/便所の落書き屋さん』の2本立てから観ている。
    しかし、評判の良かった前作は見逃しているのだが、「MUの最高傑作登場」と言ってしまおう。

    日常をうまく構築し、台詞のセンスがいい。
    21名もの役者それぞれのキャラがきちんと立っていて、それぞれの「物語」での「役割」と「設定」が抜群。

    「上演時間は140分」というアナウンスを聞いて、心の中で「えーっ」っ思ったが、その「えー」は、回収して持って帰るべきだった。
    前のめりで楽しんだ。

    ……ネタバレボックスへの書き込み、調子に乗って長くなりすぎた。

    ネタバレBOX

    MUの面白さは、「軽み」ではないか。
    このときの、「軽み」は「軽さ」とはニュアンスが違う。

    芭蕉が到達したと言われる俳諧の理念の「軽み」であり、「軽い」わけではない。
    goo辞書を引用すれば、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡にさらりと表現する姿」である。

    まさにMUの世界と一致する。

    表層にある日常の世界を描いているようで、実はその中にはずっしりと重量感があったりする。それを「美」と言ってもいいし、「テーマ」と言ってもいいだろう。

    (表層の)日常の面白さだけを見たとしても、MUの作品は楽しめる。
    気の効いた台詞の応酬がいいからだ。

    今回はの作品は、140分もの長編である。
    MUは短・中編という印象が強いが、ずっしりとした長編。
    3部連作と説明をしているが、3幕モノの長編と言ってもいいだろう。
    というか、そう見たほうがいいように思える。

    さて、この作品は、小沢道成さん演じる光雄が、主人公である。
    彼の世界に近いところにいる高校生たちが、江口ハウスと呼ばれる彼の家に集まり、ゆるく世界を作る。

    「世界」という表現をしたが、これがこの作品の1つのポイントではないだろうか。

    思春期ぐらいから、「自分の世界」について考え始めることがあると思う。
    その「世界」をどうとらえるかによって、あとの「世界」が大きく変わる。

    まず最初に「自分の世界」があるというこを発見する。
    それが他者との違いを理解することになるのだ。

    そして、その「自分の世界」がどうなのかを、「外の世界」と比較し、小さかったり、薄汚れていたりと感じるのが思春期であろう。また、逆もある。「外の世界」が、薄汚れていると感じるのも思春期特有の考え方だ。

    「自分の世界」と「外の世界」が「切り離された」ときに、「どう感じるか」が、次のポイントとなる。

    そこで、「光雄(たち)の世界観」が出てくる。
    彼(ら)は、外の世界と自分の世界が切り離れていると感じたときに、それを受動的に受け止め、「孤立した」と感じてしまう。

    事故でサッカーできなくなってしまった明石健や、演劇部活でハブられていると主張する大岡山誠、かつていじめられっ子だった福田栄人、ロック好きなモヨコなどがまさに、それぞれが「自分の世界」と「外の世界」の「関係」をそう見て(受動的に受け止め)、「孤立感」を感じている。福田とモヨコがつきあい始めるのは、「自分の世界の拡張」にすぎない。

    だから群れる。

    しかし、そうでない感じ方をする人もいる。

    それが、光雄の従兄弟・晴臣である。
    彼(ら)は、外の世界と自分の世界が切り離れていると感じたときに、それを能動的に受け止め、「独立した」と感じるのだ。

    「孤立した」と感じる派にとって、「銃」は「お守り」である。つまり受動的なのだ。しかし、「独立した」と感じる派にとっては、「銃」は「ツール」や「スキル」であり、能動的なかかわり方をする。
    作品ではそこのところがきちんと描かれていた。

    この作品の「軽み」とは、こういったことなのである。

    ともすれば、こういった作品は、被害者意識の強い光雄たちの「自分の世界」と、「外の世界」の代表である、大人、つまり、「親」や「先生」との対比、あるいは対立という図式になりがちである。
    しかし、別の視点、つまり、「晴臣の、自分の世界」を持ってくることで、より物語に深みを増していくことになったのだ。

    晴臣は、光雄にとっての理想像なのかもしれない。つい反発してしまうのは、近すぎるからだろう。
    晴臣が光雄に言う台詞がある。「簡単に人の輪に入っていく自分が羨ましいのだろう」(正確ではないけどそんな意味)と晴臣が言うのは、まさに光雄にとって正鵠を射った言葉だったのだと思う。

    そんな2人の関係は、チェーホフの作品ではわからないが(笑)、シェイクスピアの『ハムレット』ならば、光雄がハムレットで、晴臣がフォーティンブラスというところか(笑)。違うか。

    横道にそれてしまった。
    そのように、たとえ分岐点までは同じであったとしても、少しのずれで大きく進路が変わってしまった、2つの「切り離された世界」の「とらえ方」で、気づきを呼び起こす。

    なので、後半に向けて光雄の成長が理解しやすくなるのだ。

    それは「対立」という図式にあったのでは到達しにくい方向ではないだろうか。

    ラスト近くで光雄は、小川恵美というガールフレンドに別れを告げる。
    「自分の世界」は「孤独である」と感じていた者であれば、そういう選択はあり得なかったと思う。
    すなわち、「彼女は自分の世界の人じゃなかった」という失望感の中での「別れ」ではないからだ。

    彼女の「自分の世界」を認めたことによる別れであり、光雄の視点がぐるりと転換したことによるのではないだろうか。
    それはつまり、彼自身が言っていたように、「彼女を救う」のは「自分を救うこと」だったということに気が付いたということでもある。
    「銃」を仲間に貸したのは、明らかに「実験的」な意味合いが強く、それは「彼女を救う」ということが根底にあったとしても、「彼女との関係」を「進行させたい」という欲求もモロ出しのようであり、彼のそういう心は、実は外からは丸見えであったりしたわけなのだが。

    光雄は、「一方向の視野」しか持たなかったのが、「いくつかの方向の視野」を得たということだ。
    光雄を含めて、江口ハウスに集まる人たちは、自分のことを客観視しているようで、実は「自分の世界の中」からしか、客観視できていなかったのが、「外の世界」から見ることができたということではないか。
    したがって、彼は江口ハウスに集まってくる高校生たちとも別れることになるような気がする。少なくとも精神的には。

    光雄にとっての、ひとつの軸、あるいは規範でもあり得た、晴臣は、その時点で光雄にとって、(酷い言葉ではあるが)必要がなくなった。だから、物語の中で消えていく。

    作・演のハセガワさんは、このステップを踏んできたのではないかな、と思わせる。
    こちらが勝手に思っていることなのだか、ハセガワさんは、ただ群れることに嫌悪感を抱いているのではないかと思うからだ。だから、光雄であり、晴臣でもあり得るのではないか、なんて。

    大人たちの姿もいろいろある。
    光雄たちのそう言った時代を過ぎてしまったであろう校長や浮いている教師の青山は、何かのきっかけでその時代を抜け出すことができた。
    言葉であったり、何かであったわけだ。

    それをいまだにうまく抜け出していないのが、体育教師の野崎だろう。他人の世界が見えていないまま、大人になって教師になってしまった。

    その最右翼が、光雄の父だ。
    江口ハウスという、魅力的な「自分の世界」の「王(パパ)」であり、リアルな家族の一員としては欠落したままだ。
    なので、子どもたちは、コンプレックスを持ったままなのだ。

    ラストに光雄に「ありがとう」の声が柔らかく降り注ぐ、これは光雄の中の声であり、まあ、言ってしまえば、例のロボット的なアニメのラストで主人公に掛けられる「おめでとう」に相当するのではないかな、とか思ったり。……根本的には違うけど。
    そして、MUの作品のほうが納得度が高い。

    光雄役の小沢道成さんが、もの凄くいい。繊細でナイーヴながらも人と接しようとする様子がいいのだ。後半にかけて、彼が成長していく様の見せ方もうまい。
    そして、斉藤マッチュさんである。マッチュじゃなくて、マッチョかと思っていたのは秘密として(笑)、力の抜き方と入り方がとてもうまい。瞬間的に身体が変わる。

    光雄の父を演じた成川知也さんが、うざくていい。光雄たち、子どもの気持ちを乱す「大人」の象徴としての描き方が見事で、演技もそれを支えていた。
    体育教師を演じた山﨑カズユキさんも、さらにうざい男である。教師らしい上から目線と本当にバカである、という演技がうますぎて、むかついた(笑)。

    大岡山を演じた岡山誠さんと、福田を演じた友松栄さんが出てきたときには、「マジかよ」「高校生か?」と思ってしまったが、これがいいのだ。あんな姿形なのに(失礼・笑)、本当にナイーヴで、乙女のような高校生なのだ。大人になってもずっと引きずっていきそうだと思ってしまう。

    21名もの役者それぞれのキャラがきちんと立っていて、それぞれの「物語」での「役割」と「設定」がいい。
    無駄なくきれいに動いているのだ。

    しかし、「江口ハウス」の設定には笑った。
    いいとこ、突いてきたな、と思う。
    さすがうまい。

    MUは、「ぶっ壊れた学園劇」のようなキャッチフレーズを使っているが、個人的にはそれはもういらないのではないかと思う。
    キャッチーなコピーとして機能していたのかもしれないが、「ぶっ壊れた」が、そもそも似合わないし、似合わなくなってきているのではないだろうか。
    そういう破壊的な印象ではなく、もっとセンシティブな印象を受けるからだ。
    「センシティブな学園劇」ってのは違うけど(笑)。

    あと、笑いがあるのがいい。
    日常の描写の中で、うまく笑わせてくれる。

    九四式拳銃のプロップが意外と良かった。こういものをおざなりにしてしまうと、物語が冷めてしまうから。また、壁を床までかっちりと作り込まないセットもうまい。そうしてしまうと、窓外に倒れた2人が見えなくなってしまうし、余計な閉塞感が漂ってしまうからだ。

    『マイリトルガン』はどうやらマキシっぽい。
    正解(のようなもの)として、この曲はラストに流してほしかった。
    光雄がレコードかけるのがベストだったかな。

    どうでもいいことだけど、オートマチックの拳銃は、最初の弾を手動で装填しなくてはならないので、晴臣はそうしていたことになる。劇中でも言っていたけど、この銃の場合、携行の際に暴発の危険性が高いのと、撃つ気はなさそうだったのに、装填していたのはどうかな、なんてことも思った。

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    2015/03/31 05:54

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