ヒダリメノヒダ 公演情報 マームとジプシー「ヒダリメノヒダ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    黄色い煉瓦道
    「5年後、10年後……」の未来は、黄色い煉瓦道の遠い先にある、はず。
    煉瓦道の先は、まだ何も見えていない、はず。

    ネタバレBOX

    舞台は、真ん中に窓のようなハシゴを横にしたようなセットが組まれており、その前後と中を役者さんたちが通り過ぎる。
    特徴的なのは、「舞台の上」が「ここからここまで」とはっきりしていることだ。

    ハシゴ状のセットの脇を通るときや、待機しているときは、「役」になっていない。
    脚を引きずるように歩く役者も、そこでは普通に歩く。
    「素」の役者を「あえて」見せている。

    それによって、舞台の上の「虚構性」を強くさせているはずなのに、そう感じさせない何かがある。

    主人公たちは、高校生? いや、中学生なのか、と徐々にわかってくる。
    彼女たちや彼たちが「5年後、10年後、15年後……」と言う、そんな未来から見に来ている私としては、その頃ってどうだったんだろうか、と手探りのような感覚で、観ていた。

    しかし、自分が彼らのような年齢だったときには、1年後のことすら考えてなかったから、5年後、10年後……という台詞は「彼らのなれの果ての、未来から発せられた」の言葉のように聞こえた。
    つまり、そういうことなのではないだろうか。

    彼女たちや彼たちにその台詞を「言わせている」のであって、中学生にとってはそんな先は実感はないし、そういう想像ができない。それが「中学生」ではないか。
    実感はないけど、やっぱり明日は来るし、時間は経つし、これからのことを考えろ、と親や先生は言う。

    実感ができないから、おぼろげの中での不安がある。
    「不安」という言葉にすらなっていない「何か」である。

    実感ができれば、彼は死を選ぶことはなかったように思える。
    彼を圧迫する「今」の状況が、5年後、10年後と続くと思ってしまうのだろうが、実感が伴えば、15年後、20年後と続いていくと思うだろうか、ということだ。

    とは言え、中盤までは、いち観客である自分のノスタルジーもそこそこの感じで、今はすでに中学生ではない私にとって、もうひとつ実感のないまま、舞台を上を観ていた。


    ところが、突如として、主人公の少女が、ギターの練習でそのメロディを口ずさむのだ。
    その曲は、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』。
    エルトン・ジョンの曲だ。
    これには、個人的な秘孔を突かれた。

    まったくの個人的なことなのだが、この曲は、生まれて2番目に買った洋楽のレコードなのだ。
    2番目という中途半端な位置づけにあるものの、そう多くのレコードを買えない中学生にとっては、大切なレコードであって、聞き込んでいた。

    『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』は、中学生時代、土曜の昼過ぎにFENで「アメリカントップ40」を聞き、その夜に日本語版の同じ番組を聞いていた(番組内で訳詞の朗読もある)私が、いいなと思い買ったシングルレコードなのだ。

    「イエロー・ブリック・ロード」とは、『オズの魔法使い』の中に出てくる、「エメラルドの都」へ向かう道である。
    その先には、ドロシーと仲間たちを待ち受けているものがある。
    イエロー・ブリック・ロードの上を、歌いながら歩くシーンは、とても昂揚感があり、希望に満ちている。「未来」が確実に待ち受けている。

    エルトン・ジョンは、それに「グッパイ」と言った。
    この曲の最後は、イエロー・ブリック・ロードに別れを告げて、「田舎に帰る」みたいな内容だったと思う。
    『オズの魔法使い』のドロシーも「やっぱりお家が一番」的な呪文で、家に帰るのだ。

    だから、『ヒダリメノヒダ』で、この選曲。

    「5年後、10年後、15年後……」という台詞と、彼らの「未来」、そして、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』。
    後半では、きちんと曲が流れ、さらに彼女がギターで歌う。

    「思い描いた未来にさよなら」と言うには、彼女(たち)は若すぎる。
    しかし、「その時間にいる」彼女たちにとっては、「若い」ということはない。
    「若い」は「後の時間から振り返った感覚」であるからだ。

    彼女にとって、彼の死をきっかけとして、何かが終わったのだ。
    「未来」を「見る」はずの、目(ヒダリの目)は、よく見えない。
    それは、彼女が、それを無意識の中で拒んでいるのかもしれない。

    「ヒダリメノヒダ」という呪文を唱えることで、さらにそれに拍車を、自分自身でかけていく。
    彼にはそれが効かなかった。
    彼には、年単位の途方もない先の未来よりも、少し先の未来の恐怖のほうが多くて、「見ない」という拒否方法が使えなかったので、自分自身を消してしまったのだろう。

    エルトン・ジョンの『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』が流れ、彼女の歌が聞こえたときに、相当、ぐっと来た。

    つまり、舞台の上で行われていることと、直接的な結び付きはないものの、極々個人的な中学時代の思い出、というより、「あの感覚」が、身体を包み込んでしまった。
    呑気でバカだったけど、3年生ぐらいになったときの、途方もない未来への不安。
    「不安」というような「名前」すらついていない、ぼんやりとした、その感覚が、蘇るのだ。

    それは、そう、彼女がヒダリノメで見たようなぼんやりとしたものだ。

    彼女がラストに発する「ああ、いやんなっちゃう」という台詞は、相当、響いた。

    オープニングとつながる、煙突からの煙についての台詞が、オープニングとは違う感覚で受け止められることにもグッときてしまう。

    最初に書いたが、舞台の袖をはっきり見せることで、虚構性を感じさせる作品なのだが、「つくりもの」感は不思議とない。
    中学生たち、特に少女たちの、瑞々しいとも言えるような演技に引き込まれた。
    この感じが出せるのが、藤田貴大さんの演出の特徴でもある。
    なんでこんなに舞台の上で「生きて」いるんだろうと思う。

    物語を追いたい者としては、彼女たちの家族や、そのほかのバックボーンが細かく描かれていないことに不満は多少あるが、舞台セットでもわかるように、「その時」「その一瞬」を「切り取って見せている」という感覚で、彼女たちの背景まで、見る者の感覚と記憶によって膨らませることができるのかもしれない。

    1人の男子中学生が自らの命を絶つのだが、もちろん物語としては必要だったのかもしれないが、彼には死んでほしくなかったと、強く思った。
    死なないことで、何かが変わるほうが素敵だからだ。
    「何かあったら言えよ」という台詞は、結構重い。
    彼らの関係が辛い。
    川崎の事件につながって見えてしまう。

    女子中学生を演じた、吉田聡子さんと川崎ゆり子さんが良かった。
    特に吉田聡子さんの存在というか、1つひとつの言葉や仕草が愛おしい。
    それは自分自身の「時代」への愛おしさも、勝手に重ねているのかもしれない。

    音楽が印象的であり、舞台の空気を伝えてくれた。

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    2015/04/11 20:42

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